ヤマシロ さん プロフィール

  •  
ヤマシロさん: 古城巡り2015
ハンドル名ヤマシロ さん
ブログタイトル古城巡り2015
ブログURLhttp://yamashiro2015.blog.fc2.com/
サイト紹介文関東を中心に全国の、城館や史跡をデジタルアルバムのデジブックにて現在の城を紹介して行きます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供293回 / 365日(平均5.6回/週) - 参加 2015/08/12 19:14

ヤマシロ さんのブログ記事

  • 花園城 藤田氏の居城!!
  • 諏訪神社から堀切3堀切3から郭2堀切2から正龍寺完平安時代末期、武蔵七党の一つの猪俣党の猪俣政家の子政行は藤田郷に住んで、藤田姓を称するようになったが、その居城としていたのが花園城といわれる。その後、戦国時代の天文年間(1532〜54)に、藤田重利(のちの康邦)が天神山城(秩父郡長瀞町)を築いて居城を移してからも藤田氏の城(天神山城の支城)として存続した。藤田重利は武蔵支配を確立した北条氏康に降伏し、氏康四 [続きを読む]
  • 府中城 岐阜県不破郡垂井町府中(安立寺)
  • 府中城は、現在の安立寺周辺にあったとされるが、遺構等は発見されいない。歴史についてもはっきりしたことは分かっていないが、一説には西美濃四人衆のひとり不破氏が居城としていたとされる。不破氏の出自については、百済系渡来人後裔説や源姓説など諸説あるが、不破氏府中城主説によると、その祖は山城国住人松井蔵人直家とされる。直家は鎌倉時代末期に不破郡府中村に移住し、不破氏を称したとされる。直家子孫の孫左衛門道広 [続きを読む]
  • 竹中陣屋 岐阜県垂井町
  • 岩手城と呼ばれていたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため城は陣屋と呼ばれるようになった。別名、竹中陣屋、岩手陣屋。羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治の子である竹中重門が築いたものであるが、敷地を囲む大規模な堀(水堀など)と石垣などがあり、世に言う陣屋というものより小型の城と言ったほうが正しい。元々、竹中氏の居城は堅固な山城である菩提山城(岩手山城)であったが、平時には不便な [続きを読む]
  • 垂井城 岐阜県垂井町
  • 「 ここは関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡と云われています。平塚為広は豊臣秀吉に仕え、1万2千石の垂井城主となりました。大谷吉継と西軍に属し、伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、決戦当日には、病気の吉継に変わり、太谷隊を指揮しました。小早川秀秋が西軍を裏切り太谷隊へ攻めかかると、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返しましたが力尽き、山内の家臣樫井太兵衛に討たれました。敗 [続きを読む]
  • 関ケ原合戦岡山本陣跡
  • この山は海抜53メートルの丘陵で、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のとき東軍の総大将徳川家康の本陣が構えられたところです。天下分け目の大合戦に勝利を得た家康は、ここを徳川ゆかりの地と記念して、岡山の名を勝山に改めたと伝えられています。また、この山は聖徳太子の創建といわれる安楽寺領で、壬申の乱をはじめ貴重な史料が点在しています。岡山本陣跡大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )にほん [続きを読む]
  • お茶屋屋敷 大垣市赤坂町
  • 慶長10年(1605)に完成した将軍家専用の宿泊施設で、徳川家康・秀忠らが宿泊しました。本史跡は、約170メートル四方の方形区画で、御殿を中心に建物が配され、四隅には櫓も備えていたと推定されます。現在は、空堀や土塁などが残っており、城郭的要素を持つ貴重な遺跡として、昭和51年に県の史跡に指定されました。大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )にほんブログ村 [続きを読む]
  • 吉田城 岐阜県大垣市
  • 吉田城は南朝方に与し、北朝方の美濃土岐氏と戦った吉田休三入道の居城と伝わっていますが、築城時期・築城者ともに定かではないようです。その後は木村宗左衛門勝正が居城したそうです。現在城址には慈渓寺が建てられており、門前に石碑があります。吉田城 城址碑  慈渓寺慈渓寺 本堂慈渓寺前の堀跡大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )にほんブログ村 [続きを読む]
  • 墨俣一夜城・・・・・・((+_+))
  • 岐阜県南西部,大垣市の飛び地墨俣にあった平城。織田信長が美濃斎藤氏攻略の足場として,永禄9 (1566) 年木下藤吉郎秀吉 (豊臣秀吉 ) に築かせた。*この模造天守は資料館です、この様な天守は存在していないと思われます。大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )にほんブログ村 [続きを読む]
  • 氷取城
  • 氷取城は竹鼻城の出城で、竹鼻城主不破源六友綱の弟、不破大炊頭が守っておりました。 天正12年(1584)、小牧長久手の戦いで、豊臣秀吉は、まず羽島市下中町の加賀野井城を落とし、続いて竹鼻城を水攻めにしました。城兵はよく戦いましたが6月10日落城。氷取城は、このとき竹鼻城と運命を共にしたと思われます。 城の遺構はありませんが、発掘調査で堀跡が確認されている。大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 [続きを読む]
  • 森部城&稲葉正成屋敷
  • 安八町の長良川右岸堤防下にある。前田利家が手柄を立てて信長の下へ帰参した森部合戦の折、信長に味方した河村久五郎の屋敷跡。そしてそのすぐ南隣にある金峯神社は稲葉正成の屋敷跡である。森部城稲葉氏屋敷*共に遺構は無いと思われる。大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )にほんブログ村 [続きを読む]
  • 牧村城 山ノ内一豊縁の城
  • 一豊は天文14年(1545)、尾張国岩倉城家老で黒田(木曽川町)城主山内盛豊の次男(三男説もあり)として生まれた。盛豊は織田信長に攻められ、永禄2年(1559)岩倉城は落城し、戦死。残された一豊は流浪の身となります。その時、当町牧城主、牧村政倫のもとに寄宿しており、少青年期の多感な時期を過ごします。この政倫との出会い、牧村での生活が一豊の人生に大きな影響を与えることとなりました。大きい地図・ルート検索  ( p [続きを読む]
  • 宝暦治水三之手出張小屋跡
  • 宝暦治水三之手出張小屋跡薩摩藩による宝暦四年(一七五四)〜五年の お手伝い普請「大榑川洗堰」築造などの際 工事のため出張小屋が大藪の庄屋渡辺 勘右衛門の屋敷におかれた。 当時の渡辺家の屋敷「一本松屋敷跡」は その面積一五一五坪(約五〇〇m2に及ぶ。現在この地の中五二坪(約一七〇m2)が町に寄附され 大藪地区戦没者墓地となっている大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )にほんブログ [続きを読む]
  • 大垣城 櫻咲く早春
  • 大垣城宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみであったという。氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年(慶長18年)には石川忠親によって総堀が加えられ、松平忠良が天守を改修した。その後1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄によって明治に至る姿とされた。戸田氏改修後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも [続きを読む]
  • 関ヶ原 東西陣跡を巡る
  • 東軍布陣を巡る西軍布陣を巡る慶長5(1600)年9月15日、徳川家康が率いる東軍と、石田三成の西軍が戦った。東西合わせて15万人以上の軍勢がいたとされ、濃霧のなか、午前8時ごろに戦いが始まった。当初は西軍が優位だったが、西軍・小早川秀秋の大軍約1万5千人の裏切りなどで、約6時間にわたる戦いは東軍の勝利に終わった。死者は両軍合わせて6千人や8千人などの説がある。関ケ原古戦場には戦国武将の陣跡などがあ [続きを読む]
  • 唐沢山城 北関東屈指の巨大城郭
  • 大手から南城東尾根南城から南東方面栃木県佐野市にあった戦国時代の連郭式の山城(やまじろ)。関東七名城の一つ。同市の中心部の北約5kmの唐沢山(標高247m)の山頂の本丸を中心に、山全体を城域としていた。平安時代の927年(延長5)に藤原秀郷が築いたとの伝承があるが、最近、その起源は15世紀後半であるとの研究結果も発表されている。この城は藤原秀郷を祖とする佐野氏が代々城主をつとめてきた。佐野氏は戦国時代後期、小田 [続きを読む]