唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さん プロフィール

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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さん: 唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ハンドル名唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さん
ブログタイトル唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/seikannamo
サイト紹介文私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供222回 / 365日(平均4.3回/週) - 参加 2014/11/27 21:21

唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さんのブログ記事

  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(4) 触食(ソクジキ)
  •    今日からは触食の説明に入ります。 はじめに、触食とは? 「二には触食、境に触るるを以て相と為す。謂く、有漏の触が纔(ヒタタ。わずかに)境を取る時に、喜等を摂受(ショウジュ)して、能く食の事と為る。」(『論』第四・初右) 二番目に触食が説かれます。 境(認識対象)に触れることをもって相(体)とする食(ジキ)である。 つまり、有漏(迷い)の触の心所(遍行の触)がわずかに認識対象を認識する時に喜受・楽受・ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(3) 段食にならないもの(2)
  •    色は境と相応するので、食とはならないことが論証されます。 「又色は麤著(ソジャク)にして根と相離せり、方(マサ)に能く境と為る、根を合せざるが故に是れ食(ジキ)に非ず。」(『述記』第四末・三右) 色は境と合せて、対象物でありますから、対象物をもって食とすることは出来ない、つまり、目の前に有る対象物が、身命を養い育てることは無いのだと。 では、声境・法境はどうであるのかといいますと、『述記』には説明 [続きを読む]
  • 日曜雑感
  •   朝からあいにくの雨模様です。梅雨前線北上で梅雨空が続きそうですね。 今朝中部地方を中心に震度五強の地震がありました。被災地の皆様にはお見舞い申し上げます。 今日の雑感は、読者の方からの投稿を紹介します。在家の方ですが、よく学ばれている、本当に刺激を与えてくださっている方です。 この投稿は妄想ですと仰られたのですが、妄想では書けないと思います。若し妄想であれば、妄想であると知り得る自分に出遇れた [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(3) 段食にならないもの
  •    段食にならないものを説明します。 「此に由って色処は、段食に摂めらるるものには非ず、変壊する時に、色は用無きを以ての故に。」(『論』第四・初右) 段食の体は「変壊する時に食の事と為る」、この時に食物になるわけです。 色処はもの、物質ですが、変化しないものは段食ではないと云っているのです。つまり、目の前にあるもの、米にしろ、野菜にしろ、飲み物にしても、口の中に入り、胃で消化されて初めて食物とい [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(2) 段食の体
  •    段食(ダンジキ)の体について述べます。 「一には段食、変壊(ヘンネ)するを以て相と為す。」(『論』第四・初右) 変壊は、本科段では、消化すること。消変(ショウヘン)と同じ意味になります。消化し変化することです。食物そのものは段食ではありません。食物が消化されて、栄養素となり、血となり肉と為ることを変壊という言い方をしています。段食は変壊することを以て相(体)となす食であるのです。 「段食は変壊する時、 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ) (2)
  •    『四食経』に説かれています「一切の有情は、皆食に依って住すという」のは、釈尊の成道にまつわるエピソードからの記述によるものと思われます。つまり、釈尊が五比丘と共に苦行をしていたことから離れて、スジャータの捧げる乳粥を食し、菩提を得たというエピソードにまつわる経典ですね。 『釈尊の生涯と思想』(水野弘元著)によりますと、 「釈尊は、これほどの苦行をしても、いっこうに効果が得られないので、身を苦 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ) (1)
  •   「教をもって教を成じ教によって理を成ずる。理をもって理を成じ理によって教を成ず。」(『成唯識論述記』) 「「経と言うは経なり。経能く緯を持ちて疋丈を成ずることを得て其の丈用有り。経能く法を持ちて理事相応し定散機に随いて零落せず。能く修趣の者をして必ず教行の縁因に籍りて願に乗じて往生して彼の無為の法楽を証せしむ。」(『観経四帖疏』・玄義分) (経は経糸と横糸を織りあい反物を完成させるはたらきをも [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (82) 雑染と清浄(3)
  •   今日は、清浄法についての『論』の記述を読みます。 清浄法に三ありと述べられます。 「諸の清浄の法にも亦三種有り、世(セ)と出世(シュッセ)との道(ドウ)と断果(ダンカ)と別なるが故に。」(『論』第四・十左)         世の道  清浄法 {  出世道の道  } 三つの種類の別がある。         断果 「有漏の六行を世道と名づけ、無漏の能治を出世道と名づけ、所得の無為を断果と名づけ、断は是れ果 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (81) 雑染と清浄(2)
  •  清浄法について述べる前に、復習になりますが、「心性本浄」(心性は本より浄なれども)の解釈について、もう一度読んでみたいと思います。『選注』ですとp34です。 護法合生義が述べられ、本有説並びに新熏説を破斥しました後に、分別論者を破す一段が設けられていまるのですが、ここに「心性本浄」の意味が明らかにされています。 「分別論者は、是の説を作(ナ)して心性(シンショウ)は本(モト)より浄なれども、客塵煩悩 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (80) 雑染と清浄(1)
  •   この掲示板の言葉、前半の「大事なもの」が清浄法で、後半の「いらないもの」が雑染法になりますね。 第十理証において、雑染と清浄という言葉についての説明があります。少し読んでみます。 「然も雑染の法に略して三種有り。煩悩と業と果と種類別なるが故に。」(『論』第四・十右) 『述記』(第四末・三十五左)の説明によりますと、 ・ 煩悩 ― 「三界見修に有る所の煩悩を煩悩と名づけ」  三界の倶生起・分別起 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (79)
  •    「しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。知るべし、と。 」(『行巻』) 最後の理証になります。第十は心染浄証(シンゼンジョウショウ) 「又契経に説かく、心雑染なるが故に有情雑染なり。心清浄なるが故に有情清浄なりと云う。若し此の識無くば、彼の染・浄の心有るべからざるが故に。」 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (78)
  •    滅定証という禅定は大きな課題であるわけですが、真宗では禅定は説きませんが、禅定はないのでしょうか。読経でも、法話でも、聴聞でも心が散乱麤動していては身につかないですね。 「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」(『化身土巻・本』真聖p340) 化身土巻で述べられている宗祖の、「修しがたし・行じがたし」という慚愧心は、観念ではないですね。人間からい [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (77)
  •  第九理証に入ります。 滅定証(メツジョウショウ)      滅尽定 定 〈       〉 無心定      無想定 「又、契経に説かく、滅定に住せる者は、身(シン)と語(ゴ)と心(シン)との行を皆滅せずということ無し。而も寿は滅せず、亦は煖(ナン)を離れず、根(コン)は変壊(ヘンネ)すること無く、識は身に離れずと云う。若し此の識無くば滅定に住せる者の、身に離せある識有る可からざるが故に。」(『論』第四・四右)  [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (76)
  •     四食証 (第八識の存在証明。五教十理の第八の証)   「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。・・・謂く契経に説けるに食(じき)に四種有り。一には段食(だんじき)。…二には触食(そくじき)。・・・三には意思食(いしじき)。・・・四には識食(しきじき)。・・・此の四は能く有情の身命を持して壊断(えだん)せざらしむが故に名けて食(じき)と為す。」)(『論』第四・初右)  食に四つあげ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (75)
  •    『倶舎論』の記述によりますと、命終の時は何の識が最後に滅するのかという問いに、頓死と漸死が説かれ、頓死の場合は意識と身根とが突然に滅すると言われ、漸死の場合、地獄・餓鬼・畜生の生を引く者は足から、人間に生まれたる者は臍から、天に生まれたる者は心臓の処で意識が滅すると説明されています。 この漸死の者は、命終の時に断末魔の苦しみがあるとされます。最後の意識が滅する時に、断末魔の苦しみに悩まされる [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (74)
  •    意味深いですね。大事なものは、仏法、真実の法です。現実的な表現ですと、支えられて生かされているいのちへの眼差しでしょうか。その眼差しが持ちえないのは、自分だけの世界に閉じこもっているからでしょう。禅では「父母未生以前の我」に帰れと言われますが、分別以前、言葉以前の我ですね。 そうしますとね、言葉を発する以前の我は、無分別の世界に遊んでいる。胎内での五位は有為法です。有為転変しながら無分別なん [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (73)
  • 名色互縁証の理由について説明がされます。少し読んでみます。 「謂く彼の経の中に自ら是の釈を作(ナ)さく、名(ミョウ)と云うは謂く非色の四蘊なり。」(『論』第三・三十四右) 非色は色蘊を除いた他の四蘊である、受・想・行・識で非色蘊と云う。 「名」とは非色の四蘊である、と。 「色」とは何であるかと云いますと、 「色とは謂く羯邏藍(コンララン)等なり。」カラランとも読みます。Kalalaの音写。胎内の五段階の所説になりま [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (73)
  •    『成唯識論』巻第八(『選注』p196)にですね、「三性と五事と相摂云何ぞ」と、問いが提起されています。この問いは、初能変で行相・所縁が明らかにされる中で、所縁の種子は「諸の相と名と分別との習気なり」を受けていると思うのですが、中心課題は第六意識ですね。現行識は意識されてあるもの、実有を顕しているわけですね。つまり、依他起として有るものです。 依他起は、阿頼耶識の所縁の種子から現行されてくるわけで [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (72)
  •   今日は、第六の生死証の概略になります。 第六・生死証 「又契経に説かく、諸の有情類の受生(ジュショウ)し命終(ミョウジュウ)するは必ず散(サン)と心(シン)とに住して無心と乗とには非ずと云う。」 「若し此の識無くば生じ死する時の心有るべからざるが故に。」(『論』第三・三十二右) 受生とは、母親の胎内の中に生命を受けること(いのちの誕生) 命終はいのちが終わるときです。 ですから、生まれるとき、死するときに [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (71)
  •   第五番目の壽煗識証(ジュナンシキショウ)についてです。 「又、契経に説かく。壽と煗と識との三、更互に依持して相続して住することを得と云う。」(『論』第三・三十一右) 壽と煗と識は生命を維持する三要素で、寿は持続している心、煗は身体のあたたかさ、体温。識は寿と煗を維持するはたらきを意味し、壽と煗と識との三法が互いに依持し相続して人間としての相を持つのですね。それを成りたたしめているのは間断が有ってはなら [続きを読む]
  • 八識の構造(本質と影像)図式
  •   第五番目の壽煗識証(ジュナンシキショウ)についてです。 「又、契経に説かく。壽と煗と識との三、更互に依持して相続して住することを得と云う。」(『論』第三・三十一右) 壽と煗と識は生命を維持する三要素で、寿は持続している心、煗は身体のあたたかさ、体温。識は寿と煗を維持するはたらきを意味し、壽と煗と識との三法が互いに依持し相続して人間としての相を持つのですね。それを成りたたしめているのは間断が有ってはなら [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (70)
  •    今日は、第四番目の執受証について考えてみたいと思います。概略です。 執受については、阿頼耶識の所縁のところで学んでいます。第三頌に「不可知執受」と。『論』は「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身となり。諸の種子とは、謂く諸の相・名・分別との習気なり。有根身とは、謂く諸の色根と及び根依処となり。此の二は皆是れ識に執受せられ、摂して自体と為して安危を同ずるが故に。執受と及び諸とは倶に是れ所縁な [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (69)
  •     「現実世界の中で生きる方向を見失い、人とのつながりを見失って絶望しえいたとき、浄土という世界に触れ、?浄土の力で人間を回復”していった心の軌跡を探る。この浄土の世界が、?現実の世界を真実として輝かせている”ことをこの身が少しずつ感覚しはじめていると気付かされる。」(帯び附より) 今日は第三の理証である「趣生体証(シュショウタショウ)」について説明します。文字からは想像もつきませんが、輪廻の主体は阿 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (68)
  •    十理証、二番目の異熟証についてです。 異熟は阿頼耶識の三相の果相、真異熟で、過去を背負った今(過去を背負っている自己)が成り立つのは第八識があるからであるということが理証になります。 「契経に説かく。異熟の心有って、善悪業を以て感ずと云う。若し此の識(第八識)無くば彼の異熟心有るべからざるが故に。」(『論』第三・二十七右) 異熟心は善悪業によって感ぜられたものですね、善悪業果位と表されますが [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (67)
  •    十理の概略を述べてみます。 『選注』本ではp55〜77迄です。 阿頼耶識といいますと、唯識の専門用語か、唯識独自の言葉のように思われるのですが、五教証の中でも論証されましたように、増壱阿含の中で仏陀は阿頼耶という言葉をお使いになっているのですね。『成唯識論』でも阿頼耶と云う言葉は大・小共許であると述べています。 「初の能変の識をば大・小乗教に阿頼耶と名く。」(『選注』p30)と。 阿頼耶は人 [続きを読む]