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山城めぐり https://blog.goo.ne.jp/tomiokamusasi

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。

山城めぐり
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2014/11/17

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  • ブログ新規開設について

    このGOOブログに、いまだ多くの訪問者があり感謝です。このブログは3Gと写真投稿に制限があり、現在は「山城めぐりYAHOO」として新しく開設しております。菅原城では西尾根を新発見しました。また山田城では曲輪3の西側の曲輪10(仮に)から西尾根が伸びていて、これも宮坂武男氏が未発見の尾根です。新たに頑張っておりますので、こちらもご訪問ください。ブログ新規開設について

  • 荒山城②

    二の丸へ本丸西土塁から二の丸を見下ろしています。本丸と二の丸との堀切二の丸に立って、本丸西城壁を見ています。二の丸二の丸、南側は切岸二の丸の西に三の丸、旧大沢小学校跡に資料館として残っています。縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、宮坂氏は三の丸で終りとしていますが三の丸の西に道路を挟んで、遺構と思われる丘陵が続きます。南に腰曲輪が付いて南曲輪(仮に)の段差の上に主曲輪らしき平地があります。この後方にも土塁に仕切られた曲輪(?)が薮ですが三段とあります。以上で荒山城は終わりです。次回福田城(佐久穂町)次回から引越しいたしましてYAHOOブログから紹介してゆきます。今後ともよろしくお願いします。荒山城②

  • 追悼 市原悦子さん②

    市原悦子が安倍政権に「『国民の命と財産を守る』と言っても空々しい」とはいえ、こんな体験は子どもたちの世代にさせてはならない。その思いから彼女は戦争の記憶を後世に語り継ぐことをライフワークとする。それが戦争童話の朗読だ。野坂昭如「凧になったお母さん」「年老いた雌狼と女の子の話」や、あまんきみこ「ちいちゃんのかげおくり」など、戦争によって弱い者、とくに子どもたちが犠牲になっていく物語を読む朗読会を定期的に行い、その活動はいまや30年以上継続したものになった。そんな戦争童話の朗読について、エッセイ集『ひとりごと』(春秋社)のなかでこのように振り返っている。〈私の朗読は、死とか戦争とか暗い話が多いといわれるけれど、私自身の現在は、戦争を抜きにしては語れない。いつも言っているけれど、戦後の食糧難の時代に、いまの私がつくら...追悼市原悦子さん②

  • 追悼 市原悦子さん

    追悼!市原悦子が生前語った安倍政権への怒り、反戦の思い…「戦争をなくすことも女優の大事な仕事」19.01.13リテラ『白髪のうた』春秋社女優の市原悦子が12日、都内の病院で亡くなったことがわかった。82歳だった。市原といえば『まんが日本昔ばなし』の声優や、『家政婦は見た!』(テレビ朝日)などの作品が有名なことは言うまでもないが、30年以上にわたってライフワークとして力を入れていたことがある。戦争の記憶を後世に語り継ぐこと、戦争童話の朗読だ。市原の戦争をなくしたいという思いは、安倍政権にも向けられた。2014年には、集団的自衛権容認や原発政策など安倍政権の政策を厳しく批判したことがある。「集団的自衛権を使うことが認められましたね。「自衛」とか「戦争の抑止力」とか信じられない」「先の戦争で犠牲になった300万人の方...追悼市原悦子さん

  • 荒山城

    この荒山城を最後にYAHOOブログに引っ越します。荒山城は佐久市本新町にあります。荒山城地図国道141号線の信号本新町を西へ入り、大沢体育館周辺が荒山城です。(周辺は道が狭いため、体育館の駐車場を借りるように)北から城址を見ています。東の縁から登ると、本丸の城壁が現れます。この手前の腰曲輪を西に進みます。上段が本丸城壁、北側に腰曲輪が付きます。腰曲輪から西奥を見ています。戦艦を見ているようです。歩いてきた腰曲輪を見下ろしています。本丸本丸南側は一段低くなっています。本丸西側土塁土塁の上から本丸を見渡しています。縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、本丸は曲輪1とされています。次回曲輪2へ荒山城は前山城の支城とされ、城主は伴野光信であったという。大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生け捕りとなり、大井氏...荒山城

  • 前山城②

    二の丸から南尾根へ米倉から南に大堀切大堀切の先に二の丸二の丸から大堀切を見返しています。二の丸南先端の土塁東下の腰曲輪二の丸の南に小曲輪があり、それに続いて堀切堀切を見返しています。縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、左の堀切まで歩いています。宮坂氏は堀切エの先は曲輪とされておられないようですが、一応外郭とします。外郭から堀切エを見返しています。山を下りて、旧小学校跡(グランド)へ戻り、忠魂碑からまた尾根に登るとリンゴ畑を見上げると、曲輪が階段状に備えていたことが分かります。リンゴ畑の東側は鋭い切岸です。次回佐久市本新町にある荒山城GOOブログでの写真投稿が3GBに達しますので、YAHOOに引っ越す予定です。前山城②

  • 前山城

    前山城は長野県佐久市前山にあります。前山城地図国道141号線の信号野沢西から県道145号線で西に1.2kmほど進み前山局を過ぎて、北に300mくらいでグランドがあります。グランドの西山が前山城址です。グランドに向かう途中に登り口があります。山道10分大手を守る曲輪が大小幾つも確認できます。リンゴ畑ですが、当寺は曲輪群が階段状に作られていました。奥に見える雪山は浅間山です。「大手の両側は階段状に曲輪が両側についていますが笹薮です。本丸本丸北、物見櫓佐久市街が見渡せます。本丸を南に歩き米倉本丸を北に見ています。本丸南下の米倉曲輪米倉に立って、本丸南城壁を見上げています。次回二の丸伴野氏④伴野氏の滅亡、その後こうして伴野氏は前山城主として武田氏に仕えたが、天正元年、武田信玄が病死し、そのあとを継いだ勝頼は天正三年、三...前山城

  • 浅野氏・水野氏入封400年(広島県庁 広報課)

    2019年は、浅野氏・水野氏入封400年!元和5年(1619)年、江戸時代の広島の地に二人の武将が足を踏み入れました。一人は広島藩初代藩主・浅野長晟(あさのながあきら)。もう一人は福山藩初代藩主・水野勝成(みずのかつなり)です。浅野長晟は和歌山から広島に入りました。この時、上方風の高度な技術や文化の担い手を一度に多数迎え入れたことが、産業・経済の飛躍的発展をもたらす原動力となりました。明治まで12代続いた浅野氏は、積極的な干拓により広大な土地を拓き、また、城下広島を中心とし、領内の主要な経済的要所である宮島・尾道のほか、領国市場を整備し、商工業の活性化に努めました。水野勝成は「鬼日向」の異名を持つ猛将で知られる一方、福山藩においては領内の治政に力を尽くしました。城下町の建設をはじめ、綿花栽培の奨励による繊維産業...浅野氏・水野氏入封400年(広島県庁広報課)

  • イベント情報

    イベント情報『夕雲の城外伝猿啄の春』刊行記念イベントを実施します美濃加茂市・坂祝町・富加町では、みのかも定住自立圏共生ビジョン事業として、平成27年度より「織田信長の東美濃攻略」を活用した歴史PRマンガ作成事業を進めており、28年度末に『夕雲(ゆうぐも)の城(しろ)』を刊行しました。また今年度からは、「織田信長の東美濃攻略」序盤の山場となった「猿啄(さるばみ)城の攻防」(現:坂祝町勝山にある戦国時代の山城)に焦点をあてた新作歴史PRマンガ(『夕雲(ゆうぐも)の城外伝(しろがいでん)猿啄(さるばみ)の春(はる)』)を作成しており、2月下旬に発刊します。これを記念し、下記のとおりイベントを開催いたします。ぜひご参加ください。(1)「猿啄(さるばみ)城の攻防」と城主ゆかりの地めぐり(バスツアー)日時平成31年2月23...イベント情報

  • 前山古城

    二の丸から本丸へ曲輪2まで戻ってきました本丸北下腰曲輪本丸本丸北下帯曲輪本丸南側の土塁本丸南下の曲輪5曲輪5に立っています。曲輪5の南下腰曲輪腰曲輪に立っています。この先は谷です。本丸南下の空堀(本丸を守る西側の堀が浅く、不備を感じ、北側は数段の段曲輪を重ね十分な守りとしていのに、南側は本丸をこの空堀一つで守っていて、この山城は北を意識した縄張りとしています。曲輪5の南下の横堀曲輪5から本丸南城壁を見上げています。縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、新城は城址に沿って走る林道北の上側にあります。次回前山城(伴野氏の本城)伴野氏③武田氏麾下に属す永正六年(1509)、将軍足利義尹(義稙)は関東管領上杉顕定に命じて、伴野六郎と大井太郎の争いを和解させている。その翌年、顕定は越後国長森原で長尾為景・高梨政盛らと戦って...前山古城

  • 前山古城(北東尾根の新城)③

    本丸(新城)から前山古城へ本丸本丸の土塁を越えて、尾根を南に歩くと斜面を大きく扇のように展開した前山古城となります。曲輪2を西へ歩き(城壁は古城本丸)曲輪2の西から東を見ています。幅広い段曲輪が三段と築かれています。曲輪2の西側に腰曲輪が三段とあります。一段の腰曲輪から見上げて城壁を見ています。二段の腰曲輪から城壁を見上げています。三段の腰曲輪三段の腰曲輪から城壁を見ています。四段の腰曲輪四段の腰曲輪に立って城壁を見上げています。西側尾根の下段の腰曲輪前山城主伴野氏②大井氏との抗争文明十年(1478)、岩村田城主の大井政朝が、初めて諏訪上社の御射山頭役を請けた。このとき、伴野氏の代官鷲野伊豆入道が、同頭役の右頭をうけた。翌十一年七月、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めたことは間違いない...前山古城(北東尾根の新城)③

  • 前山古城(北東尾根の新城)②

    三の丸から二の丸・本丸へ(北東尾根の新城)三の丸(仮に)は南奥に櫓台が見えます。櫓台を見ています。三の丸を見返しています。櫓台の南に二重堀櫓台を見返しています。二重堀を越えて二の丸の北先端部二の丸(仮に)この曲輪にしろ、三の丸においてもかなり広大です。私は推測ですが武田信玄が佐久攻略のために、前山古城を拡張して新城を築き拠点にしたのではないかと推測しています。裏付ける史料はありませんが。二の丸の南側に浅い空堀新城の本丸前山城主、伴野氏(前山古城は支城と考えられています。)尊氏と弟の直義の間に、高師直兄弟がからんで幕府内に深刻な対立が起こり、ついに尊氏と直義の兄弟が生死をかかえて争う「観応の擾乱」がはじまった。正平四年(1349)八月、高師直兄弟は直義を討とうとして京都に入った。この師直軍のなかに信濃守護小笠原政...前山古城(北東尾根の新城)②

  • 前山古城(北東尾根の新城)

    多くの方が訪問されるようになり、前山古城の北東尾根に新しく発見した遺構を是非訪ねてもらいたく再度紹介します。(この発見は山主の方もご存じで、私と同じく佐久市教育委員会に連絡しているそうです。この働きかけにより佐久市教育委員会の担当者も調査されたようで、この山城を、しかるべく公表をされると思います。)前山古城は宮坂氏が著書に(「信濃の山城と館」上田・小県編)に記載されています。)前山古城地図前山古城へは佐久市の貞祥寺から貞祥寺の門前から北に蓼科スカイライン(美笹団地)方面に登ってゆきます。林道を進み前山集落を過ぎて、トラックが数台留めてある資材置場があり、50mほどのカーブに差し掛かると、山道があります。ここが新しく発見した新城です。(前に前山北古城として紹介しております。)山道に入ってすぐに尾根に取り付きます。...前山古城(北東尾根の新城)

  • 飯綱城⓶

    曲輪1から南尾根へ曲輪1を南に進むと大きな岩が聳えた大堀切オこんな大岩を登れるのかと思いましたが、左手からルートがあります。南側の斜面岩を刳り抜いた堀その上に小曲輪景色は抜群、上田市街が見渡せます。岩の上に曲輪2(宮坂氏の縄張り図では)曲輪2を下りて、南に空堀の先に曲輪3曲輪3を南から見ています。曲輪3の南下に曲輪4(仮に)飯綱城⓶

  • 飯綱城

    飯綱城は長野県上田市秋和にあります。飯綱城地図地図を下方にスクロールしますと、豊秋霧原埜神社(現地では大蔵神社とあったと記憶しています。)この神社の鳥居前から林道が西から北へ伸びています。2・2kmの林道はあまり良い道ではありません。私は途中で車を置いて歩きました。この案内から尾根まで20分、やや急斜面です。ここから南に100mです。堀切尾根を登り曲輪4曲輪2曲輪2の先端に土塁と虎口虎口を越えて曲輪1縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より、この縄張り図は半分に写真を撮っています。この縄張り図で曲輪1であるのか私は疑問に思っております。それは次回とします。飯綱城

  • 松山城⑦(最終回)

    書籍案内越後史跡紀行歴史と人物【12/16発売】山城、平城、館跡―。越後各地に遺された84の史跡をたどる歴史紀行。史跡にたたずみ往時をしのび、興亡盛衰や史跡を彩る人物群像にも思いをはせる歴史の旅。新潟日報好評連載、待望の書籍化。著者:花ケ前盛明1937年新潟県上越市生。国学院大学大学院修士課程(日本史学)修了。越後一ノ宮居多神社宮司。新潟県文化財保護連盟副会長、上越市文化財調査審議会委員、上越郷土研究会会長。上杉謙信や直江兼続に関する多数の著書がある。春日山城跡/春日山城下町/御館跡/福島城跡高田城跡/沖見城跡/城ケ峰城跡/雁金城跡茶臼山城跡/柿崎城跡/岩手城跡/猿毛城跡顕法寺城跡/長峰城跡/大間城跡/虫川城跡直峰城跡/川浦陣屋跡/箕冠城跡/京ケ岳城跡鮫ケ尾城跡/鳥坂城跡/高柳館跡/不動山城跡根知城跡/勝山城跡...松山城⑦(最終回)

  • 杉山城⑥

    北二の郭・北三の郭へ本丸北虎口から北の郭へ北二の郭、奥に本丸北城壁北二の郭の北側虎口土塁、左手を進み瘤によって、折れを設けています。土橋が続き北三の郭虎口虎口を角度を変えて見ています。北三の郭北三の郭、北虎口北三の郭の北側の空堀北二・三の郭位置を確認してください。次回東二の郭、東三の郭杉山城は松山城主の上田氏の家臣上田主水が築いたとの説もあります。松山城の歴史戦国時代[編集]室町時代から戦国時代にかけては、武蔵国中原の要衝として、関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された。松山城を築城したと考えられる上田氏は当初扇谷上杉氏に部将として属したため、この城は東方の下総国古河に本拠を構える古河公方および北方の上野国から武蔵国中央部への進出を狙う山内上杉氏に対する前線拠点として機能した。後に北条氏の勢力が相模国から武蔵...杉山城⑥

  • 杉山城⑥

    北二の郭・北三の郭へ本丸北虎口から北の郭へ北二の郭、奥に本丸北城壁北二の郭の北側虎口土塁、左手を進み瘤によって、折れを設けています。土橋が続き北三の郭虎口虎口を角度を変えて見ています。北三の郭北三の郭、北虎口北三の郭の北側の空堀北二・三の郭位置を確認してください。次回東二の郭、東三の郭杉山城は松山城主の上田氏の家臣上田主水が築いたとの説もあります。松山城の歴史戦国時代[編集]室町時代から戦国時代にかけては、武蔵国中原の要衝として、関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された。松山城を築城したと考えられる上田氏は当初扇谷上杉氏に部将として属したため、この城は東方の下総国古河に本拠を構える古河公方および北方の上野国から武蔵国中央部への進出を狙う山内上杉氏に対する前線拠点として機能した。後に北条氏の勢力が相模国から武蔵...杉山城⑥

  • 杉山城⑤

    本丸へ井戸廓から通路を歩き本丸北虎口となります。北虎口は左上からの横矢掛かりに守られています。本丸本丸東虎口、城壁は屏風のように折れを用いています。奥に見える曲輪は南二の郭東側通路の下は一段低く、平地(根小屋?)が広がっています。この説明版では築城主は松山城主上田氏の家臣杉山主水との説を上げています。本丸から東二の郭・東三の郭を見下ろしています。本丸を北から見ています。本丸南奥に井戸郭の虎口があります。井戸廓を見下ろしています。本丸の南側に立って、南二の郭を見下せます南二の郭の東虎口を見下ろせば、外郭との連携、通路を作るための横堀、実に技巧的で感心致します次回北二の郭・北三の郭(縄張り図は前回記事)上杉憲房(杉山城主)の養父上杉顕定②古河公方との関係と永正の乱明応3年(1494年)に古河公方と結びついて以来、顕...杉山城⑤

  • 杉山城④

    南二の郭から井戸廓へ南二の郭南二の郭の西側を進むと井戸廓南虎口井戸廓の南側空堀井戸廓の北側空堀井戸廓の南虎口(土橋)から南二の郭を見ています。井戸廓の北側堀越しに南二の郭を見ています。空堀をこれほど駆使し巧みに郭を守っている縄張りは武州では稀な丘城です。井戸廓から西に空堀を下ると西下の横堀へと降りてきます。横堀を北に歩いてゆくと本丸西虎口へと通じています。井戸廓を確認してください。次回本丸へ杉山城を築城した(古河公方、足利髙基の古文書)上杉憲房応仁元年(1467年)、上杉憲実の子で僧籍にあった周清の子として誕生。又従兄弟にあたる関東管領・上杉顕定の養子となるが、養父上杉顕定生涯①山内上杉家の家督相続[編集]享徳3年(1454年)、上杉房定の子として誕生。寛正7年(1466年)2月、関東管領・上杉房顕が武蔵国五十...杉山城④

  • 杉山城③

    どなた様も明けましておめでとうございます。南三の郭から南二の廓へ西虎口南三の南虎口、横堀に挟まれた土橋南三の郭外郭西側外郭中央を見下ろしています。これを登れば南二の郭へ南三の郭を見下ろしています南二の郭南二の郭の東虎口、奥に本丸東虎口が見えます。また通路が郭の下側を走っており、これはまた横堀を築いています。虎口の縄張り、横堀と空堀の組み合わせは北条流と思われます。(現在位置ではありません。)上杉顕実古河公方・足利成氏の次男として誕生。当初は義綱と名乗るが、後に関東管領・上杉顕定の養子となり上杉顕実と改名した。永正7年(1510年)、長森原の戦いで顕定が敗死すると、顕実が山内上杉家を継ぎ関東管領を継承するが、同じ顕定の養子・憲房と対立する。顕実は実兄で古河公方・足利政氏に援助を求めるが、憲房は政氏の子・高基を味方...杉山城③

  • 杉山城②

    外郭から大手口へ外郭に入り南から外郭を見てます。外郭7の東の大手虎口大手出郭外郭の東下に走る通路外郭を東から見ています。城壁は南二の郭外郭と南三の郭との空堀空堀越しに外郭を見ています。南三の郭虎口の南に横堀が南三の郭・井戸廓・本丸とを囲んでいます。横堀を歩いて来て、これを登れば南三の郭になりますが次回とします。杉山城を築城したとされる上杉憲房(前回記事憲清は間違いで訂正します。)生涯応仁元年(1467年)、上杉憲実の子で僧籍にあった周清の子として誕生。又従兄弟にあたる関東管領・上杉顕定の養子となるが、その立場は必ずしも安定しておらず、長尾景春の乱の最末期には長尾景春らによって山内上杉家当主に擁立されていた時期が存在していたことが知られている[3]。また、顕定には実子(庶子)が存在していたとする説もある[4]。そ...杉山城②

  • 杉山城

    杉山城は埼玉県嵐山杉山にあります。杉山城地図県道296号線で信号玉ノ岡中南入口から北に町道を進み相生橋を渡って積善寺を目指します。積善寺駐車場にある大手案内大手手前にある案内板、最近の発掘調査で長享・永正の乱のときに、関東管領上杉憲清が扇谷上杉氏に対抗するため築城したことが分かってきたと記述されています。大手口大手口脇にある縄張り図大手の西に廻り、馬出曲輪から登ってゆきました。馬出曲輪から南第三曲輪の虎口を見ています。南第三曲輪と外曲輪との空堀馬出曲輪から東に位置する外曲輪、間の空堀が最初の写真の空堀に通じています。空堀を越えて、外曲輪に立っています。奥に見える土橋は南第三曲輪の虎口です。外曲輪と馬出曲輪とを隔てる空堀次回南第三曲輪へ国指定遺跡・杉山城祉公式HPranzan-sugiyama.jp/杉山城

  • 悪あがきの原子力村

    小型原発で延命をはかる“原子力ムラ”昨年夏以降、経産省はエネルギー基本計画の見直しにとりかかった。狙いは原発の新設、建て替えを計画に盛り込むことだった。再稼働できても、いずれ原子炉の寿命は尽きる。新たに造らない限り、この国の電源から原発はなくなるのだ。しかし今年4月28日、経産省が有識者会議に示したエネルギー基本計画の骨子案には、原発を「重要なベースロード電源」としながらも、原発の新増設が明記されることはなかった。このため、有識者会議の財界メンバーからは原発新設の必要性を唱える声が上がった。その理由は「石油や石炭など化石燃料は将来的に枯渇する恐れがある。再生エネだけで代替することはできない」(有識者会議分科会長、坂根正弘コマツ相談役)などというものだ。坂根氏は有識者会議において、日本の再エネ技術は中国などに太刀...悪あがきの原子力村

  • 砥石城⑤

    桝形城へ本丸北、大堀切角度を変えて堀切を見ています。北尾根から本丸北城壁を見ています。桝形城が見えてきました。腰曲輪に立って本曲輪城壁を見ています。腰曲輪を見下ろしています。本曲輪堀切があり、これを下ってゆけば金剛寺峠堀切周囲の真田町にある山城、案内されている山城を後日、登ってゆきます。堀切の北に小曲輪から見返しています。次回埼玉県嵐山町にある杉山城真田幸隆生涯信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子[5]、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子[6]として生まれたとされている。幸綱の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸綱以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸綱が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。甲斐国で...砥石城⑤

  • 砥石城④

    二の丸から本丸へ三の丸の北、ここを登れば二の丸砥石城から馬場を経て、曲輪4に入り、三の丸から二の丸へ来ました。(縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編)二の丸に入り、本丸南虎口を見ています。三の丸を見返しています。三の丸から曲輪5に入り、曲輪4を見下ろしています。三の丸南先端部から曲輪4を見下ろしています。本丸南虎口、石垣が残っています。虎口から二の丸を見下ろしています。本丸は意外と広い曲輪です。次回桝形城へ矢沢頼綱生涯真田頼昌の三男とされる。通称は源之助で、真田幸隆の弟にあたる[1]。矢沢家は矢沢郷(現在の上田市殿城町矢沢)を支配する地侍で、真田郷に隣接する地域。しかも諏訪氏の一族として真田家とは敵対関係にあったが、頼綱がその養子になる事で敵対は解消された[1]。若い頃出家し、京都鞍馬寺の僧となるが、程なく...砥石城④

  • 砥石城③

    本城へ本城、土塁手前の右手から大手口東側下の内小屋とある、伊勢山集落への道が大手とされています。見返すと長い尾根は宮坂氏は馬場としています。曲輪4の南下通路から曲輪4の東坂虎口を登り曲輪4へと入ります。曲輪4は窪んでいます、奥に曲輪5が位置しています。曲輪4の南側は土塁のように西へ廻っており、曲輪4を馬場からは隠す縄張りとしています。西へ回り込み、これを登れば曲輪3です。曲輪3東下の曲輪4を見下ろし、東虎口も見えます。次回曲輪2から本丸へ(前回記事の宮坂氏の縄張り図で、本城を桝方城としていますが、定説はここを本城とされています。)砥石崩れで戦死した武田氏の足軽大将横田高松横田高松(よこたたかとし)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。武田の五名臣の一人。略歴[編集]『甲陽軍鑑』に拠れば、高松は元々は近江国甲賀郡...砥石城③

  • 砥石城②

    米山城から砥石城へ米山城、本丸南下曲輪南下曲輪から本丸を見上げています。南側遊歩道から東回りに登り、砥石城北虎口へ砥石城本丸へ(別の名を付ければ誤解されないと思いつつ)武田軍を砥石城崩れによって破った城であり、真田幸村は徳川第一次合戦、第二次合戦で横鑓を入れた城でもあります。本城を繋ぐ尾根縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県、砥石城(左手)から長い尾根を歩いています。長い尾根から砥石城を振り返っています。尾根は西側に来ると広がり、南側は一段低くなっています。本城が見えてきました。きれいに整備され遺構を邪魔する物はありません。次回本城をじっくり見てゆきます。砥石崩れ砥石城は小城ではあったが、東西は崖に囲まれ、攻める箇所はその名のとおり砥石のような南西の崖しかないという城であった。砥石城攻めの際の武田軍の兵力は7...砥石城②

  • 砥石城

    久しぶりに登ってきました。砥石城は長野県上田市住吉にあります。砥石城地図上田菅平ICから北に国道144号線で1kmくらいに砥石城址の案内が出ています。案内とうりに進めば公園化され駐車場も備えられています。大河ドラマに合わせた関係史跡の紹介砥石城・米山城の登山コース復元された楼門をくぐり米山を左手に見ながら登ります。尾根に着き米山城をまず目指します。本丸北城壁本丸説明文でア四要害の一つとの説明ですが、この米山城は砥石城が築城される前に。小宮山氏が築いたもので、歴史的には異なる時期があったものと私は思っております。西から本丸を見ています。碑は村上義清説明文の裏にある略図砥石城の歴史歴史築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った真田氏の外城として築城されたのが最初とされている(当時の状況は不明)。『神使御頭之日記』に...砥石城

  • ケムリの城

    虚空蔵山の山城群は山道マップにありますように、和合城、物見城、ケムリの城、燕城、高津屋城、鳥子屋城、虚空蔵山城、持越城、飯綱城、牛臥城、荒城、花古屋城とあります。この山城群は上田原の合戦、そして川中島の戦いにも上杉謙信が利用したとされています。ケムリの城物見城への案内板から北尾根を登ると、ケムリの城の案内があります。慌てて下って行かないよう、よく案内図を見てください。鉄塔26から南に下ってゆけば物見城になります。図のように鉄塔から東に道があり(鉄塔25)、10分ほどでケムリの城となります。大堀切エ堀切ウ堀切ウを尾根から見ています。本丸北城壁(切岸)、この岩を西回りに道がありますが、途中、道が半分と崩れておりますので滑落しないように注意して進んでください。曲輪3(鉄塔25)曲輪2の上に本丸本丸、ケムリの城と呼ばれ...ケムリの城

  • 物見城

    物見城は和合城から北尾根を登ってゆけば案内が出ています。物見城案内板案内板から南斜面(山道)を下り10分ほどで堀切オに着きます。曲輪が三つ、その間を堀切が隔てています。北曲輪1から本丸城壁を見ています。堀切オを見返しています。北曲輪2に立ち本丸方面を見ています。堀切イ北曲輪3北曲輪3を見下ろしています。二の丸堀切ア物見城本丸東側景色上田市街物見城、縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より虚空蔵山の山城群は上田原の戦いにおいて村上氏の坂城町に武田氏の侵入を阻む城砦であったと思われます。上田原の戦い『甲陽軍鑑』では上田原合戦における戦死者は武田軍は700人(または1200人)、村上軍は300人(または1700人)としているが、その根拠は不明[2]。村上義清が武田晴信の本陣に攻めかると晴信の旗本衆は後退し、脇備の...物見城

  • 高津屋城

    高津屋城は和合城の尾根続きで、虚空蔵山に向かう途中にある城址です。和合城から北尾根、虚空蔵山方面へ登ってゆきます。途中で菖蒲平林道にぶつかり、山道マップがあります。物見城への案内、ここまで三つの峰を登らなければなりません。四つ目の峰を越えるとケムリの城の案内、両城とも高津屋城の帰途、攻めてゆきます。五つ目の峰を登りきると、高津屋城の南土塁を備えた本曲輪北の三角山が出浦城、その左手の山が孤落城北から本曲輪を見ています。岩を削って、北虎口ここを下って北尾根から高津屋城の城壁を見ています。縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より、本曲輪の先、北尾根に曲輪があったようです。次回引き返して物見城へ村上国清(義清嫡男)生涯天文22年(1553年)、父・村上義清と共に武田晴信に追われて越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って...高津屋城

  • 和合城②

    本丸へ二の曲輪から本丸に本丸、奥に狼煙台二の曲輪を見下ろしています。左手、手前の三角山が岩井堂山、出浦城です。中央の左手側に葛尾城左手奥、日が当たっている山に孤落城、最高峰に三水城周辺の山城を眺めることができ、この狼煙台が、いかに要所にあったのかが分かります。狼煙台西側に残る石垣次回虚空蔵山にある高津屋城村上義清信虎を追放した武田晴信(武田信玄)の攻勢を受け、天文17年(1548年)、小県南部へ侵攻した武田勢を上田原の戦いで撃退する。この戦いで義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取っている。また、村上方の安中一藤太の一槍で倒れた諏訪郡代・板垣信方は上条織部に討ち取られた。この他に武田方は、甘利虎泰・才間河内守などの家臣を失うことになった。天文19年(1550年)、義清が高梨氏と戦っていて本領を留守にした隙に、晴信...和合城②

  • イベント情報

    苗木城跡スッキリ雑木伐採、石垣や巨岩姿現す2018年12月08日09:17本丸西側の雑木を伐採し、石垣が観察しやすくなった苗木城跡(上)雑木が覆い茂っていた頃の苗木城跡=2017年5月岐阜県中津川市苗木にある国史跡の山城「苗木城跡」で、本丸西側の雑木が伐採され、城郭の石垣や巨岩が観察しやすくなった。今年の登城者は過去最多の8万人を超えそうといい、市はさらに雑木の伐採を進め、往時の姿をあらわにして誘客を図りたい考えだ。明治初期の廃仏毀釈(きしゃく)などの歴史で知られる旧苗木藩が拠点とした苗木城の城跡で、木曽川右岸にそびえる城山(標高432メートル)の断崖の上に天然の巨岩を巧みに利用して築城。日本城郭協会の「続日本100名城」にも選ばれている。市は1871(明治4)年の廃城前の城郭姿を観察できるようにと、9月中旬か...イベント情報

  • 和合城

    和合城は長野県上田市下塩尻にあります。和合城地図アクセスは国道18号線で戸倉方面に向かい、信号ねずみを右折し、山裾に向かいねずみ団地方面に走ると墓地の間を登り、右手の山の頂部に和合城があります。虚空蔵山から太郎山まで5時間尾根に着いて西に進むと大堀切四の曲輪・三の曲輪・二の曲輪・本丸と階段状に並んでいます。二の丸にある縄張り図三の曲輪二の曲輪北方、尾根中央くらいに葛尾城(村上氏本城)虚空蔵山から太郎山までの村上氏の支城群和合城は葛尾城の支城であった。概要(葛尾城)戦国時代、北信で最大の勢力を誇った村上氏の居城であった。近辺に氏族の支城や砦の跡がいくつもある。天文年間、小県郡の村上義清は甲斐国の武田晴信(信玄)が開始した信濃侵攻に対抗し、上田原の戦いと砥石崩れと2度もの南面からの武田軍の攻撃を破った。しかし、天文...和合城

  • 祢津下の城③

    東斜面から曲輪4そして池三の丸の東腰曲輪から東側武者走り東武者走りから本丸と二の丸との堀切を見上げています。曲輪3の北側に横堀小曲輪で受けて曲輪4曲輪3の城壁を見返しています。曲輪4の先に宮坂氏の縄張り図では池とされています。曲輪4の西側には土塁土塁の西に二重竪堀二重竪堀は西側斜面を下っています。今度は東の竪堀を見上げています。東の竪堀も二重堀となって東から南まで200mほども下っています。二重堀の内側には石垣で囲んだ根小屋?畑?が所々に見られます。次回和合城(上田市と坂城町との境界にあります)祢津氏③戦国期戦国時代には、天文10年(1541年)5月には甲斐国の武田信虎が村上義清・諏訪頼重と共同で滋野三家の小県郡海野平へ侵攻した(海野平の戦い)滋野一族のうち、海野棟綱は嫡男海野幸義が討死し、真田幸綱(幸隆)、根...祢津下の城③

  • 祢津下の城②

    二の丸・三の丸へ本丸北下曲輪二の丸との大堀切大堀切から本丸城壁を見返しています。二の丸の南土塁二の丸三の丸北側の深堀三の丸三の丸から東に腰曲輪、その東下に祢津城の最大の見もの、竪堀90度に折れた竪堀縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より次回四の曲輪から池?祢津氏②室町期南北朝合一後の応永7年(1400年)、信濃守護小笠原長秀と信濃国人衆が争った大塔合戦では、大文字一揆衆の大将として従五位下根津越後守遠光の名があり、大手門攻撃大将として根津越後守遠光、その他根津時貞、貞行、宗直、貞信ら一族や、桜井・別府・小田中・実田(真田氏の初見)・横尾・曲尾等の支族300騎を率いたことが『大塔物語』に記載されている。この時の諸将の名から当時の根津氏の勢力は、真田、矢沢、横尾、曲尾方面だけでなく、佐久郡春日一帯や更級郡の一...祢津下の城②

  • 祢津下の城

    下畑下の城は、都合により下畑城の記事の中に紹介しております。祢津下の城は長野県東御市祢津(旧東部町)にあります。「祢津下の城地図」上信越自動車道の東部湯の丸ICから北に見える山です。地方道4号線から見た城山西宮公民館に祢津下の城の案内が出ています。案内から城山の南麓に西宮公園があります。ここに駐車して東回りに歩いてゆくと登り口に着きます。東御市市街縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より、南下から本丸に登っています。本丸本丸、南から見ています。本丸は四方を土塁で囲んでいます。俯瞰図は「信濃の山城と館」上田・小県編より祢津氏について(根津とも表記する)平安・鎌倉・南北朝期根津氏は滋野三家の中でも、とりわけ武勇に優れたものが多く、各年代軍記物語等での記載がある。平安期には、初代根津神平道直が平安時代末期の保元の...祢津下の城

  • 護衛艦「いずも」を空母に改修

    空母に改修すれば、歴代自民総理が語ってきた自衛隊の専守防衛が崩れ、攻撃形兵器を持つとの批判をかわすため、安倍はまたもや国民を騙す嘘、ごまかしを述べている。安倍晋三首相は14日、海上自衛隊の護衛艦「いずも」改修による事実上の空母化について、戦闘機を常時搭載せず災害時の拠点としての利用など多用途で運用する考えを表明した。「攻撃型空母」に当たらないといった内容も含む与党側の確認書に関し「重く受け止める。しっかり守って運用する」と述べた。防衛大綱に関する自民、公明両党のワーキングチーム(WT)座長の小野寺五典前防衛相らが官邸で会談後、記者団に明かした。公明党は14日の常任役員会でいったんは大綱と次期中期防衛力整備計画(中期防)の了承を保留。しかし党幹部が政府、自民と協議。確認書の内容が中期防などに反映される見通しとなり...護衛艦「いずも」を空母に改修

  • 光秀を苦しめた波多野秀治

    光秀苦しめた武将・波多野秀治とは/兵庫・篠山市2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀。主君、織田信長の命を受け、畿内の「丹波攻め」を行った光秀が、自身の母をなくしたという説があり、「本能寺の変」の引き金の一つかと疑われるほどの苦杯をなめたのが、多紀郡(現・兵庫県篠山市)の八上城主・波多野秀治との戦だ。結果的に敗れたものの、今でも地元から信望が厚い敗戦の将。彼はいったいどのような生涯を送ったのか。.面従腹背、反織田の一角に写真・八上城跡に建てられた波多野秀治の顕彰碑=兵庫県篠山市八上上で波多野秀治の先祖は、応仁の乱での活躍により、細川氏から丹波国多紀郡に所領を与えられた。秀治はそれから5代目にあたる。波多野氏は一時、八上城を追われていたが、永禄9年(1566)、秀治が父とともに城を取り返した。その...光秀を苦しめた波多野秀治

  • 下畑城②

    二の丸・三の丸と紹介したいのですが薮です。二の丸と三の丸との間の空堀三の丸、笹薮に覆われています。三の丸の北奥には櫓台三の丸と四の曲輪との間の空堀四の曲輪俯瞰図は「信濃の山城と館」佐久編より、長野県は史跡を大切にする県ですから、いつしか整備してくれるでしょう。続いて下畑下の城、下畑城と尾根続きですが酷い茨の薮で迂回することを、お勧めします。下畑城の入り口から西側の農道を北に歩きます。西から見た、下畑城、下の城です。左手、東先端部の鉄塔から登り、南尾根を歩きます。曲輪3曲輪2本丸、曲輪が薮で、使える写真が三枚しかなく、俯瞰図で想像してください。俯瞰図は「信濃の山城と館」佐久編より武田信虎②武田宗家の統一室町時代の甲斐国では、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に守護・武田信満が加担して滅亡したことをきっかけに守...下畑城②

  • 下畑城

    下畑城は長野県佐久穂町下畑(旧八千穂村)にあります。武田氏が佐久を攻略するために築いたとされており、もう一度見ておこうと思い出かけました。下畑城地図」国道141号線で小海町方面に向かい畑の信号を右折し、500mくらいの町道を右折します(神社と大きな碑があるところ)坂を上って、峠の所に案内板があります。案内板から奥に入りますと下畑城。左手を東に進めば下畑下の城へ行けます。天文九年、武田信虎が小山田氏に命じて築城させたとあります。土橋、農道としたため幅が広くなっています。本丸南下から西へ回り込む道となっています。西の通路大空堀、本丸、左上、右手が二の丸竪堀を西斜面に下ると武者走りから西側を通路が案内板下まで通じています。空堀から本丸に登ります。縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編より武田信虎について信虎の出生と生年明...下畑城

  • 入管法改正案の成立を急がせた訳

    理念なき“移民政策”がもたらす数々の不安「新恭国家権力・メディア一刀両断」法案をほとんど白紙同然の中身で出してきて、さあ質疑をどうぞという。ハナから議論にならない入管法改正案が、例によって数の力による強行突破で成立した。これまで、働くことを目的とした在留資格は、研究者ら高度な専門人材に限られていた。それを、いわゆる“単純労働”にまで広げるのが改正の趣旨だが、制度設計は後回し。省令に盛り込めば事足りる、といういい加減さだ。決まっているのはほぼこれだけである。相当程度の知識、経験を要する業務の従事者向けの在留資格は「特定技能1号」で、最長5年の滞在が可能だが、家族の帯同はできない。熟練した技能を要する業務の従事者向けの在留資格は「特定技能2号」で、家族を帯同できる。条件を満たせば永住も可能。「相当程度の知識、経験」...入管法改正案の成立を急がせた訳

  • 花古屋城②

    曲輪4から南尾根を下ってゆきます。曲輪4曲輪4から本丸方面を見返しています。曲輪5曲輪6、虎口虎口を曲輪7から見ています。曲輪7曲輪7の虎口虎口を曲輪8から見ています。曲輪8縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より虚空蔵山・太郎山は村上義清の勢力下でした。村上義清生涯①文亀元年(1501年)3月11日、村上顕国の子として葛尾城に生まれる。永正12年(1515年)3月15日、元服し、右京権亮を称し、諱を義清とする。この頃、父の顕国は支配下にあった小川氏が背いたため隣接地の高坂氏と大日方氏にこれを討たせたと伝えられるが、他の事蹟が明確ではなく、このため家督継承前後の義清の動静も明確ではない。永正13年(1516年)3月、従五位下に叙位。佐渡守に任官。永正14年(1517年)に、父より葛尾城を譲られ、永正17年(...花古屋城②

  • 明智光秀を退却させた赤鬼

    明智光秀を退却させた「赤鬼」赤井直正の生涯を追う/兵庫・丹波市丹波新聞おじを殺し城を乗っ取る破天荒ぶり写真・兵庫県丹波市の中川英明さんが描いた赤井(荻野)悪右衛門直正のイラスト戦国武将・明智光秀を主人公とするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が2020年に放映される。織田信長の家臣として数々の戦で指揮を執った光秀。そんな歴戦の雄を、命からがらの退却に追いやった勇猛な武将がいる。兵庫県丹波市の山城「黒井城」の城主・赤井(荻野)悪右衛門直正だ。「丹波の赤鬼」と呼ばれた破天荒な武将・赤井直正の生涯を追った。直正は1529(享禄2)年、現在の同市氷上町にあった「後屋城」の城主・赤井時家の次男として生まれた。子どものころの名前は才丸。幼少のころから度胸がすわっていて、知恵と勇気があったという。その後、同市春日町の「朝日城」を...明智光秀を退却させた赤鬼

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