ひろかずのブログ さん プロフィール

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ひろかずのブログさん: ひろかずのブログ
ハンドル名ひろかずのブログ さん
ブログタイトルひろかずのブログ
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630
サイト紹介文加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供386回 / 365日(平均7.4回/週) - 参加 2014/12/02 13:43

ひろかずのブログ さんのブログ記事

  • 大庄屋・大歳家(30) 高砂組から新野辺組へ
  •      高砂組から新野辺組へ 寛延二年(1749)、姫路藩に一揆が荒れ狂いました。 藩は、一揆後大改革を実施しました。今まで26あった大庄屋を13(文化9年に12)に削減しました。 この時まで新野辺村は、高砂組の三浦家の支配下の村でした。 しかし、三浦家に一揆が押し寄せ、打ち壊され、一揆後大庄屋を免じられています。    一揆、梅谷家(新野辺の庄屋)を襲う この時、大庄屋でなかったのですが、新野辺村の庄屋の [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(29) 姫路藩・播磨全藩一揆
  •   大庄屋を話題にするとき、寛延二年(1749)の「播磨全藩一揆」を避けることはできません。 今日は、大歳家の話題が登場しませんが、「姫路藩・播磨全藩一揆」を紹介しましょう。   姫路藩・播磨全藩一揆  新野辺村の属する姫路藩にとって、元文から寛延にかけての時期は、まさに怒涛のような時代でした。姫路藩最大の危機であった大一揆がおきています。 1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決ま [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(29) 姫路藩・播磨全藩一揆
  •  大庄屋を取り上げるとき、寛延二年(1749)の「播磨全藩一揆」を避けることはできません。 今日は、大歳家の話題が登場しませんが、「姫路藩・播磨全藩一揆」を紹介しましょう。     姫路藩・播磨全藩一揆  新野辺村の属する姫路藩にとって、元文から寛延にかけての時期は、まさに怒涛のような時代でした。姫路藩最大の危機であった大一揆がおきています。 1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(28) 大歳家が大庄屋に任命された理由とは
  •   大歳家が大庄屋に任命された理由とは 「大庄屋・大歳家(1)」で、「・・・・新野辺村の大歳家は、天明八年(1788)〜寛政二年(1795)頃に新野辺村の庄屋を務めました。 その後、文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、天保9年(1838)大歳藤八郎は、新野辺組の大庄屋を藩より命じられたのです。 しかし、藤八郎が大庄屋に任命された理由は、はっきりとは分かっていません」と書きました。  [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(27) 新野辺は三重構造の村
  •  大歳家は、多くの貴重な古文書が保存されていることでも知られています。 嘉永四年(1851)当時の古文書から村のようすを拾ってみます。    新野辺は三重構造の村 歴史学者の羽田真也氏は、幕末の新野辺村の特色を「大歳家文書」から次の3点(①〜③)を指摘されています 今日の報告は『ヒストリア(193号)』の羽田先生の「播州姫路藩における大庄屋と村」を参照させていただきました。 ①新野辺村の土地は、ほぼ村内だ [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(26) もと、新野辺村の庄屋は梅谷家
  •     延享二年(1745)新野辺村の庄屋は梅谷家 新野辺村の大歳家は、天明5年(1785)年に新野辺村の庄屋に任命されています。 それ以前、新野辺村の庄屋は梅谷家でした。 梅谷家は大歳と庄屋を交替するまで庄屋を務めており、元文二年(1737)当時でも100石余を所持しており、近世初頭以来、新野辺村の有力な地主としてきた家であろうと思われます。 大歳家は、文化二年(1805)の38石余りから嘉永4年(1851)の95石へと梅 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(25) 若き研究者からの提言(4)、4つのステップ
  •    大歳家の継続・活用の基礎的提案 *論文は、適当な個所をつまみ食いし、文章も若干変えて掲載させていただいています。  第1ステップ  ◇人脈の確保:活動するにあたり、ある程度の人数がいなければ活動の幅が広げることが出来ない。 パンフレット、ポスター、ホームページの作成や回覧板への掲載等の、広報活動を活発に行うことが必要である。 ◇庭の整備:雑草がたくさん生えている状態であり、除草剤 を散布し [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(22) 若き研究者からの提言(1)
  •   若き研究者からの提言(1) 若い研究者たちが「古民家を核にした伝統的集落活性化に関する研究」として、大歳家の保存に関して提言をおこなっておられます。 保存運動のヒントにしましょう。 その一部を読んでみます。論文と筆者は次の方です。  古民家を核にした伝統的集落活性化に関する研究   明石工業高等専門学校専攻科 建築・都市システム学専攻 桃野みゆき                   明石工 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(21) 大庄屋・大歳家公開⑩、総米蔵②
  •      総 米 蔵② 以下の大歳家の米蔵の説明は、「文化遺産オンライン」よりの抜粋です。  ・・・主屋の南方、南庭の中央でやや穀物蔵寄りに建つ。  桁行5間、梁間2間半、桟瓦葺、切妻屋根、平入の比較的規模の大きな蔵で,入口両脇の腰をなまこ壁とする。  棟の軸が、この棟だけ微妙にずれていることから、主屋より古い可能性がある。・・・  現在の米蔵は、見た目に大きな傷みはないのですが、やっぱり「なまこ壁」 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(20) 大庄屋・大歳家公開⑨、総米蔵①
  •     総 米 蔵① 安政元年(1854)当時、大歳家は新野辺村において分家を含め97石を所持していました。 新野辺以外の土地を拡大させつつも、新野辺村の所持地こそが、大歳家の経営の中心でした。 大歳家は大地主でもあったのです。 安政元年四月の大歳家に残る古文書によれば、大歳家は分家を含んだ村内の所持地と数石程度の池田村・別府村内の所持地とを一括して管理していました。 大歳家は、小作地では80人の小作人を [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(19) 大庄屋・大歳家公開⑧、消えた石庭を囲む塀
  • 消えた石庭を囲む塀 大歳家に残る古い写真を紹介しましょう。  上の写真は、いつごろ撮影されたものかよくわかりません。 子どもは、すごくモダンな服ですが、戦後すぐのころに撮影されたものではないかということです。 それにしても、藤の花はきれいですね。 大歳家と見事に調和しています。 この写真の藤棚の奥に立派な塀を後らになりますが、石庭を取り囲む塀です。 入口をくぐると、そこは茶 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(18) 大庄屋・大歳家公開⑦、石庭の現状
  •    石庭・茶室の復元を 「14・上段の間(じょうだんのま)」の図と「12・大庄屋・大歳家敷地公開」の図を併せてご覧ください。 「上段の間」の前(南)は石庭です。その石庭に前回紹介した茶室があります。 茶室のある石庭は、今はなくなりましたが、垣で囲まれた一角でした。 上段の間から、客人は石庭、茶室を眺めました。   しずかでいい庭ですね。落ちつきますわ・・・   後でお茶でもいかがですか  [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(17) 大庄屋・大歳家公開⑥、茶室
  •    心傷む茶室の現状 大歳家を見学に来られた方が一番印象に残こり、心を痛められるのが茶室の現状のようです。 淡路阪神大震災で一番大きな痛手を受けました。 ものすごい壊れ方です。 基礎から新しく再建しなければ使えません。 その茶室は「上段の間」からいちばん目につく場所にあります。 大歳家全体の保存再建が目標ですが、一番急がれるのがこの茶室の再建でしょう。 茶室が再建され、茶会が開かれ、周囲に花が植 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(16) 大庄屋・大歳家公開⑤、竜吐水
  •     竜吐水(りゅうどすい) 竜吐水をご存知でしょうか。江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具(火消しの道具)です。 それにしても、「竜が水を吐く」とはすごい命名ですね。  竜吐水は、火事・火災の際、屋根の上に水をかけ、延焼防止をする程度の消火能力しか持たなかったと言われる木製のポンプ式放水具です。 大歳家の大戸口を開けて入った左手に、この竜吐水が天井からぶら下げて保存されています。  前 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(14) 大庄屋・大歳家公開③、上段の間
  •  大歳家の正門を入ります。 石ふみを少し歩くと、そこは玄関です。 玄関は「大庄屋・大歳家の(1)・(10)」の写真をご覧ください。 「ごめんくださ〜い」 夏場は、外気から遮断され気持ちの良い涼しい空間です。 この建物が主屋で、多くの部屋があります。 その突きあたりの部屋が「上段の間」です。    上段の間(じょうだんのま)  上段の間は武家屋敷で見られる書院造です。  大歳家は大庄屋といえども、やはり [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(13) 大庄屋・大歳家公開②、正門
  •    大庄屋(大歳家)の正門 大歳家は、屋敷の広さは約2480?、建物の床面積は約1890?で、ひときわおおきな屋敷であるため、すぐに見つけることができます。 が、原則、現在大歳家は一般に公開されていません。 でも、①の正門は、道に面しており、いつでも見ることはできます。 その大きさから当時の大庄屋の賑わいを想像することができます。 近くへ行かれたときは、とりあえず大歳家の正門だけでもご覧ください。  [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(12) 大庄屋・大歳家敷地公開①
  • 大庄屋・大歳家敷地を公開しま〜す 前号では大歳家の場所を紹介しましたが、現在大歳家は一般に公開されていません。 そのため、図・写真で大歳家を紹介しましょう。 今日は、大歳家の平面図です。 大歳家は、天保6年(1835)年に建てられた入母屋本瓦葺、屋敷の広さは約2480m?、建物の床面積は約1890m?で、南東隅に新宅があります。 敷地は、整形で四方は街路に囲まれています。 図は、「大庄屋・大歳家」 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(11) 大歳家はどこ?
  •    大歳家を知ろう 前号で「大歳家の認知度」をみました。 「あなたは、江戸時代の大庄屋・大歳家が新野辺にあることを知っていますか」という質問に、98%の人が「知らない」と答えているのです。 ある程度予想していたのですが、それにしても少なすぎる数字です。 大歳家は歴史的に大切な遺産(レガシー)だといっても、このままでは「大歳家の保存運動」は盛り上がりません。 何らかの仕掛けが必要のようです [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(10) 大歳家の認知度(知っている)は8%
  •  明石工業専門学校専攻科(建築・都市システム専攻)の桃井みゆきさんらのグループは、「古民家活用を核にした伝統的集落の活用に関する研究(加古川市別府町大歳家住宅を事例として)」という論文をまとめられています。   大歳家の認知度(知っている)は8% この論文の加古川市別府町での研究の背景・目的の一部を読んでみましょう。 〜中略〜  「本研究では、大歳家という歴史文化遺産を中心として、地域住民との関わり [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(8) 新野辺町内会文書②・出かせぎ、約90人
  •  きょうも大歳家(文書)の紹介ではありません。新野辺町内会文書を紹介しましょう。 『加古川市史(第二巻)』の「新野辺村の商工業」(p499)を参照します。 それにしても、江戸時代、地味が悪く、水が少なかった新野辺村の人々は、大勢が出稼ぎに出かけたようです。   新野辺町内会文書②    出かせぎ、約90人・(新野辺村明細帳・寛延三年より)    新野辺村の人数 1075人     内  男  544人 [続きを読む]
  • 大庄屋・大歳家(7) 新野辺町内会文書①
  •  いま、新野辺組大歳家「大歳家」、新野辺には大歳家文書だけでなく、江戸時代から主に明治時代にかけての貴重な「新野辺町内会文書」が保存されています。 これら大量の文書が保存されているのは珍しいことです。 「大歳家文書」から少しそれますが、新野辺町内会文書について、少し紹介しておきましょう。      新野辺町内会文書① 新野辺第一町内会にも古文書が、新野辺公民館に保管されています。 七百数十点に及び [続きを読む]