活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さん プロフィール

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活かして生きる   〜山里の寺便り〜さん: 活かして生きる   〜山里の寺便り〜
ハンドル名活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さん
ブログタイトル活かして生きる 〜山里の寺便り〜
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/cotou
サイト紹介文娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供362回 / 365日(平均6.9回/週) - 参加 2015/01/12 10:50

活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さんのブログ記事

  • 一念2
  • どうしても修行して「自己の正体を見極める」必要があるのです。「一念」を起こすと、その念が次から次へと様々な念を呼び起こしてとめどもなく流れていってしまいます。「一念」が天地の隔たりを生ずることになるのです。そこで、「修行」とは「一念の生ずる根本を見極めなければいけない」ということをいっているのです。 [続きを読む]
  • 一念1
  • ほんの少しの「隔たり(距離)」があっても、ものと一体には成れません。そのものの「真の姿」というものは、本当にものと一体に成らなければ分からないのです。私たち衆生は、普通、「見聞覚知(けんもんかくち)する働き」を認めて「生きている」といいます。それは「生きているということの説明」に過ぎません。「自己の正体」を見極めないと、すべての働きと自己との間に「隔たり(距離)」が出来るので、「自己の正体 [続きを読む]
  • 正念2
  • どこまでも進まなければなりません。自分の世界ですから怠れないのです。進んで退かぬという世界が何時もなければなりません。「般若」というのはそれをいったのです。「一念の心」を大悟したのが「般若」です。それが本当の「智慧」です。「本当の智慧」をいうのは、「一念」というものをしっかり掴んで力あることを発見し、それを「体得」することです。生活そのままに成り切る時が「大悟徹底」です。「心の実證」です。即 [続きを読む]
  • 正念1
  • r一念の中に己れがないことを「無念(無の念)」といいます。それがなければ一念は時間空間を超越しています。これを「正念(しょうねん)」といいます。「月一つ 影いろいろの 踊りかな」という句があります。職業は種々ありますが、念は同じ念です。生命は同じものです。拵(こしら)える必要はありません。「縁」に随っていけばよいのです。何になっても同じことです。造作したら能率が減ります。これは「人生観の極地」 [続きを読む]
  • 五濁3
  • 「煩悩濁」とは、見方のわるいところから「三毒(貪・顚・痴)」等の煩悩妄想を起こし、自分も苦しみ、人をも苦しませてしまうのです。「衆生濁」とは、衆生が「見濁」「煩悩濁」の結果として、人間界の果報が漸く衰え、心が鈍く、体が弱く、闘争常に絶えず、苦多く福少なきをいいます。「命濁」の「命」とは、寿命及び生活力のことです。生活が不正となり、従って寿命も短くなるのです。長生きしても生き甲斐がないので、短命 [続きを読む]
  • 五濁2
  • 「天」あり、「地」あり、「人」ありです。「人」に男女、貴賤、苦楽、昇沈があるのです。即ちこれは、「四大の家の因縁生」によって生じる真理で、その間「自我の実体」はあることなしなのです。それ故に相融和して、共存共栄を許さなければならない道理なのです。元来一体の上の分かれだからです。どうしても相衝突し、反目することを許さないのです。経に曰く、「一切は男子は皆我が父、一切の母は皆我が母、六道(りく [続きを読む]
  • 五濁1
  • 「五濁(ごじょく)」とは、見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁・劫(ごう)濁をいい、私たち衆生の病根を指したものです。「病」を知らなければ治療は出来ません。健全なる信仰を保って真実生活に入って頂きたいものです。「見濁」とは、人及び物の見方が違っている、濁っているということです。元来、物の本体は一つです。祖録に「四大の生(しょう)自(おのずか)ら復(ふく)す、子の其母(そのはは)を得(う)るが如し」とあり [続きを読む]
  • 一大事因縁(仏教の生命)6
  • 「自己の本来の面目」に「相見(しょうけん)」しなければ例え、経論を究めても他の宝を教え、終わる人です。自ら「実物」を見ずして、見た如き「観念を造る人」です。「一大事因縁」なくして人を導くことは「一盲衆盲を引く」で、誠に恐るべきことです。これは仏教全体の「一大事」です。「此(箇)の事」なければ「法(道)」を説いても響きなしです。一度は「命根(みょうこん)を絶せん事」を要すのです。今人、古人 [続きを読む]
  • 一大事因縁(無師独悟)5
  • この肝心な処(一大事因縁)をはっきりさせておいて頂きたいと思います。そして決して人の力を借りる用は一つもないということです。必ず自分自身が自分自身に於いて自分自身でそれが処理(解決)が出来るものであるということです。そこに「無師独悟」ということがあるのです。それで必ず最後は「無師独悟」のものです。それは何故かというと、自身のことを他の人が識る訳がないからです。それでそれを知ってみると、お互 [続きを読む]
  • 一大事因縁(自覚)4
  • この「一大事因縁としての事実」に事実の生活をそのまんましているのが、現在の私たち衆生の在り方です。そこに「事実」ということがはっきりお互いの上に「今」行われているのです。その「今、行われている事実」を皆、捨てておいて、そして自己の考え方を以って見ようとする処に誤りがあるのです。それで「今の事実のまんま」に知(識)らないなりに行っている「此の物」が「或る縁(六境)」に触れてそして初めて認識の作 [続きを読む]
  • 一大事因縁(不知不識生)3
  • 人間(にんげん)が「知(識)った」から宇宙があるのでもないし人間が「知(識)った」から人間が生まれたのではありません。「不知不識生」なのです。どちらも知(識)らないものが知(識)らないなりに出来て来て(知らないなりに生まれて来て)、それが「現実にここにいる」のです。「この事実」を私たち衆生は無視していると思います。これは人類全体の「欠陥」です。この「人類の欠陥」である「迷いの根源」はこういう処に [続きを読む]
  • 一大事因縁(不知不識)2
  • 私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を以って何に対しても必ず「縁」に触れると、こちらは「知らない」し向こうも「識らない」のですけれども、犬は犬であり、鳥は鳥であるのです。「不知不識(しらずしらず)」なのです。一切のものがもう間違いなく、「きちん」と現れるように出来ているのです。そういうようなことを「人」が後から捕えて(そういう事実を捕えて)「因縁」と名称を付けたのです。ですから、こ [続きを読む]
  • 一大事因縁(仏家)1
  • 「仏家(ぶっけ)」の一大事因縁とは「此の物」が宇宙全体と一つに成って必然な活動をしているということです。私たち衆生が知らず識らずに宇宙が発生し、人間(にんげん)が出来て生まれて来たのです。それが今、現在この通りに「人」も「宇宙」も皆存在しているのです。この「存在している事実」をおシャカ様は徹見されて、「一大事因縁」と表現されたのです。おシャカ様の徹見とは、「此の物の実質」に徹せられたという [続きを読む]
  • 魂とは2
  • 余年を交えず有形(うけい)無形、すべての物柄、事柄と一つに成って、余念を交えざるとき心体が「自覚」されるのです。内に何かものがあると思っている、それが所謂(いわゆる)「魂」というものです。「魂」を認めたら物質の世界になります。それでは「宇宙」と一致することは出来ません。「一致する」ということは、元来手続きも何も要らないのです。「魂(心に一物〈いちもつ〉」を認めているから一致することが出来ない [続きを読む]
  • 魂とは1
  • 「魂」はあるのでしょうか。何処にあるのでしょうか。「魂」は何処に潜んでいるのでしょうか。よく考えて頂きたく思います。「語路を逐(お)わず親しく自己に信得せよ」というお言葉があります。人の言葉について廻るから、「人と我」の二つになるのです。このお示しの真意は、「自己に反省を促す」のです。「自己」とは何か、「これだ」と「自覚する(反省する)」この反省を促すのです。聞く者は何が聞いているのか、こ [続きを読む]
  • 海水都て増減なく波浪も亦退転無し
  • 「海水都(すべ)て増減なく波浪も亦(また)退転無し」というお示しがあります。どちらにしても、ちっとも変わらないのです。諸仏に在っても増すことはないし、衆生に在っても減ることもないのです。それだからいいのです。それ程に「法」としてはきちんとしているのですが「人(にん)」はどうしてもそれが満足出来ないのです。ところが、おシャカ様は満足出来たのです。背の高い人も背の低い人も内容外観はいろいろに形は [続きを読む]
  • 十如是の法
  • 物には「相(そう、すがた)」があり、相に応じた性質を持っています。それを「十如是(じゅうにょぜ)の法」をいいます。皆各々(おのおの)の性(しょう)に従って、そして始めからそうなのです(如是なのです)。「十如是」というのは「相、性、体、力(りき)、作(さ)、因、縁、果、報、本来究竟(ほんらいくぎょう)」をいいます。「十如是」のどこをつかまえても、この性の如く本目をあらわし、相の如く体があり、そして [続きを読む]
  • 人の死
  • 「自分をなくしてしまうということは恐ろしい」というようなことを言う人がいます。これを自分というものを持って、亡くなったことを想像するからです。人の死でも同じことが言えます。「此の物全体」が死ぬのですから、「自分が死ぬ」ということが分かるはずがないのです。ところが、「死というものが怖い」とか「不安になると怖い」という方がいますが、それは間違いです。いわゆる、人の死は死だけではありません。私た [続きを読む]
  • 生死とは3
  • 私たち衆生は始終年をとりつつあります。年をとるという事柄は、一つのものが二つになったのではありません。その一つのものが変化しつつ行くのです。だとすると、形(かたち)というものはまずないのです。そこを道歌に、「おもかげの かはらでとしの つもれかし たとへ命に かぎりあるとも」と。人間(にんげん)の身体は一度に衰えるのではありません。瞬間瞬間に変わっているのです。「因縁の法」を知(識)れば、年を [続きを読む]
  • 生死とは2
  • 生まれるということは「生死」に関係なく、ただ生まれるのです。それだけのことです。生まれるといって生まれるのではないのです。ただ生まれるだけで、生まれるという隙間がないのです。「オギャア オギャア」というだけのことです。然るに、後より生まれたと分別するのです。死することも同じです。死ぬる時は、死ぬるといって死ぬるものはないのです。人間(にんげん)は苦しむにつけ、固まりを認めています。「縁起」 [続きを読む]
  • 生死とは1
  • 「生死(しょうじ)」とは一つの「公案」です。「公案」とは「どんなにしても犯すことの出来ないもの」というものです。「生死、生死にあらず」という公案で悟った人がいます。生死自ら生死と言わず、生死と一つに成るから「生死、生死にあらず」という公案に透れるのです。一つであれば生死とはいいません。二つになるから「生死」なのです。「生死」に実体がなければ「涅槃」です。それをよく知(識)らなければなりません。 [続きを読む]
  • ただ坐れる人2
  • 私たち衆生は結果として、いつでも「今の結果」にあるわけです。ところが「求心(ぐしん)」、つまり求め心がなかなか無くならないために、「今の結果に安住出来ない」のです。安心してその中にいられないのです。結果というものに「善悪」はありません。善くても悪くても結果です。結果は今で言えば証拠ということになります。その証拠に自分自身が任せることが出来ないということです。「須弥山(しゅみせん)の如く結果に任 [続きを読む]
  • ただ坐れる人1
  • 私たち衆生一人一人が、本当に「ただ坐れる人に成る」ということが坐禅修行で一番大切なことです。「ただ」と言うのは「影」です。「ただ坐る」ことによって「その影(ただ)」を早く落とさなくてはなりません。別の言葉で言えば「影の痕跡」をなくすことです。そうしないと本当の「ただ」に成れないのです。おシャカ様や歴代の覚者の教えによって、それを正しく行じていかなければならないのですが、「教え(分かったもの) [続きを読む]
  • 縁起の法2
  • 私たち衆生の出生をみても「無目的」に生まれて来ています。「不知不識生」にです。なんの意味付けも意義付けもなく、こうして話をし、坐り、食べ、笑ったり、泣いたりしています。完全に「そのことがそのことで消滅」しながら「生活(活動)」しているのです。過去も現在も未来もそうです。ですから言ってみれば、その時その事が結果としてそれ以外どうすることも出来ないこととして行われているということです。ですから [続きを読む]
  • 縁起の法1
  • 仏教は常々申し上げているように「縁起の法」です。人の作ったものではありません。「縁」に因ってすべてのものが形作られ、そしてまた、それが「縁」に因って消滅し、形作られ、消滅し、形作られてたまたま私たち衆生はこういう現象の世界にいるわけです。しかし、このことは「偶然」ではなく「必然」なのです。この「現象の世界」というものには、意義付けも意味付けも、絶対とか相対とか、一切そういう「理屈めいたもの」は [続きを読む]