chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
日々是好舌 https://blog.goo.ne.jp/aoyanagi_1947

青柳新太郎のブログです。 人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!! 読者のコメント

日々是好舌
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2015/04/21

arrow_drop_down
  • 大瀬崎の神池に棲む鯰かな

    引手力命神社(ひきたぢからのみことじんじゃ)は、静岡県沼津市西浦江梨の大瀬崎(おせざき)にある神社。創建時期は不明であるが、一説には白鳳13年(684年)に発生した大地震に伴って海底が突然三百丈余も隆起して「琵琶島(びわじま)」と呼ばれる島が出現したため、同時期の地震で多くの土地が海没した土佐国から神が土地を引いてきたのだ、と考えた人々がここに引手力命を祀ったのが最初、とも言われる。「琵琶島」はやがて砂洲の形成により陸繋島となり大瀬崎となった。大瀬明神の神池は、静岡県沼津市西浦江梨、伊豆半島の北西端から北へ突き出した大瀬崎の先端にある、最長部の直径が凡そ100メートルほどの池である。伊豆七不思議の一つ。国の天然記念物である「ビャクシンの樹林」に囲まれてはいるものの、海から最も近いところでは距離が20メート...大瀬崎の神池に棲む鯰かな

  • 丁子屋の梅に紅白遅速なし

    丁子屋の梅に紅白遅速なし白兎ちやうじやのうめにこうはくちそくなし梅(うめ)は初春の季語。子季語に、好文木、花の兄、春告草、匂草、風待草、初名草、野梅、梅が香、梅暦、梅の宿、梅の里。梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。「花の兄」「春告草」とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。画像出典:Japaaan&静岡新聞。丁子屋の梅に紅白遅速なし

  • 寒がりの猫は布団に熟寝なす

    寒がりの猫は布団に熟寝なす白兎さむがりのねこはふとんにうまいなす布団(ふとん)は晩冬の季語。子季語に、布団、掛蒲団、敷蒲団、藁蒲団、羽蒲団、絹蒲団、蒲団干す、干蒲団、片蒲団。寒さを防ぐための寝具。蒲団のはじめは蒲「がま」の葉を組んだ円座であったという。蒲団には、綿や藁、パンヤ、羽毛などを入れる。干した蒲団はとりわけあたたかく眠りにつきやすい。画像出典:ねとらぼ生物部。寒がりの猫は布団に熟寝なす

  • 鼻水と聞かば串童の鼻之助 白兎

    鼻水と聞かば串童の鼻之助白兎はなみづときかばかげまのはなのすけ水洟(みづばな)は三冬の季語。子季語に、鼻水、みずつぱな。冬の寒い時、風邪を引いていなくても、鼻の粘膜が刺激されて水のような鼻汁が出る。これが水洟である。静岡市出身の有名人に十遍舎一九がいる。その戯作「東海道中膝栗毛」の発端に次のようにある。(現代語訳)「武蔵野の尾花がすえにかかる白雲」武蔵野の広大なススキの原野が歌に詠まれたのも、昔むかし、まだ定家や西行が浦の苫屋や鴫立つ沢の夕暮れを愛でていたころのこと。今や夕景色は、吉原仲の町の雑踏にかわり、井の中に鮎が泳ぐ水道が町中を流れ、土蔵の白壁立ち続く大江戸の賑わいっぷり。所せましと家々が立ち並び、漬けもの桶や明俵、破れ傘の置き所からも地主が金をふんだくれば、そりゃ他国から見たら大道に金銀でもまき散...鼻水と聞かば串童の鼻之助白兎

  • 椎茸の記録に伊豆国多し

    椎茸の記録に伊豆国多し白兎しひたけのきろくにいづのくにまねし椎茸(しひたけ)は三秋の季語。子季語に、椎茸干す、茸干す、干茸。椎茸(しいたけ)は、ハラタケ目-キシメジ科に分類されるキノコである。異説ではヒラタケ科・ホウライタケ科・ツキヨタケ科ともされる。和名のシイタケは、特にシイ(椎)の倒木などに発生したことから、この名が付けられている。中国では紀元前5000~4500年の浙江省の遺跡にきのこが出土している。唐時代の詩文にあり、五代時代には菌(きのこ)の記載があり、南宋時代は香椎と栽培法が記載されている。日本渡来は9世紀と考えられる。椎茸は天然の茸であるから、さぞかし昔から食べられていたことが推測されるが、文献に登場するのは意外に新しい。当時、日本で栽培されていた椎茸の多くは中国に輸出されており、最も古いの...椎茸の記録に伊豆国多し

  • 海豚狩り安良里に残る供養之碑

    海豚狩り安良里に残る供養之碑白兎いるかがりあらりにのこるくやうのひ海豚(いるか)は三冬の季語。子季語に、海豚狩、真海豚、ごんどう鯨。クジラ類のうち、歯がある歯鯨類に属し、体長は大体五メートル以下。多くは背びれを持つ。知能が高く芸を仕込むこともできる。安良里出身の小学校の恩師から安良里漁港の海豚狩りの話は何度か聞いた。画像出典:おでかけたいむす。海豚狩り安良里に残る供養之碑

  • 卵茸無毒と識るも口にせず

    卵茸無毒と識るも口にせず白兎たまごだけむどくとしるもくちにせず茸(きのこ)は晩秋の季語。卵茸は、ハラタケ目テングタケ科テングタケ属のテングタケ亜属タマゴタケ節に分類されるキノコの一種。夏から秋にかけて、広葉樹(ブナ科・カバノキ科)および針葉樹(マツ科)の林内、あるいはこれらの混交林に孤生ないし点々と群生する。鮮美な色調を有することから、日本では有毒キノコのように誤解されがちだが、実は無毒であり優秀な食用キノコとして人気がある。キノコ自体壊れやすいため、一般にはほとんど流通していない。茹でると煮汁に黄色い色素が出るため、色を楽しむには茹でずに焼いた方がいい。味は強いうま味があり、フライや炊き込みご飯、オムレツなどによく合う。殻を破る前の幼菌は生食されることもある。現在、信州大学で栽培に向けた研究が進められて...卵茸無毒と識るも口にせず

  • 神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ

    神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ白兎じんぐうにかんなめさいのみきささぐ神嘗祭(かんなめまつり)は晩秋の季語。子季語に、度会新嘗祭、かんなめさい、しんじやうさい。十月十七日、新穀で造った新酒と神饌とを、伊勢神宮に奉納し、五穀豊穣を感謝する祭礼。新嘗祭とともに、大切な国民の祭日であったが、戦後、現行憲法により廃止された。皇室では賢所で祭儀が、伊勢神宮でも祭礼がとり行われている。画像出典:伊勢志摩経済新聞。神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ

  • 小流れに数多は要らぬ網代打

    小流れに数多は要らぬ網代打白兎こながれにあまたはいらぬあじろうち網代打(あじろうち)は晩秋の季語。子季語に、網代木打つ。川や湖に杭などを打って、網代を作ること。網代は網の代わりに柴、竹などを編んで端に簀を設け、魚を捕る仕掛けである。画像出典:コトバンク。小流れに数多は要らぬ網代打

  • 吹き鳴らす唇乾く瓢の笛

    吹き鳴らす唇乾く瓢の笛白兎ふきならすくちびるかわくひよんのふゑ瓢の実(ひょんのみ)は晩秋の季語。子季語に、ひよん、蚊母樹の実、蚊母樹、蚊子木、瓢の笛。実といわれているが果実ではなく、マンサク科のイスノキの葉に生じる虫瘤をいう。大きさは鶉の卵くらいになる。イスノキの材は本州や四国に自生する木の中ではウバメガシと並んで非常に堅く重い部類となる。家具、杖の素材にされ、とくにイスノキ材の木刀は、薩摩示現流系統の剣術で使用されているのは有名。材や樹皮を燃やした灰(柞灰(いすばい))は陶磁器の釉の融剤とする。また、樹皮はトリモチの原料ともなる。樹皮を採取した後のイスノキを長く放置すると辺材が失われて心材のみとなるが、この心材をスヌケと呼ぶ。スヌケは濃い茶色で、磨くと光沢をもつ。樹木そのものは乾燥に強く丈夫なので街路樹...吹き鳴らす唇乾く瓢の笛

  • 晩年は流刑に処さる世阿彌の忌

    晩年は流刑に処さる世阿彌の忌白兎ばんねんはるけいにしよさるぜあみのき世阿弥忌(ぜあみき)は仲秋の季語。世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛)嘉吉3年8月8日は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。足利義満の庇護のもと、父、観阿弥の猿楽を幽玄美の芸術に高め、能楽を大成した。「老松」「高砂」「実盛」などの多くの能を作り、「風姿花伝」「花鏡」などの著作がある。静岡浅間神社(静岡市葵区)の楼門の傍らに「観阿弥の碑」が建てられている。世阿弥の記した『風姿花伝第一年来稽古条々』に「亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕る。その日の申楽こと...晩年は流刑に処さる世阿彌の忌

  • 義理に哭く婦系図や鏡花の忌

    義理に哭く婦系図や鏡花の忌白兎ぎりになくをんなけいずやきやうくわのき鏡花忌(きやうくわき)は初秋の季語。小説家、泉鏡花の忌日。九月七日。金沢に生まれる。尾崎紅葉に師事した。明治から昭和にかけて独自性のあるロマン主義文学の境地を開いた。代表作として『夜行巡査』、『高野聖』、『歌行灯』『婦系図』などがある。昭和十四年(一九三九)六十五歳で没した。『婦系図』の主人公の早瀬主税(ちから)は陸軍参謀本部のドイツ語翻訳官。が、前歴は「隼(はやぶさ)の力(りき)」を名乗るスリだった。芸妓(げいぎ)だった恋人との仲を引き裂かれた彼は失意の中で故郷の静岡に戻り、ドイツ語塾を営みながら、出自や血筋にこだわる上流の者たちへの復讐を誓うのだ。ラスト、静岡の名門一族当主との対決シーンは市内の名所・久能山。しかもそれは日蝕の日であっ...義理に哭く婦系図や鏡花の忌

  • 桐一葉且元眠る誓願寺

    桐一葉且元眠る誓願寺白兎きりひとはかつもとねむるせいがんじ桐一葉(きりひとは)は初秋の季語。子季語に、ひとは、一葉、一葉落つ、桐の葉落つ、桐散る、一葉の秋、桐の秋。秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の梧桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。『桐一葉』(きりひとは)は、坪内逍遥作の歌舞伎の演目。関ヶ原の戦い後の大坂が舞台で、豊臣家の忠臣片桐且元の苦渋を描く。片桐且元の墓は静岡市の大鑪山誓願寺にある。中国には『淮南子』や『文禄』に、「梧桐一葉落天下盡知秋」すなわち「梧桐の一葉が落ちて天下の秋を知らせる」という諺があり、「桐一葉」はその諺を俳句(俳諧)の季語として使うために縮めたものと考えられる。画像出典:誓願寺。桐一葉且元眠る誓願寺

  • 正史にはみえぬ金山梅ヶ島

    大正2年(西暦1913年)に編集された『安倍郡梅ヶ島村誌』より、梅ヶ島の金山の起源についての記述があるので、以下に原文を読みやすくしてご紹介する。「本村字関之沢なる旧家秋山英一郎氏方所蔵明和二年(西暦1765年)七月(大正元年より百四十八年前)時の郡代小田切新五郎様御役所宛として仝(同)家の祖名主儀兵衛外百姓代二名組頭等の連署を以て差出したる「梅ヶ島村御金山申伝之覚」(写しならん)なるものあり。其前文に左の如き一節あり、駿州安倍郡梅ヶ島村御金山の儀者仁皇十七代豫に仁徳天皇の時黄金献候由申伝使右の後延喜二年(西暦902年)黄金出申候由申伝候又候中絶仕候各享禄年中(西暦1528年から1531年)御山繁昌仕此節を元栄と申伝候云々」(以上『安倍郡梅ヶ島村誌』大正2年)。第16代天皇とされる仁徳天皇の時に梅ヶ島から...正史にはみえぬ金山梅ヶ島

  • ねじ式忌 その人徳を 偲びけり

    現代俳句協会の千葉県協会長であり本部IT部長を務めていた大畑等氏は2016年1月10日に急逝されました。前年の12月半ばに倒れ、入院したものの、回復が叶わず、1月10日午後亡くなった。65歳という若さだった。大畑等(おおはた・ひとし)1950年、和歌山県新宮市生れ。早稲田大学理工学部建築科、同大大学院理工学研究科卒業。千葉県船橋市。一級建築士事務所・大畑建築設計事務所代表取締役。千葉県在住。建築士。昭和63年「麦」の東京研究会にて田沼文雄の指導を受ける。「遊牧」同人、「西北の森」会員。「麦新人賞」「麦作家賞」「現代俳句評論賞」受賞。私家版句集「むぎ懲役」、共著「おおいとⅡ」、『ねじ式』。など、現代俳句の期待の作家であった。(主要作品)うしろから突き落とされて滝であるおにはにはにはにはとりがゐるはるはくびれ...ねじ式忌その人徳を偲びけり

  • 白兎の句 ついに英訳 されました

    群馬在住の俳人・国比呂さんという方の「上州俳句茶屋」というサイトに「上州諷詠」というページがあって、上州(群馬)の風物を詠い込んだ俳句を紹介している。<迦葉山>夏木立迦葉天狗と遊びけり白兎<上州>上州の風ひりひりと野良の梅たかし<上州>上州に入るいきなりの春みぞれ久栄<上州>上州を訪へば茶受けの夏蕨珪子<空っ風>上州の空っ風さへなく晴れて汀子<前橋市>前橋は母の故郷霜夜明け立子<榛名山>種蒔や萬古ゆるがず榛名山鬼城<榛名山>竹秋や布団干し居る榛名駕元<赤城榛名>麥浪や赤城榛名も程近く春夫<榛名山>雲少し榛名を出でぬ秋の空漱石<高崎観音>ほほえみは碧空にあり初観音康弘<浅間山>浅間から分かれて来るや小夕立一茶<赤城山>赤城から男体にかけ大根干す等<前橋市>前橋の初市風に明けにけり蓼穂<妙義山>福だるま妙義は...白兎の句ついに英訳されました

  • 若竹を叩いて晒すおかんじゃけ

    オカンジャケは、静岡市葵区羽鳥の曹洞宗の名刹久住山洞慶院の祭日(7月19日~20日)に境内参道で売られる竹製の玩具。若竹の先の部分を叩いて麻糸の様につぶし、彩色したもので「おかん」は髪の毛「じゃけ」は竹の転訛といわれ‟お髪竹”の訛とも考えられている。オカンジャケはその年の新竹(真竹)を用いた極めて素朴な作り物で、その二節を伐りとって、一節は手持ち用、あとの一節は、叩いて裂いて繊維状にする。洞慶院のオカンジャケは、この繊維状の房を鮮やかな三色(赤、黄、紫)に染めた縁起物であるが、もとは子供達が河原に出てこれを作り、男の子は采配に、女の子はその房を髪に見立てた人形遊びをする、いわば郷土玩具の一つであった。今からおよそ560年前の宝徳2年(1450年)、「怒仲天誾禅師」の教えを受け継いだ弟子の「石叟円柱大和尚」...若竹を叩いて晒すおかんじゃけ

  • ご依頼に応じて記事を削除した

    最近、10年ほど前に『日々是好舌』書いた記事の削除依頼があったので直ちに削除した。それにしもよく見つけたものだと感心した。ご依頼に応じて記事を削除した

  • 湧水の雷井戸は霊水ぞ

    静岡県三島市南本町の民家の脇で大切に管理されている井戸が「雷井戸」。井戸保存のために、市民の有志が土地を買い上げて保存活動を続けている。三島は昭和30年代中頃までは、街のあちらこちらで湧水が見られたが、雷井戸もその一つ。水量は減ったものの、現在でも一年を通してこんこんと水が湧き出ている。この井戸はかつて田町水道と呼ばれる地域住民の飲料水を供給する簡易水道の水源であった。雷井戸は、源兵衛川や水の苑緑地の近くにある。住宅街を抜けた先の少し分かりにくい場所であるが、道の分岐点には案内板が設置されている。この付近には「南本町湧水群」と言われる数多くの湧水があり、その一つの水源として雷井戸は地域住民の生活を支えていた。三島梅花藻は、1930年(昭和5年)に三島の楽寿園で発見された水草で、水の量・温度・質のどれもが良...湧水の雷井戸は霊水ぞ

  • 鬼岩寺に祀る黒犬物語り

    【山号寺号】楞厳山鬼岩寺(りょうごんざんきがんじ)【所在地】藤枝市藤枝3-16-14【宗派】高野山真言宗【本尊】聖観世音菩薩行基菩薩作【由緒縁起】神亀3年(726年)に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。その他、境内からは南北朝から戦国時代までの中世の石塔が多数見つかっており、貴重な歴史資料として市の有形文化財に指定されています。古代、東海道が直角に曲がる角に位置する鬼岩寺が、旅人の布施屋(宿泊施設)と、街道の魔魅降伏の機能を併せ持ち、その後、一時...鬼岩寺に祀る黒犬物語り

  • 有東木は水のふるさと山葵咲く

    有東木は水のふるさと山葵咲く白兎うとうぎはみずのふるさとわさびさく山葵の花(わさびのはな)は初夏の季語。子季語に、花山葵。山葵は、日本原産で北海道から九州まで渓流のほとりに自生する。栽培されることも多い。五月ごろ、小さい白い十字の花を、短い房状ににつける。根茎は和食に欠かせない香辛料「わさび」。花穂も食用になる。有東木は「うとうぎ」と読む。静岡市葵区有東木である。旧安倍郡大河内村に属し、静岡市街から安倍川沿いに三〇キロメートルほど北上した山間高地に位置する。十枚山、仏谷山、青笹山と続く安倍山系の中腹に開けた戸数八〇戸ばかりの集落であるが、寺や神社もあれば、商店や農協の出張所もあり、路線バスの運行もあるので、所謂、山間僻地の感覚はない。「静岡のチベット」などともいうが、これは伝統芸能や昔からの習俗をよく伝え...有東木は水のふるさと山葵咲く

  • 阿里山の甘蕉に黒き斑が著し

    阿里山の甘蕉に黒き斑が著し白兎ありさんのばななにくろきふがしるしバナナ(ばなな)は、三夏の季語。子季語に、実芭蕉。世代によって異なる評価がバナナには与えられる。かつては夢の高級フルーツであった。バナナが日本へやってきた1903年(明治36年)、台湾の基隆(キールン)港から神戸港に向けて、7籠(約70kg)が積み込まれたという。輸送中に蒸れた「籠熟れバナナ」や、一部不良品などは早く換金する必要から、露天商の口上で売りさばかれ、「バナナの叩き売り」が始まった。JR門司港駅前(旧門司三井倶楽部側)に「バナナの叩き売り発祥の地」という記念碑が建つ。門司港バナナの叩き売り連合会によってこれが継承され、「門司港バナナ塾」が毎年開講される。啖呵売口上の一例を書いて置く。「さぁ、さぁ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。門...阿里山の甘蕉に黒き斑が著し

  • 蟹漬けに合ふ甜酒を見繕ふ

    蟹漬けに合ふ甜酒を見繕ふ白兎がんづけにあふたむざけをみつくらふ蟹胥(かにびしこ)は三夏の季語。子季語に、蟹醤、蟹漬。蟹の塩辛のこと。蟹の肉や味噌に塩と唐辛子を混ぜ熟成させる。酒肴などに珍重される。『がん漬け』は干満差の大きい干潟として知られる有明海沿岸地域で昔から食べられている郷土料理。干潟に棲む小型のカニをよく洗った後で丸ごとすりつぶし、塩や唐辛子などと混ぜ合わせてねかせる塩辛の一種だ。『がに漬け』、『がね漬け』などと呼ばれることもある。『万葉集』の第16巻3886番に『がん漬け』の作り方を詠んだ愉快な歌がある。『万葉集』の原文は全て万葉仮名であるから訓読みを書いて置く。おしてるや難波の小江に廬作り隠りて居る葦蟹を大君召すと何せむに我を召すらめや明けく我が知ることを歌人と我を召すらめや笛吹きと我を召すら...蟹漬けに合ふ甜酒を見繕ふ

  • 横沢の大嶽鉱山マンガン鉄

    満州事変は、1931年(昭和6)9月18日、奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まった。丁度そのころと思われるが、静岡県静岡市葵区横沢にあった含マンガン鉄鉱の大嶽鉱山は、日本鋼管株式会社が開発に着手し、その後、静岡市の小原藤太郎が坑内の探鉱に主力を注ぎ、さらに中外鉱業株式会社に譲渡した。戦時中は数百名の人力と機械力とによって1番坑地並以上、4番坑地並に至る間を露天掘りと坑内掘りを併用して大々的に稼行し、昭和10年度には年間3万トン以上を出鉱した。また昭和19年頃から1番坑地並以下を探鉱するため、本坑・中切坑・嶽ノ腰坑等の鋸入坑道を開鑿した。本坑では坑口より約120m附近で着鉱し、『南北方向と東西方向に鑓押し、約10m切上り等で鉱体の規模・形態・品位等を探索した程度で採鉱はほとんど行われていない。中...横沢の大嶽鉱山マンガン鉄

  • 素魚と書く俳人のなかりけり

    素魚と書く俳人のなかりけり白兎しろうおとかくはいじんのなかりけり白魚(しらうお)は、シラウオ科の体長10㎝程の半透明な白色で、死ぬと白くなる。霞ケ浦の春の風物詩「帆びき網漁」が有名であるが、現在では動力船のトロール網で獲っている。春の季語であり、傍題として、白魚網、白魚舟、白魚汲む、白魚火などがある。一方、素魚(しろうお)は、ハゼ科の体長5㎝程のほぼ透明な魚で、脊椎などが透けて見えるが、死ぬと白く濁って見えなくなる。漁法は四手網などを使う漁が春の風物詩として有名で、他には地引網や簗によるものもある。九州地方で有名な「踊り食い」の対象となるのは、この「素魚(しろうお)」である。この「素魚」を春の季語として所収している歳時記は確認できていないが、著名な俳人もこの二つを混同している例が多い。活白魚とて口中をまだ...素魚と書く俳人のなかりけり

  • 教会を焼失させた罰当たり

    日本カトリック谷津巡回教会(にほんカトリックやつじゅんかいきょうかい)は、日本の教会堂建築。所在地は静岡県静岡市葵区谷津389。画像出典:静岡県都市住宅部建築。。1902年(明治35年)に創建された。1917年(大正6年)、フランス人のドエラ神父が教会堂を設計した開堂。1997年(平成9年)6月12日に国の登録有形文化財に登録されたが、2012年(平成24年)5月24日未明に放火による火災で焼失し、同年12月13日登録を抹消された。国の登録有形文化財「日本カトリック教会谷津巡回教会」に放火して全焼させるなどしたとして、静岡県警静岡中央署は18日、県中部の14歳未満の少年を現住建造物等放火と非現住建造物等放火の非行事実で児童相談所に送致した。同署は2~8月に起きた6件の放火事件も少年が起こしたとみている。発...教会を焼失させた罰当たり

  • 10キロに満たぬ鐡道消滅す

    (画像出典・北部生涯)安倍鐵道株式会社本社所在地・静岡市井ノ宮町代表取締役狩野角太郎安倍鐵道(あべてつどう)は、かつて静岡県静岡市に存在した軽便鉄道路線およびその運営会社である。明治時代末、安倍川沿いで産出される木材を運搬するための鉄道を建設する計画が安倍川周辺の住民の間で生まれ、1916年(大正5年)4月15日、井ノ宮~牛妻間9.6kmが開通した。本来の目的である貨物輸送や地元住民の足として親しまれ、一時期は改軌や梅ヶ島温泉への延長、藁科への支線の構想があり、1923年(大正12年)には静岡駅までの延長も計画されたが、自動車の普及によって経営が悪化。安倍鉄道も1926年(大正15年)より井ノ宮~静岡駅間、牛妻-俵沢間の乗合自動車業を開始したが、結局鉄道を延伸することのないまま1933年(昭和8年)10月...10キロに満たぬ鐡道消滅す

  • 新岡崎 駅に鉄路の 影もなし

    中遠鉄道・新岡崎駅の記念碑です。中遠鉄道は鉄道線路工事認可を大正元年9月16日申請。用地買収でトラブルが連発したが大正2年4月7日、ようやく袋井新~新横須賀間6マイル21チェーン(約10.1km)の敷設工事が開始された。平坦な地域だったため工事は順調に進み、約8ヵ月後の同年12月25日に竣工した。そして大正3年1月10日に営業開始許可が下り、翌11日に開通式が行われた。長い紛争で建設が遅れた中遠鉄道は、こうして大正3年1月12日より運輸営業を開始した。開業区間は、袋井新(東海道本線袋井駅とやや離れた地点)・柳原・諸井・芝・浅名・新岡崎・新三輪・七軒町・新横須賀だった。この区間には後の大正4年5月11日に五十岡・石津が、さらに昭和5年12月24日には新川西貨物駅が開業した。以下省略。ラッキョウ軽便と呼ばれて...新岡崎駅に鉄路の影もなし

  • 伝統の孕みの舞やひよんどり 白兎

    伝統の孕みの舞やひよんどり白兎でんとうのはらみのまひやひよんどり‟ひよんどり”は新年の季語。子季語に、鵯踊。静岡県西部から愛知県東部にかけて行われる五穀豊穣を願う踊り。毎年1月4日、浜松市北区引佐町川名の福満寺薬師堂(通称・八日堂)で『川名ひよんどり』が行なわれる。「火踊り」が訛って「ひよんどり」となったもので五穀豊穣、子孫繁栄を祈願して「火を迎える行事」である。「遠江のひよんどりとおくない」として国の重要無形民俗文化財に指定。‟ひよんどり”が行われる福満寺薬師堂は、最初の建立は奈良時代末期から平安時代初頭と推定され、何度か消失したが1856(安政3)年建立された堂が平成21年まで残っていた。本尊である薬師如来は行基作と伝えられていたが焼失。その後1426年に井伊家一門の直貞が願主となって、新しく像を刻ん...伝統の孕みの舞やひよんどり白兎

  • 冬かもめ風待船を呼ぶごとし

    冬かもめ風待船を呼ぶごとし白兎ふゆかもめかざまちぶねをよぶごとし冬鴎(ふゆかもめ)は三冬の季語。チドリ目カモメ亜科の鳥の総称。鴎、海猫、百合鴎などの種類があり秋渡来する冬鳥である。鴎はみな冬鳥であるからわざわざ冬鴎ということもないのだが、従来無季とされていたので冬鴎とされた。上掲の句は平成19年2月下田港での吟。日本伝統俳句協会のネット句会で坊城俊樹先生の選を頂きました。画像出典:千鳥観光汽船。冬かもめ風待船を呼ぶごとし

  • 工事場の火種養ふ火吹竹

    工事場の火種養ふ火吹竹白兎こうじばのひだねやしなふひふきだけ火吹竹(ひふきだけ)は三冬の季語。火を熾すときに使用する竹筒のこと。一端に節を残して小さな穴を開け、反対側から息を吹き込むと息が強く吹き出るように作られている。写真の淡竹の火吹竹は私が工事現場で拵えたもので、今でも愛蔵している。工事場の火種養ふ火吹竹

  • 茶の花や照葉樹林文化咲く 白兎

    茶の花や照葉樹林文化咲く白兎ちやのはなやせいえふじゆりんぶんかさく茶の花は初冬の季語。山口県宇部市沖ノ山の古第三紀時代始新世後期(3500万年~4500万年前)の地層からチャの葉の化石が発見され、「ウベチャノキ」と命名された。このようなことから、日本種を固有種として位置づける説もあり「日本茶自生論」が提唱されている。縄文時代晩期の埼玉県岩槻市の真福寺泥炭層遺跡や縄文弥生混合期の徳島県徳島市の徳島浄水池遺跡からチャの実の化石が発見された。九州や四国に、在来(一説には、史前帰化植物)の山茶(ヤマチャ)が自生しているという報告がある。栄西禅師が著した日本最初の茶の専門書『喫茶養生記』の冒頭には「茶は養生の仙薬、延齢の妙術なり」とあるように、茶が健康と長寿のもとであると説いている。チャノキは中国南部に自生する灌木...茶の花や照葉樹林文化咲く白兎

  • 香りなき脂粉を化粧ふ白粉婆

    香りなき脂粉を化粧ふ白粉婆白兎かをりなきしふんをけはふしろこばば綿虫(わたむし)は初冬の季語。子季語に、大綿、雪蛍、雪婆、白粉婆、雪虫。晩秋から初冬にかけて、空中を青白く光りながら浮遊する。物に当たると付着する。初雪の頃出現することから、雪虫とよぶ地方もある。明治以降注目されて、詠まれるようになった。雪虫(ゆきむし)とは、アブラムシ(カメムシ目ヨコバイ亜目アブラムシ上科)のうち、白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称。体長5mm前後の全身が、綿で包まれたようになる。この虫の呼び名としては、他に綿虫、雪蛍、東京地域のオオワタやシーラッコ、シロコババ、京都地域のゆきんこ、おこまさん、伊勢地域のオナツコジョロ、水戸地域のオユキコジョロがある他、シロバンバといった俗称もある。井上靖の小説『しろばんば』のタイトル...香りなき脂粉を化粧ふ白粉婆

  • 禁欲の止庚申の夜は明けぬ 白兎

    禁欲の止庚申の夜は明けぬ白兎きんよくのとめこうしんのよはあけぬ納の庚申(をさめのかうしん)は初冬・仲冬の季語。子季語に、果の庚申、止庚申。その年最後の庚申の縁日。庚申(かのえさる)は六十日目にめぐってくるので、十一月のこともあれば十二月のこともある。2022年は11月3日でした。各地の帝釈天や庚申堂に多くの人がお参りし、一年の息災を感謝する。東京・葛飾区柴又の帝釈天参りが有名で、前夜は「宵庚申」と呼ばれ、参道に市が立ち賑わう。庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。庚申講(...禁欲の止庚申の夜は明けぬ白兎

  • 墓どころ茶畝が囲ふ聖一忌 白兎

    墓どころ茶畝が囲ふ聖一忌白兎はかどころちゃうねがかこふしょういちき東福寺開山忌(とうふくじかいざんき)は初冬の季語。子季語に、聖一忌、聖一国師忌、弁当納。十一月十六日、京都市東山区東福寺の開山聖一国師の忌日。駿河国安倍郡栃沢の人。東大寺で受戒。入宗し帰国。弘安三年七十九歳で入寂。当日、国師の木像を安置し、法要を行う。洗玉澗にかかる通天橋は、紅葉の見頃で、参詣人は多い。墓所は静岡市葵区蕨野の医王山回春院にある。墓どころ茶畝が囲ふ聖一忌白兎

  • 静岡の浅間神社に七不思議

    神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)という。神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となる。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社である。浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受ける。大歳御祖神社は応神天皇4年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、静岡市の地主神である。三社とも朝廷をはじめ国司・武将等...静岡の浅間神社に七不思議

  • 珙桐の花は悲恋の果てに咲く

    珙桐の花は悲恋の果てに咲く白兎はんかちのはなはひれんのはてにさくハンカチの花(はんかちのはな)は初夏の季語。ハンカチノキ科の落葉高木。中国の固有種で、珙桐(コントン)とよぶ。一属一種。葉は広卵形で、互生する。5~6月に2枚の大きな白い苞をもつ球形の頭状花をつける。中国の四川省・雲南省付近原産。属名のダビディアで呼ばれることも多い。花についた白い大きな2枚の苞葉が垂れ下がりよく目立つため、日本では「ハンカチの木」や「幽霊の木」「鳩の木」などと呼ばれる。昔、皇帝の一人娘は農村の青年珙桐と恋仲になった。しかし、青年は、このことを知った皇帝に殺され、樹になる。そして、樹に取りすがって泣いた姫の魂が花になったという、伝説がある。中国名の“コントン”は、その青年の名前だ。珙桐の花は悲恋の果てに咲く

  • 粥占の穀霊波に乗りて寄す

    粥占の穀霊波に乗りて寄す白兎かゆうらのこくれいなみにのりてよす粥占(かゆうら)は新年の季語。子季語に、粥試、粥占祭、粥占神祭、管粥、筒粥。御穂神社の筒粥祭(つつかゆさい)は、2月14日夜から15日にかけて行われる豊作祈願の祭。祭事としては、まず拝殿前に大釜を据えて粥を煮る準備をする。夜半に神迎えのための行列が厳かに松林の道(神の道)を進んで、暗闇の海岸に出、波打ち際に設けられた祭壇に祝詞(のりと)、玉串を奉じて波の彼方から寄り来る神を迎える。そして、海水で浄められた洗米(せんまい)を神社に持ちかえり、境内斎庭(けいだいゆには)に設けられた湯釜で炊く。しばらくして紐でくくり束ねられた小さな竹筒100本余りを竿竹に吊るし、これを釜の中へ。引き上げた竹筒の中にどのくらい入っているのかが占いのポイントになる。御穂神社(...粥占の穀霊波に乗りて寄す

  • ロゼーテの シマサルナシに 絆される

    私が敬愛する友人の一人にロゼーテさんがいる。彼女の著作や私の俳句がきっかけのご縁だがもう10年以上も心温まる交流が続いている。遠方にお住まいの方なので電話やメールでのやり取りは頻繁にしているがいまだ直接にお会いしたことはない。最近、居住地付近に生育するシマサルナシを送ってくださったので簡単ではあるがここに紹介しておく。シマサルナシ(島猿梨)は、琉球列島から九州、四国、紀伊半島南部の沿岸部に分布する亜熱帯性のマタタビ科のつる性植物。キウイの仲間で、果実は栄養価が高く、収穫後に追熟すると糖度は一五度に達する。樹上では実が固いままのため、獣害の恐れが少ない。樹皮は暗褐色で、茎が他物に巻きついて生育する。葉は厚い紙質でやや硬く、表面は光沢がある。葉は先端の尖った心形~卵形で、鋸歯がまばらにあり、互生する。5月頃、葉腋か...ロゼーテのシマサルナシに絆される

  • 御田打や福の種播く福太郎 白兎

    御田打や福の種播く福太郎白兎おたうちやふくのたねまくふくたろう三島御田打祭は新年の季語。子季語に、御田打(おたうち)、御田祭(おんたまつり)、三島祭。正月七日に静岡県・三島大社で行われる豊年を予祝する田遊びの神事。農耕の過程を演じて豊作を祈念した。昔は参詣する人々もさまざまな服装に仮面をつけた仮装で市中を踊り歩き、たいへんな賑わいをみせたという。静岡県無形民俗文化財に指定されている「お田打ち神事」の起源は古く、平安時代ともされ、鎌倉時代になると盛んに行われたと考えられています。その後、室町時代には狂言形式の芸能として調えられたと考えられます。白いお面を付けた舅の穂長(ほなが)がその年の恵方から登場し、黒いお面を付けた婿の福太郎とともに、苗代所の選定から種まき、鳥追いまでの稲作行事を狂言風に演じます。当日は、神事...御田打や福の種播く福太郎白兎

  • 秣場も住めば都ぞ桜鍋 白兎

    秣場も住めば都ぞ桜鍋白兎まぐさばもすめばみやこぞさくらなべ桜鍋(さくらなべ)は三冬の季語。子季語に、馬肉鋤、馬肉鍋、けとばし。馬肉の鍋料理。味噌仕立てで、葱、牛蒡、蒟蒻などを添えて煮ながら食す。身体が温まる鍋料理の一つ。「咲いた桜になぜ駒つなぐ駒が勇めば花が散る」という坂本龍馬の端唄から桜は馬の隠語となっている。けとばしは馬肉の愛称。私が居住している静岡市葵区桜町は、もともと府中宿伝馬町の伝馬の飼葉を刈る草地で伝馬町新田と呼ばれていた。地名が正式に桜町になったのは平成元年である。秣場も住めば都ぞ桜鍋白兎

  • 正月に 餅を搗かない 村もある

    松野城跡所在静岡県静岡市葵区松野別所平歴史『駿河記』に松野城の記述として「城山、別所の辺なり」とあり、城主として別所・ほつ川・川島の三氏の名を挙げているが、三氏の動向は不明である。また、この松野城は安倍城の支城として機能していたとされるが、これもまた不明である。写真の■川氏之碑の読めない字は「渤川・ぼっかわ」と読むそうです。静岡市葵区松野の「別所平」という丘陵上には、古来、「松野城」という城郭が伝承されていた。『駿河記』に、「城山別所の辺なり。里人云、むかし別所殿、川島殿、ボッカア殿とて三人の武士居城の地なり。ぼっかおとは里人の訛言にて誤りあるべし。武人の伝絶えて事蹟時代末詳」とある。さらに、『駿国雑志』・『安倍郡美和村誌』等に「武田家領国の時、滅亡するものか、詳ならず」とあることは、どうも永禄12年(1569...正月に餅を搗かない村もある

  • 橡の実や円爾の郷に龍珠院

    橡の実や円爾の郷に龍珠院白兎とちのみやゑんにのさとにりゆうしゆいん橡の実(とちのみ)は晩秋の季語。子季語に、栃の実。栃の木の実。丸く厚い三裂する殻の中に栗に似た種がある。縄文時代から食用にしてきた。丹念にあく抜きする必要がある。今も栃餅や栃の実煎餅などにして食す。静岡市葵区栃沢は聖一国師円爾の生誕地。安倍川水系には、栃の平(大間)、栃木(長熊)、栃原(奥仙俣)、トチ平(黒俣)、栃沢(大川)、トチン沢(大原)など栃に関る地名が多い。画像出典:「自然風の自然風だより」橡の実や円爾の郷に龍珠院

  • 桐一葉落ちて豊家は滅亡す

    桐一葉落ちて豊家は滅亡す白兎きりひとはおちてほうけはめつばうす桐一葉は初秋の季語。子季語に、ひとは、一葉、一葉落つ、桐の葉落つ、桐散る、一葉の秋、桐の秋。秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の悟桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は、「淮南子・説山訓」に「一葉の落つるを見て、歳のまさに暮れなんとするを知る」を出典とするが、この句は、豊臣政権の五奉行の一人だった片桐且元が、淀君の不興を買い、解任された時、詠んだ句と言われている。桐とは豊臣家の紋所を指す。“桐一葉落ちて天下の秋を知る”自らの人生を桐の紋所にかけた片桐且元の絶望の深さが伝わってくる句である。臨済宗妙心寺派の大鑪山誓願寺は、源頼朝公が両親の菩提を弔うために建立した寺...桐一葉落ちて豊家は滅亡す

  • トンネルと呼ぶに些か疑問あり

    地名駅(じなえき)は、静岡県榛原郡川根本町地名にある、大井川鐵道大井川本線の駅である。島式ホーム1面2線をもつ、列車同士のすれ違いが可能な地上駅である。駅自体は無人だが、駅向かいのタバコ屋で乗車券を販売している簡易委託駅となっている。2007年度の1日平均乗車人員は27人(静岡県統計年鑑による)。駅北側(千頭駅側)には全長約7mの非常に短いトンネル(状の構造物、シュラウド)がある。川根電力索道用保安隧道と呼ばれている。線路上をまたいでいた貨物索道から線路を保護するために建設されたが、現在その索道は廃止され、トンネル部分のみが残存する格好になっている。駅構内には、「日本一短いトンネル?」と称してこのトンネルの案内看板が立っている。駅南側(金谷駅側)にも索道からの落下物から保護するためのトンネルがあったが、こちら側...トンネルと呼ぶに些か疑問あり

  • 静岡は観阿弥陀仏最期の地

    静岡浅間神社(静岡市葵区)の楼門の傍らに「観阿弥の碑」が建てられています。世阿弥の記した『風姿花伝第一年来稽古条々』に「亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕る。その日の申楽ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。」とあり、浅間神社は観阿弥終焉の地とされています。観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に...静岡は観阿弥陀仏最期の地

  • 都田に石松最期の地蔵堂

    無事に金毘羅代参を終え帰途に就いた石松は久しぶりに遠州浜松小松村の七五郎を尋ね一泊の宿を請う。七五郎は石松の父が死ぬときに「七さん、石を頼んだよ」といったほどのしっかり者。七五郎は次郎長の身内ではないが郭縁の間柄で陰に日向に次郎長を支えてきた人物である。遠州一帯で人望のないくせに狡猾な遺り口で縄張りを広げていた都鳥一家の吉五郎は石松が代参帰りに身に付けていた香典の預かり金三十両に目を附け騙し取る事を画策、石松は、その口車に乗せられて金を貸して仕舞う。約束の日に指定場所に出向くが音沙汰無く却って都鳥の差し金で若い者から闇討ちに合う。石松の出身は当時の三州半原村にあり、代々庄屋も務めた家柄だったが、父親の代に自宅から火を出し、自宅は全焼、石松の母親(名:かな)と飼い馬は焼死した。父親は幼い次男の石松を連れて炭焼きの...都田に石松最期の地蔵堂

  • 香勝寺100万本の桔梗咲く

    静岡県周智郡森町草ケ谷968。遠州三十三観音霊場第三十二番札所曹洞宗鹿苑山香勝寺は、昭和61年7月、住職が白龍頭観音から、《境内に2万株以上の桔梗を植えると、参拝の方々に心身に清らかな気が充満し、安らぎの世界に至る事ができる》とのお告げを受けた事から植栽に励み、今では遠州の小京都森町の香勝寺は日本三大桔梗寺と言われる様になった。現在は、15種類4万5千株、100万本以上の桔梗が咲き、初夏6月中旬より園内は青紫色一色に染まる。桔梗の他にも【早春】ロウ梅・梅花・椿・スイセン・四季桜【春】レンギョ・桜・四季桜・枝垂れ桜【初夏】ききょう・あじさい【夏】ききょう・オミナエシ・ナデシコ・百日紅【秋】萩・ススキ・藤袴・葛【冬】四季桜などが境内に咲く。香勝寺は天文14年(1545)2月18日、今から476年前に一ノ宮領主、武藤...香勝寺100万本の桔梗咲く

  • 黒俣の坂野集落大公孫樹

    【黒俣の大イチョウ】静岡市街地から国道362号線を藁科川に沿って千頭方面に向かい、「きよさわ里の駅」を過ぎて少しすると、バス終点の「久能尾(きゅうのお)」というところがあります。尾崎商店とガソリンスタンドが目印です。ここを左に直進し、県道藤枝黒俣線を進みます。黒俣川の谷に沿って清笹峠へ向かう途中の坂野集落にある。黒俣の大イチョウは、標高320m、茶畑の上の高台に一本だけ立つ大樹で、目通り8.3m、根回り13.30m、樹高20.0m、枝張東西17.0m、南北17.0m。推定樹齢500年。静岡県指定の天然記念物です。県内のイチョウでは屈指の巨木と言われています。所在地静岡市葵区黒俣字田島沢2184-2・2249所有者勝山博文氏、前田りん氏閑話休題。久能尾集落の次は、上和田集落で、戸平、中村、坂野、清笹峠と続く。藁科...黒俣の坂野集落大公孫樹

  • この人が龍馬を斬った男です

    今井信郎(いまいのぶお、天保12年10月2日(1841年12月2日)、~大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原健吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、衝鋒隊副隊長として佐幕活動を行い、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。明治3年(1870年)2月、嫌疑をかけられ身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。今井は、龍馬暗殺の詳細を証言、自分は見張り役として参加し手は出していないことを語った。同年9月、禁固刑の判決を受け、静岡で謹慎後、明治5年(1872年)1...この人が龍馬を斬った男です

  • 弥次喜多の作家は駿府生まれです

    十返舎一九(じっぺんしゃいっく)明和2年(1765年)~天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。駿河国府中(駿府:現在の静岡市葵区)で町奉行の同心の子として生まれた。葵区両替町一丁目に、生誕の地の碑が建っている。本名は重田貞一(しげたさだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す。江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大坂へ移り、大坂町奉行・小田切直年に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん...弥次喜多の作家は駿府生まれです

  • 赤梅も紅茶も起木天神社

    起木神社(おきぎじんじゃ)は、起木天神社とも、起樹天満宮ともいう。祭神は菅原道真公。場所は、静岡市駿河区丸子6625。国道1号線「赤目ヶ谷」交差点から北側の側道に入り、約500m。臨済宗妙心寺派「霊泉山長源寺」の奥にある。建久6年(1195年)、上洛のため源頼朝が当神社の前を通るというとき、紅梅の大樹が道の中央に倒れていた。頼朝は、通行の妨げとして伐採を命じた。ところが、倒れていた梅の木は、その夜のうちに元通り起き上がった。以来、当神社を「起木天神社」あるいは「起樹天満宮」と称した、という。残念ながら、その「起き木」は枯れてしまったが、その一枝は今も当神社に納められているそうである。なお、菅原道真公が紅梅を愛したことから、かつては当神社の境内には百本以上の紅梅が植えられていたといい、そもそも「赤目ヶ谷」という地...赤梅も紅茶も起木天神社

  • 静岡に住んだ新門辰五郎

    新門辰五郎(しんもんたつごろう、寛政12年(1800年)~明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消の頭であり、いわゆる侠客である。実父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の愛妾。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門辺りの責任者である事に由来する。「新門」は「しんもん」と読まれるが、当人は「あらかど」と名乗っていた、とする説がある。武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に煙管職人の子として生まれる。幼名は金太郎。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り、町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する仁右衛門に目をかけられ、辰五郎の名を与えら...静岡に住んだ新門辰五郎

  • 北遠の光明山に聖地あり

    「稚児の滝」天竜川の船明ダム上流、左岸から流れ込む天竜河内川の佐久地区にある滝。天竜相津花桃の里を右折し佐久地区の入口に架かる万世橋袂の公民館横に案内標識がある。「稚児(ちご)の滝」の落差は15m。水量はそれほど多くないが、滝壺はそこそこ深そうである。案内看板には次のように記されている。「その昔、光明寺に美しき稚児あり賢明にして修行したるも長ずるに及び煩悩脱却し得ず或夜不動尊夢枕に立ち「汝煩悩を去らんと欲せば我が泉下に修行せよ」と滝のほとりに消え去りぬ稚児滝を求めてここに至り行じて後大成す」。静岡県浜松市天竜区山東2873にある金光明山光明寺(こんこうみょうざんこうみょうじ)は、奈良時代(養老元年・717年)元正天皇の勅命を受けた僧行基により開創された古刹。奥之院の摩利支天(まりしてん)は今川家、徳川家御本丸の...北遠の光明山に聖地あり

  • 戦艦の砲身建てた平和塔

    長田平和塔『大正14年11月23日に海軍省から横鎮長官宛に訓令廃兵器無償下附ノ件横須賀海軍々需部保管ノ右記廃兵器ヲ附記ノ者ニ無償下附方取計フべシ但シ現品搬出ニ要スル費用ハ下附ヲ受クル者ノ負担トス右訓令ス記一、四十五口径露式二十五糎VI型砲身番号呉三一一門一、四十五口径十ニ糎二号徹甲弾九個一、四十五糎魚型水雷頭部共一個一、浮標水雷缶内機ヲ除ク一個一、鉄鏈一ニ粍ノモノ一〇米以内静岡県阿倍郡長田村村長宛』由来の案内板によれば、海軍駆逐艦砲身及び砲弾丸などの下賜を受け、大正15年1月起工、8月に忠魂塔として竣工した。忠魂塔建設諸費の予算は金七千円で、内訳は、忠魂塔建設工事費金六千百六十九円五十九銭也。工事監督費金百三十円四十一銭也。除幕式費金七百円也。元々は、正面に東郷平八郎元帥による「極天護皇基」の五文字があった。日...戦艦の砲身建てた平和塔

  • 人助け竜宮小僧祀る里

    竜宮小僧の伝説昔むかし、久留女木川(都田川の上流部)には、大淵と呼ばれる深い淵があった。その青々と水をたたえる淵の底は、竜宮に通じているといわれていた。田植えのころ、村人は、忙しさに猫の手も借りたい思いで「誰か手伝ってくれんかのー」とつぶやくと、不意に大淵から小僧が飛び出してきて「オレ、手伝うぜ」といって田植えを手伝ってくれた。そして夕方になると、どこかへ帰ってしまった。また、夏の日の午後、急に真っ黒い雲が湧き出て、見る間に滝のような大雨が降りだした。田んぼ仕事をしていた村人は帰る間もなく「あっ、困った。干し物が濡れてしまう」と思いきや、また大淵から小僧が出てきて、村中の干し物をよせてくれた。村人が「お前はどこの小僧さんだね?」と尋ねても「どこでもいいじゃないけ」と笑って何も話さない。でも村人は、この不思議な小...人助け竜宮小僧祀る里

  • 粟ケ岳無間の鐘は井戸の底

    粟ケ岳(あわがたけ、あわんたけ。別名無間山)は、静岡県掛川市と島田市に跨る標高532mの山である。山頂は掛川市東山に属し、島田市との市境までは約200mほどである。山頂には阿波々神社があり遠州七不思議の一つ無間の鐘の伝承がある。山頂近くの南東斜面にはヒノキが『茶』の文字に植林されており、島田方面や牧之原台地上から見ることができる。当初(昭和7年)は松が植えられたが、マツクイムシによる枯損から、昭和58年にヒノキに植え替えられた。過去の山の姿は、江戸時代の安藤広重「東海道風景図会」の一枚に描かれているほか、昭和時代初期の東海道から見た風景絵葉書にも残る。これらの時代には山頂付近にしか樹木は存在せず、山の大部分は草地となっていた。阿波々神社(あわわじんじゃ)は、静岡県掛川市初馬にある神社。粟ヶ岳の山頂付近に鎮座する...粟ケ岳無間の鐘は井戸の底

  • ふるさとの古き神社を崇敬す

    荒神社は、静岡市葵区足久保奥組三六二三に鎮座する。「狐石」の手前の山の突角部である。祭神は、火産霊神、奥津比古神、奥津比賣神の三柱である。荒神(こうじん)とは、日本の民間信仰において、台所の神として祀られる神格の一例。多くは仏教の尊格としての像容を備えているが、偽経を除けば本来の仏典には根拠がなく、核となったのは土着の信仰だったと考えられている。荒神信仰には大別すると二通りの系統がある。屋内に祀られるいわゆる「三宝荒神」、屋外の「地荒神」である。屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬...ふるさとの古き神社を崇敬す

  • ひたすらに願えば叶う五智如来

    藤枝市岡部町の旧国道一号線沿いにある五智如来です。私は、この五智如来公園(静岡県藤枝市岡部町岡部29)の隣の町道の拡幅工事を担当しました。合併前のことですからもう10数年前のことです。五智如来(ごちにょらい)とは、五大如来ともいい、密教で五つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもので金剛界五仏のことです。岡部町指定文化財である2組の五智如来像。(上の写真、五智如来像の後ろにもう一組あります。)この五智如来像の一組は、宝永4年(1707)田中城主内藤弌信(かずのぶ)の家老脇田次郎左衛門が寄進したもので、地元の三輪石(安山岩質凝灰岩)で作られている。この五智如来には、次のような伝説が残っている。宝永2年(1705)内藤豊前守弌信が陸奥棚倉城(福島県棚倉町)から、田中藩...ひたすらに願えば叶う五智如来

  • 植物を学んだ先生顕彰す

    『静岡県植物誌』の著者・杉本順一先生の略歴を紹介して郷土の偉人として顕彰したいと思う。私が高校生の時に伊豆天城山系で採集した植物標本の鑑定をお願いした先生である。1901年(明治34年)静岡市(旧豊田村)に生まれる。早くから植物学に没頭し、静岡県下をほとんど隈なく歩き、植物観察・採集を行う。また、国立科学博物館・東京帝国大学・京都帝国大学等に出向き、研鑽を重ねる。1930(昭和5年)、天皇陛下が天城山に行幸の折には、県産の代表的植物の標本を天覧に供した。この間に、静岡県天然記念物調査員・静岡県文化財専門委員・伊豆半島国立公園及び南アルプス国立公園調査員・登呂遺跡発掘調査員・牧野標本館研究員・天然記念物緊急調査員などとして植物関係の調査に従事した。さらに、静岡生物同好会々長、熱帯植物友の会々長などを務め、静岡県自...植物を学んだ先生顕彰す

  • 吾輩が汗を流した現場です

    「伊東市観光会館」は、静岡県伊東市和田1丁目にある。伊豆半島の東の玄関口である伊東市の観光会館です。昭和40年3月に当時は不動建設㈱だった現在の㈱不動テトラへ入社した筆者が最初に赴任した現場です。「伊東市観光会館」は山紫水明の豊かな自然に周りを囲まれた伊東市の観光地の紹介から、自然保護や市民の健康づくりなど、また文化事業等を推進しています。延べ床面積は約4,600平方メートルで、地上3階建ての建物となっている。ホール、別館の他に会議室が4つある。ホールは定員1,007名(1階席715名・2階席292名)収容可能である。有名な歌手のコンサートや映画も上映されていている。設計は、横浜の㈱国設計が1964年の指名コンペで獲得しました。事務所創設者の江國正義(旧姓田中)は、東京帝国大学建築学科を卒業後、大正9年に同大学...吾輩が汗を流した現場です

  • 水鴎流清水袖師に今もあり

    水鷗流(すいおうりゅう)は、居合を中心とする日本の武術流派。流派は静岡県静岡市清水区袖師町に現存する。正式には水鷗流居合剣法(すいおうりゅういあいけんぽう)という。水鷗流は三間与一左衛門景延(みまよいちざえもんかげのぶ:1577年~1665年)によって天正、元和の間に創始された。居合剣法(居合)を基とした剣法、薙刀術、杖術、小具足などが伝わる総合武術。また第九代の福原景利が正木流萬力鎖術より編み出した正木流鎖鎌術を併伝している。流祖は天正5年出羽国佐竹氏に仕える十二社権現の神官、三間斎宮の子として生まれ、父につき卜傳流剣術、父の剣友で林崎甚助重信の高弟、東下野守元治(神明夢想東流)の系統である桜井五郎左衛門直光から林崎流居合の極意を学び、さらに奥秘を極めんと昼は神木に向かい抜刀撃剣、夜は神殿に坐し瞑想、神助を祈...水鴎流清水袖師に今もあり

  • 初亀は東海道の宿場酒

    静岡市より西に10kmほど行くと初亀蔵元のある岡部町がある。古くは東海道53次の宿場として栄えた町である。西には酒の神である神神社があり、ご神体である山、高草山の麓で酒を醸す恵まれた蔵である。蔵から川を上ると日本有数の玉露の産地がある。自然環境にも恵まれた町で、仕込水は南アルプスの伏流水を使用して醸す。神神社(みわじんじゃ)は奈良県桜井市・大神神社(おおみわじんじゃ)を本社として、1370年の永きに渡り旧静岡県志太郡岡部町三輪村(現藤枝市)の地に鎮座し、三ツ鳥居を通し駿河の三輪山(現在は高草山と呼ばれている)を拝すると言う古代の祭祀の形態を伝えている。我が国最古の大神社(おおみわじんじゃ)の分社として崇敬され美和天神とも称され、「駿河国神名帳」には、三輪明神と記載されている古社である。会社名は、初亀醸造株式会社...初亀は東海道の宿場酒

  • 疣取りの穴地蔵さんは日本坂

    焼津市は2020年10月12日、同市の満観峰ハイキングコースで熊の親子が目撃されたとホームページ上で発表した。ハイカーや農業者に注意を呼び掛けている。市によると、11日午前11時15分ごろ、1人でハイキングしていた同市の男性が鞍掛(くらかけ)峠から満観峰山頂に登る途中、山の斜面を登っていく熊と子熊2頭を目撃した。男性から連絡を受け、市が調べたところ、ほかのハイカーからも目撃情報が寄せられた。市は登り口に注意喚起の張り紙を掲示し、ハイキングする際は熊鈴を携帯するなど対策を講じるよう呼び掛けている。日本坂峠あるいは単に日本坂は、焼津市花沢から静岡市駿河区小坂に至る峠とその峠道。標高309メートル。両市の市境になっている古道である。焼津市北部は、高草山や満観峰・花沢山などの山々が連なる山地が駿河湾の大崩海岸まで達し、...疣取りの穴地蔵さんは日本坂

  • 名僧は玄国茶屋に名を遺す

    大川地区では崩野や楢尾や大間で仕事をしたので湯ノ島温泉や玄国茶屋はよく利用した。【湯島玄国和尚伝説】県道大川村地内湯島橋のバス停留所付近からの四十度の急坂を登る高台に曹洞宗に属する「湯峯山宝積寺」がある。この寺は、昔は日向部落にある陽明寺の末寺として上湯島の宮ノ段の飯綱神社左隣に建立しあるも、ある年寺の裏山が崩壊して土砂に埋まったので現在の寺の屋敷に再建したと伝う。湯峯山の名号は最初の上湯島付近が温泉多量に湧出した処から湯峯山と称したという。同寺は明治初年頃までは住職が住んでいて、法事を営みしも現今は無住寺となり、戦後改築して公民館として現在に至る。この公民館より右方百メートルの山腹に建てたるお堂が玄国和尚を祀れる玄国堂で毎年春の彼岸の中日に例祭を執行し、彼岸の行事として遠近の参詣の人々で賑う。従前は玄国和尚の...名僧は玄国茶屋に名を遺す

  • ご近所に秤の老舗ありました

    私が通院している静岡厚生病院(北番町)近くの若松町に老舗の秤屋があるのことを最近知った。河瀬衡器製作所である。社史によれば、真田弾正幸隆を祖先に持つ初代川瀬(河瀬)光通は、承応二年(1653年)に秤屋を創業しました。その孫河瀬源右衛門が駿府(現在の静岡市)の七間町に秤座を開き、駿府秤所の初代名代になりました。真田幸隆は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている。「幸隆」の名に関して、『高野...ご近所に秤の老舗ありました

  • 静岡にキスカの木村忘れるな

    昭和17年(1942)6月8日、日本軍はアメリカ領のアリューシャン列島アッツ島、キスカ島に上陸、占領した。アメリカ軍はアリューシャン列島の奪回を目指して、5月12日にアッツ島上陸を開始した。山崎保代陸軍大佐指揮下の日本陸軍がアッツ島(当時の日本側呼称は熱田島)を防衛していたが、兵力も防御施設も不十分であった。北方方面を担当する日本海軍の第五艦隊もアメリカ艦隊に対し有効な反撃を行えず、またアッツ島への補給や救援に失敗した。島を包囲するアメリカ艦隊を攻撃した潜水艦1隻が撃沈された。連合艦隊は空母機動部隊や大和型戦艦を含む主力艦部隊を本州横須賀方面に集結させたが、反撃には出なかった。大本営はアッツ島増援を検討したものの、この島を守る意味に欠ける日本軍は、最終的には西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の確保を断念す...静岡にキスカの木村忘れるな

  • 遠州の秋葉神社は正一位

    秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市天竜区春野町領家841)は、東海随一の霊山との呼び声も名高い秋葉山を神体山と仰ぎ、創建は和銅2(西暦709)年と伝えられております。中世には「秋葉大権現」と称して、その御神徳は国中に知れわたり、朝廷からは正一位の神階を賜り、著名な武将からも数多くの名刀が寄進されました。更に江戸時代には全国に秋葉講が結成され、街道は参詣者で賑わいました。今なお古式の祭儀がそのままに営まれ、全国津々浦々より崇敬されております。以下はウイキペディアの記述に拠ります。秋葉神社(あきはじんじゃ)は、赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについて、その事実上の信仰の起源となった神社であり...遠州の秋葉神社は正一位

  • 春埜山天狗と狼護る寺

    春埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)は静岡県浜松市天竜区春野町花島22-1にある曹洞宗の寺院。地元の人たちから「お犬様」と呼び親しまれている大光寺は、曹洞宗、神仏混交の修験の山として知られています。春埜山は秋葉山と対になり、奥の院である山住神社の里宮であったという説もあります。大光寺の本堂前には、狼の狛犬が控えていて、ここが修験道の狼信仰の山であったことが窺えます。守護神の太白坊は春埜山に住む天狗であると言われ、本尊である三尊天を守護するとされています。また、その眷属である狼を派遣し、信者の祈願成就を助けるとのことです。大光寺の開山は、養老2年行基菩薩がこの山頂に庵を開いたことが始まりとされています。境内には行基菩薩お手植えと伝えられる、樹齢1300年の春野杉があり、県の天然記念物に指定されています。寛文年間に...春埜山天狗と狼護る寺

  • 鬼岩寺の開基は行基菩薩です

    【山号寺号】楞厳山鬼岩寺(りょうごんざんきがんじ)【所在地】藤枝市藤枝3-16-14【宗派】高野山真言宗【本尊】聖観世音菩薩行基菩薩作【由緒縁起】神亀3年(726年)に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。その他、境内からは南北朝から戦国時代までの中世の石塔が多数見つかっており、貴重な歴史資料として市の有形文化財に指定されています。古代、東海道が直角に曲がる角に位置する鬼岩寺が、旅人の布施屋(宿泊施設)と、街道の魔魅降伏の機能を併せ持ち、その後、一時衰退す...鬼岩寺の開基は行基菩薩です

  • 鬼平の先祖は焼津小川です

    静岡県焼津市坂本の曹洞宗高草山林叟院(りんそういん)は、室町時代(戦国時代初期)の文明3年(1471年)に法永長者と呼ばれた小川城主・長谷川次郎左衛門尉政宣が、賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)を開山として小川(こがわ)に創建した林雙院が始まりです。開基家である長谷川家の“左三つ藤巴”が寺紋とされている。修験者の勧めで寺を高草山山麓の坂本に移転したため、明応7年(1498年)8月25日に発生した明応地震(めいおうじしん)の津波被害を免れました。境内には、市指定文化財の経蔵・鐘楼(しょうろう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)、市指定天然記念物ホルトノキ、林叟院開基長谷川次郎左衛門尉政宣夫妻の墓などがあります。池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で有名な、江戸時代中期に火付盗賊改役を務めた長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶ...鬼平の先祖は焼津小川です

  • 首塚は大泥棒や金谷宿

    日本左衛門(にっぽんざえもん、享保4年(1719年)-延享4年3月11日(1747年4月20日))は、江戸時代中期の浪人の異名。本名は濱島庄兵衛と言い、諸国を荒らした盗賊(強盗団)の一味で、後に自首して獄門となった。歌舞伎の白波五人男の一人である日本駄右衛門のモデル。『青砥稿花紅彩画』は、文久2年3月(1862年3月)に江戸市村座で初演された歌舞伎の演目。通称は「白浪五人男」。日本駄右衛門のモデルとされる日本左衛門は尾張藩の七里役の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。徒党を組んで美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・近江・伊勢の八カ国で犯行(主に押し込み強盗)を重ね、諸説あるが、確認されている被害は14件・...首塚は大泥棒や金谷宿

  • 新しき大河内橋開通す

    安倍川に架かる静岡市葵区渡の大河内橋が2020年3月28日開通し、地元自治会ら主催の式典が開かれた。行政関係者や地元住民ら約120人が出席し、待ち望んでいた橋の開通を祝った。橋は長さ165・5メートルで幅8メートル。梅ケ島・大河内地区と市街地を結ぶ道路として重要な役割を担う。1951年に完成した旧橋が増水による被害を受けてきた教訓を生かし、新橋は河川内に橋脚を作らないニールセンローゼ橋という形式で造られた。旧大河内橋は、一級河川安倍川に架かる橋梁で、昭和26年に架設され、架設後約70年を経過した高齢橋です。幅員が4.5mと狭く、すれ違いが困難な状況にあることから架替え事業に着手されました。梅ヶ島温泉昭和線(県道29号)は、安倍川上流の梅ケ島・大河内地区と市街地を結ぶ唯一の道路であり、緊急輸送路に位置付けられてい...新しき大河内橋開通す

  • 春野まで続く秋葉の常夜燈

    第六〇番安西五丁目地蔵堂。川除延命地蔵尊の地蔵堂が道路拡張工事で間口が狭くなってしまった。地蔵堂の前にある秋葉山常夜燈は静岡市指定有形民俗文化財に指定されている。安西五丁目地蔵堂は、安西橋の東側のたもと、国道三六二号線(安西通り)の北側に面して建っている。この国道三六二号線は、安西から羽鳥、藁科、清沢、川根を経て春野町の秋葉山に通じており、かつては「主要地方道静岡春野天竜線」と呼ばれていた。秋葉山は火伏せの神として名高く、そこへ通じる街道沿いには、秋葉山に献灯された常夜灯が各地に残されている。安西五丁目の地蔵堂の境内にも、嘉永元年(一八四八)一一月に再建された常夜灯が建っており、これは馬場町の赤鳥居の脇にある常夜灯と同型のものである。ところで、江戸時代には安倍川に橋が架かっていなかった。そのため、秋葉山に参詣す...春野まで続く秋葉の常夜燈

  • 安西の水月堂をお詣りす

    水月堂(通称おはつかさん)は、静岡市葵区安西1丁目南裏に位置し、十一面観世音菩薩を安置し、神選府辺観音霊場(新西国)33ケ所巡礼札所中第26番にして本尊は鎌倉初期の名匠運慶の作と伝えられ国宝的存在でありました。しかし戦災(昭和20年6月20日)で焼失してしまいました。元亀年間、今を去る事400有余年(405年)前、安倍郡籠鼻(今の井宮町西北部)の圓皆寺(現在は廃寺)の住僧宗文の創建で今川家の臣福島淡路守の夫人然正印智現妙本大姉の開基と伝えられています。毎月20日を以て御縁日と定め毎年3月には僧侶を招き特別大法要を続けております。「水月堂奉賛会」水月堂は「今川家の臣福島淡路守の夫人然正院智現妙本大姉の開基」とあります。然正院智現妙本大姉は福島上総介正成の夫人のことですが、福島(くしま)家というと歴史的資料が乏しく...安西の水月堂をお詣りす

  • 新コロナ鴎外荘も廃業す

    新型コロナウイルスの影響で、東京・上野にある文豪・森鴎外(おうがい)ゆかりの老舗旅館「水月ホテル鴎外荘」(台東区池之端)が令和2年5月末で閉館することが分かった。宿泊などのキャンセルが相次ぎ、約八十年の歴史に幕を下ろす。敷地内には鴎外が傑作「舞姫」を執筆した旧邸がある。女将の中村みさ子さん(62)は「旧邸を守るため、倒産前に閉館しようと決断しました」と話している。(東京新聞記事)森鷗外(もりおうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)-1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森林太郎(もりりんたろう)。石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医...新コロナ鴎外荘も廃業す

  • 北遠の榜示峠に曰くあり

    静岡県浜松市天竜区佐久間町と水窪町を結ぶ[北條(ほうじ)峠]、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天皇方と武家方との土地争いが起こった際、この地を折半するという形で紛争を解決し、[杙]を立てたことから[榜示峠]と呼ばれた。「角川日本地名大辞典22静岡県」(昭和57年10月発行)の佐久間の「北条峠」の項に、こんな解説がある。北条峠(ほうじとうげ)は榜示峠とも書く。佐久間町羽ヶ庄と南野田の境にある峠。標高572m。この峠から北を奥領家と称したことから明らかなように、山香庄の下地中分(「したじちゅうぶん」とは、日本の中世に使用された用語で、荘園公領制下の重層的に入り組んだ支配・権利関係の中で、それぞれの主体が一元的に土地を支配すること(一円知行)を目的にして行われた、土地の分割を指し示す用語である。)の際、地頭方と領家...北遠の榜示峠に曰くあり

  • 安倍口の熊野神社に参詣す

    神社名熊野神社鎮座地〒421-2114静岡県静岡市葵区安倍口新田597(熊野神社は同名法人が全国に2099社あります。)熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社〈本宮〉、熊野速玉大社〈新宮〉、熊野那智大社〈那智〉)の祭神である熊野権現の勧請を受けた神社のことである。熊野詣の盛行や有力者による荘園の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、熊野三山の祭神を勧請した神社が全国に成立した。熊野三山の祭神である熊野権現は、その主祭神である熊野三所権現だけでなく、本宮と新宮では他に9柱の祭神が祀られて十二所権現と呼ばれ、那智はさらに1柱多く祀られて十三所権現と呼ばれ、それらも含まれている。安倍口新田・熊野神社境内の大楠は保存樹木に指定されている。目通り4.0m樹高25.0m。樹齢は300年前後と思われる...安倍口の熊野神社に参詣す

  • アメリカに咲いた桜は興津から

    アメリカ合衆国ワシントン・ポトマック河畔の桜は、明治45年(1912)に、ときの東京市長尾崎行雄によってワシントン市に贈られたものであることは、よく知られている。だがその陰に、その実現のために心血を注いだ農商務省技師がいたことを知っている人は、数少ないと思われる。実は最初に東京市が業者を通じて送った7年生の苗木2000本はアメリカの検疫で全部焼却されてしまった。線虫、カイガラムシ、コスカシバなどの害虫や病気が多くみられたためだが、植物検疫の知識に乏しかった当時の日本人が犯した大きな失敗であった。面目丸つぶれの尾崎市長は改めてクリーンな苗木の送付を決意する。そこで白羽の矢が立ったのが、静岡県興津町(現在の静岡県静岡市清水区興津中町485-6)にできたばかりの農事試験場園芸部であった。苗木づくりの重責を負わされたの...アメリカに咲いた桜は興津から

  • 初詣折戸辨天拝すべし

    はつまうでをりどべんてんはいすべし瀬織戸神社(静岡市清水区折戸1-16-6)の説明板によると、当神社は約1253年前の神護景雲元年(767年)に建てられたもので、祭神は瀬織津姫(天照大神の第二王女)である。別名「辨天様」とも呼ばれ、水難・豊漁・招福・修学等を祈願する神であり、奈良時代には、白い小石を奉納するとイボが取れると信仰されていたそうだ。境内には疣取りを祈願した人が成就の際に自分の年の数だけ奉納した白石がたくさんある。瀬織津姫神を祀った神社は2008年5月現在で日本全国には454社あるそうです。神社の祭神の瀬織津姫(せおりつひめ)は、日本国語大辞典第二版7(小学館)によると『流れの速い川瀬にいて、人の罪やけがれを海に運び去るという女神。』とあります。初詣折戸辨天拝すべし

  • 津神社はむかし公民館でした

    安倍口新田は、徳川家康が駿府城に居た頃・・・1605(慶長10)年4月16日、徳川家康は、将軍職を我が子・秀忠に譲り、駿府を隠居所に決めて、「大御所政治」を行ないます。1607(慶長12)年から1616(元和2)年の間、実質的に駿府城が日本の政治の中心として機能していました・・・駿河国志太郡相川村から相川善七ら7人の農民が移住して開拓した新田です。相川善七の墓は内牧の結成寺にあり、この付近には相川姓が多いです。安倍口というのは安倍川の流れが賤機山西麓辺にあったころ、駿府から安倍山中への入り口に、この村があたっていたためだそうです。津神社(つじんじゃ)で検索すると、岐阜県岐阜市にある津神社に行き着く。伊自良川に架かる島大橋の西岸にある。社伝によると、推古天皇の時代、伊勢国安濃郡津(現・三重県津市)より勧請されたと...津神社はむかし公民館でした

  • 藁馬に古き結縄のゆゑ偲ぶ

    わらうまにふるきゆなはのゆゑしのぶ藁算は藁に結び目を作って数量などを表す方法。結縄の一種で、沖縄では藺草やガジュマルの根などを用いて20世紀初頭まで行われた。結縄(けつじょう)とは、紐や縄などの結び目を用いて情報の記録・伝達や計数・演算を行う原始的な情報媒体である。南米のインカ帝国下に行われたキープが最もよく知られている。『隋書』巻81東夷伝倭国条には、倭人の風俗として「文字無し、唯だ木を刻み縄を結ぶのみ」と記しているが、唐古・鍵遺跡や鬼虎川遺跡など弥生時代の遺跡からは、結び目の付いた大麻の縄やイグサの結び玉と考えられるものも発見されている。明治時代の人類学者・坪井正五郎が徳川慶喜の侍医・柏原学而から伝え聞いた話によると、現在の静岡市駿河区久能山付近では家々の勝手口に縄が2本下げてあり、塩売りが塩を置いて行く際...藁馬に古き結縄のゆゑ偲ぶ

  • 石垣の石は小瀬戸や長尾から

    最近、駿府城の天守台の下から豊臣時代の遺構とともに金泊張りの屋根瓦が出土して話題になりました。駿府城は徳川家康の隠居城として「天下普請」として行われました。本丸堀、二ノ丸堀、三ノ丸堀と三重の堀を持つ駿府城の守りの要の城濠の石垣に使われた石材は静岡市、焼津市、伊豆市などで採取された。また、三河から運ばれた石もある。天下普請で築かれた城ということもあり、駿府城で使われている石材にはさまざまな刻印があります。これまでに300を超える刻印が見つかっており、刻印の模様は150種類にもなるそうです。伊豆で切り出された石は駿河湾を渡り巴川を遡って十二双川を経て駿府まで運ばれたそうです。巴川にはその運搬の時に何らかの理由で川の中に落ちてしまった石が残されています。それが引き上げられ保管されている場所があります。静岡市清水区入江...石垣の石は小瀬戸や長尾から

  • やっとふっきゅうしましたよ。

    やっとこさっとこ復旧しました。うれしいね。やっとふっきゅうしましたよ。

  • 五糞書を 是非読みたいと 手紙きた

    ネットで俳人・秋山秋紅蓼を検索したら秋山白兎俳句館がヒットしたのでプロフィールを読んだら著書に野糞の極意を著わした『五糞書』なる奇書があるとのこと、是非拝読したいので一冊わけて欲しいという丁重なる手紙が届いた。差出人は山梨県の方である。書いたのは二〇年も前の話で居酒屋の依頼で書いたものだが当時も小冊子で五〇部くらいだったので今は一冊もないと返事をかいた。ただ、どうしても読みたいというのであれば青柳新太郎随筆集に掲載してあるからと書き添えた。世の中には変わった人もいるから楽しくなる。と、言っている本人が一番の変わり者なのだが。【五糞書・ごふんのしょ】二天一流の開祖、宮本武蔵玄信が著した『五輪書』に野糞の極意は書かれていない。だが、生きるために食餌を摂れば必ず排泄せねばならぬというのが生きとし生ける物に負わされた宿...五糞書を是非読みたいと手紙きた

  • 尺八の名人がいた龍泉寺

    フェイスブック友の伊藤彰氏から写真を頂いた宝台院の境内にある「尺八碑銘」について調べてみた。以下は「駿府猫猫齋」さんの記述を参考にまとめました。宝台院(ほうだいいん)は、静岡市葵区常磐町二丁目(旧下魚町)にある浄土宗の寺院。山号は金米山。寺号は龍泉寺。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた。寺の創建は室町時代である。境内に「尺八碑」が建てられている。この碑については,小菅大徹(2017)「江戸時代における尺八愛好者の記録~細川月翁文献を中心として~」(虚無僧研究会発行)の中で詳細に記述されている。「細川月翁」は熊本藩の支藩・宇土の江戸中期の殿様。二代目黒沢琴古に師事し、自ら製管をするほどの尺八好きで、多くの貴重な資料を遺した。碑文によれば,この碑はこの地で尺八を教授していた柳井青翁師の...尺八の名人がいた龍泉寺

  • 氏子衆やまめ祭りの注連を綯う

    大井川最上流部に位置する田代の人々は、嘗て、南アルプスの広大な山々で大規模に焼畑農耕を営んできた。「ヤマメ祭り」は、田代の氏神である諏訪神社例大祭の通称です。諏訪神社は、信濃国諏訪大社の分社で嘉禎年間(1235~38年)に山を越えて勧請されたという伝承が残っている。諏訪大社の創建の年代は不明だが、日本最古の神社の一つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる。井川の人たちの先祖が信州から移り住んできた歴史を象徴するものと言える。現在の御本殿は、総ヒノキ造りで、明治36年に造営された。参道入り口の鳥居左側には水が湧き出していて「御井戸」と呼ばれ、銘水とし...氏子衆やまめ祭りの注連を綯う

  • 吉原の秘技も知らずに破門さる

    フェイスブックの元友達から絶縁されてしまった。経緯は次のとおりである。「不易流行」という題のブログについて読んだら「いいね!!」を押して欲しいということだった。ブログは「1778年信州川中島より神来る。」と駿河風土記に書かれている。町内(本通二丁目)に祀られている八朔神社の大祭が1日に行われた。と、いう書き出しであった。八朔神社の特殊神事として、迎神の儀が有る。つまり大祭の前日に春日の国道とJR線の間に有る場所にお迎えに行くのである。祝詞を春日で奏上し、神様をお連れして神社に戻り、前夜祭の儀式を行う。翌日の8月1日朝10:30~より本祭を行う。神事を行い、皆で奉納酒を戴き、閉式となる。本通二丁目の自治会は3組70世帯の小さな町内でありますが、単独町内の社として、八朔神社は240余年の長きにわたり、鎮守神として脈...吉原の秘技も知らずに破門さる

  • 坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう) その2

    坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう)(鼻取地蔵の話)むかしむかし、ずうっとむかしのこと。ある日、一日の仕事をおえて牛をひいて帰ってきたお百姓(ひゃくしょう)さん。どうしたことか急にひいてきた牛が、いくら手綱(たづな)を引いても動かなくなりおお弱り。「どうしたものか。困ったな」と思案(しあん)していると一人の子供があらわれた。牛の鼻をとって声をかけたかと思うとらくらくと動かした。喜んだお百姓さん、ちょっと目をはなしたすきに子供の姿を見失ってしまった。どこへ行ったものだろうと、残った足あとをたどりたどりしていくと、地蔵堂の中まで続いてお地蔵さんの前で消えていた。さてはお地蔵さんの化身(けしん)の子供だったのかとお百姓さんは驚いたりおそれいったりでした。このことがあってこのお地蔵さんを、牛の鼻を取ってくれたと...坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう)その2

  • 南無坂下延命地蔵堂

    坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう)建立年代、建立者は不明。元禄13年(1700年)に、岡部宿の伊藤七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の3人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立した。霊験あらたかと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験あらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されている。堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。今でも8月23、24日の大縁日には、串に差した十団子をお供えして供養をしている。また、新盆供養のために遠方からも参拝客が訪れる。(稲刈地蔵の話)岡部から丸子に通じる宇津ノ谷の手前の坂下に地蔵堂がある。かつての東海道は難所だったので、旅行く人の守り...南無坂下延命地蔵堂

  • やつがれは弱り八月盆の暮れ

    ◆氏素性糺せば怪し兜虫(よみ)うじすじょうただせばあやしかぶとむし氏素性とは生れや家柄、家系、経歴ということ。兜を被るのは一廉の武将ということだが、カブトムシは牛糞堆肥などに生ずるものだから氏素性は必ずしも誇れるものではない。季語は「兜虫」で夏。◆鶴嘴を提げて九字切る油照り(よみ)つるはしをさげてくじきるあぶらでり風がなく、薄日がじりじりと照りつけて、じっとしていても汗のにじみ出るような天気を油照りという。鶴嘴は土工具。九字を切るとは「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって除災戦勝等を祈る作法である。季語は「油照り」で夏。◆兜虫愚直の糸を張り通す(よみ)かぶとむしぐちょくのいとをはりとおすカブト虫に糸を付けて放っておくと逃げたい一心で糸は真っすぐに伸びます。季語は「兜虫」で夏。◆ぬ...やつがれは弱り八月盆の暮れ

  • 文月の駄句を色紙に蚯蚓書き

    ◆宿六と呼ばれて久し梅雨籠り(よみ)やどろくとよばれてひさしつゆごもり宿六とは「宿の碌でなし(ろくでなし)」の略で、『宿』は妻が夫のことを他人に言う際に使う俗称である(現代だと『あの人』『うちの人』など)。つまり、宿六とは仕事をしない甲斐性なしの夫など、ろくでなしな夫を妻が他人に罵る際に使う言葉である。馬鹿亭主など、こうした夫を罵る言葉は時折親しみを込めて使われることもあるが、宿六も同様に親しみを込めて使われる場合もある。季語は「梅雨籠り」で夏。◆海匂ふ港小路の夏つばめ(よみ)うみにほふみなとこうぢのなつつばめ焼津漁港や用宗漁港の風景です。季語は「夏つばめ」で夏。◆望郷の祭囃子を口ずさむ(よみ)ぼうきょうのまつりばやしをくちずさむ神社の祭礼の際に、山車(だし)や屋台の上などで行われる囃子。多く太鼓・笛を主にして...文月の駄句を色紙に蚯蚓書き

  • 倍助を担いだ腰がまた痛む

    「倍助」は「ばいすけ」ではなくて「パイスケ」である。英語の「basket」がパイスケに訛ったものという。つまり、パイスケは籠(かご)である。漢字表記は当て字であるが、これを使えば2倍の仕事ができるという意味もこめられている。パイスケには1番、2番、3番とあってそれぞれ大、中、小のサイズである。1番パイスケよりもさらに大きな鋸パイスケと呼ばれるものもある。因みに2番パイスケの口径は58センチ、深さは20センチである。パイスケは、篠竹もしくは根曲がり竹を小割にしたヒゴをそのまま編んだもので廉価である。そのパイスケの代表的な用途が石炭荷役の「てんぐどり」である。北九州の若松港を舞台にした古い映画で見た記憶があるのだが、岸壁から汽船に架け渡したタラップに並んだ仲仕たちが石炭を盛ったパイスケをバケツリレーよろしく手から手...倍助を担いだ腰がまた痛む

  • 水無月の句を悪筆で書きました

    ◆琴爪の象牙の肌に梅雨湿り(よみ)ことづめのぞうげのはだにつゆじめりフェイスブックの友達に琴・三味線・尺八を教えているお師匠さんがいます。素人の私が訊いても解からない話ばかりです。季語は「梅雨湿り」で夏。◆資本論嘯く雨の夜の麦酒(よみ)しほんろんうそぶくあめのよのびーる『資本論』とは、カール・マルクスの著作。1867年マルクスみずからの手によって第1巻が世に問われたが,第2巻は死後の85年に,第3巻は94年に,盟友F.エンゲルスによって遺稿が整理,編纂され出版された。季語は「麦酒」で夏。◆緑陰へ睡魔手招く荒むしろ(よみ)りょくいんへすいまてまねくあらむしろ仕事師には「三尺寝」といって昼飯の後に短い睡眠をとる習慣がある。木陰に荒筵でも敷いてあれば申し分ない。季語は「緑陰」で夏。◆泡盛や琉歌短く恋を叙す(よみ)あわ...水無月の句を悪筆で書きました

  • 悪筆で5月の俳句書きました。

    【5月の俳句】◆能弁の姥音頭とる茶摘唄(よみ)のうべんのうばおんどとるちゃつみうた能弁は話が上手で、よくしゃべること。茶処では茶摘み時には年寄りも活躍します。季語は「茶摘唄」で暮春。◆蕗を煮て三千世界匂はしむ(よみ)ふきをにてさんぜんせかいにほわしむ蕗を煮ると家中に匂いが充満します。三千世界とは簡単に言えば全宇宙ということです。季語は「蕗」で初夏。◆サイダーの泡やるせなき別れかな(よみ)サイダーのあわやるせなきわかれかな泡沫(うたかた)の恋というやつです。若いころですがサイダーを飲んで別れた人がいました。季語は「サイダー」で夏。◆陸墨の糸を惑はす麦嵐(よみ)ろくずみのいとをまどはすむぎあらし陸墨は水平を示す基準の墨です。墨壺の墨綿に染み込ませてある墨汁で墨糸を弾いて打ちます。麦嵐は麦秋の頃に吹く強い風です。季語...悪筆で5月の俳句書きました。

  • 俳友の 大方宗太 追悼す

    現代俳句協会のインターネット俳句会一般の部会員名簿G2に大方宗太氏の名前を見つけた。NO.321会員番号は711である。氏は10数年前すでに亡くなっている。俳句協会の騒動で私が槍玉に挙げられたときは私の強力な支援者であった。大方宗太は言うまでもなく”おおかたそうだ”の洒落である。春来るらしプピと音するからだかな大方宗太ネット検索してヒットした彼の定型俳句作品は現代俳句協会インターネット俳句会に投句されたこの句一句のみであった。「77歳になっちゃいました。やだねえ。子犬と暮らしています。俳句はやったことがある程度です。」と、会員名簿のコメントには書いてある。このコメントはかなり謙遜しているのであって、氏は島田市に本拠を置く自由律俳句『主流』の会員であり、島田市史編纂委員でもあった。「主流」は田中波月が昭和二十一年...俳友の大方宗太追悼す

  • ふつつかな四月の俳句書きました

    ◆よろず屋に売れぬ目刺が反り返る(よみ)よろずやにうれぬめざしがそりかへる田舎の商店では酒・食品・日用品何でも売っている。鮮魚は置いてないが目刺や味醂干しや麹漬など日持ちのするものは置いてある。工事現場ではお茶を沸かす焚火の熾火で目刺を焼いてたべたものである。季語は「目刺」で春。」◆春うらら犬へ宛名の葉書着く(よみ)はるうららいぬへあてなのはがきつく生後90日を超えた犬は、30日以内に登録し、毎年1回(4月~6月)に狂犬病予防注射を受けさせることが、狂犬病予防法でその飼い主に義務付けられています。我が家の愛犬、秋山・ジョン・万次郎と秋山チィー坊にも毎年通知が届いていました。季語は「春うらら」で春。◆活断層走るあたりの山笑ふ(よみ)かつだんそうはしるあたりのやまわらふ糸魚川静岡構造線は、親不知(新潟県糸魚川市)か...ふつつかな四月の俳句書きました

  • 三月の俳句色紙に書きました

    ◆葱ぬたの葱が孕みし葱坊主(よみ)ねぎぬたのねぎがはらみしねぎぼうず葱は冬の季語ですが葱坊主は晩春の季語になります。酢味噌で和えた葱ぬたの茎が葱坊主を孕んでいると季節の移ろいを感じます。季語は「葱坊主」で春。◆黄塵を侮りがたき世となりぬ(よみ)こうじんをあなどりがたきよとなりぬ中国大陸の奥地の黄土高原に舞い上がった砂ぼこりが日本まで届いて降るのが黄塵・黄砂です。最近では中国におけるPM2.5などによる深刻な大気汚染の発生を受け、大陸の大気汚染が影響して日本のPM2.5濃度が上昇し、健康に影響を及ぼすのではないかと心配されています。季語は「黄塵」で春。◆木か草か独活の薀蓄酒すすむ(よみ)きかくさかうどのうんちくさけすすむ独活の大木、箸にもならない・・・などといいますが、ウド(独活)は、ウコギ科タラノキ属の多年草。...三月の俳句色紙に書きました

  • 今月も書いたよ俳句らしきもの

    ◆大寒の陽光を吸ひシャツ乾く(よみ)だいかんのようこうをすひシャツかはく寒さが最も厳しい大寒の頃でも、陽光降り注ぎ微風があり、洗濯日和というのがありますね。乾燥機も重宝ですがたまには陽に当てて乾かしたいものです。季語は「だいかん」で冬。◆春しぐれ沓脱石に苔潤む(よみ)はるしぐれくつぬぎいしにこけうるむ雨の少ない冬季には蘚苔類は乾燥して縮んでしまいます。春になってお湿りがあるとたちまち元気になります。沓脱石は縁側などの踏み石です。季語は「春しぐれ」で春。◆恋猫に説く道徳を野暮と云ふ(よみ)こひねこにとくどうとくをやぼといふオス猫でもメス猫でも発情期の猫はどうにもなりません。種族保存の本能は何事にも勝り、どんなに猫を説教しても効果はありません。季語は「恋猫」で春。◆河豚鰭に代へて親しむいりこ酒(よみ)ふぐひれにかへ...今月も書いたよ俳句らしきもの

  • 一月の俳句色紙を書きました

    凍てる夜の添寝の犬を慈しむ(よみ)いてるよのそいねのいぬをいつくしむ愛妻とは長いこと同衾したことはありませんが、愛犬のジョン・万次郎は寒い夜は布団に潜り込んできたので一緒に寝てました。犬の心拍数は人間より早いので少し離れて眠りました。網走や罪滅ぼしの甲羅酒(よみ)あばしりやつみほろぼしのこうらざけ網走刑務所へ収監されたわけではなく観光に行きました。吉村昭氏の小説「破獄」に描かれた独房も見てきました。その晩は高倉健の「網走番外地」を唄いつつ来し方の悪行を懺悔し、罪滅ぼしに毛蟹の甲羅酒を飲みました。忘るまじ土方飯場の雑煮餅(よみ)わするまじどかたはんばのぞうにもち飯場は、今では作業員宿舎といいます。法令用語では寄宿舎です。私が建設業界に身を投じた五〇年以上も前にはプレハブ建ての簡単な造りの建物で大勢の労務者が雑魚寝...一月の俳句色紙を書きました

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、日々是好舌さんをフォローしませんか?

ハンドル名
日々是好舌さん
ブログタイトル
日々是好舌
フォロー
日々是好舌

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用