J.W.Mccallister,jr さん プロフィール

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J.W.Mccallister,jrさん: 古田史学とMe
ハンドル名J.W.Mccallister,jr さん
ブログタイトル古田史学とMe
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/james_mac
サイト紹介文古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供59回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2014/11/03 08:40

J.W.Mccallister,jr さんのブログ記事

  • 武蔵國分寺の礎石配置について
  • 肥沼氏のブログ( http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2017/03/post-3175.html )において活発に「國分寺」について議論が行われていますが、その中に「武蔵國分寺」についてのものがあり、礎石の配置に使用されている「単位」について「唐尺」なのか「南朝尺」なのかが議論の対象となっていました。それに関し国会図書館のデジタル近代ライブラリーを検索したところ、大正十二年三月に行われた『東京府史蹟調査報告書 [続きを読む]
  • 「壬申の乱」と「難波小郡」
  •  「壬申の乱」収束時に「大伴吹負」が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収していますが、それがわざわざ「大阪」を越えた「難波小郡」で行われたことに意味があるでしょう。「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七 [続きを読む]
  • 倭京と古京(二)
  •  この「倭京」に対して、同じ「壬申の乱」の記事中に「古京」というものも出てきます。「壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。古京是本營處也。宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。」 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平 [続きを読む]
  • 倭京と古京(一)
  •  「壬申の乱」の記述によると「東宮大皇弟入東国」という事態を承けて、「近江朝廷」からは「東国」「筑紫」「吉備」「倭京」という四箇所へ使者を派遣しており、そこでは「…並悉令興兵。」とされ、「軍を出動」するように指示を出したとされます。 但し「筑紫」と「吉備」についてはその指示に従わない可能性を考慮しています。「(六七二年)元年…六月辛酉朔…丙戌…則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣 [続きを読む]
  • 「救世観音像」と「仏罰」
  • 法隆寺に伝わる「救世観音像」は長い間「秘仏」とされ、法隆寺に伝わる「伝承」(と言うより「戒律」のようなもの)によれば、表に出ると「仏罰」により「大地震」により寺自体が倒壊するなどの災厄が起こるとされていました。明治になり、当時の文部省の委託を受けて調査に当たった御雇い外国人の「フェノロサ」により止める僧侶達を振り切って白日の元に晒すまで(多分)一三〇〇年以上時間が経過していたものでしょう。(当然彼 [続きを読む]
  • 法隆寺とTLV格子模様
  • 肥沼氏のブログ(http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2017/03/post-4c67.html)のコメントに山田氏が、法隆寺の高欄格子模様は「TLV」つまり「方格規矩」であって「漢式鏡」などに採用された「漢文化」そのものであるから「隋・唐」という北方系民俗にとっては受け入れがたいものであって、法隆寺が漢文化つまり南朝文化の元の建築であるという指摘がされていました。確かに氏の指摘の通り「隋・唐」は「鮮卑族」(拓跋氏 [続きを読む]
  • 無題
  • Carpenters に「I NEED TO BE IN LOVE」という曲があります。その歌詞を見ていると、胸が詰まる想いがします。I NEED TO BE IN LOVEBY CARPENTERS"I used to say " No promises,let's keep it simple" / But freedom only help you say good-byeIt took a while for me to learn / that nothings come to freeThe price I've paid is high enough for me""I know I need to be in love / I know I've wasted too much [続きを読む]
  • 「行程記事」と「宣諭」との関係
  • 久しぶりに投稿します。またもや入院していました。(命に別状はありませんが)その間あることをつらつら考えていました。それは『隋書』に「行程記事」がある理由です。一般には「行程記事」があるのは「隋」が「北朝系」であり、「倭国」との国交が「北朝」としては初めてであったためと思われていますが、そのことよりも「宣諭」記事の存在との関係ではなかったでしょうか。『隋書俀国伝』には「大業三年」の「明年」のこととし [続きを読む]
  • 新年挨拶
  • このブログを御覧の皆様。遅ればせですが、明けましておめでとうございます。昨年は夏以降体調を崩し、入退院を繰り返すなど、不本意な一年でした。(年末にも病院にご厄介になっていました)現在も万全ではありませんが、ゆっくり直していかなければならないようです。仕事もかなり忙しくなってしまい、そんなこんなで研究はちっとも前進せず、図書館通いもなかなかできない状態で、不本意な年となりました。やはり何をするにも建 [続きを読む]
  • 「日本国」の成立(4)
  • 「日本国」成立の状況について考察しているわけですが「九州年号」群の中に「白鳳」、「朱雀」という年号がありますが、この二つの年号は『続日本紀』の中の「聖武天皇」の詔(七二四)の中に出てくることで有名です。『続日本紀』「神亀元年(七二四)十月丁亥朔条」「治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。 [続きを読む]
  • 「日本国」の成立(3)
  • 以上『懐風藻』の成立年次とそこに書かれた「元日応詔」詩群の解析から「六四一年」という年次付近で「倭国」から「日本国」へと国号が変更されたこと、その内実としては「禅譲」によるいわば「倭国体制内」の主権移動であったと見られること。この時点で「蝦夷」(の一部)が「倭国」の版図に織り込まれそれを反映して「日本」という国号が選ばれたらしいことなどを考察しました。  ところで既に「シリウス」と「弥生時代」とい [続きを読む]
  • 「日本国」の成立(2)
  •  「倭国」と「日本国」の関係について検討しているわけですが、その内容から、「倭国」がその「首都」を移動したこと、移動した先が「旧小国」であった地域であること、移動した時点か或いはその前に「倭国」から「日本国」へ国号が変更されたこと、現在の「日本国」はその「旧倭国」であるところの「日本国」が「遷都した先に存在していた旧小国」に「併合」された「後継」であること、「倭国」から「日本国」への「国号」の変更 [続きを読む]
  • 「日本国」の成立(1)
  •  以上『懐風藻』の詩群(特に「元日応詔」や「春日応詔」という詩群)は、「六四〇年」の冬至の日に「伊勢神宮」の遷宮を行うと同時に、遣唐使を出し「唐」における「朔旦冬至」を祝する祝賀使を派遣したものと推察され、その際に「蝦夷」の方を同行したものと見られることとなりました。そして、翌「六四一年」の初春に「蝦夷」をその版図に治めたことを記念して「改元」し「国号変更」を行ったと見たわけですが、この時当然「政 [続きを読む]
  • 「智蔵法師」という人物とその時代(6)
  •  「式年遷宮」と「朔旦冬至」について考えているわけですが、「朔旦冬至」の年次と「伊勢神宮」の「式年遷宮」が食い違っていることとなり、『書紀』にその「式年遷宮」記事はないこととなりますが、これは漏れていると言うより、他の記事の例から考えると実際に行われた年次から移動されていると考える方が正しいのではないでしょうか。 『太神宮諸雑事記』などに書かれた内容を見ると「天武」「持統」など「天皇名」が「漢風諡 [続きを読む]
  • 『懐風藻』の成立時期について(4)
  •  すでに見たように「六五九年」の遣唐使の以前に「六四〇年」に「使者」が「蝦夷」の人を引き連れて「唐」を訪問したと見るわけですが、このように「十九年」を隔てて「遣唐使」が赴いたとすると、それは「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝) さらに後の時代に日本からの留学僧「円 [続きを読む]
  • 『懐風藻』の成立時期について(3)
  •  『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、この時の使者は「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できないこととなるでしょう。 「蝦夷」の同伴についてはその [続きを読む]
  • 『懐風藻』の成立時期について(2)
  •  『新唐書日本伝』を見ると「天智」即位と記された後に「明年使者と蝦夷人が偕に朝でる」とされています。「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中…」 この記事によれば「蝦夷」の居住する地域について「海島」と記され、また「ロビンフッド」のように瓠を(多分頭に)載せて数十歩離れたところから矢を放って外すことがなかったとさ [続きを読む]
  • 『懐風藻』の成立時期について(1)
  • 『懐風藻』に書かれた詩群の実際の年次について考察しているわけですが、その『懐風藻』の中に「元日」のものとして造られた「詩」が複数有ります。たとえば「藤原不比等」(史)の「元日」の詩として以下のものが書かれています。「正朝観万国 元日臨兆民/斉政敷玄造 撫機御紫宸/年華已非故 淑気亦維新/鮮雲秀五彩 麗景耀三春/済済周行士 穆穆我朝人/感徳遊天沢 飲和惟聖塵」 この冒頭の「正朝」という語について解釈 [続きを読む]
  • 「智蔵法師」という人物とその時代(5)
  •  ところで、「漢詩集」『懐風藻』に書かれた漢詩群については一般的に「南北朝」時代の「古典的」な部分の影響を強く受けているとされ、「中国六朝時代の古詩の模倣が多く、いかにも黎明期の漢詩」という傾向が見て取れるとされます。その典型的なものが冒頭の「大友皇子」の作品であり、これは通常の漢詩と違い「仄韻」つまり「仄音」で「韻」を踏んでいます。「五言侍宴一絶/皇明光日月/帝徳載天地/三才竝泰昌/萬國表臣義」 [続きを読む]
  • 「智蔵法師」という人物とその時代(4)
  •  すでに行った考察から、「智蔵法師」が「入唐」したのは「六〇〇年代」ではなかったかと想定され実際には「入隋」であったろうと思われると共に、「丙午年」には既に帰国して「三論を講義」しているわけですから、その双方を考えると「淡海帝」とは「天智」ではないし「大后天皇世」とは「持統」ではないと言うこととならざるを得ないものです。(他の史料の中には「斉明朝」という表現をしているものもありますが、いずれにして [続きを読む]
  • 「智蔵法師」という人物とその時代(3)
  • 「智蔵法師」について検討しているわけですが、『懐風藻』には彼の作とされる漢詩が二首収められており、その解説には「淡海帝世、遺學唐國。」「太后天皇世、師向本朝」とされています。これらについては従来は「遣唐使」として派遣されたのが「天智朝」であり、帰国は「持統朝」と解釈されているようですが、そのような「天智朝」の「遣唐使」という考えは上で行った考察により疑問視されると共に、別の理由からも実際上成立が困 [続きを読む]
  • 「智蔵法師」という人物とその時代(2)
  •  『隋書俀国伝』には「大業三年」(六〇七年)に遣使記事がありますが、すでに述べたようにこれは実際には「隋」の「開皇年間」の事実を流用した記事と考えられ、「六〇〇年以前」であることを推定しました。記録を見るとこの時「沙門数十人」が派遣されており、この中に「智蔵」が居たという可能性もあると思われます。 また『書紀』の「裴世清来倭」記事(以下の記事)は既に見たように「隋初」の頃の記事が移動されていると考 [続きを読む]
  • 「智蔵法師」という人物とその時代(1)
  •  『懐風藻』や『元享釈書』『三国仏法伝通縁起』『三論祖師伝』『扶桑略記』など各種の史料に「智蔵法師」という人物について書かれています。それらによれば彼は「福亮法師」の出家前の子供とされます。その「福亮法師」については「法起寺」の創建に関わっていたとされ、「露盤銘文」によれば「戊戌年」(六三八年)になって「金堂」を「構立」したとされています。(この「構立」とは「本建築」の前に「仮」に目印的に「木柱 [続きを読む]
  • 『書紀』の年次移動の痕跡について(2)
  •  さらに『書紀』『続日本紀』の年次移動の痕跡について検討します。 『旧唐書』では「日本国」からの遣唐使の記事として以下のことが書かれています。「其大臣朝臣眞人來貢方物。朝臣眞人者、猶中國戸部尚書、冠進徳冠、其頂爲花、分而四敵、身服紫袍、以帛爲腰帯。」 ここでは「粟田真人」とおぼしき人物は「進徳冠」をかぶっています。 『続日本紀』によれば、「大宝元年」(七〇一年)の記事として「始停賜冠。易以位記。」 [続きを読む]
  • 『書紀』の年次移動の痕跡について
  •  『書紀』と『続日本紀』の記事移動に関するものとして「秦造綱手」に関するものがあります。(以下に『書紀』の「秦造」記事を列挙します。)①「(推古)十八年(六一〇年)丁酉条」「客等拜朝庭。於是。命『秦造河勝』土部連菟爲新羅導者。以間人連臨蓋。阿閇臣大篭爲任那導者。共引以自南門入之立于庭中。時大伴咋連。蘇我豐浦蝦兩臣。坂本糠臣。阿倍鳥子臣。共自位起之進伏于庭。於是。兩國客等各再拜以奏使旨。乃四大夫起進 [続きを読む]