J.W.Mccallister,jr さん プロフィール

  •  
J.W.Mccallister,jrさん: 古田史学とMe
ハンドル名J.W.Mccallister,jr さん
ブログタイトル古田史学とMe
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/james_mac
サイト紹介文古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供82回 / 365日(平均1.6回/週) - 参加 2014/11/03 08:40

J.W.Mccallister,jr さんのブログ記事

  • 「不改常典」と伊勢行幸(二)
  •  「持統」は「伊勢」へ行幸したわけですが、この時「三輪(大神)高市麻呂」は「冠」を脱ぎ捨ててそれを止めようとしたと『書紀』に書かれています。なぜ彼は「冠位」を捨ててまで「持統」の伊勢行幸を止めようとしたのでしょうか。それは「高市麻呂」の奏上の中に「農時」には民を使役するべきではないという意味のことが言われていることが(当然ながら)重要です。「(六九二年)六年二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將 [続きを読む]
  • 「不改常典」と伊勢行幸(一)
  • 「不改常典」については以前すでに書いていますが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/63587e93470e54a32a5bd1f550374970 からの一連の記事)、「天智天皇」が定めたという「常識」に囚われて、議論が混乱していると思います。 『続日本紀』における出現の仕方では「近江大津宮御宇大倭根子天皇」「淡海大津宮御宇倭根子天皇」というように書かれており、これを以て「天智」と即断しているわけですが、肝腎の「天智紀」にはそれ [続きを読む]
  • 「貧窮問答歌」について
  •  「大伴」「佐伯」などが「王権」に近い氏族であったという点を指摘したわけですが、それを端的に示すのが「大伴家持」の「陸奥出金詔歌」です。この歌に関して以前「山上憶良」の「貧窮問答歌」について考察したことがあります。それを以下に示します。「万葉集八九二番歌及び八九三番歌」「貧窮問答歌一首并せて短歌(山上憶良)」(以下万葉集の読み下しは「伊藤博校注『万葉集』新編国歌大観準拠版」(角川書店)によります)「風交(まじ [続きを読む]
  • 「釆女」と「兵衞」等のこと
  • 『隋書俀国伝』では後宮に「多数の女性がいる」とされます。「王妻號雞彌,後宮有女六七百人。」 これについては、これを「妃」や「妾」とする考え方もあるようですが、中国の例から考えてもさすがに多すぎると思われ、実際にはその多くが「釆女」であったと見るべきでしょう。この人数が「王妻」記事に続けて書かれている事からも、平安時代の「女御」「更衣」などと同様の職務を含むことが推定され、彼女たちについては「釆女」 [続きを読む]
  • 「神話」が国家により造られた時期について(五)
  •  一般に天岩戸伝承を含め神話の主な時期は弥生時代と思われており、せいぜい三世紀のことと理解されているようですが、すでに見たように服装から見て「天受女の命」が舞い踊ったのは五世紀のことと考えられることとなりました。 そうすると、「天岩戸」伝承が「日食」の反映であるという説にもし則るとすると、「五世紀」に該当する例を探す必要が出てきます。 五世紀で皆既となる日食で近畿大和を通るものは皆無です。それ以前 [続きを読む]
  • 「神話」が国家により造られた時期について(四)
  •  この「建国神話」の形成が実際には「六世紀末」付近ではなかったかということは『古事記』の「天の岩戸」神話に出てくる「天鈿女」の服装からも窺えます。 彼女は「天照」が「岩戸」に隠ったのを誘い出そうと「滑稽」な仕草で周囲を笑わせ、不審がった「アマテラス」を見事岩戸から出させたわけですが、その描写の中に彼女の服装が現れています。「故於是天照大御?見畏 開天石屋戸而…『掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也』 爾高天 [続きを読む]
  • 「神話」が国家により造られた時期について(三)
  •  ところで、『平家物語などを見ると「厳島神社」の創建の伝承として「神功皇后」が出てきます。その「厳島神社」の「開祖」とされる人物は「神功皇后」には妹、「龍王」の「八歳の娘」(龍女)にも妹、「淀姫」には姉とされています。(当然「女性」です)またその「創建」の年を『書紀』の「崇峻」年間(「五九三年」)としているのが確認できます。さらにこの「祭神」を「宗像三女神」のひとりである、「市杵島比売大神」とする [続きを読む]
  • 「神話」が国家により造られた時期について(二)
  •  西村秀己氏の研究(※1)では、「応神」と「瓊瓊杵尊」、「仁徳」と「彦火火出見」(山幸彦)というように、『神功皇后紀』と「天孫降臨説話」の各々の人物相関図が酷似しているとされます。ただ、「西村氏」はその「酷似」とも言うべき両者の関係をどう考えるべきか結論は出しておられませんが、私見によれば「神話」に合わせて『神功皇后紀』を造作したとするなら、その意図も目的も不明と言わざるを得ないでしょう。そのよう [続きを読む]
  • 「神話」が国家により造られた時期について(一)
  •  「伊豫三島神社」や「厳島神社」などの創建の社伝によれば、いずれも九州から「八幡大菩薩」が垂迹した、とされています。「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九三)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、『平家物語』等にも「厳島神社」については「娑竭羅龍王の娘」と「神功皇后」と結 [続きを読む]
  • 「那須直韋提の碑文」について(六)
  •  「那須直韋提」の碑文に「永昌元年」という年号があるのは「倭国」が「唐」(武則天)に追随していたと考えたわけですが、この考えは「二〇〇二年」に「石神遺跡」から出土した「具注暦木簡」に「元嘉暦」が使用されていたと考えられていることと一種「矛盾」するといえるでしょう。それは「元嘉暦」が「南朝」の暦であり、「隋」によりとうの昔に滅ぼされた「南朝」の暦を使用しながら「唐」に対し追随姿勢を見せていることは「 [続きを読む]
  • 「那須直韋提の碑文」について(五)
  •  すでに故人となられましたが「岸俊男」さんという古代史学者がいらっしゃいました。彼には多くの業績がありますが、その中で当方が注目するのは「戸籍」に関する事です。彼の研究によれば古代において人名に「動物」の名がつけられている例が多く、それは生まれた年の「干支」を取り入れたためとされます。(※)たとえば、寅年生まれだと、「刀良」や「刀良売」、卯年生まれだと「宇提」「宇提売」「宇麻呂」などと名づけるのが [続きを読む]
  • 「那須直韋提の碑文」について(四)
  •  この「永昌」改元はその前年の「六八八年四月」に「唐」の「洛水」から「聖母臨人 永昌帝業」と書かれた「図」が出たことを記念したものです。(ただし、これは言ってみれば「武則天」の「詐欺」のようなものでしたが) そして、この「改元」に先だって「六八八年五月」に「内外」に「祝賀の儀」への参加の「招集」が「詔」として発せられたようです。「五月戊辰 詔當親拜洛,受寶圖有事南郊告謝昊天。禮畢御明堂朝羣臣。命諸 [続きを読む]
  • 「那須直韋提の碑文」について(三)
  •  この碑文では冒頭に「永昌元年」と書かれていますが、これは「武則天」時代の「唐」の年号です。なぜ北関東の石碑に「唐」の年号なのでしょう。 「永昌元年」は西暦で言うと「六八九年」であり、「持統天皇称制三年」に当たります。(また、この年代は「九州年号」によれば「朱鳥」年間に当たります。しかしここでは「朱鳥」年号は使用されていません) ここで「唐」の年号が使用されている理由として考えられるものは、「評督 [続きを読む]
  • 「那須直韋提の碑文」について(二)
  •  そもそも「那須国」及び「那須国造」は『書紀』の記載から見てかなり古い時代から存在していたように見受けられます。これが「七世紀」に入っても「倭国王権」の支配が強く及ばず、「クニ」がそのまま存続していたという可能性が高いと思料します。仮にこの「国造」が「国司」(国宰)と同等のものであったとすると、授与されるべきは「下毛野国司」であり「那須」のそれではないと思われます。「那須」はあくまでも「下毛野」と [続きを読む]
  • 「那須直韋提の碑文」について(一)
  •  栃木県大田原市に今も残されている「那須直韋提碑」というのがあります。この「石碑」は江戸時代、水戸領内で「延宝四年(一六七六年)」に発見されたもので、発見当時は表面(碑文のある側)を下にして埋もれていたものです。この時は当時の藩主「水戸光圀」がその価値を認め、この「石碑」の保護策を講じたものであり、その効果あって現代にもしっかり保存されているものです。 以下は碑文全文です。「永昌元年己丑四月飛鳥浄 [続きを読む]
  • 「赤色」と「金色」
  •  以前も書きましたが( http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/91610d9d8444ca821cd920b25ddcbd55 )、弥生時代の始まりの契機として全地球的気候変動があったこと、それが「シリウス」という太陽系至近の恒星系で起きた突発的事象が関係しているのではないかという考察をしましたが、その時点で紀元前八世紀以前の時代を描写していると思われる「ホメロス」の叙事詩「イリアス」において「シリウス」の色を「赤」と描写している部 [続きを読む]
  • 「赤色」と「金色」
  •  以前も書きましたが( http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/91610d9d8444ca821cd920b25ddcbd55 )、弥生時代の始まりの契機として全地球的気候変動があったこと、それが「シリウス」という太陽系至近の恒星系で起きた突発的事象が関係しているのではないかという考察をしましたが、その時点で紀元前八世紀以前の時代を描写していると思われる「ホメロス」の叙事詩「イリアス」等において「シリウス」の色を「赤」と描写している [続きを読む]
  • 「九州年号」と「倭国年号」(古田史学会報を見て)
  •  送られてきた『古田史学会報』(141号)を見てみると「古田史学の会」執行部の考え方としては、今まで「九州年号」といっていたものを「倭国年号」と呼び直そうという趣旨のようですが、それは「実態」と整合していると考えられますので自分的には首肯できるものです。しかし林伸禧氏(古田史学東海)はそれに「異を」唱えているようであり、その論には少なからず「違和感」があります。 「九州年号」と「倭国年号」について自 [続きを読む]
  • 「金光」年号の由来について
  •  山田氏のブログ(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/07/post-2243.html)において、「金光」という年号が「四寅剣」の輝きに関係しているということがコメントとして服部氏から投稿されていました。それは確かにそうと思いますが、その「四寅剣」の存在も含め、『請観音経』』(正確には『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』というもの)に強く影響されていると思います。 この「金光」という年号につていては以前「会 [続きを読む]
  • 『二中歴』の「六十年遡上」について
  •  以前「倭国」への仏教の伝来と関連して『二中歴』や『書紀』の記事に「60年」(干支一巡)の遡上を考えるべきという記事を書きましたが、(以下の記事等)http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/3b3186a5a40cb4fd3b2c30ea7323e7acその時は気が付きませんでしたが、古田武彦氏が2006年段階で「磐井の乱はなかった」という新説を出した際に、彼の当初の論で重要視されていた『継体紀』における「日本天皇及太子皇子?崩薨」という記事 [続きを読む]
  • 「富本銭」について(五)
  •  「倭国王権」が「銅銭」(富本銭)を製造することとなった意図(目的)としては、「十七条憲法」との関連が考えられます。 「富本」の命名の元となったものは「五銖銭を復興するべき」という「後漢代」の武将の上申の言葉ですが(下記)、それによれば「富國之本在於食貨」という言葉からとったものとされています。「晋書食貨志」「…建武十六年 馬援又上書曰 富國之本在於食貨 宜如舊鑄五銖錢。帝從之。於是復鑄五銖錢 天下以 [続きを読む]
  • 「富本銭」について(四)
  •  「前期難波宮」の遺跡からは「従来型」の「富本銭」が出土しています。このことは「難波宮殿」に附属していた「大蔵」では「従来型」の「富本銭」が「貯蔵」されていた事を示すと思われ、そのことから少なくとも「七世紀半ば」程度の時期には「従来型」の「富本銭」が製造されていたこととなります。 そもそも「大蔵」というのは元々「国庫」を意味する用語ですが、特にこの時点では「貨幣」や「金銀」「珠玉等」の「貢上品」を [続きを読む]
  • 「富本銭」について(三)
  •  すでに「無文銀銭」については「当初」「五銖銭」と互換性を持たせるために「6.7g」程度の重量として設定されたものと想定しました。さらにその後「唐」で新たに作られた「開通元寶」と互換性を持たせるために「応急的に」「小片」が付加されることとなったとみたものですが、その段階で約10g程度の重量となったものと見られます。このような「無文銀銭」の流れから推定して、「6.7g」の重量を持つ「新種」の「富本銭」は「開通 [続きを読む]
  • 「富本銭」について(二)
  •  「二〇〇七年十一月」に「藤原京」遺跡から「地鎮具」として出土した「富本銭」はそれまで発見されていたものとは異なる種類のものでした。それは「飛鳥池工房」などで造られていたものとは、「厚み」が違う事と(やや厚い)、「アンチモン」を含有していないというのが大きな特徴です。(その代わり「錫」が使用されているようです) そもそも「銅鐸」を初めとした「青銅製品」には欠かせない合金材料が「錫」でした。前代より [続きを読む]