唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さん プロフィール

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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さん: 唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ハンドル名唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さん
ブログタイトル唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/seikannamo
サイト紹介文私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供227回 / 365日(平均4.4回/週) - 参加 2014/11/27 21:21

唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さんのブログ記事

  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (61)
  •    愛阿頼耶という、阿頼耶が愛おしいのでしょうね。愛おしいから執着をする、執着しています。満たしたいと云う欲求です。それは我心の隙間を埋めたいというものでしょうね。きつい言葉でいえば、相手を利用する心でしょう。相手に投げかけた愛は、本当は自分への愛であったのでしょう。 慈悲とか、慈愛は捨身の愛と云われていますが、捨身は無条件だと思います。私たちの愛には条件が付いているのと違いますか。私の意に添う [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (60)
  •    「愛を起して著する所の処は必ず阿頼耶ということを顕す」(『述記』)この慈恩大師の釈に深さを感じるのですが、阿頼耶を愛するとは、どういうことなのでしょうか。「我というは主宰、法というは軌持」という定義がされていましたが、この定義を伺いますと、私たちは大きな錯誤をしているように思いますね。 我・法は執着されるものではないということでしょう。ですと、私たちは執着を離れている所を愛しているということ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (59)
  •    昨日から問題になっています慈悲、翻訳すると抜苦与楽という利他を表す言葉です。中村先生の『慈悲』もう一度読み返したいと思います。 前回は「、阿頼耶を愛し」という増一阿含の言葉から第八識の存在も、原始仏教では容認されていることを述べました。ここで云う「愛」は自愛ですね。阿頼耶を愛する心がある。つまり、末那識の存在も認めていることになるんでしょうね。ここはね、本識から生み出された転識ですね。阿頼耶 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (58)
  •    読者よりお便りをいただきましたので紹介します(本人の承諾済みです) 「他者の痛みを感じる事はできない。共有することもできないでしょう。しかし他者の痛みを理解したい、取り除いてあげたい。と言う気持ちは重要なのではないでしょうか?様々な病を人類は克服してきました。不治の病も今では治る病になっています。これは、他者の痛みを共有したい。といった感情から産まれてきたのではないでしょうか?自分自身の問題 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (57)
  •    桑名の仏乗寺さんで「解深密経に学ぶ」を講義していただいています高柳先生の講義録を読み直しておりまして、その第七回にお話しくださいました巻頭言ですが、大変大事なことを教えておられますので紹介したいと思います。熟読ください。   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「この会の名称は「預流の会」という事でありますが、会が発足するご縁という事につきましては、生前に岐阜の高山 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (56)
  •    第五教証です。今までの教証は大乗側からの論証でしたが、第五教証は、小乗側の文献にも第八識を説いているものがあるということで引用してきます。「共許の教を引く」と云われています。 総じて言えば、 「余部の経の中にも亦密意を以て阿頼耶識は別の自体有りと説けり。」(『論』第三・二十二右) 「余部の経」、大乗仏教の経典以外の経、つまり小乗の経典ですね。その中にも、仏は密意をもって、小乗の経典には真意が [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (55)
  •    余部の経を尋ねてみれば、 小乗教の中にも密意を以て第八識の存在を認めている文献がある。概略を示します。 (1) 根本識 大衆部の阿含経の中で説かれている、六識の所依となるものが根本識であるという。 (2) 有分識 上座部・分別論者の教えの中で説かれているもので、恒相続にして三界に周遍し、三有の因となるという。有は生命的存在のこと。三界に生まれる因と為るということで、種子のことを認めていること [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (54)
  •    六番目の理由を述べます。 「能対治」です・。 能はよく、対治は滅ぼす力があるということですね。一切の煩悩を対治する力があるということですが、これは仏説でなかったなら云えないことです。大乗の経典に依って修行する者は無分別智を起し煩悩を対治すると云われます。 「六には能対治の故にという。大乗経に依って勤めて修行する者能く無分別智を引得して、能く正しく一切の煩悩を対治す。故に応に此れは是れ仏の所説 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (53)
  •     七種の内の三番目です。 「三には余境に非ざるが故にと云う。大乗の所説は、広大甚深にして外道等の思量の境界に非ず。彼の経論の中に曾って未だ説かざる所なり。設い彼の為に説くとも亦信受せざらん。故に大乗経は非仏の説に非ず。」(『論』第三・二十一右) 三番目の理由は、「非余境」である、と。大乗の教えは、外道や小乗とは違うと述べています。大乗の所説は、広大甚深、非常に勝れていて深いものであって、外道 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (52)
  •    本科段は『荘厳経論』巻第一(大正31・591a)を引用して、大乗は仏語であることを論証します。 「聖慈氏(弥勒菩薩)は七種の因を以て大乗経は真に是れ仏説なりと証したまえり。」(『論』第三・二十左) 『荘厳論』の頌は弥勒菩薩の所説で、長行は世親の所為であるといわれています。 弥勒菩薩は七種の理由を挙げて、大乗経は真に仏説であることを証明しておられる。 一通り読んでみます。 「一には先に記せざるが [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (51)
  •    先日、専立寺さんの永代経の法話で、墨林先生が、国という字の使い分けについて、日蓮上人の『立正安国論』に国の字が四字使われていることをを引き合いに出されて、国土の問題を話してくださいました。この問題にたいして、にしはら君が「ブッダクシェートラ。クシェートラを国土と古代訳経僧が翻訳しましたが、モニエルでみますと、畑、、fieldと記載されていたことも印象的でした」ととても興味あるコメントを寄越してくれ [続きを読む]
  • 雑感
  •  ブログに、にしはら君が貴重なコメントをくれました。国土はfieldと翻訳されている文献があります、と。国・国土のことですが、僕たちのイメージとしてはどうでしょうか。僕は、日本国・米国・英国等の国家を思い浮かべてしまうのですが。国家は国土の上に立っているわけでしょう。counntry或はlandと翻訳されます。浄土はcountryなのでしょうか。本願文でも先ず国土荘厳が説かれます。「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (50)
  •  桜の開花も寒さが影響して遅れていましたが、四月に入ってからの陽気で一気に開花しました。そしてもうすぐ灌仏会、お釈迦様のお誕生日です。  今日は、「量」についてですね。 四分義のところでは、一つの認識が成り立つ為の要素として量が用いられていました。所量・能量・量果ですね。 本科段での「量」は、至教量(シキョウリョウ)に摂めると云われています。現代の言葉でいえば、判断基準になる単位を量という、こういうこと [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (49)
  •    第八識の存在論証を上来は、『大乗阿毘達磨経』の頌を二句、『解深密経』・『楞伽経』を引用して説いてきましたが、これらの経典は大乗経典を引用しての論証であったわけです。そのことを、 「此れ等の無量の大乗経の中に皆別に此の第八識ありと説けり」(『論』第三・二十左) と述べられていました。 此れからは、大乗非仏説論に対して、大乗は仏説であることを論証していきます。 「下は外人経を以て定量ならずとす。 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (48)
  •    「下は比量を以て大乗経は是れ仏説なることを成ず。」(大乗仏説義) 大乗非仏説義にたいしての大乗側からの応答になります。 これまでの四教証は、大乗の主張を述べたものであって、部派の学徒にとっては容認することが出来ないものなんですね。そこで第五教証は大乗経が真に仏説であることを『荘厳論』の七因をもって論証してきます。『成唯識論』所説の『荘厳論』は、古くから大乗仏説義を説く書として学ばれています。 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (47)
  •  心が波立つ時や、頭が真っ白になる時等身に覚えがありますが、『楞伽経』には「境等の風に撃(キャク)せられて」と。境は対象或は環境と云ってもいいかと思いますが、境遇ですね。私たちは、境遇が私を支配していると思っています。私がこうして困っているのは貴方の精だと。あんたなんか信じられん、何を信じたらいいのか途方に暮れるわ等、環境の影響によって左右される自分を受け止めれないということがありますね。 確かに、 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (46)
  •    第四教証は『入楞伽経』の経文です。 安田先生は、「さらに『成唯識論』は『楞伽経』の経文を挙げるが、これは第三教証を補うものにとどめる。」と釈しておられます。 一応読むだけですが、眼を通したいと思います。 『入楞伽経』にも、第八識が説かれており、六識では説明のつかない、こころにはもっと深いものがある。こころの要が第八識であることを証明しているのです。 「入楞伽経に亦是の説を作す。」(『論』第三 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (45)
  •    「凡愚には開演せず」の意味について考えていましたが、凡・愚という人間は仏陀によって見出された存在でしょう。私の側からは凡・愚という自覚すらない存在であるわけでしょう。 仏陀の眼からみますと、確かに凡・愚という人間は存在するのかもしてません。「此に於て分別の執を起こす」から、「開演せず」。「勝者のみに我開示す」と。 自己保身に関わってくる問題であろうと思います。「恒審思量」を固める手段になるこ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (44)
  •   三月も最終週に入り、卒業式そしてやがて入学式。社会では異動や入社式と節目にしては慌ただしく季節が通り過ぎようとしています。何か、四月と云う声を聞きますと、「気合を入れて」と思うのですが、四月は第二週の9日、11日が皆さんと考えさせていただくご縁を頂戴するわけですが、またまた資料ができておりません。また怒られそうだなぁと思いながら時は過ぎ去ってゆきます。 「見えないところで、つながりあって生きて [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (43)
  •   https://youtu.be/zYuPAPoD6DU 『述記』の説明を伺います。 「述して曰く、若し分別の我・法二執を起こすときは、凡は悪趣に堕し愚は聖道を障う。凡は聖道無きが故に愚は聖を生ず可きが故に。故に各偏の義を以て説く。此の過有らんかを恐れて「故に我が世尊為に開演せず」という。」 聖道は無漏の聖智をさします。 次の釈には大事なことが述べられています。 「然も凡・愚の為に第八を説かざるときも、凡と愚との第七識は [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (42)
  •    阿頼耶識の所縁は二の執受と処であると明らかにされているのですが、阿陀那というときには、さらに二の執受を種子は執持とし、有根身を執受と厳密なんですね。それは覚受作用があるのか、無いのかによって定められています。覚受は五遍行の受、感受作用ではなく、感覚であると説明されていました。 覚受とはどういうことなのだろうかと思いましたら、意外なところでこういうことなんだと思い至りました。 年老いるというこ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (41)
  •   ちょっと雑談です。「お遍路訴訟、62番札所の脱退認める。霊場会の請求棄却」という記事が流れました。此れに関しての北田さんのコメント、グサッときました。さすがはもとジャーナリストですね。感性が素晴らしいですね。北田さんは、今の仏教界は曖昧な性善説に頼っているから、トラブルが起こるんだと指摘されています。はっきりしていないのは情けないですね。僕も昔のことですが、あるお坊さんから、河内君は人間は性善 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (40)
  •    阿陀那識の三義を説きおわって、凡夫と二乗の性が明かされます。 甚深と甚細の義を以て、凡夫と二乗の種姓の違いがあるのですね。 「無姓有情(ムショウウジョウ)は底を窮むること能わざるが故に甚深と説く。趣寂種姓(シュジャクシュショウ)は通達(ツウダツ)すること能わざるが故に甚細と名く。」(『論』第三・十九左) (無姓有情(凡夫)は無漏の種子を持っていないので甚深と説いている。非常に深い意味があることを容易に知ること [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (39)
  •  昨日は、執持・執受・執取について少し考えました。 さらに考究を進めていきたいと思います。 「阿陀那」の名を、三義を以て解釈している一段になります。 『摂論』巻第一には、第八識を何故阿陀那識と名づけるのかという問いが出されています。 「何の縁にて此の識を亦復説いて阿陀那識と名くるや、一切の有色の根を執受するが故に、一切の自体の取る所依なるが故なり。所以は何ん、有色の諸根はこの執受に由りて失壊(シツエ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (38)
  •   第三教証に入っています。 第八識の存在論証として阿陀那識を挙げています。第八識の異名ですが、 阿頼耶識という場合は、ものを貯蔵する蔵という意味を持って、三義が説かれていました。 「一切の雑染品の法を摂蔵して失せざらしむるが故に。」− 能蔵の義 「我見愛の等きに執蔵せられて自の内我と為するを以ての故に。」 − 執蔵の義 (我愛に縁りたるをば執蔵の義と無し、即ち此の識を所蔵と為す。) − 所蔵の義 [続きを読む]