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魂の安寧を求めて カトリック初心者のブログ https://blog.goo.ne.jp/healingheart1019

孤独になりがちな現代人です。魂の安寧を求めカトリックを訪れました。カトリックが主ですが、他の宗派・宗

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2014/12/30

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  • 「コリント人への手紙」より

    仕事の事情などでブログへの投稿を怠ってしまい、申し訳ございません。今回は、使徒パウロによる聖書の一説であるが、一般の信徒にも主への道を配慮していただけている一節を掲載したい。わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主を喜ばせようとするが、結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのである。未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである...「コリント人への手紙」より

  • メシアとの出会い

    本日のミサの中で、印象的であり私自身もっと理解を深めたい一節を掲載する。その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見...メシアとの出会い

  • すべての者へ、福音を

    このブログの更新が滞っていてしまって、申し訳ございません。先日のミサの中の、福音の恵みを万人に与え給うという一節を紹介したい。あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるとい...すべての者へ、福音を

  • 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ

    明けましておめでとうございます。AHappyNewYear!このブログを訪れている皆様、ありがとうございます。皆様に神のご加護がありますように。また、このブログを読んでいただいた方々に、神のご加護と祝福があるように努めてまいりたいと存じます。(使い古された言い方ではありますが)この「物質文明・経済・力への意思が万能であるかのような時代」にあって、それでも「人間性」「道徳」「魂」の「安寧」を求め、人間への幸福がもたらされるよう、祈り、このブログを綴ってまいりたいと思います。また、「物質文明・経済・力への意思が万能であるかのような時代」であるからこそ、神・宗教・道徳というものの重要性がますます高まっているようにも思われます。というのは、物質文明・経済・力というものはそれが高度で巨大になればなるほど、えてして「不安定...聖マキシミリアノ・マリア・コルベ

  • 箴言より 第12節

    再度、「箴言」から(ここに訪れていただいた方々の今後のために)第12節を引用したい。戒めを愛する人は知識を愛する、懲らしめを憎む者は愚かである。善人は主の恵みをうけ、悪い計りごとを設ける人は主に罰せられる。人は悪をもって堅く立つことはできない、正しい人の根は動くことはない。賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は夫の骨に生じた腐れのようなものである。正しい人の考えは公正である、悪しき者の計ることは偽りである。悪しき者の言葉は、人の血を流そうとうかがう、正しい人の口は人を救う。悪しき者は倒されて、うせ去る、正しい人の家は堅く立つ。人はその悟りにしたがって、ほめられ、心のねじけた者は、卑しめられる。身分の低い人でも自分で働く者は、みずから高ぶって食に乏しい者にまさる。正しい人はその家畜の命を顧みる、悪しき者は...箴言より第12節

  • 旧約聖書より「箴言」

    先日、旧約聖書より「箴言」の「有能な妻」に関する一節を紹介した。自分はもともと「新約聖書の救い」に心惹かれ、キリスト教・カトリックを訪れた。ミサで偶々(という言葉は無いのかもしれないが)「箴言」のお言葉をいただき、その知恵に頷かされた。率直に言うと、いままでの人生、特にこの数年右往左往していたことに対して、(後日論ではあるが)「進むべき」(だった)方向性を示していただけたよううであった。もっと早く、この「人類の英知」である「旧約聖書」にであっていたならば・・・。下記は「箴言」の「父の諭し」の一説わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、銀を求めるように、これを求め、か...旧約聖書より「箴言」

  • マリアへのお告げ(「ルカによる福音書」より)

    最近仕事上の忙しさの故ブログの更新が少々滞っていた。先日は少々女性への苦言ともなってしまっていたため、今回は女性を含め希望を持てるような内容を紹介したい。御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえら...マリアへのお告げ(「ルカによる福音書」より)

  • わたしは主によって喜び楽しむ (「イザヤ書」より)

    現在、待降節の期間でありクリスマスへの準備にあたる期間である。そのような中、希望をもたらす一節を紹介したい。主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再...わたしは主によって喜び楽しむ(「イザヤ書」より)

  • 一日は千年のようで、千年は一日のようである。

    本日は、「ペトロの手紙」より以下の一節を掲載したい。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔...一日は千年のようで、千年は一日のようである。

  • 言葉よりも行い (マタイによる福音書より)

    本日は、マタイによる福音書から次の一節を紹介したい。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、私から離れ去れ。』」単に、表面上・形式上それらしく振まうことではなく、御心・その本質を理解し実行していることが大切であるということであろうか。考えさせられる一節である。言葉よりも行い(マタイによる福音書より)

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