超老 さん プロフィール

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超老さん: 生老病死−老いと死を考える−
ハンドル名超老 さん
ブログタイトル生老病死−老いと死を考える−
ブログURLhttp://cs2593.blog.fc2.com/
サイト紹介文人生もすでに終盤、今一度、生と死を見つめ直し、さらに、死後について考えてみたいと思います。
自由文生老病死は、人が人生において避けることのできない 四つの大きな苦悩を表しますが、人生も終盤にさしかかり、肉体は衰え、老いはますます深まってゆき、死というものを否応なく意識せざるを得ない状況のなかで、今一度、生と死を見つめ直してみたいと思います。そして、残された時間を死後の世界に行くための貴重な準備期間として捉え、真剣にその準備に備えることができればと思います。

参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供94回 / 365日(平均1.8回/週) - 参加 2015/08/04 13:36

超老 さんのブログ記事

  • 月信仰と再生思想
  • にほんブログ村 前回、紹介した戸矢学氏の『ツクヨミ−秘された神−』によると、 天照大御神を祭神とする神社は、全国で13582社(境内社も含む)、須佐之男命を祭神とする神社は13542社(境内社を含む)であるのに対して、月讀命を祭神とする神社は704社(境内社を含む)であり、そのなかでも、山形の月山神社のように、もともとの祭神が「山神」であるようなものや、もともと別の主祭神を祀る神社でありながら、何 [続きを読む]
  • ツクヨミ−秘された神−
  • にほんブログ村 古事記には、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が、黄泉(よみ)の国へ 行って嫌な穢いものをつけてしまったとして禊をされるのですが、体につけていたものを投げ捨て、身体を洗うことによって様々な神々を生み出したとあります。そして、一番最後に、伊邪那岐命が左の眼を洗うと天照大神(アマテラスオオカミ)が出現し、右の眼を洗うと月讀命(ツクヨミノミコト)が出現し、鼻を洗ったときに須佐之男命(スサノ [続きを読む]
  • 『霊的技術−傷ついた幽体を救え−』
  • にほんブログ村 (水波一郎 著 アマゾン 発売)今までに紹介してきた水波一郎氏の著作は相当な数にのぼりますが、テーマを霊的な技術に絞った著書はなかったように思います。本来、技術というものは、本を読んだだけで身につくものではなく、正式な指導を受け、きちんと実習しなければ力が生じないものと思われますが、それでも霊的技術に関する本を出版された理由はなぜなのでしょうか?水波一郎氏は、「はじめに」にお [続きを読む]
  • 太陽神から先祖神へ−アマテラスの誕生2−
  • にほんブログ村 前回、伊勢皇大神宮の神、アマテラスは、もとは、天つカミ、つまり、日のカミであり、風のカミであり、雷のカミであったということ、そして、天つ神が地上に降りるときは、まず、山の頂上に来たりて、樹木(御陰木)を経て、いったん、川の流れの中に潜り、巫女により流れの中からすくいあげられ、地上に御生(みあれ)、つまり、再生するというプロセスをたどるということ、などを見てきました。今回は、では、 [続きを読む]
  • アマテラスの誕生
  • にほんブログ村天照大神というと、現在では天皇家の祖先神であり、それも女性的な 神格であるとされていますが、驚いたことに、かつては、男性神で、それも蛇であるとされていた時代があったということです。今回は、筑紫申真氏の著書『アマテラスの誕生』によりながら、その神格の変遷をたどってみたいと思います。さて、伊勢神宮には古来より、皇大神宮の神様、つまりアマテラスは蛇で、毎晩、その后である斎宮(いつきの [続きを読む]
  • いけにえの祭り−アステカの人身供犠2―
  • にほんブログ村アステカ文明は、16世紀にスペイン人によって滅ぼされました。 しかし、被征服民の文化として蔑視されていたマヤ、アステカといった古代も文明も、20世紀に入ってから、その偉大さや重要性が徐々に認識されて、現在ではメキシコ人にとり、それが誇りと自信の源泉になっているとさえ言われています。ただし、人身供犠に関しては、祖先が行った信じられない風習として、素直の受け入れ難いようであり、エ [続きを読む]
  • アステカの人身供犠
  • にほんブログ村かなり前になりますが、フランス人作家ル・クレジオの『メキシコの夢』を手がかりに「神話−血の供犠−」という文章を書いたことがあります。ル・クレジオは、『メキシコの夢』の中で次のように述べていました。「人間の歴史のなかで、おそらくインディオほど血の虜になった民族はいないであろう。アステカ族はまるで魔術的な魅力にかかったように血に取り憑かれ、つきまとわれた。他の大部分のスペイン人記 [続きを読む]
  • 英雄・文化英雄・トリックスター−創世神話4−
  • にほんブログ村文化のはじまりの神話は世界中にあるようです。なぜなら、人間は、赤ん坊を見ればわかるように、生まれたままの状態ではきわめて不完全で、生まれてきただけでは大きくはなれないからです。危険な獣に襲われないように誰かが守ってやらなければならならないのです。また、母乳で不十分なら動物の乳も必要となりますが、その場合、乳を搾れる家畜を飼っておくと便利ですし、少し大きくなると、火によって柔ら [続きを読む]
  • 『霊魂に聞くⅡ−宗教について高級霊魂は何を語っているのか−』
  • にほんブログ村 (水波一郎 著 アマゾン 発売 )少し前に、水波一郎氏は、『霊魂に聞く−この世の人達が知っておきたい 霊学宝典−』という書を出版されていますが、今回は、その続編ということになると思われます。前回と同様、霊的分野に関することを初心者にもよくわかるようにQ&Aの形式でまとめたものですが、今回は、サブタイトルにもあるように、宗教について高級霊魂は何を語っているのかということ、つまり、 [続きを読む]
  • 死と罪のはじまり−創世神話3−
  • にほんブログ村 死の起源神話は、広い意味で人類の起源神話の一部をなしていて、しば しば生殖の起源と関連して死もまた始まったと伝えられています。内容的にも死の起源神話は、人類起源神話と対応する構造をもっているものもあるようです。たとえば、単独の創造神による人類の創造の場合、創造神の命令に違反した罪として死が始まったという形式があり、また、二神が対立し、争いながら人類を創造した場合、一神は人間に死 [続きを読む]
  • 人間のはじまり−創世神話2−
  • にほんブログ村 人類起源神話は、世界起源神話や文化の起源神話とともに創世神話の重要な 一部分をなしていますが、人類の起源は、しばしば世界起源神話の一部をなしており、そうでない場合も類似した構造やモチーフをもっていることが多いようです。また、世界の存在を前提にして人類の起源から話を始める神話も多く、人類起源神話は農耕の起源など文化の起源神話と連続して区別しがたい例もあるようです。なお、日本の天孫降 [続きを読む]
  • この世界のはじまり−創世神話1−
  • にほんブログ村世界の起源というと、まず旧約聖書の「創世記」における<天地創造>や、「古事記」における<天地のはじめ>やイザナギとイザナミによる<島々の生成>を思い浮かべます。「創世記」では、<原初には闇が混沌の上にあった。神ヤハウェは「光」あれと言った。すると光があった。神は光を見てよしとした。神は光と闇を分けた。神は「水のなかに天蓋があって、水と水を分けるように」と言った。天蓋の下の水と天蓋 [続きを読む]
  • 呪法−空海の闇について−
  • にほんブログ村 すぐれた密教の修行者は、教理面はもちろん、併せて、加持祈祷、修法の 実際的な側面、つまり法力においても秀でていなければなりませんが、空海はその両面において傑出した人物であったとされています。よって、最澄も、空海より7歳も年長であり、さらに確固たる社会的地位を獲得していたのですが、みずから密教の所伝において欠けるところを自覚すると、すすんで一介の青年仏者空海に教えを乞い、彼を戒師と [続きを読む]
  • 即身成仏とは何か?−空海の宗教思想2−
  • にほんブログ村 空海が密教の教義を語る理論書には二種類あります。 一つは、密教の思想的特徴を述べたものであり、『弁顕密二教論』『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義(うんじぎ)』などの著作がそれであるとされています。もう一つは、密教の立場からの全仏教の位置づけに関するもので、密教を仏教のうちで最も完成したものと考え、他の仏教を密教の下におき、それを発展段階の低いものとして位置づけるのですが、そうい [続きを読む]
  • 空海の宗教思想
  • にほんブログ村梅原猛氏は、著書『空海の思想について』において、弘法大師空海の思想を語るのは、はなはだむずかしいと述べています。なぜなら、空海は宗教家、つまり政治家や実業家のような実際家であるため、主に著作によって自己を表現する思想家や学者と異なり、著作が主要な自己表現の手段ではない。だから別の方法が必要だからだとしています。よって、宗教家の場合、その著作によってのみ評価すべきではなく、その [続きを読む]
  • 空海入唐の謎
  • にほんブログ村 空海が入唐の直前まで無名の私度僧か、私度僧に近いような存在であったとすれば、一体、どのようにして入唐が可能になったのでしょうか?このことについては、今までのところ、皆目わかっていないようで、空海伝の中の大きな謎の一つとされています。当時、入唐して学ぶ者には、留学生と還学生との二種類があったということですが、前者は長期間にわたって唐にとどまって学ぶものであり、後者は、すでに学業 [続きを読む]
  • 空海の謎
  • にほんブログ村空海という人は謎の多い人物です。学校の社会科の教科書を見ると、親鸞、道元、日蓮などは、かなり詳しい説明があるのに対して、空海の場合は、真言宗の開祖で、天皇・貴族を相手に加持祈祷をおこなったといった程度のことしか記されていないようです。しかし、我が国の説話文学に目を移すと、逆に、最澄、法然、親鸞、道元、日蓮らは、あまり登場していないのに対し、空海は、今昔物語以来、十数を数える代表 [続きを読む]
  • 『ユダ福音書』の謎−ユダとは誰か3−
  • にほんブログ村 1970年代のある時期に、2世紀のギリシャ語本文からコプト語(古代エジプト語)に翻訳された『ユダ福音書』なるものがエジプト中部で発見されました。『ユダの福音書』というものの存在は、リヨンの司教エイレナイオスが180年頃に著わした『異端反駁』によって示されていましたが、それが証明されたわけです。そこには、冒頭、次のように記されています。「これは秘められた啓示の言葉、過越の祭 [続きを読む]
  • マタイ・ルカ・ヨハネ福音書のユダ−ユダとは誰か2−
  • にほんブログ村前回、マルコ福音書におけるユダについて見てきましたが、今回は、 マタイ、ルカ、ヨハネの各福音書においてユダがどのような扱いをされているかを見て行きたいと思います。まず、マタイ福音書ですが、この福音書は、紀元前80年代に、一ユダヤ人キリスト者によって、二つの資料、つまり、マルコ福音書そのものと、ルカ福音書と共通するイエスの語録集を用い、それに独自の資料を補いながら編纂したとされ [続きを読む]
  • ユダとは誰か 1 −マルコ福音書の中のユダ−
  • にほんブログ村イスカリオテのユダとは、周知のとおり、イエスを裏切ったと言われる人物ですが、それを歴史的な事実と断定するに際しては、いくつかの疑問点があるようです。なぜなら、共観福音書と言われる四つの福音書においてさえ、ユダの「裏切り」(一般的に「裏切る」と訳されるが、もとは「引き渡す」という意味であった)の度合いが異なるだけでなく、それに対するイエスの対応にもかなりの差異が認められるからです。 [続きを読む]
  • グノーシス主義による聖書解釈−「トマスによる福音書」2−
  • にほんブログ村(ナグ・ハマディ写本)グノーシス主義による聖書解釈とは、具体的にはどのようなものなのかということですが、まず、その旧約聖書解釈から見ていきたいと思います。一時代前までは、グノーシス派は旧約聖書を創造神や律法と共に拒否したという説が一般的であったようですが、現在は、とりわけナグ・ハマディ写本発見以来は、もちろん、その解釈原理によって適当な修正を加えた上で、旧約聖書を受容した、あるい [続きを読む]
  • 隠されたイエス−トマスによる福音書−
  • にほんブログ村 エジプトのナイル川中流域にあるナグ・ハマディという小さな村で、 1945年に、羊の皮でカバーされた13冊のコプト語(古代末期のエジプト語)パピルス古写本(コーデックス)が発見されましたが、これが、いわゆる「ナグ・ハマディ文書」といわれるものです。この「ナグ・ハマディ文書」の大半は、キリスト教最初で最大の「異端」といわれるグノーシス主義に関わるものであり、その中の一つが、今回、取り [続きを読む]
  • 親鸞と教信−我は是れ賀古の教信沙弥の定なり−
  • にほんブログ村 吉本隆明氏は、「ある親鸞」の中で、親鸞にはいくつかの貌があるが、当代無二の思想家として、浄土教義の流れに身をただし思想を述べている晩年の親鸞と、越後や関東の野人たちに、偶像や派閥の破壊を生々しい言葉で説いている親鸞とは、異質のように思えてくる、と述べています。つまり、晩年、法然の専修念仏義を展開させるために打ち込んでいる親鸞の姿と、越後配流(流刑)以後、はじめて、じかに接触 [続きを読む]
  • 賀古の沙弥 教信―捨聖・念仏聖の先駆者2−
  • にほんブログ村 (教信寺 沙弥教信上人 頭像)<教信入滅後、遺言により、亡骸は野に置かれ、体は鳥獣に食われたが、首から上は無傷であったという説話をもとに制作されたという>一遍が尊敬していた念仏聖は、空也のほかに「播磨国の賀古の駅(うまや)の教信」という人がいます。一遍は非常に教信を尊敬していて、『一遍聖絵』によると、教信寺(教信を開祖とする寺)を訪れ、懐かしく思いつつも、そのまま去る予定であっ [続きを読む]
  • 空也−捨聖・念仏聖の先駆者−
  • にほんブログ村 前回、衣食住のすべてを捨てて各地を遊行するという一遍がとった活動形態の原型として、「法華の持経者」と呼ばれた人たちがいたこと、そして、その持経者の一人である行空のという人物について触れました。しかし、それよりも、実際、一遍自身が先達として慕っていたのは、平安時代、すべてを捨てて、山野に遊行し、念仏を勧めて歩いて、阿弥陀聖、あるいは市聖と呼ばれた空也という人で、彼の言葉に感動 [続きを読む]