philo1985 さん プロフィール

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philo1985さん: イデアの昼と夜
ハンドル名philo1985 さん
ブログタイトルイデアの昼と夜
ブログURLhttp://philo1985.hatenablog.com/
サイト紹介文東京大学で哲学を学びつつ、ブログを書いています。よろしくお願いします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供184回 / 365日(平均3.5回/週) - 参加 2015/05/22 09:59

philo1985 さんのブログ記事

  • ポイント・オブ・ノー・リターン
  •  哲学者は真理に仕える召し使いになる必要があるというのが前回の記事の主張でしたが、この点については、次の点を論じておかなくてはなりません。 「真理の道を突き進むことは、喜ばしい生き方であることは間違いないが、時にその道のりはとても険しいものになりうる。」 大哲学者たちの人生を見ていると、一体なぜこの人はこんなに生きるのに不器用なのだろうと思うことがしばしばですが、この絶望的なまでの不器用さは、お [続きを読む]
  • 最良の主人とは誰か
  •  哲学を極めるために必要なことを考えるという今回の探究も、そろそろ大詰めを迎えつつある気がします。人生をかけて追い求めてゆくべき課題として、次のものを掲げておくことにします。 「何よりも、真理そのものを最優先しつつ、この人生を生きぬくこと。」 その人があるものごとに対して本気であるかそうでないかは、おそらくはその人の言葉の表面よりも、ずっと深いところに示されてしまうものなのではないでしょうか。そ [続きを読む]
  • 哲学史との対峙
  •  哲学を極めようとする人には、過去の先人たちとの対話に加えて、次のような課題を引き受けてゆく必要があります。 「自分なりの哲学史の見方を練りあげてゆくこと。」 哲学には、時代とは関係のない永遠の真理を追い求めるという側面も確かにありますが、真にクリティカルな思考は、やはり時代との対峙のうちから閃き出てくるという側面があることは否定できません。 この点からすると、ヘーゲルとハイデガーのなしたこと [続きを読む]
  • 過去の先人たちの言葉
  •  哲学の道を極めたいと望む人には、いま生きている人々との友情のみならず、すでにこの世を去っていった先人たちとのつながりも欠かせません。 「過去の哲学者たちとの対話が、探究者自身の魂の問いかけをさらに研ぎすましてゆく。」 哲学の問いを問うことは、同時に、自分の魂の輪郭をなぞってゆくことです。「わたしとは誰か、わたしは何のために生まれてきたのか」という謎にたいする答えが、年月とともに、まるで暗がりの [続きを読む]
  • 恩師からのメール
  •  哲学への愛という目下の話題については、友愛というトピックの重要性について注意を払わないわけにはゆきません。 「哲学のスピリットは、人から人へと伝わってゆく。」 ヘーゲルという人はこのスピリットの次元について、類まれな感性を備えていたように思われますが、話はなにも彼だけに限りません。一人の人間のうちで燃えさかる真理への愛は、また一人、さらに別の一人へと、闇を照らす炎のように次々に受け継がれてゆき [続きを読む]
  • 哲学で何よりも大切なもの
  •  さて、哲学の練達への道をたどるにあたっては、とにもかくにも次の点だけは欠かせないように思われます。 「何はなくとも、哲学を愛して愛して、愛しつくす。」 孫悟空は、なぜ、超サイヤ人3の高みにまで達することができたのでしょうか。使徒パウロは、なぜ、初期キリスト教最大の伝道者になることができたのでしょうか。それは、彼らが武道を、そしてキリストの道を魂の底から愛しぬいたからにほかなりません。 おそらく [続きを読む]
  • はるかなる道
  •  哲学には情熱の火、あるいは魂の炎が必要であるというのが、筆者の信じるところですが、最近になって必要だと特に痛感しているものが、もう一つあります。 「哲学には、思考のたえざる鍛錬と彫琢が必要である。」 哲学は、頭脳の活発な若者の思いつきだけでは立ちゆかないのだという意味のことを、ジル・ドゥルーズが言っていましたが、おそらく、この意見は正しいのでしょう。哲学者は、自分が抱えることになった問いを、親 [続きを読む]
  • 哲学に炎は必要か
  •  ところで、哲学という営みのあり方について、この機会に提起しておきたい問いが一つあります。 「哲学をするのに、燃える心は必要か。」  この問いに対する答えとしては、次の二つのものが考えられます。 1.必要ではない。理性によるロジックの積み上げだけで十分である。 2.必要である。燃える心なしに、真理にたどりつくことは不可能である。 1のような立場もありうるかとは思いますが、筆者としては、2の立場を大 [続きを読む]
  • 二者択一の脱構築
  •  「キリストの方に突っ走りすぎたら、誰にも読んでもらえなくなるんじゃないの。」最近、助手のピノコくんからこのように言われることが、たびたびありました。確かに、先月の『メシア入門』では、かなりディープなところにまで、わき目もふらずに突っこんでしまった気もします……。 「あらゆる哲学は神学でもある」というのが筆者の主張であるとはいえ、いわゆる「あっち側の人」認定されてしまったら、哲学としても受けと [続きを読む]
  • メシア入門のおわりに
  •  メシアの問題系へのイントロダクションを行うという今回の探求の課題はいちおう前回までで果たしたということにしますが、十字架の出来事について考えることができなかったのは心残りです。 それというのも、イエス・キリストの福音は、十字架の出来事のうちにすべて集約されているといえるからです。 神の愛が十字架のうちにあるというイデーは、このイデーに慣れ親しんでいない方には、とても奇妙なものに感じられ [続きを読む]
  • 無知についての筆者の考え
  •  さて、人間が置かれている状況は、次のようなものであると思われます。 1.誰もが、根源的なしかたで無知である。 2.それにも関わらず、誰もが何かを信じつつ生きている。 1のような根源的無知のモメントを自覚するとき、ひとはソクラテス的な知恵を生きることになるといえます。けれども、その人は同時に、この世で行為しつつ生きていかなければならない。何かをするのが行為なら、何もしないのも一つの行為です。 かく [続きを読む]
  • 根源的な無知について
  •  哲学と神学の境界不分明性テーゼ  : ひとは、哲学がどこで終わり神学がどこで始まるのかを、確定することができない。 このテーゼがもたらす結果は、哲学的にみてきわめて重要であるように思われます。このテーゼの系を見ておくことにしましょう。 境界不分明性テーゼの系  : すべての人は、哲学者であるならば、神学者でもある。 たとえば、「哲学は、神について論じる必要はない」というのもひとつの信仰なので、 [続きを読む]
  • 哲学と神学の境界不分明性テーゼ
  •  死後の問題については、次の論点を見ておくことにしたいと思います。 「死後の問題は、人間が解決するのではなく、メシアによって解決される。」 この問題においては、人間にはイニシアティブを握ることが決してできません。人間にできるのは、ただ、メシアによって提示される永遠の命というイデーについて思いをめぐらせつつ、信じつつ受け入れるということだけです。 ここからは、より一般的で興味深い帰結を引き出すこと [続きを読む]
  • メシアは哲学を完成する
  •  死と復活の問題は、メシアと哲学の関係について考えなおすという可能性を私たちに提示しています。この可能性を、ここでは次のように言い表してみることにしましょう。 「メシアは哲学を破壊せず、完成する。」 筆者は、死の問題はメシアなしには曖昧なままにとどまらざるをえず、したがって、「死ねば無になる」あるいは「死ねば個体性を失って、何らかの大いなる存在のもとに帰ってゆく」といった考えにゆきつくほかない [続きを読む]
  • 死の問題、あるいは哲学への挑戦
  •  死者の復活という出来事には、簡単には汲みつくしえない深い意味が含まれていそうですが、ここでは試みに、次のようにその意味を言い表してみることにします。 「死は、乗り越えられうる。」 神が、キリストを死者の中から復活させたとしてみましょう。このことは、自然科学のオーダーから見ると途方もないことのように見えますが、ライプニッツも指摘しているように、神は、存在するならば自然科学のオーダーを超えるレヴェ [続きを読む]
  • パウロの証言
  •  「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」 メシアの知らせを告げ知らせ、その後にキリスト教と呼ばれることになる運動の巨大な発火点の一つとなった使徒パウロが、この知らせのコアになる部分について書いている箇所です。かれは、次のように言います。 「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあ [続きを読む]
  • 死者の中からの復活
  •  メシアのことがわかったとして、一体どのようにしてその知らせを信じたらよいのだろうか。この問いにたいしてイエスはくり返し、次のように答えています。 「もし、わたしのことが信じられないなら、わたしの行うわざによって信じなさい。」 言葉だけで信じられないのなら、メシアのまわりで起こる出来事に目を向けなさい。大勢の人びとにパンを食べさせたり、水の上を歩いたり、病人を癒したりといったエピソードについては [続きを読む]
  • 生き方が変わるとき
  •  メシア的瞬間において信じるという出来事のうちに引き入れられたひとは、そののちに、もうそれまでの生き方を続けることができません。 メシアを信じた人は、すぐに自分のまわりにも、その知らせを伝えようとします。「私たちを救ってくれる人が、この世にやって来たのだ!」しかし、その人はすぐに、まわりの人びとはその知らせを信じるどころか、そのような知らせには全く興味など持っていないことを思い知らされます。 そ [続きを読む]
  • メシア的瞬間について
  •  「メシアがこの世にやってきた」という知らせを聞く時には、ひとはメシア的瞬間とでも呼ぶべき時間性にかかわりを持つことになります。 メシア的瞬間は、人間にたいして法外な真理が提示される場にひとを引き込みます。この真理は、理性に反するわけではありませんが、理性を超えたところから閃光のようにして示されるので、ひとはこの真理にたいして推論による判定を下すことができません。 その結果、メシア的瞬間にさいし [続きを読む]
  • すべての人の救いという問題
  • 今回の記事では、次の論点について考えてみることにしたいと思います。 「メシアは、その人がもしも本当にメシアであるならば、苦しみのうちにあるすべての人を救うことができるはずである。」 わたしがたとえ今は苦しんでいないとしても、世界には苦しんでいる人が無数におり、わたしが今この時に苦しんでいるとしても、おそらくはわたしよりも苦しんでいる人が、やはり無数にいるだろう。そう考えてみると、今のわた [続きを読む]
  • 終末に愛を
  •  「philo君。軽々しくは言えないことだが、わたしは、この世界の終わりがとても近いのではないかと思っているのだ……。」 ワルシャワの教会でお世話になった、ポーランド人のM牧師とお話しさせていただいたときの言葉です。ポーランド・リトアニア旅行と万物の終わりについては、他にも書きたいことがたくさんあるのですが、この辺りでそろそろ、いちど留保をつけておかなくてはなりません。 それは、キリストの福音において [続きを読む]
  • リトアニアの思い出
  •  個人的な話になってしまいますが、万物の終わりというテーマについては、去年の春のポーランド・リトアニア旅行のことを思い出さずにはいられません。 この旅行は、クリスチャンの人とクリスチャンでない人が合わせて30人ほど参加した団体旅行で、僕は助手のピノコくんと二人で参加しました。 アウシュヴィッツの強制収容所跡や、杉原千畝さんの足跡をたどるというのが旅の目的でしたが、その時の僕は精神的に瀕死状態だった [続きを読む]
  • 万物の終わり
  •  本題のメシアのほうに戻りましょう。このテーマについては、危険なポイントであることは否めませんが、次のような時代認識と切り離して考えることができません。 「万物の終わりが、迫っている。」 キリスト者の認識によるならば、イエス・キリストがこの地上に二千年前に現れた時から、世界の終わりはすでに目前に迫っています。 もう二千年もたっているではないかという疑問はとうぜん浮かんできますが、神のもとでは二 [続きを読む]
  • ユダヤ人と私たち
  •  「ユダヤ人とわたしに、何の関係があるのかね。わたしは生まれてからこのかた、ユダヤ人なんて、たったの一人も見たことがないんだぞ。」 それこそ、真相は神さまに聞くしかありませんが、聖書によると、私たちの魂は、ユダヤ人の歴史があったからこそ救われることができるのだとされています。メシアであるイエス・キリストも、ユダヤ人の中から出てきたので……。 「なんでユダヤ人だけ、そんなに特別扱いなんだ?日本人で [続きを読む]
  • 聖書のウルトラツイスト
  •  ところで、聖書には旧約と新約の二つがあることはよく知られていますが、聖書のメッセージをメシア=救世主という観点から一言で要約すると、次のようになるかと思います。 1.旧約聖書……ユダヤ人は、メシアを待ち望む。 2.新約聖書……メシアが来たので、全人類が救われる! はじめてこのことを聞いた方がいるとすれば、すぐに疑問が湧いてくるかもしれません。「なんで話がユダヤ人から、とつぜん全人類に……?」  [続きを読む]