Takafumi さん プロフィール

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Takafumiさん: かなり簡略化し玄人向けではないけど深い歴史ブログ
ハンドル名Takafumi さん
ブログタイトルかなり簡略化し玄人向けではないけど深い歴史ブログ
ブログURLhttp://onlygirl.blog.jp/
サイト紹介文詳しい人からしたら単純過ぎるけれど、それでも薄っぺらくはない内容です。
自由文世界の伝説や神話、様々な歴史などを、分かりやすく玄人向けではなく、簡略化されているのに深く、表現していきたいと思います。


現代人が忘れている美徳、慈悲、信念は、現代を生きるうえで必ずしも重要とは言えないかもしれない。

けれど、忘れるべきものではないと、そんなふうに思うのです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供83回 / 365日(平均1.6回/週) - 参加 2014/10/15 08:23

Takafumi さんのブログ記事

  • 西郷 隆盛 (鹿児島)
  • 1828年1月23日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれる。西郷家の家格は御小姓与で下から2番目の身分である下級藩士であった。 11歳の頃、喧嘩の仲裁に入った際に、刀で右腕内側の神経を斬られてしまい、3日間高熱に浮かされた末に一命は取り留めるものの、刀を握れなくなったので武術を諦めて学問で身を立てることを志す。 1854年、隆盛が藩主・島津斉彬に意見書を出すと、その [続きを読む]
  • 伊東 義祐 (宮崎)
  • 1533年、日向伊東氏9代当主であった兄・伊東祐充(いとうすけみつ)が病死すると、反乱を起こした叔父・伊東祐武が、義祐の母方の祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を自害に追い込み、都於郡城(宮崎県西都市)を占拠した。 後ろ盾であった福永祐炳を失った義祐と弟・伊東祐吉(いとうすけよし)が、日向国(宮崎県)を退去して京都へと向かおうとすると、叔父・伊東祐武を支持しない者達の制止を受けて伊東祐武と対峙する。 この家中を二 [続きを読む]
  • 大友 宗麟 (大分)
  • 1530年、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国(大分県の大部分)に生まれる。 宗麟の育成に携わる傅役(もりやく)は重臣・入田親誠が務めた。 父・大友義鑑は宗麟の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、入田親誠と共に宗麟の家督相続権を失わせることを企み、1550年に宗麟を強制的に湯治に行かせ、その間に宗麟派の粛清を計画するが、それを察知した宗麟派の重臣が謀反を起こし、塩市丸とその母を殺害し大友義鑑も負 [続きを読む]
  • 加藤 清正 (熊本)
  • 1562年、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれる。 1573年、清正の母・伊都が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の母・大政所と親戚であったことから、11歳の清正は長浜城(滋賀県長浜市公園町)主となったばかりの秀吉の小姓として仕えた。 1582年、秀吉が水攻めで有名な「備中高松城の戦い」の前哨戦で冠山城(岡山県岡山市)を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして竹井将監という豪の者を討ち取る [続きを読む]
  • 大村 純忠 (長崎)
  • 1533年、肥前日之江城主・有馬晴純の次男として生まれる。 大村純伊から家督を継いだ大村純前には男子がなく、純忠の母は大村純伊の娘であったため、1538年に純忠は大村純前の養子となった。 しかしその後、大村純前は側室との間に実子の又八郎(後の後藤貴明)が誕生するが、有馬氏と大村氏の両家の関係は有馬氏の方が大村氏よりも強かったため、大村氏は有馬氏をはばかって又八郎を後藤氏へ養子に出し、1550年に純忠が家督を継ぎ、 [続きを読む]
  • 水野 忠邦 (佐賀)
  • 1794年、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。 兄・芳丸が早世したため、忠光が唐津藩の世嗣ぎとなり、1812年に父・水野忠光が隠居すると家督を相続した。 唐津藩の表向きの石高は6万石とされていたが、実際の収入は20万石ほどあり、この税金の対象となる6万石の3倍以上もの収入からなる隠し財産が、後に忠邦を出世へと導く。 忠邦は幕閣(江戸幕府の最高首脳部)として昇進する事を強く望んでいたが、唐津藩に課せられ [続きを読む]
  • 黒田 官兵衛 (福岡)
  • 1546年、黒田職隆の嫡男として播磨国(兵庫県南西部)の姫路に生まれた。 1561年、姫路付近の豪族・小寺政職(こでらまさもと)の近習となり、1567年頃、父・黒田職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。 小寺家の重臣として知恵才覚比類なしと言われた官兵衛であったが、1575年、小寺領は東からは織田信長、西からは毛利輝元が勢力を伸ばし、それぞれ激しくせめぎ合 [続きを読む]
  • 劇団Camelot King's collection
  • 世界史に名を馳せる3人の王を限定厳選し、レギュラーバージョンよりもさらにオシャレなTシャツをリリースいたします。クラシカルさが逆に新しいアーサー王(モノクローム) 「劇団Camelot King's collection」MENS 5.0oz / WOMENS 5.6oz / KIDS 5.6oz Tシャツ [36色/15サイズ]8,800円(税別)英雄を着る。大王を着る。アレクサンドロス大王(モノクローム) 「劇団Camelot King's collection」MENS 5.0oz / WOMENS 5.6oz / KIDS 5.6oz [続きを読む]
  • 坂本 龍馬 (高知)
  • 1836年1月3日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下士)・坂本家で父・八平と母・幸の二男として生まれた。 龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ夢を見たため、龍馬と名づけられる。 兄弟は兄・権平と3人の姉・千鶴・栄・乙女。 坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む才谷屋という豪商の分家で、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭であったが、土佐藩で [続きを読む]
  • 藤原 純友 (愛媛)
  • 古代の日本は湿地帯や湖沼が多く、水上輸送は最も効率のよい物流手段であったため、平安時代になると地方から都へ水上輸送される官物を狙った海賊が現れるようになり、特に瀬戸内海は朝廷から海賊討伐令がくだる事が少なくなかった。 そして、平安時代の後期になると小規模な掠奪を繰り返すだけだった海賊達が次第に集団化し、なかには大きな力をもつリーダーが現れるようになり、その代表的な人物が藤原純友である。 純友は893年 [続きを読む]
  • 平賀 源内 (香川)
  • 1728年、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で白石茂左衛門の三男として生まれる。 白石家はもともと信濃源氏大井氏流平賀氏であったが、戦国時代の1536年、平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受けて滅ぼされた。 その後、平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕えると白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ移ると、讃岐高松藩で足軽身分となる。  武田信虎 源内は12歳の時に「お神酒天神」という掛け軸 [続きを読む]
  • 三好 長慶 (徳島)
  • 1522年、管領(室町幕府における将軍に次ぐ役職で将軍を補佐して幕政を統轄する)・細川晴元の家臣である三好元長の嫡男として生まれる。 父・三好元長は主君・細川晴元の重臣であり、細川晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であったが、三好元長の有能さは次第に疎まれるようになっていき、1532年、細川晴元の手引きで蜂起した一向一揆(浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動)に討たれて自害するこ [続きを読む]
  • 吉田 松陰 (山口)
  • 1830年、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。 1834年に松陰は叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、1835年に吉田大助が死亡すると、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で兵学者としての教育を受けた。松陰は9歳にして長州藩の藩校である明倫館の兵学師範に就任し、11歳の時、長州藩主・毛利慶親の前で兵法の講義を行い、称賛は受ける。 13歳の時には長州軍を率いて [続きを読む]
  • 毛利 元就 (広島)
  • 1497年、安芸国(広島県西部)の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)領主・毛利弘元の次男として誕生。 出生地は母の実家の鈴尾城(広島県安芸高田市福原)といわれている。 1500年、父・弘元が家督を嫡男・毛利興元に譲ると、元就は父・弘元に連れられて多治比猿掛城(広島県安芸高田市)に移り住む。 1501年に実母が死去し、さらに1506年、元就が10歳の時に父・弘元 [続きを読む]
  • 宮本 武蔵 (岡山)
  • 武蔵の出生地や生年は共に諸説あり、また「大阪の陣」以前の出来事は史実として確定するのが困難なものが多い人物である。 しかし、伝説の域とも思える武蔵のエピソードは400年に渡って語り継がれ、この先の未来でもそれは続くのだから、本当の武蔵というのは、むしろ、伝説も込み込みのあの宮本武蔵なのではないだろうかと思う。 武蔵の著書である「五輪書」によれば、武蔵の生年は1584年となる。 物語としての宮本武蔵は美作国( [続きを読む]
  • 尼子 経久 (島根)
  • 1458年、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国(島根県東部)に生まれる。 それは、畠山氏、斯波氏の家督争いが細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍・足利義政の継嗣争いも加わって全国に争いが拡大し、戦国時代移行の原因とされる「応仁の乱」が始まる前であった。 1474年、尼子家の主君にあたり出雲・飛騨・隠岐・近江の守護を務める京極政経の京都屋敷へ経久は人質として送られ、京都に約5年間滞在し、この [続きを読む]
  • 名和 長年 (鳥取)
  • 鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏と同じく、名和氏は源師房(村上天皇の孫)を祖とする村上源氏を自称している。 長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党(荘園領主側から見て外部からの侵入者・侵略者で悪者というより力強さを表現していた)であった。  源師房 鎌倉時代の後期、土地経営に頼る正規の武士である御家人たちが窮乏していくのに対し、名和氏は [続きを読む]
  • 足利 尊氏 (京都)
  • 1305年、鎌倉幕府の御家人であった足利貞氏の次男として生まれる。 尊氏が当主となった足利家は源氏直径の東国武士のなかでも筆頭格の名門で、鎌倉幕府内でも北条氏に次ぐ勢力をもっていた。典型的な東国武士達は、もともと農民と共に荒れ地を開墾して、その地を領地とした開発領主であったため土地への執着心が強かったが、その土地を手放さないとならない事件が起こる。 13世紀後半、元(1271年〜1368年まで中国とモンゴル高原を [続きを読む]
  • 平 清盛 (京都)
  • 1118年、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる。 1156年、権力を一手に握っていた鳥羽法皇の死後、後継の座を巡り対立を深めていた後白河天皇と崇徳上皇には、それぞれの陣営に警護役である武士達が連なり、双方の武力衝突に至った「保元の乱」において、平氏の頭領であった清盛は後白河天皇側についていた。 崇徳上皇は寝静まる夜明け前に館(白河殿)に火をかけられ、駆け引きをする間もなく勝負は決し、その結果、崇 [続きを読む]
  • 藤原 道長 (京都)
  • 10世紀後半の京の都では天皇を中心に貴族達による政治が行われていた。 貴族はおよそ150人で、その一握りの上位20人が公卿(左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)と呼ばれて国政を司り、こうした公卿の座を巡って、貴族達の間では激しい抗争が繰り広げられる。数々の陰謀を働かせた結果、公卿の大半を占めるに至った藤原氏は、今度は次第に一族同士で相争うになっていった。 966年、道長は藤原兼家の五男として京都に生 [続きを読む]
  • 多キャラ箱(2017年2月6日〜2017年2月12日)
  • (集計2017年2月6日〜2017年2月12日)オリジナルキャラクター登録サイト「多キャラ箱」週間ランキングにて2週連続「劇団Camelot」「CatBoxer アーサー」でのワンツーフィニッシュ。および「劇団Camelot」が11週連続12度目の1位。「多キャラ箱」での「 劇団Camelot」紹介ページはコチラ「多キャラ箱」での「 CatBoxer アーサー」紹介ページはコチラ 応援よろしくお願いします♪ アーサー王 (劇団Camel [続きを読む]
  • 徳川 吉宗 (和歌山)
  • 徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町であった和歌山県和歌山市は、江戸時代の人口は5万5000人で京都、大阪、奈良などに次ぐ賑わいをみせていた。 1684年、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。 元服後の吉宗は城下で最も賑わった寄合橋界隈に居を構えた。 吉宗が育ったのは元禄時代は、大商人達が湯水のように金を使い、歌舞伎や浄瑠璃などの娯楽がもてはやされ、日本は空前の好景気に沸き、そんな太平の世で吉宗も和歌 [続きを読む]
  • 聖徳太子 (奈良)
  • かつて、大王と呼ばれた天皇と有力な豪族によって統治されていた倭国・大和王権は、現在の奈良県明日香村をその拠点としていた。 574年、聖徳太子(厩戸皇子)は天皇家の皇子として生まれる。 585年、物部氏や蘇我氏に擁立され聖徳太子の父・用明天皇が即位。  用明天皇 物部氏は古くから王権に仕えてきた豪族で、軍事と神事を司り、古の神々を祀る儀式は大和王権の政治と強く結びついていた。 蘇我氏を率いる蘇我馬子(そがのうま [続きを読む]