物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG さん プロフィール

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物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOGさん: 物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG
ハンドル名物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG さん
ブログタイトル物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/amazon-japon
サイト紹介文自分の生涯を追体験的に語ることによって 環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか読者に
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更新頻度(1年)情報提供28回 / 365日(平均0.5回/週) - 参加 2015/01/27 13:43

物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG さんのブログ記事

  • 治安維持という名のテロ/平澤計七・川合義虎たち虐殺/関東大震災
  • 数年前にこのブログで大正は現代の母型であるという観点から大正デモクラシー、社会運動の勃興、大正ルネサンスを論じた。暗い閉塞の時代から抜け出した明るさのなかに自由な生命の躍動とモダンな生活の放縦が垣間見られた。それは戦後期昭和の母型を想わせる。自分史で一息入れた後、大正の戦争「シベリア出兵」を投稿した。宣戦布告のない、兵士にとってすら意味不明の、市民に積極的に支持されていない戦争であったが、戦争指導 [続きを読む]
  • 尼港事件秘録『アムールのささやき』/遅すぎた日本の反省
  • ♪ はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい  鬼ン池の久助どんの 連れんこらるばい 森繁久弥 島原子守唄https://www.youtube.com/watch=g6D5Yk8MkCI鬼池村の久助どんは実在の人物ではない。でも鬼が連れに来る、怖い、と幼い子は感じるにちがいない。尼港パルチザンの暴威が国中に伝わると、天草地方では「パルチザンが来るゾ」と言えば泣く子もだまった、と表題の著者石塚経二は書いている。以下の記述も『アムール [続きを読む]
  • ムーヒンとクラスノシチョコフ/パルチザン戦
  • 出典 石光真清『誰のために』調書「ムーヒン」(手書き 第12師団司令部 複写)によれば、ムーヒン(電気工、妻帯、41歳、左足凍傷痛)は変装のため理髪しヒゲをそった。その前は栗色のほほヒゲと帽子で変装していたという。隠れようとした学校で捕まったが捕らえたのは日本兵である。上掲の写真はコザックを主役に配して日本軍を脇役に見せる効果を狙った広報用のものである。審問者はアベゾルーコフで「隠していることがある [続きを読む]
  • 石光真清とムーヒン/ブラゴヴェシチェンスクの謀略戦
  • 出典 http://www.a-saida.jp/russ/vetvi/muhin.htm 原典 アムールスカヤ・プラウダ 2010.5.3石光真清の手記第4部『誰のために』は私にとっては戦場での「類は友を呼ぶ」物語である。第4部は内容ゆえに真清が公表をはばかったものである。ご子息の真人が戦後編集出版した。ソヴィエト政府の誕生によって激変した世界とロシアの情勢は極東に無政府状態を生み出した。政権と軍事力の希薄もしくは空白である。日本はこれを好 [続きを読む]
  • 石光真清の手記/百年読み継がれる魂の自伝
  •  石光真清 1868.10.15〜1942.5.15「シベリアの冬は暮れやすく、人の生涯は移ろいやすい。青年将校の軍服を脱いでブラゴヴェシチェンスクに初めて留学した日から二十年の歳月が流れている」 石光真清は足掛け五十歳の身をふたたび諜報勤務員として同地に投じた。十月革命直後の1918年正月のことだった。宿泊することにしたホテルは暴漢達に荒らされて支配人のほかにひと気はなかった。そこへズックの小袋を持った背の高い [続きを読む]
  • 大庭柯公『露国&露人研究』(1925)/久米茂『消えた新聞記者』(1968)
  •  大庭柯公 1872.8.30~ 1923? 1925年1月遺族・知友150余名参列追悼会開催 同年全5巻柯公全集刊行『露国と露人研究』については元外交官佐藤優氏が「外交を読み解く10冊」に推薦している。世界のヤルタ体制秩序が危機にさらされている今日政治・外交人と経済人と一般市民が押さえておくべき世界常識が詰まっている古典である。上記の巻をわたしは《一人で編んだロシア百科》と思いながら読んだ。明治時代は列強帝国主義の [続きを読む]
  • 中平亮『 赤色露国の一年』(1920)/百年検証に耐えるルポルタージュ
  • 2017年 めでたくもありめでたくもなし昨年4月少年サッカーの指導から引退した。時間の余裕ができたかと云えばさにあらず、103歳近い母親の介護を妻と分担しなければならなくなった。私は丸一日は外出できない。身長148足らず、体重40未満の寝たきりの母を座らせたり寝かせたりする困難を毎回実感している。誰もが通る道、老々介護は厳しい。介護士の苦労が思いやられる。2017年はロシア革命100周年である。世 [続きを読む]
  • ロシア史研究会/松田道雄・菊地昌典両先生のこと
  • ロシア史に興味があるアマチュアの研究会に入れてもらった。人文研の飛鳥井雅道氏(日本近現代政治/文化史)が事務局を担当し、松田道雄氏が座長役だった。松田先生は小児科医をしながら執筆でも幅広く活躍されていた。『私は赤ちゃん』『私は2歳』はベストセラーで世のお母さん達の育児の心配に分かりやすく応えていた。その後出版された『定本 育児の百科』は結婚祝い品の定番の一つだった。今なおロングセラーであり、その中の [続きを読む]
  • 労組結成の試み
  • 1963年夏 琵琶湖学生時代最後の夏休みに、進路模索活動の一環として組合づくりを試みた。洛南の従業員・数十名の合金会社に長期アルバイトで入った。砂型に溶融アルミを流し込んで「ナショ」*ブランドの電気釜用内鍋を作っていた。わたしは場内の雑用(主に運搬)係だったが作業用安全ブーツを貸与されていた。 *下請けが常用していた表現従業員は集団就職で入社した若い男が多かった。憶えている出身地は前橋市である。会 [続きを読む]
  • カストロ死す/2016.11.26
  • リアルタイムでブログを書いている。午後2時半、TVのニュースで訃報を知った。私はカストロが90歳なので覚悟をして記事を書くための資料を集めねばと思いつつできなかった。奇しくも60年前のこの日カストロは同志82名と共に親米独裁政権打倒を目指して亡命先のメキシコからキューバに向かってヨット・グランマ号で船出している。1956年30歳だった。私たちはカストロとよんでいるが、キューバ国民はフィデルと愛称で呼 [続きを読む]
  • ケネディ大統領暗殺/1963年11月23日/神護寺の紅葉散る
  • その日わたしは左京区の下宿正面の松葉食堂で遅い朝食をとっていた。日米間のテレビ中継「衛星通信実験」中にケネディ暗殺の映像が飛び込んできた。あまりの衝撃にその年月日は一生忘れられない記憶となった。その日から53年経った。その日は歴史上のランドマークになった。ケネディ大統領は国内では黒人の公民権運動を支えキング牧師のI havea dreamにその夢を共有すると応じた。外交政策では歴代大統領の中でただ一人イスラ [続きを読む]
  • ヨーロンと三池闘争/困窮離島差別
  • 森繁久弥が歌って全国を風靡した「島原子守唄」(1959)をYouTubeでどうぞ・・・。森繁は早稲田大学で作詞者宮崎康平の学友だった。島原半島の口之津港から底の浅い団平船で沖に停泊する青煙突の「バッタンフル」社大型船に運ばれて東南アジアに密輸されてゆくカラユキさんの悲哀を想像しながら口ずさんでください。♪ 山ん家は かん火事げなばい ・・・ [繰り返し] 家はネと発音サンパン船んなヨロンジン 姉しゃんな握ん [続きを読む]
  • 三池炭塵爆発事件/CO裁判闘争
  • 1963.11.9 撮影 植埜吉生氏 酒店勤務 19歳 故人 私のCO中毒体験。4回生の寒い昼、活動家仲間数人とAの下宿で練炭ストーブを囲んでダべっていた。それまで何の異常もなかったのに立ち上がった瞬間大きくよろめいた。それから半日ほど頭痛がした。CO中毒は亜急性間歇型疾患であった。素人の理解だが、体を動かすとエネルギー補給のため血流が速くなり血中のヘモグロビンが酸素運搬を急ぐ。ところが一酸化炭素中毒になっている [続きを読む]
  • 就職活動/進むべき道みえず愚行を演じる
  • 1963年の初夏、わたしは就職活動を始めた。進むべき道がまだみえなかったためとりあえず就職試験を受けておくか、という結果を考えない安易で無責任な行動だった。両親の不安をおさめる狙いもあった。2,3受けて造船会社から内定をもらった。関西電力を受けて落ちた気がする。なぜ造船かというと三菱長崎造船に「社研」という新左翼の組織があって頼もしい指導者と聡明な青年たちの活動を交流会や出版物を通してみていたから [続きを読む]
  • 正木ひろし弁護士を囲む会/狭山事件「造花の判決」
  • わたしは、迷宮事件、冤罪事件に深い関心があるが、それは新聞、ラジオ、TVの報道と関連本読書の長期間の影響だと思う。ちょうどこの時期、大学の法学部自治会が正木ひろし弁護士を呼んで講演会をもった。講演の後法経教室地下で囲む会があった。そこで正木氏が日本の良心であり体制の司法部に喰い込む能力と実行力の持ち主であることを知った。かれは戦時中個人月刊誌「近きより」を発行し交友を広げながら巧みに時局(東條内閣) [続きを読む]
  • 狭山女子高生殺人事件
  • 1963年は、私にとって忘れがたいだけでなく大学を卒業してからもずっと関心をもって追い続けた大事件が三つ発生した。三事件に対して私はほぼ傍観者だったが、いづれの事件についても連日ニュースを報道するTVや新聞を穴が開くほど熟視熟読した。4回生になって自活の道をどう選ぶか考え始めたとき最初のそれが起こった。1963・5・1 狭山女子高生殺人事件_第一の事件高校1年の女子高校生が16歳の誕生日の日に学校か [続きを読む]
  • 二重国籍問題/英国大列車強盗1963年
  • 大統領、首相が二重国籍では国民が容認しないのはわかる。民新党代表選にからんで蓮舫二重国籍問題が浮上したのも意外ではない。コトが起きる前に早々に浮上するところは国民性だろうか、特殊日本的である。以下垣間見た限りではどの国の法務機関も国民の二重国籍については関係国の内政に関わるためほとんどOFF状態で規制法も情報管理も極めてaboutである。今回私の国籍問題を振り返る気になった。ブラジルは出生地主義をとってい [続きを読む]
  • 水俣闘争の歴史的意義と水俣病裁判
  • 1963年正月帰省を終えて水俣に様子伺いに行った。183日間にわたる長期争議が終わろうとしていた。総評、組合が熊本県地労委の斡旋を受け入れたことにより闘いは「和平」の段取りに移っていた。水俣闘争は合理化の波が化学産業に波及してきた以上の意味をもっている。わたしは日経連の機関誌と労働運動情報誌を購読していたから一連の労働争議を合理化に隠れた階級闘争として認識していた。資本側の参謀本部日経連には前田一 [続きを読む]
  • キューバ危機/世界核戦争瀬戸際の恐怖
  • 1962年10月は世界核戦争の瀬戸際まで行ったキューバ危機で世界史に記録されることになる。私がまだ水俣に居た23日にケネディ大統領がTVで海上封鎖声明を出した。ソ連がキューバの基地に米本土を攻撃できるミサイルを搬入したことからキューバ行きのソ連貨物船団を海上で臨検するというものだった。潜水艦に護衛されたソ連の船隊が阻止線に刻々近づく。アメリカの軍艦、空軍機が待機している。アメリカがキューバの基地を空 [続きを読む]
  • 大学時代/水俣闘争 1962
  • 1962年秋、私は単独で南九州の水俣駅に降り立った。目の前に新日本窒素水俣工場がありその正面を合化労連新日本窒素水俣労働組合がピケで固めていた。ロックアウト中の工場内には第2組合員数百名が籠城していた。今回は京大同学会を名乗りカンパ持参だった。湯川博士の秘書が趣意書を見てその場で3万円出してくれた。博士直筆の署名をみて労組幹部は感激し、さっそくノーベル賞学者のカンパを情宣した。わたしは情宣部に配置 [続きを読む]
  • 大学時代/谷川雁と大正行動隊 1960〜1963
  • 毎年2,3度わたしは安保闘争中のゼネストで懇意になった全国税労組京都支部の井ノ山さんの御家(官舎)に遊びに行った。半日、ご夫妻とお子さんといっしょに団らんの時を過ごすのが常だった。プールにも行って古泳法のさわりを体験させてもらったりした。それらは私にとって緊張と疲れをいやす貴重な休息の時間だった。そのうえすき焼きで栄養をつけていただきありがたかった。井ノ山さんとの対話は私にとって新鮮な耳学問だった [続きを読む]
  • 大学時代/合理化阻止闘争/日炭高松闘争
  • 戦後復興を支えた主柱の一つであった石炭鉱業が石油エネルギーへの転換期を迎えて斜陽化し、三池炭鉱争議に代表される反合理化闘争を招いた。重油輸入自由化という「黒船」が迫っていた。1961年の夏、わたしは鹿児島本線折尾駅か水巻駅の北側に下車した。目的は筑豊最大級のヤマ日炭高松の炭住である。闘争本部に行き来意を告げるとすんなり受け入れてくれた。わたしは私服で学生を名のり炭住で数日間こどもの学習を助けたい [続きを読む]