J.W.Mccallister,jr さん プロフィール

  •  
J.W.Mccallister,jrさん: 古田史学とMe
ハンドル名J.W.Mccallister,jr さん
ブログタイトル古田史学とMe
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/james_mac
サイト紹介文古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供61回 / 365日(平均1.2回/週) - 参加 2014/11/03 08:40

J.W.Mccallister,jr さんのブログ記事

  • 「卑弥呼」の死と張政の帰国
  •  『倭人伝』の「張政」の来倭記事の中では「卑弥呼以死」と書かれています。それが「戦死」(あるいは「戦中死」)なのか病死なのか死因としては一切不明です。「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人。」 ここで使用されている「以」の語義については従来から「諸説」があり、「已に」という過去完了的用法として考えるものや「理由」の意義として考える場合、さらに「とにかく」という「軽い」状況の説明としての使 [続きを読む]
  • 「持衰」について(その後)
  • 以前『倭人伝』に出てくる「持衰」について考察したことがあります。それを再掲します。http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/fc072a5cb2322893fb87567a37279274ところで「倭人伝」には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。 「魏志東夷伝 倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去〓蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其『生口』財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之 [続きを読む]
  • 『倭人伝』における「張政」の滞在期間について(二)(改)
  •  前投稿に続き「張政」の派遣と帰国について検討します。 彼(彼ら)が派遣された目的(趣旨)は「倭王」であるところの「卑弥呼」からの「支援要請」に応えることですが、より重要なことは「魏」の大義名分を「狗奴国」を含む「倭」の諸国に認めさせることであり、「檄」を告諭し、それを「狗奴国」が受け入れるか否か択一をせまったものと推量します。それに対し「狗奴国」としても「魏」と全面的な対決姿勢を取ることまでは考 [続きを読む]
  • 『倭人伝』における「張政」の滞在期間について(一)
  •  ここでは「卑弥呼」の要請に応え来倭した「張政」について考察し、その帰国が「正始八年」のことではなかったかということを推定します。 『倭人伝』の「其八年」以降の記事については「一連」のものと考えられていないようであり、「張政」の帰国とそれに伴う「壹與」の貢献は「西晋」時代の事として理解されているようです。(※)正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、 [続きを読む]
  • 論語の二倍年暦と倭国の二倍年暦
  • 「古田史学の会」の古賀氏には「二倍年暦」の研究があります。その論の中に「論語」に中に「二倍年暦」がみられるという指摘があり、そのひとつとして「古賀達也の洛中洛外日記」第788話(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki10/nikki788.html)で以下の記事を問題にしています。(旧聞ですが) 「子曰、後生可畏也。焉知来者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣」(『論語』子窂第九)(子の曰く、後生畏るべ [続きを読む]
  • 「倭国軍」の陣容等について
  •  後の『養老令』中の「軍防令」の規定によれば、「軍団」は千人単位(それを構成する「隊」は五十人単位)で構成されるとされています。さらに、「将軍」の率いる「軍」の「兵員数」が「一万人以上」の場合には「副将軍」が二人配置されるように書かれていますが、五千人以上一万人以下では「副将軍」は一名に減員されるとされています。「軍防令二十四 将帥出征条 凡将帥出征。兵満一万人以上将軍一人。副将軍二人。軍監二人。 [続きを読む]
  • 「軍制」と「戸制」について
  •  『養老令』の軍制と「戸制」の人数には関係があるという議論があります。 つまり、『養老令』(軍防令)では「軍」の基本構成単位である「隊」の編成人数が五十人とされており、またその下層単位として「伍」(五人)と「火」(十人)というものがあるとされています。 これらの兵員数の体系が戸籍に見る里(さと)の「五十戸」などの「五保制」と関係しているというわけです。すなわち、「戸」−「保」−「里」という「戸制」 [続きを読む]
  • 「番匠」と「配所」
  • 「番匠」と「配所」について記事を書きましたが、内容を補強したものに書き換え改めて発行します。(『養老令』には「丁匠」を定めた条文があります。「賦役令24丁匠赴役条凡丁匠赴役者。皆具造簿。丁匠未到前三日。預送簿太政官分配。其外配者。便送配処皆以近及遠。依名分配。作具自備。」 この『養老令』の注釈書として知られるものに『令集解』があります。これは九世紀前半頃に「惟宗直本」という学者によって書かれた『養 [続きを読む]
  • 「天武紀」の新羅王死去記事について
  •  以前『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去記事について、それが実際には「七世紀半ば」
    の「新羅王」である「善徳女王」と「真徳女王」の死去記事であることを推定しました。(以下
    の記事)http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/06c098c2b16c3395aa50fa3da548a9b0http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/8fe30c109c10f39e571
    f14f872a55713http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/af47611b058e312f0ebdf5415c400f33 その後それ以前の「新 [続きを読む]
  • 武蔵國分寺の礎石配置について
  • 肥沼氏のブログ( http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2017/03/post-3175.html )において活発に「國分寺」について議論が行われていますが、その中に「武蔵國分寺」についてのものがあり、礎石の配置に使用されている「単位」について「唐尺」なのか「南朝尺」なのかが議論の対象となっていました。それに関し国会図書館のデジタル近代ライブラリーを検索したところ、大正十二年三月に行われた『東京府史蹟調査報告書 [続きを読む]
  • 「壬申の乱」と「難波小郡」
  •  「壬申の乱」収束時に「大伴吹負」が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収していますが、それがわざわざ「大阪」を越えた「難波小郡」で行われたことに意味があるでしょう。「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七 [続きを読む]
  • 倭京と古京(二)
  •  この「倭京」に対して、同じ「壬申の乱」の記事中に「古京」というものも出てきます。「壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。古京是本營處也。宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。」 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平 [続きを読む]
  • 倭京と古京(一)
  •  「壬申の乱」の記述によると「東宮大皇弟入東国」という事態を承けて、「近江朝廷」からは「東国」「筑紫」「吉備」「倭京」という四箇所へ使者を派遣しており、そこでは「…並悉令興兵。」とされ、「軍を出動」するように指示を出したとされます。 但し「筑紫」と「吉備」についてはその指示に従わない可能性を考慮しています。「(六七二年)元年…六月辛酉朔…丙戌…則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣 [続きを読む]
  • 「救世観音像」と「仏罰」
  • 法隆寺に伝わる「救世観音像」は長い間「秘仏」とされ、法隆寺に伝わる「伝承」(と言うより「戒律」のようなもの)によれば、表に出ると「仏罰」により「大地震」により寺自体が倒壊するなどの災厄が起こるとされていました。明治になり、当時の文部省の委託を受けて調査に当たった御雇い外国人の「フェノロサ」により止める僧侶達を振り切って白日の元に晒すまで(多分)一三〇〇年以上時間が経過していたものでしょう。(当然彼 [続きを読む]
  • 法隆寺とTLV格子模様
  • 肥沼氏のブログ(http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2017/03/post-4c67.html)のコメントに山田氏が、法隆寺の高欄格子模様は「TLV」つまり「方格規矩」であって「漢式鏡」などに採用された「漢文化」そのものであるから「隋・唐」という北方系民俗にとっては受け入れがたいものであって、法隆寺が漢文化つまり南朝文化の元の建築であるという指摘がされていました。確かに氏の指摘の通り「隋・唐」は「鮮卑族」(拓跋氏 [続きを読む]
  • 無題
  • Carpenters に「I NEED TO BE IN LOVE」という曲があります。その歌詞を見ていると、胸が詰まる想いがします。I NEED TO BE IN LOVEBY CARPENTERS"I used to say " No promises,let's keep it simple" / But freedom only help you say good-byeIt took a while for me to learn / that nothings come to freeThe price I've paid is high enough for me""I know I need to be in love / I know I've wasted too much [続きを読む]
  • 「行程記事」と「宣諭」との関係
  • 久しぶりに投稿します。またもや入院していました。(命に別状はありませんが)その間あることをつらつら考えていました。それは『隋書』に「行程記事」がある理由です。一般には「行程記事」があるのは「隋」が「北朝系」であり、「倭国」との国交が「北朝」としては初めてであったためと思われていますが、そのことよりも「宣諭」記事の存在との関係ではなかったでしょうか。『隋書俀国伝』には「大業三年」の「明年」のこととし [続きを読む]
  • 新年挨拶
  • このブログを御覧の皆様。遅ればせですが、明けましておめでとうございます。昨年は夏以降体調を崩し、入退院を繰り返すなど、不本意な一年でした。(年末にも病院にご厄介になっていました)現在も万全ではありませんが、ゆっくり直していかなければならないようです。仕事もかなり忙しくなってしまい、そんなこんなで研究はちっとも前進せず、図書館通いもなかなかできない状態で、不本意な年となりました。やはり何をするにも建 [続きを読む]
  • 「日本国」の成立(4)
  • 「日本国」成立の状況について考察しているわけですが「九州年号」群の中に「白鳳」、「朱雀」という年号がありますが、この二つの年号は『続日本紀』の中の「聖武天皇」の詔(七二四)の中に出てくることで有名です。『続日本紀』「神亀元年(七二四)十月丁亥朔条」「治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。 [続きを読む]
  • 「日本国」の成立(3)
  • 以上『懐風藻』の成立年次とそこに書かれた「元日応詔」詩群の解析から「六四一年」という年次付近で「倭国」から「日本国」へと国号が変更されたこと、その内実としては「禅譲」によるいわば「倭国体制内」の主権移動であったと見られること。この時点で「蝦夷」(の一部)が「倭国」の版図に織り込まれそれを反映して「日本」という国号が選ばれたらしいことなどを考察しました。  ところで既に「シリウス」と「弥生時代」とい [続きを読む]
  • 「日本国」の成立(2)
  •  「倭国」と「日本国」の関係について検討しているわけですが、その内容から、「倭国」がその「首都」を移動したこと、移動した先が「旧小国」であった地域であること、移動した時点か或いはその前に「倭国」から「日本国」へ国号が変更されたこと、現在の「日本国」はその「旧倭国」であるところの「日本国」が「遷都した先に存在していた旧小国」に「併合」された「後継」であること、「倭国」から「日本国」への「国号」の変更 [続きを読む]
  • 「日本国」の成立(1)
  •  以上『懐風藻』の詩群(特に「元日応詔」や「春日応詔」という詩群)は、「六四〇年」の冬至の日に「伊勢神宮」の遷宮を行うと同時に、遣唐使を出し「唐」における「朔旦冬至」を祝する祝賀使を派遣したものと推察され、その際に「蝦夷」の方を同行したものと見られることとなりました。そして、翌「六四一年」の初春に「蝦夷」をその版図に治めたことを記念して「改元」し「国号変更」を行ったと見たわけですが、この時当然「政 [続きを読む]
  • 「智蔵法師」という人物とその時代(6)
  •  「式年遷宮」と「朔旦冬至」について考えているわけですが、「朔旦冬至」の年次と「伊勢神宮」の「式年遷宮」が食い違っていることとなり、『書紀』にその「式年遷宮」記事はないこととなりますが、これは漏れていると言うより、他の記事の例から考えると実際に行われた年次から移動されていると考える方が正しいのではないでしょうか。 『太神宮諸雑事記』などに書かれた内容を見ると「天武」「持統」など「天皇名」が「漢風諡 [続きを読む]
  • 『懐風藻』の成立時期について(4)
  •  すでに見たように「六五九年」の遣唐使の以前に「六四〇年」に「使者」が「蝦夷」の人を引き連れて「唐」を訪問したと見るわけですが、このように「十九年」を隔てて「遣唐使」が赴いたとすると、それは「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝) さらに後の時代に日本からの留学僧「円 [続きを読む]
  • 『懐風藻』の成立時期について(3)
  •  『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、この時の使者は「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できないこととなるでしょう。 「蝦夷」の同伴についてはその [続きを読む]