すがけい さん プロフィール

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すがけいさん: 百済と水城
ハンドル名すがけい さん
ブログタイトル百済と水城
ブログURLhttp://kudaratomizuki.muragon.com/
サイト紹介文白村江の大敗はなかった・水城堤は三段階で築造された・斉明帝はいったい誰だ
自由文七世紀の中国、朝鮮半島そして我が国の関係を述べた、私の講話内容を紹介させて頂きます
定説には拘っていませんので、反論もご自由にどうぞ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供0回 / 365日(平均0.0回/週) - 参加 2015/05/26 14:52

すがけい さんのブログ記事

  • 六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった まとめ最終回
  • 六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった 国滅びた百済では抵抗軍が活動し、豊璋が率いる百済救援軍(我が国の兵士が中心)も、これに合流します。 小うるさい抵抗軍殲滅のため、唐は孫仁師率いる兵力を百済に送り込みます。この兵力は、七千人です。 『青萊海之兵七千人』(旧唐書列伝東夷百済国)『發齊兵七千往』(唐書列伝百済)、『詔發?海之兵七千人』(三国史記百済本紀) 孫仁師は新羅文武王 [続きを読む]
  • ●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である まとめその1
  • ●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である 六六〇年七月に、百済国が唐と新羅の連合軍によって蹂躙され、首都扶余は焼け野原になってしまいます。 百済の滅亡と遺民の抗戦を知った斉明女帝は、我が国に滞在していた百済王子豊璋(百済義慈王の王子豊)を、百済に送り帰します。 そして、六六一年 斉明帝は、同盟国百済救援に向けて、勇ましくも征西の途につきます。この行動は六十八歳になる老女帝の行動で [続きを読む]
  • 関西旅行の思い出 「えっ 扉が開かない」
  • 「えっ 扉が開かない」 あれは大学入試を終えたばかりだったから、昭和39年3月。窮屈な受験体制からやっと開放されて一息ついた私は、奈良県今市にある母の実家を訪問することにした。福岡県の小倉駅から夜行列車を利用して大阪駅へ、さらに奈良駅で桜井線に乗り換えて実家に近い帯解(おびとけ)駅に向かった。 ボックス席に腰を降ろした私の前に、二十代半ばの外国の男性が座った。外国人だったら英語が通じるとの思い [続きを読む]
  • 第三話 4 斉明帝の二つの陵墓が意味するもの
  • 4 斉明帝の二つの陵墓が意味するもの 書紀は天智称制六年(六六七年)条の二月、『斉明天皇と間人皇女を小市(おちの)崗上陵(おかのうえのみささぎ)に合葬し、同じ日、孫の大田皇女を陵の前の墓に葬った』と記しています。 この斉明帝の陵墓については、二〇一〇年九月に新しい発掘結果が公表され、斉明帝の二つ目の陵墓発見として大いに話題を呼びました。 4-1  宮内庁による斉明帝陵墓 宮内庁は、奈良県高市郡高取 [続きを読む]
  • 第三話 3-3 間人皇女が斉明帝ではないか
  • 3-3 間人皇女が斉明帝ではないか ここで疑問となるのは、中大兄皇子は六四五年(乙巳の変)から六六八年までの長い期間、何故皇太子のままでいなければならなかったのかということです。 孝徳帝の没後(六五四年)でも帝に就くことは可能だったでしょうし、斉明帝の没後(六六一年)すぐに帝となっても不思議はないのですが、この後七年間も、中大兄皇子は皇太子のまま(称制)だったのです。(称制とは、先帝が崩じたの [続きを読む]
  • 第三話 3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう
  • 3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう 間人皇女は、舒明帝と宝皇女との娘であり、孝徳天皇の皇后です。さらに中大兄皇子(天智帝)と大海人皇子(天武天皇)とは兄妹です。 この間人皇女に関連する書紀の記録では、六四五年に孝徳帝の皇后に即位したこと、そして六六五年に没したこと以外、書紀には登場機会が殆どありません。 なお天智称制四年(六六五年)二月条には『間人大后薨(かむさ)りましぬ』とあります。 [続きを読む]
  • 第三話 3 斉明帝は宝皇女ではない
  • 3 斉明帝は宝皇女ではない 皇極帝と斉明帝とではその人間性が全く異なります。書紀では同一人物と伝えていますが、二人は異なる人物、つまり斉明帝は、「土木好きで好戦的なもっと若い女帝」ではないかと考えてみたらどうでしょう。 3-1 「中皇命」は一体誰でしょう  「中皇命(なかつすめらみこと)」とは、中継ぎ的に皇位を継いだ人物の意味だと理解されます。この中皇命の歌が『万葉集巻一』に、五首登場していま [続きを読む]
  • 第三話 2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります
  • 2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります 六五八年五月、中大兄皇子の子すなわち斉明帝の孫にあたる建王が、僅か八歳で亡くなってしまいます。この時の斉明帝の嘆きは甚だしく、『私の死後、必ず陵に合葬せよ』とさえ命じています。 そして斉明帝の詠んだ悲しみの歌が、 『今城(いまき)なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か嘆かむ』 を初め六首も書紀に残され、そのどれもが幼くして世を去った建王の想 [続きを読む]
  • 第三話 2-2 老女帝はとても好戦的です
  • 2-2 老女帝はとても好戦的です また老女帝とは思えない精力的な行動で、北は蝦夷と戦い、そして南は海を越え朝鮮半島百済国への出兵を目指します。 (一)蝦夷の征討 書紀の斉明帝四年(六五八年)条から六年(六六〇年)条にかけて、阿倍引田比羅夫による蝦夷征討記が以下のように記載されています。 『斉明天皇四年(六五八年)四月 、阿倍引田比羅夫は船師百八十艘を率て蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を [続きを読む]
  • 第三話 2 斉明帝は不思議な老女帝
  • 2 斉明帝は不思議な老女帝 皇極帝(宝皇女)が孝徳帝に譲位した「生前譲位」も史上初めてなら、斉明帝(宝皇女)として再び即位する「重祚」という即位形式も、史上初めての出来事です。帝位の継承形式において、二つも初めての形式が、この宝皇女時代に出現していることも不思議ですが、同一人物であるはずの皇極帝と斉明帝とが、何故かその人間性において大きく変化してしまいます。 2-1 老女帝は土木構造 [続きを読む]
  • 第三話 1-3 宝皇女(斉明帝)の再登場(重祚)
  • 1-3 宝皇女(斉明帝)の再登場(重祚)(六五五年〜六六一年) 孝徳帝の崩御により、廃位に追い込まれたはずの宝皇女が、六五五年正月飛鳥板葺宮で再び帝として即位(重祚)します。これが斉明帝です。 この時、宝皇女は既に六十二歳になっています。この時点では、山背大兄王も古人大兄皇子も既に殺害されていますから、舒明帝と宝皇女の長子であり、乙巳の変の指揮を執ったはずの中大兄皇子が堂々と帝位に就いて何の不 [続きを読む]
  • 「第三話 斉明帝はいったい誰だ」を始めます
  • 第三話 斉明帝はいったい誰だ 『第一話』『第二話』でも取り上げましたように、斉明帝は百済救援に向けて我が国からの海外派兵を陣頭指揮した女帝です。ただこの女帝に関しては、やや不可解なことが多すぎるのです。 1 皇極帝から斉明帝まで 1-1 皇極帝(宝皇女)時代(六四二年〜六四五年) 『日本書紀』に登場する宝皇女(すなわち皇極帝でもあり、斉明帝でもある)は、極めて不思議な女帝です。 彼女は、夫 [続きを読む]
  • 鞠智城について その2
  • 7-2 鞠智城の築城意図(私論) しかし、大宰府羅城を構築する大野城、基肄城からみると、兵站基地であれ軍事基地であれ、鞠智城は極めて遠すぎるという難点があります。九州道太宰府ICから菊水ICまで六十七キロありますから、仮に直線的に移動したとしても徒歩では丸二日強(日中の徒歩移動は時速三キロ×十時間程度)の距離感になります。(ちなみに豊臣秀吉の大返しとして有名な強行軍は、岡山から京都までの約二〇〇キ [続きを読む]
  • 7 鞠智城について その1
  • 7 鞠智城について  『二人の筑紫人と白村江の戦』においては、鞠智城の存在は視界外でした。しかし発掘の進んだ最近では「白村江の戦」との関連性も認知されつつあるようです。ですから私なりの鞠智城の位置づけを述べておきましょう。 7-1 鞠智城の築城時期(定説)  鞠智城は七世紀頃に、現在の熊本県北部(山鹿市、菊池市)に築かれた山城です。城の周長は三キロ半、面積は内城五十五ヘクタール、そして外縁 [続きを読む]
  • 阿蘇高森の湧水トンネル七夕祭りを見学しました
  •  阿蘇高森の湧水トンネル七夕祭りに行ってきました  このトンネルは昭和48年に掘削が開始されたのですが、出水が激しく中断された鉄道トンネルです。  計画全長 6キロのうちおよそ2キロまで掘り進められたそうです   トンネル内は17度という涼しさで とても快適です  このひんやりとした空間に七夕の飾りが並ぶ状況は 幻想的な美しさを醸し出していました    夏の暑い期間 一度訪問されたら如何でしょう  [続きを読む]
  • 「百済歴史遺跡地区」を見る  その2
  • 扶餘郡では官北里遺跡、扶蘇山城、陵山里古墳群、定林寺址、扶餘羅城が対象となりました。  さて この 扶餘ですが、五三八年に聖王が、都を公州熊津から錦江下流の泗沘(忠清南道扶餘郡)へ南遷した街でもあり、百済最後の首都でもあります。(なお新羅による半島統一後、泗沘は扶餘郡と改称され、現在では扶餘と呼んでいます) この扶餘の扶蘇山城を中心とする羅城構築が、大宰府、大野城、基肄(きい)城等の大宰府羅城の [続きを読む]
  • 「百済歴史遺跡地区」を見る
  • 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は、7月5日(日本時間10時)から、日本が世界文化遺産に推薦する「明治日本の産業革命遺産」について審議し、登録することを決定しました。韓国との小競り合いが続き、ぎりぎりの登録でした。何はともあれ おめでとうございます。 また前日には、韓国の「百済歴史遺跡地区」を世界文化遺産に登録したのもご存じのとおりです。 さて百済歴史遺跡地区は、忠清南道公州市の [続きを読む]
  • 一休みして、メキシコ料理に挑戦です
  • 一休みしてメキシコ料理に挑戦です  私は昨年10月から、メキシコのガナファット大学に 2年間行く予定でした(ジャイカ・シニアーボランティア)。残念ながら 妻の突然の発病・手術により 悔しい想いで渡航を断念しました。  そんなわけで メキシコには強い思い入れがあります。  7月3日に町内会で「男の料理教室 メキシコ料理」が開催され、私も参加しました。水城テーマの歴史話はまだまだ続きますが、一休みして [続きを読む]
  • 6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷  その2
  • 第二段階(六六〇年〜六六三年) 百済降伏(六六〇年)の報を受け、斉明帝は筑紫遷宮を命じた。遷宮地は「水柵」に守られた原太宰府地域と定められ、斉明帝行宮(朝倉橘廣庭宮)の防衛強化のため、水柵、大野城、基肄城の改修工事が、高句麗系技術者の手を借りて六六〇年秋から開始された。(繕修城柵、断塞山川) 筑紫遷宮プロジェクトと筑紫防衛強化プロジェクトは、百済国降伏情報を契機とした同時期の総合プロジェクトだ [続きを読む]
  • 6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷
  • 6 「水柵(みずき)」から「水城(みずき)」への変遷 以上のような認識から、私論としての結論は次のとおりです。 第一段階(六世紀) 大和政権以前の九州勢力によって、初期段階の水城堤、大野城、基肄城、および九州内の神籠石山城は、既に六世紀に築造されていた。 九州勢力には、磐井の乱(五二八年)で敗れた筑紫君一族を想定しています。(筑紫君は磐井、その子葛子と続き、七世紀には筑紫君薩夜麻が書紀に登場しま [続きを読む]
  • 5. 推論を裏付ける二つの外交情報
  • 5. 推論を裏付ける二つの外交情報 水城堤築造に関する私の結論を述べる前に、その前堤となる二つの情報を紹介します。 5-1 第四回遣唐使の帰国とその情報  六五九年八月に出発し、約一年六か月もの間、唐に滞在した第四回遣唐使が何を見聞したかは、重要な情報です。   六六〇年夏に百済国は降伏し、その年十一月に百済義慈王、王子隆ら五十人もの百済人が、唐の首都洛陽に連行されていきます。この時 [続きを読む]
  • 4 「水城堤築造二段階説」登場
  • 4 「水城堤築造二段階説」登場 実は二〇一一年春に「水城堤築造二段階説」が、九州歴史資料館によって発表されました。 発掘調査の結果、土塁の基底部(幅八十メートル高さ二メートル)と、その上の土堤本体(幅二十メートル高さ七メートル)とは、土を突き固める工法および土質が異なる、と確認できたのです。 そのため基底部と土堤本体とは築造時期が異なると判断し、土堤本体については書紀の記述どおり六六四年完成と考 [続きを読む]