松原洋一・UAG美術家研究所 さん プロフィール

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松原洋一・UAG美術家研究所さん: 松原洋一・UAG美術家研究所
ハンドル名松原洋一・UAG美術家研究所 さん
ブログタイトル松原洋一・UAG美術家研究所
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/ma2bara
サイト紹介文近世から明治中期に活動し、ネット検索をしても出てこない画家を中心に紹介。ただいま長崎県を探索中。
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更新頻度(1年)情報提供227回 / 365日(平均4.4回/週) - 参加 2014/12/04 17:27

松原洋一・UAG美術家研究所 さんのブログ記事

  • 長崎洋風画の先駆者・若杉五十八と荒木如元
  • 文献:肥前の近世絵画、長崎絵画全史、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、百花繚乱の世界−江戸・化政期の絵画−キリスト教の禁止令とともに、西洋画もその弾圧の対象とされ、さまざまな制約が加えられるようになった。唯一の開港地だった長崎では、西洋や中国の文化が流入する得意な環境のもと、オランダ人やオランダ船などの西洋の風俗が描かれていたが、それは従来の日本画の手法によるものだった。これに対し、蘭学の [続きを読む]
  • 南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人
  • 文献:沈南蘋と南蘋系絵画展、江戸の異国趣味−南蘋風大流行−、宋紫石とその時代南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その [続きを読む]
  • 唐絵目利広渡家の画系
  • 文献:唐絵目利と同門、長崎絵画全史唐絵目利四家のひとつである広渡家は、武雄鍋島藩で御用絵師をつとめていた初代広渡心海に学んだ広渡一湖(1644-1702)に始まる。一湖は熊本の生まれだが、24歳で長崎に移り住み、心海が一時長崎に滞在していた際に画法を学んだ。一湖は末次姓だったが、心海とは親族の間柄だったため、心海の許しを得て、氏を広渡に改めることとなった。さらに一湖は、長崎に渡来した陳清斎にも学び、元禄1 [続きを読む]
  • 唐絵目利石崎家初代・石崎元徳らを輩出した小原慶山の画系
  • 文献:唐絵目利と同門、長崎絵画全史初期の長崎画壇に大きな影響をあたえた小原慶山(不明-1733)は、丹波に生まれ、京都を経て江戸に出て狩野洞雲に学んだ。その後、長崎に移り住み河村若芝に師事した。作品には雪舟派や狩野派の筆致がみられ、唐絵風の作品も残っている。花卉禽類の描写に長け、人物なども巧みで、黄檗僧の肖像などには喜多元規の影響がみられる。墨梅や墨龍なども得意とし、沈南蘋が長崎に渡来してきた際には、 [続きを読む]
  • 長崎唐絵の奇才・河村若芝とその画系
  • 文献:肥前の近世絵画、長崎絵画全史、隠元禅師と黄檗宗の絵画展渡辺鶴洲と並び、逸然性融門下の双璧と謳われた河村若芝(1630-1707)は、師の奇狂な造形美をさらに増幅させた画風で、長崎唐絵の代表的な奇才と称されている。若芝は、肥前佐賀の豪族の出身で、故あって長崎に隠遁したと伝えられ、長崎では黄檗僧と交友し、画を逸然性融に学び、喜多元規の画風も参考にしたとみられる。また、木庵から腐食象嵌法を学び、鍔細工にも [続きを読む]
  • 続長崎画人伝を記した鶴洲の高弟・荒木千洲とその画系
  • 文献:唐絵目利と同門 長崎画人伝によって唐絵目利の画系を後世に残す渡辺鶴洲の仕事は、その高弟である荒木千洲(1807-1876)によって引き継がれた。千洲が編纂した続長崎画人伝では、師の鶴洲およびその系統に属する人々、荒木元融系の人々、南宗画家の鉄翁、逸雲、梧門の系統に属する人々らの略歴がまとめられた。さらに、その仕事は千洲の甥で門人の熊本峻斎(1820-1890)によって引き継がれ、叔父の千洲ならびにその門人の [続きを読む]
  • 長崎画人伝を著した唐絵目利渡辺家七代・渡辺鶴洲
  • 文献:唐絵目利と同門唐絵目利渡辺家7代を継いだ渡辺鶴洲(1778-1830)は、長崎画人伝の著者としても知られる。長崎画人伝は、一度途絶えたような形となった渡辺家を継いだ鶴洲が、唐絵目利の中での渡辺家の存在の挽回をはかるために代々の唐絵目利について書き残したもので、唐絵目利研究の重要な資料となっている。その遺稿は高弟の荒木千洲に伝わり、嘉永年間、朝岡三次郎が千洲よりその写しを得て、これをその名著古画備考に [続きを読む]
  • 唐絵目利の祖・渡辺秀石とその画系
  • 文献:唐絵目利と同門、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝唐絵目利とは、長崎の地役人のひとつで、江戸時代唯一の開港地だった長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを鑑定、さらにその画法を習得することを主な業務とした。当初、絵目利と呼ばれていたが、元禄10年に渡辺秀石の時に唐絵目利と改められ、秀石がその祖と称された。世襲制で引き継がれ、はじめは渡辺、石崎、広渡の3家だったが、享保19年に荒木家が加わり4家 [続きを読む]
  • 長崎漢画の祖・逸然性融
  • 文献:長崎の肖像 長崎派の美術家列伝、隠元禅師と黄檗宗の絵画展、長崎の美術−300年展、長崎絵画全史隠元隆琦によって長崎に伝えられた黄檗宗には、黄檗肖像法によって肖像画を描いた喜多氏ら肖像画工のほか、興福寺の僧・逸然性融(1601-1668)を開祖とする漢画(唐絵)のグループがあった。漢画とは、江戸時代に中国から伝わった明清画風の影響を受けて成立した絵画様式を指すもので、そのひとつの中心として黄檗宗が機能し [続きを読む]
  • 黄檗肖像画家・喜多元規とその画系
  • 文献:長崎の美術−300年展、長崎絵画全史17世紀中頃、黄檗宗の僧・隠元隆琦が渡来し、我が国に黄檗宗を伝えると、木庵性稲や即非如一、独立性易ら黄檗僧が続々と渡来し、長崎は黄檗文化の一大中心地となった。中国黄檗僧の渡来によって盛んになった黄檗宗は、頂相として祖師の肖像画を必要とした。その肖像画法を中国から伝えたのは、正保元年長崎に渡来して興福寺第3代住職となった逸然性融である。黄檗肖像法は、喜多氏の [続きを読む]
  • 南蛮美術と長崎の南蛮絵師
  • 文献:原色日本の美術 20 南蛮美術と洋風画、長崎の美術−300年展、南蛮絵師・山田右衛門作、長崎絵画全史天文12年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝え、続く天文18年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた。この時に来日したポルトガル人やスペイン人を総称して南蛮人と呼び、彼らがもたらした西洋文化に刺激されて形成された異国情緒豊かな美術を南蛮美術と称した。多彩 [続きを読む]
  • 佐賀美術協会の創立と佐賀出身の画家たち
  • 文献:佐賀幕末明治500人、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち−アカデミズムの潮流−大正2年、東京上野の茶屋に久米桂一郎、岡田三郎助ら佐賀県出身の画家が集まった。メンバーは久米、岡田のほかに、田雑五郎、山口亮一、御厨純一、北島浅一、さらに藤田遜ら東京美術学校の在学生たちも加わった。この会合で佐賀で展覧会を開くことが決まり、さっそく佐賀美術協会が創設された。第1回展の出品 [続きを読む]
  • 北島浅一ら東京美術学校に学んだ佐賀の洋画家
  • 文献:東京藝術大学百年史、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち−アカデミズムの潮流−明治20年に東京美術学校が創設され、29年に西洋画科が新設されると、佐賀県の若者たちも上京して洋画を学ぶようになった。明治期に東京美術学校西洋画科に学んだ佐賀県出身の者としては、明治35年に入学した陣内貞義が最初である。次いで、38年入学の北古賀順橘、39年の山口亮一、中溝四郎、40年の北 [続きを読む]
  • 明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎と岡田三郎助
  • 文献:西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち−アカデミズムの潮流−黒田清輝とともに日本洋画に外光派の画風を取り入れ、洋画団体白馬会を結成するなど、明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎(1866-1934)は、佐賀城下に生まれ、8歳の時に家族とともに上京した。幼いころから画に関心を示していた久米は、18歳で藤雅三に師事、その後は藤の紹介により渡仏し、外光派の画家、ラファエル・コ [続きを読む]
  • 百武兼行によってはじまる佐賀洋画
  • 文献:西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち−アカデミズムの潮流−、佐賀幕末明治500人佐賀藩最後の藩主となった鍋島直大は、維新後は新政府の要職につくほか、明治4年には政府派遣の欧米視察団としてアメリカに渡り、その後はイギリスに留学した。その時に直大に随行したのが、御相手役として直大に仕えていた百武兼行(1843-1884)である。百武は、明治7年と12年に一時帰国しているが、15 [続きを読む]
  • 天龍道人ら肥前佐賀の南画家と岸派
  • 文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀幕末明治の500人18世紀に入ってから盛んになった南画では、文化6年に92歳で没した異数の人・天龍道人(1718-1809)がいる。天龍道人は、肥前鹿島に生まれ、のちに諸国を漫遊し諏訪で一家を成した。鷹や葡萄の画をよくし、晩年は葡萄和尚と称した。幕末期に文人趣味による画をよくした武富圯南(1806-1875)は、佐賀の文化、学術の発展につとめた。圯南に学んだ柴田花守(1809 [続きを読む]
  • 名所図会絵師として名を高めた長谷川雪旦と唐津藩
  • 文献:江戸の絵師 雪旦・雪堤 その知られざる世界、肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志唐津藩の御用絵師としては、文化14年以降この地を治めた小笠原氏の絵師となった江戸の画家・長谷川雪旦(1778-1843)が知られている。雪旦は、40代で唐津藩小笠原家の御用絵師となり、藩主小笠原長昌と一緒に唐津に随行した時の道中の景観や様子を画帖に仕立てている。唐津には2度ほど滞在し、江戸ではあまり見ない構図 [続きを読む]
  • 草場佩川と多久の先覚者
  • 文献:佐賀偉人伝 草場佩川、多久の先覚者書画早い時期から東原庠舎や多久聖廟が創建された多久では、文教の基盤が確立され、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した先駆者を多く輩出した。多久生まれの草場佩川(1787-1867)は、詩歌書画にすぐれ、東原庠舎、弘道館の教授として多くの人材を育てた。その子・草場船山(1819-1887)は、幼いころから頭角をあらわし、東原庠舎の教授となり、さらにその子・草場金台(1858-1933 [続きを読む]
  • 鱗が1枚欠けた蟠龍・御厨夏園による多久聖廟の天井画
  • 文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志佐賀藩多久領四代領主・多久茂文(1669-1711)は、幼いころから学問を好み、18歳で家督を相続してからは、多久の人々の教育促進のため、学問所である東原庠舎や、孔子像を安置した多久聖廟を建立、文教の地の基盤をつくった。現在でも多久市は「孔子の里」としてその精神を受け継いでおり、多久聖廟は国の重要文化財に指定されている。多久聖廟の天井には巨大な蟠龍が [続きを読む]
  • 二人の広渡心海と肥前武雄の絵師
  • 文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志肥前武雄では、広渡雪山の弟にあたる初代広渡心海(1596-1685)が、武雄邑主のお抱え絵師として活躍した。心海の没後は、心海に嫡男がいなかったため、女婿の広渡武則に家督を継がせて絵師としたが、武則の嫡男・権八に子がなく、その技法を継ぐものもおらず、武雄での広渡家は一時途絶えてしまった。一方で、広渡家の支流として、初代心海に学んだ広渡一湖が長崎で唐絵 [続きを読む]
  • 佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂とその時代の画人
  • 文献:鍋島綱茂の文芸、肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画肥前佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂(1652-1706)は、博学で諸芸に通じ、才智無双の殿様として世人に称嘆されたという。幕府の学問を司っていた林家一門、殊に林鳳岡や人見竹洞と懇意にしており、鳳岡、竹洞の詩文集にもしばしばその名がみられる。二代藩主・勝茂の頃までは乱世の時代で、佐賀藩としても儒者を召し抱えることはなく、文章などを書くのは主に僧侶だったが、三代 [続きを読む]
  • 肥前佐賀藩の絵師たち
  • 文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画肥前佐賀藩においては、初代藩主・鍋島勝茂、三代・綱茂、八代・治茂の代に比較的多くの絵師の名前がみられる。しかし、藩御用絵師の世襲、または門人らによる画風の継承はきわめて断続的だったようである。初代藩主の勝茂の時代には、葉山朝湖、狩野友巴、大園明政、小原友閑斎、広渡雪山らが藩の絵師として名前が残っているが、葉山朝湖(不明-不明)は、藩主の命によって江戸で狩野派を [続きを読む]
  • 日本初のユネスコ世界記憶遺産・山本作兵衛の炭坑記録画
  • 文献:山本作兵衛と炭鉱の記録、山本作兵衛展筑豊炭田の中心地である嘉穂郡に生まれた山本作兵衛(1892-1984)は、7歳のころから親の手伝いで坑内で働きはじめ、以来50年以上を炭坑労働者としてヤマとともに生きた。当初は高度経済成長とともに発展していた炭坑だが、石炭産業合理化により衰退、閉山が相次ぐようになった。炭鉱の閉鎖により夜警宿直員として働いていた作兵衛は、消え行く炭坑の様子を子孫に伝えなければならな [続きを読む]
  • タイガー立石と筑豊の画家
  • 文献:多彩な美 田川市美術館の歩み、福岡県の近代絵画展、福岡県西洋画 近代画人名鑑、福岡県が生んだ画家たち展炭鉱で栄えた筑豊地区は、戦中戦後の混乱期に石炭増産に沸き、中央から映画や芝居、漫画といった多くの大衆文化が流入してきた。戦後前衛美術の旗手の一人として活躍したタイガー立石(1941-1998)は、田川に生まれ、その特異な活気の中で多くのものを吸収し、作家としての素養を形成していった。上京後は「観光」を [続きを読む]
  • 寺田政明と福岡の異色洋画家
  • 文献:生誕100年 寺田政明展、福岡県の近代絵画展、近代洋画と福岡県、福岡県西洋画 近代画人名鑑福岡県八幡市(現北九州市)に生まれた寺田政明(1912-1989)は、16歳で上京、福沢一郎や松本竣介らと前衛美術運動を展開し、池袋モンパルナスの中心人物として活躍した。田川郡赤池町生まれの長末友喜(1916-1949)は、寺田のすすめで活動をともにし八幡市美術協会の設立に参加するなど地元でも活動していたが33歳で早世した [続きを読む]