青松光晴 さん プロフィール

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青松光晴さん: 日本古代史つれづれブログ
ハンドル名青松光晴 さん
ブログタイトル日本古代史つれづれブログ
ブログURLhttp://aomatsu123.blog.fc2.com/
サイト紹介文邪馬台国を中心とした日本古代史の謎を、神話・史書・遺跡・各地伝承などから、解き明かします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供58回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2015/02/22 10:20

青松光晴 さんのブログ記事

  • 土器が語ること(3) 〜 縄文土器から弥生土器、土師器、須恵器への変遷
  • 前回、縄文土器と弥生土器の決定的な違いが、製作方法であることをお話ししました。具体的には、縄文土器が、地面上、掘った穴から、直接焼く「野焼き」であるのに対し、縄文土器は、草や土で覆って焼く「覆い焼き」であるということです。さて、縄文土器から弥生土器は、そのように変遷を遂げていくわけですが、もう少し詳しく見ていきましょう。縄文末期の土器として、「突帯文(とつたいもん)土器」があります。”直口縁をもつ [続きを読む]
  • 土器が語ること(2) 〜 縄文土器と弥生土器は何が違う?
  • 前回、一口に縄文土器、弥生土器と言っても、外見だけからは、その違いは一般人にはよくわからない、という話をしました。では、縄文土器と弥生土器は、具体的にどのように違うのでしょうか?。ここで整理します。■形縄文土器は、口が広くて底が深い形(深鉢形(ふかばちがた))が多いといわれますが、壺型や注口型(上写真)、浅鉢、香炉形、高杯、、皿形など様々な形があります。弥生土器は、壷・甕(かめ)・鉢、皿を台の上に [続きを読む]
  • 土器が語ること (1) 〜 縄文土器の素晴らしさ
  • 前回まで、銅鐸の分布などから、古代日本列島における権力移動をみてきました。そこからわかることは、明らかに、”「西→東」への移動があった”、ということです。そしてその結果は、史書や遺跡、科学的データとも一致しています。では次に、土器についてみていきましょう。土器の発明は、私たちの祖先の生活に画期的な変化をもたらしました。それまでの大型動物などを捕獲して食糧とするスタイルから、植物採集による食糧自給が [続きを読む]
  • 銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (10) 〜 銅鐸を使用していたのは誰か?
  • 前回までで、”銅鐸は、異文化をもった人々の侵入者によって破壊され、消滅した。”というところまでお話ししました。今回は、いよいよ銅鐸最大の謎に迫ります。それは、「銅鐸を使用していたのはだれか?」そして「異文化をもった侵入者とはだれか?」です。従来の説では、”銅鐸は稲魂信仰祭祀の象徴であり、初期大和政権の首長が、地方の豪族に対して同盟の証として与えた。首長の権威が高まるにつれ、首長霊信仰に代わり、三角 [続きを読む]
  • 銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (8) 〜 銅鐸「埋納」の謎
  • では、あらためて「埋納」について、考えてみましょう。まず、状況の整理です。”埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも二例ある)。頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅 [続きを読む]
  • 銅鐸にみる「西→東」への移動 (6) 〜 九州出土銅鐸が与えたインパクト
  • ここまで、銅鐸の概略についてみてきました。”銅鐸は中国起源で、直接あるいは朝鮮半島経由で、紀元前4世紀頃、日本列島に伝わり、独自に発達しました。伝播ルートとしては、山陰地方(島根)、北陸地方(福井)、瀬戸内海(淡路島)などから畿内に伝わり、東海地方へと、広がっていった”との仮説を立ててます。ところで、今まで九州のことには触れてきませんでしたが、九州との関係については、どうなのでしょうか?。ひと昔前 [続きを読む]
  • 銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (4) 〜 銅鐸分布からわかること②
  • 前回の続きです。5.突線鈕式(とっせんちゅうしき)銅鐸の密度分布(下図11〜15)”全体の分布域は、前段階からわずかに東へ移行する程度でほとんど変わらないが、密度分布に大きな変動がある。すなわち、畿内地域と、これまで明確な集中を見せなかった三河・遠江地域において、密度分布の高まりを形成する(図11)。(1)突線鈕式(1・2式)畿内地域から近江地域を中心に密度分布の高まりが形成される(図12)。これは [続きを読む]
  • 銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (3) 〜 銅鐸の分布からわかること
  • 前回は、銅鐸の形式についてお話ししました。今回は、それらの銅鐸が、日本全土でどのように分布しているのかをみていきます。銅鐸の分布というと、昔歴史の授業で習った、「銅鐸圏」、「銅矛圏」の話を思い出します。銅鐸、銅矛の分布には地域的に大きな偏りがあり、畿内を中心とする「銅鐸圏」と、九州北部を中心とする「銅矛圏」に分けられる、というものです。その後、「銅矛圏」内とされてきた島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺 [続きを読む]
  • 銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (2) 〜 銅鐸を分類すると・・・
  • 銅鐸と言っても、大きいものから小さいものまで、また「聞く銅鐸」や「見る銅鐸」など、さまざまな種類があります。今回は、銅鐸の型式とそれが時代とともにどのように変遷したかについて、みていきましょう。以下、「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」(吉田広、増田浩太、山口欧志)および「銅鐸分布考」(WEB版)を参照します。区分の手法としては、銅鐸の釣り手である半環状部(鈕、ちゅう)が、釣り [続きを読む]
  • 銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (1) 〜 そもそも銅鐸とは?
  • このブログでは、古事記や日本書紀など神話の世界は、単に昔の人が勝手に作った話ではなく、何らかの史実を象徴的に描いたものである、という話をしてきました。そして、中国史書や朝鮮史書なども併せて読み解けば、日本の国の成り立ちの全体像が見えてくる、ともお話ししました。その全体のストーリーとは、”もともと日本列島には、縄文人が住んでいた。弥生時代に、中国動乱に伴い、中国・朝鮮半島から、多くの人々が日本列島に [続きを読む]
  • 銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (7) 〜 従来説では説明できない「埋納」「破壊」「消滅」の謎
  • ここまで、銅鐸を出土地分布からみてきました。ここから、いよいよ銅鐸の謎に迫ります。銅鐸に関しては、埋納の謎、破壊の謎、消滅の謎など、多くのことがわかっていません。それをみていきましょう。銅鐸は、紀元前4世紀頃、中国、朝鮮半島日本にもたらされ、次第に大型化しますが、3世紀頃、突然と姿を消します。ではなぜ、あれだけ発展し、芸術的に見ても美しいものが、突然無くなったのでしょうか?。銅鐸の埋納、消滅につい [続きを読む]
  • 太宰府は、倭国の都だった!?(2) 〜 太宰府遺構が物語ること
  • 前回から、3月27日に出版したシリーズ第二弾「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 〜 その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を一部公開してます。その続きです。************************************************************************************太宰府建設の由来については、“日本書紀によれば、天智天皇二(663)年、唐、新羅の連合国と白村江において百済と共に戦って大敗した我が国が、大陸からの侵攻 [続きを読む]
  • 太宰府は、倭国の都だった!?(1) 〜 「遠の朝廷(とおのみかど)」とは?
  • 前回まで、「日本人は、いつどこからやってきたのか?」というテーマでお話ししてきました。何せ壮大なテーマですから、計25回にもわたり、また文化的な側面についても触れました。さて、3月27日に、拙著「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎」シリーズ第二弾「その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を出版いたしました。昨年8月出版の前著「神話の世界から邪馬台国まで」の続編で、邪馬台国はその後どうなったのか [続きを読む]
  • 日本人は、どこからやってきたのか?(22) 〜 世界最古の土器が語ること
  • 「日本列島→大陸」という人の移動はなかったのか?、というテーマで、世界最古とされる3万数千年前の「磨製石斧」が、日本列島で多数発掘されていること、それと併せて「海上の道」があったのではないか?、さらに「貝の道」とでも言うべきルートを使い、台湾・琉球諸島の人々が、古代中国の殷・周王朝へ運んでいた、という話をしてきました。だいぶ話が広がったので、話を戻します。まず皆さんに質問です。はるか昔から世界中で [続きを読む]
  • 日本人は、どこからやってきたのか?(20) 〜 古代「貝の道」があった!
  • 前回、前々回と、「海上の道」についてお話しましたが、もうひとつお話したいと思います。皆さんも、学生時代の歴史の授業で、”古代、貨幣ができる前は、「貝」が貨幣の役割を果たしていた。”と習いましたよね。当時私は、これを聞いたとき、不思議に思ったものです。「貝などというものは、海にいけばいくらでも手に入るはずだ。実際、貝塚など貝だらけではないか。そんなものが、何で貨幣として使われていたのだろう。価値がな [続きを読む]