Elza少尉 さん プロフィール

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Elza少尉さん: 黒の未亡人
ハンドル名Elza少尉 さん
ブログタイトル黒の未亡人
ブログURLhttp://blogs.yahoo.co.jp/dezalugu69
サイト紹介文創作小説やレトロ嗜好の記事、海外事情などを投稿しています。ブログの綱領は「戦う女性」です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供324回 / 365日(平均6.2回/週) - 参加 2014/10/18 14:09

Elza少尉 さんのブログ記事

  • [洋画]ネレトバの戦い【第28回目】
  • 指揮官の有無に係わらずチェトニックの転進は続いていた。しかしながら、これまで黒森峰の包囲網を何度も突破したパルチザンとは異なり、チェトニックは、この種のことには、長けてはいないようであった…。包囲網からの脱出が不可能となり、降伏の道を選択したチェトニック。ネレトバ橋をめぐる戦いは終わったものの、最後の戦いのために伏兵は全滅となった。親友ノヴァクの死に号泣…そして降伏したチェトニックに機銃掃射駆けつ [続きを読む]
  • [人物伝]チトー【第7回目】
  • 1943年での「スチェスカの戦い」にて負傷したチトー(画像手前の包帯の人物)(画像は英語版ウィキペディアより)「スチェスカの戦い」におけるチトーの負傷及び包帯姿は同名の映画にても再現されている。◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)チェトニックの対敵協力が明白となるに伴い、連合国首脳陣は支援先をミハイロヴィッチからチトーへと切り替えた。ユーゴスラビア国王(亡命国王)ペータル二世、ルーズベルト大 [続きを読む]
  • [洋画]ネレトバの戦い【第27回目】
  • 包囲網を形成したパルチザンからの攻撃により、突撃の勢いが失われたチェトニック。「隊長、もう駄目です! 囲まれました!」という部下からの報告。それに対して指揮官は、前進中の部隊を後方へと転進させるように指示した。包囲網の最も薄い(…と思いこんでいる)エリアへと転進するチェトニック。包囲網は何処も完成しており、黒森峰の戦車でもない限り、突破は不可能であった。パルチザンからの機銃掃射負傷者や戦意を失った [続きを読む]
  • [人物伝]チトー【第6回目】
  • 1944年5月に撮影されたチトー(画像右端)及びパルチザン最高司令部の面々(画像は英語版ウィキペディアより)◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)枢軸国はパルチザンに対して数々の掃討作戦を実施し、特に1943年1月から同年6月までに実施された攻勢は極めて大規模なものであった。しかしながらパルチザンはそれらの攻勢を耐え抜き、包囲・殲滅作戦に対しては、巧みにその包囲網を突破して母体を守り抜くことに成功し [続きを読む]
  • [洋画]ネレトバの戦い【第26回目】
  • 突撃に勢いづいていたチェトニックも、伏兵からの攻撃に損害は増すばかりであった。昔は花形(?)であった騎兵突撃も、機銃掃射の前にはまったくの無力。スペイン内乱に参加していたユーゴスラビア共産党員は、この時代の戦闘形態を、いち早く認識していたものと思われる。負傷者のために奔走するダニカチェトニックの現場指揮官自らが迫撃砲を操作し、ダニカを目標として砲弾を発射至近距離に着弾し、その爆発に巻き込まれたダニ [続きを読む]
  • [人物伝]チトー【第5回目】
  • ドイツ軍特殊部隊から身柄を狙われたチトーパルチザンの機動的戦力である「第1プロレタリア旅団」(画像は英語版ウィキペディアより)◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)1941年12月21日、パルチザンは「第1プロレタリア旅団」(旅団長:ポチャ・ココヴィッチ)を創隊し、1942年3月1日には「第2プロレタリア旅団」を創隊した。また、解放区内における文民政府として、人民委員会が設置された。1942年12月26日から27 [続きを読む]
  • [洋画]ネレトバの戦い【第25回目】
  • 部下に命じて、迫撃砲を展開させるチェトニックの現場指揮官迫撃砲がパルチザンの伏兵に対して攻撃開始迫撃砲攻撃による最初の犠牲者現場指揮官自らが迫撃砲の操作二人目の犠牲者体勢を立て直したチェトニックは、伏兵に対して反撃を開始したものの、自分たちがパルチザン本体に包囲されつつあることには気づいていなかった…。伏兵の状況を見かねて指揮官のもとに駆けつけてパルチザン兵士…伏兵の一人はこの兵士の親友である。「 [続きを読む]
  • [人物伝]チトー【第4回目】
  • 第二次世界大戦におけるチトーの人生ユーゴスラビアに侵攻した枢軸国軍(画像は英語版ウィキペディアより)◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)1941年4月6日、ドイツ軍部隊はイタリア及びブルガリアの支援のもと、ユーゴスラビアに侵攻を開始した。1941年4月10日、スラヴコ・クヴァテルニクはクロアチア独立国の宣言をし、チトーはユーゴスラビア共産党中央委員会内に軍事委員会を設置した。ブルガリアからユーゴスラ [続きを読む]
  • [人物伝]チトー【第3回目】
  • チトーが描かれた切手(1982年のソ連切手)(画像はハンガリー語ウィキペディアより)◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)チトーは、ユーゴスラビア王国に続く第2の新生ユーゴスラビア(社会主義連邦)を建国した第一人者である。チトーはまた、東側陣営における国際組織「コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)」の創設メンバーであったものの、後にソ連偏向のあり方に対する抗議をおこない、そしてコミンフォル [続きを読む]
  • [洋画]ネレトバの戦い【第24回目】
  • チェトニックの面々…この時代のセルビア男性の特徴なのか、髭顔が目立っていますね。攻撃を開始したパルチザンの伏兵ネレトバ川の反対岸からは砲撃支援戦闘の間にも橋の応急修理は継続されていた。パルチザンと難民が現在の状況下で、かろうじて小康状態を保っているのは、黒森峰のクランツァー大佐が防御に移行したからであり、同大佐がその意志を変え、再び攻撃に転じれば全滅の行く末が待ちかまえていた。「本来であれば、パル [続きを読む]
  • [人物伝]チトー【第2回目】
  • 1954年に撮影されたチトーの画像(画像はドイツ語版ウィキペディアより)◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)ヨシップ・ブロズ(チトー)は、1892年5月7日、クロアチア人の父親とスロベニア人の母親の間に誕生し、生誕地はクムロヴェッツ村(クロアチア)である。成人してすぐにオーストリア・ハンガリー軍に徴兵され、後に同軍における最年少の曹長へと昇任する。第一次世界大戦中は、ロシア軍との戦闘で重傷を負い、 [続きを読む]
  • [人物伝]チトー【第1回目】
  • ユーゴスラビアの英雄的指導者本名は「ヨシップ・ブロズ」1961年に撮影されたチトーの画像(画像は英語版ウィキペディアより)◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)チトー(本名:ヨシップ・ブロズ)は、1943年から1980年までの間、革命家及び指導者として様々な役割を果たしてきた。第二次世界大戦の期間において、チトーはユーゴスラビア・パルチザンの指導者であり、ドイツ占領下のヨーロッパ地域にて、「最もドイツ [続きを読む]
  • ナチス副総統、謎の渡英飛行と不可解な死【第5回目】
  • ◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)迎撃のために急派させられたスピットファイヤー戦闘機(2機)は、敵機の発見に失敗した。そのため午後10時20分に3機目のスピットファイヤーが派遣されたものの、夜間(暗闇)であったこと及び、ヘス機が迎撃側の予想よりも低い高度で飛行していたために、再び発見に失敗した。しかしながら、その飛行高度ゆえに、王立防空監視軍団(ROC)の監視員により、ヘス機は地上から肉眼で [続きを読む]
  • [洋画]ネレトバの戦い【第23回目】
  • ネレトバ橋の応急修理に勤しむパルチザン橋を爆破したヴラドは、今度は修理のための監督となる。戦争前は建築技師だったとか。ネレトバ橋の対岸に引き返してくるであろうチェトニックを迎え撃つために、先んじて伏兵を急派させるパルチザンネレトバ橋に襲いかかる黒森峰の戦闘爆撃機編隊…つまり橋の応急修理が発覚したということである。有効な対空火器がないなかで、軽機関銃にて迎撃するヴラド命中した爆弾により修理中の橋はダ [続きを読む]
  • 雑談:昔は強い国だった…?
  • 「私のオンライン英会話講師は、ほとんどがセルビア人で、たま〜にルーマニア人やアルバニア人」「新しい講師との授業のときは、お互いの自己紹介をおこなうのが常なのだけど…旧ユーゴスラビア構成国であったセルビア人が新しい講師の場合、私が大学時代にユーゴスラビアを卒論テーマにしていた話をすると、必ずといっていいほど驚きの反応が返ってくるわけ」「向こうにしてみれば、ほとんど縁もゆかりもない日本で、なぜユーゴス [続きを読む]