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詩人まーじの生活と意見 http://merginalman.blog.fc2.com/

詩・ポエム・ショートショートなどを孤高の詩人が書き散らすサイト。哲学・文学・サブカル好きは大歓迎!

ネットで初めて詩・ポエムを書いたのは2001年くらいです。学生時代は一応、早稲田詩人会に所属していました。今は10年以上かけて構築中の小説を完成させるために奮闘中♪

まーじ
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2015/03/13

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  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百十六章

    無から有は生まれない。有から無は生まれない。しかし、有は無い。完全無。それだ!ちょっとここで、サービス精神として、電子のスピンほどの自転をこの章の話頭に施してみたかったのだが、そんなことよりも言いたいことが次から次へと自走式に出てきてしまうらしい。「あの」、「この」、「その」、「かの」、「どの」、などのような表現とそれに付随するところの、たとえば、指向性、指示性、主体性、客体性、能動性、受動性、な...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百十五章

    ところで、この作品は存在しない。 輪郭がないのにそこだけくり抜かれたかのように、この作品は存在しない。 輪郭がないのにそこだけくり抜かれたかのように、この世界も存在しない。 あらゆる表現や、あらゆる表象、あらゆる事物、あらゆる事象は存在しないのだが、それにも拘わらず人間たちはどこまでも「ある」を前提として科学的な答えを探し続けるだろう。 紙芝居のように現象のプロセスをめくりながら、終わり無き「ある」...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百十四章

    たまには章ごとにサブタイトルでも付してみようかと思い立ったのだが、たとえば、「空も中道も非有非無も、ニセモノの無を媒介しているが故にダウトであり、構造も脱構築も――あらかじめすでに――存在し得ないが故に却下する、ということの功罪について」などという目も当てられないようなセンスの文言しか浮かばないことに気付いたので、とりあえずは保留ということにしておこうと思う。さて、この辺りで、わずかばかり冒険的なわた...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百十三章

    えげつないほどに奇妙かもしれないが、無の連結が運動を生み、それを有の連続として捉えてしまうのが知性とやらを進化させてきた生きものの宿命であり限界でありおもしろさでもあるのだろうか、と不思議に思う。位置しか持ち得ない点の確率論的ネットワークは果てしなく非有非無的概念とリンクしている。「あるというわけでも、ないというわけでもないこと」。それは「空」。誰も彼もが嬉々として引き較べる二つの領域、それは量子...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百十二章

    分子と分子、クォークとクォークとの間には何も「ない」わけではない。 何かが何かと引き合うためには、何かと何かが区別されるには、場が必要だ。 幅が必要だ。 それぞれの個物が本性を持つためには、個物同士は離れていなければならない。 しかし、化け「学」的世界のような化粧を必要としない哲「学」以上の非哲「学」的世界においては、あらかじめ無が埋まっている、いや敷き詰めることなく、完全に無である、という信条を持つ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百十一章

    (ここでチビが発現すると同時に発言する。それにしたってガンジスの河岸の砂の数を数え終わるほどにおひさしぶりな登場ではないだろうか。拍手喝采。チビ、ウィッシュ、しろ。三匹に乾杯。みんなの瞳に恋してる。チビのそのことばの端緒は、情緒的に何か高揚しつつといった割り込み型というよりは、あらかじめその会話の流れが決まっていて、ただそれをなぞって棒読みするかのように、という感じでこう呟いた。) 「なぜ何かがあ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百十章

    神は妄想である、と書いた正統ダーウィニスト的有名人、いや英国の進化生物学者がいたが、世界に対する科学的解明による手続きの、その翳で育まれた科学的現象の定義は完全ではない。 すべての過去、すべての未来、すべての現在が存在しない以上、神そのものと同様に、妄想としての神を語るヒトも、共有幻想に過ぎない。 そしてなにより、人間的スケールの枠内で拵えられた道具としての科学というものは、世界を解釈するための精巧...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』序章 第十一節

    【参考文献】ら行ソール・ライター『ソール・ライターのすべて』青幻舎ソール・ライター『永遠のソール・ライター』マーギット・アーブ マイケル・パリーロ監修 柴田元幸訳 小学館ライプニッツ『モナドロジー』 谷川多佳子・岡部英男訳 岩波文庫ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念(上)』小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳 岩波文庫ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念(下)』小出浩之・新宮一成・鈴木國文・...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』序章 第十節

    【参考文献】や行矢沢永吉『成りあがり 矢沢永吉激論集』角川文庫安井高志『サトゥルヌス菓子店』コールサック社安彦良和『機動戦士ガンダムTHE ORIGIN 1-24巻セット』角川書店矢玉四郎『はれときどきぶた』岩崎書店柳澤桂子・文 堀文子・画『生きて死ぬ智慧』小学館柳田国男『遠野物語・山の人生』岩波文庫やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館やなせたかし『あんぱんまんとばいきんまん』フレーベル館やなせたかし『それ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』序章 第九節

    【参考文献】ま行舞城王太郎『阿修羅ガール』新潮文庫『Vivian Maier Street Photographer』John Maloof powerHouse Books『Vivian Maier Self-Portraits』John Maloof powerHouse Books; Illustrated版『Vivian Maier A Photographer Found』John Maloof Harper Design; Illustrated版『Vivian Maier The Color Work』Colin Westerbeck Harper Design; Illustrated版マイルス『フリーク・アウト フランク・ザッパの生活...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』序章 第八節

    【参考文献】は行アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』乾信一郎 ハヤカワepi文庫バージニア・リー・バートン『ちいさいおうち』石井桃子訳 岩波書店ヴァーツヤーヤナ『バートン版 カーマ・スートラ』大場正史訳 角川文庫マルティン・ハイデッガー『存在と時間〈上〉』細谷貞雄訳 ちくま学芸文庫マルティン・ハイデッガー『存在と時間〈下〉』細谷貞雄訳 ちくま学芸文庫マルティン・ハイデッガー『「ヒューマニズ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』序章 第八節

    【参考文献】な行内藤正人編『北斎への招待』朝日新聞出版内藤理恵子『誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門』日本実業出版社内藤理恵子『新しい教養としてのポップカルチャー』日本実業出版社長尾みのる『バサラ人間』よるひるプロ永井豪・ダイナミックプロ『デビルマン 全5巻セット』講談社漫画文庫永井均『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書作・なかえよしを 絵・上野紀子『ねずみくんのチョッキ』ポプラ社中上健次『...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』序章 第六節

    【参考文献】た行ダーウィン『種の起源(上)』渡辺政隆訳 光文社古典新訳文庫ダーウィン『種の起源(下)』渡辺政隆訳 光文社古典新訳文庫ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄(上)』倉骨彰訳 草思社文庫ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄(下)』倉骨彰訳 草思社文庫ジャレド・ダイアモンド ノーム・チョムスキー オリバー・サックス マービン・ミンスキー トム・レイトン ジェームズ・ワトソン 吉成真由美編集...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百九章

    ところで、答えることに意味を持たせない何ものか、それこそが世界という名をほしいままにしている当の不可思議なのだが、その解答不可能性に賭けてみる、という凛とした意義を哲学的に見出そうとする人間たちという存在者には隠微なほどになまなまとした熱狂があると思わないだろうか。 あらかじめ「ない」という「不思議ちゃん」に対して、理性と感性とのせめぎ合いの中で思惟を織り巡らせ、人間たちは歴史的に悩み、苦しみ、か...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百八章

    感覚によっても論理によっても示威することの難しい堅物の名が、完全無であることは確かなのだが、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いの答えとしては元よりふさわしさを欠いている、と言えよう。 完全無を持ち出してしまえば、その問い自体が無効化されることになるのだから。 そのような問いに対して、さまざまな答えを人間は用意するだろうが、その生み出す様も含めて、人間たちにとってのあらゆる事象という...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百七章

    この二十一世紀における開闢問題は、量子力学的解釈を除けば、無から宇宙が誕生する謂われはない、と科学的には思料されている。 無から有が生まれたのだとしたら、有が生成するための場が元より必要不可欠のはずなのだが、そのあたりはまだまだ未知の領野であるらしい。 そして、いや、哲学的に思いを馳せるならば、何ものかが無から有に転じるためには、百%の濃度の無に零%の濃度の有が浸食していかなければならないはずだ、と...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百六章

    なぜ、この作品が仏教哲学をアップグレードし得る可能性があるのか、というと、作品世界そのものが無元論を突き詰めようとしているからである、と言えよう。 既存の思想や哲学のすべては、一元論、もしくは多元論、もしくは仏教哲学における中道のような0.5元論に過ぎないからである。 この作品の思想における真の新しさは、まさにその部分の発見にあったと言えよう。 無から有が生まれる云々の中途半端な形而上学的アプローチはす...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百五章

    (そしてそしてさらにさらにきつねくん、つまりわたくしは、ゆっくり足早に駆け抜けることを許されているかのように、超越タナトフォビア教の第一使徒の如く語り始める。ことばを発し続けなければありありとした現象界の光の散乱に絡め取られてしまいかねないからである、という一末の不安が発声器官の肩を押している。)「現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとし...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百四章

    ウィッシュボーン「きつねさん! ご誕生おめでとうございます!想い出された誕生の瞬間、それこそがきつねさんの現象界でのお誕生日ということになりますでしょうか。そのような貴い秘話が明らかとなった第百三章とはまさに第百讃章と言ってもバチは当たらないのではないでしょうか。ウィッシュボーンと致しましては、無限と有限という対義語、いや、きつねさんにとっては、対義語は存在しないんですよね、失礼致しました。訂正い...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百三章

    愛、そう存在者と存在者とが愛し合う、というささやかなる領分を超えて、愛そのものとなって自愛すること、それこそがまさに世界そのものの爆破、得体の知れぬ損壊、世界の世界性としての完全無の不可思議なる亀裂である。完全に無である、ということが「性質」になり得るのかい? という愚問は却下しよう。なぜならば、完全に無であることを表現することそのものをすべて消去した状態で、チビたちや読者の方々に思想を開陳するこ...

  • 無視されるということは、無化にも値しないというスティグマを刻み付けられること。

    俺の完全無の思想は誰からも無視されている。残念でならない。アカデミズムなどどうでもいいのだが、市井の哲人たちにはぜひ解読してほしかった。理解不能なチンプンカンプンな思惟のたゆたいに過ぎない、というレッテルを貼られる方がまだマシではある。なぜなら、『完全無』という作品に一応はトライしてくれた、ということなのだから。それにしても、反応がない。それこそ、この作品が完全に無なのだろうか。タナトフォビアで疲...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百二章

    この作品でこうしてわたくしが皆さんと出逢えたことも含めて、ハロー、なにもかもが、グッバイ、もうすでに無的に起こってしまったぜ!そう、それこそが完全有的なイメージ。ニセモノの有なんて屁でもないぜ、と今こそチビたち、そして読者の方々と叫び合おう。さらに付け加えるとするならば、もうすでに起こってしまっている、ということが完全に無であるような世界、もとより何もない世界でありながら、何ものかをありありと認識...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百一章

    西田幾多郎の哲学における「絶対無」のような無の場所としての無限の極地、それは人間たちの想像できる得る範疇にあるが、世界そのものとはそのような無限的イメージに陥ることも許さず、さらに無限だけではなく有限という内包性すら亡き者にする完全無なのである。そのことゆえに、世界そのものは完全に無なのであり、絶対無のような動的かつ静的な存在論とは微かに違うのだが、それは文字面が近似的である、ということに過ぎない...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第百章

    突然ではあるが、第九十章のポエムのリプライズならぬ、紳士で真摯なリメイク版をここでお届けしよう。(……「「「拍手のアンプリファイア」」」……) 人間はもはや言葉を捨てられない。猿の時代へと還ることもできない。本当にできないのだろうか。原生動物へと還れ、と言いたい。ことばこそが原罪であったのだ。狐であるわたくしもこのように人語を操っている時点で共犯者のスティグマを刻みつけられているはずだ。ふっ。 ともかく...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第九十九章

    ウィッシュ「モナドは絶対に窓を持ちませんが、ミスドは窓を持つ場合があるということでしょうか!」 (ウィッシュボーンがここで辛辣な茶々をいれる。)(マックの店内にいて、ミスドを引き合いに出すところがいじらしいではないか。)(どんなに香ばしいお茶よりもそれは豊饒性の発露として、より香ばしく、より生命の香りを尊く引き立てつつ、わたくしの鼻づらに流れてくる。)(ウィッシュボーンは個人的にやりきれないことに...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第九十八章

    さてチビたち、話を少し曲げさせてもらおう。しっぽのないきつねであるわたくしは、何かと紆余曲折という余計なものを付け足したくなる性質でね。へそまがりとは呼ばないでくれ、なんせへそもないんだ、このわたくしは。ええ、そもそも【なぜ何もないのではなく、何かがあるのか】という問いの明文化というのは、フランスの合理主義哲学者、ライプニッツの論文の一節に端を発すると言われている。「世界が実在しないよりもむしろ実...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第九十七章

    なぜ「何か」があるのか、ということの答えとは、要するに完全無と完全有との齟齬が根源的に関わっている、というそのことであろう。なぜなら、完全無という世界こそが主体的に「何か」である、という言い分だけを取り出してみせるなら、それは極めて粗暴かつ奇天烈な定義だと勘繰ることができるからだ。完全無であれ、完全有であれ、主体になる何ものかを定義することは実はとてつもなく不可思議な行為なのだ。それは、もとより状...

  • 完全無――超越タナトフォビア』第九十六章

    さて、人間たちは完全無を理想化することで単なる有を完全有として認識したがっているとも言える。だがしかし、人間たちが存在せずとも完全有は完全有として完全に無である。なにゆえ完全有は完全無であるのか。完全無には意志はなど無い。完全有にも意志など無い。完全無が完全有を要請することも、完全有が完全無を要請することも無い。なぜ「something」があると思い込んでしまうのか。それは、世界そのものから要請されないか...

  • 完全無――超越タナトフォビア』第九十五章

    世界そのものには相関によって規約される何ものも存在しない。なぜなら完全無とは完全無によっても規定されること無き完成された全き無なのだから。さあ、この章より以降は、完全無-完全有という便宜上の表現を揚棄して、完全無とあらわすこととする。完全無と完全有とが全く同一であるということは、もはやくどくどと再考すべき命題ではない。さて、話を戻して、ある現象が自らの外側にであれ内側にであれ、何ものかに働きかける...

  • 完全無――超越タナトフォビア』第九十四章

    完全無という世界のダミーが完全有の世界なのではない、ということ。人間たちが触れることができるのは、完全の一段階前、つまりニセモノの世界と呼び得る有のことであり、完全有とは、その文字面に反して決して人間たちんは把捉できない完全無のことなのである。【なぜ何もないのではなく、何かがあるのか】という問いにおける「何か」とは前-最終形真理としての有、つまりニセモノの有のことである。つまり、哲学における究極の...

  • 元祖晒し上げとしてのリツイート考

    https://book.5ch.net/test/read.cgi/poem/1059215069/↑↑↑↑↑↑↑このスレこそが、元祖晒し上げとしてのリツイート誕生の瞬間を告げる、名スレッドであろう。2chの詩板にわたくしが名無しの匿名でぶちあげたものである。「まーじ」名義ではなくて、「名前はいらない」名義だ。晒し上げることで、議論の俎上にのせる、というよりも、こんな馬鹿がいてほほえましいのを楽しむ、という趣旨だったのだ。しかし、スレの流れは陰にこもって...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第九十三章

    ところでチビたち、「有限」という概念の射程とは、ある定まった幅を想起させるものだよね。「有限」自体の濃度や速度がどのような感性的な量を示そうとも、途上が任意の点で終端に変わることで最大値が確定してしまう、ということだ。しかし、完全無-完全有としての世界とは幅無き世界ゆえに、決して「有限」ではあり得ないのだ。それでは、世界は「無限」なのか、と問われれば即座に返答しよう、否、と。いいかな、チビたち。世...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第九十二章

    智慧の実を齧った最初の人間たち以前に退却せよ。神話の御代以前へと踵を返せ。智慧という自意識、心的現実に過ぎない主観というパースペクティヴこそが人間たちに与えられた最大の罰であるのかもしれない。世界を巨視的にとらえることも微視的にとらえることも、大いなる失敗の始動であったのだ。そして人間たちの智慧の理性的根源としての科学的思考は、延々と概念の尻取りを継続中である。まさに「ん」という文字の厳かな忘却。...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第九十一章

    脳内のニューラルネットワークが何次元であろうと、クオリアが何次元であろうと、宇宙が何次元であろうと、はたまたニセモノの無であろうと、お構いなしだ。ダミーワールドのダミープログラムの疾走に過ぎない。そのプログラムを規定するルールとは、人間たちだけに都合のよいような座標の位相をいくつも用意することで、人間の五感となるべく不整合を引き起こさないようにうまいこと調節された、いわば幅無き世界に対する分割愛と...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第九十章

    人間たちはもはやことばを選べない。猿の時代へと還ることもできない。本当に戻れないのだろうか。原生動物へと還れ、と言いたい。ことばこそが原罪であったのだ。あゝ、自己言及の甘い罠。クライン面をメビウスの帯で締め上げたい。あゝ、狐であるわたくしも。あゝ、このように人語を操るわたくしも。何の因果か受難の十字架。自己交差する罪の意識たちよ。ともかく還れ、還れないが故に、還れと嗤え、人間たちよ、わたくしよ。そ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十九章

    無がいくら無限の連珠のように連なろうとも、それは空間とは成り得ず、時間とは成り得ないのである。すべての事象を無限にミクロかつ無限にマクロの観点から観じてみる、という体感だけではニセモノの無にしか到達できぬ。大も小もありはせぬ。無限も有限もありはせぬ。それが「原約」としての世界であり、あらかじめ破られることが決まっていた人間たちの原罪とも言える。「原約」としての世界への飛躍においては、精神そのものを...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十八章

    あなたがどこへ出かけどこへ到達しようとも、あなたは同じ時空、位置のない点を無的に足踏みしているようなものだ。これは比喩的表現であるが、前-最終形真理のその先の【理(り)】に関しては、すべて比喩でしか捉えられないとも言える。飛行船だろうが宇宙船だろうがロケットだろうが衛星だろうが光子だろうが、地点Aから地点Bへと移動しているわけではない。位相無き消失の場、まさにそういう状態の完結として、いや、ありの...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十七章

    生まれてきたボーイズ&ガールズも、生まれてこなかったボーイズ&ガールズも、みんなして世界にはすでにして遍満、どこまでもひろく円満、完全世界として行き渡っている、ということ。生まれる生まれないに関わらず、すべての可能性は、成就しようとしまいと、すでにあってしまっている、ということ。すべての不可能性もすでにして、あってしまっている、ということ。完膚無きまでに無的にありふれている、ということ。たとえば、...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十六章

    人間たちは過去や未来が好きだ。人間たちは過去と呼ばれる曖昧な観念、過去の記憶というあるかなきかの幻像内容物の残滓に執着し、切なくなったり、うれしくなったり、ロマンに酔い痴れたりするのだが、未来と呼ばれる観念に対しても同等の思いを馳せ、シミュレーションし、将来を夢見ることで都合よく辻褄を合わせることができる現在、というこれまた脆弱性の高い幻像を、頬杖を突きつつ見据えるのだが、それらの時間概念たちにリ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十五章

    人間たちが人間たちの感性的直観の形式を規定するために、強引に感性的世界の構造を担う奴隷として生み出した変数が、「時間」、「空間」、「距離」、「速さ」などという記号であって、世界そのもの、つまり本来的な観点から鑑みれば、上下左右どころか、あらゆる矢印の方向性は存在し得ないし、基準点となるような定位置も、座標無き世界においては持ち得ないのだ。なぜならば、任意の点そのものだけに無的に注目すれば、時間的に...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十四章

    とある写真に写っている真なる事物は確かに過去に存在したものであると常識的には認定されている。とある動画に映っている真なる事物は、とある時間の、とある空間で確かに歴史的事象として現前化したのだ、ということの証明を人間たちは必要とするのだ。だがしかし、人間たちの法は人間たちにしか通用しないし、統べるものが国を統べやすくするために、統べられるものは統べられるものとしての自由の確保のために、法を認めざるを...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十三章

    数では真理をひとつに定めることはできない、と同時に、数によって無限に定められる真理において、どの真理が真に真なのかを定めることもできない、という前提を踏まえつつ、ここでさらに円の話の続きをしようではないか。もしも円そのものが世界の全体性として固定されていて、すべての波も揺らぎもその全体性の中に格納されている、と仮定するならば、世界を有限なものとして、つまり、いつかどこかで世界をストップさせるシミュ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十二章

    (きつねくんは、リロードのファンクションキーをことさら丁寧に押す人差し指ほどのスピードで、しろとウィッシュが座るやや過信気味なゾーンに向き直り、まばたきをひとつずつやわらかく交わし合い、哲学的かつ非哲学的かつ哲楽的なおしゃべりをコンティニュー(またの名を「希望に至る病」)してもいいかな、という合図を、己の背筋を若干大袈裟に伸ばすことで、ちょっくら懐疑的な空気感に包まれて座っているチビの視線へと伝え...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十一章

    【理(り)】へと着地する前に、わたくしたちは死海文書のあらゆる破片を手中にする如く、さまざまなる位相へと、前-最終形真理の意匠を破壊するために「形而上学的ホップ・ステップ・ジャンプ」を成立させなくてはならないだろう。わたくしを含めたすべての読者にとっての体感的修行でもある。「たとえば世界をこんな風に捉えてみよう」などという思考実験例が、この作品の後の章においてわたくしによって語られるであろうが、そ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十章

    (「まさに『デュエム-クワイン・テーゼ』を超えたテーゼなんだと思います、きつねさんの思想は!」とウィッシュボーンは、神がサイコロを振るかどうかためらうときの癖を真似て、その顎を親指と人差し指で挟んだりつまんだりする。)(「んー? 『残酷な天使のテーゼ』ならよくカラオケで歌うよー」とチビが、犬ファッション雑誌をくりんくりんと丸めながら言い、筒状のその雑誌の穴にきららかな右の瞳を当てて、「わー、絶好調...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十九章

    幅無き世界、というオリジナル無き不可思議について、前-最終形真理的ヴューポイントからの査読を実行すればするだけ、つまりは人間的スケールの知の枠内によって科学的に分析すればするだけ、初期衝動的な渦が混沌と秩序を巻き起こし続けるというニセモノの世界が幅無き世界を隠蔽し、つまり幅を捏造し、その虚偽の幅が分節性を保持することで、人間たちがいくらでも自由に謎かけできる余白を見出すことのできる論理空間が産み出...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十八章

    この章では、ヒト科という存在者に(諸説あれど一般的に普及している説によると)特有の能力とされている言語という記号体系、そのシステムと真理の先に鎮座するという【理(り)】との関連性について軽く触れておきたい。いや、言語と【理(り)】に対して礼節を尽くすために、ウィッシュの口ぶりを真似て、慣れない丁寧語で語る章としてみよう。もっとも、言語そのもの性に対する言語学的な分析も、【理(り)】に到達する「道」...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十七章

    狐族であるわたくしと、犬族であるチビたちとの関係性における豊饒は、いささか面映ゆき愛の、ソリッドに煮え立つ萌芽、そして輪郭の際立った持続性として境界線無き時空を穿ち、どこまでも存在者然として屹立する完璧な無次元曼荼羅のごとく、現に存在する。人語を駆使する狐族と犬族は、この作品において実在論的に――あらかじめすでにこれからも――結実の握手によって、速度無き自転という存在の風となる。現象界の構造部位として...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十六章

    (この章は、わたくしきつねくんという実在のキャラクターによる語りの実存論的再起動から始まる。)世界に取り込まれることなく、世界を取り込むこともなく、世界という約束そのものであるために、わたくしたちに対してわたくしは告げる。有機物でも無機物でもない自己の在り方を想像しようではないか。生き物以前性ではなく、物質以前性を想起せよ。存在という謂(いわ)れ無き謗(そし)りに曝され続けることば、それが、人間的...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十五章

    ウィッシュ「きつねさんはニーチェなんかもお読みになられますからね。次から次へと断片的に想念というものが浮かぶんでしょうね」チビ「ニーチェかー、なんかポワンポワンしてなさそうなイメージ。チビも名前くらいは知ってるよー。でも、名前だけ知ってるのって損なのかな。けっきょくだいじなのは、名前とそのひとがピッタリしてるかどうかだと思うこともけっこうあったりー」しろ「しろはフルーチェ。どっちにしろフルーチェ一...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十四章

    さて、再度このテーマについて噛み砕こう。消失し得ない存在について。安易な第一歩こそ肝要だ。まずは、生まれる前を想像してみよう。世界に遍満した存在の複数形として、分裂しているはずの自己が見えてこないだろうか。この宇宙には精子的ななにものか、卵子的ななにものかが確固として存在してしまうイマージュが立ち現われてこないだろうか、人間たちよ。いのちの源が、蠢いて蠢いて、ひっきりなしに生成と消滅という物理学的...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十三章

    赤ちゃんについて少し。男性の精巣や女性の卵巣をかたちづくるための、あらゆる原因となるところのモノとコト、男性の精子や女性の卵子をかたちづくるための、あらゆる原因となるところのモノとコト。それらの正常なる機能を保つための、あらゆる原因となるところのモノとコト。そういった無数の遠因と近因(それは、男女が時を得て、有効な大人の体操を実行する、という基本的タイプの性行動ももちろん含まれる)によって、赤ちゃ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十二章

    たとえば、宇宙に遍満する無数の粒や波、それらに最低限の大きさや振幅があろうとなかろうと、何かしらの働きを成す現象としての粒や波は、生命としての存在者が死して無数の散開存在者となり、分裂的に漂う「可能性の風」として新たに生成するために、穏やかな顔で宇宙に待機している間、闇に潜める不可能性から自由に振舞うべき寵児として、つまり、生成し生成されるものとしての主体的存在者として生まれ変わるために、宇宙の中...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十一章

    さてここで「荼毘に付す」ということについて少し触れておきたい。わがニッポンにおいては現在「荼毘に付す」とは、人間たちを火葬に付す、ということであるのだが、ダイオキシンなどの発生を抑制し、骨を燃やし切ることのない程度の温度に設定されている。火葬場における煙突の設置が内的であろうと外的であろうとも、遺体はともかく小さいモノへと強制分解させられる。人間たちは燃やされることで、自らの骨とも別離することとな...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十章

    すべてのちいさきものよ、はかなきものよ、よわきものよ、こわれやすいものよ、世界をそのままに、そのままにしておきましょう。世界は変わらない。世界を否定することはできない。ちいさく、はかなく、よわく、こわれやすく、人間たちよ、世界であれ。わたくしの【理(り)】をわたくしの【理(り)】である。タナトフォビアに恐怖するすべての人たちよ、わたくしのことを信じる必要は、ない。だがしかし、死を恐怖するすべての人...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十九章

    わたくしはこの辺りで謙虚になろうと思う。謙虚であろうとすることは、自然体であろうとすることであり、身の丈にあった試行錯誤であろうとすることである。そういう時期であろう。では、聴いてほしい。生き物が死ぬと、生きていた頃に知り合ったすべての生き物に再び逢える、というロマンティックな思考プロセスに認知バイアスを仕掛けられる方々が、地球人社会には一定数存在する、という事実にわたくしはまず驚きを隠し切れない...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十八章

    さあ、続けよう。口述であれ記述であれ、それらことばの記号(記号作用と記号内容の合わせ技)としての性質なくしては、神話も、宗教も、詩も、哲学も、科学も、その象徴性を人間社会において維持することはできない。あらゆる人間社会における物理学的応答に根差したソースコードは、たとえ機械が人間たちを支配するようになったとしても、また、機械自らが機械そのものを生み出すような時代が到来したとしても、世界の世界性に関...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十七章

    さて、「ひかり、あれ!」と声を荒げるよりも、「ひかり、ある!」と忍び音(しのびね)を心密かに漏らす方が、より正しい世界への呼ばわりとなるだろう!このマクドナルドの店内において、このような新しい思想へと突き進むわたくしたちに追いやられた時空の帆が孕むものは、真偽を超えたひかりでしかない。原初のひかりよりも、それは吹き荒れやすく、肌を枯らし、舌を燃やし、鼻腔を凍らせ、耳をつんざき、目の玉を激震させるこ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十六章

    聴いてくれるかな、チビたち。チビたちが犬であろうと、ぬいぐるみであろうと、人間であろうと、チビたちという存在者の存在そのものが織り成す世界線・世界面・世界体積は、完全に無であるがゆえに、完全に有であり、その価値量は、人間たちの産み落とした哲学、そして科学や科学哲学の産声よりも豊穣に、いや完璧な充足感によって超越しているのだろう、とわたくしは思う。その思いに対する反論は、チビたち、ここでは受け付けな...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十五章

    (店内の照明の匂いが、窓の外からのひかりによって、ほんのひと匙分ねっとりとしてきたことに、わたくしは気付き、一瞬、目を閉じてみる。すると、愉快なワンちゃんトリオ、チビ・ウィッシュ・しろのトリニティが輪状に店内の空気を揺らし始めたのをまぶたに感じる。)(宇宙のこととか深すぎてよくわかんないけど、宇宙ってきっとグミみたいなツブっていうか、むずかしく言うと粒子とかいうので満ちてるんじゃないかなー。そんな...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十四章

    宇宙とは世界そのものとされることが多いのだが、この作品では便宜的に、世界の属性の一面として宇宙をまず定義したい。さて、弱かろうが強かろうが、観測できようができまいが、宇宙論における「人間原理」なる傲慢は人間たち自身にとっても、当てにはならない。人間たちの創り出した記号と宇宙との蜜月、そのような浮き名を宇宙が期待しているわけではない。なぜなら、宇宙とは世界の世界性同様に、つまり世界の世界性に対する随...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十三章

    時間や空間という「幅」は確かに、人間たちのでっち上げたマボロシだとは思う。人間たちは「幅」を感知できるようになってしまったんだろう。もちろん、愛というなにものかも、マボロシであり、世界の世界性に刃向かう際の常套手段であるが、それは上等な武器でもあるんだよ、チビたち。世界の世界性に刃向かうときって、人間たちは意志の力を借りているだろうか?意志の力ではない、なんらかの不可抗力のようなものに衝き動かされ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十二章

    少し話頭を転じよう。生滅を繰り返すことなく宇宙が反復できるとしても、その繰り返しが無限であるかどうか、ということは確率論的には未定であろう。サイクリック宇宙論、すなわちエンドレスなユニヴァース論なるものも、理論物理学において、れっきとした(インフレーション宇宙論、ブレーン宇宙論、M理論などと肩を並べているかどうかは微妙なところではあるが)宇宙論として、それなりの幅を利かせてはいるようだ。さてここで...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十一章

    「動」が「静」に帰結する、あらゆる形態の計算式の解が定まること、それが有限という概念である。世界における、現象としての事態の生き様が、未決であろうと既決であろうと、有限とは、有限の外部に他性の取り巻きを要請せざるを得ない概念であることに間違いはない。他性に囲繞(いにょう)された有限における「有」とは、「完全有」としての「有」ではなく、前-最終形真理的な「有」であり、前-最終形真理である限り、その「有...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十章

    【理(り)】に接近するためには、山ほどの常識的判断を焼却しなくてはならない。そのひとつとして、出逢いと別れという因果関係(筋書き)は存在しないのだ、ということを肯定する、という非常識的判断という名の焼却炉もあるのだ。出逢ったのだが別れてしまう、というドラマティックな変化というものが、世界の世界性には、脚本的に存在しない。時間的経過、ない。空間的変容、ない。相対的干渉、成立しない。たとえば愛する人と...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十九章

    (ふいに「愛……」と、ウィッシュことウィッシュボーンが魔法使いの弟子のようにつぶやいた。三点リーダーの点々の継ぎ目から忍びやかに顔をのぞかせながら。そしてわたくしは非情にも話を少し変奏させてゆく。なぜなら、それこそが急務なのだ。このマックで宿泊するわけにもゆかない。わたくしは潔癖症で繊細なので、家のおふとんできっちりと睡眠したいのである。わたくしは不眠症であるのだが、それは哲学や詩を好む生き物にとっ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十八章

    完全無-完全有の完成形としてのパズル(それは粗大でも微細でもない)の(当然、メタファーとしての)ワン・ピースを、人間たちは全歴史的時空の中で選ばされている。つまり、世界樹のように分岐すること無き世界の世界性に「おいては」、なんらの自由意「思」も自由意「志」も完全無-完全有的に、存在し得ない。完全無と完全有との兼ね合いから世界の世界性をまなざすこと、それを認識論的・存在論的・形而上学的修行と呼び習わし...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十七章

    ある粒子、そして、ある粒子と区別されるところの粒子、粒子同士の位置関係、粒子同士の行動パターン、粒子同士の意思の疎通、粒子同士のエントロピーのじゃれあい、粒子同士のエンタルピー(示量性を持つ熱力学的関数)の呼吸音、粒子同士の生滅ゲーム、粒子の回路網が、あるかたちをかたちづくろうと、そうでなかろうと、かたちと呼ばれ得るなにものかは、意識を所有する存在者としての人間たちとは無関係に――あらかじめすでに――...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十六章

    突然ではあるが、振り子時計の振り子をあなたがじっと眺め入るシーンを思い浮かべてみてほしい。なぜいまどき、そのような古典的な時計を餌に哲学的な戯れ言を開陳しようとしているのか、などといぶかしげに肩をすくめないでいただきたい。今ここで、三百億年経ってもたった一秒の誤差しか生じないスーパークロックの話題を持ち出す必要はない。二台の時計が、2掛ける10のマイナス18乗程度の誤差の範囲内、というその驚異的な精度...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十五章

    何をどのように心配しようとも、何をどのように楽観視しようとも、何をどのように苦しもうとも、何をどのように闘おうとも、何をどのように決意をしようとも、何をどのようにあきらめようとも、何をどのように活気付けようとも、ただ「ある」だけのわたくしたちは、そのように「ある」だけである。先行する何か、追随する何か、最良の何か、孤高の何か、絶好の何か、貧しき何か、良心的な何か、隠蔽された何か、笑止千万な何か、気...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十四章

    人間たちよ、過去や未来、さらに今というなにものかに視線を注ぐことなかれ。求められてもいないのに、原因と結果を結び付ける癖を飼い慣らすことなかれ。すべては「今ここ」において起こってしまっているという定義に安住することなかれ。現在がなんだというのだろうか。現在を何か強烈に高貴な存在として崇めるのは何故なのか。あらゆる「学」は、なにゆえ現在を起点として、過去や未来を定義するのか。現在とはなんなのか。現在...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十三章

    頽落した人間たちは哀れである。頽落とは進化であり、進化とは退化である。生き様と死に様だけを脳裡に浮かべることに忙しい。己が生まれる前の自我を想起することによっては、あまり恐怖を抱いたりしない割に、生物学的に死んだ後の自我、自己意識の行く末に関してだけは依怙贔屓(えこひいき)的に幾倍も恐れおののく。そういった思考パターンに捕縛され続ける人間たちこそが、世間一般的なマジョリティ、つまり蔓延としての世人...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十二章

    科学にしろ一般的な思想にしろ宗教にしろ、反常識的・本来的に、つまり非頽落的に鑑みるならば、位置や大きさや向きなどをあらわす量、ここで片仮名を敢えて使用するならば、スカラー(大きさのみを持つ概念で、座標のシステムに拘束されない量)、ベクトル(座標のシステムにおいて大きさと向きを持つ量)、テンソル(古典的に捉えればベクトルの多次元配列化のことであり、テンソル内の個々の成分は座標変換の影響を受けるが、テ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十一章

    ある、ということなど、どこの誰でも当たり前のように、素朴実在論的に、見知っていることではないか、と言わないでほしい。当たり前のことを当たり前として認識することが、どれだけ難しいのか、ということを人間には知ってほしい。そして「ある」ということがある限り、愛というもっとも当たり前の、陳腐なことばを使えばア・プリオリな道を、人間は見つけることもできる。たとえ、愛を見つけることができずに(非哲学的な意味で...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十章

    しろ「ものごころぉ?」チビ「もの、ごころ」ウィッシュ「ウィッシュボーン、はやく大人になりたいですが、でもいつまでたっても3歳なんですよね、はは! たった3歳っすよ、あ、はしたない言葉遣いをしてしまいましたね(汗)。」チビ「犬の3歳って、人間からしたら、大人なんじゃいかなー」ウィッシュ「それは、一般的にはそうかもしれませんが、ウィッシュボーンたちはある意味特殊ですから、ええ。こうやってお話することの...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十九章

    二〇二〇年代の今(※この作品のそもそもの着想は二〇一四年ではあるが)、宇宙は膨張しているという仮説が宇宙論的に地球エリアで優位を占めている。しかし、宇宙の行く末を、無限の大きさをもつ超数学的な点に吸い込まれつつある過程であると仮定することも、理論物理学者ならば可能であるし、ビッグバン宇宙論とはまったく異なる仮説をわたくしが持ち出したとしても、誰も――科学的には――直接証明を成すことなどできない。だが、...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十八章

    おあとはよろしいようなので、素敵で不敵な普遍性ある独断と偏見のことばを、再び垂れ流して参りたいと存じます。混沌たる非存在としての「道」などというものは、世界の世界性とは呼べぬ!東洋思想の源流における「道」という概念をここに放棄する!ことばにベクトルを宿らせ、四方八方に対義語連関をこしらえることへの逆算としての「万物斉同(ばんぶつせいどう)」、すなわち万物を逆流的に、放射性炭素年代測定的に突き止めて...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十七章

    ここでチビたちに送りたいポエムをひとつわたくしが朗読しよう。チビ・ウィッシュ・しろ「「「わーい」」」(チビたちのしとやかな歓喜の声のかたちが、ちいさな曼荼羅となるようなならないような、そんな仕草でためらっている。)【無題】いきものもウイルスもうちゅうもそりゅうしレベルよりさらに小さいクォークレベルよりさらに小さいプレオンレベルよりもさらに小さいえいえんにむきつづけるたまねぎの皮レベルでみてみようぜ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十六章

    チビ「チビ、感心しちゃったー!!!!!!!あ、びっくりマークが6個ぐらい多いやー、減らさなきゃ!」しろ「え、だいじょうぶ、しろがびっくりマーク、6個弱くらいならたべてあげるよ、ぐふぅ」ウィッシュボーン「しろさん、下痢に気をつけましょうね。エクスクラメーションマークはなんだか、おなかがチクチクしそうですからね。まさに、ヤマアラシのジレンマですよ! あ……、そうですか、意味がわかりませんよね……、すいませ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十五章

    そして、学者によっては、ボロメオの輪に世界の現実性、象徴性、想像性を象徴させたり、メビウスの輪に世界の在り様を象徴させたり、太極図に根源的世界の象徴をみたり、どこまでも続く何か、どこまでも続かない、つまり限りがある何か、というあるかなきかの「点」という概念に規定された幻をみることに、深淵なる学術的意義を感じて、一生涯その魂を捧げ続ける方々もいらっしゃる。だが、そういったまやかしを、任意に許してしま...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十四章

    世界の世界性へと認識を没入させるならば、まずは始まりという観念、なにかが始まる点、鉛筆で書いたような点のようなものがある、という考えを捨てよ、数学的な点をも唾棄せよ、とわたくしは言いたいのである。始まりをこしらえるから、そこから何かが積み重なり積み重なり、終わりという点を必要としてしまう。もしくは、ぐるぐるめぐりめぐる円環構造を安易に想像してしまい、やたらと円形を指差しては、深淵だ、これが悟りとい...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十三章

    それでは、どうやって世界を肯定できるのか。ともかく、世界とは何なのかを考えるのもいいのだが、それに答えられたとしても、結局行き付くのは、己の肯定、世界の肯定ではないだろうか。どこまでも愛すべきものとしての世界を把持したい、全身で、いや魂のすべての毛先に至るまで全肯定できるならば、哲学の未解決問題、すなわち、「なぜ何もないのではく、何かがあるのか」という問いを発することすら意味を失ってしまうのではな...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十二章

    ところで、この作品は、マクドナルドことマックというハンバーガー・ショップの店内に集っている、チビたちの前でわたくしきつねくんが語り倒すという体裁であるとともに、エクリチュールとして同時に、想定した読者を狙い撃ちする文章となっているのだが、断っておきたいのは、お遊びの単なる小説風エッセイではない、ということ。この作品はあくまでノンフィクションであり、言うなればノンフィクション風エッセイであり、哲学的...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十一章

    さて、世界の世界性としては、因果関係という金科玉条は成り立たないし、確率論のサイコロも弾き返してしまう、ということが予想された。現代物理学の棟梁たる量子力学における量子論的観察、そしてその観察より導き出されるところのオブザーバブル(その系の状態としての物理量)について、よく引き合いに出される文言であるところの不確定性原理や、単に量子の振る舞いが確率的であるかないか、奇妙であるかないか、といった議論...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第四十章

    チビ「きつねくん、日本語でOK。さすがに前の章はポエムに過ぎるかなー」きつねくん「よし、いいでしょう、融通無礙(ゆうずうむげ)なんていう意味不明な単語を使ったバチが当たったようだね。よし、いいでしょう、チビの言うことはなるべく素直に聞くことにしている。それがきつねくんの処世術というものだしね。どのみち語りが熱を帯びてくればわたくしは詩狐(しぎつね)になってしまう。なったらなったで、何度でもチビが注...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十九章

    宇宙であろうが、宇宙ではないなにものかであろうが、なにかがなにかから生まれる、ということはない。無から無を媒介にして生まれるだとか、限りなく無に近い状態から有へと生まれ変わるだとか、そのような三文オペラはない。なにかが生まれる。なにかが消える。そのルフラン。そういった惰性による対義語への過度の信頼、その信の重厚さだけを賛美し、その重い信条と軽い理知とによる対極的な判断を、意志的に総合することなく、...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十八章

    ※(話者がウィッシュボーンからきつねくんに代わるという、つまり、政治的秩序を変更することのない、権威主義討伐による維新的な意義を持たない、陳腐なイデオロギーを根拠とする原理主義でもなく、単なる究極革命的であるところの章が、この第三十八章である。)(ソール・ライターが写真に収めるべき、いやロバート・キャパがちょっとピンぼけることなく驚愕のあまり膝から崩れ落ちてしまうべき断章であろう。)ウィッシュ、大...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十七章

    チビ「チビ的には、せかいは粒々でできてるとおもうなあ、カタカナのツブツブでうまってる感じ。ツブツブ同士はぶつかってもかたちをかえて、グニョグニョ常に動いてる感じ。もうね、チビが立ってるところから、宇宙のはじっこのもっとはじっこまで、ツブでうまってて。なんかプヨプヨ的な、ツブ。チビもウィッシュくんも、しろくんもみんなブツブツでできてて、宇宙もみんなそう!たとえばさー、チビが、きつねくんに、ばいばーい...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十六章

    さて、世界の世界性そのものに触れるための、すなわち前-最終的真理を超え出るための鍵が、完全無であり、完全有なのですが、宇宙物理学的なビッグバン宇宙論やサイクリック宇宙論、さらに定常宇宙論や準定常宇宙論などとも等根源性を共有しません。完全無、そして完全有という概念はややこしい言葉ですので、ウィッシュボーンも精確には理解していないのですが、もちろんプラズマ宇宙論や多元宇宙論とも違います。なぜなら、宇宙...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十五章

    それでは、気を取り直すことなく、イエス・キリストの復活よりも若干現実的に、ふたたびウィッシュボーンがきつねさんに成り切ってお話させていただきます。成りきりはコピーですから、当然オリジナルと同値ではありません。オリジナルこそ至高ですが、語りたさがすべての指の先からウィッシュボーン特有の非-知の闇の核心に至るまで、内的かつ外的にうずうずしています。重いのに素早く、さわやかでありながら暗い、そんなトーン...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十五章

    (そのとき! きつねくんが不意に言葉を、この作品の存在論的亀裂へと投入する。世界の無名性が死のタオルを生成という名のリングに投げ込むように。)ウィッシュちょっといいかな、ちょっと口を、このきつね口をちょっと挟ませてくれ……、ん? そうそう、そういうことだ、さすがウィッシュだ。(と、ウィッシュボーンと何やら古代インドの奥義書『ウパニシャッド』における秘密を解読し合う形而上学的エイリアンの同士のように...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十三章

    さらにさらにさらに、ウィッシュボーンがきつねさんに成り代わって、裸形の声を反トポロジカルに構成しながら下手糞ながら演説を強行させていただきます。もちろん、トポロジカルという数学にその根拠を持つことばの使用は不適切かつ不正確かもしれませんので、アラン・ソーカル氏のような物理学者関連者からツッコミをいただいてしまうかもしれませんが、無名のウィッシュボーンの語りに身を入れて聴き込む学者さんなどいるはずも...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十二章

    きつねさん、いや大覚きつねさんと呼んでもいいようなレベルのきつねさんは、たびたびこんなこともおっしゃっておられました。言葉で時間や時間にまつわる、すなわち時間に付属するさまざまな観念ゲームを語ろうとすると、究極的には近似値としての概念の場を数として並べ立ててしまい、並べ立てたことで、無限というタナトフォビアのひとつの側面を照射し過ぎてしまう、と。たとえば「今」という言葉も、透明な紙に黒い点を打つよ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十一章

    ところで皆さん、ふと思い出したことがございまして、それがウィッシュボーンのみっともない知性の淵に釣り針を引っ掛けるものですから、前章の流から少々脱線させていただきます。教団を構成するほどまでに、あのピタゴラスを虜囚化した数字なる奇怪なアイテムを用いて世界について説明いたしますと、詩狐(しぎつね)的な【理(り)】が若干濁ってしまい、きつねさんには申し訳ないのですが、仕方ありません。一行で言わせていた...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第三十章

    たとえば、完全なるつまりは最も美しく最も精確なる円を、何者かが任意の場所に書き記せば、その円を事実として構成するところの現実態において、どこが始まりなのか、どこが終わりなのか、ということが判然としない図と対峙することになるから、きつねさんの時間論などはかつての仏教思想における円環的時間論とさして変わりはないのではないか、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうね。しかし、時間と空間に依拠した世界を鑑み...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第二十九章

    さらにさらに、ウィッシュボーンは言の葉を集めては花火のようにこのマックの店内からすべての読者様へと撒き散らしたいと存じます。時計の時間に慣れ過ぎているなら、生活の中に、時間に関わるすべての言葉を放逐してしまえばいい、でもまあ無理だろう、生き物は進化というものがあると仮定すると、歴史的堆積物に厚みが増せば増すほど、窒息するほどに真理の先にある何ものかからは遠くなってしまったのだから、と語気を強めてお...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第二十八章

    さらに、ウィッシュボーンがきつねさんの代わりに述べさせていただきます!是と非とを超えたる何か、つまり全一的・総合的な何かをこしらえようと人間はやっきにならざるを得ない状態だが、是と非という対義関係は、世界の果てが存在しないのと同様にあり得ないものですし、総合的な何ものか、つまりは部分が全体の一部を担うことで成立している全体性、そういったものもないのです。合わさることで成り立つものは一切ない。ある、...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第二十七章

    世界そのもの性への取っ掛かりとして、主語と述語との関係性は成立しないのだ、という認識についてまず吟味せよ、ということですかね。「あるということはある」ですとか「あるということだけがない」ですとか「ないということはない」ですとか、そのような文章パターンにおいて見られるような「ある」の属性に反して、本来的、根源的、無一物の「ある」ということは、主語になる可能性も述語になる可能性も蔵していない、というこ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第二十六章

    あるこの文字だけを世界に残してみましょう。あることがある、でもだめです。あるのみです。あるその二文字をじっくりことことみつめる感じです。たしかに難しいですね。ははは!どうしたって「ある」という音が時空の中に成立する際の、つまり「ある」という言葉を口に出す前と後が時空の中で発生してしまう限り、「ある」の前後に鍵括弧のような枠ができてしまいます。そして、その枠の中で浮き立つ音が記憶に残ってしまう限り「...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第二十五章

    世界の世界そのもの性を、理性のあらゆる推理力を結集することで、袋小路に至るまでほじくり返し、解き明かしたというわけではなく、とりあえずのところは、そのように帰結しておけば坐り心地がよいから、といういわば消極的態度による全一性への盲目的依存という意味合いにおいては、従来の哲学や宗教、そして科学も、形而上学と形而下学とのせめぎ合いから抜け出せないでいるジレンマ的認識論にとどまっているに過ぎないと、きつ...

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