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2014/11/26

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  • 上野恩賜公園の桜 (4/7•日)

    知人に誘われ、嫌々花見に行く事になってしもつた。待ち合わせ場所は上野駅公園口。普段なら徒歩15〜20分ぐらいで着くのだけれど、なんと、広小路辺りから異様に増えてゆ人の流れ。まあ、想像はしていたものの、既に嫌気が始まっていました。「少し遅れるよ…」と、連絡はしたもののなかなか歩は進まない。京成線の駅付近からは帰りたくなってしまった。直ぐ目の前の上野駅広小路口に着くと、今度は目指す公園口迄150メール程の登り坂。これが最悪。なかなか進めない。…で、やっと登り切ると、今度は駅前にいると云う人探し。数分探し回りTel📳して居場所を確認→合流出来た。ところが、未だ一人来ていない。またまた📳📞で確認。数分後気がつくと、なんと私達の後ろの方でウロチョロしているのを発見。なんとまあ初めから気疲れの幕開けとなった。公園口近...上野恩賜公園の桜(4/7•日)

  • 成人の日

    今年もまた成人に成りました…果たして何度目なのか、忘れてしまいましたけれど。でも、毎年成人の階段を着実に上る…と云う自覚でいたい…という気持ちは忘れないでいたい。と、今になって思うけれど、ここ迄歳を重ねて来る間は、忘れっぱなし。そんな日々•年月が今の私を築き上げてしまった。後悔はしていませんけれど。でも、とは言え、自分の事を棚に上げ言わせて貰えるならば、今の若い人達、これから成人になる人達には、〈大人に成る事〉の意味を知って自覚して欲しいと思います。それを踏まえて『おめでとうございます』と言います。私は成人式の日の事は殆ど覚えていません。当時は今と違い【成人の日は2月10日】と決まっていました(いつから変則になったのでしようね)。形式的な事が好きではなかった私を含めて友達はみんな式には出ないと云う者ばかり...成人の日

  • 2024 お年賀 深夜便

    この女性を御存じの方は恐らくもう居ないのでは…?老い楽の冗談ですよそんな気分で日々を過ごせば楽しい一年が過ごせると思いますやたらと気張らずに気楽に過ごしましょう=今年も•冗談式部=2024お年賀深夜便

  • Good bye 2023 大晦日

    そう、争いの無い時代がやって来る。そうは思わないか。小説にもあった筈『武器よさらば』と。彼の祖国は〈それ〉を忘れている。思い出させてやろうじやないか。幸せの時代へ!Imagine…戦争も宗教も差別も無い世界へ。夢想家と呼ばれるかもしれない、でも私は一人じやない…素朴な暮らしの中に平和が在る2024年、その様な生き方に目覚めて欲しい。Goodbye2023大晦日

  • 年末だ〜

    年越しだ〜お年玉収入明細表は準備出来ている。今じゃこれで生活している。さあ、年明けと共に忙しくなるぞ〜!!除夜の鐘自分の歳を重ねたが百八つじや事足りぬ=幼老式部=思い出してみると、最後にお年玉を貰ったのは小学三年生だったと思う。それも親からではなく祖父からだった。まあ、それが当時の下町では普通の事でした。何しろ高度成長期の前でしたからね。知らない間に立場が逆転。今の子供達は(みんながとは言わないけれど)本当に恵まれていると思う。あれ?お年玉って、日本だけ?羽付き・凧上げ・こま回し…今じゃ町の中では見られない光景を、懐かしく思のは歳のせい?近所のお米屋さんにお餅を頼んだ後は、正月用のおせち料理なんかを家で作っていたのに、今じゃデパート・スーパー・コンビニ、はたまた通販で済ませている。これも『時代』何でしょう...年末だ〜

  • お土産

    知り合いから広島へ旅行してのお土産を頂いた。事前にその様な話しを聞いていなかったので、嬉しさが倍増しました。考えてみればいい時期に出掛けたと思います。と云うのも、もう少し後、年末年始になれば人流も増し、ゆっくりと旅行気分を味わう事が出来ないのは目に見えているからです。おまけに最近では日本人以が多いので日本の年末年も風情が薄れていそうですし。何処をどう廻ったのかは詳しくは聞きませんでしたけれど、お土産を買える程の余裕は有ったのでしょう。でも私としてはお土産の方に気が向きっぱなし。もみじ饅頭は有名ですけれど、まさか牡蠣のカレーなるものがレトルトで売られていたとは知りませんでした。今度私が旅行に出掛けられるのはいつになる事やら。ああ〜、何処かへ行きたいなァ〜。お土産

  • 今週の映像の世紀、バタフライ・エフェクト

    NHK「バタフライ・エフェクト」今週はいつもと異って12月30日(土)の9:00〜10:30で『ビートルズとロックの革命』、6月に放映したものの拡大版。年末年始の私は毎年「寅さんシリーズ」か「ビートルズ」を観て過ごすのですけれど、今年はそこにこの番組を入れる予定です。まあ、拡大版とはいえ、既に観ていると云う点では変りが無いのですけれど、他の軽薄なバラエティーの類いよりは良いですからね。当然、大晦日の紅白はパス。年々知っている歌手が姿を消して行くのに付いて行けなくなっています。それは其れなりの寂しさ似たものが有りますね。ニュースでほんのチラリと見た限りでは、来年の大河ドラマもまたパス決定。配役陣がほんの一部を除いて下手な若手で占められているのは、どうした事なのでしょうネ。NHKはこの数年キャスティングが酷く...今週の映像の世紀、バタフライ・エフェクト

  • 西暦年・下一桁 3年

    1203.9.源実朝(12才)征夷大将軍に。1543.松平竹千代(徳川家康)誕生。8.25.日本に鉄砲伝来。1793.8.10.ルーブル美術館開館。元々は城塞だった。1823.12.21.ジャン=アンリ・ガジミール・ファーブル(仏)誕生。1853.ペリー浦賀に来航(黒船騒動)。1873.・日本に野球伝来。・官製はがき登場。・当時の印旛県と木更津県が統合され千葉県となる。また同日栃木県と宇都宮県が統合され栃木県となる。1883.2.16.東京気象台が日本初の天気図作成。公表されたのは東京・新宿と横浜。ドジャース球団設立。11.28.麹町に鹿鳴館(日本初の様式社交クラブ)開館。1903.ライト兄弟初飛行(⇒飛行機ダンス流行)。1923.ル・マン第1回開催。1923.1.25.忠犬ハチ公誕生。9.1.11:58...西暦年・下一桁3年

  • 今年もケーキが値上り🎂

    どうしたものかなぁ〜。また今年もケーキが値上りですよ。これじゃ『ケーキを食べる日』も興醒めになってしまいます。クリスマスなんて他に何の意味も無い日ですからね。まあ、クリスマス・ソング(popsですよ)を楽しむ事は出来ますけれども。でも、お酒を飲む理由にはしたくないし、…そうだ、あんみつ・たい焼き・お汁粉・羊かんetc…を食べればいいんだね。寒い冬だもの、日本人なら甘味にお茶。そろそろ正月の準備、には…チョット早いかな?今年もケーキが値上り🎂

  • 切手が値上がる

    ニュースに拠ると来年の秋頃、切手が値上がるとか。土曜日の配達が無くなり、30年振りの切手値上げ。かなりの赤字だそうで、もしも郵政民営化してなかったら、国はどうなっていたのでしょう?税負担が増えるのかな?今はメールの時代。それに関わらず年々筆不精になっていますけれど、若い頃は随分と切手(郵便)にはお世話になっていました。中学生になって間もなく文通を始めたからです。何の気まぐれからか週刊誌(漫画本)の読者のページに『北海道の同じ学年の人、文通しましょう』みたいな事を載せたところから始まり、二十歳の夏過ぎ頃迄(凡そ7年と数ヶ月)やっていました。週に一度は書いていたのかな!?そして高校時代の冬休みには郵便局のアルバイトもしたし、郵便にはお世話になっていました。文通…まさに時代ですね~。当時はそんな方法しか有りませ...切手が値上がる

  • こんな筈ではなかった…のに

    川に鮭がいないよ〜森にドングリが無いよ〜お腹が空いたよ〜そろそろ冬眠したいのにお腹が減って、眠れない。雪が降り積もる前に何とかしたくて村や町へ出掛けると悪者扱いされる。世の中何処も沸騰してたから食べ物が手に入らなくなっちゃった。こんな気候にしたのは誰のせい!?仲間喧嘩してる場合じゃないでしよ。…と、熊さん達が言ってました。こんな筈ではなかった…のに

  • 12月8日という日

    1年が365日しかないのだから、何らかの出来事が同じ日に重複するのは当たり前なのですけれど、昨日の(この日)12/8は印象的です。歴史的には「真珠湾攻撃」と云う愚行の日であり、また1980年はJohnLennonが殺害された日。当然真珠湾の時は生まれてはいまさんでしたけれど、1980年のこの日は和歌山県の加太に居てそのニュースに啞然としたのをはっきりと覚えています。2〜3日はTVでもその事が取り沙汰されていました。私の周りでもその話しでもちきりでした。Johnの遺作となったDoubleFantasyを手にしたのはその後の事。暫くは友達のものを聴いていました。この事件が世界中にどの様な影響をもたらしたのか…は、大凡は見当が付いてはいたものの、判らなかった事も多々有りましたが、その一部をNHKの『アナザー・ヒ...12月8日という日

  • 危険な街になっていく

    昨日も強盗未遂(失敗)が起きた我が町。今年に入って4回目。それも駅を中心に直線距離で凡そ100m以内。まあ、それもその筈で強盗に狙われる店がそこに集中しているからで、ジュエリー•ストリートだなどと称してその手の店を乱立させてしまったから…と云う事が招いた結末。昨日の事件をTVでよくよく観ていたら、犯行場所が直ぐに判り犯人達が逃げた方向は、途中迄我が家の方向だった。その頃私はTVで「ちびまる子ちゃん」〜「サザエさん」を観ていて、何度かサイレンの音は聴いていた。その夜のニュース番組で事のあらましを知った次第。元々サイレンをよく聴く町だけれど、今年は特に耳にした様にも思える。特に例年になくパトカーや巡査達の姿が目に付いていた。本当に住みにくくなってしまったものです。昔からの住人や建物が無くなり、何処からやって来...危険な街になっていく

  • やつぱり 予想通りの大谷クン

    もう、今や何も言う事は無い程、知れ渡っているニュースですよね。MLBの記者30人全員が選んだのですから(史上初)。日本の誇りですよね。心から祝福を。それで、戯び心を生かして季節外れの(夏場に作るべきだった)新作。プリン+コーヒーゼリー+ミルク+アイスクリーム〈これは市販品〉。身震いしながら食べました。やつぱり予想通りの大谷クン

  • ブログ 3.333日目

    別に数字に拘っているわけではないのですけれど、開いてみたら上の方に開設から3,333日目と出ていた。これって一体何年目になるのだろう?まあ、計算すれば答えは出て来るけれど、そこ迄する必要も無いかなとも思い放ったらかしにしておくけれど、2,011年5月以降だとは思います。で、〈3333〉の並びだから何か記念に書いてみようか…と云うネタもなし。その事は忘れてしまい以前録画しておいたDVDを観ていました。と言ってもこれはそれ以前にTVからVTRに録画しておいた物をダビングしたものです。北の国からです。この中でも「遺言(後編)」は泣けますねえ(この写真はTVからジャケット用に自分で撮ったもの)。凡そ20〜40年前に掛けての長期に渡っていて故人となった人もいます。が、この後編の出演者たちは皆さん迫真の演技を見せてく...ブログ3.333日目

  • 冷蔵庫 買い替え

    今月2日の日、何故か急に冷蔵庫が機能停止。その事に気が付いたのは夕方頃、庫内の電気は点いているので通電はしている筈なのに冷えていない。変だなと思い冷凍室を開けると〈大事な〉アイスクリームが溶けている。直ぐに思ったのは〈ガス欠〉だろうなぁ…そしてもうそろそろ《寿命》か…。なにしろ今年で25年目で、母が他界する2年前に買ったものだから27目という事になる。四半世紀も活躍してくれたのだから、仕方ないと言えば仕方ない。…と、我に返って冷蔵庫内の物を取り出して『さあ、どうしたものか』と考えても答えは一つしか無い。しかしその日は忙しく電気屋に行く暇はなかったので翌3日、家から10分程で行けるヨドバシカメラへ行って物色開始。店員が寄って来た時にはほぼ決まっていた。「コレ在庫は有りますか?」と尋くと、直ぐに確認してくれて...冷蔵庫買い替え

  • 愚かな篭城(立て籠もり)

    隣の県で13時00頃から3件の事件が勃発、同一犯と見なされている。挙句の果ては3件目の郵便局に立て篭もり、御用…となった。時に20時10分頃。このニュース、皆さんご存知ですよね。この手の事件で私がいつも不思議に思うのは、どうして立て籠もってしまうのか…!?、という事。長〜い歴史を振り返ってみても、篭城して成功した例を私は知りません。戦国の世でも必ず堕ちています。最も愚かな立て籠もりはオーム事件の上九一色村でしよう。いくら人質を捕っていても、チリの大使館事件然り、最後は墜ちてしまう。それはそうでしよう、撃って出ない限り行き場が無いのですから。そんな結末が判り切っている事を、どうしてするのか?腑に落ちませんね。逃げ通す事を考えず、犯人は何を考えているのか?言葉が悪いのを承知で言えば【馬鹿丸出し】ですよね。こう...愚かな篭城(立て籠もり)

  • ハロウィンって、な〜に?

    またこの馬鹿騒ぎの日がやって来た。そもそもハロウィンって何なの?渋谷区長が頭を抱えて困惑している。解るなぁ、その気持ち。みんなストレスが溜まっているのか欲求不満なのか、同調現象の恐怖の賜物なのか、自制心を失くした現象。みんな、何を求めているのだろうか?近付く事さえ怖くなる。ハロウィンって、な〜に?

  • 「違憲」に異議あり

    生物学を無視した違憲判決。そもそも動物である限り染色体なるものが存在し、ヒトの場合、1つの細胞に46本有り、44本は常染色体、22本は男女の性別を決定付ける性染色体の計46本。その2本の性染色体は男女では決定的に違っている。性染色体はX染色体とY染色体の2種類有り、女性の場合はX染色体が2本、男性の場合はX染色体とY染色体が1本づつで構成されている。この様に男女では絶対的な違いが有る。人間の全ての正常な細胞には23対(計46本)の染色体が入っている。これは凡そ20億年前からも、それ以前の〈サル〉の時代からも変らず、他の動物にも共通した自然の摂理となっている。これは中学校、或いは高校で習っている筈の事。頭の悪い私でさえこれだけは覚えていました。もっとも〈常染色体〉はうる覚えですが。この絶対条件で考えるならば...「違憲」に異議あり

  • ラッキー!!

    これは昨日の事です。多分一ヶ月程前に届いていたコロナ•ワクチン接種券。2類から5類に変った事も有り、最近はあまり話題にも上っていないので、ワクチン接種をする人も減っていると勝手に思い、いつでも予約できると思い込み放っておいたのでした。で、そろそろ接種しようかなと言う気持ちにかられコロナワクチンコールセンターなるところへ電話をしたところ【12月下旬頃迄予約は一杯です】と云う返事。【かかりつけ医に当たってみては…】と言われてしまった。思いの外、ワクチン接種を希望している人の多さに気付かされてしまったと云う有り様。それではかかりつけ医を…と思ったけれど、それがなかなか思いつかない。それはそうです。普段医者になんかかかっていないのだから。《どうしよう》と思いながら引き出しの中をあさっていたら、有ったのです、診察券...ラッキー!!

  • 子供と大人

    もしも台詞を入れ替えたら……「ああ〜、風呂上がりには冷えたビールが美味しいだろうね〜」「肴みはイカの塩辛か冷や奴」「そっ、そんなものよりアイスクリームとか、こってりとしたおはぎとか饅頭なんてのは、どうだい」……所詮、大人、子供の成れの果て……異いって、何なのだろうか?ハッキリ答えてくれる大人がいなくなってしまった様な気がする、そんな今日この頃!?子供と大人

  • スマートフォンでは難しい

    04:25なんの気無しに空を見上げたら、こんな時間になって目の前に月が。そう言えば世間ではその話題で持ち切りだったのを思い出し、暫く見入っていた。雲の反射のせいも有るのかな!?肉眼でもいつもの月にしか見えなかった。それをスマートフォンで撮ったら尚酷かった。まあ、こんなものかと思えばそれまで。1日前の朝方は大して変らなかった。下町からではこの程度。それでも見られるだけで良しとしましよう。大事なのは空を見上げる心のゆとりを持ち続けたいって事ですから(負け惜しみみたい)。スマートフォンでは難しい

  • 現実を素直に受け入れる

    現実を素直に受け入れる

  • (‘77) 8月8日 (日) #2 お別れの時

    何処へ行き、何をするわけでもない。『忙中閑有り』をのんびりと過ごす様な時の流れ、気温は上がり風は動かない。日溜まりの中、静かなうちに汗まみれ。街の中、何処からか聞こえてくるのはイーグルス「ホテル・カリフォルニア」。夏の日の一日、私は名古屋の洋子と東京の下町で時を過ごした。午後の喫茶店。「これからどうするの?」「そうね、四時頃の新幹線に乗るわ」「いや、そうじゃなくて、その先の事。また何処かへ行くのかって事」「そりゃ、行きたい所は有るわよ」「北海道でしょう?」「なによ、判ってるんじゃない」「洋子の事だから多分そんな事じゃないかな…って思っただけ。当たっちゃったね。で、いつ頃行くの?」「分かんないなぁ。秋頃がいいんだけど、ジュンだってまた旅に出るんでしょ?」「うん、でもねえ、いろいろと忙しいし、気持ちばかりが先...(‘77)8月8日(日)#2お別れの時

  • (‘77) 8月8日 (日) #1 変り行く町を歩きながら

    案ずるより産むが易し…とは言うものの、まさにその通りではあったのだけれど、エレベーターを降りてから外に出る迄の僅か10mがビクビクものであった。しかしそこには不思議にも、楽しさにも似たスリルがあった。呆れてしまったのは洋子である。エレベーターからフロントへ、そして様子を伺い、下に垂らした腕の手首を腰の辺りで振って『今よ』と合図を送りながらも、素知らぬ顔をしているのだから…。「ねっ、大丈夫だったでしょ」「うん、本当にネ。それにしても良くやるよねぇ、アナタも」「そうは言うけどさァ、昨日は楽しんだんだから、その分少しぐらいドキドキしたっていいんじゃない?」「バカな事言わないで。アナタの心臓には毛が映えてるんじゃないの?」「何よォ、失礼ねェ」「いつもこんな事してるの?」「冗談でしょ、初めてよ」「本当かなァ、まっ、...(‘77)8月8日(日)#1変り行く町を歩きながら

  • (’77) 8月7日 (土) 鈴木洋子 上京

    ’77年の日記らしい日記といえば、この辺りが最期と言える。‘76年(去年)の5月7日〜6月2日、八重山紀行を共にした名古屋の洋子が一泊二日で私の街にやって来て、束の間、思い出を温めていったところ迄となる。この頃の私は凡そ一月前の七月九日に沖縄から戻って以来かなり多忙な日々を送っていた。たまたま家に居たところへ突然洋子からの電話。『会いに行くけど、いつなら居るの?』という話しの末にこの日(8月7日)が決まったと云うわけだ。‘77.8月7日(土)洋子•上京不快指数の高い日々が続いている。既に沖縄での過ごした後だけに、この蒸し暑さには閉口してしまう。これが内地の夏だったのか!?そんな中でラジオに耳を傾けると、一瞬なりとも私の心を和ませてくれる曲がかかる。イーグルス「ホテル•カルフォルニア」。現在流行りつつある様...(’77)8月7日(土)鈴木洋子上京

  • 今年もやっぱり暑中見舞いを…

    なんか、台風🌀6号が沖縄辺りに居座って、長々と挨拶をしていますね。昔風に言うなら『尻の長い客だねぇ』とでも云った所なのかな。それというのも、この暑さのせい。WTOの偉いオジサンが言ってましたね。『温暖化の時代は終った。もはや沸騰化の時代だ』って。そこで私の暑中見舞いはこうなりました。沸騰横丁より暑中お見舞い申し上げます溶け出した脳みそで作った味噌汁は暑さ対策に効果満点!!《暑い》って言葉それ自体もはや意味を持たなくなっているから、これを常…としていく世紀になったと思うしかないと、思い始めているところです。全英ゴルフもウインブルドン・テニスも、世界水泳も終り、女子サッカーWCが日を開けて開催中。間もなく高校野球(甲子園)が始まり、その終り頃、やっと世界陸上競技選手権で夏が終る…筈だけど…。サマー•マッキント...今年もやっぱり暑中見舞いを…

  • 今年は花火が見られる

    恐らくは今年も無理かな…と思っていたけれど、2類⇒5類の影響か開催する事に。明日の夜は隅田川沿いに酔っ払いが溢れ返る事になるのでしよう。イヤだなぁ。距離的には苦も無く行けるのですが、帰りの混雑を抜ける事を考えると、徐々にその気が薄れていきます。そう言えば実際に現場で見たのは何回ぐらいかなぁ?コロナ前迄は侵入禁止の屋上で見ていたけれど、年々高いビルが建ち初め、絶好のポイントとは言えなくなってしまいました。花火の光りと音に若干の誤差が有ったけれど、《生》を見ている実感は有りました。それに風向きに依っては花火の火薬の臭いが臨場感を煽りました。ハッキリクッキリ観るならTVに優るものは無いけれど、余計な話しとコマーシャルで興醒めするし、悩ましいところです。花見にしろ花火にしろ、どうしてアルコール飲料と結び付けてしま...今年は花火が見られる

  • 「海を見つめて」‘77.5.22. (on G)

    西表島から石垣島に戻った日の民宿美崎荘で、明美に貰ったレポート用紙に書いたもの。海を見つめて初めての船の旅揺れる波間体を踊らせ南へ下る歓び満ちたキミは心を隠せない船酔いも何のそのしぶきを浴びて濡れた黒髪明るい笑顔焼けゆく肌を誰が昨日見ただろう :北でも南でも村でも部落でも心奪われる所は在るものさそれでも今日のキミは信じられない程別の人紅く燃えた様なハイビスカスが良く似合う人海見つめ何思う街の息吹き何処かに消えてくまだまだ続く早い夏の日故郷遠く夢の国: 故郷遠く夢の国故郷遠く夢の国「海を見つめて」‘77.5.22.(onG)

  • 「潮風の悪戯」‘77.5.19. (on F)

    西表島へ渡る船の時間待ちをしていた喫茶アルバトロスで、ウトウトしていた明美を見ていた時のもの。潮風の悪戯南の国の潮風が降り注ぐ光りを浴びる黒髪の中爽やかな詩(うた)をささやき吹き抜けて行く悪戯好きな潮風さ海からは逸れてく私の見つめるものは次第にキミの笑顔へと移って行よああ、離島を通うこの船が運ぶものは人と荷物だけなのだろうか心模様に染み渡る潮風は悪戯が好き何度も足を運び来て数しれぬ思い出胸に秘めてきたのに今度ばかりは特別な何かが異うさああ、二人を乗せてこの船の行き着くところは未だ見ない世界の果てのよう心模様に染み渡る潮風は悪戯が好き潮風は悪戯が好き潮風は悪戯が好き「潮風の悪戯」‘77.5.19.(onF)

  • 「花の館」’77.5.18. (on G)

    泉屋の庭を見て明美の口から漏れた言葉「花の館ね」の一言から生まれたもの。現在の泉屋の庭とはその趣きが違っている。花の館見知らぬ故郷(くに)から今宵集い来たる旅人よ心の疲れを癒してお行き飾りの要らない時の流れに任せ花の館で心が語る意のままに叶わぬ望みと言わず今日も自由を求めては旅路のホコリをかぶる人達一夜の宴を共に楽しみ過ごそう花の館で心を洗い憩もう歴史の重みに耐えかねながらこの島で生涯を生き抜く人達言葉以上の言葉でボク等の胸に叫んでいるさ星砂そしてミンサー石垣と白い道耳を澄まそうささやき声に花の館に来たからは明日の光りが闇の中に消えている時も心にゆとりを持とうじゃないか自由になる時多くの自分を見るさ花の館で見つめ直すものもある「花の館」’77.5.18.(onG)

  • (‘77) 7月9日 (土) 帰路

    5月7日以来、物事は起こりうる時に起こるものである…と納得してしまう事も有った。九時三十分。五分遅れのバスに乗って平野を後にしてバスターミナルの在る美崎町へと向った。美崎町、私はバスから降りると写真屋に走り、頼んでおいた写真を受け取ると、店の前からTAXIで空港へと向った。何をそんなに急いでいたのだろうか…?十一時十五分。日射病に冒され復調せぬまま今帰路に着く私。最初から最後迄予定外の(果たして何が予定であったのだろう)事ばかりで終始してしまったけれど、それなりの収穫も大きかった。僅か64日間で、なかなか体験出来ない貴重な体験を十二分に味わった。良くも悪くも、それらはこれからの私にとって、いつの日か貴重な意味を以って価値体系化され、影響を及ぼしてくる事だろう。空港売店。泡盛(どなん45度)三本と魔除けのヘ...(‘77)7月9日(土)帰路

  • (‘77) 7月3日 (日) 竹富島を後にして

    午前十時三十分。ショーコ、小浜さんと共に石垣へ向け出航。私の泉屋での仕事も終ったと云うところで、私もここを離れる事にした。石垣グランド・ホテルで冷珈琲を飲み、三人で今度の八重山の愉快談をしたりして名残りの時を過ごした。石垣空港。多くの旅仲間をここから見送った。そして今日も、また。いくら慣れた頃と言っても、やはり人を送り出すのは…別れ、見送るのは辛い。小さなローカル便の飛行場。その空港で、搭乗口に入る時。ショーコは私の許へ小走りに来て一言云った。「ジュン、東京へ戻ったら連絡してね、お願い、きっとよ…」私はその言葉を胸に屋上の見送りデッキから手を振り、乗り込むショーコ、飛び立つショーコを見送った。私の今度の八重山紀行。これ迄に何度か『ここで終ったかな…』と思いつつも未だ先が有った。旅としての完全な終りは、やは...(‘77)7月3日(日)竹富島を後にして

  • (‘77) 7月2日(土)#2 コンドイ浜の夕陽

    夕食を私とショーコは早めに食べて、コンドイ浜へ急いだ。言うまでもない。夕陽を見る為だ。前に西桟橋からの夕陽は見た。それで今日はコンドイ浜に腰を下ろして…と云う事になったのだ。爽やかだった。夕陽が落ちるのを見ながら、取り留めもない話をしていた。今にも陽がその姿をすっかり隠そうとしている頃、すぐそこ迄来ている夜の世界を知らせる様に、涼風が吹き始めていた。「…そっか〜、二人共明日帰っちゃうんだ」「ねェ、ジュンはいつ帰るの?」「そうね〜、いくら粘っても、あと一週間がいいとこかなぁ。仕事が待っているし、元々ブランクを利用しての八重山渡島だったしね。帰れば帰ったで、其の為の準備期間も要るから…何処から何処迄が仕事なのか、判らなくなる事もたまにはあって、だから、オフになったら静かに家でおとなしくしてなんか居られなくなっ...(‘77)7月2日(土)#2コンドイ浜の夕陽

  • (‘77) 7月2日 (土) #1 大潮

    午前中、ボケ~っとしながら煙草を吸っていたところへ高知のオバヤンがやって来て、これから帰宅の途に付くと云う事を聞かされた。私はここの主ではないのに、わざわざ声掛けしてくれた。この竹富を楽しめたのかな…、満足そうな顔をしていた。見送りに桟橋迄行こうかと思ったけれど、外に出た途端、何を思ったのか握手をして、泉屋を離れていくマイクロバスの後から手を振って見送った。ところで、今日は大潮であった。ここ竹富の大潮は驚異だ。距離(実測値)などは勿論解らないし、また私には推測出来ない程の広大な干潟が、目の前に広がるばかりなのだ。外(海上)から見ると竹富島は黒島と似ている。高い山は無いし、目立った起伏も無い。音楽の二分休符の様に見える。他の言葉で言えば、お盆を逆さに置いた様なもの。海面下は珊瑚が彩る遠浅が続き、リーフの外は...(‘77)7月2日(土)#1大潮

  • (‘77) 7月1日 (金) お酒、飲みに行かない?

    午前九時。28日(火)に他の島を観に出掛けていたショーコ達が帰って来るというので桟橋へ迎えに行く。仕事の方は大方出来上がっていて、後は電気の配線などといった専門家の仕事ばかりで、お役御免になった私は再び『旅人』になっていたのである。凡そ二週間程度の事だったけれど、色んな事に関われて、それなりの経験を楽しめた。また今日もオヤジさんが船を出すと言うので、帰って来たばかりのショーコを連れ立って一緒に潜りに行った。みんなが物珍しい珊瑚に夢中になっている間に、私は海底の貝を探していた。そしてお目当てのクモ貝を採る事が出来た。これは今日一番の狙いであった。狙い通りに採った私もであるが、それを受け取ったショーコの歓び様は、逆に、見ている私をも嬉しがらせた。オヤジさんはオヤジさんでショーコの方を見ながら、オヤジさん独特の...(‘77)7月1日(金)お酒、飲みに行かない?

  • (‘77) 6月27日 (月) #2 清美は特異体質(?)

    そして洋上。船の上からオヤジさんと共に彼女達を監視したり、海に入ったりを繰り返した。ショーコ達二人はまずまずであったけれど、どうにもいただけないのが大阪三人娘。その中でも取り分け言葉にならないのが清美であった。本人は潜る気が十分有るのであろうが、どうした理由か少しも潜らないのである。よく世間では躰が浮かずに緊張した躰で潜ったまま、または呼吸するタイミングのバランスが崩れ溺れる者はいるけれど、先ずその点で清美は絶対に大丈夫であろう。オヤジさんの船が西の桟橋に戻ってから、その付近とコンドイ浜とで無理矢理特訓を始めた。先ず深さが胸ぐらいの処で、水面にうつ伏せになった身体の背中を腕で押し下げ、適当なカウントをとって手を離す。普通なら少しの間でも私の膝の辺りにいるものであるが、清美の場合、まるでピンポン玉の様に直ぐ...(‘77)6月27日(月)#2清美は特異体質(?)

  • (‘77) 6月27日 (月) #1 お客さんを迎えに…

    朝食後、今日は久し振りの部屋増築工事の仕事《スラブ打ちをした後、コンクリートが乾く迄仕事が出来なかった為》の日だ…と元気一杯、用意をしていたところにオヤジさんの一言。「ジュン、アンタ桟橋へ行って、お客さんが二人着くから連れて来てくれんか…」言われた時、すぐに返事の出来なかった私であった。と言うのも名前を知らされただけで一面識も無い人物を迎えに行く事に、何故か抵抗を感じたからである。その抵抗が起きたと言うのは、下船してくる客数が最近では一便毎に増えていて、一体どうやって探し出せば良いものか考えてしまった事に有った。しかしまあ、他ならぬオヤジさんの頼みとあっては断るわけにはいかないので承諾した。それにそう云う事も一応仕事なのであった。私が桟橋へ着いたのは、丁度ほぼ全員が下船した頃であった。『良かった、間に合っ...(‘77)6月27日(月)#1お客さんを迎えに…

  • (’77)6月15日(水) 汗と夕涼み

    朝一番の東廻りのバスで終点、バスターミナルの在る美崎町へ向った。降りてから波止場迄二分弱。私は直ぐに竹富丸の乗船券を買い、朝の潮風を楽しみながら一服の煙草を味わった。間のいい事に然程待つ事もなく、船は竹富へ向け出発した。竹富島、何度訪れても私を童心に帰らせる。桟橋に降り立つやいなや、いつでも私は歓喜の声を張り上げそうになってしまうのである。意気揚々と歩き始めた。いつもの歩き慣れた道を。泉屋に着くといつもの事ながら、私を待っていたのはオバチャンの微笑みと冷たい珈琲であった。煙草を吸って冷珈琲で喉を潤しているとオヤジさんがやって来て私を呼び寄せた用向きを話してくれた。それはこの泉屋の増築工事だった。と言っても私が工事をする訳では無い。そりゃそうだ。実際に工事をするのはオヤジさんの親戚筋に当たる人で、私は単なる...(’77)6月15日(水)汗と夕涼み

  • (‘77)6月14日(火) オヤジさんからの呼び出し

    6/10Y.H.春海荘6/11Y.H.真栄田岬6/12Y.H.春海荘6/13「玉龍」船中真栄田岬Y.H.は海洋博会場の近くで近くにはムーンビーチなるものが在るけれど、何とそこは有料の海水浴場と云う金儲けに走った所であった。当然そんな所には行くわけがない。この本島に戻って来たのは内地に(とりわけ)日田・大分に渡ろうかな…と云う思いもあった。しかし、何かが私を引き留めた。それが何か解らずじまいのまま、私はまたまた「玉龍」に乗り込み引き帰してしまった。何が私を呼び寄せているのかなど判らない。優柔不断という言葉では最早説明不可能。6月14日(火)午前六時二十分、「玉龍」平良港着。午後一時十五分、石垣港着。そのまま真っ直ぐバスターミナルへ行き、いくらか待った後東廻りの平野線に乗った。美崎町から平野迄のこの東廻りの道...(‘77)6月14日(火)オヤジさんからの呼び出し

  • (‘77) 6月9日(木) 「ハイビスカスの歌」タンゴ

    5/31美崎荘(石垣島)6/1〜6/2きよみ荘(西表島)6/3大和田荘(石垣島)6/4〜6/8平野荘(石垣島)ここ迄過ごして来てやっと、そろそろ帰ろうかな…などと思い始めた。あと30間程自由に出来る期間は残ってはいるものの、精神的には十分に満足感に溢れていた。でも、まだ勿体ない…という気持ちも当然残っていた。午前十時三十分、「玉龍」石垣港出航。私が乗船しているこの「玉龍」には、昨日アルバトロスで知り合った染谷という北海道の女の娘が同船していた。二人が話しをしていたのはここ沖縄の事ではなく、彼女の故郷、北海道に付いてであった。妙な気がした。日本の一方の端に居ながら、更に逆の一端の話しをしていると云う事が、何か不自然さを感じながら、目に見えない縺れた空間を認識させた。午後三時三十分。「玉龍」平良港(宮古島)接...(‘77)6月9日(木)「ハイビスカスの歌」タンゴ

  • (‘77) 5月25日 (水) 安息の日 ギンネムの種

    昨日は午前中、オヤジさんの船で潜りに出た。監視役がその名目であった為、私自身楽しんで潜るという事は無かった。午後は再度船の上から釣りと云う真に長閑な一日を過ごした。そして今日も昼頃から船で潜りに出た。一昨日迄の事が、実は初めから何も起こってはいなかったかの様に竹富の風は凪ぎ、太陽は生命の光りを注ぎ、蒼空は何処迄も広がり、凡そ時の流れを感じさせない静寂を映し出していた。一体、私はどうしてしまったというのであろうか?恰も二年前の、初めて見る竹富の海に魅せられてしまった時の、あの何とも言えない気分が甦ってきた様な気持ちになっていた。全ての事が無かったかの様に八重山の自然の中に吸収され、そして自ら溶け込んで行く。午後三時頃、私は一人でギンネムの種を採りに出掛けた。名前も知らない小さな虫に纏わり付かれながらも、しか...(‘77)5月25日(水)安息の日ギンネムの種

  • (‘77) 5月23日 (月) #2 明美が去って、泉屋

    明美を見送った後、もはや誰も居なくなった桟橋を背に、私もその場を離れ泉屋へ戻った。道すがら、「やっぱり一緒に帰るべきだったかなぁ…」と、ぽつりひとり言。そしてまた、「まあ、いいサ、まだ時間はたっぷりと残ってる。帰り道は一つサ。ちょっとばかり遠回りをするだけサ…」と、ぽつり。さて泉屋に戻ると、北海道から来ていた女の娘二人に島を案内せよ、と言うオヤジさんの言葉が私を待ち構えていた。「ジュン、アンタ何処で油売っとったネ。さっきからずっと待っとったのに。この二人はさっきついたばかりて何も判らんから、案内してきなさい」こんな時になんで…一人で居たかったのに…と思ったけれど、オヤジさんの頼みとあっては断れず、大阪の坊やを上手い事言いくるめて連れ出し、四人で島歩きを始めた。坊やを連れ出したのは私の個人的な問題で、少しで...(‘77)5月23日(月)#2明美が去って、泉屋

  • (‘77) 5月23日(月) #1 「これ…ネ!」

    とうとう明美にとって八重山最後の朝はその眩しき太陽のもとに巡り来てしまった。今夜の船で明美は那覇に、そして九州・日田へ…。この明美の旅の終りが、明美に、そして私にもたらすものは何であろうか?午前九時三十分の竹富丸で泉屋へ荷物を取りに戻った。泉屋は静かなもので、客の数が少ないのだと云う事が時間からしてもすぐに判った。オバチャンに言って、明美は荷物を取りまとめた。用意が終ると竹富島最後の島内散策に出掛ける事にした。コンドイ浜から渚を南下して東側へ廻り中筋部落の方を通って歩いていた。「今日は間違わないでしようね?今日間違えて時間に遅れたら、大変な事になるんだから…」「フフフ、また間違えたりして」「イヤよ、…そんなの」「安心して。今日は平気、大丈夫だから」「…なら、いいけど…」何とも頼り無さそうな瞳で私を見つめて...(‘77)5月23日(月)#1「これ…ネ!」

  • (‘77)5月22日(日) #2 ハイビスカスの歌

    船上は和やかな雰囲気に包まれていて来た時とは異い、乗船客の数も僅かながら多かった。リーフを抜け出るのに多少手間取っていた様であった。潮の干満の影響だろうか?東へ回り込む船の右手に西表。名残りは何処から来るものか?気が付くと船上、中央通路の右側のベンチで合唱をしている人達がいた。中年過ぎの太り気味のオジサマが中心に唄を歌っている。まるでみんなに教えているかの様に。或る者は歌詞カードを見ながら…。その優しいメロディーに明美と二人、聴き惚れていた。本当にいい声で歌の上手いオジサマであった。みんなの声の中にあって、一際響き抜けるのだ。私も明美も顔を見合わせ小声で参加してみたが、どうにも堪らず近くにいたオニイサンに一言、「この歌は何ていう歌なの、教えてくれますか?」と言ってしまった程であった。その曲の名は『ハイビス...(‘77)5月22日(日)#2ハイビスカスの歌

  • (‘77) 5月22日(日) #1 船浦港から出航

    西表三泊四日の旅行も今日の船待ち時間迄。明美のみならず、この私にも生まれて初めての事が多々訪れた。二人が何を見詰めていたのかなどと云う疑問は、それこそ愚問にも似たものだ。朝食後、二人は互いにカメラを持って、民宿から一番近いのに未だ足を踏み入れていない宇那利崎の浜に降りてみた。この西表での最後の想い出となる日、これ迄の一週間のうちで最も明るい笑顔を見せていた。瞬く間に時は過ぎてしまった様だ。民宿に戻ると、『第3住吉丸』の出航時間が気になりだした。やっと船の確かな時間が判った時にはまだ幾分なりとも時間が有ったのにも拘わらず、慌てて荷造りをした。それ程の量ではないのに。昨夜の雨のおかげで、せつかく干しておいた星砂が殆ど洗い流されて、新聞紙の上には僅かに残っている程度であった。ガッカリして溜め息をしている二人を見...(‘77)5月22日(日)#1船浦港から出航

  • (‘77) 5月21日 (土) #2「潮風の悪戯」

    民宿に戻ると隣りの部屋の新婚さんは既に立ち去った後だった。私達が昼食をとっている間にオバチャンはお出掛け。竹富町婦人会の集まり(バレーボール大会)らしい。何たる事か!私達二人を置いて誰も居なくなってしまった。こんな事は沖縄の離島だからこその事。他所では絶対に起こり得ない筈だとおもう。最も大切な、原初的な人間関係が、この時代にここには存在している。日常の事として。なんて素晴らしいのだろう!食べ終った食器を台所持って行き洗った後、〈だらしない〉と云う言葉が物の見事に当てはまる程の台所を掃除し始めた。恐らくバレーボール大会に行く時間が迫っていて、それどころではなかったのだとは思う。その間に明美は部屋掃除。そして庭を片付け、明美が取り込んで来た洗濯物を畳むのを手伝った。誰も居ない民宿で気の付いた事をする…別にこれ...(‘77)5月21日(土)#2「潮風の悪戯」

  • (‘77) 5月21日 (土) 月ヶ浜・お腹が痛いの

    朝食後のひととき、先ずはムーンビーチ(月ヶ浜)に行ってみる事にした。一度バスの通る道に出て坂を下り、小さな石の橋を渡ってすぐに右の林の中へ続く道を歩いていると、天然記念物の山鳩(?)を見た。この西表という島はさすが山が多く、「ジャングル」という言葉に代表される様な、言わば「男の島」と呼ばれるだけに、海岸線から逆に林を抜けると、それは山に来たという感じのする島である。もう見なれてきたこの熱帯雨林の林の向こうでは、二人が訪れるのを待ち構えていたかの様に、その素晴らしい光景を二人の目に映してくれた。林から海を見て右側には近くに岩場が有るが、左側を見ると誰一人居ない渚が、この湾になっているその反対側迄ずっと続いている。生暖かい海水を膝まで浸かりながら歩いた。そして渚を歩いていると、ふっと何かが光った様に見えた波打...(‘77)5月21日(土)月ヶ浜・お腹が痛いの

  • (‘77) 5月20日 (金) #3 星砂の浜

    案内された部屋は玄関正面の廊下の右側で二部屋あるうちの奥の方だった。台所のテーブルで一服しながらオバチャンの話しを聞いて、星の砂が拾えると云う星砂の浜へ早速行ってみることにした。左右にパイン畑が広がるのを見ながら、長閑な光景の中に爽やかな汗を拭いつつ歩いた。初めはそんな気持ちでいられた。ところが途中、左に曲がるべく道を見失い、『うなりの塔』の方迄ずっと歩いてしまった。「どうも様子がおかしいね」「行き過ぎたのかしら」「左側に道なんて無かったものね」それで、うなりの塔に登って辺りを見廻してみた。が、何しろ右も左も解らない土地の事、塔の上から一体何を見ようとしたのだろうか?結局は同じ道を引き返し、トボトボと歩いていた。戻り始めてから間も無く、何と泉屋で一緒だった二人の女の娘達と出会った。そこで星砂の浜への道を尋...(‘77)5月20日(金)#3星砂の浜

  • (‘77) 5月20日 (金) #2 ジャングルの雨 ?!

    バスが停車したのは浦内川に架かる浦内橋の袂。その橋の袂を左に、この先何が有るのかと思わせる様な道を僅かに下って行くと、間に合せに造った様な茅葺きの小屋が一軒建っていた。台風でも来たならば真っ先に吹っ飛びそうなお粗末なもので(でも、一見お粗末そうに見える事が、この自然に同化していると云う…大切な事なのだ)、そこが船の待合所であった。中にはオジイさんとオバアさんが数人居て料金係りの様な事をしていた。その小屋の近くに自然水が湧き出ている水飲み場が一箇所有って、地元の人の話によると、その水を飲めば健康な子になるとか、長生きするとか…その様な事を言っていた。早速物好きにも試しに飲んでみた。ノドが渇いていたせいもあってか美味しく感じられた。まだまだ時間は有った。生まれて始めて見る、その異様なムードを感じさせる植物群の...(‘77)5月20日(金)#2ジャングルの雨?!

  • (‘77) 5月20日 (金) #1 いよいよ舟浦へ

    未だ起きやらぬ思い瞼を擦りながら身体をもたげ、寝起きの一服をと煙草に手が無意識に伸びた時、私の頭の中には未だ耳にした事の無い様な爽やかなメロディーが流れていた。直感と云うのは一つの暗示であると思っている。暗示はやがて詞になり詞は旋律を求める。つまり或る直感は歌を作らせ、それが現実の中では歴史を物語る伝説となってゆくのだ。幾分なりとも空模様が気になる様な朝、今日は西表二日目。吊る時と同じで畳み方の判らぬ青蚊帳の始末を、明美に頼りながらの作業。昨夜と同じ味気無い食堂で朝食をとった。午前九時三十分頃であっただろうか、私達は移動開始の為民宿「さわ風」を出てバス停に向った。出掛けの際にオバチャンが二人に、缶入りの冷たい飲み物を白いビニール袋に入れて持たせてくれた。民宿から歩いてほんの僅かな所にバス停は在った。ひと気...(‘77)5月20日(金)#1いよいよ舟浦へ

  • (‘77) 5月19日 (木) #3 西表西部

    船乗りの一人が何やら話し掛けてくる。出身地・波照間の言葉を混じえて喋っているけれど、聞いている二人には別にこれと言って苦にもならず、色々な海に関した物珍しい話しに心を奪われていた。西表での民宿などについて良さそうな処はないかと尋いたところ、「さわ風」という彼の懇意にしている一軒の民宿を紹介してくれた。約二時間の航海の後、何か…が待ち受け、始まると予感して止まない西表は第一日目の大原に到着。時に午後五時三十分であった。道幅は離島にしてはやや広めで、舗装された桟橋からの坂道をほんの僅か登り、右に曲がって約七~八分程でブロック造りの民宿「さわ風」が目に入ってきた。竹富や去年の波照間・与那国に代表される様に、南の島と云う意識が強く働いている為か、ブロック造りの二階建てなどと云う民宿が何となく気に掛かり、それらしい...(‘77)5月19日(木)#3西表西部

  • (‘77)5月19日 (木) #2 波止場の船は日向ぼっこ

    幸せそうな夢の世界からお伽噺しの様な現の世界に目覚めたばかりの明美の顔は、無邪気な幼子のそれに似てとても可愛らしい。「お早う。お目覚め?フフフ…気持ち良さそうに寝ていたね」「ウンン…今何時頃?」「三時ちょっと過ぎ。十五分頃になったら、そろそろでようか」「そうね。もうここにだいぶ居るしね」「見て見て。海の色がさっきと全然違っている」「わぁ…本当ネ、ステキ。どの船に乗るんだったかしら」「アレ、あそこに泊まって日向ぼっこしている、中くらいの船」明美と共に眠りの世界から目を覚まし、今まさに出航せんとばかりにその『時』を待っている「大原丸」の姿がそこにあった。「ご馳走様。長々と居座っちゃってスミマセンね」などと言いながらアルバトロスを後に、瀬戸商店の前迄歩いて来た。シーズン前の早い夏の日の為なのか、他にはこれといっ...(‘77)5月19日(木)#2波止場の船は日向ぼっこ

  • (’77)5月19日(木) #1 フィービー・アルバトロス

    *フィービー・アルバトロスとは、アルバトロスと云う喫茶店で聴いたフィービー・スノウという歌手の名を勝手に組み合わせたもの。何かが待っている…こう思うのは、もはや予感と呼ぶには程遠いものにさえ感じられる。もしもそれ以上のものが在り得るのだとすれば、未だ見ぬ自然界に在っての、全く予期せぬ心的動向だろう…。昔々、高校一年も終ろうとする二月の初め、或る友達の家で書き上げた「メリー・ゴーラウンド」と云う歌が、これから先の日々を恰も暗示しているかの様にこの頭の中に甦り、汚れを知らぬ純粋素朴な子供心のそれらしく胸を弾ませている。傍目のみならず自分でもしっかりと確認出来る程に。「しばらく西表に行ってくるね」と、泉屋のみんなに言い残し、午前十時の竹富丸はいつもの時間通りに十分程で石垣の波止場に着いた。毎度の事ながら瀬戸商店...(’77)5月19日(木)#1フィービー・アルバトロス

  • (‘77) 5月18日(水) #2 明日を待つ宴会

    午後二時二十分を少し回った頃、私達がその桟橋に着いた時には未だ竹富丸は付いていなかった。桟橋の裾に在る小さな小屋の中で一服しながら、僅か6〜7km向いの石垣島からやって来る船影を捜している光景は、それこそ潮風と南海の詩といったところだろう。グラスボートに誘った先生を恨めしく思ったりもした。それは、そこにはきっと明美の相棒(友達)の心の中のものと共通する『何か』が在り得たに違いない。青空を見上げては滴り落ちる汗を拭っていると、ひときわ大きく辺りの人達の声が響いた。『肥りすぎのアザラシ』がやっと到着したのだ。チヨツピリ寂しさを感じたけれど、これも明美の為だと云う事で明るい微笑みを返し、「じゃ、明日の朝ね。九時の船に乗るね」と言った後、「グラスボート楽しんでね」一言そう付け加えて手を振り見送った。小さな窓の中か...(‘77)5月18日(水)#2明日を待つ宴会

  • (‘77) 5月18日 (水 ) #1 花の館

    優しく暖かい朝陽に抱かれながら自然に、ごく自然に目が覚めた。それはまるで何百万年もの長い長い眠りから来たるべき時を待って目覚める、神話の中に登場する聖なる神の様に、ああ、何とも表現できない一日が今ここに始まろうとしている。おもむろに、横たえた身体から伸びる手は灰皿を近付け、煙草とマッチを掴んでいた。ゆっくりと立ち上がる煙りを眺める心の内には仄々としたものを感じていた。「お早う。よく眠れた?」既に明美は起きて窓辺に立ち、何処迄も蒼く澄み渡った小さな南の島の平和な朝の光景を楽しんでいた。「お早う」「早いね、起きるの。今、何時頃?」「サァ、判らないけど、八時過ぎじゃない」「ふうん…、いい天気ね。竹富には何時頃渡ろうかぁ?」「船は何時頃なの?」「石垣からは早いのが八時四十分と九時三十分だった筈だけど」「なるべく早...(‘77)5月18日(水)#1花の館

  • (‘77) 5月17日 (火) #7 遊び疲れた日の夜

    六時三十分を少し回った頃だっただろうか、私達は外に出て夜の市内見物を洒落こもうと云う事で、外に出た。市場通りを抜けたり、そろそろ賑わい始めている美崎町を歩き、去年の暮れに初めて目にした、まだ新しいブルーシールの店に入りアイスクリームを食べた。これは明美からの提案でもあり要求でもあった。二人共バニラとチョコの二色のものを注文した。いや、三色だったかな?そんな事はともかくどうでもいい事だった。ここでの新しい明美の発見の方が余程私には意義がある。それはつまり、明美が音楽に対して深い興味を持っていた、と云う事だ。聞き手がそれらしい反応を示せば、語り掛ける方はノリにノルものだ。あっという間に、しかし実は長い時間なのだけれど、私はアメリカ音楽二百年の歴史を参考に、ブルース音楽とカントリー音楽の大まかな歴史を滔々と述べ...(‘77)5月17日(火)#7遊び疲れた日の夜

  • (’77) 5月17日 (火) #6 波止場では

    「大丈夫かしら?」「竹富丸がなくてもスクール船がある筈だげど」まだまだ陽は頭の上に輝いていた。八重山の時間差である。内地の人達の殆どが錯覚してしまう現象である。人気の無くなった波止場を歩いて、先ずは最初に竹富丸の出航時刻表を見た。思った通りに、もう最終便は無かった。次はスクール船だ。窓口には誰も居ないので問題のスクール船を探してみると、ホバークラフトの乗り場辺りで揺れているのを見つけた。「いた、行ってみよう」少々小走り気味にスクール船に向かった。目の前にその姿が現れると私は近く走り寄った。誰か乗っていないかとあちらこちら見回すと、何処かで見た事のある顔の若者がいた。「何時に出るの?あとどのくらい?」「もう今日は無いよ。今帰って来たところだ」これもまた思った通りの返事であった。が、それにしても何と言い聞かせ...(’77)5月17日(火)#6波止場では

  • (‘77)5月17日(火) #5 失敗した〜

    今度は砂浜から別のコースで、もとの林の横を抜けて戻ってみた。そして昨日に引き続き今日もお腹が減ったという事で、申し合わせた様に意見が一致。即、すぐ傍の食堂へ突入。何を食べたのだったのだろうか?ちょっと思い出せないけれど、この食事は有効な間合いであった。楽しくはしゃぎ回った一日の空腹を満たすべく安らぎの時。「サァ、そろそろ行きますか」「そうね、おばさん、ごちそうさま」「ごちそうさま」バス停に出てターミナルへ向かうバスの時刻表を見てみた。困った顔をしながら明美の方に振り返り言った。「ああ…見てみて…」「どうしたの?」「やっちゃったぁ、大失敗」「ええ…?ああ、これってもしかして、うん…そう、そんなァ。どうしよう、困ったわ…」バスが無いのだった次に来るバスでは竹富丸に間に合わないのである。時刻は五時二十分。間に合...(‘77)5月17日(火)#5失敗した〜

  • (‘77) 5月17日 (火) #4 高峰荘のボート

    多分、この川平に関した私の想い出話しをしていた時だったと思う。少し前から二人の目の前に一艘のボートが見えていたのだけれど、そのボートが水辺に止まり一組のカップルが降りてきた。その男のほうが近寄り、黒々と日焼けした顔の中から白い歯をキラキラ光らせて言ってきた。「良かったらどうですか?」「エッ、何?」「乗ってみますか?」思わず明美と顔を見合わせた。「どうしよう、乗せてもらう?」明るい笑顔の中に明美は頷いた。「いいんですか、本当に?」と、彼に言いながらよくよく見てみると何処かで見た様な、乗った様な思い出の有るボートだった。「もしかしてあなた達、高峰荘(確かそんな名を言ったきがする)の人?」「そうよ。どうして判ったの?」彼女のほうが言った。「やつぱりね。去年お世話になったんで、何となく覚えていたから」そう、確か去...(‘77)5月17日(火)#4高峰荘のボート

  • (‘77) 5月17日( 火 ) #3 川平へ

    車が来た。午後一時十分、予定通りだ。ここに着いてからの四十分間が一日にも十日にも感じられた。おばさんに別れを告げて車に乗り込むと運転手に、急いでターミナルに行って欲しい…と頼んだ。予め調べておいた川平へ行く西廻りのバスが一時三十分に出るのである。勿論、普通に行っても間に合うのではあるけれど、心の中は早くも次の予定地、川平の事で一杯だった。高鳴る思いを抱いたままタクシーから降りてターミナルへ走り抜けた時は、さながらあの懐しいビートルズの第一作目の映画の、冒頭の1シーンの再現といったところだった。弾む息を肩にしたそんな私達とは対象的に、バスは静かに出発時刻が来るのを待っていた。ただでさえ暑い午後の日溜まりの中で。何処から集まって来たのか、発車寸前には人々の群れなす姿が目に映っていた。様々な人達が思い思いの恰好...(‘77)5月17日(火)#3川平へ

  • (‘77)5月17日(火) #2 バラビドー

    想い出を再三現実の世界へ。タクシーからの窓から眺めやる光景は不思議な程多くの過去を忘れさせ、まるで恰も初めて見る様な気分に浸る事さえある。みるみるうちに外窓の世界が移り変って行く。僅かな時間、僅かな距離ではあるのに、膨大な時間を要して町から山間地へ向っている様に感じる程、心の中では楽しみの極地に立っていた。石垣に出る…と計画を立てた時に、川平とバラビドーには絶対に行こう…と思いを巡らし熱望していたのである。車の中から窓の外を見詰める明美の瞳、そしてあれこれと話し出す弾んだ口調。帰りに迎えに来てもらう時間を運転手と話し合っているうちに、どうやらお目当てのパイン農園に到着した。文字通りパイン農園の真ん中にデコラの長いテーブルと、籘を折り曲げた様なイス、頭の上にはワラの様なものを軽く葺いただけの簡素な屋根。辺り...(‘77)5月17日(火)#2バラビドー

  • (‘77) 5月17日 (火) #1 喫茶ザボン

    午前十時。一分たりともズレる事無く竹富丸は東桟橋を離れ眼の前の(八重山に於ける)都会、石垣島を目指した。船尾に立ちスクリューの跡の白波を、そして遠ざかる竹富を見詰めながら、今回の旅の第二部とも言える舞台の開幕を(その悦びを)噛み締めていた。約二十分後石垣の波止場に着くと、意外にもどうした事かオッチャンが待機していた。「あれ…オッチャン、どうしたの?」「なんや知らんが、ここに来れば二人に出会う様な気がしてな、どうせ船もまだ出ん事やし、暇を持て余しとって他にやる事も無かったから、よし、ホナラ行ってみようかいな…って、来とったんや」何とまあ、最近の私に負けず劣らずの予知能力ではないか?バスターミナルで川平行きの時刻を調べ、明美がちょっとトイレに行っている間に、私はオッチャンと立ち話し。「オッチャンはこれからどう...(‘77)5月17日(火)#1喫茶ザボン

  • (‘77) 5月16日 (月) #2 竹富島散歩

    泉屋に着いてから一服した後、島の案内も兼ねてみんなで散歩に出掛けた。この散歩の間にお互いの素性等を話し合っていた。私と一緒に歩いていた娘は佐藤明美といった。大分県日田市から来ていると云う事だった。少し前を歩いていたのはテツペイさんと先生。ほぼ同じ位置に(下船後)桟橋から一緒だった女の娘二人。その様なメンバーで西桟橋からコンドイ(浜)へ向った。明美の友達は前日からの日射病の為一人で寝ていた。気が付くとテツペイさんと先生が先を、次いで女の娘二人。後から私と明美の二人が、其々少しづつ間隔を開けて別々に歩いていた。途中雨が降り、この四ヵ月の間にコンドイ浜に設置された屋根の下で雨宿りをした。鬱陶しさを感じるどころか、逆に楽しめる雨だった。再び歩き始める頃、コンドイ浜に人影は無く私と明美の二人きりであった。みんな何処...(‘77)5月16日(月)#2竹富島散歩

  • (‘77) 5月16日 (月) #1 石垣⇒竹富

    「八重山・石垣・美崎町、いい所サ。私は好きサ」と、かつてはWomanPianast(山城キヨコ)が朝焼けの渚でフッと呟いた言葉が、一瞬脳裏を掠めていった。午前七時。その美崎町に、石垣港に船は着いた。朝早くの美崎町というのも、それはそれでまた良いものが有る。テツペイさんとミス先生嬢達との五人で、ブラリと近所の散歩に出掛けてみた。ラムール(各テーブルに一台づつ電話が置いてある喫茶店)の前を通り郵便局の角を左に曲がる(市場通りになっている)。市場の先から左に曲がり歓楽街の方へ足を向ける。懐しい町並みがそこに広がっている。「ここら辺で二年前の海洋博の頃居た…」と、懐かしさを込めて私は言った。実際何度この町へ来ても、いつも仄かな想い出がこの胸に去来する。そのまま真っすぐに進むと海の手前、ボーリング場が通り向かいの右...(‘77)5月16日(月)#1石垣⇒竹富

  • (’77)5月15日(日) #3 久し振りの船中で…

    船に乗るのは久し振りの事である。去年のクリスマスに石垣へ渡る為にこの那覇港から乗船して以来の事であるから、四ヵ月と三週間振りになる。以来飛行機づいてしまい船とは殆どご無沙汰してしまっている。三人揃ったところで一緒に乗船した時には未だ客席は空いていて、すぐに座を確保出来たのだけれど、依然としてテツペイさんの姿は何処にも見受けられなかった。出航時間も間際に迫り席も埋まり始め、冗談であるかの様にこの船に乗るのを止めたのかな…と思っていた時、何処からか湧いて出て来たかの様にノッソリとその姿を現し、空いている座を探しながら、私達からちょっと離れた処に腰を降ろしていた。これでようやく顔ぶれが出揃い、ワイワイガヤガヤしながらタバコを吹かし、取り留めも無い話しの種に花を咲かせていた。雑談の花を。そんな時の流れの中、私の心...(’77)5月15日(日)#3久し振りの船中で…

  • (’77) 5月15日(日) #2 乗船前

    この時、同じ那覇港内でまた数人に出会うように一日が設けられていた様であった。二階に行ってみると、昨夜のミーティングで喋っていた大阪の髭の男や同じY.H.のホステラーも二~三人いた。そして時間は前後するが、一階の乗船カウンターでは角山が私達の後を追い掛け、多分来るであろうと待ち構えていた。まあそんなわけで港での再会劇の後、時間潰しに市内をノラリクラリする事にするした。どうも私に限らず旅行者のする事は大方似たりよったりの様だ。以後乗船する迄は誰にも会う事は無かったのであるが、例に拠って私の理力(レーダー)はまた何かを予知していた。『このままでは済まない。何かが起こる…』と、確信していたのだ。それは良くも悪くも両方を兼ね備えているものの様である。一歩間違えば正に地獄へ転落と云う印象さえ与えていた。やがて平和通り...(’77)5月15日(日)#2乗船前

  • (’77)5月15日(日) 関西を離れて

    5月11日の悲惨な出来事に懲りた事が理由で、何とか早いうちに関西から離れたいと云う気持ちが先走っていた。嫌気が差していたのだ。それで、12日茨木(大阪)経由で河原町(京都)・松三Y.H.13日東山Y.H.と古都京都を見て回り近付く「葵祭り」を見ずに14日那覇に戻って来て、いつものY.H.春海荘ではなく那覇Y.H.に泊まった。理由は無い。ただの閃きに従っただけ。その間の日記は書いてあるけれど、ここでは割愛しておく。(’77)5月15日(日)(#1)夜が明けたらなんという事だろうか、深い眠りの世界を漂っている間に、この日本で一番早い梅雨の声が静かに走り来て、せっかく乾きかけていた洗濯物はビチョビチョ…なのであった。そして空には厚い雨雲が、まるで自分の庭を散歩する何処かの大臣の様に悠々と浮かんでいた。降ったりや...(’77)5月15日(日)関西を離れて

  • (’77) 5月11日 (水) 長い一日(#2)

    (#2)笑い話しの様な午後二時二十五分。大阪駅に着いてY.H.のハンドブックから、今夜の宿となるべく近そうなY.H.を探し出した。園田Y.H.と云う所で、交通の便も良さそうだった。それで阪急電車の乗り場へ足を急がせ(何故急いだのか今でも解らないが)、何かに取り憑かれた様に二時四十分の電車に乗り込んだ。約二十分程で園田駅に着き予約の電話を掛けたところ、何度掛けてもただ呼び出し音が鳴るだけだった。喫茶店に入り時間を潰しながらも何度か電話を試み、また歩き始めながら公衆電話の受話器をとったけれど、依然として誰も出はしなかった。とても、何か嫌な予感がした。それでもとにかくそのままY.H.に直行すべく、ハンドブックに載っているささやかな地図と住所を手掛かりとして訪ねながら歩いたのだけれど、辿り着く迄には相当の時間が掛...(’77)5月11日(水)長い一日(#2)

  • (’77) 5月11日 (水) 長い一日 (#1)

    (#1)今日もまた小雨、出発の為に用意された様な小雨の朝。全ての用意を整え時間待ちのギターを爪弾く音の中へ、高子姉さんからの電話の声が届けられた。この胸に去来してやまない、隠し切れない気持ちを上手く伝えられなかった。「…きっとまた帰って来るから…」と言っておいたけれど、それが一番的中した言葉だった。その電話の後に今度は美恵子姉さんから、九時三十分〜四十分の間にここへ着くと連絡があった。再び静かに弾き始めたギターの音に誘われるが如く、爽やかな朝一番の微笑みと共に、このまだ眠り足りないといった私の目に映った。「お早う」と一言挨拶を交わし、直ぐに車に乗り込んだ。その車、会社の人から借り受けて来たものだと言っていた。空港への道すがら、「本当にあなたは気が多いんだから」「いや、そんな…でも、そうだねぇ…」「大阪には...(’77)5月11日(水)長い一日(#1)

  • (‘77) 5月9日(月) 波之上の保育所 #2

    保育所の戸を開けて中に入ってみると、幸子姉さんと妹さんが掃除をしているところだった。まるで田舎の小学校の分校調の下駄箱の風景を思わせる様な、玄関にある木の板(スノコ…とでも言うのだろうか)に、本当に懐しい郷愁にも似た(想像だけの)ものを感じた。大きな部屋にはピアノや本棚・本箱・玩具箱…等々。それから木の床の上、奥の一角だけには畳が数枚敷き詰めてあった。掃除が終るのを美恵子姉さんが持って来たサーターアンダギーを食べ、インスタント・コーヒーを飲みながら待つ事にした。保育園・保育所・幼稚園そして小学校と、所謂「先生」と呼ばれる人々との付き合いがこの頃では相当な数になるけれども、実際に彼女達の職場(保育所など)を訪ねてみるのは、つい先日の藤原先生の所に次いで二回目。私にとってのこうした場所の記憶など、もう遥か昔の...(‘77)5月9日(月)波之上の保育所#2

  • (‘77) 5月9日(月) 再会・波之上の保育所

    朝(?)目覚たのが午前十時頃。しまつた…と思ってみたものの外は雨。止みそうもない雨。陽水ではないけれど〈傘がない〉から肝心な事は何も出来ず、ただただ時は去り行き、結局は一日の生活が無駄に終ってしまう。何故だったのだろうか。憂鬱な雨空を見飽きた後、部屋の中で一人ぽつんと思い浮かべていたのは、おの博多の街並みの光景だった。あの時どうして「沖縄」の二文字を思い付き行動に出てしまったのだろうか?何かの暗示…的に考えてはみたものの、心の中にはこの沖縄に住み着いて離れる事の無い私が居る事に間違いはないのだが…。果たしてその自身の呼び掛けであったのだろうか?色々と考えを巡らしているうちに滅入ってきた。午後四時三十分頃の事であっただろうか、美恵子姉さんから電話があり、夕方六時頃Y.H.へ迎えに来るという連絡を受けた。その...(‘77)5月9日(月)再会・波之上の保育所

  • (‘77) 5月8日 (日) やっぱり

    午前九時半、チェックアウト・リミットの三十分前にホテルを出た。先ずは荷物を駅のコインロッカーに入れ、今日は中洲を重点的に歩いてみた。…が、ただ時の空費に終始してしまった…という気持ちが頭の中から離れなかった。気が付いたらまた駅前迄戻っていた。これは暗示的なものであつた様にも思える。色々とこれからの行動に付いて考えたつもりになって(しかし、本当はどうだったのだろう?)、一つの答えを出した。「沖縄へ行こう」これがそうであった。それにしても、これは答えとして本当に正解であったのだろうか?ただ初めから沖縄へ行きたかっただけではなかったのか…?兎に角そうと決めたからには何とかしなくてはと思い、電話帳から全日空のフライト・インフォメーションの番号を探し出し掛けてみた。運良く(?)空席が有ったので、もったいないとは思い...(‘77)5月8日(日)やっぱり

  • (‘77) 5月7日(土) Flight −251

    全日空.Flight−251〈トライスター〉。正午のFlight迄はまだまだかなりの時間が有った。例によってあの新潟以来のショルダーバッグをを肩に、そして愛読書『ビートルズ派手にやれ(アラン・ウイリアムス著)』を手にして空港に姿を見せたのは、午前十時を少し回った頃だった。朝寝坊をしてしまったのと空席が無かった為に、一度大阪に立ち寄り、久しく会わない友人の顔を拝もうという兼ねてからの計画を取り止め、今なら空席が有る…と盛んにアナウンスしていた目的地・福岡直行便に乗る事になった。手荷物を預け一冊の本を持っては結局、また当分会う事も無くなった其々の顔を思い浮かべては、時間が来るのを待っていた。搭乗待ち合いロビーの中を恰もオリの中の熊の様に行ったり来たり、壁に持たれてみたり、また何人かの友人に電話を掛けてみた。凡...(‘77)5月7日(土)Flight−251

  • 週末の世論調査

    27日の土曜日、朝10:03頃の事。総務省(だったかな?!)から世論調査の電話が掛かってきた。その時頭を過ったのは『ああ、やっぱり解散総選挙は間近なんだな』と云う事。質問は全部で15ぐらいだつたかな、はっきりとは覚えてはいない。ダイヤルのブッシュ・ボタンを押して答える方法で、多分3~5分程度だったと思う。今度の選挙には行くか否か、支持政党は?(数人の人名を挙げて)知ってますか?…etc.誰がどう聞いても選挙関連だと推測する様な質問だった。まあ、いつもの事か…と思い一通り質問に答え受話器を置いた後は忘れていた。しかし今日になったら若干の意味合いが変わっていたのに気が付いた。TVのニュースでは《秘書が更迭された》その背景には《週末に行なわれた電話に依るアンケート調査の結果云々…》とか言っていた。それが直接の原...週末の世論調査

  • (‘76)12月31日(金) 泉屋餅搗き大会と除夜の鐘撞き

    昼間、大晦日の餅搗き。思ってもみなかった事で、知らないうちに庭に臼と杵が用意されていた。オバチャンは餅米を蒸かし、折りたみのテーブルには紙の皿、小豆や何やらの準備が整っていた。意外だったのは大根おろしまであった。みんなで代る代る餅を搗き始めた。私も生まれて初めての体験をさせてもらった。杵というのは傍で見ているのと違い、結構重いものだった。搗き上ったお餅はその場で戴いた。なにしろまだ湯気の上がっているお餅、それも自分でも参加したものを食べるのだから、もう最高!!大晦日の嬉しいハプニング、みんなでとても良い思い出が出来た…と、大はしゃぎ。心憎い程のオヤジさんの心遣いに感謝。他の民宿での事は判らないけれど、こうした事がこの泉屋の人気の秘密かもしれない。子どもたちの様な客と共に楽しみ、喜ばせてくれる。人柄と云うの...(‘76)12月31日(金)泉屋餅搗き大会と除夜の鐘撞き

  • (’76) 12月25日(土) 故・牧野京子宅

    午後二時、「おきなわ丸」石垣港接岸。ついにやって来た、年末年始の竹富へと…。理想を言えば昨日のクリスマス・イヴをも…と云う事だったけれど、日程の都合上やむを得ず一日遅れた。竹富へ渡る前に有田貴代美に電話をして(故)牧野京子のお墓を教えてもらえる様に話しをした。九月十八日(土)に肝硬変の為、二十歳と云う若さで逝ってしまった。その事は京子の死後数日経ってから貴代美からの手紙で知らされた。正直なところ泣きはしなかつたけれど、泣きそうになる程の哀しみに襲われた事は確かだった。そう、とても言い知れない悲しみが込み上げてきたのを覚えた。だから今度の渡島の時は、絶対に京子の墓参りに行こうと決めていたのだった。沖縄のお墓は解りにくいとかで、家に行った方がいい…と(何の事か私には理解し難い事を)電話での貴代美は言っていた。...(’76)12月25日(土)故・牧野京子宅

  • (’76)12月7日(火) 伊藤喜代子の誕生日

    1976年、この年は前半ちょっとサボり気味だったので、後期はそのツケが回って来た。12月頃になって僅かながらオフの日が取れる様になつてきてた。それでもX’masEve迄は楽は出来なかった。そんな中で、この日は久し振りの息抜きの日だった。12/7(火)伊藤喜代子の誕生日越後中里で出逢った喜代子の誕生日。電話を掛けてお祝いの言葉を告げた。九ヵ月程前、未だ春には遠い日に再会したきりで、凡そ一年近く経った冬に入ってからの再会となる。電話で、「ねェ、明日会わない」の言葉に、「ええ、いいわよ」と早いレスポンス。彼女の良さは私に対してとても素直な妹の様な存在でいてくれる…事かな。この四月から保母さんに成る為に学校へ通っている。この九ヶ月でどの様に変ったのか、明日の放課後御茶ノ水で会うのが、今から楽しみでしようがない。(’76)12月7日(火)伊藤喜代子の誕生日

  • (‘76)6月2日(水) & 3日(木)

    この’76.年という時代は未だまだ現在の様に銀行のカードというものがそれ程深く根付いてはいない頃で、給料袋に現金の時代。思い出せますか?だから地方に出掛ける時には財布の中身を常に気にかけていたものでした。言い換えれば、今よりも現金(お金)の有り難さが際立っていたと思います。それで予定を立てるのも(私には)楽しみの一つでした。多くの場合費用対効果を如何にして見極めるかが大切になります。私にとってはそんな時代でもありました。それがこの時には、最後の最期で綱渡りを楽しむ始末事になりました。6/2(水)残金90円也午後七時五十分「飛龍」、様々な思い出を振り返らせながら大阪南港に接岸。そのまま大阪駅に向かった。駅構内改札口付近、互いに未だ別れたくないといった面持ちで儀礼的な別れを交わした。名古屋に向かい家路に着く洋...(‘76)6月2日(水)&3日(木)

  • (’76) 5月26日(水) 再び泉屋

    午前九時、六泊の与那国での日々を終えて、また六時間半の航海が始まった。刻一刻と『幕』に近付いて行くのを感じる。那覇での出逢いから始まった今回の洋子との八重山も波照間・与那国と目的を達っして、後は…今度は本当に「飛龍」に乗り込む迄の…余韻の様な日々を如何にして過ごすかと云う事が大事になってきた。そこで私はもう一度竹富に行く案を出した。洋子も前回の印象が残っていた為か、すんなりと泉屋行きに賛成した。石垣の波止場に着く迄の間、荒れる海の中をまるで木の葉が揺れる様に進む船の甲板から、その波を見ていた。洋子を含め旅行客の多くが船酔いしていたが、わたしは平然としていた。私の場合は去年の東京晴海港から那覇迄の荒れに荒れた48時間15分の、波間に漂う牢獄で慣らされた為なのであろうか、午後三時三十分に石垣の波止場に立った時...(’76)5月26日(水)再び泉屋

  • (‘76)5月22日 (土) 私をおいて先に…

    さて、うなされ続けた一夜明けての朝。二日酔いの為洋子は起きられず、朝食をとる事さえもおぼつかないまま昼近く迄布団の中で時を過ごす。石垣へ帰る船に乗れなくなり、次の出航日(26日)迄このまま連泊する事となった。と云うのも石垣⇔与那国は4日に1便の就航だからだ。「私をおいて先に帰っていいのよ…」とは言うけれど、もう既に船は沖の遥か彼方。『今更何を言ってるの、見知らぬ土地に一人置き去りには出来ないでしょ!』とは思ったけれど、本気ではなかった。だから、飛行機と云う手段を知っていたけど口にはしなかった。何とか洋子が起き上がれる様になった昼下がりの事、散歩を兼ねて「名物」と言われている「与那国パン」を買い求めに出てそれを昼食とした。特別美味しいというわけではなかったし、どうしてそれが「名物」と言われているのか二人には...(‘76)5月22日(土)私をおいて先に…

  • (‘76) 5月21日(金) 東岬(あがりみさき)のヤギ鍋パーティーと泡盛75度

    朝、どちらからとなく、「今夜は宿を変えてみない」と云う話しが出て、お互いに、「そうねぇ」と同意を求める様な結論に落ち着いた。そこで朝食をとって一服してから、徐ろに荷物をまとめなかたけ荘を出た。次は何処へ行こうか決めていたわけではない。取り敢えず歩き始めた。どのくらい歩いたであろうか。真っ直ぐには歩かず気の向いた方へ角々曲がりながらだったので、なかたけ荘からの距離はそう遠くは無い筈である。そこで一軒の民宿を見つけた。「民宿・さきはら荘」がそれである。ここはなかたけ荘とは異い、民家の香りがしない民宿である。が、悪くはない処の様である。ちょっと一息ついた後、釣りの道具が有ったのでやった事も無いのにそれを借りて、「なんた浜」という近くの浜に出て暇をつぶして楽しんだ。《意外な事に》何匹か釣れはした…が、これがまたこ...(‘76)5月21日(金)東岬(あがりみさき)のヤギ鍋パーティーと泡盛75度

  • (‘76)5月14日(金) & 20日(木)

    5/14(金)美崎荘・紀行の幕間午後二時。「第八新栄丸」は三泊の日程を終えて少々疲れ気味の私と洋子を乗せ、石垣島へと向かった。五時三十分。久し振りと感じられる波止場に船は着いた。今夜は竹富へと云う案も既に最後の船便は無く、「明日にしよう」と云う事になった。今夜はもう一度波照間島を散歩しながら、ゆっくりと眠る事にしよう。洋子も多分そうするだろう。二人の八重山紀行は今、その第一歩を踏み出したばかり。明日からは暫く竹富とこの石垣で…。5/20(木)与那国島サーターアンダギーと日章旗午前八時。荒れる外海を、この八重山では比較的大きな鉄の船が、まるで大きな波のうねりを掻き分け泳いでいる…といった様であった。六時間に渡る航海を終えて、無事与那国に着いたのは午後二時であった。波照間の時と比べると乗船客は圧倒的に多いが、...(‘76)5月14日(金)&20日(木)

  • (’76) 5月12日(水) 日本最南端の荒波と石碑

    波照間壮観。まさにこの一言で言い尽くしてしまうのではないか…と思うくらいの景観である。海面迄は何メートルあるのかちょっと想像しにくい。南の果にそそり立つ岸壁に打ち寄せる波は何処迄も蒼く、勢いはその飛沫を頭上遥かなる所迄押し上げる。すぐ足の下、岸壁辺りの海面は潮で純白に染まり、その周りを蒼い色調が波間を占有してしまう。風はそれ程強くは感じないが、絶えず激しく流動している。空気は何処迄も澄みきっていて、太陽は心地良い時間を爽やかなる汗の中に閉じ込めてしまう。束ノ間、私は無限の時の中を散歩する。今、私は確かに日本の最南端に居る。日本最南端の石碑が目の前に在る。欲を言ったら限りが無い。これらの感激で十分である。那覇では幾分迷ったが、やはり戻って来たのは、この景観を目にしただけでも正解であった。その意味では洋子に心...(’76)5月12日(水)日本最南端の荒波と石碑

  • (‘76) 5月8日(土) どんでん返し

    目覚めの午後。二人にとっては「朝」の珈琲を飲みにサテンドールへ行った。そこで洋子が全く以って意外な事を言い始めた。「ねェ、本当に今夜の船で帰っちゃうの?」「うん」「出来る事なら一緒に廻って欲しかったなァ」「バカな事言わないで。今夜の船で帰る為に、もうちゃんと乗船券は買ってあるの知ってるじゃない」「う〜ん、でもさぁ…ジュンとだつたらいい旅になるだろうなぁ…って思ったから…」「そりゃ、まぁねェ、波照間と与那国でしよ。行きたくないって言ったら嘘になるねぇ」「なら、そうしてよ」「でもさあ、お金が無いもの。今回は長逗留するつもりが無かったから、それ程持ってきてないし」少しの間だけ私を見つめていたと思ったら急に「お金の事ならいいわ」「えっ?」「私が出してあげる。その代り贅沢な旅は期待しないでね」「ちょ、ちょっと待って...(‘76)5月8日(土)どんでん返し

  • (‘76)5月7日(金) Y.H.春海荘と鈴木洋子

    午前七時三十分。「おきなわ丸」那覇港接岸。無事に「竹富での誕生日」を迎えた私は五日、石垣に渡り美崎荘に泊まった。そして昨日、夕方出航の「おきなわ丸」に乗り込んだのである。それで今朝那覇港に着いたのであるが、今回はおとなしくこのまま帰る予定で、今夜一泊このY.H.春海荘に泊まり、明日の「飛龍」で大阪へ渡るつもりでいる。出発前には日程も日数も全く考えていなかった今回の八重山紀行も、こうして振り返ってみれば今日で丁度二週間という、こじんまりとした小旅行として幕を迎えようとしている。家に戻る迄17~18日間といったところであろうか。何となく気が緩みがちであるのに気が付いた。そう、その気が緩んだところに出て来た悪い相手…。名古屋から来て私と入れ違いにこれから八重山に行こうという鈴木洋子。歳は私と同じ。行動予定が全く...(‘76)5月7日(金)Y.H.春海荘と鈴木洋子

  • (‘76.) 5月1日〜6日 平穏にして何事も起らず

    ここ迄はゆっくりと、長閑な南の島での休暇を満喫出来た。予定通り誕生日を泉屋で過ごせたので、もう後は帰る事を考えれば良かった。ちょっとした息抜きの旅行気分だったので、満足気に残りの時間を過せば良いのだ。2日(日)はオヤジさんに連れられ数人で石垣島の闘牛見物に出掛けた。初めての経験であり全くの予期せぬ出来事だったので、嬉しさと興奮が入り混じった気持ちに終始した。あまりの迫力にピントをがなかなか合わなかった。近くに寄って来た時には、あまりの大きさに一瞬怖さを覚えた程だった。竹富に戻った後は何人かで西の桟橋まわりでコンドイ浜へ。ヤシガニ。大きさはA4の紙位とでも言えばいいのかな。このハサミは人の指など切断してしまう…と云う。正に名前の通り“椰子”ガニ。この時期に来ている人達は、G.W.を利用しての旅行客なので、長...(‘76.)5月1日〜6日平穏にして何事も起らず

  • (‘76.)4.30. 知ったか振りのガイド気取り

    午前中、九時四十分の船で竹富に戻って来た。十時、船を降りて郵便局へ辿る道すがら、私は二人の女の娘と話しをしていた。船の中で語らい始めて以来、あれやこれやと八重山の事に付いて、特に竹富の素晴らしさを話して聞かせていた。今夜の宿がまただ決まっていない二人を我が泉屋へ誘った。未だ郵便局が見えていなかった所。博多からやって来た田原美恵子と鬼塚千鶴の二人であった。もうすぐ二年目の安易な慣れなのであろうか。彼女達を島内の散歩やコンドイ浜へ泳ぎに連れて行った時など、まるで私自身が古くから住んでいる『半島民』であるかの様な錯覚に落ちてしまったのに気が付く。それは或る面で、私が竹富に言い様の無い愛着を感じていると云う証しかも知れない。去年と今年の異いは、その様な観点に薄っすらとでも表出している事であろうか。私は彼女達が初め...(‘76.)4.30.知ったか振りのガイド気取り

  • 4月29日(‘76) 再び会って

    昨日午前中の早い時間に泉屋に着いた。午前中に石垣へ渡り、昨日連絡を取っておいた牧野京子に会う。去年八重山を涙を呑んで去る時、ノリ子と共に「おとひめ丸」に乗る私を見送りに来てくれた、アルバトロス四人娘の一人である。少々太り気味で肌はトースト色。どちらかと言うと美形ではない(ゴメンネ)けれど、人間的にはとても可愛い、純情な娘だ。そして宮平観光ホテルでアルバイトをしている、やはり元アルバトロス四人娘の有田貴代美に会いに二人で行った。暫くして二人と別れた後、偶然平田と会い、石垣一周(西廻り)のドライブに出掛けた。僅か七ヵ月余りしか経っていないせいか実感が湧かなかったが、石垣島最北端の平野で足を止めた時は、『やっぱり石垣に来てるんだなぁ』と感じた。美崎町。今夜は新婚の平田の家に泊まる事となった。私にとっては今夜何処...4月29日(‘76)再び会って

  • ‘76. 2度目の沖縄渡島

    去年書いていた八重山での日記、帰宅した時に「これで完結したわけではない」と書いていた通り、翌’76年もやはり出向いて行った。丁度今頃の事だった。今年も(飛び飛びにはなると思うけれど)書いてみようと思う。去年は現在の日付に合わせて投稿していたけれど、今回は日付けがズレて始まる。八重山への想いは私の心に深く浸透し根付いていたのでした。‘76.4.24.(土)映画「トミー」日本初公開を観るいよいよ第二回目の八重山への旅に出る。今回は大阪南港から「飛龍」という船で出航する。これには二つの理由が有る。一つは東京晴海港からの48時間15分の長い船旅は、去年でうんざりしてしまつている為で、時間的に約半分の大阪を選んだ…と云う事。そしてもう一つの理由は…こちらの方が私には重要なのだが、今迄日本では未公開であったTheWh...‘76.2度目の沖縄渡島

  • ごろ寝ウイーク

    今年もG.W.はごろ寝ウイークと決め込んで、雑踏を避けようとしていたのに、ちよつと散歩に出掛けてみたら忽ち人込みの中に突入してしまつた。駅の南と北では極端に人足が違っていた。❨何処から来たの??❩歩き難くなった道の中でスーツケースをゴロゴロと、他人の迷惑も考えず堂々と歩こうとしている(外人)は邪魔でしかない。日本国中でこんな光景が繰り広げられているのは解っているけれど、商売人達だけが、喜んでいるのかと思うと、なんか腹が立ってきます。そりゃあ私も地方には行きまくつていましたけれど、混雑時は避けていました。今に始まった事ではないけれど、地元でのこの光景は見たくないですね。そう言えば昔はG.W.とは言わず、飛び石連休…と言っていましたよネ。何だかんだ理由を付けて、訳の分からぬ休みが増えましたね。人出が増えたのは...ごろ寝ウイーク

  • これでも木の名前

    陽気の良さに誘われて散歩に出掛けたところ、隣町にある小学校の裏側にあたる公園で、何とも奇妙な名前の木がある事に気が付いた。その名は「なんじゃもんじゃの木」と云う。まあ他の名前もあつて、どれが正式名なのかは判りませんけれど、解説板にはその名前で紹介されていました。どうですか、本当あったでしよう。ここに書かれている台東区四丁目と云うのは旧・竹町といい、その竹町小学校の後ろにある竹町公園に植えてあります。この後ろに見えるのがその小学です。この町の云われには色々とあったみたいです。秋田久保田藩主・佐竹右京太夫の江戸屋敷は当初、内神田佐竹殿に在ったけれど、天和二年(1862年)12月28日に起きた有名な、八百屋お七の放火に拠る江戸の大火で焼失。翌年に現在の台東区の地に移転。屋敷の西側には大番与力同心の組屋敷が在り、...これでも木の名前

  • ブログ開設 3.100日

    ワードプロセッサーが故障したのでやむ無く買ったのがPCで、それが2.011年の2月。当時は既にワードプロセッサーが店頭から消えていて、PCしか文字打ち出来る機材は有りませんでした。その数年前から言われていたのは「いつ迄ワープロなんて使ってるの?今はPCの時代なのに…」そう、私は常に時代遅れなのです。そして何の気無しにブログを始めたら(OCNブログ)ブログ・サービス終了で、今のこのgooブログへと引っ越し。何かを書きたかったわけでもないまま、なんと今日で3.100日目。色んな人達の、私の知らない世界を見たのは大きな収穫でした。いつ迄続くのかなぁ。最近は取り分け書きたいと思う事も無いような、…意欲が下降線…状態で…。まあ、ぼちぼちとやっていきます。ブログ開設3.100日

  • スマートフォン買い替え

    3月3日、作動が遅くなつてしまい、若干嫌な気分になっていたので買い替えを決断。ところが新しいスマートフォンに替えたら使い難くくて(一週間も経とうというのに)、馴れる迄時間が掛かりそう。まあ、慣れて来れば其れなりのメリットを活かせる様になるのだろうけれど、私の事だから時間が掛かるのは必至。どうしても慣れた前機種のイメージが残ってしまう。どうして操作性を変えてしまうのだろうか。こんなところにも時代について行けない自分を発見してしまう。気長に付き合っていくしか道は無さそう。メリットも有りました。立ち上がり速度が速くなった事。それにより苛立つ事が無くなったのは、良かったと言えます。(浅草)浅草は以前程ではないにしろ観光客が増え始め、歩き難くなってきました。全員、日本人なら良いのになぁ…。スマートフォン買い替え

  • 2週続けてマラソン大会

    昨日の日曜日、なにやら西の方では大阪マラソンと云うのがあったらしい。全く知らなかったなぁ。チョイト見したTVのニュースでは名前も知らない走者ばかり。それで思い出したのが、だいぶ前にポストに入っていた大きなチラシ。内容は東京マラソンのコースとそれに伴う道路の交通規制。家の近所を通るわけではないけれど、交通規制と云うのはまあ迷惑(?!)と言えなくもない。浅草なんぞは一応地元なので、何かの用が出来た時に影響を受けるかも知れない。まだまだ冬(の終り)の只中、この寒さの中、わざわざコースの沿道迄出向き見物する気もないなア。もっと大きな、オリンピックの様な大会なら別ですけれどもね。はてさて、当日(3/5・日)はどの様なレース結果が報道されるのでしょう。2週続けてマラソン大会

  • たまに見るTV漫画

    二十歳を過ぎた頃からマンガ離れが始まっていました。その頃は単なるマンガと云うより劇画になっていて、話しもやたらとこ難しくなり始め、過激的で刺激的なものが多くなりつつあった頃でした。まあ、それが現在の在り方を予知していた、とも言えなくはないとも思えます。特にTVマンガではやたらとハイテンションなセリフのシーンが目立つ様に感じます。…と言える程見ているわけではなく、殆ど見てはいないのですけれど。そもそもアニメと云う言葉、それ自体好きではない古い世代(?)なのです。…ここまでは前置きで、そんな私が時々見ているTVマンガに「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」があります。共に日曜日(今日)の放送。その「サザエさん」に出てくるタラちゃんの声優・貴家堂子(さすがたかこ)さんが他界(84才)していて既に録画済みの来週分を...たまに見るTV漫画

  • 今年の雪よりも去年の方が…

    他府県と地勢的に比べる事は意味の無い事だけれども、ほんの数ミリなのにTVでは大騒ぎを伝えていた。ウチ🏡のベランダから見る限り、去年の1月の方が大雪だったのに。これが去年の光景。そして全国的には毎度の事ながら、天気予報を過小評価してか、はたまた侮ってか、駅や空港で困惑している愚かな旅行者が映し出される。キャンセルと云う賢い決断がどうして出来ないのか不思議でならない。おまけにタイヤチェーンなら難を逃れる可能性が高いのに冬用タイヤを過信して他人に迷惑をかけ放題。曰く『いやぁ〜、これ程迄とは思いもしなかった』と言うのが定番の応え。自然の脅威をもっと認識して欲しいものだと思わずにはいられません。雪…と言えば、今よりも幼稚園時代の方が、もっと降っていた様に記憶しています。今年の雪よりも去年の方が…

  • 2023 .おめでとうございます

    午前0:00恒例通りビートルズのレコード、“AHardDay‘sNight”と“Help”で一年の幕開けです。その次はダイナ・ショアあたりかな。誰にも文句は言わせません。伝統行事ですから。そう、こういう毅然とした態度が大切なんですよ。結果、聴いているのは私一人だけ。まあ、いいですよ。お汁粉のお餅を食べながら泡盛を呑んで元旦の朝日を待ちます。こんな親はいませんよねまあ、こんなところが一般的かな本当に明るい日々はいつになったら来るのかなあ皆様に幸あれ=冗談式部の願い=2023.おめでとうございます

  • 西暦年・下一桁2年

    622.聖徳太子(49)没。1612.4.13.巌流島(舟島)の闘い。武蔵対小次郎。1862.新選組誕生。1872.(明・5)鉄道開業。新橋⇔横浜間30km。1872.野球伝来1872.10.14.ドリス・デイ誕生。1902.9.19.正岡子規・(1867.10.14.誕生)。1912.タイタニック号沈没。1912.メジャー最古の球場〈フェンウェイ・パーク〉が建てられる。1922.ハワード・カーターによりツタンカーメンの墓が発見される。1922.ウインブルドン・センターコート開設。1922.4.3.ドリス・デイ誕生。1942.6.18.ポール・マッカートニー誕生。1952.海上自衛隊発足。1952.丹頂(たんちょう)が天然記念物に指定される。1952.エリザベス女王即位。1962.TheBeatlesデビ...西暦年・下一桁2年

  • クリスマス…って

    ある家族の会話♂クリスマスも正月も同じ様なものだ♀1.え〜、なんでよ。全然違うじゃない♂共通点ばかりなんだぞ♀1.どこがよぉ♀2.また下らない事言い始めてる♂そんな事ないさ♀1.じゃあ言ってみてよ♀2.変な事言ったら食事抜きよ♂いいかい、先ずはクリスマス・ツリー、これは日本の松竹飾りだな。いわゆる門松だ。七面鳥を食べるのはお雑煮と同じでめでたさの象徴だ。ワインはお屠蘇。♀1.靴下へのプレゼントは?♂お年玉だ、子供達にとっては正に年に一度のファンタジーだ。ケーキは年越し蕎麦に当たるな。♀1.クリスマス・カードは?♂そんな事も判らんのか。カードは年賀状そのものだよ。♀2.じゃあ、アンタ、トナカイはなんなのよ♂十二支の動物たちだ。欧米人ってのは発想力が乏しくて、目の前のトナカイだけで済ましたんだ。♀2.サンタク...クリスマス…って

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