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イデアの昼と夜 https://philo1985.hatenablog.com/

東京大学で哲学を学びつつ、ブログを書いています。よろしくお願いします。

philo1985
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2015/05/22

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  • キング牧師は「呼び声」を聞いた:「決意性」の分析に向けて

    「負い目ある存在」の「重荷」としての性格について議論を重ねてきたことで、私たちはようやく「決意性」の概念について論じる準備が整いつつある。もう一つだけ事例を取り上げた後に、ハイデッガーの『存在と時間』に戻ることとしたい。今回扱う事例は1956年1月27日の夜、アメリカのモンゴメリーで祈っていた一人の男性に関するものである。 「そこで私はコーヒーカップの上にうつぶせになった。私はそのことを決して忘れない。私は祈りに祈った。[…]主よ、私は告白しなければなりません。私は今弱いのです。くじけそうです。勇気を失いつつあります。」 祈っている男性は公民権運動の指導者として知られる、マーティン=L=キング…

  • 輝きは、苦しむことを通して生まれ出てくる:「不安」と「幸福」の関係をめぐって考える

    前回に引き続き、「存在することの重み=舞台上の緊張の重苦しさ」に関するキルケゴールの言葉を題材にしつつ、考察を掘り下げてみることにしたい。同時代の女優であったJ・L・ペーツゲスが体現している「軽やかさ」について、彼は「危機」の中で次のように言っている。 「舞台上の重くるしい緊張の中においてこそ、まさに彼女の本領が発揮されるのであり、そこにおいてこそ彼女は小鳥として舞い上がり、まさに重さは彼女に軽さを与え、重圧は彼女に最も高き所への飛翔を約束する。そこには不安の影一つない。彼女は舞台裏ではおそらく不安であろうが舞台上では幸福そのものであり、自由を得た小鳥のように軽やかである。」 この箇所でキルケ…

  • 「女優の軽やかさは、どこから来るのか?」:「危機」におけるキルケゴールの言葉から考える

    「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるにあたっては、「実存」の語を現在用いられているような意味ではじめて使用した先人の言葉を参照しておくこととしたい。セーレン・キルケゴールが1848年に発表した「危機」(正式題名「危機および一女優の生涯における一つの危機」)における次の文章を引用するところから、議論を開始してみる。 「彼女のもっているその規定しえないあるものは、最後に、次のことを意味していると言えよう。すなわち、彼女は舞台上の緊張状況とまったく正しい関係にある、ということである。」 このテクストでキルケゴールは、当時のデンマークで有名であった女優、J・L・ペーツゲスの魅…

  • カルナナンダのように、走りきれたら:1964年、東京オリンピックにおける出来事を通して考える

    今回は、「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるために、一つのエピソードを取り上げてみることにしたい。それは今から60年ほど前、1964年に起こった出来事である。 1964年の東京オリンピックにおける10000メートル走で、後々まで人々の記憶に残ることになった一人の選手がいた。その選手こそ、セイロン(現在のスリランカ)のラナトゥンゲ・カルナナンダに他ならない。 といっても、この選手はレースに勝ったというわけではない。反対に、カルナナンダ選手のレースでの成績は最下位だったのである。それというのも、彼はこの日には体調を崩していて、本来ならばレースどころではないという位の最悪の…

  • 「とげ」と共に生きるということ:『コリント人への第二の手紙』を通して考える

    私たちは「生きることの重荷」、あるいは「被投性の重み」について、どのように考えたらよいのだろうか。この問題を「良心の呼び声」との関連において掘り下げるために、今回の記事では、『コリント人への第二の手紙』第12章におけるパウロの言葉を参考にしてみることとしたい。この章の5節において、彼は次のように言っている。 「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」 自分に与えられた啓示について語った後、パウロは自らが抱えている「弱さ」について書き始める。そこで彼が語るのは、彼を悩ませ続けている「肉のとげ」についてである。 この「肉のとげ」の具体的な内容は明かされていないが、パウロの…

  • 「自分自身を愛することの難しさ」:〈使命〉=「最も固有な存在可能」の問題圏について考えるために

    私たちはこれまで「重荷」という表現を用いてきたが、この言葉はハイデッガー自身が『存在と時間』において用いてもいる。「負い目ある存在」について語られている、次の箇所を引用してみる。 「存在していながら、現存在は被投的なものであり、じぶん自身によってみずからの〈現〉のなかにもたらされたのではないものである。[…]そのような被投的な存在者として現存在は、実存しながら、じぶんの存在可能に対する根拠である。現存在がその根拠をみずから置いたのではないとしても、現存在はその根拠の重みのうちにもとづいている。現存在にとって、気分がこの重みを、重荷としてあらわにするのである。」(『存在と時間』第58節より) 人…

  • 叱責する良心、あるいは、「重荷」から解放されるという可能性:アウグスティヌス『告白』の場面を通して考える

    ハイデッガーの言う「負い目ある存在」を直観的に理解するために、今回は一つの具体的なケースを見てみることにしたい。アウグスティヌスの『告白』第八巻第七章における次のような場面を元に考えてみることにしよう。 「さて、わたしはこの世の希望を捨てて、ただあなたにのみ従うことを日一日と延ばしているのは、わたしの進路を向けるべき確実なものが明らかにならないからだと考えた。しかしわたしが、わたしに対して丸裸にされて、わたしの良心がわたしをつぎのように面詰する日が来た。『わたしの舌よ、おまえはどこにあるのか。おまえは真理が確実でないために、虚妄のにを捨てることができないといったではないか。見よ、真理はもう確実…

  • 生きることの重荷と、「幸福」なるものの探求:「負い目ある存在」の分析へ

    今回の記事から、良心の現象をめぐる分析は新しい領域へと踏み込んでゆくことになる。まずは、次の問いを立てるところから探求を開始してみることにしたい。 問い: 「良心の呼び声」は私たち人間存在に対して、一体何を告げ、理解させるのだろうか? 私たちはこれまで、「内なる呼び声」なるものの性格について分析を加えてきた。「『良心の呼び声』は私たち自身の思惑を超えて、私たち自身に語りかけてくる」がそこでの結論であったが、それでは、そこで語られていることの内実とは一体、何なのだろうか。「〜すべきではないか?」「〜すべきではないのではないか?」といった感覚に襲われるとき、正確に言って、私たちには何が告知されてい…

  • 「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ」:「良心の呼び声」に関する、これまでの分析の総括

    今回の記事では、「良心の呼び声」の性格を見定めるというこれまでの作業を総括する意味で、「良心とは気づかいの呼び声である」という『存在と時間』第57節のテーゼを検討しておくこととしたい。 「現存在が呼ぶ者であり、同時に呼ばれる者であるとする命題は、いまやその形式的な空虚さと自明性とを失ってしまっている。良心は気づかいの呼び声としてじぶんをあらわにしている。[…]良心の呼び声すなわち良心そのものは、現存在がじぶんの存在の根拠において気づかいであるというしだいのうちに、その存在論的可能性を有していることになる。」(『存在と時間』第57節より) これまでの実存論的分析の流れの中で、現存在、すなわち人間…

  • 「誰にでもできそうで、誰にもできないことを」:マザー・テレサが、ロンドンの通りすがりの男性にしたこと

    「良心の呼び声」を聞くことは人間に、どのような変容をもたらすのだろうか。この点について考えてみるために、前回に引き続いて、マザー・テレサの言葉に耳を傾けてみることとしたい。 「私はあの時のことを、絶対に忘れることはないでしょう。ある日ロンドンの街を歩いていて、ひとりの男性がとても寂しそうにポツンと座っているのを見かけました。私は彼のところへ歩いて行って、彼の手をとり握手しました。彼は大声でこう叫んだのです。『ああ、人間のあったかい手に触れるのはほんとうに、何年ぶりなんだろう!』彼の顔は喜びで輝いていました。[…]私は、この経験をするまでは、このような小さい行為がこれほどまでに喜びをもたらしてく…

  • 祈るという行為の実存論的な意味について:「良心の呼び声」との関連で考える

    「良心の呼び声」は現存在であるわたしの思惑を超えるところから、わたしに降りかかってくる。私たちはこの事態についてすでに考察を重ねてきたが、この論点については『存在と時間』の読み幅を拡げるという意味でも、一つの問題提起を行っておくこととしたい。 問題提起: 「良心の呼び声に耳を傾けるという行為は、祈るという行為ときわめて近いところでなされるものなのであって、極限点においては、二つの行為は一致すると言えるのではないか?」 1927年に出版された『存在と時間』において論じられている「呼び声」の議論が、私たちの日常からは少し遠いところで論じられているような印象があることは否定できない。しかし、良心の現…

  • 「『呼び声』を聞いてしまったら、元に戻ることはできない」:生の本質について考える

    呼び声の性格を見定める作業から導かれてくる帰結を引き出すという試みも、そろそろ大詰めを迎えつつある。前回に見た「『それ』が呼ぶ」に続く箇所を引用しつつ、考えてみることにしよう。 「『それ』が呼ぶ。期待に反して、否むしろ意志に反してすら呼ぶ。他面では呼び声は疑いもなく、私とともに世界内で存在している或る他者から到来するのでもない。呼び声は私のうちから到来し、しかも私を超えて到来するのだ。」(『存在と時間』第57節より) 「呼び声は私のうちから到来し、しかも私を超えて到来するのだ。」この表現から見えてくるのは、私たちの生は、私たち自身の思惑をはるかに超えて進んでゆくという実存論的事実に他ならないの…

  • 「事象そのものへ!」:『存在と時間』のテーゼ「『それ』が呼ぶ」の分析を通して、哲学することへの衝動の本質を見定める

    良心の呼び声の性格をより根源的な仕方で捉えるために、私たちは、ハイデッガーの「『それ』が呼ぶ」という定式に着目してみることにしたい。 「呼び声はそれどころか、私たち自身によって計画されるものではまったくない。準備されるものでも、随意に遂行されるものでもまったくない。『それ』が呼ぶ。期待に反して、否むしろ意志に反してすら呼ぶ。」(『存在と時間』第57節より) まずは、文脈を確認しておくことにしよう。私たちの生においては、あたかも日常性を突き破るようにして、呼び声の経験とでも言うべきものが降りかかってくることがある。すなわち、「あんなことを言うべきでは/するべきではなかった……」とか、「誰から言わ…

  • 「わたし自身が、わたしにとって謎となる経験」:実存論的分析のテーゼ「呼び声は通り過ぎる」を検討する

    良心の呼び声についての考察を深めるために、「呼び声は通り過ぎる」とハイデッガーが語っている事態について、掘り下げて考えてみることにしたい。 「現存在は、他者たちとじぶん自身にとって現存在として世間的には理解されている。そのような現存在が、この呼びかけにあってはとおり過ぎられる。[…]まさしくこのとおり過ぎることにあって呼び声は、公共的な威信にかまけている〈ひと〉を無意義性のなかへと突きおとす。自己はいっぽう、呼びかけられたことにおいてこのような避難所や隠れ家を奪われて、呼び声によってじぶん自身へと連れもどされるのである。」(『存在と時間』第56節より) ここでの「通り過ぎ」について、二つの観点…

  • 「人間存在は果たして、何に耳を傾けるべきか?」:『存在と時間』が提起する根本問題について

    今回は少し立ち止まって、次の問題についてじっくりと考えてみることにしたい。 問題提起: 「聞く」ことをめぐる『存在と時間』の議論は2022年の現在を生きている私たちに対して、私たち自身の生のあり方に関わる非常に重要な問いを投げかけていると言えるのではないだろうか。 ① 現存在であるところの私たちは普段、〈ひと〉の言うことに耳を傾け、気がつかないうちにその流れの中に飲み込まれるようにして生きていると、ハイデッガーは言う。 先に注意しておくと、私たちの人生においては、「他者が本来的に語るのに耳を傾けることによって、私たち自身の生き方が変わる」ということも確かに起きているのだが、『存在と時間』の議論…

  • 日常の風景が、「問いかけ」の場面へと変わるとき:『存在と時間』第55節が描き出す情景

    「呼び声」の分析を進めてゆくために、ハイデッガーの以下の言葉を取り上げつつ、「聞く」ことの可能性について考えてみることとしたい。 「〈ひと〉の公共性やその空談へとみずからを喪失しながら、現存在は、〈ひとである自己〉の言うことを聞くことにあって、じぶんに固有な自己を聞き落とすのである。」(『存在と時間』第55節より) この箇所では、日常における人間存在にとっての「聞く」ことのあり方が問題になっているといえる。「私たちは何を『聞いて』いるのか?」という観点から、事象そのもののあり方にアプローチしてみることとしたい。 ① 私たちの日常は、〈ひとである自己〉の言うことを聞くことによって特徴づけられてい…

  • 「彼方から彼方へと呼び声がする」:呼び声に耳を澄ますという、実存論的分析の課題について

    「良心の呼び声」の現象に本格的に取り組んでゆくにあたって、まずは、この分析が向かって行く方向を前もって見定めておくことにしたい。 論点: 「良心の呼び声」に関する実存論的分析は、「内なる呼び声に耳を澄ますこと」とでも言うべき態度を通して遂行されることになるはずである。 状況を整理しておこう。すでに見たように、良心の現象が最も分かりやすい仕方で問題になっていると言えるのは、「良心がとがめる」といった場合である。つまり、現存在であるわたしが自分のしてしまったことに対して、悔いを感じているという時には、自分自身の良心が問われていることは明白であるといえる。しかし、「呼び声が呼ぶ」という現象の範囲は果…

  • 「ダイモーンの呼び声」:ソクラテスのケースから出発して、私たちの日常的な経験について考える

    「呼び声としての良心」という主題について考えるにあたっては、私たちはやはり、まずはよく知られた先人の例から出発してみるのがよいだろう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、ソクラテスは次のように語っている。少し長くなってしまうが、引用してみる。 「たぶん、それにしても、おかしなことだと思われるかもしれない。わたしが、[…]公には、大衆の前にあらわれて、諸君のなすべきことを、国民全体に勧告することを敢えてしないというのは、奇妙だと思われるかもしれません。しかしこれには、わけがあるのです。それはわたしから、何か神からの知らせとか、鬼神(ダイモーン)からの合図とかいったようなものが、よく起こるので…

  • 「深淵のただ中において、あなた自身であれ!」:議論の出発点「良心は開示する」

    ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、良心をめぐる分析に入ってゆくこととしたい。 「良心の分析は、その出発点として、良心という現象にかんする中立的な所見を採用する。すなわち、良心はなんらかの様式で、だれかになにごとかを理解するようにさせるという事情にほかならない。良心は開示し、それゆえに開示性としての〈現〉の存在を構成する、実存論的現象の領分にぞくしている。」(『存在と時間』第55節より) 良心は何事かを開示する……とは言っても、そもそも「良心」という言葉自体、日常の言語使用においてはあまり馴染みがないものかもしれない。まずは、良心の経験なるものについて、常識(コモン・センス)の観点か…

  • 「本来的なわたし」なるものが、果たして本当に存在するのか?:「良心の呼び声」の分析へ

    『存在と時間』読解は、今回の記事から「良心の呼び声」の分析に入ることとしたい。これまでの議論に対する次のような疑問を提起してみることを通して、本格的な分析に入ってゆく上での導入を試みてみることにしよう。 これまでの『存在と時間』の議論に対する疑問: 人間存在にとって、「本来的なおのれ自身」などというものが果たしてありうるのか?あるいは、哲学の事柄としてそのようなものについて語ることは、どこまで可能なのだろうか? このブログにおいても、特に最近の記事ではほぼ毎回のように言及してきたが、『存在と時間』という本においては、「最も固有な存在可能」や「本来的な自己存在」のような概念が、議論において非常に…

  • 「今日も明日も、やり続けてみよう」:デカルト哲学における「高邁」の情念について

    自己を掴み取るとはいかなることであるのかを探るために、もう一人、近代の哲学者の言葉に耳を傾けておくこととしたい。デカルトは『省察』の第三部の冒頭において、「重視」や「軽視」の情念について語り始めたのち、次のように言っている。 「そして、知恵の主要な部分の一つは、どんなやり方、どんな理由で、各人が自分を重視または軽視すべきかを知ることであるから、ここでそれについてわたしの意見を述べてみたい。」 この言葉に続いてデカルトが語るのは、ある意味では彼の全哲学の到達点であると彼自身も認めているところの、「高邁」についてである。以下、彼の語る「高邁」の情念の内実を見てみることとしたい。 ① 私たち各々の人…

  • 「それは世にも美しい、驚嘆すべき像であった……。」:『饗宴』において、アルキビアデスはソクラテスという人物のうちに、何を見たのか

    自己であること、一人の人間が、本当の意味で「わたし自身」と言えるような一貫性を持つとは、どのようなことなのだろうか。この点を探るために、今回の記事では、プラトン『饗宴』の最終部分に位置する、アルキビアデスによるソクラテス賛美の箇所について見ておくこととしたい。 「さてこのようなわけで、ぼくも他の人たちも、このサテュロスの笛の曲[ソクラテスの言葉のこと:引用者注]によって、以上のような目にあってきたのだ。しかしその他の点についても、君たちにはぼくの言うことを聞いてもらいたいのだ、この人がぼくのたとえたものにどれほど似ているか、またどれほど驚くべき力をもっているかということを。というのも、いいかね…

  • 選択と決断:現存在であるところの人間が、「わたしは、わたし自身の生を生きている」と言うことのできる根拠とは何か

    さて、私たちは読解を進めてゆくにあたって、なぜハイデッガーが『存在と時間』において「良心の呼び声」なるテーマについて論じたのか、その必然性を理解すべく試みてみることとしたい。その上で押さえておく必要があるのは、以下のような論点なのではないかと思われる。 論点: 『存在と時間』の後半部の議論の主要モチーフの一つとは、「決意によって、自己を取り戻すこと」に他ならない。 ここには、「私たち人間存在にとって、生きるとはいかなることか?」という問いに対して、20世紀の哲学が提出した決定的な応答の一つがあると言うこともできそうである。ハイデッガーの議論を、ここに再構成してみることにしよう。 これまでの読解…

  • 「存在論の歴史の破壊」:『存在と時間』の出現と共に、人々は、時空感覚が歪むのを感じた

    1927年に出版された『存在と時間』が当時の人々にもたらした衝撃の内実とは一体、どのようなものだったのだろうか。この点についての理解を深めるために、今回の記事では、以下の論点について掘り下げておくこととしたい。 論点: 『存在と時間』の序論部分に位置している第六節は、「存在論の歴史の破壊という課題」というタイトルを付されている。 「破壊」とは非常にインパクトのある言葉であって、おそらくは当時の人々の中にも、「アカデミズムの本で『破壊』は、さすがにやり過ぎなのでは……」と思った人は、決して少なくなかったものと思われる。こういったパワーワードを断固たる決意と共に持ち出せてしまうところが、ハイデッガ…

  • 人はいかにして本来のおのれになるか:1927年、マルティン・ハイデッガーがくぐり抜けた「大勝負」について

    「自己」の問題にアプローチするための助走の意味も兼ねて、1927年の『存在と時間』出版が著者のハイデッガー自身にとってどのような意味を持つ出来事であったかという点について、改めて考えておくこととしたい。後年のハンナ・アーレントはこの本が収めた成功に関して、次のようなコメントを付け加えている。 「この著書[『存在と時間』のこと。引用者注]の稀有な成功は──それがただちに巻き起こしたたいへんな評判だけでなく、とりわけ、今世紀の出版物にはほとんど類のないほど長く持続しているその影響力は──、もしそれ以前にいわゆる教師としての成功がなかったとしたら、ありえたかどうか疑問です。いずれにしても当時学生だっ…

  • 「事象へ現に到達している男」、あるいは、「発狂したアリストテレス」:思索するという行為は、いかなることを意味するか

    『存在と時間』出版以前のハイデッガーをめぐる状況について、もう少し掘り下げておくことにしたい。まずは、引き続きアーレントの回想の言葉に耳を傾けつつ、当時の状況の方へと遡ってみることにしよう。 「第一次世界大戦後の当時、ドイツの大学には叛乱こそ起きていなかったものの、大学の教育・学習体制への不満はたいへんひろまっていました。[…]哲学はパンを得るための学ではなく、むしろ、飢えている者たちが断固学ぼうとした学であって、まさにそれゆえに彼らはじつに厳しい要求をもっていました。彼らにとって、学びたいのは世間知や人生知ではけっしてなかったし、あらゆる謎の解決策をもとめている者には、世界観だの世界観上の党…

  • 「哲学の隠れた王」:ハンナ・アーレントの証言を通して、『存在と時間』出版以前のハイデッガーの状況を探る

    「良心の呼び声」の分析へと向かう準備作業として、『存在と時間』が出版される1927年以前の状況に遡った上で、この本が哲学の歴史において持つ意味について、改めて考えてみることにしたい。 論点: 20世紀の哲学の歴史の流れを決定づけた書物である『存在と時間』が出版される前、マルティン・ハイデッガーは、すでにドイツ全土でその名を知られる存在となっていた。 この点については、当時の生きた証人であるハンナ・アーレントの言葉に耳を傾けてみることにしよう。後年のアーレントはその頃のハイデッガーの「名声」について、いささか奇妙だと思われる点を指摘している。 「この名声にはどこか奇妙なところがありました。[…]…

  • 「精神の革命」は決して、終わることがない:『ソクラテスの弁明』について、論じ終えるにあたって

    死刑の判決が下されたのち、『弁明』のソクラテスは、これからアテナイで起こるであろう出来事について、一つの「予言」をすると言い始める。少し長くなってしまうが、その箇所を引用しつつ、検討してみることとしたい。 「諸君よ、諸君はわたしの死を決定したが、そのわたしの死後、間もなく諸君に懲罰が下されるだろう。それは諸君がわたしを死刑にしたのよりも、ゼウスに誓って、もっとずっとつらい刑罰となるだろう。なぜなら、いま諸君がこういうことをしたのは、生活の吟味を受けることから、解放されたいと思ったからだろう。しかし、実際の結果は、わたしの主張を言わせてもらえば、多くはその反対となるだろう。諸君を吟味にかける人間…

  • ソクラテスの「最も固有な存在可能」は、同胞たちに対しても差し向けられている:『弁明』における、「馬とあぶ」の喩えを通して考える

    ソクラテスの言葉を通して、哲学する人間の実存のあり方について、もう少し掘り下げてみることにしよう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、彼はこう言っている。 「どうか騒がないでいてください、アテーナイ人諸君。どうぞ、わたしが諸君にお願いしたことを守って、わたしの言うことに、何でもすぐ騒ぎたてるようなことをしないで、まあ、聞いてください。[…]それはつまり、こういうことなのだ。諸君。もしも諸君がわたしを殺してしまうなら、わたしはこれからお話しするような人間なのだから、それはわたしの損害であるよりも、むしろあなたがた自身の損害になるほうが、大きいだろう。」 自分のことを殺すならば、それはソクラテ…

  • 「精神の革命」は「気づかいの向け変え」として企てられる:『ソクラテスの弁明』における問題の核心

    私たちは『存在と時間』における「死への先駆」につての議論を終えたが、この主題に関連して、一人の思索者の生きざまに関する省察を深めておくこととしたい。まずは、次の言葉を取り上げるところから始めてみることにしよう。 「世にもすぐれた人よ、君はアテーナイという、知力においても、武力においても、最も評判の高い、偉大な国都の人でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことにだけ気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮や真実は気にかけず、精神をできるだけすぐれたものにするということにも、気をつかわず、心配もしていないというのは。」 哲学に関心を…

  • 「実存」の概念をめぐる探求が辿り着いた、比類のない自由:「先駆」に関する議論を締めくくるにあたって

    「死への先駆」をめぐる議論に決着をつける時が、ようやくやって来たようである。少し長くなってしまうが、最初に、ハイデッガー自身が探求を総括している部分を引用しておくこととしたい。 「実存論的に投企された、死へとかかわる本来的な存在の性格づけは、つぎのように総括される。先駆することによって現存在に対して、〈ひとである自己〉のうちへと喪失されたありかたが露呈され、現存在はそのことで、配慮的に気づかいながら顧慮的に気づかうことに第一次的には依拠することなく、じぶん自身でありうる可能性のまえに置かれることになる。このじぶん自身とは、情熱的な、〈ひと〉の錯覚から解きはなたれており、しかも事実的でそれ自身を…

  • 「不安」こそが、実存のリアルを開示する:Sein zum Todeにおける真実の問題

    「死への先駆」の概念の掘り下げも、そろそろ大詰めを迎えつつあるようである。ハイデッガーが垣間見ていた「実存の本来性」の深みへと潜ってゆくことを目指して、仕上げの作業に取り組むこととしたい。 論点: 「死への先駆」は、人間存在を脅かしている深淵をもはや恐れることなく、根本的情態性であるところの不安のうちへと、決然として飛び込んでゆく。 死の可能性とは人間にとって、「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実な、それでいて未規定的な可能性」に他ならなかった。この「未規定的」という契機に着目するとき、実存論的分析の目の前に、「死へと関わる本来的な存在」の最後の次元が開かれてくる。 改めて…

  • リアルな人間として生き始めること:「世界内存在」の概念をめぐって

    前回の記事で取り上げた一節をもう一度引用しつつ、そこに含まれている「世界内存在を確実なものとする」という表現について、掘り下げて考えてみることにしたい。 「死を真とみなして保持することー死はそのつどじぶんに固有な死であるーは、世界内部的に出会われる存在者や、形式的な諸対象にかんするあらゆる確実性とはべつのありかたを示し、またそうした確実性よりも根源的なものである。なぜならそれは、世界内存在を確実なものとするからだ。」(『存在と時間』第53節より) すでに見たように、日常性における人間の「死へと関わる存在」は、死について考えるのを「それとなく避けること」によって特徴づけられていた。〈ひと〉は確か…

  • 「先駆」は存在論の次元を要求する:1927年の『存在と時間』出版は、なぜそれほどまでに衝撃的であったか

    私たちは『存在と時間』が問題としている根本事象の方へと、次第に近づきつつある。ハイデッガーの次の一節を読みつつ、「死への先駆」の概念を仕上げるという課題に取り組んでゆくこととしたい。 「死を真とみなして保持することー死はそのつどじぶんに固有な死であるーは、世界内部的に出会われる存在者や、形式的な諸対象にかんするあらゆる確実性とはべつのありかたを示し、またそうした確実性よりも根源的なものである。なぜならそれは、世界内存在を確実なものとするからだ。」(『存在と時間』第53節より) すでに見たところによれば、死とは現存在であるところの人間にとって、「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない、…

  • 『パイドロス』が語っていること:プラトンのテクストにおける「本来的な仕方で実存すること」の契機について

    私たちは、「先駆すること」の契機のうちに含まれる「時間性」の問題について、すでに見てきた。『存在と時間』の議論の方へと本格的な仕方で戻ってゆく前に、今回はこの論点を深めておくためにもう一人、別の哲学者のテクストを見ておくことにしたい。 「ちがった説を受け入れることは、ソクラテス、不可能でしょう。とはいうものの、あなたが言われたのは、なんともなみなみならぬ仕事のようですね。」 プラトン『パイドロス』の、最終部分近くの一節(272B)である。ここで、ソクラテスの対話相手であるパイドロスが語っているのは、彼らがそれまで討議していた「真の弁論術を身につけるために歩まなければならない、限りなく長い道のり…

  • 「実存的なあり方の第一次的な意味は将来なのである」:『存在と時間』の時間論、あるいは、20世紀哲学における「未来時の持つ根源的な力能の次元の発見」について

    パスカルの「賭け」に関する議論については、私たちはすでにその行程をたどり終えた。今や、そこで獲得された成果から、『存在と時間』における議論の核心部の方へと歩みを向け直すべき時である。 論点: 20世紀の思索が向かう方向を決定づけた書物である『存在と時間』の分析の中核は、現存在であるところの人間が存在することの根源的な意味を、「時間性」として読み解くことのうちにある。 この論点は、いずれ後に「実存の本来性」を実現するところの「先駆的決意性」のあり方が十全に示される時になってはじめて、包括的に論じることも可能になるだろう。ここでは、分析の現在の時点で可能な範囲内で、この論点に迫ってみることにしたい…

  • 「この賭けには、勝つという以外の結果はありえない」:ブレーズ・パスカルは「実存することの奥義」について、何を語っているのか

    『パンセ』断片233をめぐる私たちの検討も、終わりに近づきつつある。パスカルが「賭けの奥義」とでも呼びうるようなモメントについて語っている箇所を引用しつつ、「実存は賭けである」を存在論的なテーゼとして仕上げるべく試みてみることとしたい。 「以前には、君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。[…]彼らが、まず始めた仕方にならうといい。それは、すでに信じているかのようにすべてを行うことなのだ。[…]そうすれば、君はおのずから信じるようにされるし、愚かにされるだろう。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片233より。強調部分は引用者による) 前回の記事と…

  • 「見よ、すべてが新しくなったのである」:賭けに出ることへの「ためらい」の問題に対する、『パンセ』の処方箋

    「賭け」に関する議論も、そろそろ大詰めである。『存在と時間』の方に戻ってゆくという意味でも、私たちは最後の主題として、次のような問いについて改めて考えておくことにしたい。 問い: 「『実存は賭けである』というテーゼについては、確かに了解した。しかし、日常性の側から見るならば、そのようにスケールの大きな話を振られたとしても、恐らくは、どうしてよいか分からないものと思われるのである。『賭けに出ることへのためらい』という問題については、どう考えたらよいのか?」 まずはパスカル自身の議論に即して、問題を整理してみる。今ここに、「神は存在するのか、それとも、存在しないのか?」という二者択一に際して、「神…

  • 「最も根源的な真理とは、実存の真理である」:パスカルの場合を通して、『存在と時間』の根本テーゼについて考える

    今回は、パスカルが残した次の言葉を読み解くという形で探求を進めてゆくこととしたい。 「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片4より) すでに触れたように、パスカルが生きていた17世紀に開始された「デカルト革命」は、急速に発展しつつあった幾何学の思考法を武器とすることによって哲学の世界のあり方を塗り替えていった。「三角形の和は二直角(180度)である」のような命題は、個々の人間に有無を言わせないような確実性、あるいは明晰判明性を備えている。哲学の営みも、明晰判明な仕方で思考するよう自らの精神を導くことによって、同じように絶対的な堅固さを獲得でき…

  • 「恐るべき天才」:ブレーズ・パスカルはいかにして、サイクロイドの求積法を発見するに至ったか

    今回の記事では、「賭け」の議論を提出したブレーズ・パスカルその人の実存の方へと目を向けてみることにしたい。 論点: 思索者としてのパスカルは、彼の生きていた時代の新しい潮流の中でめざましい活躍をする可能性を持っていたにも関わらず、その実存を「時代のただ中で、その時代の精神に抵抗しながら考え抜くこと」の方へと費やした。 パスカルの晩年には、この論点について考えてみるために参考になる有名なエピソードがある。この出来事は、彼がいかなる「可能性へと関わる存在」のうちで生きていたのかを、極めて印象的な仕方で示すものであると言えるのではないか。 1658年のある日、パスカルは自らの病状が悪化し、甚だしい肉…

  • 哲学の使命:あるいは、パスカルはいかなる点において、自分自身の時代を代表する哲学者に対して抵抗せざるをえなかったのか

    今回の記事では「賭け」の議論に立ち戻りつつ、パスカルの思索の戦いの歴史的な文脈について考えてみることにしたい。 論点: パスカルにおける「賭け」の議論の全体は、デカルト主義における「幾何学的な秩序を備えた論証による、絶対確実な真理の導出」というイデーに対抗するものであったと言えるのではないだろうか。 デカルトにとっての問題とは、「思考することのうちで、どれほど疑ったとしても絶対に疑うことのできない真理を見出すこと」に他ならなかった。彼が懐疑することのうちで「コギト・エルゴ・スム」、すなわち、「思考するわたし」の発見に至ったことが、17世紀における根底的に新しい哲学の出現を可能にしたことは、21…

  • 「デカルト革命」:一人の思索者は、いかにして当時の哲学の世界を徹底的な仕方で転覆したか

    私たちは、「賭け」についての『パンセ』の議論の歴史的側面にも注目しながら、パスカルの立場について、もう少し掘り下げて考えてみることにしたい。 論点: 「賭け」についてのパスカルの議論のうちには、彼がその最晩年の思索において、全実存を賭してデカルト主義と闘ったことの痕跡が刻まれていると言えるのではないか。 今回の記事では、17世紀の文脈に身を置き入れつつ、この後に議論を展開するための下準備を整えておくこととしたい。まずは、哲学史上の基礎知識を改めて確認しつつ、パスカルが生きていた時代の雰囲気のうちに入り込んでみることにしよう。 1600年代に哲学の歴史において起こった最大の衝撃、それは言うまでも…

  • 確実性と不確実性の問題:「賭け」の議論において、何が問題になっているのか

    パスカルの言葉を手がかりにして、私たちが問題としているテーゼ「実存は賭けである」について、さらに検討を加えてゆくこととしたい。 「賭をする者は、だれでも、不確実なもうけのために、確かなものを賭けるのである。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片233より) 「確実性」と「不確実性」とは、パスカルの「賭け」の議論を理解する上で非常に重要な概念である。今回の記事では、この二つのタームを通して目下の主題について考えてみることにしよう。 賭けには普通、賭け金と呼ばれる要素が付随する。つまり、自明なことではあるが改めて考えてみると、賭ける時には、人は何かを担保として支払うことによって賭けるのであって、…

  • 「君はもう船に乗り込んでしまっているのだ」:ブレーズ・パスカルは彼の読者に対して、「賭けることへの被投」の問題を提起する

    2022年の現在を生きている私たちにとって、思索者としてのパスカルが提起したさまざまなイデーは一体、どのような意味を持っているのだろうか。ここから数回の記事では、「賭け」に関する『パンセ』の議論の検討を通して、『存在と時間』の思考の可能性をさらに突き詰めるという作業に取りかかることとしたい。 論点: 「実存とは賭けである」という存在論的なテーゼは、現存在である人間が置かれているところの「賭けることへの被投」という実存論的状況を露わにせずにはおかない。 パスカルの議論を再構成してみる。彼によるならば、私たち人間存在はみな「神は存在するか、それとも、存在しないのか?」という究極の二者択一を問いかけ…

  • 存在論的テーゼ「実存は賭けである」:パスカル『パンセ』の問題圏へ

    『存在と時間』に依拠しつつ哲学の歴史そのものに対する理解を深めるためにも、ここから数回の記事では、次の論点について詳細に検討を加えてみることにしたい。 論点: 「全体的存在可能を生きること」は、実存の全体を一つの「賭け」として生きることを意味しているのではないか。 前回の記事の論点を確認するところから、議論を開始することにしよう。「死への先駆」のモメントは、死という出来事がいずれやって来ることを現存在であるわたしに対して知らせる中で、「わたしはわたし自身の『最も固有な存在可能』を掴みとることを望むのか、それとも、望まないのか?」という二者択一をもって、わたしに迫らずにはおかないのだった。 「全…

  • 「現存在であるわたしが、後ろを振り返ることのできない理由」:『存在と時間』における「全体的存在可能」の概念

    私たちの探求は、「死への先駆」が提起する問題の核心の部分に到達しつつある。 論点: 「死への先駆」は、現存在であるわたしが、自らの「全体的存在可能」を実存する可能性を開示する。 この「全体的存在可能」、あるいは「全体としての現存在」という論点は『存在と時間』後半部の議論にとって非常に重要なものなので、しっかりと論じておかなければならない。この論点については、以下の三つのことを指摘しておくこととしたい。 ① 「死への先駆」は、現存在であるわたしが今日にも、あるいは明日にも死ぬかもしれないという可能性をわたしに引き受けさせることによって、次の二つの可能性を「可能性の全体」として開示する。すなわち、…

  • 「兄弟姉妹よ、今しばらくの辛抱だ」:1784年、イマヌエル・カントは彼自身の「最も固有な存在可能」を、いかにして引き受けたか

    「単独な現存在を生きること」という主題について掘り下げつつ、後に『存在と時間』の論理に即して「本来的な仕方で共同相互存在すること」の可能性を問うための足がかりを作っておくためにも、カントの「啓蒙とは何か」についてもう少し見ておくことにしたい。前回の記事で引いた箇所を、ここに再び提示しておく。 「こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは『知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)』だ。すなわち『自分の理性を使う勇気をもて』だ。」 カントがこのテクストを書いて『ベルリン月報』に掲載した1784年という年は、フランス革命が起こるほんの数年前にあたる。いま論じようとしている文脈においては、この時…

  • 知る勇気を持つとは、いかなることか:カントが「啓蒙とは何か」を通して、私たちに語りかけていること

    死の可能性のうちへと先駆することによって、現存在であるわたしは「単独な現存在を生きること」の圏域へと導き入れられてゆく。この「単独な現存在」なる規定については、イマヌエル・カントが1784年に書いたテクスト「啓蒙とは何か」を参照しながら、ここでもう少し掘り下げておくこととしたい。 カントはこのテクストの冒頭において、「啓蒙」なる概念に対して卓抜な定義を与えている。そのよく知られた箇所を、ここに引用してみる。 「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあ…

  • 「ルビコンは、渡られねばならない」:「先駆」は現存在であるところのわたしを、単独者であることのうちへと呼び覚ます

    死の可能性のうちへと先駆することによって〈ひと〉から引き離されるのと同時に、現存在であるわたしの目の前には、一つの根底的に新しい経験の領野が開けてくることになる。それこそは、「単独者として自己を生きること」の圏域に他ならない。 「先駆することによって現存在が理解するのは、端的にじぶんのもっとも固有な存在が問題であるような存在可能を、現存在はひたすらじぶん自身の側から引きうけなければならないということなのである。死はじぶんに固有な現存在に無差別に『ぞくしている』のではない。むしろ死は、現存在を単独な現存在として要求する。先駆にあって理解された、死の関連を欠いたあり方によって、現存在は現存在自身へ…

  • リミッターが外されるとき:「先駆」は現存在であるところのわたしを、〈ひと〉の働きから決定的な仕方で解き放つ

    まずは、「死へと関わる本来的な存在」を実現する契機としての「死への先駆」が人間存在をどのように変容させてゆくのかを見定めるという、2022年の最初の課題に取りかかることとしたい。 「死への先駆」は現存在であるわたしを、「本来的な自己を生きること」の圏域へと向かって解き放たずにはおかない。ハイデッガーはこの点について、次のように言っている。 「死とは現存在のもっとも固有な可能性である。この可能性へとかかわる存在が、現存在にそのもっとも固有な存在可能を開示する。[…]その存在可能において現存在にあらわになりうるのは、現存在がじぶん自身のこのきわだった可能性にあっては、〈ひと〉から引きはなされつづけ…

  • 「何か根底的に新しい、一つの哲学の時代が……。」:2022年の哲学の探求を始めるにあたって

    2022年を迎えたが、今年もこれまでと同じく、ひたすら哲学の営みに打ち込んでゆくことにしたいと思う。今回の記事では年の初めということで、まずは今年の最初の目標を掲げつつ、この後の探求のために気分を整えておくこととにしたい。 2022年の当面の目標: 『存在と時間』の読解を継続しつつ、実存論的分析の歩みを、現存在であるところの人間の本来的な全体的存在可能を実現するはずであるところの「先駆的決意性」へと到達させる。 論じるべき問題が多岐にわたっていたので、『存在と時間』の読解を始めてから思いがけずはや8ヶ月が経ってしまったが、私たちの読解も、ようやく大詰めの段階に入りつつある。現在は「死への先駆」…

  • 哲学の問いとして、「自己の問い」を問う:2021年の探求の終わりに

    今回の記事で、2021年の『イデアの昼と夜』の探求も終わりである。来たるべき次の年に向けて議論を整理しつつ、私たちの探求がこれから向かってゆく先を確かめておくこととしたい。 論点: 「死への先駆」によって啓示される本来的実存の可能性とは、「現存在であるわたしが、わたし自身の本来的な自己」を生きるという可能性に他ならない。 これまでの議論を振り返ってみることにしよう。「わたしはいつの日か、必ず死ぬ」という事実を正面から引き受けることである「死への先駆」は現存在であるわたしに対して、次の二つの可能性を「生の可能性の全体」として開示する。 「死への先駆」が現存在であるわたしに対して開示する、実存の二…

  • 考える人は、自由そのものであるような〈生のかたち〉を探し続けている:『存在と時間』における「先駆」概念は何と向き合い、どこへ向かってゆくのか

    私たちは、「ホモ・サケル」の概念や、反出生主義の問題といった主題を通して、「現代における生」がはらんでいる問題についてすでに見てきた。今や、『存在と時間』の「死への先駆」の方へと立ち戻って、再び検討を加えるべき時である。 「死へとかかわる存在は、その存在のしかたが先駆することそのものである、当の存在者が有する存在可能への先駆である。先駆しながらこの存在可能を露呈させることで現存在は、じぶんのもっとも極端な可能性にかんして、じぶん自身に対してみずからを開示するのである。[…]先駆するとは、もっとも固有でもっとも極端な存在可能を理解することの可能性、つまり本来的実存の可能性であることが証示される。…

  • 反出生主義に関する二つのテーゼ:ハイデッガーとアガンベンを通して考える

    問題提起: 後期ハイデッガーの「存在から見捨てられていること」やジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」といった概念は、反出生主義の問題を考える上でも有効な手がかりを与えてくれるものなのではないだろうか。 私たちの時代のグローバル秩序は、「生政治」とでも呼びうるような秩序創設と維持のあり方を、ますます加速化させつつある。そのこととも密接に連関して、現代の人間は、自分自身の「生きることそのもの」がさまざまな仕方で超巨視的でビッグ・データ的な秩序のうちへとただちに接続され、この接続から決して離れることなく生が営まれるようになってゆくという、かつてない歴史的変転のプロセスのただ中を生きているのである…

  • ホモ・サケルの時代:ジョルジョ・アガンベンと『存在と時間』、あるいは、「部屋に閉じこもって病んでいること」の根底にあるもの

    「存在から見捨てられていることSeinsverlassenheit」の時代としての現代とは、「生から見捨てられていること」の時代でもあるのではないか。このような問いかけのうちに入り込むとき、私たちはこれまで論じてきた『存在と時間』の議論に対して、より深い所に光を当てることができるのではないか。今回と次回の記事では後期ハイデッガーの思索を念頭に置きつつ、この本のうちで語られていることよりも内容的に少し踏み込むことになってしまうが、2021年時点における哲学の課題を明確にするという意味でも見ておくことにしたい。 問題提起: 実存カテゴリーとしての〈ひと〉はその奥底において、より危機的なモメントを潜…

  • 「現代とは『生から見捨てられていること』の時代である」:後期ハイデッガーの思索から『存在と時間』へ

    〈ある〉の意味が失われているという「存在忘却」の現象はその根源をたどるならば、「実存忘却」とでも呼ぶべき事態にまで行き着くのではないか。人間存在にとって「死のうちへと先駆すること」が持っている意味について考えるために、この論点を、ハイデッガー自身の言葉を引きながらもう少し掘り下げてみることにしたい。 「現存在はたしかに存在的には身近であるばかりではなくー私たちはそのうえ、そのつど自身が現存在なのであるからーもっとも身近なものですらある。にもかかわらず、あるいはまさにそれゆえに、現存在は存在論的にはもっとも距たって(へだたって)いるものである。」(『存在と時間』第5節より) 上に引用したハイデッ…

  • 「呼吸をすることさえも、忘れるかのようにして……。」:「先駆」とはまずもって、生きることの取り戻しを意味する

    論点: 実存の本来性を可能にするはずの「死への先駆」は、現存在であるわたしが死の可能性に関して現実性の次元に巻き込まれることなく、「可能性を可能性として耐え抜くこと」を要求する。 この論点は、『存在と時間』において提示されている人間存在の姿を正確に捉えるためにも、非常に重要なものであると言うことができる。「可能性」と「現実性」というタームに着目しつつ、しっかりと見ておくことにしたい。 ハイデッガーによれば、「死へと関わる存在」を本来的に生き抜くものであるはずの「死への先駆」はたとえば、「わたしはひょっとしたら、もうすぐ死ぬのではないか?」と思い悩んだりすることをいささかも意味しない。現存在であ…

  • 「可能性のうちへと先駆すること」:哲学はひたすらに演劇的でパトス的であるような自己投企のために、イデーを練り上げる

    私たちの実存論的分析はこれまでの歩みを経て、「死の完全な実存論的概念」に到達した。 死の完全な実存論的概念: 死とは、現存在であるところの人間が有する最も固有で、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実であると同時に未規定的な可能性である。人間存在はそのような「可能性の中の可能性」を有する存在者として、自らの「終わりへと関わる存在 Sein zum Ende」を生きながら存在しているのである。 各規定の提示の順番は箇所によって若干前後することがあるが、これが『存在と時間』における、死の現象の完全な規定に他ならない。この点について、二点の補足あるいは指摘を行っておくこととしたい。 一点目は、一…

  • 哲学とは、絶えることのない「自己との対話」に他ならない:実存論的分析の歩みから垣間見えてくる、思索者のエートス

    私たちはこれまで、「死へと関わる存在」の日常的なあり方について見てきた。今や、ここから遡って死の実存論的概念を完成させることによって、「死へと関わる本来的な存在」の方へと進んでゆくための準備を完了させる時である。 これまでの分析において、死の可能性はすでに、「①最も固有な②関連を欠いた③追い越すことのできない可能性」として露呈されていた(この点については、12月2日付の記事を参照されたい)。日常性における人間存在のあり方を振り返りつつ、ここに次の二つの規定が付け加えられることによって、この可能性の画定がようやく完了し、私たちの目の前には、「死の実存論的概念」の完全な形が浮かび上がってくることに…

  • 「人間は、木や石ではないのであってみれば……。」:『徒然草』の著者が伝えたかったこと

    「死へと関わる存在」の日常的なあり方という問題についてはもう少しだけ、一つのテクストを参照しつつ考えておくことにしたい。この論点を掘り下げるにあたっては、『徒然草』第41段で語られているエピソードが教えてくれることは少なくないように思われるのである。今回の記事では、この箇所が私たちに対して提示している実例を通して、目下の問題にアプローチしてみることとしたい。 ある年、昔で言えば夏の始まりの時期ともされる五月五日に、『徒然草』の著者である吉田兼好は、上賀茂神社で行われる競べ馬(くらべうま)の行事を見物に出かけた。そこには、すでに多くの人々がこの催し物を見るために集まっていて、よい場所まではなかな…

  • 「メメント・モリ」は語られ続ける:生の日常と哲学の問い

    「死へと関わる本来的な存在」の可能性を問うためには、その前提として、「死へと関わる存在」の日常性におけるあり方を見定めておく必要がある。 論点: 日常性において、私たち人間は〈ひと〉として、「死へと関わる存在」について語ることを避け、それを覆い隠すようにさりげなく気づかっている。 このことの証拠はたとえば、死を連想させる表現を用いることをできるだけ避けるといった仕方で、目に見える形で示されていると言ってよいだろう。(日本の場合には)4の数字は病院などの場所ではできるだけ使わない、あるいは、多くの人の目に触れるSNSでは、人の死が関わってくる主題について語る時であっても、直接的に「死ぬ」と表記す…

  • 「実存の本来性」をめぐる問題圏の射程:プラトンやアリストテレスはなぜ、〈アレテー〉についてかくも熱心に語り続けたのか

    「人間が死ぬことの可能性へと投げ込まれているという剥き出しの事実は、根本的情態性である不安によって開示されている。」前回に取り上げたこの論点からは、この後の探求の道行きそのものを突き動かしてゆくともいえる、次のような問いが浮かび上がってくる。 問い: 「死へと関わる存在 Sein zum Tode」の本来的なあり方なるものが、果たして存在するのか?実存論的分析がこのような可能性を追い求めることは、一箇の空想的な目論見に終わるものではないと、本当に言えるのだろうか? すでに見たように、死とはその根源においては、ほとんど神秘とも形容せざるをえないような、形而上学的な可能性であった。それは、世界内存…

  • 「形而上学的な不安」:この「不安」の概念をそれとして仕上げることが、実存の本来性を捉えるための不可欠な条件をなす

    前回までの探求において判明したのは、死とは人間にとって「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない可能性」であるということだった。ところで、この「可能性の中の可能性」の存在の仕方については、次の論点が特に重要になってくる。 論点: 現存在であるところの人間は、最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない可能性としての死の可能性を、後から身につけるのではなく、彼あるいは彼女が現存在として実存する限り、この可能性のうちに常にすでに投げ込まれているのである。 この点については、ハイデッガー自身が『存在と時間』第48節において引用している『ボヘミア生まれの農夫』の、「人間が生まれるとすぐに、…

  • 単独者であることの務めを、他者と分かち合うこと:あるいは、十返舎一九はいかにしてこの世を去っていったか

    死ぬことの可能性は、実存、すなわち「可能性に関わる存在」を生きる人間存在の、その極限の姿を指し示す。次の課題は、この可能性がいかなる可能性であるのかを、存在論的な仕方で見定めることである。死の実存論的概念を構築することに向かって、ハイデッガーと共に一歩一歩、歩みを進めてゆくこととしたい。 ① 死の可能性とはまず、「最も固有な可能性」である。すでに見たように、現存在であるわたしは、死ぬという務めだけは他者に代わってもらうことができない。この務めは他の誰でもない一人の人間である、このわたしに課せられている仕事に他ならないのであってみれば、「わたしが、わたし自身の死を死ぬ」というこの可能性のうちには…

  • キルケゴールからハイデッガーへ:実存のリアルは、「可能性へと関わる存在」として人間に差し迫っている

    ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、「死へと関わる存在」をめぐる議論の方へと戻ってゆくことにしよう。 「生をはなれることを医学的-生物学的に探究することで、存在論的にも意義を有しうる成果を獲得することが可能であろうが、それは、死についてのなんらかの実存論的解釈に対する根本的な方向づけが確保されている場合なのである。[…]死の実存論的な解釈は、いっさいの生物学と生命の存在論とに先だっている。」(『存在と時間』第49節) ハイデッガーは、人間存在にとって「死の現象」が持つ意味を探求するためには、生物学のような自然科学の成果は、間接的な仕方でしか役に立たないと考える。なぜならば、人間にとっ…

  • 2021年、哲学の現在はどこにあるのか:マルティン・ハイデッガーとエマニュエル・レヴィナスの思索を通して、見えてくるもの

    存在問題を問うという点に関しては、もう一つの補足をしておかなければならない。今回の記事の内容は『存在と時間』の読解の範囲を超えて、もう少し広い問題の圏域を取り扱うことになるが、哲学の歴史を顧みつつこのブログの目指すべきところを見定めたいと思うので、もしよかったら、お付き合いいただければ幸いである。 古代から中世にかけての思索は、トマス・アクィナスの〈存在〉の哲学をもってその頂点に達した。この点については前回の記事で触れたが、トマスの以後に現れたドゥンス・スコトゥスが提出したテーゼ「存在の一義性」は、トマスまでの哲学が追い求め続けてきた思考法がもはや可能ではなくなる、その限界点を指し示すものであ…

  • 哲学の歴史にとって、1927年とはいかなる年であったか:『存在と時間』と私たち

    論点: マルティン・ハイデッガーによって「死へと関わる存在」のモメントと共に「存在の問い」が提起されたことは、哲学の歴史そのものにとって無視することのできない意味を持つのではないだろうか。 私たちはここで、哲学の歴史を〈存在〉の問題圏を軸にして振り返りつつ、上の論点について考えておくことにしたい。(今回の記事で論じたいことの本題は、この記事の後半部にあたるが、前半部の内容は後半部で論じることの、不可欠な前提をなすものである。) 古代から中世にかけての時期は、哲学者たちの間で〈存在〉の思索が受け継がれ、展開されていったという意味では、まさしく運命的な時期であった。具体的には、パルメニデスによって…

  • 「存在の意味への問い」:Sein zum Todeの概念において、賭けられているもの

    論点: 死の現象は『存在と時間』が提起している「存在の問い」そのものにとって、根源的というほかない重要性を持つものである。 ハイデッガーの言葉を借りるならば、死ぬこととは人間にとって、現存在することの「不可能性の可能性」を意味している。すなわち、現存在であるところのわたしにとって、死とは、もはやわたしが世界内に存在することができなくなるという法外な可能性を指し示すものに他ならないのである。 『存在と時間』の真理論についてすでに論じたことを、ここで思い起こしておくことにしよう。現存在であるところの人間にとって、真理の現象とは一言で言い表すならば、「覆いをとって発見すること」に他ならないのだった。…

  • 「わたしが存在する」という事実の、存在論的な射程について:パスカルが、デカルトにあくまでも抗い続けた理由

    現代の哲学書である『存在と時間』が、近代の哲学に対して立っている歴史的な位置という問題については、もう少し掘り下げて考えておかなくてはならない。デカルト『省察』のよく知られた箇所を、ここで思い起こしてみることにしよう。 「それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。『私は在る、私は存在する』という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。」(「第二省察」より) デカルトによって表明された「コギト・エルゴ・スム(思考するわたしは存在する)」は単に彼一人のものとしてとどまることのない根本テーゼとして、その後の哲…

  • 『存在と時間』の根本テーゼ「実存の各自性」:「現存在であるところのわたしは、他の誰でもない『この人間』としての生を生きることのうちへと呼び出されている」

    「死はそのつど私のものである」という『存在と時間』第47節の表現は、この本自体の道行きを考える時には、きわめて重要な意味を持ってくる。なぜなら、この本の探求が本格的に開始される第9節の時点において、ハイデッガーはすでに、次のように書きつけていたからだ。 「この存在者にとってはじぶんの存在においてそれが問題である、当の存在は、そのつど私のものである。[…]現存在の呼びかけは、この存在者が有するそのつど私のものであるという性格にあわせて、つねに人称代名詞とともに、『私がいる』『きみがいる』というように言わなければならない。」(『存在と時間』第9節より) いわゆる「各自性 Jemeinigkeit」…

  • あらゆることが代理可能な世界において、決して代理できないこと:Sein zum Todeから見えてくる、私たちの生の真実

    前回に見た「他者の死を共に死ぬことの不可能性」という論点から、さらに先に進んで考えてみることにしよう。 「[…]代理可能性は、現存在をおわりに到達させる存在可能性、そうした可能性として現存在にその全額を与えるような存在可能性を代理することが問題となる場合には、かんぜんに座礁してしまう。だれも他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。」(『存在と時間』第47節より) ここで問題になっている「死ぬことの代理不可能性」という論点は、非常に重要なものである。というのも、この論点は現存在、すなわち人間の経験が日常性の圏域を踏み越えてゆく、まさにその地点においてしか成り立たないものであるからだ…

  • 「わたしが、去りゆく『その人』と決して分かち合えないこと」:共同相互存在の臨界点

    現存在、すなわち人間の「死へと関わる存在」は、どのように規定されるのだろうか。この点を明らかにするにあたってハイデッガーがまず指摘するのは、次の論点にほかならない。 論点: 私たちは人間の「死へと関わる存在」を解明するために、他者たちの死という事例を手がかりにすることはできない。 現存在であるところの人間は死ぬともはや世界内に存在しなくなってしまうのであるから、死という現象に接近するためにはわたし自身ではなく、他者たちの死に手がかりを求めることが有効なのではないかと考えることは、自然な道行きであろう。しかし、ハイデッガーによれば、この方策はこと死という現象に関しては、有効なものではありえないの…

  • Sein zum Tode:反対論への回答

    17世紀の哲学者であるスピノザの主著『エチカ』の第4部定理67は、次のようになっている。 『エチカ』第4部定理67: 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。 哲学が思索するべきは生きることの方であって、死ぬことではない。このように主張するスピノザはエピクロス派の人々と同じく、「死を想え」の教えに対しては否定的な立場を取っているということができるだろう。一般に、何らかの自然主義的な哲学を奉じている人々には、こうした立場へと至る内的な必然性が存在することは確かである。 本題に戻ろう。「人間が存在する時には死…

  • エピクロス派の人々による反対論:「そもそも、死について深刻なことを考えるということ自体がナンセンスなのではないか?」

    それにしても、私たちは死というこの主題に対して、どのようにして接近を試みることができるだろうか。まずは、ハイデッガーが指摘している次の論点を確認するところから、考え始めてみることにしよう。 「現存在が存在者として存在しているかぎり、現存在はじぶんの『全額』をけっして入手していない。現存在がじぶんの全額を獲得すれば、たほうその獲得は世界内存在の端的な喪失となる。存在者としては、現存在はそのときだんじてもはや経験可能ではなくなるのだ。」(『存在と時間』第46節より) 現存在であるところの人間は、いつの日か死ぬことでその生涯を終える。その意味では、人間の生は死ぬことをもって、はじめてその「全額」に達…

  • 「非常にセンシティブで、慎重を要する問題」:「死へと関わる存在」の分析へ

    実存の本来性の圏域へと踏み入ってゆくにあたって最初に問われるのは、人間の「死へと関わる存在」に他ならない。 論点: 『存在と時間』の第二篇第一章のタイトルは、「現存在の可能な全体的存在と、死へとかかわる存在」となっている。 哲学史に残っているテクストの中で死を主題的に取り扱った論考というのは、実はそれほど多くない。ましてや、学問の探求の対象としてこの主題を論じたものとなるとその数はさらに少なくなってくるわけで、この『存在と時間』第二篇第一章は稀少な例外の一つであると言えるであろう。おそらくは、哲学を学んでいる学生が「死」という主題について先人たちが何を言っているのかを知ろうとする場合、まずはこ…

  • 「本来性から時間性へ」:『存在と時間』におけるキリスト教哲学の痕跡

    実存の本来性についての分析を進めてゆく中で、私たちが読解に取り組んでいるこの本のタイトル『存在と時間』が、なぜ「時間」の語を含むのかも明らかになってくる。私たちは、この点についても先の見通しをつけておくことにしよう。 論点: 『存在と時間』における実存論的分析は人間存在の根源的なあり方を、「時間性」において見定めることになるはずである。 不安の現象のことを思い起こしてみよう。不安において人間は、今にもすべてのものの終わりが差し迫っているのではないかといった仕方で、自分自身の存在を脅かされるのであった。予感、あるいは差し迫りという性格が、根本的情態性としての不安の気分を特徴づけていたわけである。…

  • 「理解」の究極的な形としての、先駆的決意性:実存の本来性の分析へ

    私たちは「不安」の現象の分析を終えて、いよいよ実存の本来性の圏域に踏み入ってゆこうとしている。「死への先駆」と「良心の呼び声」の分析を開始するにあたって、まずは前もってこれから先の見通しを得ておくことにしたい。 論点: 「死への先駆」と「良心の呼び声」の分析を経て到達される人間の「最も固有な存在可能」は、内存在を構成する契機である「理解」の究極的な形として立ち現れてくるはずである。 「理解」の契機については、私たちはすでにこれまでの道のりの中で論じている。ここで簡単に振り返りつつ、議論を整理しておくことにしよう。 現存在であるところの人間は、自分自身の可能性を「理解」しながら世界のうちに存在し…

  • 『ゴルギアス』が語ること:「不安」についての分析の終わりに

    不安の現象を通して、現存在であるところの人間の根源的なあり方はついに、「気づかい」として規定されることになった。この現象についての分析を締めくくるにあたって、次のような問いを考えておくことにしたい。 問い: 「あなたは『不安』の奥底にまで突き進んでいって、生のもっとも奥深い秘密を開示することを望むか?」 日常性において、わたしは不安の気分を引き起こしそうなものから、絶えずそれとなく逃避し続けている。〈ひと〉の語りは、自分たち自身の実存を掘り崩すかもしれないような、そうした危機的な話題を注意深く避けるのである。これまでの実存論的分析の成果から見るならば、私たちの日常は、いわば絶えず「本題を逸らし…

  • 人間の存在はいまや、「自己への配慮」として露呈される:『存在と時間』の根本概念「気づかい Sorge」

    これまで不安の現象について見てきたところから、ハイデッガーは、現存在であるところの人間の存在を「気づかい」として規定することへと向かってゆく。その道程を、ここで簡潔に再構成しておくことにしよう。 ① 人間は、不安からは逃れることができない。忘れ去ってしまおうと見ないふりを決め込もうとしても、不安は執拗に人間を脅かし続け、自らの〈現〉の不気味さに直面させずにはおかないのである。気分の現象は、人間が避けようもなく自らの〈現〉(=自分自身の「状況」)にさらされているという「被投性」のモメントを開示せずにはおかないものであるけれども、こと不安の気分においては、このことがまさしく際立ってくる。不安とはそ…

  • 生はその秘密を、「恐るべきもの」の後ろに隠す:「自由のめまい」としての不安

    不安の気分をめぐる分析は、「可能性に関わる存在」としての人間の姿を浮き彫りにしつつある。しかし、このことは、生の経験それ自体と、それを描き出す実存論的分析の間に結ばれる、一筋縄ではゆかない関係の存在を指し示さずにはおかないのではないか。 不安とはキルケゴールの卓抜な表現を借りるならば、その実体においては「自由のめまい」に他ならない。すなわち、不安を感じる人は、自分自身が抱え持っている可能性がその人自身にとってあまりにも大きすぎるために、いわば立ちくらみを起こしているわけである。この現象においては、その人自身に与えられている自由の可能性が、その人を脅かす深淵となって当人を飲み込んでしまっていると…

  • 「可能性に関わる存在」:キルケゴールの例を通して

    不安の気分は、人間の「剥き出しの生」をそれとして開示する。しかし、不安が不安がるとは一体、実存論的-存在論的に見るならばどのような事態であると言えるのだろうか。この点をさらに解明するために手がかりとなるのは、不安とは、不気味なものの「予感」であるという事実にほかならない。 不安において、現存在であるところのわたしは、決定的な破滅が迫ってきていることを予感する。しかし、逆を言うならば、それはまさしく「予感」に過ぎないとも言えるのであって、わたしにはたった今、この瞬間に破滅が襲ってきているというわけではないのである。「差し迫り」という性格が不安の現象をそれとして特徴づけているのであって、この性格こ…

  • 不安が露呈させるのは、「剥き出しの生」にほかならない

    ハイデッガー自身の言葉を手がかりにして、さらに不安の分析を進めてゆくこととしたい。 「不安の〈なにをまえに〉は完全に未規定的である。[…]手もとにあるものや目のまえにあるものにかんしては、世界内部的に、その適所全体性が覆いをとって発見されるけれども、そうした適所全体性は、そのものとして総じて重要性を持たない。適所全体性は、それ自身のなかに崩れこむ。世界は完全な無意義性という性格を有することになる。」(『存在と時間』第40節より) 現存在であるところのわたしは、その日常性においては、わたしの世界が形づくる存在者のネットワークのうちで場所を得ている。家や仕事場、自分の住んでいる街、あるいは、机や床…

  • 不気味さは特定の対象を持たない:「不安」と「恐れ」との違いについて

    まずは古典的とも言える論点を確認するところから、議論を始めることにしよう。 論点: 恐れとは異なって、不安は、世界のうちに存在する特定の存在者を不安の対象として持つわけではない。 恐れの気分について、まずは考えてみる。現存在であるところのわたしはたとえば落雷を、あるいは、逃亡中の凶悪事件の犯人に出くわすことを恐れる。この場合、恐れの対象は世界のうちに存在している存在者として、特定の方位から近づいてきてわたしを襲う可能性があるわけである。 恐れの気分にはこのように、それが恐れるところの特定の対象が存在している。ところが、ハイデッガーによればこのことは、不安の場合には当てはまらないのである。 不安…

  • 「危機のただ中で、生を掴みとる」:アガンベンからハイデッガーへ

    ハイデッガーとアガンベンの議論の交錯という点に、話を進めよう。 ジョルジョ・アガンベンの思考を、あくまでも今回の論点に関わる限りではあるが、たどり直してみる。日常性、あるいは通常状態においては、政治体の真理は十全な仕方で明かされることがない。憲法や法律といった法規範が宙吊りになって停止される例外状態、あるいは「緊急事態」(いわゆる「ロックダウン」は、この状態の典型的な事例とも言うべきものである)を思考することによってはじめて、何が一つの政治体を政治体たらしめているのかが見えてくるようになる。 政治体は単に、一人一人の人間に諸権利を与え、合法的な権利の主体として認めるだけではない。そのような主体…

  • 例外状態の政治哲学:ジョルジョ・アガンベンの思考と、2021年のグローバル秩序の現在

    不安の現象に本格的に足を踏み入れてゆく前に、一つの論点を確認しておくことにしたい。 論点: これより後に扱われることになる「不安」「死」「良心の呼び声」の現象は、生の例外状態的次元とでも呼ぶべき領域の存在を指し示している。 今回と次回の記事ではこの論点を、私たちと同時代の哲学者である、ジョルジョ・アガンベン(1942〜)の仕事と重ね合わせながら見ておくことにしたい。 1995年から2014年にかけて行われたアガンベンの「ホモ・サケル」プロジェクトは、これまでの近代政治哲学の伝統が、政治の営みなるものを限定的な視野からしか捉えてこなかったことを明らかにした。このプロジェクトにおいては、近代政治哲…

  • 「不安」の分析へ:実存の本来性という圏域への導入

    現存在の日常性についての分析をたどり終えた私たちは今や、実存の本来性という問題圏へと進んでゆこうとしている。この問題圏へと入ってゆくための導きの役割を果たすのはハイデッガーによれば、「不安」の現象にほかならない。 論点: 「不安」の現象は、その後に引き続いてゆく「死」と「良心」の分析へと実存論的分析が進んでゆくための、橋渡しの役割を果たすものである。 『存在と時間』において人間の日常性は、非本来性とも言い換えられている。人間は、ふだんの日常においては自分自身の実存を、いわば通常運転のモードでしか起動させていない。このモードにおいては、人間のポテンシャルはある一定の限度に抑えつけられたままなので…

  • 「何事も、立派なことは……。」:〈ひと〉論について、論じ終えるにあたって

    私たちは『存在と時間』の〈ひと〉論について、論じておくべき論点についてはたどり終えた。ここまで来て、「世界内存在しているのは誰か?」という、この本の最初で提起された三つの問いの最後の一つには、答えが与えられたことなる。 問い: 世界内存在しているのは誰か? 答え: 日常性においては、世界内存在しているのは〈ひとである自己〉である。 日常性において、わたしは〈ひとである自己〉として、〈ひと〉の平均的なあり方についてゆこうと絶えずそれとなく気づかっている。今、〈ひと〉の間で何がさかんに語られているのか。何が話題のトピックで、わたし自身は、〈ひと〉の間ではどのように数値化されているのだろう。現存在で…

  • パルメニデスの「二つの道」:ハイデッガーと決断の問題

    ハイデッガーは『存在と時間』第44節bにおいて、自らの議論を、パルメニデスが描き出す「二つの道」のあり方に重ね合わせている。〈ひと〉論もそろそろ大詰めを迎えつつあるが、今回の記事では、その交錯のありようを見ておくことにしよう。 古代ギリシアの哲人であるパルメニデスが残した韻文詩の中で、馬車に乗って天空へと駆け上がっていったパルメニデスは、そこで出会った女神から「二つの道」を示される。彼は、自分自身に示された真理が、人間の知りうることの範囲を超え出るものであると信じていた。だからこそ、彼は自らの思想を、「韻文詩における女神の示し」という形で残さざるをえなかったのである。 ① 一方の道は、「あらぬ…

  • 実存から存在へ:『存在と時間』の根本課題

    〈ひと〉と頽落の概念の検討を通して、私たちは、『存在と時間』が向き合っている根本問題に到達することになる。 論点: 『存在と時間』において、存在の意味への問いは、現存在、すなわち人間が実存することの問いへと収斂してゆく。 存在することの、〈ある〉ことの意味を根本から問い直す。それが、1927年に公刊された『存在と時間』が提起した根本の課題であった。『存在と時間』において、この課題は、人間の実存を問うことへと収斂してゆく。〈ある〉を問うことはいわば、人間としての〈わたしはある〉を問うことにおいて突き詰められてゆくのである。 次のような疑問も、生じるかもしれない。世界が、あるいは、世界内の存在者が…

  • 生きることはたえず、滑り落ちてゆく:存在忘却の根源にあるもの

    現存在であるところの人間は、日常性においては常にすでに、世界の方へと頽落している。この「頽落」の機構との関連で考えるとき、「現存在は非真理のうちに存在している」というすでに見たテーゼは、さらに深い射程を示すようになると言えるのではないか。 ① 頽落は、わたしが〈ひと〉の支配に身を委ねることによって確定的な傾向になるとともに、それ以上の結果をもたらす。すなわち、わたしはもはや、わたし自身の最も固有な存在可能から遮断されてしまうというだけではない。わたしの世界への開かれは、開かれていることの見せかけへと変質させられてしまうのである。 〈ひと〉のあり方は、「空談」「好奇心」「曖昧さ」の三つの現象によ…

  • 「わたし」がいない世界:頽落の概念について

    日常性におけるわたしはそれと気づかないうちに、〈ひと〉の支配に身を任せてしまっている。このことから、わたしは、わたし自身が生きているこの世界に対して、ある特異なあり方で存在しているということが帰結せざるをえないのではないか。 わたしは日常において、〈ひと〉が楽しむことを楽しみ、〈ひと〉が憤激することに憤激する。わたしはいわば呼吸するようにして「空気を読んでしまっている」のであって、現存在であるところのわたしはそうやって、〈ひと〉の平均的なあり方をたえずそれとなく気づかっているのである。 このような実存のあり方には、〈ひと〉と同じであることの安心を与えてくれるところがあることも事実である。しかし…

  • 「究極のところでは、この問いを問うことだけが……。」:哲学はこの問いについて、何をなしうるか

    現存在、すなわち人間であるところのわたしには、次の二つの実存の可能性が与えられている。 ① わたしは、さしあたり大抵は〈ひと〉として、平均的なあり方を気づかうことのうちで実存している。わたしは〈ひと〉が楽しむように物事を楽しみ、〈ひと〉が注目する話題に注目し、〈ひと〉が気にする物事を気にしている、等々である。 このことは、わたし自身が自覚的に行うといったような類の出来事として起こるのではない。つまり、わたしが明示的に「わたしはこれから、〈ひと〉の思惑を気づかうことにしよう」と思うようなことは日常においてはほとんど起こらないのであって、むしろ、わたしは自分でも気づかないうちに、常にすでに〈ひと〉…

  • 実存カテゴリーとしての〈ひと〉:2021年を生きる私たちにとって、ハイデッガーの思考はどの程度までリアルか?

    私たちは〈ひと〉のあり方を特徴づける現象である、「空談」「好奇心」「曖昧さ」について見てきた。この〈ひと〉なる主題についてさらに掘り下げてゆくにあたって、次のような疑問について考えておくことにしたい。 問い: 2021年を生きている私たちにとって、『存在と時間』の〈ひと〉論ははたして、どのような意味を持つのだろうか? 〈ひと〉論の主張はこれまでに見てきた議論に比べると、その主張の妥当性をなかなか検証しにくい面があることは、否定できない。確かに、〈ひと〉論において展開されている人間の日常生活の姿には、非常にリアルなものがある。しかし、私たち現存在(人間)の実存が、日常性において〈ひと〉によって支…

  • 一つの時代が終わるとき

    「曖昧さ」について論じている『存在と時間』第37節にハイデッガーは、非常に印象深い一節を書きつけている。その箇所を、ここに引用してみる。 「ほんとうにあらたに創造されたものが、その積極的な可能性において自由になるのは、覆いかくす空談が効力を失い、『共通の』関心が死に絶える、ようやくそのときになってからなのである。」(『存在と時間』第37節より) 〈ひと〉は「空談」と「好奇心」の機構に基づいて、さまざまなことを語る。実に色々な事柄が取り上げられ、さかんに論じられるけれども、〈ひと〉が本当に気づかっているのは他の人々が今、一体何について論じあっているのかを知ることであって、事柄それ自身のあり方を真…

  • 「獲得されたはずの真理が、ぼやけてゆく……。」:曖昧さの原理的構造

    「空談」「好奇心」についで〈ひと〉のあり方を示すのは、「曖昧さ」の現象である。今回も、この現象の原理的な構造を見わたすことに重点を置きつつ考えてみることにしよう。 いま、ある存在者Aについて、「AはBである」という発見がなされたものとしよう。この発見は哲学、自然科学、あるいは芸術や政治・経済など、分野は問わないものとする。ただし、この発見は非常に革新的なものであって、その分野に精通している人が聞いたとしたら「何ということだ!」と驚かずにはいられないような類のものであるとしよう。 さて、最初は狭いサークルや繋がりの中で「何ということだ、AはBなのか!」と真正な驚きと共に分かち合われていたこの発見…

  • 「驚くことのフェイク」による誘惑:好奇心の原理的構造

    「空談」に続いて、〈ひと〉のあり方を示す現象である「好奇心」の内実を探ってみることにしよう。この現象についても、すでに見た真理論の裏面として事柄を見わたすという観点が、非常に重要である。 さて、現存在(=人間)であるところのわたしが今、仕事や作業を終えて、義務から解放されているとしよう。わたしは何の気になしにスマートフォンやiPadをいじって、「何かないかな」とぼんやり思いながら、情報やコンテンツが流れてくるのに身を任せるかもしれない。この際にわたしがたとえば、ある存在者Aをめぐる記事なり発言なりに出会ったとする。 注意しておくべきは、この時わたしがAについて「なるほど、AはBだったのか!」と…

  • 哲学者は、何によってソフィストから区別されるか

    空談なるものが一度広がってしまうと、もはやそれを押しとどめることはできない。ハイデッガー自身の言葉を引いてみる。 「語られているものそのものは、よりひろい圏内へと拡散し、権威的な性格を帯びることになる。ひとがそう言うからにはそうなのだ、ということだ。そのようにまねて語り、語ってひろめることにあって、すでにはじめから地盤に立ったありかたが失われていたものが、完全に地盤を失ったありようにいたる。」(『存在と時間』第35節より) 〈ひと〉は、自分が〈ひと〉と同じように振舞っているかどうかを気づかう。この場合で言うならば、〈ひと〉が注意を払うのは「いま注目の話題についていけているかどうか」なのであって…

  • 空談の原理的構造:「平均的な了解可能性」の概念をめぐって

    ハイデッガーによれば、〈ひと〉が語り合う言葉のやり取りは、「空談」というあり方によって特徴づけられている。空談とはどのような言葉のあり方をいうのか、原理的なところにまで遡って考えてみることにしよう。 いま、Aという存在者について、「AはBである」という言明が広まってゆくとする。AとBには、日常のうちで語られるさまざまな話題を代入していただきたい。ここでは、空談のあり方を形式的に見定めるという関心から、抽象的な項のままで話を進めることとする。 人間の世界では、一度「AはBである」という言明が広がりはじめると、その拡散には際限がなくなってゆく。デマや虚偽の情報が広まってしまう場合もあるが、正しいか…

  • 「開かれていることの見せかけ」としての公共空間:ハイデッガーの〈ひと〉論の射程

    日常性における人間の実存は〈ひと〉によって引き受けられ、〈ひと〉によって支配されているのではないだろうか。これからこの問題を問い進めてゆくにあたって、最初に一つの論点を確認しておくこととしたい。 論点: 『存在と時間』においては、〈ひと〉、そして公共性という語はもっぱら、その否定的側面において捉えられている。 先に断っておくならば、公共性に対するこのようなアプローチの仕方は少なくとも、哲学の伝統においては「正統派」に属しているといえる。哲学者たちは、たとえ公共性なるものを擁護する側に立つことがあるとしても、同時に、そこに鋭い疑念のまなざしを向けながらそうしてきたのであって、もしも哲学者がナイー…

  • 〈ひと〉の体制と、最も固有な存在可能:『存在と時間』後半部の根本主題

    『存在と時間』読解の後半を進めてゆくにあたって、先に、後半戦の根本主題を確認しておくことにしよう。 後半戦の根本主題: 現存在であるところの人間は、いかにして実存の本来性にたどり着くことができるのか? 注意しておくべきは、この根本主題が奥底のところで、私たちがすでに見てきた真理論の問題意識に、そして、その裏面にもつながっているということである。 「現存在は、真理のうちで存在している。」しかし、世界への開かれのうちで存在しているはずの人間は、ある宿命的な存在体制によって、この開かれを閉ざされ、見せかけのものへとすり替えられ、生そのものが根こそぎにされてしまうといった傾向のうちに常に置かれている。…

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