chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
薄伽梵
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2015/01/18

arrow_drop_down
  • 生きることは美しい!

    この世界は、なぜこんなにも生命に満ち溢れているのでしょうか。私たち人間もそうです。何十億もの命は、何のために生まれてきたのでしょうか。小さい頃、とても不思議に思ったものです。でも、なかなかその答えは見つかりませんでした。遥か何千年も昔からその問いは繰り返され、幾通りもの解釈となり、哲学や宗教となりました。そうしたものは非日常的なジャンルと区切られて、私たちは、問いそのものを胸の奥に押しやり、日々の現実に目を向けるのでした。ただ、ここで少し視点を変えてみると見えてくるものがあります。先人がこれだけ何千年も考えても分からない。ということは、もしかしたら、それが答えなのではないか。つまり、「答えがない」というのが答えではないかということです。答えがないのですから「すべてが正解」と言うこともできます。つまり、どんな生き...生きることは美しい!

  • 自分らしさという虚像

    人生というのは嬉しいこと楽しいことばかりではなく、辛いこと悲しいこともあります。この世に生を受けた目的が、あらゆる体験をすることにあるのならば、そうしたストレスもまた私たちの生きる意味そのものだと言うことができます。とはいえ、苦しいことに蓋をして黙々と修行しろというのでは、あまりに無慈悲すぎます。私たちは苦しむために生まれてきたはずはありませんし、この世が私たちを苦しめるために存在しているはずもありません。確かに、生物の進化の歴史を見ると、そこにはストレスが大きく影響しています。そうなるとストレスそのものが良い悪いではない。むしろ辛いこと悲しいことは私たちにとって必要な事象であるのは明らかです。つまり、そこから派生する「悩み」「苦しみ」がおかしいのではないかということになります。まさしくそれらは人間特有のもので...自分らしさという虚像

  • 『泣きなさい 笑いなさい』 おまけ

    [雨ニモマケズ](宮沢賢治)雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒドリ(日照)ノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ(おしまい)『泣きなさい笑いなさい』おまけ

  • 『泣きなさい、笑いなさい』

    遥か彼方の座席で映画を観ている私たちというのは、今この私たちと一つに繋がっています。どちらか一つということではなく二つで一つです。二者は遠く離れているように感じますが、その間はすべて私たちで埋め尽くされています。それを、何層にも連なっているという言い方もできますが、正確に言えば隙間なく繋がっている状態です。人間の体に喩えるなら、頭のてっぺんを今この私たちとした場合、足のつま先が映画館にいる私たちといった感じです。どこで切り取るかによってそれぞれ違うところに存在しているように見えますが、その全てで一つの私たち。一つ一つが個別に存在しているのではなく、すべてが一つの私たちです。その一端は、今この現実においても垣間見ることができます。それはただボーッとしてみることです。本当にボーッとするだけ。雑念が湧いてきても、それ...『泣きなさい、笑いなさい』

  • 平穏無事はつまらなかった

    次々と仕事やトラブルに追われ続けていると、何もしなくていい状態に憧れるものです。でも、いざ何もしなくていい状態になったら、それを幸せに感じていられるのは、せいぜい一週間程度かもしれません。たとえお茶汲みでも掃除でも、何かやることがあればマシですが、「本当に何一つやることが無い」となると、これは本当にツラい。もちろんパソコンでネットを見たり、携帯をチェックすることも出来ないという前提です。もしかしたら半日も耐えられないのではないでしょうか。ウトウトすることもできない、時間潰しのネタもない。ただ椅子に座って時間が過ぎるのを待つ。ついつい時計を見てしまうけど、10分も進んでいない。嵐の忙しさの時はあんなにも時間があっという間に過ぎたのに。何もやることがない、何もやれない、時が過ぎるのを待つだけというのは、あらゆ...平穏無事はつまらなかった

  • 色々なことに気づくとき 2

    私たちは、自ら積極的に観る立場にあります。観させられるという受け身の立場にはありません。与えられることに慣れてしまうと、まわりの景色が何も見えなくなります。与えられた情報、与えられた悦楽は、与えられた世界を作ることになります。本当の世の中とは何なのか。本当の悦びとは何なのか。世の中には情報や悦楽が溢れかえっています。そうしたものをシャワーのように浴びていると、私たちはあちこち心が移ろい、見知らぬ誰かに身を任せる根無し草となっていきます。しかしそれが、コロナによって世界中で強制的に自宅に籠らされました。それまで自由を謳歌していると思っていた身にとっては、まるで座敷牢にでも入れられたような鬱々とした気持ちになりました。しかし、それこそは自分の景色を直視させられた瞬間だったわけです。これまでの自分の生き方、過ごし方が...色々なことに気づくとき2

  • 色々なことに気づくとき

    日々の暮らしというのは様々なものに囲まれ、無意識のうちにあれやこれやと心が飛びまわります。仕事に追われてる時もそうですし、家にいる時もそうです。目まぐるしく変わる景色。湯水のように流れ込む情報。そんなこんなに振りまわされ翻弄される自分。そうなると週末はとにかく家から出て、どこか遠出しようとするのは人間の本能だと言えるでしょう。目が回るような日々のまま土日も家の中で悶々としていては、体は休めても心は休めず、エネルギーが枯渇していくばかりです。気持ちの切り替え、リフレッシュはとても大事なことです。そうしたリセットの一つに、たとえば喧騒を離れ山奥の禅寺に籠るというものがあります。寺に行って何をやるかというと、特別なことをするわけでなく、ごく当たり前の生活を繰り返すだけです。炊事や掃除、坐禅といった単純な作業を黙...色々なことに気づくとき

  • 天の恵み♾大地のエネルギー

    今年は近年まれに見る暖冬となりました。一月には大阪で19℃超え、東京でも18℃超えを記録し、17℃を超える日が続きました。とりわけ、一月後半から二月前半にかけての暖かさは尋常ではなく、コートを脱ぐ人が続出していました。あまりの暑さに頭がボーッとして、自分も体調を崩した記憶があります。また、今年の冬は雨の日も多かったと言えます。例年ですと乾燥で喉がやられるところですが、今年は加湿器なしでラクラク過ごせました。見過ごされがちですが、春節の前後はかなり気温の高い日が続き、また適度な雨も降っていたのでした。毎年この時期になるとインフルエンザが流行しますが、それはウィルスが寒冷乾燥を好むからです。逆に高温多湿になるとウィルスは生存できなくなります。湿気があると空気を舞えずに落ちるというのは何となく分かりますが、高温だとな...天の恵み♾大地のエネルギー

  • 真面目もほどほどに 3

    人は誰でも、無意識のうちに自分の身を守ろうとします。生きるための本能としてそれは当然のことです。それが根源から湧き上がる衝動によるものであれば何の問題もないのですが、損得勘定や価値観と結びついてしまうと、たちまち我執の暴走が始まってしまいます。タチが悪いのが、そうなったとしても私たちは生き残るための本能だと信じてしまい、歯止めが効かなくなるところです。理想や信念に真面目気質が注ぎ込まれると、もう誰も止められなくなります。善と悪。正しさと間違い。対極となる相手ができると、我執の垂れ流しが始まります。褒められたいがための真面目。安心したいがための真面目。否定されない・怪我しないための真面目。「魔が刺す」という言葉がありますが、「真面目」は「魔自滅」にもなります。そしてこの仕組みをうまく使い、正義の旗を振って大衆を導...真面目もほどほどに3

  • 真面目もほどほどに 2

    正しさを追いすぎると泥沼に落ち入る危険があります。そもそもこの世には間違いというものは無いと知れば、気に食わないからといって目くじらを立て過ぎることもないわけです。しかし実際そう考えようとすると、これまで私たちの背中を押し続けてきた信念はワーワー騒いでそれを許しません。そうした時には、信念そのものを疑いの目で見る必要があるのですが、信念というのはなかなかの手練れでして、もっともらしい理屈で自分の正当化を図りに来ます。思い切って手放そうとするとやはりそれを思いとどまらせるような上手い理屈を騒ぎ立て、様々に角度を変えて、あの手この手で私たちを思いとどまらせに来ます。冒頭のケースであれば、「この世がすべてを許容しているなら好き勝手やったもん勝ちではないか、そんなのは許されない、やはり正しさは必要なんだ」というようにで...真面目もほどほどに2

  • 真面目もほどほどに

    海外誌の「今年の顔」に10代の女性活動家が選ばれました。世の大人たちに対して激しい口調で地球温暖化を訴える姿が印象的でした。「正しさ」というのは、喩えるなら夜道を照らす懐中電灯のようなものと言えます。私たちは今この瞬間だけが見えていて、一歩先は何も見えません。一寸先は闇の中。実際どこへ向かっているのか皆目、見当もつかないわけです。歴史上どの部分を切り取ってもそれは同じで、目に見えるのは常に足元だけでした。しかし生きることは進むことです。流動の世界に生きるかぎり、立ち止まることはありません。そのためわずかでも照らせる明かりを私たちは求めてきました。人によっては、その一つが「正しさ」であるわけです。それは一歩先へと差し出す、杖のようなものに喩えることも出来ます。その杖を信じればこそ、決して奈落の底へ落ちることはない...真面目もほどほどに

  • 将来の心配はまったく要りません

    お金は概念ですから、そこには様々な思念が転写されます。誰もがみんな、お金は大切なものだと確信しているため、安心して気を許しています。そうして謙虚さや頑張りが消えて、素の自分がそこに写し出されていくわけです。お金とは何か?と問われたら、その答えは人の数だけ存在するかもしれません。お金には個々の想念が隠し立てなく素っ裸に転写されます。たとえば、鏡に映る自分の姿を見るとハッと我に返って身なりを正そうとします。しかし鏡の存在に気がつかなければ、格好つけようという気持ちも起こりません。そこに居るのは、素の私たちです。お金というのは私たちを映す「見えない」鏡になっているということです。お金に対して抱く思いやイメージは千差万別ですが、それはお金そのものが有するものではなく、私たち一人一人の価値観や観念、信念が反射されたものな...将来の心配はまったく要りません

  • みんな単なる約束事

    私たちは、お金の概念が定着した世界に生まれてきました。まわりがそれを当たり前としている中に育てば、同じ感覚に染まるのが普通です。その固定観念を無くすためには、ひとつひとつ丁寧に見ていく必要があります。まずは身近な紙幣や貨幣について振り返りまして、それから概念の方へと進んでいきたいと思います。紙幣や貨幣そのものが単なる紙切れや金属に過ぎないというのは、冷静になれば誰でもすぐに思い出せることです。ただ普段、私たちはそのことを完全に忘れてしまっています。初めて訪れる外国では、その国の紙幣やコインを見てもいまいちピンと来ず、まるでママゴトのオモチャのように感じたりします。そのお金で初めて買い物する時も何となくドキドキするものです。何故かといえば、自分にとっては実感の伴わない紙幣であり貨幣だからです。それゆえ実際それで買...みんな単なる約束事

  • お金というもの

    お金というのは本当に不思議な存在です。もともとは便利な発明品に過ぎなかったのに、良くも悪くも私たちを丸裸にする鏡となりました。お金にこだわると、お金で苦労することになります。お金をいい加減に扱うと、やはりお金で苦労することになります。お金で尊敬を集めようとすると、お金で恨みを買うことになります。お金で人を喜ばせようとすると、お金で怒りを買うことになります。まわりの人たちはその人を尊敬しているのではなく、その人のお金を尊敬しています。まわりの人たちはその人に喜んでいるのではなく、その人のお金に喜んでいます。お金を払う人もお金を貰う人も、お金が鏡となって我執や欲得が自分自身へ跳ねかえることになります。人を見ずにお金を見ているから、お金が鏡になって自分の姿が反射されるのです。お金を見ずに人を見ていれば、お金は鏡にはな...お金というもの

  • 嫌がらずに見守る

    相手の話に乗っかって「あ、それね!」と同意を示したのに「違う」と言われると、あれ?何か違う話になるのかと頭を巡らせるものです。でもそのまま話を聞いてると結局こっちが言ったままの展開ということがあります。キャッチボールを図ろうとしているのに「違う」といって口を挟ませようとしない。そうしたことが何度も続くと、その人の話はあまり聞きたくなくなってしまいます。怖いのはその人が無意識のうちに「NO」が口癖になってしまっている場合です。会話というのは自分一人で成立するものではありません。お互いの参加によって成立するものです。一方通行ではなく、行って返ってまた行ってという相互交流であるわけです。一方的に「吐き出す」ことが目的になってしまうと、そこに二人いる意味がなくなります。いつも条件反射的に「違う」と相手を制してしまうと、...嫌がらずに見守る

  • 選挙に行こう!

    今度の日曜日は参院選です。与党だ野党だ、改憲だ増税だ、トランプだ韓国だと、私たちの日常からとても遠い世界のことばかりです。でも普段ならば遠い話であったとしても、私たちがしっかり参加できる最大のチャンスが今ここです。ここでいう参加というのは文字通りの意味の「参加」です。それは私たちが共に作り上げていくという意味もありますが、より正確に言えば、どの道・どの世界を選択するかという意味での参加です。「たかが一票で何か変わるもんか」というのは得票数だけを見た捉え方、つまりこの世の一面だけを切り取った見方に過ぎません。全体の中での自分という見方ではなく、自分を中心に置いたこの世という見方をした場合、全く違った世界が現れます。私たちの一票というのは、票数という切り口からすれば何万人分の一でしかありませんが、行動という切り口で...選挙に行こう!

  • 私たちは本当に自由です。

    何の変化もない同じような日々が続いているようでも、私たちはいつだって選択を繰り返しています。すべての瞬間は私たちによって選択されたものであり、その選択の積み重ねが私たちの目の前の世界を作り出しています。世界というものが存在していてその中に私たちの選択があるのではなく、私たちの選択によって世界が出来あがっています。何の変化も無いように見えるのなら、それは常にその選択をし続けているからと言えるでしょう。大きな選択は目に見えるものですが、小さな選択は目には見えていません。全ての瞬間において選択肢は五万と存在しています。それを意識することなく自動選択する仕組みを私たちは有しています。一瞬一瞬どれがいいかとイチイチ考えていては、そこから先に進むことが出来なくなります。そのため自動選択装置が私たちの深層意識の浅いところに存...私たちは本当に自由です。

  • 食う、寝る、遊ぶ(2)

    私たちは根源から突き抜けて今ここに存在しています。それは下へ行くほど山の裾野のように広がっていき、他の存在と溶け合っていきます。これを逆の方向から見ると、海底の大陸棚で一つだったものが上に行くにつれて分岐して、海面に顔を出して色々な島になっているようなものです。そうした島の一つ一つが、現世の他人であり、過去や未来の他人であり、そのどれもが同時に私たち自身ということです。根っこでは繋がっていますが先端は別々になっています。過去世や未来世の生まれ変わりというのもこの先端の一つ一つです。そのため、関係の濃い薄いはあったとしても純度100%の転生は無いということになります。「一本柱の深みへ降りて行くと、数多くの私たちと一つに溶け合っていく」つまり海面の上に顔を出している島から見える景色というものが一人一人の存在意義であ...食う、寝る、遊ぶ(2)

  • 食う、寝る、遊ぶ

    今ココというのは様々な世界が折り重なって成り立っています。この世というのもその一つですし、あの世もそうです。私たちの肉体、私たちの心、私たちの魂も、それぞれ別の次元にあって、今ここで一つに繋がっています。スクリーンに映された映像も、それを映す映写機も、それを見る観客も、それぞれ異なる次元、異なる層にあります。そしてそれら全ての層を貫く一本柱、それが私たちです。天の御柱とはまさに私たちのことを言っています。あらためて、魂と心と肉体について考えれば「違う次元のものが一つに繋がっている」ということは感覚的に分かります。私たちというのは、今ここにポツンと存在しているのではありません。私たちは根源からこの世に至るまですべてを貫いています。つまり、そのすべてに同時に存在しているわけです。実際、この世で活動している時は地上に...食う、寝る、遊ぶ

  • 『これでいいのダ』 (つづき)

    過去も今も未来もすでに今ここに存在しているという説明をしてきました。続いて、未来がすでに存在しているのなら運命は変わりようがないのか、という話に触れたいと思います。再び、一瞬一瞬というものを、無限に広がるアザラシの頭に喩えます。その一つ一つが、一瞬という一枚絵に顔を覗かせる私たちでした。それらを繋いでいくと、それは一直線ではなく無限に分岐した網の目になっていきます。あらゆるバージョンの過去や未来が、すでに今、存在しており、その全てのバージョンの全ての瞬間に私たちは存在しています。それらは分離して存在しているのではなく、水面下で一つに繋がっています。それを感覚的に分かろうとするなら、私たちの指が無限に突き出している状態とも言えますし、腸壁の細胞がビッシリ並んでいる光景に喩えることもできます。そして時間の経過という...『これでいいのダ』(つづき)

  • 『これでいいのダ』

    年が明けて早3ヶ月が経ちました。嵐の前の静けさと言われるように、物事というものは或るとき突然にして変わるものではなく、すでに目に見えない形で始まっているものです。そういう意味で、私たちは激動の真っただ中にいると言えるかもしれません。水面下には大きなうねりがあります。しかし表の顔はいたって静かです。ほんのわずか、変化とも言えないような変化があるだけです。それが気がついてみればダイナミックな変化と成ります。地球の姿こそは、まさにそれそのものです。穏やかな地殻の下ではマントルがパワフルにうねり、時とともに海は山に、山は海に変化し、大地が海を渡っていきます。大地が大きく変化していくのが自然の姿ならば、私たちの世界が大きく変化していくのも自然の姿と言えるでしょう。さて今日は、年明け一発目の再出発として今一度原点に立ち返り...『これでいいのダ』

  • 今年一年ありがとうございました

    もうすぐ一年が終わろうとしています。新年というのは世界中の人たちが新鮮な気持ちで迎えるものです。それを待ちきれずに、多くの国では大晦日からパーティーのように盛り上がります。しかし昔の日本人は最後の夜を静かに迎え、除夜の鐘をしんみりと聞きながら過ごしていました。私たちは今でこそ夜遅くまでドンチャン騒ぎをするようになりましたが、それでも最後の15分くらいはシーンと音もなく過ごしています。子供の頃には何故お通夜のような暗い雰囲気になるのか分かりませんでしたが、それは謂わば、瞑想のごとき無の状態であり、つまりはあらゆる囚われから解放されたニュートラルな状態に戻っている瞬間であるわけです。決して来たるべき爆発のためにエネルギーを貯めているわけではなく、ご先祖様たちの過ごしてきた習慣の名残りであり、無意識のうちに神妙なる時...今年一年ありがとうございました

  • 生まれ直しのススメ(実践編・後編)

    前編では過去へ意識を向けて、自動運転がガチガチに固まる前の感覚にシンクロしました。そこで私たちが何をやりたかったのか、どんな心地だったのかを感じ、今現在の自動運転との違い(感覚の違い)を味わいました。あの時と今とは明らかに感覚が違っていました。「あの時はあの時、今は今だ」などと即断してしまうと思考はストップし、この試みは無意味に終わってしまいます。新たな観念、信念、日々のルーティン、諦め、さらには思考停止、そうしたものが積み重ねられた結果、あの時と今とは感覚も心地も変わっている。まずはそれを感じることが初めの一歩となります。まだ自動運転が薄い頃と比べることで、今の私たちというのがクッキリと浮かび上がってきます。とはいえ、その違いを悲しんだり悪く捉えるのがここでの目的ではありません。そちらに逃げてしまっては、また...生まれ直しのススメ(実践編・後編)

  • 生まれ直しのススメ(実践編・前編)

    日々の選択はほとんどが自動モードで行なわれています。選択というのは、頭を介して意識的に行なうものに限らず、毎瞬毎瞬おこなわれています。もし毎瞬すべてを自ら選択していたら、それに追われてしまってまわりを見る余裕は無くなってしまいます。そのためあらゆる生物は大部分を自動運転に任せています。では自動運転のプログラムはどこから来ているかというと、動物ならば本能となりますが、人間の場合それに信念、習慣、感性といったものが加わってきます。命を維持するための自動運転は本能が司っていますが、それ以外の選択は、信念や習慣が運転手になっているということです。私たちはそうしたものに一日のほとんどハンドルを預け、ごくたまにハンドルを奪ってグイッと回しているということになります。そのように、これまでの信念や習慣というものがハンドルそのも...生まれ直しのススメ(実践編・前編)

  • 私たちの本当の故郷(3)

    あんなことをしなければ良かった。あんなこと言わなければ良かった。そのような後悔に苛まれた時は、今ココで選びなおす、今ココで上書きする、それが過去の傷を癒すことになると話しました。ただ、そこまでやってもまだモヤモヤが消えない、自己批判が収まらない場合は、もうそれは相手への申し訳なさではなく、単純に自分自身へのこだわり、囚われになってしまっている可能性があります。そう聞くと、そんな馬鹿な、本当に相手に申し訳ないと思ってるのに、と反発したくなるところですが、それは申し訳ないという思いだけが上滑りして単なる念仏というか呪文と化している恐れがあるということです。自分に厳しいというのは一種の美徳でありますが、度が過ぎるとそれは執着になってしまいます。やり過ぎになっても表面上は依然として真面目で善良な振る舞いに映るために、自...私たちの本当の故郷(3)

  • 私たちの本当の故郷(2)

    「何の因果か知らねぇけども」というのは昔の時代劇によく出てきたセリフです。思いもよらない展開となった時、あるいは知り合いとまさかの巡り合わせになった時などに出てきました。この因果というのは「原因があって結果が現れる」という仏教用語で、善因善果、悪因悪果などと言われたりもします。それをもって、何かの種(たね)があって芽が生える、蒔いた種は自分で刈らねばならぬといった教えにもなっています。これは事実そのものなので、法則としてそれを知るのはとても大切なことだと言えます。ですがそこで原因は自分にあるというのを真面目に考え過ぎたり、辛気くさく考えてしまうと、もうスタート時点でウゲッという気持ち(=種)が心の中に生じることになってしまいます。そうした種を放っておくと、それが蔓(つる)のように成長して自らを縛ることになってい...私たちの本当の故郷(2)

  • 私たちの本当の故郷

    映画や小説などで、過去に戻って人生をもう一度やり直すというストーリーがあります。あの時こうしておけば良かった、あの時あんなこと言わなければ良かった、と過去の失敗を挽回する内容です。こうした作品は、形を変えて繰り返し何度も作られています。それがウケるというのは、単なるエンターテイメントとしてだけではなく「他の選択をしていたらどうなっていただろうか」という思いを抱いているからなのかもしれません。「あの時の選択が違えば、まわりの景色も違うものになっていただろう」「もっと華やかな景色に囲まれていたかも」「もっと幸せになっていたかも」そうした思いは純粋なものです。今と違うものを求める思いは、変化を求めて行動を起こすための原動力になるからです。とはいえそれは、目の前の今に対して向けられるものであって、過去に向けてしまいます...私たちの本当の故郷

  • 天地自然のペース(つづき)

    前回、見知らぬ人の氣に乗っかった話をしました。この時は他に何も考えず相手に心を向けていたため、雑念が無くなり、相手の氣と一つになったのでした。体調不良の時というのは、身体が重くなり動くのがシンドくなります。これは悪いところの治癒にエネルギーを集中させているからというのも理由の一つですが、あまり外をウロウロさせないためという理由もあります。そのことは、狩猟生活をしていた原始時代や、それより遥か昔の弱肉強食の歴史を考えればすぐに分かります。体調が悪いのに無理をすれば、それが命取りになるからです。台風や豪雨が迫ってきている時に身体が重くなるのもこれと同じ理由と考えられます。気圧が下がると身体が動かなくなるのは、巣の中でジッとさせるためのもの。命を守るため、つまりは「大難を小難に済ませるため」の仕組みであるわけです。気...天地自然のペース(つづき)

  • 天地自然のペース

    体調が悪い時というのは、足取りがとても重くなるものです。先日まさにそんな状態で駅に向かっていますと、数メートル前に、同じくらいのペースで歩いている人が居ました。その方は別に体調が悪いわけでもなく、それが普段のペースといった感じでした。赤信号で追いついた時、フトこのあとどうしようと思いました。ピタッと間合いを詰めたまま歩くのもバツが悪いですし、かといってわざわざペースを上げて追い抜く体力もなし。結局スタートをズラして一呼吸ほど出遅れる形にして、さっきまでのペースで行くことにしました。その直後、歩きだした瞬間に不思議な感覚に包まれました。フワッと身体が軽い。足取りが重くない。一瞬アレ?となりました。さっきまでとは明らかに違う。弱っている時というのは感覚が鋭くなるものです。重い体を青色吐息で動かしていたのが、まるでリ...天地自然のペース

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、薄伽梵さんをフォローしませんか?

ハンドル名
薄伽梵さん
ブログタイトル
これでいいのダ
フォロー
これでいいのダ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用