シゲさん さん プロフィール

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シゲさんさん: シゲさんのblog
ハンドル名シゲさん さん
ブログタイトルシゲさんのblog
ブログURLhttp://shigeaki0303.hatenablog.com/
サイト紹介文何もできない団塊世代。日本経済、政治、無法者の歴史等を何でも書きます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供29回 / 70日(平均2.9回/週) - 参加 2015/01/11 22:58

シゲさん さんのブログ記事

  • 次郎長のお目付け役博徒・安東文吉という人
  • 安東文吉は駿河国府中(現・静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の博徒である。別名「暗闇の代官」「日本一の首つなぎ親分」と呼ばれ、その評価はさまざまである。(博徒名) 安東文吉   (本名) 西谷文吉(生没年) 文化5年(1808年)〜明治4年(1871年) 享年64歳      府中の自宅で病死安東文吉は駿河国安倍郡安東村(現・静岡市葵区)の豪農である西谷甲右衛門の子として生まれる。大柄で力もあるため、弟の辰五 [続きを読む]
  • 品川台場建設に貢献した博徒・大場久八という人
  • 大場久八は、韮山代官江川太郎左衛門の要請により、兄弟分である甲州豪商天野海蔵とともに、品川台場建設に協力した博徒として有名である。 (博徒名) 大場久八  (本名) 森久治郎 (生没年) 文化11年(1814年)〜明治25年(1892年)  享年79歳       上州への旅の途中、現・都留市谷村において中風で死亡 大場久八は伊豆国田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれた。28歳のとき野天博打で無宿となり、博徒 [続きを読む]
  • 悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵という人
  • 黒駒勝蔵は、清水次郎長の敵役として有名で、その生涯は喧嘩に明け暮れ、最後には官軍の兵士でありながら、博徒の罪で処刑された謎多き運命をたどった博徒である。(博徒名)黒駒勝蔵  (本名)小池勝蔵(生没年)天保3年(1832年)〜明治4年(1871年)  享年40歳      斬罪により処刑黒駒勝蔵は、天保3年、上黒駒村(現・山梨県笛吹市)で村役人を務めた家である小池嘉兵衛の息子として生まれた。安政3年25歳のとき、勝 [続きを読む]
  • 偽官軍の名で殺された美濃博徒・水野弥三郎という人
  • 皆さんは幕末に偽官軍として、信州下諏訪で処刑された「赤報隊」のことをご存じだろうか?その後、昭和になって亡霊のように、朝日新聞襲撃事件において「赤報隊」の名が使用された。この赤報隊に深く関わり、最後は自ら縊死した博徒が水野弥三郎である。(博徒名)岐阜の弥太郎  (本名)水野弥三郎(生没年)文化2年(1805年)〜慶応4年(1868年)  享年64歳      大垣藩本牢内で縊死により自殺水野弥三郎は、岐阜矢島 [続きを読む]
  • ヒーロー博徒・国定忠治という人
  • 国定忠治を、幕府代官の羽倉外記が「忠治伝」で、「凡盗にあらずして劇盗なり」と言わしめたのは、忠治が相応の学問を修め、かつ剣術にも深くかかわっていたためである。忠治は、赤城の山に立てこもり、代官や関東取締出役と対決した博徒として有名である。清水次郎長が半分、二足草鞋に近いような博徒であったに対し、徹底抗戦を貫き、最後は大戸関所で磔となった忠治の美学に、庶民が共感したのだろう。(博徒名)国定忠治 (本 [続きを読む]
  • 会津小鉄という人
  • 京都の会津小鉄会が山口組の抗争で話題となっている。会津の小鉄は関東の大前田英五郎、東海の清水次郎長に対して関西の小鉄と呼ばれた博徒である。生まれはどこかわからないが、秩父、坂東、西国、四国巡礼を母親とともに放浪旅をしながら育ったと言われている。大坂に流れ着いたとき、母親が四天王寺の雪駄直し職人の内妻となり、小鉄である鉄五郎も養父の職人に引き取られた。鉄五郎が15歳の時、父親の家を飛び出し、江戸に下 [続きを読む]
  • 美談で作られた無法者・新門辰五郎という人
  • 新門辰五郎は、江戸浅草金竜山浅草寺に住み、鳶仕事師の親分、町火消十番組の頭であり、浅草寺の香具師、大道商人等の総元締めである。辰五郎は、寛政12年(1800年)下谷山崎町飾り職人中村金八郎の長男として生まれ、その後、上野輪王寺の家来町田仁衛門の養子となった。新門という名は、倫王門跡宮が浅草寺別当の伝法院へ隠居したとき、浅草凌雲閣付近に新門を作り、その番人に町田を任命したことによる。しかし、町田家は生活 [続きを読む]
  • 長寿を全うした博徒・大前田英五郎という人
  • 大前田英五郎(栄五郎とも書く)は、国定忠治より18歳、年長で忠治から「おじご」と呼ばれ、同盟関係にあり、また、忠治の保護者でもあった。大前田英五郎は、上州勢多郡大前田(現・前橋市大前田町)に生まれた。父の名は久五郎といい、家は名主の家柄で父も博徒であった。子供の頃より、火の玉小僧とあだ名され、身長高く、顔色浅く黒く、かなり肥満していたという。父、兄ともに博徒で、13歳の頃には、すでに博徒になり、関東取 [続きを読む]
  • 信州の博徒・間ノ川又五郎という人
  • 信州長野は、昔から博徒が関八州の追手からの逃亡する場所として知られている。国定忠治も関八州取締から何回も信州へ逃れている。長野善光寺は全国から参拝者が来るので、博徒が身を隠すには便利なのだ。 間ノ川又五郎も上州生まれで、旅暮らしの結果、信州長野中野村に一家を構えた。幕末の博徒では清水次郎長、黒駒勝蔵、大前田英五郎、天保水滸伝の笹川繁蔵などが有名である。間ノ川又五郎もそれらと比しても遜色のない博徒で [続きを読む]
  • 義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉という人
  • 吉良仁吉は村田英雄の歌「人生劇場」で有名な博徒である。清水次郎長の子分として、荒神山の喧嘩で壮絶な死を遂げた義理と人情に生きた博徒でもある。 (博徒名)吉良仁吉  (本名)太田仁吉 (生没年)天保10年(1839年)〜慶応2年(1866年)  享年28歳       勢州高神山観音寺境内の裏山で喧嘩死 三州吉良仁吉は、三河国幡豆郡上横須賀村御坊屋敷(現・愛知県西尾市)の小作農出身だが、別名「御坊善」の博徒名を持つ [続きを読む]
  • 関東取締出役を翻弄した博徒・石原村幸次郎という人
  • 武州熊谷石原村(現・埼玉県熊谷市)の無宿幸次郎という博徒をご存じであろうか? 石原村幸次郎は、嘉永2年(1849年)、武蔵国熊谷宿あたりに突如出現し、武装したアウトロー集団を結成、次々と殺人、強盗、拉致傷害などしたい放題、挙句の果てに逃亡、甲州から駿河と、行く先々を荒らし回り、甲州に舞い戻り、信州までわがもの顔で横行して、悪の限りを尽くした博徒一味の頭目である。最後は、甲州勤番に捕縛され、江戸小塚原の刑 [続きを読む]
  • 一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵という人
  • 幕末から明治にかけ、武蔵国多摩郡の博徒に、小金井小次郎と小川幸蔵の二人がいた。だが、小川幸蔵は世間によく知られた博徒ではない。北島正元長の著書「幕藩制の苦悩」は当時の博徒について次のような記述がある。 「博徒の本場と言われた上州には、国定忠治のほか、大前田英五郎(勢多郡大前田村)・栄次(勢多郡月田村)・三木文蔵(新田郡世良多村)・高瀬仙右衛門(邑楽郡上高島村)などの貸元がおり、下総の飯岡助五郎・笹 [続きを読む]
  • 次郎長兄弟分博徒・寺津間之助という人
  • 寺津間之助(本名・藤村甚助・父親の名を襲名した。)は、清水次郎長より一つ年上で、次郎長と4分6の兄弟分の杯を交わした、三州幡豆郡寺津村(現・愛知県西尾市寺津町)の博徒である。幕末の寺津村は、上横須賀村とともに沼津藩の飛び地領地として、大浜陣屋(現・愛知県碧南市)の支配下にあった。三河平野一帯は三河木綿の栽培地で、三河木綿の綿打ちが盛んに行われていた。寺津港は綿花、木綿、さらには古くからの吉良の製塩「 [続きを読む]
  • 関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎という人
  • 講談「天保水滸伝」で有名な総州下総国(現・千葉県)の博徒で、二足草鞋で関東取締出役道案内の飯岡助五郎と地元博徒の笹川繁蔵がいた。勢力富五郎は、この笹川繁蔵の子分である。親分の繁蔵が助五郎に謀殺された後、親分の仇討ちのため、助五郎を狙って、関東取締出役と死闘を繰り広げ、最後に追い詰められ、28歳で自決した武闘派博徒である。その後、絵師歌川豊国が、「近世嘉永水滸伝」で、勢力富五郎の錦絵を描き、一躍、侠客 [続きを読む]
  • 新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎という人
  • 小金井小次郎は、武州多摩郡下小金井村(現・東京都小金井市中町・本町付近)を縄張りとし、数千人の子分を擁したと言われ、明治に刊行の戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった博徒である。また、小次郎は、博打で島流しになったにも関わらず、ご赦免で帰還し、最後は、畳の上で生涯を終えた、世渡り上手な、幸運な博徒である。(博徒名)小金井小次郎  (本名)関小次郎(生没年)文政元年(1818年)〜明治14年(1881年) [続きを読む]
  • 八丈島を島抜けした「博徒・佐原喜三郎」という人
  • 黒船来航で騒がしい幕末の天保9年(1838年)7月に、鳥も通わぬと言われた八丈島から島抜けに成功した博徒がいた。総州(下総国)香取郡佐原村(千葉県香取市佐原)の豪農出身の博徒・佐原喜三郎である。 (本名) 本郷喜三郎 (博徒名) 佐原喜三郎 (生没年) 文化3年(1806年)〜弘化2年(1845年)         死罪を免れ、江戸追放後、病死。    享年40歳 利根川沿いの佐原村は総州銚子からの米、醤油などの物資 [続きを読む]
  • 新島を島抜けした博徒・武居安五郎という人
  • 竹居安五郎とは、伊豆新島から島抜けに成功、地元甲州に帰還、黒駒勝蔵を子分にもつ武闘派博徒で、通称「吃安」の名で有名な博徒である。(博徒名)竹居安五郎 (通称)吃安  (本名)中村安五郎(生没年)文化8年(1811年)〜文久2年(1862年)  享年52歳      石和代官所牢内で獄死竹居安五郎は文化8年、甲州国八代郡竹居村(現・山梨県笛吹市)の中村甚兵衛・やすの四男として生まれた。父親甚兵衛は名主も務め [続きを読む]
  • 平井一家三代目原田常吉④(博徒史 その10)
  • 晩年の原田常吉の行動を知らせる新聞記事が扶桑新聞に載っているので下記に紹介する。 「侠客の美挙」  (明治31年10月28日付けの新聞記事) 「三河国宝飯郡豊秋村大字平井、原田常吉は名を遠近に知られたる侠客なるが、去る頃より専ら教育等公共事業 に熱心にて、このほど同じ村の第二尋常小学校へオルガン(代金20円)、また伊奈村ほか、二ケ村組合高等小学校へ木銃百挺を寄付せり、奇特なると云うべし。」 常吉 [続きを読む]
  • 平井一家三代目原田常吉③(博徒史 その9)
  • 次郎長との手打式後、原田常吉は東三河最大の博徒親分にのし上がった。しかし、明治17年の賭博犯処分規則で捕縛され、懲役7年の判決を受けて、名古屋監獄に収監される。この時の原田常吉の獄中での行状を記した資料に「第24号行状碌」という名古屋刑務所文書がある。 常吉の獄中生活はその他の博徒と比べ、抜群に優秀な獄中態度であったという。看守たちの言葉を借りれば、「衆中ニ卓絶デアリ」、「泥中ノ蓮」と言わしめる程、 [続きを読む]
  • 平井一家三代目原田常吉② (博徒史 その8)
  • 原田常吉は弟の善六を殺した斧八の用心棒を殺害した以降、徐々に一家の勢力も戻ってきた。明治6年、常吉は赤坂宿の旅籠こい屋にて、盟友清水の次郎長と密かに面会した。二人は懐古談のなかで和解の糸口を見つけ、明治13年6月、浜松の料亭島屋で手打式が行われることとなった。その経過は次のとおりである。 明治12年、名古屋の稲葉地一家の日比野善七という者が、清水一家に逗留した際、大政から和解仲裁人に適当な人はいな [続きを読む]
  • 平井一家三代目原田常吉① (博徒史 その7)
  • 博徒に一代記などの伝記は少ない。その理由の一つは、識字力のある博徒が少なく、資料が残っていないこと、二つ、アウトロー的存在のため事実関係を知られたくないことなどが挙げられる。そのため、浪曲、小説などで偶像化された形の伝記が多く、その正確さには問題がある。 原田常吉は、通称平井の常吉と呼ばれ、幕末から明治にかけて、愛知県の東三河地方一円で勢力を有した「平井一家」の親分である。平井一家の初代の小中山七 [続きを読む]
  • 明治17年博徒大刈込(博徒史 その6)
  • 明治14年、松方大蔵卿のいわゆる松方デフレ政策で米価が値下がりする一方、増税により、小作農への転落による農民層の貧困化が激しくなっていた。この情勢の中、明治15年から明治18年にかけて全国で農民の騒擾事件が続発する。同じ時期に明治政府による博徒集団に対する一斉取り締まりが実施された。その特徴は通常手続きによるものでなく、社会安定を目的とした緊急博徒取締による一斉検挙であった。 明治17年1月、太政 [続きを読む]
  • 清水一家の小政の獄死(博徒史 その5)
  • 賭博が社会悪として古くから禁制とされていたことは良く知られている。その歴史、方法は、尾佐竹猛氏の著書「賭博と掏模の研究」に詳しく書かれている。静岡県における明治初期の賭博取り締まりの実例として、「明治初期静岡県史料」第3巻に次のような判決文が載っている。 明治6年2月7日所刑申渡シ左ノ如シ 「賭博 准流5年」  遠江国敷知郡浜松宿新町  雑業    「由五郎弟政五郎事 吉川冬吉」 其方儀、産業ナクシ [続きを読む]
  • 清水一家の襲撃に対する平井一家末弟善六の復讐戦(博徒史 その4)
  • 三河の博徒、平井亀吉には善六という末弟がいた。次弟である常吉が新島に流罪中は、亀吉の片腕として賭場の管理など、一家を仕切っていた。清水一家による平井一家襲撃のあった日その時は丁度所用で外出していた。帰宅後、惨劇の跡を見て、善六は地団駄を踏んでくやしがった。「畜生め、俺がきっと仇を取ってやる」と心に決めていた。 その後、善六は西三河にもぐりこみ、10日あまり、情報を集めて歩き、平井亀吉、黒駒勝蔵襲撃 [続きを読む]