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  • ホテル アンノ1433

    むかし岩塩の採掘と流通で栄えた町リューネブルクに講演に行って、おもしろい名前のホテルに泊まりました。〈ホテルアンノ1433〉というのです。annoとはラテン語で〈・・・年〉という意味なので、〈ホテル1433年〉となります。ホテル1433年12世紀ごろから経済発展を始めたこの町に、14世紀の前半から仕事用に建てられ始めた建物のうちの一軒です。名前からわかるように、この家は1433年に建てられた石材構造建築で、16世紀後半には住居としても使われるようになりました。何度も改築と所有者の交代があり、19世紀の後半にさらなる増改築が行われ、21世紀になってから昔の建築様式がいたる所で認められるように修復されたのです。2階に行くとレセプション-デスク・私の部屋〈ホテルアンノ1433〉は恐ろしくシンプルな内装のホテルで...ホテルアンノ1433

  • ヴェルニゲローデ城館

    ハノーファーから東に120km離れた旧東ドイツのヴェルニゲローデ市にあるヴェルニゲローデ城館は、旧市街を見下ろす100mの高台に建っています。おそらく12世紀の前半に建造され始めたと思われますが、13世紀の前半に初めて古文書に現れるそうです。15世紀と16世紀に断続的に建築が大規模に進められ、何度も所有者が代わり、17世紀にバロック風城館に改築されました。そして19世紀にはその時代を代表する様式に改築され、その特徴の多くはこんにちまで保存されています。20世紀初め頃から当市の侯爵家族が居住するようになり、それと同時に第2次世界大戦終戦までの間、城館施設の一部が一般見学者に公開されていたそうです。戦後侯爵家族の所有であった城館は土地改革によって公用徴収されてしまい、その上歴史的な武器や武装、軍人や勲章の絵画...ヴェルニゲローデ城館

  • 長崎の料亭 〈一力〉

    今年の春、一時帰国した際に長崎を訪れました。私は3回目です。江戸時代から第2次世界大戦終戦までの歴史が詰まっているし、異国情緒豊かな文化もあり、日本で最も興味深い都市の一つだと思います。55年ぶりに訪れた妻も大満足でした。大浦天主堂・グラバー邸出島・ちゃんぽんミュージアム夜景長崎といえばチャンポン、皿うどん、そして何といっても卓袱料理です。どうしても初めての卓袱料理を食したく、自宅のあるドイツから遠距離予約をして出かけました。入口長崎の料亭の中でも最古である200有余年の歴史を誇る〈一力〉という老舗料亭です。〈一力〉の長い物語の始まりは西暦1813年、町人文化が発展した化政文化真っ只中の折だそうです。京都に同じ名前の料亭がありますが、400年もの歴史がある京都の〈一力〉とは格違いだということで遠慮して、自...長崎の料亭〈一力〉

  • ホテル バッハマイル・ヴァイスアハ

    ドロミテから帰宅の中継地として、ミュンヘンの南50km、テーゲルン湖のほとりにある5つ星保養ホテルに一泊しました。若かりし頃はハノーファーまでいっきに走っていたのですが、途中で休むのが習慣になりました。このホテルは20世紀の終わりに、優雅さと心地良さとバイエルン州の田舎風をお客さんに提供しようとして建てられたとのことです。正面入口・ロビー兼図書室高級車が並ぶホテルの正面玄関を入ると、意外と質素なロビー兼図書室に驚きます。広大な庭のまわりにぐるりと客室棟が建ち並ぶ設計で、庭には礼拝堂があり、敷地の真ん中をかなりの水量の小川が流れています。われわれの部屋は思っていたよりシンプルで地味な、落ち着きのあるツインルームで、広さもわりとあるので住環境はたいへん結構です。中庭1&2礼拝堂実際に行くまでまったく知らなかっ...ホテルバッハマイル・ヴァイスアハ

  • シュヴェーデスドルフ城館

    16世紀の末、ニーダーザクセン州の州都であるハノーファーから西南西の方向に45分走った所にシュヴェーデスドルフ城館は建造されました。城は建設されて以来フォン・ミュンヒハウゼン家によって個人所有されていて、EUの資金援助により重要な文化遺産として良好な状態に保たれています。城は母屋とそれに垂直に隣接する建物で構成されています。17世紀初めに六角形の階段塔が増築され、19世紀には木骨造りの上層階が拡張されました。城の西側にはエキゾチックな木々が生い茂る庭園があります。数年前まで、フォン・ミュンヒハウゼン男爵とその夫人が老後を過ごす居城として機能していました。正面から・向かって右から向かって左から・人が住んでいると思われる棟2022年の中頃からシュヴェーデスドルフ城館が建つラウエナウ町では、個人投資家が城と付属...シュヴェーデスドルフ城館

  • ピエトラ城砦

    私たちが8泊したアパートメントは、プリミエロ谷にあるトランサックアという村にあります。ここはドロミテの南の方で、ドロミテ独特の奇岩の山々が見える地域の南端にあたります。トランサックア村は、川を挟んだフィエラという村や同じ川岸側にあるトナディーコおよびシロールの村々と共同体を成しています。奇岩の山々の一部朝・夕方フィエラ村1&2フィエラ村3&4フィエラ村5ピエトラ城砦はトナディーコ村にあるのです。北イタリアの他の地方に同じ名前のもっと立派な城塞がありますが、ここのピエトラ城砦は険しい岩山のてっぺんに築かれていて、今は廃墟なのです。ピエトラ城砦正面から・裏側から山を分け登って近づいて見ると巨大な岩にロッククライミングしている人たちがいます。ロッククライミング場自然の岩を利用した城壁の一部があり、上に登るのに鉄...ピエトラ城砦

  • 貴族の館 エルス・カルデラーズ

    昨年のクリスマスから新年にかけて久し振りにスペインのマヨルカ島で過ごしました。過去に比較的頻繁に行った時期があり、今回は7か8回目ぐらいです。ドイツでフィンカと呼ばれるかつての農家を賃借して10日間過ごしたのです。近くに住む大家の犬と猫がしょっちゅう遊びに来たり隣の農場の羊やロバたちが寄って来たりして、たいへん楽しく過ごしました。フィンカ・フィンカの広大な庭マヨルカ島滞在の主な目的はトレッキングだったのですが、その土地の文化に触れることも忘れませんでした。その一環としてエルス・カルデラーズを訪れたのです。館の外観・その入り口立派な犬小屋外庭・中庭エルス・カルデラーズはマヨルカ島のかつての邸宅で、現在は野外博物館として利用されており、当時の部屋を見学することができます。この邸宅は13世紀の後半にカルデラー家...貴族の館エルス・カルデラーズ

  • マロースティカ城塞

    ヴィツェンツァからドロミテの山間部のアパートメントに居を移す途中で、マロースティカという、人口一万四千人の小さな町を散策しました。旧市街の鳥瞰図見どころは、山頂にある上部城塞と平地にある下部城塞。そしてそれをつなぐ城壁が旧市街を完全に取り囲んでいる景観です。14世紀に築かれた数キロメートルの長さの城壁には、二十数本の防御塔があります。下部城塞(城壁の外から)1&2城壁(外側)教会と上部城塞1&2上部城塞1&2上部城塞3城壁1&2下部城塞(左)と城壁(真中と右)城壁の中には下部城塞の前にチェスボードを模した広場があり、数百年前から2年に一度、偶数年9月の第二週末に人間チェスが行われます。人間が中世の衣装を着てチェスの駒に扮するのです。下部城塞とチェスボード広場(コンサートの準備中)なぜ人間チェスが行われるよ...マロースティカ城塞

  • ローテンブルク・オプ・デア・タウバー

    ノイシュバンシュタイン城やライン河下りと並んで最も知られたドイツ観光のハイライトのひとつが、南ドイツをヴュルツブルクからフュッセンへ縦断するロマンティック街道です。ロマンティック街道にある中世の町の中でも特に有名なのが、ニュルンベルク大都市圏の一部であるローテンブルク・オプ・デア・タウバー。市役所(左の建物)なぜこれほどまでに有名なのでしょうか?歴史的な町の中心部は要塞に囲まれ、タウバー渓谷の手付かずの風景に埋め込まれています。そしてほぼ完全に保存されている中世の旧市街に多くの歴史的建築物や文化財があり、第二次世界大戦による破壊と再建にもかかわらず、現代的な建物がほとんどありません。これがこの町の魅力なのでしょう。さらに、ローテンブルクは中世犯罪博物館など、いくつかの博物館でも知られています。私の姪が訪独...ローテンブルク・オプ・デア・タウバー

  • チッタデッラ と カステルフランコ ・ ヴェーネトの市壁

    ヴィツェンツァの近くのチッタデッラという小さな町を見学しました。歴史的な地域が、ほとんど完全な形で残っている市壁で囲まれている興味深い町です。チッタデッラの中心部チッタデッラは13世紀前半にパドヴァの軍事的前哨地として築かれました。そして13世紀後半から14世紀末にかけて近隣地域での戦略上の重要性を持つようになり、その影響が及ぶ地域が広がっていったのです。現在北イタリアであるこの地方は、18世紀から19世紀にかけてフランスに占領されたりオーストリアの一部になったりした後、19世紀の後半にイタリア王国に属するようになりました。市壁と水掘・出入り口のひとつ(外側から)出入り口のひとつ(門の内部)・出入り口のひとつ(内側から)市壁は直径約450mのほぼ円形で、円周は約1.500mあります。高さは14mから16m...チッタデッラとカステルフランコ・ヴェーネトの市壁

  • マドンナ・ディ・カンピーリョ

    海抜1552mの高さにある人口650人(2022年時点)のマドンナ・ディ・カンピーリョ村は、イタリア・アルプスで比較的大きな都市ボルツァーノの南西に位置しており、約100㎞離れています。同様の都市トレントから見ると北西にあたり、約70㎞の距離です。隣のボルツァーノ自治県にドイツ語話者が多いからでしょうか、この村にはドイツ語の名前もあり、ザンクト・マリア・イム・パインといいます。この場所は13世紀前半の文献に初めて、巡礼者や旅行者のために12世紀後半に建てられていた施設と共に言及されているとのことです。山から見たマドンナ・ディ・カンピーリョ村村の周辺の景色1&2村の周辺の景色3&4この施設が地域の観光の起源となっていて、650人の住民は主に観光業で生活しています。過去にはハプスブルク家のメンバー、特に皇后シ...マドンナ・ディ・カンピーリョ

  • ロミオとジュリエットの城塞

    北イタリアの旅行で次の目的地であるヴィツェンツァに行く途中、モンテッキオ・マッジョーレという町を通りました。そこで偶然に、〈ロミオとジュリエットの城塞〉があることを知ったのです。地元の人によると、シェークスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の舞台になった町はヴェローナではなくてこのモンテッキオ・マッジョーレだ、とのことです。ロミオの城の実際の名前は〈CastellodellaVilla〉で、ジュリエットの城は〈CastellodellaBellaGuardia〉です。ウィキペディアの写真でロミオの城とジュリエットの城の位置関係がわかります。約300メートル離れているのです。二つの城の位置関係(ウィキペディアより)ロミオの城1&2ロミオの城からジュリエットの城を望むジュリエットの城1&2ジュリエットの城から...ロミオとジュリエットの城塞

  • 狩猟の館 〈森の平和〉

    大きな森の真ん中にある〈森の平和〉と名付けられたかつての狩猟の館は、こんにちホテル&レストランになっています。施設の入り口・ホテルホテルの本館1&2ハンブルクのほぼ真北約30㎞の所です。この建物はある船主のスタイリッシュな家屋として20世紀初頭に建てられ、現在でもその元々の小ぢんまり、上質、ロマンチックといった魅力を保持しているのです。最高級ではないが高級ホテルが会員である〈ロマンティック・ホテル〉という組織に属するホテル本館、別館のゲストハウス、庭に点在する催し物を行うコテージから成る施設です。ホテルと庭・庭とコテージ別館のゲストハウス本館はディズニーランドにあるような可愛い建物です。レストランの一角がレセプションになっていて、中年おばさんがテキパキとチェックイン手続きをしてくれます。私の部屋・そのバス...狩猟の館〈森の平和〉

  • ロッカ ・ ディ・リーヴァ水城

    リーヴァ・デル・ガルダという町はマルチェージネとならぶガルダ湖観光の中心です。ガルダ湖の北端にあり、人口約一万六千人。町は1919年までオーストリア・ハンガリーに属していて、第一次世界大戦後イタリアに属するようになったそうです。むかしの町の防御施設の大部分がまだ残っていて、見学できます。町の中央広場・山の中腹の歴史的建造物そのひとつが、港にあるロッカ・ディ・リーヴァ水城です。12世紀に建造され、14世紀に初めて記録に現れるそうです。この手の城の運命なのですが、度重なる戦争により色々な国の軍隊に占領されたり、掠奪されたり、焼き払われたりして来ました。こんにちの姿になったのは19世紀で、第一次大戦後にこの地方の基礎自治体の所有になったとのことです。城塞は水堀とガルダ湖によって周りを水に囲まれています。20世紀...ロッカ・ディ・リーヴァ水城

  • バイヒリンゲン城館

    バイヒリンゲン城館は私の住むハノーファーから南東に230km、旧東ドイツのテューリンゲン州にあります。城館の前庭と駐車場・入城門おそらく渓谷への重要な峠道を守るために建てられたと思われ、ある司教の11世紀初めの著書で初めて城として言及されました。それから数百年の間、武力紛争によって征服されたり破壊されたり再建されたりを繰り返すのみならず、貴族の間で売買されて来たようです。そして16世紀の中頃に、荒れ果てた城の基礎だけを残して利用する形でルネッサンス様式の城館に改築されました。その後も拡張と再建が続けられ、17世紀中頃の30年戦争によって受けた損傷も修復されました。城館がネオルネッサンス様式で根本的に再設計されて建てかえられたのは20世紀の初めです。城館施設内の建造物1城館施設内の建造物2&3第二次世界大戦...バイヒリンゲン城館

  • スカリジェロ城塞

    夏の休暇で山々に囲まれたイタリアで最も大きい湖、ガルダ湖に来ました。湖岸のマルチェージネという町に8泊するのですが、この町は人口約3.700人で、しばしば〈ガルダ湖の真珠〉と呼ばれる、ガルダ湖観光の中心のひとつです。マルチェージネの港・裏の山から城塞とオールドタウン今回紹介するスカリジェロ城塞は湖の交通を管理するのに良い位置、30mの高台にあります。最初の城塞建造は12世紀の前半と記録されているようです。何度も破壊と再建を繰り返してきて、18世紀から19世紀にかけてフランス人が占領したりオーストリア人が取ったり、はたまたイタリア王国に属したりしたのですが、1815年のウィーン会議の後オーストリア帝国に属するようになり、この時代、すなわち19世紀の後半に最後の根本的な改築がなされました。イタリアの独立戦争の...スカリジェロ城塞

  • シュヴァインスブルク城館

    私の住むハノーファーから南東に約350km、メッセで有名なライプツィヒから真南に約75㎞。旧東ドイツのこの位置にシュヴァインスブルク(豚の城)城館はあります。城館ホテルですので、昨年の夏ここに宿泊しました。昔は堀で囲まれていた城の建設は12から13世紀にかけて行われ、早くも13世紀中に城の所有者であり領主の家族は絶えたので、その後何度か所有者が代わりました。城は荘園の行政の中心地として機能し、15世紀後半からシュヴァインスブルクという名前が城に使用されるようになりました。17世紀中頃の30年戦争の際はスウェーデン軍の将軍の住居になったそうです。そして老朽化したシュヴァインスブルク城は18世紀の中頃バロック様式の城館に、さらに20世紀になってすぐの頃にネオ・バロック様式で改築と再建がなされたのです。城の外観...シュヴァインスブルク城館

  • B&B ホテル ベルクユヴェール

    ドイツのバイエルン州から国境を越えてオーストリアのチロル地方に入ると、山の中にフェルンシュタイン城塞があります。この城は13世紀の終わり頃に建造されたようで、おそらく、破壊、修理、再建、拡張などを経て現在に至るのでしょう。城に属するかたちで、美しい静かな湖があります。城はホテルになっているので、いつか宿泊してみたいと思います。フェルンシュタイン城塞・すぐ近くの湖妻と私はさらに南下し、〈ノイシュティフト・イム・シュトゥーバイタル〉という名前の村まで来ました。ノイシュティフトという地名はオーストリアにいくつかあるのでしょう。だから〈シュトゥーバイ谷にあるノイシュティフト〉というのです。この谷のことは妻も私も知らなかったのですが、奥の方に氷河が見える静かな良い谷です。さらに知らなかったことは、この村が草津町の姉...B&Bホテルベルクユヴェール

  • エフェンブルク水城

    昨年の夏は北ドイツに行く機会が多く、その都度古城を見学したのですが、そのひとつがエフェンブルク水城です。北ドイツの都市ハンブルクからほぼ真西に直線距離で約200km、オランダとの国境まで20km弱のところに、庭園に囲まれて建っています。城に続く並木道1&2最初のエヴェンブルク城は17世紀の中頃にバロック様式の水城として建てられました。実に精巧に設計された建物だったようです。ところが城は200年後の19世紀半ばには住民のニーズに対して小さすぎ、時代遅れになっていて、広範囲の修繕が必要でした。そして新しい城は2年間の建設期間で拡張と再建が行われたのです。城の外観1&2城の外観3&4城の外観5その際、新しい城には古い城の周囲の壁、いくつかの仕切り壁、地下室の曲面天井、そして玄関の大理石の床が再利用されました。新...エフェンブルク水城

  • クレメンスヴェルト城館

    昨年の5月、妻と一緒にクレメンスヴェルト城館を訪れました。我々の自宅があるハノーファーから北西の方向に直線距離で200km程、オランダとの国境まで30kmのところにあります。城館とパビリオンの航空写真菩提樹の並木道・中央の城館クレメンスヴェルト城は18世紀前半に建てられた狩猟小屋です。並木道の延長線上にある中央の城館とそれを囲む8棟のパビリオンからなるこの複合施設は、ヴェストファーレン・バロック様式の主要作品の1つとされています。8つのパビリオンのうち7つはゲストハウスと農場の建物として機能していました。20世紀の前半に某私企業の所有となり、主に資材の倉庫として使われていて長い間修復作業はなされていませんでしたが、20世紀の後半になってやっと複合施設の包括的な改修と修復が行われました。城館とパビリオンの一...クレメンスヴェルト城館

  • ヒュンネフェルト城館

    私の住むハノーファーから真西に3時間強走った所にある、北ドイツの平地に建つ水城に来ました。城へと続く道・複合施設の全体像(Wikipediaより)広大な森と草原と畑がある敷地の中、敷地を囲むように水路が走っています。この人家から離れてぽつんと建つ、堀に囲まれた城と農場から成る数棟の建物がヒュンネフェルト城館です。門が固く閉まっており"ビデオ監視"の表示もあり、非友好的な印象を受けます。城館1&2城館3この地に最初に建造された城塞が、12世紀の中頃にヒュンネフェルト領主の先祖代々の本拠地として古文書に言及されています。そして13世紀に2棟からなる堀のある城塞に建て替えられ、14世紀末の頃から16世紀末にかけて数度にわたり所有者がかわりました。農場と堀1&2城塞がヒュンネフェルト城館に改築されたのは17世紀の...ヒュンネフェルト城館

  • 旅館 「ツム・バート」

    「プールへの入り口」という、日本人の感覚では変わった名前の、レストランを併設した宿屋です。休暇で北イタリアに行く途中で一泊した町にある施設で、この町は〈泉と水車の町〉とアピールしています。複数の泉から湧き出る水を集めて流れる小川があり、水車がたくさん回っていて、水泳と水遊び用のプールが充実しているようです。水車妻と私が旅装を解いたのはこの家族経営の旅館なのです。そのレストランは清水がふんだんに湧き出る泉の上に建っていて、10年くらい前からミシュランのひとつ星を持っています。我々の部屋はいたってシンプルですが、必要なものは全部あります。旅館-レストラン・客室レストランでは、泉と小川が見える一番良い席をもらえました。自分の仕事に関して良く勉強していると思われる給仕のお兄さんも他の給仕スタッフも愛想がいいのです...旅館「ツム・バート」

  • ブルク城館

    デュッセルドルフで講演をした帰途に、同市の南東30㎞程の所にある、刃物で世界的に知られたゾーリンゲンの郊外に建つブルク城館に立ち寄りました。それにしてもブルク(城砦)城館とは変な名前です。実は、半年ほど前に訪れた時は大工事中で、ほとんど見学出来なかったのです。今もまだ工事は続いていますが一部は見学可能だし、いくつかあるレストランも屋外休憩所も開いてます。しかしながら、まだ建物内に入ることは出来ないし博物館も閉まっているので、外観だけの見学になってしまいました。観光用にかなり整備しているため、古びた趣はまったくありません。駐車場からの外観1&2さて、この城館の歴史は13世紀まで遡るようです。元々の建物はノイエンブルクという名の城砦でした。が、14から16世紀にかけて戦争技術が変化して来た為、防御機能が不十分...ブルク城館

  • カッツェンシュタイン城塞

    カッツェンシュタイン(猫石)城塞は、11世紀に現在のバーデン・ヴュルテムベルク州に建造された城塞です。私の住むハノーファーから真南に500kmのところにあります。貴族の間で所有者が何度も代わり、17世紀中頃からは30年戦争などの争いに巻き込まれ、スウェーデン人やフランス人に攻略されたり、火災で破壊されたりしました。19世紀の初めから一時的にヴュルテムベルク王国の管理下に置かれ、その後約100年間の空き家状態から再び個人所有の城塞になりました。何度も所有者が代わり、その都度改装がなされ、その間市民に公開されたりされなかったりの繰り返しだったのです。ところが、20世紀の末頃に火災で部分的に破壊された後、閉鎖されました。21世紀になって数年過ぎたころ、ある夫婦が大改築を行い、城の一部を使って飲食店とお土産品売り...カッツェンシュタイン城塞

  • ホー ・ コェーニクスブルク城塞

    フランス中部を流れるロワール川の流域にある古城は40年くらい前にいくつか訪れましたが、このブログを始めてからは初めてフランスのお城を見学しました。アルザス地方にあるホー・コェーニクスブルク城塞です。フランス語ではChâteauduHaut-Kœnigsbourgと書きます。シャトーなんじゃらかんじゃらブールと読むのでしょう。模型・航空写真(ホームページより)ドイツと国境をはさんで接しているアルザス地方にあるホー・コェーニクスブルク城塞は、12世紀に建造されました。標高約800mの高台にあり、この地域の交通の要所であるライン河の流域を見渡すことが出来ます。城塞からの展望城塞は15世紀の中頃に破壊されて半世紀後に再建されたあと、17世紀の前半までその全盛期を謳歌しました。ところが、30年戦争の時、スウェーデン...ホー・コェーニクスブルク城塞

  • ヴァイベルホェフェ城館

    フランクフルトから南東に約50㎞離れた所に、約10ヘクタールもの公園をもつヴァイベルホェフェ城館はあります。13世紀中頃に建造された狩猟用離宮で、16世紀中頃の第二次辺境伯戦争と呼ばれる戦争で破壊され、5年後に再建されました。その後17世紀の後半から1990年まで牧羊農場が営まれていましたが、最後の農場主が亡くなった後、次の所有者が農場の歴史的価値を十分に考慮しながら、ウェルネスに重きを置いたヴァイベルホェフェ城館ホテルに改築したのです。そしてそのホテルのレストランは、ミシュランの2つ星を得たそうです。2016年から2017年にかけて、史跡保護の観点を考慮しながら建物の修復が行われました。母屋・母屋の裏側中庭1&2中庭3名もない(私が知らないだけなのですが)村のはずれに、大農場の面影が残る広大な敷地と建物...ヴァイベルホェフェ城館

  • ライネ城

    ライネ城というのは私の住むハノーファー市にある擬古典主義の城館施設で、1962年からニーダーザクセン州の州議会が入っています。柱廊玄関があるライネ城の前面1&2じつは、ライネ川沿いのこの地には13世紀の末に創設された修道院がありました。その教会財産が16世紀前半に世俗化(国有化)された後に教会だけが残されて、その敷地に城館が新築されたのです。その後修理や改装や建て替えが行われたのですが、19世紀に正面玄関に6本の円柱が建造されて擬古典主義的な建物となりました。第2次世界大戦時の空襲では100発以上の爆弾が城館に命中し、外壁を残して破壊されてしまいました。そして戦後、残った外壁を利用して城館は再建されたのです。21世紀に入って何度か近代化工事が行われました。ライネ城の前面を違う角度から・ライネ城の手前にレス...ライネ城

  • オスナブリュック城館

    ハノーファーから西に160km離れたところにあるバロック風のオスナブリュック城館は、17世紀の後半に建造されました。19世紀の初めから行政官庁の建物として使われ、20世紀前半のナチズムの時代にはナチの秘密国家警察(ゲシュタポ)が城の西の棟に入りました。ゲシュタポは地下に囚人房と拷問部屋をつくり、ユダヤ人のオスナブリュック市民を強制収容所に送るまでの間拘留していたのです。留置場にはその他、外国人の強制労働者と政治犯がいました。第2次世界大戦の時に城は破壊されて外壁だけになってしまいましたが、戦後再建されました。そして20世紀の後半に複数のカレッジが統合されて新しいオスナブリュック大学として開学し、それ以来大学の事務局と一部の学部が城館を使用しています。城館の建物と付属の庭園は史跡保護の対象になっているそうで...オスナブリュック城館

  • ゴーデス城砦 ・ その2

    ミシュラン1つ星のレストラン〈ハルベデルス・ゲストハウス〉も、やはり昔の貴族の別荘でした。レストランの外観とその内部ある種の緊張感をもって行きましたが、温か味のある居心地のいい内装で、どこかの裕福なお宅に招待されているような気持ちになりました。30歳前後の男性と60歳代と思われる女性の給仕スタッフは気さくで、常連客との会話が弾んでいました。私の席落ち着く隅のテーブルでアペリティフの発砲リンゴジュースを飲んでいると、60歳代後半ぐらいのシェフが出てきました。驚いたことに、シェフ自ら手書きのメニューを説明して注文を聞くのです。7品から成る4月のメニューがあり、省く料理があってもいいし一品料理を付け足しても良いとのことでした。それで、私は〈チーズの盛り合わせ〉をパスして6品のメニューにしたのです。ノンアルコール...ゴーデス城砦・その2

  • ゴーデス城砦 ・ その1

    かつて西ドイツの首都であったボンのバード・ゴーデスべルクという市域は、私には、各国大使館員とその家族が大勢住んでいた、という認識のところです。ここの中心部、海抜122mの小さな山にゴーデス城砦の廃墟はあります。町から見あげる城塔・ありし日の城砦の模型ゴーデス城砦の建造は13世紀の初めに始まり、建築と拡張が段階的に14世紀まで続きました。その後、16世紀後半のケルン戦争のとき、30mの高さの城塔だけが破壊されずに残ったのです。そして19世紀の終わり頃に当時の皇帝ウィルヘルムII世がゴーデス城砦の廃墟を当地のコミュニティーに譲渡しました。コミュニティーは20世紀の中頃、その廃墟に広々としたレストランを開いて今日に至っています。最近では4年ほど前に城塔は修復されたそうです。実際に階段と坂の小道を登ってみました。...ゴーデス城砦・その1

  • 下関市

    下関ではまず船で5分の対岸、北九州市門司区に渡りました。門司港レトロという歴史的重みをもつ建造物を残してある観光地域があるので、そこを見学するためです。関門海峡・門司港レトロここで昼食を、と思っていると、いたるところに〈名物〉という焼きカレーを食べさせる店があります。本当にしつこいくらいです。「元祖」、「専門店」、「市公認」、「本家」、「オリジナル」などをレストランの名に付けて権威をもたせようとしています。こんな〈名物もの〉は絶対美味しくないから食べないぞ、と思っていたのですけれども、他にめぼしいものもないし、あのカレーの香りは食欲をそそるんですよね。試しに食べてみました。焼き青カレー妻が頼んだのは〈焼き青カレー〉。生卵を埋め込んだご飯にタイ風味満載の青カレーとたくさんのチーズと色々なナッツ類をかけて、そ...下関市

  • 萩の町

    萩は、良く知られているように、日本の国体を左右した歴史をもっています。断片的にですが、いくつかの印象深い景色を写真に収めました。白壁の塀・夏みかんと桜武家屋敷が連なる地域には白壁の塀が目立ち、武士が栽培して生活費の足しにしたという夏みかんがのぞいています。明倫館かつて日本三大学府の一つと称された長州藩の藩校、明倫館の建物が残っていて、数年前まで小学校として使っていたそうです。毛利氏の廟所市街地のはずれにある東光寺には毛利氏の廟所があります。萩焼萩焼はたいへん有名です。すでにいくつか所有しているのですが、夫婦(めおと)飯茶碗とぐい飲みを買いました。2日目の萩はリゾートホテルを離れて、何だか由緒ありそうな名前の〈萩八景雁嶋別荘〉という料理旅館に宿をとりました。町の中心部に近いけれども、日本海に注ぐ川と江戸時代...萩の町

  • 萩城址

    萩城は、江戸幕府が開かれた翌年、1604年に毛利氏が居城として築いた城。城の建物は今はなく、東萩駅前にその模型があるだけです。萩城址1&2萩城址3・お堀の鯉萩市での一泊目は海岸にある普通のリゾートホテルにして、町の和食店で夕食をとりました。元首相の小泉さんが訪れたことがあるそうです。カウンター席で小さなコース料理を注文して、それに加えて気の向くままに一品料理を頼みました。コースの最初は何であったか忘れましたが、味噌ドレッシングがかかっています。ドレッシングが結構良い味でした。最初の一品・ゴマ豆腐ゴマ豆腐はゴマの風味となめらかなのど越しがいいですね。フグの皮とキュウリの酢の物フグの皮とキュウリの酢の物。私はフグ独特の味というのはよく分かりませんが、まぁ、それなりに美味しくいただきました。イカと甘鯛と、名前は...萩城址

  • 東本願寺

    義母が亡くなって一周忌のこの春、京都の東本願寺に納骨に行きました。東本願寺1&2東本願寺3その時に「お斎」をいただいたのです。「お斎」とは、〈報恩講などの仏事の際に御同胞があい集い、米や野菜などを持ち寄って調理していただいた食事のこと〉だそうです。「お斎」のおかげで観光客は入れない奥の方まで案内され、広い部屋で妻と義弟とその妻の4人で精進料理を食べました。畳敷きの廊下・食事をした部屋部屋の床の間歴史を感じさせる、ふすまの絵柄が印象的です。部屋のふすま1&2脚が無くて畳にベタッと置くお膳だったので自分の脚が痛いし、前かがみになると腹がつかえるし、何とも食べにくい食事でした。お膳の全体像お膳の左半分・お膳の右半分ご飯は豆ご飯でしたが、豆の風味も米の美味しさもあまり感じられなくて残念でした。湯葉と菜の花とキノコ...東本願寺

  • 杵築城

    我が故郷、大分県の北部に建つ杵築城。杵築城1&2武家屋敷がある地域1&2武家屋敷がある地域3ここでとれる「城下カレイ」は食通に良く知れられていますが、近くの宇佐市安心院(あじむ)にも美味しい食材があります。スッポンです。私はスッポンは30年ほど前に大阪で食したのが最初で最後なので、いち時帰郷の折、安心院にある全国的に有名なスッポン料理専門の店に行ってきました。スッポン料理店の入り口雰囲気のいい入り口に球を転がすスッポンの立像がありますが、女将さんによると、この球に歴史的な意味はないそうです。この女将さん、明るくてシャキシャキのやり手でいろいろ説明をしてくれるのはいいけれど、少々差し出がましくて押しが強い性格です。アラカルトで各種のスッポン料理を試してみようと思っていましたが、コースの鍋料理がベースになって...杵築城

  • 城塞広場

    ライン河畔にあるこの広場はデュッセルドルフの旧市街にあります。〈城塞広場〉という名前は昔ここに城塞があったからなのです。13世紀の後半、漁村であったデュッセルドルフが市に昇格した時にライン河を航行する船から税金を徴収するために城塞が築かれました。16世紀後半に城塞は領主の居城としての城館に改装されたのですが、その後領主が引っ越したあと、絵画のギャラリーなどが入居していました。ところが18世紀から19世紀にかけて数多くの火災が度重なって損傷がひどくなったため、19世紀の末頃に城塔だけを残してすべての建物は撤去されたのです。その城塔には現在船舶航行博物館とカフェが入っています。第二次大戦後、破壊された広場の再建とその後の複数回の再開発を経て、こんにちに至っています。城塞広場と城塔・広場にあるモニュメントライン...城塞広場

  • イェーゲルホフ城館

    過去のブログに書きましたが、デュッセルドルフは私にとって特別な都市です。ここで学業を終えて医師免許の取得、病理専門医の資格取得、そして博士号を取得して結婚をしました。私の人生を決めた場所なのです。今回講演の依頼があってこの懐かしい市を訪れました。デュッセルドルフ市役所市街地の中心部から公園を横切って、18世紀の中頃建造されたイェーゲルホフ城館に行きました。城館への道 ・ そこにあるベンチは蛍光灯建造されて約10年後、あのゲーテがデュッセルドルフに来たときに訪れたと思われるそうです。しかしその4年後には革命軍による略奪があり、結局のところまったく住めない状態になりました。そして19世紀の初め頃ナポレオンがこの町を訪れるのを機に修理されたのです。その後貴族が住んでいたり、空き家になったり、その他いろいろなこと...イェーゲルホフ城館

  • ハノーファー市庁舎

    私の住むハノーファーの13世紀前半に建てられた最初の市庁舎が、まだ旧市街の中に旧市庁舎として残っています。現在は建物に飲食店と商店が入っているようです。旧市庁舎(Wikipediaより) 19世紀の末になってハノーファー市が工業化によって次第に広がって来た為大きな市庁舎が必要になり、現在の豪華な城館に似た新市庁舎が、ウィルヘルムII世治下の1901年から12年の歳月をかけて市の中心部の南端に建てられました。高さ97,73メートル、長さ約129メートル、そして幅がおよそ67メートルあるそうです。新市庁舎の航空写真(Wikipediaより) ・ その南側(Wikipediaより) 新市庁舎の北側 ・ 入り口を入って正面階段の上から入り口を見る1階のホールには旧市街がどのように変遷してきたかを示す模型が展示され...ハノーファー市庁舎

  • グルーネヴァルトの城館ホテル

    この城館ホテルは、ドイツの首都ベルリンのグルーネヴァルトと呼ばれる市域にある5つ星のデラックスホテルです。私がこのホテルの存在を知ったのは、2006年にサッカーの世界選手権がドイツで開催され、ドイツチームの宿舎になったときです。「へー、こんなホテルがあるのか。」と思ったのですが、格調が高そうで何となく気がひけて、泊まるのは見合わせていました。そして10年以上経った2018年、私も年をとって厚顔になったのか、その高い敷居をこえてみよう、という気になったのです。ちょうど日独センターで講演をすることになったので、この機会を利用することにしました。さて、グルーネヴァルトの城館ホテルとはどんなホテルなのでしょう。2年間の建築期間を経て1914年に完成したイタリア・ルネサンス風の建築物です。本来の意味での城館ではなく...グルーネヴァルトの城館ホテル

  • ソフィテル ・ アテネエアポート (復)

    11日間のペロポネソス半島旅行を終えて、最後の夜は再びアテネの空港ホテルです。その日のフロント係によるのでしょうか、チェックインのときの勝手が11日前とは少し違います。先回はごく普通だったのですが、今回は宿泊費を全額前払いで帳場を閉めてしまったため、部屋の冷蔵庫のキーをくれないし、(後で知ることになるのですが)レストランでの飲食費の部屋付けも出来ませんでした。客の自由を制限する、まったくもって良くないシステムですね。セットされた晩餐のテーブル・ギリシャらしい船舶の装飾パンとオリーブ油とバターレストランでも今回はシェフの挨拶の突き出しが出てきません。白黒パンとバターとオリーブ油だけです。先回はオリーブ油がなかったような、、、?飲み物はあいも変わらず妻はシャンペンと地元の赤ワインで、私はノンアルコールビール。...ソフィテル・アテネエアポート(復)

  • ミストラ遺跡

    ミストラ遺跡は、ギリシャのペロポネソス半島南東部にあるビザンツ時代の中世城塞都市の遺跡です。ユネスコ世界遺産に登録されています。13世紀の中頃山頂に城塞が築かれ、その後山の中腹に新たに滞在用の居館(のちの宮殿の一部)が建設されました。その結果、ギリシャ人民が安全を求めて城下に集まってくるようになったのです。こうしてこの地が都市として発展する土壌が作られました。発展期を迎えたのは14世紀も半ばのことで、増加しつつあった人口に対応し得る都市作りが開始されました。その発展にはめざましいものがあり、自由な気風に満ち溢れたこの地に於いて、文芸では人文主義、教会美術においては写実的な作風が特徴的である、いわゆる〈パレオロゴス朝ルネサンス〉と呼ばれる文化興隆の一典型が形成されたのです。ミストラ遺跡に車で近づいて行くと山...ミストラ遺跡

  • アンシエント メッシーニ

    アンシエント(古代の)メッシーニとは、ペロポネソス半島南西部のメッシーニ地方にある、紀元前4から3世紀に起源をもつ古代都市の遺跡です。遺跡1&2遺跡3&4遺跡5&6遺跡7&8小高い丘の上に広がっていますが、すぐ近くに大きな泉があり、そこの水がこの古代都市の成立と存続を可能にしたことがよく分かります。泉・古代遺跡に流れ込む水アンシエントメッシーニは広大で、車で数分走ってやっと、当時の都市をとり囲んでいた外壁にたどり着きます。都市をとり囲んでいた石壁1&2私たちはよく休暇用アパートメントを利用しますが、そこでの食事は材料入手の困難と調理用具の不備にもかかわらず、出来るだけ自宅での食事の延長にしたいと思っています。それで妻はちょこちょこといろいろ作ります。たとえば今晩の夕食は7種類の料理です。日常の食事で必ず食...アンシエントメッシーニ

  • ミケーネ古代遺跡

    古代都市「ミケーネ」が栄えたのは、紀元前16世紀から紀元前12世紀にかけてのことだそうです。高度な青銅器文明を持っていたそうで、いくつかの巨大な石造建築物が見られます。たとえば、「アトレウスの宝庫」と呼ばれる建造物は石室式集合墳墓で、中は円錐型に石が積み上げられています。アトレウスの宝庫の入り口と内部獅子門遺跡1&2遺跡3&4この遺跡を訪れる観光客をあてにして、道路の両側におみやげ屋とレストランが数軒ずつ並んでいますが、シーズンオフなのでほとんど営業していません。一軒だけ開いているというレストランを教えてもらいました。いち応メニューはありますが、出来るのはオムレツとサラダだけのようです。メニューにはなくて、「美味しいよ、美味しいよ。」とオーナーが一生懸命勧める料理を注文しました。豆スープ豆スープは熱々でな...ミケーネ古代遺跡

  • カラマタの町

    我々のアパートメントの近くにある比較的大きな町は、人口約70.000人を数える、半島で2番目に大きいカタマラです。海岸近くの比較的新しい町域は、観光客や海水浴客を見込んだお土産品店、レストラン、そしてカフェなどが立ち並んでいます。カラマタの町いくつかあるお城のひとつ・付属の教会郊外の円形競技場オールドタウンは山に向かって2、3km行ったところで、昔ながらの飲食店が並んでいて古き良き時代の雰囲気を感じます。高台にはお城があり、その下にはギリシャ正教の教会があります。ここでは考古学博物館を見学しました。ただ、紀元前10数世紀の石の塊みたいな出土品を見ても、私の西洋史の知識ではそれが今の世界にどう繋がっているのか分かりません。妻は結構楽しんだようです。旧市街の教会・旧市街の泉ギリシャ正教会教会の内部1&2オール...カラマタの町

  • ペロポネソス半島

    「偉大な田舎」とペロポネソス半島は呼ばれているそうです。その「田舎」の海岸沿いにある小さな村で11日間、いつものように休暇用アパートメントを借りて過ごすのです。われわれが住む建物の中にアパートメントは4つあり、そのうちのひとつに大家が平素住んでいて、休暇の客はうちだけです。写真に写っているダイニングキッチンと居間の他に寝室がふたつあり、かなりゆったりとした住居空間なのです。大家は小さな子供が二人いる若い夫婦で、クリスマスと正月にギリシャ人が食べる特別なお菓子をくれるほど、細かい心遣いが出来る人達です。アパートメントクリスマスのお菓子・正月のお菓子この地域は夏休みを過ごす客が多いところのようですが、今はガラガラ。ほとんどの休暇用アパートメントはもちろんのこと、ほとんどのレストランもカフェも冬は営業していませ...ペロポネソス半島

  • ソフィテル ・ アテネエアポート (往)

    2018年の冬の休暇をギリシャで過ごしました。最初の夜はアテネの空港ホテルに宿泊し、翌日にレンタカーを借りてペロポネソス半島のアヴィアというところで11日間過ごしたのです。空港の建物を出てから徒歩2、3分で空港ホテルです。英語が拙いけれども綺麗なお姉さんがフロントにいます。レストランがふたつあるのですが、9階にあるグルメレストランで夕食をとることにしました。ギリシャとフレンチのフュージョン料理を供するそうです。クリスマスの装飾を施してあり、ジャズのBGMが流れる豪華な空間です。空港ホテルレストランの入り口と内部私が注文したギリシャのノンアルコールビールは甘味が少しあり、まあまあの味です。妻はアペリティフとしてシャンペンを、そして食事のときは地元の赤ワインを頼みました。ギリシャワインは有名ではないけれど、結...ソフィテル・アテネエアポート(往)

  • オェールベル城

    12月のドイツは待降節(4週間のクリスマス準備期間)で各地にクリスマス市が立ち、4回目の日曜日が過ぎるとキリスト降誕祭、すなわちクリスマスが来ます。先日の新聞で、ここハノーファーから50㎞ほど離れたオェールベル城に2度の週末に限って大規模なクリスマス市が立つことを知ったので行ってきました。オェールベル城・お城の入り口この地にあった12世紀の水城のお堀が埋められ、城の基礎の上に現在のルネサンス風のお城が築かれたのは16世紀後半で、昔からずっと騎士一族フォン・クラム家の所有だそうです。19世紀に行われたさらなる修理と改装のとき、付属の農場に馬の飼育場が造られました。そして20世紀の前半に、お城はテニススター、ゴットフリート・フォン・クラム男爵の故郷として有名になったのです。彼はデビスカップにドイツチームの一員...オェールベル城

  • パークホテル ・ マクシミリアン

    南ドイツの町レーゲンスブルクは19世紀の初めごろ、ナポレオン軍の攻略により、旧市街が灰燼に帰すまで破壊されました。後にその旧市街と中央駅を結ぶ直線の道路が出来、バイエルンの王様にちなんでマクシミリアン・ストリートと名付けられました。そして19世紀の終わり頃、その通り沿いにこのホテルが建てられたのです。中央駅から歩いて数分、旧市街まで10分というたいへん便利な位置にあリます。建物の基礎の一部はローマ時代の町の外壁で、隣接する公園は当時(外敵に対して防御するための)濠(ほり)だったそうです。建築の依頼主は完成する直前に亡くなり、その未亡人から建物を賃借した事業者がホテル経営を続けてきたのですが、第二次世界大戦後は米軍に押収され、司令部として使われました。約10年後にホテルは再開業したのですが、もはや利益を生み...パークホテル・マクシミリアン

  • ギフホルン城館

    私の住むハノーファーから東に1時間ほど走るとギフホルンという町があります。今回この町には、〈日本人の考え方と感じ方〉についての講演を依頼されたので来ました。講演会場地図を見ると意外にもギフホルンにお城があるのですねー。それで、近い距離にもかかわらず一泊して当ブログのための取材をすることにしました。泊まったのはギフホルンの町はずれにある個人経営の小さなホテルです。実はハノーファーで1週間の農業機械メッセ(見本市)が開催されていて、車で1時間も離れているこの町でさえ、この期間はホテルが特別宿泊料金になります。私が泊まったホテルは通常のほぼ2倍の部屋代です。ハノーファー市内では3倍から4倍になるホテルもありますから、まだマシな方ですね。それにこの田舎では元々の宿泊料金が安いので、まぁ許容範囲です。もちろん今夜は...ギフホルン城館

  • 聖者の谷の水車小屋

    講演の依頼があって、ハノーファーから約130km離れたリューネブルクに行きました。千年以上の歴史をもつリューネブルクは、中世時代に塩の掘削と流通でたいへん栄えたハンザ都市です。ゴシック様式のレンガ建築とロマンティックな切妻造りの建物がこの市のトレードマークなのです。リューネブルクは第2次世界大戦時に破壊されなかったので、古い建築物がたくさん残っています。昔の水塔で、今はイヴェント用の建物(私の講演会場)市役所と市場・旧市街の一角中央広場・今も営業している薬局宿泊したのは、〈聖者の谷〉というありがたい名前の隣村です。〈聖者の谷の水車小屋〉というホテル・レストランですが、名前が示すように、この場所にはすでに14世紀から修道院に住む僧侶が営んだ水車小屋がありました。現在の建物は見た目はかなり古いのですが、20世...聖者の谷の水車小屋

  • アルテナ城塞

    昔私が大学を卒業して仕事を始めたり新婚生活を始めた懐かしい都市、デュッセルドルフからほぼ真東に直線距離で約65㎞離れた所にアルテナ城塞はあります。それは、澄んだ水が大量に流れるレンネ川の畔にある小さなアルテナ町にそびえ立つ城塞です。アルテナ城塞の模型・アルテナ城塞1トンネルとエレベーター・城塞からの景色車でも行けますが、町の中心部から比較的長い、途中に子供が喜びそうな遊び道具や展示がある歩行者専用のトンネルの奥にあるエレベーターで城塞まで登る有料の方法もあります。行ってみると、細長い岩山の頂上に建つ大きな存在感のある城で、両側はかなり急斜面の谷です。アルテナ城塞2&3アルテナ城塞4&5アルテナ城塞6&7伝説によると、このSpornburg(支脈城、半島城)は12世紀の初めに建造されたようです。この地域の重...アルテナ城塞

  • シュヴェリン城

    旧東ドイツの北部にあるシュヴェリンという町の中心部に近いところに、シュヴェリン城は建っています。湖の島に建つ豪華絢爛なお城です。シュヴェリン城とその周り(ウィキぺディアから)城の基礎となる部分は、10世紀の末ごろ湖の岸辺に近い小さな島に築かれた砦の土塁であるそうです。その小さな砦が何世紀にもわたって公爵や大公の居城であった城館になっていく過程は、16世紀の初めごろから書物や絵画で詳細に記録されています。現存するお城は19世紀の中頃に、古い建物を改築して誕生しました。20世紀の初めごろには原因不明の大火災で建物の3分の1が破壊されたそうです。再建のあと国にその所有権が移り、城館博物館、農民博物館、保健博物館、そして考古学的収集品の展示室を設けて一般公開されました。その他ラジオ放送局など色々な事務所や、ヒトラ...シュヴェリン城

  • 湖ホテル フランケンホルスト

    ドイツの北東部は湖の多い地域で、ハイキングやサイクリングでにぎわう観光地です。その湖のうちの一つの湖畔に〈湖ホテル・フランケンホルスト〉はあるのです。この地には18世紀の後半から20世紀の前半まで、いくつかのレンガ製造工場と石灰工場がありました。そこに建てられた〈湖の喜び〉というハイキング客のためのゲストハウスは戦中から戦後の東ドイツ時代に地方の高官やドイツ社会主義統一党の役人の宿泊所として使われ、もちろん旧東ドイツで最後の国家評議会議長および党の書記長であったエーリッヒ・ホーネッカーも滞在したことがあるそうです。そして東西ドイツ再統合の後ゲストハウスは一般人の観光と飲食営業に利用されるようになり、21世紀の初めにこの地域は風景と鳥類を保護する領域と位置付けられました。〈湖ホテル・フランケンホルスト〉はこ...湖ホテルフランケンホルスト

  • ホテル フライホフ ・ アム ・ ローラント

    先日ハンブルクの小さな隣町ヴェーデルにあるトヨタ自動車の販売店で行われた〈日本デー〉という催しで、妻が自作の陶器を展示し、私が〈和陶器〉をテーマに講演をしました。陶器の展示その際に宿泊したホテルが思いのほか面白かったのです。ホテルの名前は〈ローラント像の脇にあるフライホフ〉といいます。まずローラント像。ローラント像この、むき出しの剣を持った騎士の立像は北ドイツや東ドイツの中央広場や市役所の前に比較的頻繁に見られ、都市権(都市およびその市民に与えられる特権)のシンボルです。フライホフというのは中世において貴族または聖職者が所有する中庭のある邸宅で、納税義務やその他の市民としての義務を免除されていました。このホテルの建物はヴェーデルの町で最初にできたフライホフのひとつで、16世紀前半のことだそうです。18世紀...ホテルフライホフ・アム・ローラント

  • ロックム修道院 と 湯治場

    ハノーファーから半日の遠足で行けるところにロックム修道院があります。ここは昔カトリックのシトー会修道士の修道院だったところです。現在残っている後期ロマン派の教会は13世紀に建立されました。この修道院の管轄区域では16世紀半ばから17世紀の半ばまで全部で54の魔女裁判が開かれ、33人が死刑になったとのことです。敷地内の建物はこんにち神学校、会議場、音楽祭の会場、そして図書館などとして利用されているようです。修道院の入り口・聖地巡礼者の宿泊所教会・教会の内部ところで、ロックム修道院の前にある喫茶店でお茶を飲みました。いつものようにアールグレイです。お茶請けはワッフルでした。チョコレートソースが少しかかっていて生クリームとバニラアイスが添えてあります。まぁ、ふつうのそれなりの味でした。アールグレイ・ワッフルその...ロックム修道院と湯治場

  • アルテンハウゼン城

    私の住むハノーファーと首都ベルリンのちょうど中間地点にアルテンハウゼン村があります。旧東ドイツの地域です。その村にあるのがアルテンハウゼン城なのです。城は何度も改増築されたのでルネッサンス、新ゴシック、後期ゴシック、バロック、そして歴史主義の様式が共存していて、まわりは中世の環状壁に囲まれています。こんにち残っている最も古い建物の部分は15世紀と16世紀に建築されたそうです。村から城内には、17世紀後半30年戦争後の再建時に建造されたアレキサンダー門をくぐって入ります。アレキサンダー門さて、アルテンハウゼン城の起源ですが、11または12世紀に造られたニーデルンク城砦がその基になっています。その城砦ももともとそこにあった建物から発したのではないか、と思われています。アルテンハウゼン城が最初に古文書に現れるの...アルテンハウゼン城

  • ヒュルゼデ水城

    ハイデ(Heide)という単語を辞書で引くと、〔平坦で立ち木のない原野や砂地であって、ヒースやネズミが生育していることが多い荒野、荒地〕とあります。ここ北ドイツにリューネブルガー・ハイデという広大な地域があって、ヒースが生えているのです。2週間ほど前、ヒースが満開の時にそこでハイキングをしました。適当な起伏があり、高い地点からの遠景が見事でした。リューネブルガー・ハイデのごく一部・ヒースの花リューネブルガー・ハイデにはハイキングやトレッキングの拠点となる村がいくつもあるのですが、そのうちのひとつで午後のお茶をしました。農家を改造したカフェで、〈地方独特〉と〈有機栽培〉をうたっています。開店時間が短くて、土・日・月の午後2時から6時までしか開いていません。冬などのシーズンオフには完全に閉まっているのだと思い...ヒュルゼデ水城

  • レンツェン城塞

    ハノーファーから北東に進むとエルベ河にぶつかります。そのエルベ河を越えてすぐのところにあるレンツェン村の南端に、この城塞はあります。すでに8世紀には、この地に土砂による防壁が造られました。防壁は数世紀にわたって何度も破壊され、そのつど再造成されたそうです。そして13世紀の初めにやっと、その防壁の中に最初の城塞が建造されたのです。14世紀にいち度破壊されて15世紀に再建されましたが、30年戦争でまたしても損壊しました。20世紀初頭に城塔が見物客に解放されるまで、お城施設では順次、新築、増築、修復、そして造園が行われ、さらなる修理修復が20世紀前半に行われました。レンツェン城塞は第2次世界大戦では破壊をまぬがれ、戦後は出産も可能な病院として使われたのですが、1953年に所有者から没収されて当時の東ドイツ国の財...レンツェン城塞

  • レンツェン村

    レンツェン村は2.200人余りの住民が住む、かつては東ドイツの静かな村です。歴史のある村のようで、昔は結構栄えたと思われます。村役場と警察がはいる建物教会の内部1&2ところが現在は、旧東独の町によくあるように村の中心部を含めていたるところに廃屋が目立ちます。廃屋・エルべ河と渡しフェリーこの村のすぐ近くにあるエルベ河の辺りはかつて東西ドイツの国境でした。その当時の監視塔が河沿いの土手に残されていて見ることが出来ます。河の土手はかなりの距離のサイクリングロードです。監視塔・中は約2畳半この辺は自然環境保全に力を入れている広大な河川景観地域で、ユネスコの〈生物圏保護地区〉に指定されています。レンツェン村から10㎞ほど離れたところにある湿原地帯には、毎年数千羽の鶴が飛来するそうです。湿原地帯の一部・鶴(掲示板より...レンツェン村

  • フェネストレッレ城塞

    イタリア北西部のスーザ渓谷から南の谷に入っていくと、フェネストレッレ城塞があります。この地域の他の城塞と同様に、侵攻して来るフランス軍を押しとどめるために建造された強大な城塞です。この城塞は巨大な多段式の滝のように、約2000メートルの高さから山の尾根づたいに高低差635メートルの位置まで降りている建造物で、実は3つの城塞の集合体なのです。城塞の模型・博物館に掛かっていた航空写真1727年に上の城塞から造られ始め、1837年に下の城塞で建築が終了し、その間全長1500メートルは4000段以上の階段でつながっています。この建造物は19世紀後半に捕虜の兵士と宗教的罪人の強制収容所となり、20世紀の前半頃まで国事犯用監獄と軍用刑務所として役立っていました。その後砲兵隊の宿営地やパルチザンの隠れ家になって絶え間な...フェネストレッレ城塞

  • エジッレス城塞

    エジッレス城塞も、北イタリアに攻め入ろうとするフランス軍に対抗するために建造されたスーザ渓谷にある城塞のひとつです。前からの遠景・後ろからの遠景この城塞は14世紀の前半に初めて歴史書に記され、その後フランス軍に取られたり取り戻したりのせめぎ合いが続きますが、ナポレオンI世の末弟ボナパルトの軍がイタリアを征服した19世紀の初頭に破壊されました。そして比較的早く19世紀前半に再建されたときに原型の建築様式は近代的な軍事理念に沿うようにアップグレードされて第2次世界大戦終了までイタリア軍に属した後、捨て置かれていました。そして20世紀後半に地方自治体が入手して修復のプログラムを始めたのです。西暦2000年から国立山岳博物館として公開されており、時折展覧会も開かれるようです。前方の部分・後方の部分長い登城路の一部...エジッレス城塞

  • スーザ渓谷

    イタリアのトリノから西の山岳地帯にスーザ渓谷があります。ワインで有名なピエモンテ州に属する渓谷です。この谷にも遺跡がたくさんあるのです。妻と私が10日間過ごしたのは、2006年のトリノ冬季オリンピックのときにスキーの会場であったサウゼ・ドゥルクスという町です。ここを基地にトレッキングや遺跡めぐりをしました。さて、スーザ渓谷の中央部に位置するのが人口約6600人のスーザという町です。この町の歴史は古代ローマ以前までさかのぼり、中世に生きたある歴史家は「アルプスで最も古い都市」と記しているそうです。中世から近代にかけて、スーザは南フランスと北イタリアを結ぶ交通路の要衝として重要な役割を担いました。19世紀初頭にナポレオン・ボナパルトはモン・スニ峠(モンチェニージオ峠)越えの交通路を整備し、新たに今日〈ナポレオ...スーザ渓谷

  • バール城塞

    現在バール城塞が立つ位置に5世紀にはもう建造物があったようで、それが10世紀に拡充されて何世紀もの間フランスとイタリアを結ぶ歴史的ルートであるアオスタ渓谷を管理する役目を負ってきました。西暦1800年にイタリア軍がフランスの大軍をこの地で迎え撃ってこの地方とトリノを守ったのですが、バール城塞はその時に大破してしまい、19世紀の前半にこの地域を支配していたサヴォイア家によって再建築されました。その後19世紀末にはその軍事的重要性を失いましたが、引き続きイタリア軍が弾薬庫として使用していました。そして1975年に弾薬庫が閉鎖された後アオスタ渓谷自治区に所有権が移り、1980年代に呼び物として観光客に解放されましたが、建物の損傷がひどいことが明らかになりました。それで1990年代に長期にわたる大規模な修復を施し...バール城塞

  • サール城

    アオスタ渓谷から派生してフランスとの国境に沿って走るヴェニー谷を、モンブランの真下の約二千メートルのところにある小さな湖まで登りましたが、小雨と風が強い悪天候のせいでモンブランは残念ながら見えませんでした。湖・その隣の湖湖から10分くらい下ったところにある山小屋で、父親が日本人だというイタリア人の青年アルバイトが片言の日本語でサーヴィスをしてくれました。この地方のスープを注文して、恐る恐る、私たちが持ってきた弁当をここで食べてもいいかと聞くとOKが出たので昼食にしました。スープにはたくさんの高菜のような野菜と人参およびジャガイモが少しだけ入っています。山小屋がある場所は約10度Cだったので、温かいスープが五臓六腑に染み渡って美味しかったのです。スープ・ちらし寿司とおかず弁当は〈すし太郎〉で作ったちらし寿司...サール城

  • フェーニス城

    アオスタ渓谷で最も有名な城の一つ、フェーニス城は多くの塔と戦闘に適した建築が魅力です。この城は13世紀中頃の文献に初めて現れ、15世紀になる前後に今の規模に拡張されたそうです。18世紀ごろから傷みがひどくなってきたので、19世紀の末と20世紀の前半に修復されて今日の外見になりました。現在はアオスタ渓谷自治区の所有で、博物館になっています。遠景・近景入り口2013年に来た時の経験からイタリア語のガイド付きでないと中を見学できないのを知っていたので、外観を見ただけで終わりました。さて、アパートメントで夕食です。妻が前菜として5種類の料理を用意しました。5種の前菜左がオイルサーディンとほうれん草に似た菜っ葉のしょうゆ味炒め物です。菜っ葉に少し癖がありますが、全体として結構いけます。その横にこんにゃくの鰹節炒め。...フェーニス城

  • アオスタ渓谷のサン ・ ピエール村にあるふたつのお城

    サン・ピエール城12世紀後半に建てられた元々の城は、基本となる城壁と2本の城塔だけの小さな建物でした。サヴォイア家をはじめとする多くの所有者の手を経て、17世紀に購入したロンカス家によって防備を強化した大きな邸宅に拡張されました。その後も何回か所有者がかわり、20世紀に博物館になりました。すぐ横には19世紀の前半に建てられた付属の教会があります。サン・ピエール城1&2サン・ピエール城3サン・ピエール城と教会1&2サッリオド・デ・ラ・ツア城オリジナルの城は10世紀と12世紀の間に、当時のこの地方の典型的なスタイルで建てられたそうです。15世紀の初めにサッリオド家の父が、そして同世紀の終わりにその息子が拡張して、さらに16世紀にも17世紀にもサッリオド家によって建て増しされ、20世紀前半まで同家族の居城であり...アオスタ渓谷のサン・ピエール村にあるふたつのお城

  • ブリッソーニュ城砦

    イタリア北西部のアオスタ渓谷には、城砦や城館が多数点在します。そのひとつブリッソーニュ城砦は13世紀に戦略的に重要な位置に建てられましたが、18世紀になるとその重要性は失われてしまいました。それゆえに18世紀後半には廃墟になり、その後再建されることはありませんでした。今は円柱形の城塔と建物の壁の一部が残るのみです。城塔の遠景城塔の上部・その下部ここにはトレッキングの途中で立ち寄りました。それで本日のグルメ昼食は、もちろん妻が作った弁当です。弁当私の好きなおいなりさん。皮は出来合いの真空パックです。少し甘すぎるかもしれないけれども美味しいのです。何よりも便利ですね。おかずのタコと鞘いんげんとニンニクの炒め物は昨晩の残り物です。あとはオムレツと昆布巻き。飲み物は麦茶と近くの村の泉で汲んだ水です。アオスタ渓谷か...ブリッソーニュ城砦

  • アオスタ渓谷

    イタリア北西部の山岳地帯に、東西に走っていて小さな谷がいくつも流れ込むアオスタ渓谷があります。アルプス越えのための二本の交通路をもつ重要な戦略的位置にあり、昔から交通の要所です。この地域には先史時代から人が住んでいて、紀元前25年から支配を始めたローマ帝国が州都のアオスタ市をはじめとする町をつくりました。今も残るローマ街道・この地域の典型的な村カトリック教会11世紀から第2次世界大戦直後までアオスタ渓谷はサヴォイア家が統治する地域で、この間断続的にごく短い年数フランスに支配されたこともありますが、19世紀の中頃イタリア王国の一部となりました。昔はフランス語を話す地域でしたが20世紀にイタリア語が母国語である人々が大量に移り住み、特にファシズムの時代にはフランス語が禁止されるなどしてイタリア化が強引に進めら...アオスタ渓谷

  • タンガーミュンデ城 (再訪)

    10年前に訪れた時のブログを読み返してみると、雪が積もってマイナス7度Cの大変寒い時期だったにも関わらずいたく満足した滞在だったようで、〈次回は暖かい季節に来てみよう。〉と書いてあります。それで今回、ハインリヒ・ハイネの言う〈imwunderschönenMonatMai(麗しの5月に)〉来てみました。川幅5mほどのタンガー川がエルベ河に流れ込む位置に建つタンガーミュンデ城の歴史は、以前のブログの記述をそのまま引用します。〔古文書によると、当時の国境としてのエルベ河の警備のために10から11世紀にかけて城は建造されたらしく、ぐるりと市壁に囲まれた旧市街をもつ同じ名前の地方自治体は13世紀にできたそうである。14世紀にカール皇帝IV世が城塞に入り城館風に拡充したが、今残っているオリジナルは„カンツライ“とよ...タンガーミュンデ城(再訪)

  • 城塞ホテル ハーゼリュンネ

    ドイツの北西部、オランダとの国境に程近い地方はエムスラントといいますが、そこに約800年の歴史を持つ、この地方で一番古い町ハーゼリュンネがあります。どこまでも平坦な景色の中にポツンとあるこじんまりとまとまった小さな町です。赤レンガ造りの家が多いのはオランダが近いからでしょうか。今回訪れたホテルは〈城塞ホテル〉とはいえ、城塞は残っていません。その昔城塞のすぐ近くに封建領主に仕える貴族の家屋敷が22軒あったそうですが、現在は数軒残っているだけです。日本の武家屋敷といったところでしょう。その〈武家屋敷〉のうち、1346年に建てられた〈モンニヒ屋敷〉と1546年建造の〈ルッセル屋敷〉がホテルになっているのです。この2軒の建物は今世紀の初めから地下道でつながっています。〈モンニヒ屋敷〉にレセプションがあり、私の部屋...城塞ホテルハーゼリュンネ

  • コッペンブリュッゲ城塞

    すばらしく天気の良い週末に、弁当を持ってヴェーザーベルクラント(ヴェーザー川流域の山岳地帯)へ遠足に行きました。ヴェーザー川の流域は昔たいへんに栄え、ヴェーザー・ルネッサンスが花咲いたところです。〈ハメルンの笛吹き男〉で有名なハメルンの町もヴェーザー川の畔にあります。8kmほど山歩きをして小さな湖の畔で弁当を食べた後、コッペンブリュッゲ城塞のカフェで午後のお茶をしました。コッペンブリュッゲ城塞は西暦1300年ごろに建造された水城塞です。15世紀前半、地域の争いの際に破壊されて同世紀末に再建されました。17世紀末にはロシアのピョートル大帝が旅行の途中に立ち寄ったとのことです。18世紀にバロック風の城館に立て替えられましたが、19世紀にはもう壊されて木組みの建物だけになりました。この建物は第2次大戦後法律事務...コッペンブリュッゲ城塞

  • シュテルンホテル (星ホテル)

    むかし西ドイツの首都であったボンの中心部にあるホテルです。マーケットプレイスの東側には市役所をはじめとする由緒ある建物が並んでいますが、そのうちのひとつなのです。マーケットプレイス・市役所(右端)1620年に初めて歴史書に記載された古い建物で、19世紀には英国の女王や作曲家のフランツ・リストなどの有名人が宿泊したそうです。今はもちろんロビーも客室もたいへん現代的に改装されています。ホテル(左端)フロント係りの感じのいい細身のおばさんに、「私は1975年にボンに住んでいたんですよ。わりとよくマーケットプレイスに来ていたので、こちらのホテルは見ていました。そして40年以上後の今日、客として来たのです。」「まぁ、それはそれは、ぜひゆっくりボンを楽しんで下さい。」私の部屋は天井が高くて広々とした、木張りの床をもつ...シュテルンホテル(星ホテル)

  • ヴィーンハウゼン修道院

    私の居住地ハノーファーから北東に約50㎞離れたアラー川のほとりのヴィーンハウゼンという集落に、13世紀前半に設立された尼僧の修道院があります。ずっと以前に老女の尼さんの案内で見学したことがあるのですが、今回は修道院付属の公園で〈花々と環境〉という週末をはさんだ4日にわたるイヴェントがあるので行ってみました。色々な草花と植物や室内と庭に置くアクセサリーなど、120もの専門業者が仮店舗を出していました。修道院・公園の一部イヴェント会場1&2会場には2、3の飲食ができるスタンドもあり、いささか変わったものを食べました。豚のあばら肉を比較的低温で7、8時間煙で燻しているそうです。ケチャップで食べます。それと七面鳥の肉をほぐした料理。付け合わせはバターをぬった黒パンと温かいザウアークラウト(酢漬けのキャベツ)です。...ヴィーンハウゼン修道院

  • ホテル クロステルシェンケ

    その昔ローマ皇帝の居城があった都市トリアの中心部から5kmほど離れている集落に、クロステル(修道院)シェンケ(居酒屋)というホテル・レストラン・カフェがあります。その名前が示すように、起源は7世紀に貴族出身の尼僧のために建てられた修道院です。長い歴史の中で破壊、再建、改装等が繰り返されて、現在残っているのは回廊の一部と今はレストランの一部になっている礼拝堂だけです。回廊は現在(2017年時点で)修復中なので入れません。表の入り口・裏の入り口廊下・昔の礼拝堂モーゼル川のほとりの、葉が茂ったらいい日よけになる木々が立つテラスのあるこのホテルは、建物の外観も内部も古くて床がギシギシ鳴ります。家族経営だからでしょうか、従業員にも雰囲気にもあたたかみがあるのはいいですね。天井が高くてシンプルな大きい私の部屋から、も...ホテルクロステルシェンケ

  • 箱根ホテル

    2017年、いち時帰国したときに芦ノ湖畔にある箱根ホテルで1週間を過ごしました。富士山を間近に見ることと旧東海道を歩くことが目的だったのです。このホテルは大正12年の開業で伝統と知名度があり、ロケーションがすばらしく、ジュニアスイートの部屋を予約していたので大いに期待していました。その期待以上に良かったのは、部屋の広さと清潔さ、天井の高さ、バスルームの広さ、バスアメニティーの豊富さ、電動カーテンを寝たままベッドサイドから開閉できることです。箱根ホテル・テラスからの眺め1(朝)テラスからの眺め2(昼)&3(夕方)期待を裏切られた、と感じたのは、まず外観も内部も鉄筋の打ちっぱなしを思わせる造りで高級リゾートの雰囲気がないことです。特に客室のテラスから芦ノ湖と富士山を含む山々を望む景色が、5本の大きな四角のコン...箱根ホテル

  • 箱根のグルメ

    龍神丼芦ノ湖には龍にまつわる伝説があるそうで、面白そうな丼飯を見つけました。一緒に出て来たやわらかい味の味噌に絡めたミニしいたけの小付けは結構旨かったのですが、味噌汁は水に味噌の色をつけたような超薄い味で、味噌の量をケチっているのが見え見えでした。さて、たいそう豪華に見える龍神丼。マグロは芦ノ湖の波に、いくらは龍のウロコに、カニは龍の角に、そしてウナギは雲に見立てて、芦ノ湖の上をさまよう龍をイメージしたとのことです。食材のマグロはあまり味がしません。色が薄いので赤身ではないし、中トロのように脂がのっているわけではないし、どこの部位なのかなぁ。いくらですが、ふつう醤油につけると思っていたのに塩に漬けていたのでしょうか、なんとも塩辛いのです。卵焼きの出汁が少ないようですが、まぁこんなものでしょう。カニに関して...箱根のグルメ

  • リッベック城館

    私の自宅があるハノーファーから車でほぼ真西に3時間弱走ってベルリンの手前まで行くと、リッベック城館があります。以前の東ドイツの地域です。城館の正面1&2城館の裏面1&2敷地内の教会19世紀の前半にリッベック城館の前身の建物が、それまであった建造物の代わりに建てられました。その前身の建物というのは寄棟屋根を備えた1階建てのカントリーハウスだったようです。そして現在の城館は改築前、19世紀の終わり頃にネオバロック様式で建てられた2階建ての漆喰の建物でフォン・リッベック家の邸宅でした。第二次世界大戦中に城館はドイツ空軍の部隊によって使用された為、家族は別の家に引っ越さなければなりませんでした。そして終戦後家族の耕作地は土地改革の一環として1945年に収用されましたが、戦争で破壊されなかった城には再び住み続けるこ...リッベック城館

  • 妻の故郷 大阪のグルメ

    たこむす1&2新幹線で大阪から箱根に行く途中、駅弁として食しました。たこ焼きとおむすびの合体で、マヨネーズを付けて食べます。「温めても美味しい」と書いてありますが、それは間違いで、温めないとたいへんに不味いのが分かりました。この食べ物で一食を駄目にしたのは残念です。高菜ご飯と玉子とじ蕎麦高菜ご飯と玉子とじ蕎麦を、大阪の普通の通りに普通にたたずむ蕎麦屋で食べました。どちらの料理もたいへん美味しくいただきました。卵と蕎麦のコンビネーションは結構いけますね。大阪ではありませんが、義弟がよく利用するという夫婦だけでこぢんまりと営業している神戸の和食店の〈おまかせコース〉で、最初に出たのがこれ(下の写真)です。胡麻豆腐、ランの食用花、子持ち昆布、汲み上げ湯葉、そらまめ、針生姜など和食の味を私のつたない表現力で伝える...妻の故郷大阪のグルメ

  • 故郷 大分のグルメ

    2017年に一時帰国しました。伊丹空港から大分行きの飛行機が欠航したので大分駅にあるホテルの予約を急にキャンセルしましたが、当然発生するキャンセル料を免除してくれました。日本に帰り着いたその日に、この国の良さを実感しました。寿司大分駅の中にある居酒屋。焼鳥や唐揚げ等もある店で寿司専門店ではないのですが、そこで寿司を食べました。ドイツではいちど冷凍した生魚でないと寿司として売れないので、ドイツに比べて生の魚を食べている感がありました。切り方が不ぞろいなのは愛嬌ですね。美味しいと思ったのは帆立貝とアナゴで、後はそれほどの感動もなく、まぁ普通でした。寿司屋ではないので仕方がないかとも思いますが、ご飯の握り方が緩くてポロリと壊れる傾向がありました。皿の上にもカウンターにもワサビをどこにも置いていないので、確かめな...故郷大分のグルメ

  • 田舎の別荘 フロットベーク

    ホテルのホームページでは「昔々、豪勢な農場がありました。」という風に、ハンブルクの郊外のフロットベークと呼ばれる市域にある「田舎の別荘」のお話しが始まります。250年前に建てられた大きな英国風の住居用建物で、家畜小屋と納屋と公園地が付随していました。裕福な農家の家族が住んでいたと思われます。この施設は、馬小屋はレストランに、ウナギの燻製製造場はビストロに、乳牛の乳しぼり部屋は会議場に、そして打穀場をホテルのレセプションに、というように心を込めて改装され、現在は文化財保護の対象になっています。今ちょうど大規模な改装中でレセプションは暫定的なものがあるだけです。敷地の入り口に立つ像・ホテルホテルの屋根レストランの裏側とウェルネスの建物・ウェルネスの建物私の部屋は天井が高い地味な色調の客室で、ベッドが壁際でなく...田舎の別荘フロットベーク

  • ホテル ・ シュヴァイツァー ・ ホフ

    スイスのチューリヒでよく泊まるホテル、シュヴァイツァー・ホフが気に入っています。その理由のひとつは、中央駅の前で人と車と市電の交通が激しいにもかかわらず、建物の中は大変に静かであることです。従業員に聞くところによると防音に細心の注意を払っていて、駅通りに面している窓は三重にしているそうです。このホテルは19世紀の後半に建てられ、〈HotelNational〉という名前で開業しました。何度も建て増し、修理、改装を繰り返し、名前も数回変わり、現在は約150の客室を持つチューリヒで最も伝統と格式のあるホテルのひとつになっています。ホテル・小さな入り口廊下部屋は絨毯を含めて清潔感に溢れ、家具が重厚で落ち着きがあるしデザインもいい。セミダブルのベッドで大変に寝やすく、脚や上半身を持ち上げられる電動ベッドです。私の部...ホテル・シュヴァイツァー・ホフ

  • 森林ハウス パウルスボルン

    ベルリンの南西の郊外に遊歩道が縦横に走る広大な森林地帯が広がっています。その一角に歩いて1時間ほどで一周出来る湖があるのですが、湖畔に19世紀後半に遠足客のために建てられた、ビアガーデンがある一風変わった伝統的飲食店が建っています。この飲食店はベルリンでは有名で、1888年から1918年までドイツ最後の皇帝でありプロイセンの王であったウィルヘルムII世が常連客だったそうです。しかし時と共にさびれていって、特に21世紀に入ってからは経営が思わしくなくて2009年からは身体障がい者の職業訓練所として建物が使われていたのですが、2014年春にホテル・レストランとして新規開業しました。ここには乗馬クラブが隣接しています。パウルスボルンの正面・その側面主に飲食の客を相手に営業をしているようで、ベルリン在住の知人さえ...森林ハウスパウルスボルン

  • マルベリャ

    冬休みはいつも暖かい土地で過ごしたいので、年末年始を含むかなり長い期間をコスタ・デル・ソル(太陽海岸)とよばれる南スペインのリゾート地、マルベリャのアパートメントホテルを賃借しました。明け方:バルコニーから南東方面(いくつかある港のひとつ)・夕方:バルコニーから南西方面(英領ジブラルタルに雲がかかる)すぐ隣に品ぞろえが豊富なスーパーマーケットがあって、変化に富んだ自炊生活が出来ました。毎日弁当を作って海岸沿いをサイクリングしたり、内陸の山々でトレッキング三昧だったのです。近隣の町のひとつマルベリャの町を散歩していてわかったのですが、スペインでも寿司をはじめとする和食が人気らしく、この町にも数軒の日本レストランがあるようです。実は冬をこの地で過ごすのは3回目なのですが、ホテルから歩いて3分のところにある和食...マルベリャ

  • シュトルカウ城館

    エルベ河の左岸に建つシュトルカウ城館は比較的新しく1920年に建造されたのですが、この地には12世紀の初めから農園があり、15世紀には4つの農園から成るシュトルカウ村が設立され、17世紀には村の農園が6つになりました。19世紀の初めにひとつの大農園に統合されて、農業を生活の手段とする約150人の村民がいました。農園の所有者は何度もかわったのですが、1920年に所有者兼経営者になったフォン・グアイタ家が老後の住居としてこの城館とそれに付随する建物を建てさせました。しかし城館はその次の所有者が当時のドイツ政府に売却して、第二次大戦後はまず東ヨーロッパからの引揚者の住居に、そして数年後に病院と療養所になったのです。1970年からは看護師養成学校として使われ、1982年には放火による火災に見舞われました。その10...シュトルカウ城館

  • ヴィンデック城塞

    ドイツの南西、フランスとの国境沿いの広々としたライン河流域に温泉で知られるバーデン・バーデンの町があるのですが、その近くの378メートルの山頂に西暦1200年ごろヴィンデック城塞が建造され、その12年後に公式に登記されました。その後14世紀の末に大火災でいちど破壊され、すぐに再建されたようです。この地方の領主の住居であったのですが、いつの頃からか人が住まなくなり、今では廃墟が残っているだけです。廃墟といっても城塔と城壁と建物の壁の一部が木々の間に立っているだけで、城塞の雄姿を期待して訪れた者にとっては拍子抜けします。ただ、ここから小高い丘とその間の村々、ワイン畑(ワイン用ブドウ畑)とフランス側の山々を望む景色は素晴らしいのです。城塞の廃墟1&2城塞の廃墟3・城塞からの展望その廃墟のすぐ足元に田舎の別荘を思...ヴィンデック城塞

  • ヴァルデック城

    ドイツのほぼ真ん中のへッセン州にある国立公園〈エーデル湖〉の湖畔から急坂を登った標高200mのところに、ヴァルデックという小さな町があります。この保養地には湖畔からゴンドラが出ているのですが、これが1961年から動いている二人乗りの年代物なのです。ゴンドラの内部この付近は湖畔と周囲の山にトレッキングコースがたくさんあって、湖には何ヵ所かの湖岸を結ぶ観光船が行きかいます。さらにメルヘン街道の一角を占めている観光地です。この町のはずれの湖を望むところに4星スーパーに格付けされたヴァルデック城ホテルがあります。中庭から湖の方を向いたテラスがあり、景色が抜群。テラスから湖を望む湖から城を望む1&2ホテルの中はきれいに修理修復をしていて、結構新しい様子です。レセプションの素人っぽいお姉さんが外国人客に、自身の英語が...ヴァルデック城

  • 山形旅行

    2016年の秋に一時帰国したときに、今まで行ったことがない山形県を旅しました。まず行ったのは、6世紀の終わりごろから山伏の修験の山として知られている羽黒山です。樹齢300–600年の老杉が生い茂るなかに、2445の石段から成る参道が続いています。参道と途中の祠・社殿の前の鐘つき堂山頂には立派な神社があり、その前に重厚なかやぶきの鐘つき堂(仏教)が建っているのには驚きました。現在は神社として機能していますが、明治に入って神仏分離がなされるまで神仏習合だった名残だそうです。なるほど、参道にはたくさんの神社や祠がありますが、国宝の五重の塔(仏教)が見事です。参道途中の茶屋で飲食すると石段を踏破した認定証が授与されるのは御愛嬌ですね。次に行ったのは立石寺(通称:山寺)。山の斜面にへばりついている、松尾芭蕉があの有...山形旅行

  • リュデルスブルク宮殿

    昔塩の生産で栄えたハンザ都市リュ-ネブルクのすぐ近くにある城館です。ハノーファーの自宅から2時間弱で行けます。リュデルスブルク宮殿(正面と裏側)考古学的には西暦800年頃からこの地に人が住んでいたようですが、リュデルスブルク村と宮殿を含む大農場が古文書に現れるのは13世紀の前半だそうです。農場の所有者は何度も代わり、20世紀の中頃まである家族が住んでいました。現在の宮殿がどのように建てられたのかは、第2次世界大戦の時に古文書保管所が破壊されてしまったのでよく分からないとのことです。住んでいた家族が引っ越した後15年間は全寮制の学校として使われましたが、その後は使用されないままになっていました。1980年代の初めになってやっと建物の腐朽を防ぐ為に大規模な復旧作業が行われ、宮殿と他の2棟の建物はゴルフ客のため...リュデルスブルク宮殿

  • コルムベルク城塞

    アウトバーン7号線をヴュルツブルクの少し南で降りて田舎道を1時間ほど走ると、小高い山の頂上に見えてきました。コルムベルク城塞です。コルムベルク城塞この城塞の歴史は13世紀までさかのぼります。何回か個人所有者が代わったあと、18世紀の末にプロイセン王国の管理下に置かれ、19世紀にはバイエルン王国の役所が置かれました。20世紀の前半には、在日ドイツ大使が所有したこともあるようです。第二次世界大戦の時アメリカ軍に攻撃されましたが被害はたいしたことはなく、そのおかげで今でもオリジナルの城塞の雰囲気が保たれています。終戦後、1964年に城を購入した地元の家族がレストランを併設したホテルに改装して現在まで営業を続けています。人気のある城塞ホテルで、セミナーや学会の他、個人的なお祝いパーティーにも使われるそうです。なる...コルムベルク城塞

  • マウテルンドルフ城塞 と モースハム城館

    オーストリアのルンガウ地方にはここかしこに古城がありますが、そのうちのふたつがマウテルンドルフ城塞とモースハム城館です。ザンクト・ミヒャエルにいる間に遠足に行きました。マウテルンドルフ城塞この13世紀に建造された城塞の中を当時は道路が通っていて、そこを通る人から通行料を徴収していました。15世紀には拡張工事が行われ、こんにちの姿になりました。何人かのカトリック司教の夏の居城にもなりましたが、19世紀初めの教会財産没収により、国の所有となりました。が、その後、住む人が居なくて荒廃して行くにまかせていました。何回か所有者が代わった後、19世紀の末頃にある医師が購入して昔の姿に修復したそうです。そして20世紀の中頃オーストリア共和国が手に入れて、そのすぐ後にザルツブルク州の所有になり、大々的な改装が施されました...マウテルンドルフ城塞とモースハム城館

  • ルンガウ の ザンクト ・ ミヒャエル

    3週間目の滞在地は、オーストリアのザルツブルク州にあるザンクト・ミヒャエルです。世界のあちこちに同じ名前の町があるので、わざわざ〈ルンガウの〉と付けます。ここは多くの谷が合流するところで、それぞれの谷に遊べる所がたくさんあります。ザンクト・ミヒャエル行程の途中の村で昼食を食べました。チーズ・ヌードルというのはこの地方の名物。生チーズにペパーミントなど、いろいろなハーブを混ぜ込んで、餃子よりかなり厚めの皮で包んで茹でている料理です。それが溶かしたバターに浮かんでいます。癖のないチーズ味と薬味が混ざって結構旨いのですが、溶かしたバターがいかにも不健康なのでバターを切って食べたのです。七面鳥入りカレーライスは、辛くはないけれどもしっかりとカレーの味がして美味しい。このほか、野菜のミックスサラダを食しました。村の...ルンガウのザンクト・ミヒャエル

  • アルカディア ・ ホテル

    スロヴァキアのスモコレッチから次の滞在地、オーストリアのザンクト・ミヒャエルまで700kmもあるので、途中、スロヴァキアの首都ブラティスラヴァで一泊しました。ポーランドのワルシャワ、ハンガリーのブダペスト、そしてオーストリアのウィーンに似ていて、古くて由緒ありそうな建物が多く、興味深い町です。中心部・歩行者天国ブラティスラヴァ城塞旧市街のはずれに見事な城塞がありますが博物館になっていて、食事も宿泊もできません。それで、一夜を過ごしたのは旧市街の真ん中に建つ〈アルカディア〉という名前の5つ星ホテルです。正面玄関に車で乗りつけたら、待機していたスタッフが荷物を降ろすのを手伝ってくれて、キーを預けるとガレージに停めに行ってくれました。その間にチェックインを済ませて部屋で待っていると荷物を届けてくれたのです。まさ...アルカディア・ホテル

  • スモコレッチ

    この町の名前はスロヴァキア語でSmokorecと書きます。スモコレッチという読み方は正しくないかも知れません。さて、ポーランドのザコパネで1週間過ごした後、国境を越えてスロヴァキアのこの町に入りました。スロヴァキア語はポーランド語と似ていますね。たとえば、〈こんにちは〉をポーランド語では〈ジンドブレ〉と言いますが、スロヴァキア語では〈ドブリジェン〉です。言葉は似ていますが、国民性は少し違うような気がします。ポーランドと同じようにスロヴァキアもキリスト教の国ですが、道筋にはマリア像もキリストの像も全く見られません。信心深さはなさそうで、ポーランド人に比べて少し雑な感じの人が多い印象を受けました。スロヴァキアにはポーランドよりも英語の片言ができる人が多く、観光客相手の仕事をしている人はドイツ語も少し出来ます。...スモコレッチ

  • ヘッセン城館

    私の住むハノーファーから1時間少々東南東の方向に走ると、魔女が住むというハルツ山地の北にヘッセン城館があります。かつての東ドイツにある城です。この城の前身である堀のある要塞の歴史については、ほとんど知られていません。ただ12世紀前半に、ある貴族が村と城の所有者として文書で最初に言及されていますが、約200年後にその貴族の子孫が途絶えた後、15世紀の初めまで城を含む村の所有者は絶えず変化し、時間の経過とともに荒廃して行ったのです。城はこの地域を通る交易路を守るために役立っていたようです。まだ堀を備えている城館(1650年頃、Wikipediaより)そして16世紀の中頃にルネッサンス様式の城館に改築され、城は16世紀の終わりから17世紀の初めにその全盛期を迎えて、ある公爵の夏の離宮として機能しました。その後、...ヘッセン城館

  • ザコパネ

    今回はお城ではありません。ポーランドの南端、自然国境タトラ山脈でスロヴァキアと接するところにある町ザコパネの話です。我々はここをベースにして、タトラ山脈で1週間の山歩きをします。ザコパネは、昔は羊飼いと牛飼い、農民、そして木こりが住む小さな山間の集落でしたが、19世紀末になると鉄道網が整備され、庶民に旅行を楽しむ習慣ができたために観光客が来るようになり、その後、ポーランドの建築家や芸術家らの注目を集め、この地で活動を行う者が増えたとのことです。現在の人口は3万人弱で、ポーランドではよく知られた避暑地および保養地。冬はスキー場として有名な町です。ザコパネは二つの非公式な名称を持っているとのこと。ひとつは〈タトラ山脈の首都〉、もうひとつは〈ポーランドの冬の首都〉だそうです。毎年約3百万人の訪問客で賑わうようで...ザコパネ

  • ヒュースブルク修道院

    ザクセンアンハルト州のハルバーシュタットという都市近郊の深い森に、木々で覆われた315メートルの小山がそびえ、その頂上に敷地全部が石塀でぐるりと囲まれた建物群がポツンとあります。それがヒュースブルク修道院で、カトリック教会最古の、現代も活動するベネディクト修道会の修道院です。修道院の航空写真(出典:Wikipedia)修道院の起源は8世紀の末頃にまでさかのぼります。この頃、スラブ人の攻撃から地域を守るために丘の上に軍事基地が建設されました。かつての環状石塀の残骸を今でも森の中に見ることができます。入り口へと続く石塀・入り口の門門を入った所・門を中から見る庭園・庭園から見る建物群その敷地内に11世紀の後半、男性の修道院が建てられたのです。そしていくつかの新しい修道院の建物と教会が増築されましたが、その後の数...ヒュースブルク修道院

  • シルダウ宮殿

    ここ数年(2016年時点で)飛行機とレンタカーを使っていましたが、今年は自分の車で夏の休暇に行くことにしました。ザコパネというポーランドの南のはずれにある町で山歩きをします。しかしながら、ハノーファーから950kmも離れていて、いっ気に行くのは無理なので途中で一泊しました。その地に選んだのがイェレニャ・グラという町で、そこにあるのがシルダウ宮殿です。〈シルダウ宮殿〉というのはドイツ語での表記で、ポーランド語では〈ヴォヤノフ宮殿〉といいます。シルダウ宮殿は17世紀初頭に建造されました。もともとはルネッサンス様式の水城だったそうです。そして30年戦争時に破壊された後、25年たって再建されました。18世紀前半から、宮殿を含む農場の所有者は頻繁に代わったのですが、そのうちの一人は宮殿をバロック風に改築させました。...シルダウ宮殿

  • ヴェステルブルク水城 (再訪)

    10年前に一度3泊したヴェステルブルク水城ホテルを再び訪れました。水城を上から見た図(パンフレットより)・登城門途中通過して行く旧東ドイツの小さな町々には未だに荒れ果てた建物が点在していて、旧東ドイツの復興がまだ完璧でないのに驚きます。城のあるヴェステルブルク村の様子もあまり変わっていないようです。城の外観1&2城の外観3初めて訪れた時ホテルは広い範囲で修復と改装の工事中でしたが、現在はもちろん全ての作業は終わっており、城の独特な形状は変わっていないし中庭の真ん中の鳩塔も健在です。ただ濠の水が無くなってしまい、水城とは名ばかりになってしまったのは大変残念です。登城門の下から奥を見る・第2の門の下から中庭を見る中庭で見る城塔と鳩塔・城塔の傍の第2の中庭フロントのスタッフは仕事が完全にルーティーン化しているよ...ヴェステルブルク水城(再訪)

  • カステロ ・ アパートメント

    私の自宅から2時間弱で行けるヴィンゼンという町で講演をするついでに泊まろうと思って、近くの〈お城ホテル〉を探してみると、この〈カステロ・アパートメント〉が見つかりました。カステロ(castello)とはイタリア語でお城という意味なので、ここを予約したのです。ところが、実際は〈お城〉とは関係なく、カスタネア(クリ属)という名前の広大なゴルフリゾートの中にあるクラブハウスで、2階に7戸のアパートメントがあり、少し離れたところにあるホテルに属しています。まあ、建物が城の形をしている、といえば、そんな気もしますが、、、、、。ゴルフリゾート・クラブハウス有名なゴルフリゾートなのでしょうか、かなり遠方からの客もいるようです。クラブハウスに隣接して初心者用のコースがあり、レッスンを受けているグループがいます。私はゴルフ...カステロ・アパートメント

  • アンタルヤ

    アンタルヤは地中海に面したトルコの都市で、古代からパンフィリアと呼ばれてきた小アジア南部の肥沃な海岸平野の首都です。こんにち、この地域は長い砂浜があるのでターキッシュ・リビエラと呼ばれることがよくあります。市の南にある港をほぼ真上から見下ろす崖の上に旧市街があります。港1&2パンフィリアには、おそらく紀元前12世紀に古代ギリシア人の一種族であるミケーネ人が定住したと考えられているそうです。彼らが設立した都市は、紀元前7世紀にやはり古代ギリシア人の別の種族であるイオニア人によって再編成されたようです。そして紀元前334年、これらの都市はアレキサンダー大王によって占領されました。アンタルヤは、紀元前3~2世紀に小アジアの西岸に栄えたヘレニズム諸国のひとつであるペルガモンのアッタロス2世王によって、紀元前160...アンタルヤ

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