philo1985 さん プロフィール

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philo1985さん: イデアの昼と夜
ハンドル名philo1985 さん
ブログタイトルイデアの昼と夜
ブログURLhttp://philo1985.hatenablog.com/
サイト紹介文東京大学で哲学を学びつつ、ブログを書いています。よろしくお願いします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供184回 / 365日(平均3.5回/週) - 参加 2015/05/22 09:59

philo1985 さんのブログ記事

  • 最後の棘
  •  イデア性と受肉性の関係についての考察からは、次のような実践的帰結が導かれるように思われます。 「生の根本問題は、死ぬまでに何をなすべきかということのうちにある。」 人間は、人生のうちでさまざまに夢想します。とくに、哲学徒ともなると、それこそイデーの世界を漂っているだけで、いつの間にか人生が終わりを迎えていたということにもなってしまいかねません。 けれども、肉体の死は遅かれ早かれ、いつか必ずやっ [続きを読む]
  • イデア性と受肉性
  •  ある存在者、または出来事については、次の二つの側面に注目することができます。 1.イデア性 2.受肉性 1は、そのものの「何デアルカ」を示す、理念的なアスペクトです。これに対して、2は、その理念がまさにこの世界にリアルなものとして実現されるさいの、その実現のプロセスそのものを言い表しています。 キリストの十字架の例でいうと、十字架の出来事は、「神は、自らが痛むことをいとわないほどに人間のことを愛し [続きを読む]
  • 他者の身代わり
  •  もう少し、信仰の言葉に耳を傾けておくことにします。 「受肉したロゴスであるキリストは、人間に、主体性の究極のあり方を示した。」 信仰の言葉によれば、神がキリストとなってこの世に降ってきた目的はさまざまにあるけれども、その一つは、人類の教師として生きるべき道を人間に対して示すことにあったと言われています。 さて、それではその道は具体的にいってどんなものであったかといえば、これは突き詰めれば、他者 [続きを読む]
  • 「不合理ユエニ我信ズ」
  •  さて、信仰の言葉は、次のように語っています。 「受肉したロゴスであるキリストは、人間の罪のために十字架上で死に、墓に葬られ、三日目に復活した。」 もはや、ここまで来ると何でもありなのではないかという感は否めませんが、あらゆる思考を覆す絶対的転覆のロジックからすれば、論理的にありえないことではなさそうです。 「神は死んだ。」しかし、それは人間が神を殺したからではない。確かに、彼を殺したのは人間で [続きを読む]
  • あたかも砂のように
  •  1.思考する意識としてのわたしの「わたしはある」(コギト命題) 2.絶対者としての神の「わたしはある」(「主の御名」) 1のコギト命題はデカルトが主張するように、絶対確実に真です。けれども、この命題は「わたしがそのつど思考するかぎりにおいて」という条件が付いています。 逆を言えば、思考するわたしが存在するということは、わたしが思考していなければ(=思考する意識が存在しなければ)保証されません。こ [続きを読む]
  • 「わたしはある」
  •  絶対的転覆について考えるために、信仰の言葉を参照してみることにしましょう。『出エジプト記』第三章において、シナイ山でモーセから名を尋ねられた神は、次のように語ったとされています。 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」 「わたしはある。」奇しくも、この箇所でまさしく存在という語が語られていることは、神学のみならず、哲学にとっても極度に重大な意味を持っているのではないかと思われます。 〈存在 [続きを読む]
  • デカルトと絶対的転覆
  •  ロゴスの受肉のほうに話を戻しましょう。 「もしも神が存在するならば、神には人間の思考と想像を超えることを行うことができると想定するのを妨げるものは、何も存在しない。」 ロゴスの受肉という主題についても、このことが当てはまります。「ロゴスの受肉なんて、荒唐無稽そのものではないか。」しかし、この人間の声は、絶対者の意志いかんによっては、瞬く間にひっくり返ってしまうかもしれません。 人間の思考がこの [続きを読む]
  • 死は想像不可能である
  •  想像不可能な出来事が哲学にとって無縁なものではないことを示す例として、私たちすべてにとって決して無関係ではありえないものがあります。 「死は想像不可能である。」 わたしが思考する意識であるかぎり、そのわたしは、わたし自身が消滅するという事態を、それそのものとして思考することはできません。なぜならば、わたしがわたしの消滅を思考しようと試みるとき、思考するわたし自身は、つねにすでに思考する意識とし [続きを読む]
  • 受肉の問題は哲学に属する
  •  ロゴスの受肉というイデーに対しては、当然、次のような疑問が浮かんでくることが予想されます。 「ロゴスの受肉というのは、話としてはあまりにも荒唐無稽すぎる。この話を哲学で扱うのは、さすがに無理というものではないか。」 このような疑問はいうまでもなく、根拠のないものではありません。しかし、ここで私たちは、パスカルのあのよく知られたフレーズを思い起こすこともできるのではないか。 「哲学を虚仮にするこ [続きを読む]
  • ロゴスの受肉
  •  さて、ここから先は、哲学的思考のリミットとでも呼ぶべき領域に足を踏み入れてゆくことにします。  「信仰の言葉は、ロゴスは受肉して一人の人間となったと語っている。」 第二の位格である子としてのロゴスは、世界の創造に関わっていました。世界はロゴスによって創造され、同時にロゴスは世界を創造しつつ、世界から超越しています(内在的超越)。 信仰の言葉によると、このロゴスがある時一人の人間となって、母の [続きを読む]
  • 法-外な贈与
  •  本題に戻って、もう一度、神の愛の哲学的表現のほうに立ち返ってみることにしましょう。 「神の愛とは、現存在への、超越の内部超出のことである。」 4月には、真理の審級の、わたしとあなたへの現前という問題を扱いましたが、心あるいは意識については、その内部と外部の境界を確定することは、本当に難しい。 心の外部は存在するとしても、この点については、先入見でうかつに判定を下さないほうがよさそうです。さて [続きを読む]
  • Appendix:コギトの無力
  •  思考の(偽)メシア性と独断性という問題に行き当たった時には、次のような疑問が浮かんでくることは避けられないように思われます。 「哲学的思考は、その本質からいって、独断的であるほかないのだろうか。」 遺憾ながらそうであるほかないというのが、筆者の考えです。あるいは、ひとがもし本当に絶対に確実な知以外は受け入れたくないと望むならば、ひとは「意識が存在する」という根源的な事実から一歩も外に出ることが [続きを読む]
  • メシア性と独断性
  •  思考の(偽)メシア性の問題については、糾弾と否認というモメントに注目しないわけにはゆきません。 「思考はメシア的であろうとするかぎりにおいて、必ずその独断性を非難されないわけにはゆかない。」 仮に、ある人が「わたしはメシア、すなわち救世主である!」と言って現代の日本に現れたとします。その場合、その人は「ありがとう!さぁ、世界を救ってください!」という民衆の熱狂をもって迎えられることは、ほとんど [続きを読む]
  • 思考の(偽)メシア性という問題
  •  1.本来的思考において語られることは、父の意に適っている。 この規定を眺めていると、次のような疑問が浮かんでくるのは避けられないように思われます。 「はたして、神の意に適う思考などというものがありうるのだろうか。」 自分が考え、話していることが神の意に適うものであると胸を張って言うことのできる人は、この世にはほとんど誰もいないのではないかと思います。しかし、三位一体論のロジックにしたがうならば [続きを読む]
  • ドイツ観念論との交錯
  •  三位一体論の視点に立ってみると、「わたしが考える」というごく当たり前のものに見える出来事も、まったく違ったふうに見えてきます。 「わたしは、絶対者において考える。」 まずは、以前にも少し論じたように、語る、あるいは考えるという行為は、真理との関わりなしには生じえません。このことは、三位一体論の言葉づかいを用いるならば、「わたしはロゴスにおいて考える」と表現することができます。 より立ち入った表 [続きを読む]
  • 絶対的内面性と超越のトリアーデ
  •  第三の位格である聖霊については、次の論点を指摘しておくことにします。 「第三の位格はわたしにおいて、絶対的内面性とでも呼ぶべきモダリティを構成する。」 信仰の言葉によれば、第一の位格である父や第二の位格である子と同じように、第三の位格である聖霊もまた絶対者であり、神自身です。つまり、絶対者はわたしに向きあう顔であり、わたしに向けて語られるロゴスであるのと同時に、わたしの内で働く命の息吹そのもの [続きを読む]
  • 第三の位格
  •  三位一体論に話が及んだので、この機会に第三の位格についても触れておくことにします。 「信仰の言葉によれば、人間は、第三の位格である聖霊が働くことによって神を信じるようになる。」 何かを信じるようになるということは、よく考えてみると、とても不思議なことです。それは、信じる人間の自由になることではない。 ひとは、何かを無理矢理に信じようとしても信じることはできません。その逆に、今までずっと信じてい [続きを読む]
  • 「はじめに、ロゴスがあった」
  •  ロゴスという概念について語ることが難しいのは、ロゴスもまたイデアと同じように、信仰対象という性格を持っているからです。 世界を創造する言葉という意味でのロゴスという概念をはじめに打ち出したのは、フィロンという古代のユダヤ人哲学者でした。そののち、それほど時を置かないうちに、次のような一文からはじまる『ヨハネによる福音書』が世に出て、世界の歴史を塗り替えることになります。 「はじめに、ロゴスがあ [続きを読む]
  • ロゴスとイデア
  •  来たるべき知恵の探求を、ここで仮に哲神学と呼んでおくことにすると、哲神学的な観点からは、次のような点を指摘することができそうです。 「ロゴスとイデアは、それぞれ〈語られたもの〉と〈見られたもの〉として、互いが互いに向けて対向する。」 信仰の言葉によれば、世界はロゴス、すなわち語られる言葉によって創造されます。このことに対応するようにして、哲学者たちは、見える世界を超えて見えないイデアを見てとる [続きを読む]
  • イデア論をめぐる七つの論点
  •  今回は少し(かなり?)マニアックになりますが、イデア論をめぐる七つの観点を提示しておくことにします。 1.認識論的観点。フッサールの研究は、意識における意味作用のイデア的同一性を発見するところから、本格的に始まりました。のちに「本質直観」としてまとめあげられてゆくこの発見は、現代におけるイデア論を考えるうえでの一つのスタンダードを提供しています。 2.生命論的観点。動物行動学の成果をもとにアリス [続きを読む]
  • この世はイデアのまわりを回る
  •  本題からは少し外れますが、よい機会なのでここで脱線して、以下の点について考えておくことにしたい。 「イデアは存在する。」 キャンディーズのメンバーたちは、「恋する普通の女の子」に扮して歌を歌います。しかし、誰もが知っている通り、「恋する普通の女の子」なるものは、そのままの形ではこの世には決して存在しません。 恋愛というものは、男の子と女の子でするものだということになっています(ここでは、ヘテロ [続きを読む]
  • 存在論的差異とは
  •  というわけで、哲学の未来のためにも、ぜひともキャンディーズの魅力の秘密に迫っておきたいところですが、ここで私たちは、マルティン・ハイデッガーが存在論的差異と呼んだモメントに注目しておく必要があるように思われます。 「存在論的差異とは、存在者と存在をへだてる差異のことである。」 ハイデッガーによると、私たち現存在、すなわち人間はふだん、存在者のほうばかり気にしつつ生きており、存在のほうには目が向 [続きを読む]
  • キャンディーズをたたえて
  •  哲学がこの21世紀を力強く生き残ってゆくためには、どうすればいいのか。その問いへの答えを求めつづけていた筆者は、ひとつのヒントとなるかもしれないアイドルの存在に、あらためて注意を向けさせられました。 「キャンディーズは、ヤバすぎる。」 昭和という時代のど真ん中のど真ん中を突っ走った伝説のアイドルグループ、キャンディーズ。数々の超ド級の名曲を残していった彼女たちの存在は、その当時を生きていた日本人 [続きを読む]
  • 哲学の戦場
  •  「バック・トゥ・ザ・生者の世界。」なんとか死者の中からの復活を果たし、2017年のバビロン東京に戻ってくることができましたが、さて、これからどうするべきか……。  「哲学に、何ができるのか。」 筆者は哲学の道をすでに選びとってしまいましたが、これは、とにかく理屈をこねてこねて、こねまくる道です。言葉だけが武器なので、つまるところ、どれだけイルでクレイジーな概念とフレーズを繰り出してゆけるかだけが問 [続きを読む]