ヤコブの夜桜 さん プロフィール

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ヤコブの夜桜さん: カトリック清流
ハンドル名ヤコブの夜桜 さん
ブログタイトルカトリック清流
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/catholicseiryu/
サイト紹介文2015年洗礼を受けました。キリスト教(カトリック)を軸に広く宗教・思想・社会に思いを巡らせます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供65回 / 365日(平均1.2回/週) - 参加 2015/04/19 16:36

ヤコブの夜桜 さんのブログ記事

  • [デュモリン] 普遍的な兄弟愛
  • デュモリン神父の『全き人間』より、普遍的な兄弟愛について。全人類がひとつである、という認識は、およそ人間が抱くことのできる自覚のなかでも、最高に価値あるものの一つに数えられるであろう。そしてそれはまた、金融、軍事、宗教など多くの領域で危機がグローバル化している現代世界においては、今後ますます欠くことのできない常識・良識・賢慮でもある。 ------------普遍的な兄弟愛哲学も宗教も普遍的な兄弟愛の基礎 [続きを読む]
  • [デュモリン] 友情とは何か(2)
  • 引き続き、デュモリン神父の『全き人間』から、友情とは何かについて。----------実生活における場それにもかかわらず、友情はあいかわらず真の人間的価値のひとつであって、むろんこれをないがしろにするわけにはゆかない。しかし、どのようにして友情に向かいあったらよいだろう。自分の生活のなかでどういう場を友情に与えるべきだろうか。一度このことについて熟考してみるのは、今日でも、いや今だからこそ必要なのではないだ [続きを読む]
  • [デュモリン] 友情とは何か(1)
  • デュモリン神父の『全き人間』より、友情とは何かについて。少年時代は大勢で共に遊び、青年時代は気心の知れた少数と共に語り、そして大人になるにつれて、人は独りで立つことを余儀なくされてゆく。身体的に共に過ごす時間は少なくなり、そのつながりも益々(ますます)精神的なものに変わってゆく。------------ 友情とは何か友情の賛歌は東洋西洋いずれの古典にも見られる。古代ギリシアではソクラテスとプラトンが、細や [続きを読む]
  • [デュモリン] 現代文学における連帯感
  • デュモリン神父の『全き人間』より、現代文学の連帯感について。現代といっても、ここで参照している新訂版文庫の、初版第一刷は1970年。国内では、三島由紀夫の市ヶ谷での割腹自殺(享年45歳)が、社会的に注目された年である。また遠藤周作の『沈黙』が世に出たのは1966年(当時、遠藤43歳)。その後間もなく、カトリック教会界隈で、賛否両論、様々な反響があったのは周知の通り。文学が、社会への影響力を持っていた時代であっ [続きを読む]
  • [デュモリン] 祈りかた
  • デュモリン神父著『全き人間』より、祈りかたについて。------------祈りかた祈りは人間のもっとも自由な行為であり、心の奥底からわきだして神のもとへ通うのである。したがって祈りにきまった形式などあるわけがなく、それが本当の祈りであればそれでよいのである。自分にあう祈りはたやすくみつけることができる。しかし、ときにはどのように祈ったらよいのかと迷うこともあろう。イエスの弟子たちはこどもの頃からシナゴグ(集 [続きを読む]
  • [デュモリン] 祈りの本質
  • デュモリン神父の『全き人間』より、祈りの本質について。------------祈りの本質祈ることは人間に欠くことのできない本質的なことがらであって、祈りなくしてはだれも全き人間となることができないほどである。というのは、祈りは創造主と被造物との関係をあらわす特別な人間的表現であり、宇宙をつかさどる神の永遠の愛にたいする人間の応答だからである。天と地、日と月と星、山や川や泉も、木々や野の花も、森の小鹿、林のかっ [続きを読む]
  • [デュモリン] 知性教育(2)
  • デュモリン神父の『全き人間』より知性教育について、前回の続き。----------真の知性教育まことの知性教育というものは、このような戯画をつくりあげるためのものではない。また学校で課される一定の分量をひと通り修得すれば、それでよいというものでもない。各人の知識はその種類や程度からいって、それぞれ大いに異なっていてよいのである。自然科学者、文学者、経済・法律学者などの知識の範囲が相当違っているのは当然であろ [続きを読む]
  • [デュモリン] 知性教育(1)
  • 引き続き、デュモリン神父の『全き人間』から、知性教育に関する部分を転載する。----------知識の戯画まことの教養人というよりは、知識の戯画(カリカチュア)とでも呼びたいようなひとびとが大勢いる。しかし、このようなひとびとからも、学ぶことがないわけではない。「専門家」ーーー人生のほんの一小部分にすぎない自分の専門だけに打ちこんで、他をかえりみようともしないひとびとがいる。自分の専門に全力を集中するという [続きを読む]
  • [デュモリン] 全き人間
  • ハインリッヒ・デュモリン神父(1905-1995)は、長く上智大学・東洋宗教研究所などで教便をとられたイエズス会士である。そのデュモリン神父の書かれた小冊子に「全(まった)き人間」というものがある。翻訳者は上智大学名誉教授・ドイツ文学者の戸川敬一氏。初版は1948年。戦後間もない時期に世に出された本である。後(のち)の新訂版にあたって、著者は次のように語っている。「この小冊子が戦後間もなく初めて世に出た時、戦 [続きを読む]
  • [教皇フランシスコ] 復活の聖なる徹夜祭
  • 2017年は、緊迫する国際政治情勢の中、復活祭(イースター)を迎える事となった。神の子の受難と、そして復活への信仰。世界に広がる教会共同体のひとりとして、ローマ法王(教皇)の言葉に一致してゆきたい。(以下、バチカンの復活徹夜祭における、教皇フランシスコの説教の転載になります。)「復活した主の鼓動を、皆に伝えに行こう」教皇、復活徹夜祭でカトリック教会の典礼暦は、4月16日(日)、「主の復活」の大祝日を迎え [続きを読む]
  • 聖堂日記
  • 2017年3月21日火曜日 雨仕事を終えた帰路、午後6時40分、道を撃つ雨音に包まれながら、教会の敷地へと足を向ける。辺りは暗く、ひと気もない広い敷地に、その聖堂は佇(たたず)んでいる。大きな尖塔が特徴的な聖堂は、薄暗い闇のなか、ぼんやりとライトアップされ、内部の照明はステンドグラスに暖かさを醸し出している。聖堂の扉は一段高いところにあり、短い階段を登り、傘を畳んで、幅のある扉をくぐる。予想通り、他の訪問者 [続きを読む]
  • 使徒の報告
  • マルコによる福音そのとき、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町から [続きを読む]
  • 証人の群れ
  • ヘブライ人への手紙皆さん、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果て [続きを読む]
  • 無学と無力
  • 使徒パウロのコリントの教会への手紙兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい [続きを読む]
  • 神の国
  • マルコによる福音そのとき、イエスは人々に言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのよう [続きを読む]
  • 気が変になっている
  • マルコによる福音そのとき、イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。-------食事をする暇もないほど忙しい、というのは、たとえば医者がそうであるように、尊厳を持って頼りにされ、人様のお役に立てる仕事をしている場合には、人生の充実と幸福を象徴する一場面 [続きを読む]
  • 来て、見なさい
  • ヨハネによる福音イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィ [続きを読む]
  • 生きることの切実さ
  • クリスマスも過ぎ、今年も残すところあとわずかとなった。 困難の多かった一年も静かに終わりつつある。 しかし同時に、さらなる困難が予感される新年の鼓動もまた、耳元に聞こえはじめる。 経済、健康、人間関係。 世俗の都市生活の喧騒(けんそう)に生きる者にとって、不条理な軋轢(あつれき)にさらされない日はない。 「社会」という、歴史の中で累積された巨大な現実的圧力の前に、微力な個人はなす術もない。 [続きを読む]
  • 誰もいない名前
  • ルカによる福音さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けた [続きを読む]
  • おめでとう
  • ルカによる福音そのとき、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない [続きを読む]
  • 休ませてあげよう
  • マタイによる福音そのとき、イエスは言われた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」------------疲れた者、重荷を負う者は、やがて自らの足で歩けなくなる。その疲れ、その重荷は、自分ではない誰か [続きを読む]
  • 迷い出た一匹
  • マタイによる福音そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」---------- [続きを読む]
  • あなたの罪は赦(ゆる)された
  • ルカによる福音ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上っ [続きを読む]
  • 全世界に行って
  • マルコによる福音そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に [続きを読む]
  • 誰にも知らせてはいけない
  • マタイによる福音そのとき、イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエ [続きを読む]