welfair10 さん プロフィール

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welfair10さん: 僕の文学散歩
ハンドル名welfair10 さん
ブログタイトル僕の文学散歩
ブログURLhttp://bokuno1.sblo.jp/
サイト紹介文文学を通じて幸福を考えよう。
自由文文学を通じて真の幸福を考えてゆこう。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供152回 / 365日(平均2.9回/週) - 参加 2015/09/15 19:17

welfair10 さんのブログ記事

  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 最近、見っかつたテープの中で三島は私の小説の欠点は劇的すぎることと述べている。しかしそれは欠点であるだろうか。私は三島文学から劇的なものを除くなら面白くないと思う。三島文学の劇的さは小説の面白さであり、趣の少ない人生の凡というものを描くなら興味はなくなってしまう。劇的な文学というもの対しては僕は限りなく憧れをもっている。三島文学の構成力は三島の頭の良さをあらわしていて、物語の初めからクライマックス [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 清美はカミソリで収の脇腹を切る。「なぜ斬ったんだ」「あんまり肌がきれいだから。じっと見ているうちに切りたくなったの」と清美は答える。突然、清美は収の胴体に斜めに抱きついて、小さな傷口の血を吸った。自分の脇腹に流れる血を見たときに、収はしっかりとわがものにしたことのなかった存在の確信に目覚めたのである。痛みと血が彼の存在を全的に保証し、彼の存在をめぐる完全な展望が開けたといえる。なまめかしい血の流出 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 樹々の木というよりは、濃密な緑の、不定形な毛羽立ちとその影の膨大な集積という風に見える。鮮やかな光沢を放つ緑もあれば、ひ弱な若い緑もある。しぶとい緑もあれば、せんさいな緑もある。樹海の描写は見事なものである。画家の視線で見た樹海である。ところが夏雄は樹海が化学薬品のあくどい緑いろの残滓が、蜜集してひしめいている沼のように見えてくるのである。永久の停滞。動きもせず流れもしない。その緑は現実が虚無に蝕 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 夏雄は富士山麓の樹海を描こうと思う。夏雄は水平的構成が好きである。なぜなら峰や尖塔の様な、意志の表象がないからである。天才とは美そのものの感受性をわがものにして、その類推から美を造形する人であると夏雄は考える。美にとっては、世界喪失は苦悩ではなくて生誕の賛歌のようなものなのだ。天才の感受性とは、人目にいかほど感じやすく見えようと、決して悲劇に到達しない特質なのである。分かったような分からないような [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 収はひるまないで、黄色いポロシャツの腕を組んで壁にもたれた。壁にもたれたという表現は非常にうまい。知的な若者のとるポーズである。実在感がある。私はあなたを買おう思ってきたんだから、証文をお書きなさいと清美は収に言う。これには笑ってしまった。現実にはこんな話はないだろうが、文学にはこうした意表を突くような話があると、俄然面白くなる。現実にはありえない話だが、文学の中に大いに取り入れるべきだろう。物語 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 眼鏡をかけ、女教員のような白いブラウスに、派手な花もようのプリントのスカートをはき、片手にナイロンの書類かばんを下げている。口もともそんなに悪くはないのだが、小鼻の怒った鼻がすべてをぶちこわしている。脚は大そう太く、身のこなしがひどく固いのである。秋田清美の描写なのだが、醜い女であることは、読者としてはすぐ近くに想像することができる。この辺の女の描写はまるで絵描きのような的確さがあって上手である。 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 光子はグレイのスーツを着て、スカーフに大きなブローチをしていた。少し黒ずんだ色の口紅をつけていた。黒ずんだ口紅なんてうまい表現である。女性の描写は適格で、これはやはり文学的才能というべきだろう。光子が脱いだ靴下を清一郎が指でつるして切子ガラスのタンブラに丸めて入れ、上からウイスキーとソオダを注いで男たちにすすめて廻るのだが、大人のお遊びだが、面白いと思った。俊吉がそれを飲み干すんだが、男気を感じる [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 筋肉の険しい輝きや、あたりの来世のような眩ゆさ。リングをとりまく喧騒な夜。そのどよめき。そして深い夜の遙か遠くにひとりきらめいている敵手の星。これがボクサーの宇宙である。ボクサーの心の動きがよく描かれている。「起き上がってくれなければいいが」と俊吉は祈るのである。落胆と疲労の感覚をよく知っているのである。これはうまい表現であって、勝っているボクサーならそう思うのである。打たれた頭は充血して、ひどく [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • ボクシングの試合の光景はなかなか迫力がある。新人のボクサー峻吉と元日本フェザ?級チャンピオン南との闘いは迫真の演技である。まるでボクシングの試合をテレビで見ているような緊迫感がある。身のまわりの観衆は、アマチュアの試合の客とはまるで違うのである。惨劇に対する渇望だけというのだから怖い観客である。恐ろしく静かで、このまますべてが停止してしまうような静けさがある。峻吉は打ち、進み、打ちまた打たれるので [続きを読む]
  • 三嶋由紀夫の「鏡子の家」について
  • とうとう耐えかねて、夏雄はこう言った。「そんなに筋肉が大切なら、年をとらないうちに、美しい時に自殺したらいいんです」この言葉の中に、あの自決事件の謎を解く鍵が隠されているように思える。三島は老いることを非常に恐れていたわけだ。最上の条件の時における自殺だけが、それを衰退から救うだろうという論理は良く分かるけど、短絡思考の領域であって、この短絡性はボクサー峻吉に通じるものであり、美徳のよろめきの探求 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 芸術作品とは目に見える美とはちがつて、目に見えない単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、超時間性に他ならないのだ。人間の肉体が芸術作品だと仮定しても、時間に蝕まれて衰退してゆく傾向を阻止することはできないだろう。そこでもしこの仮定が成立つとすれば、最上の条件の時における自殺だけが、それを衰退から救うだろう。この言葉の中にあの悲劇的な自決事件の本質が語られているように思うのである。その [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • プロボクサ―になる深井峻吉はこの物語では特異な存在である。そう深く物事を考えるわけではなく、単純といえば単純なのだが、ボクサーとしての峻吉は足のさばき、肌ツヤやサンドバッグを叩く拳によって上手に描かれていると思う。同じ拳闘仲間の原口が面白い。どてらをいつも着ていてその下はパンツ一枚である。原口は借金を踏み倒し、みんなの鼻つまみなのだが、非常に人間臭い。最後に合宿で自殺するのだが、死に顔の顎に峻吉は [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • この世は必ず破滅すると信じている清一郎は行動だけが人間の永世が約束され、行動の裡だけに何か永久不変のものがあるという考えに移っていく。この心理の動きは良く分かるところである。美しい者になろうとするよりは嫌いな者に化身するほうが好きなのだ。清一郎の性格がよく出ているところである。行動に飛び込もうとしない。見ているだけで満足してしまう。彼の行動に永生や不朽の光輝があるのが嫌なのである。href="http://nov [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 四人が四人とも感じていた。我々は壁の前に立っている。峻吉は「俺はその壁をぶち割るんだ」と言う。「俺はその壁を鏡に変えてしまんだ」と収は言う。「俺はその壁を描くんだ」と夏雄。「俺はその壁になるんだ」と清一郎。四人の性格がよく出ていると思う。比愈が上手である。四人の性格が的確に表現されている。「俺はとにかくその壁を描くんだ」という夏雄の言葉は芸術的である。画家の精神であり作家の精神と言ってもいい。href [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 光子は収の両方の腋窩をかわるがわる唇でくすぐるのだが、女の熱い重い体を跳ね返すことはできない。収は必死になって鏡を探す。鏡を通じて自分の存在の堅固な証明をしたいからであろう。女と寝るのもつかの間の存在の証である。女よりも忠実なのが鏡である。この心理はよく理解できるところである。光子という女性もよく描かれている。宿の女中や帳場の人々をあしらうあけすけな態度に収は驚くのであるが、女の性格にはそんな面が [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 清一郎は人類の滅亡を信じていた。世界が必ず滅びるという確信がなかったなら、どうして生きていくことができるだろうといつも思っている。美しい星でも人類滅亡が主のテーマだったが、三島自身も人類の滅亡を信じていたのかもしれない。とするなら清一郎は三島の分身かもしれない。鏡子に、君は過去の世界崩壊を夢み、僕は未来の世界の崩壊を予知していると言う。それが永久に続き永久に生きのびるような幻影を抱かせるのだ。今で [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「鏡子の家」について
  • 峻吉は拳闘の選手である。瞬時もものを考えないようにするのが信条である。現在を鼓舞し、現在を支える記憶だけを覚えている。いざりングに上がって開始のゴングが鳴ってからの惨めさと言ったら。僕も学生時代にボクシングをやっていたので、この気持ちはよくわかる。静岡に合宿に行き、16才の少年とグロブを交えた。こちらのパンチは一向に当たらない。相手のパンチは的確に僕の顔面をとらえる。嫌な気分である。小年に負けたと [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「美しい星」について
  • 重一郎は胃癌にかかり危篤状態になるのだが、最後に伊奈子と一雄と暁子の4人で逃げるようにして東生田へと向かう。まるで逃避行なのだが、やがて4人は第ニの丘の上の広い麦畑の彼方に銀白色の円盤を発見する。円盤とか宇宙人の登場は純文学としてはどんなものであろうと心配したが羽黒助教授ら仙台3人組の登場によって迫真性が出てきた。現代の人類の危機的状況を語っており人類の平和については考えさせられた。特に最後の逃避 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「美しい星」について
  • 人間は全然生きたいという意志など持っていないことだ。生きる意志の欠如と楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間だという羽黒の考え方には反発を感じる。私は生きたいと思うから羽黒のこの考え方にはついていけない。ふと見ると暁子は泣いていない。その顔を見たときに一雄は戦慄した。 暁子の顔は、彼女の感情の霜が精緻に結唱した窓硝子の向こう側から、室内のこの世の気配をじっと窺がっているかのようだった。宇宙人の感 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「美しい星」について
  • 「神のことを、人間は好んで真理だとか正義だとか呼びたがる。しかし、神は真理自体でもなく正義自体でもなく神自体ですらないのです」と羽黒助教授は言う。それは管理人に過ぎず,人知と虚無との継ぎ目のあいまいさをことさら維持し、ありもしないものと所与の存在との境目をぼかすことに従事しますと羽黒は述べるのだが、あまりにもニヒリステックでついていけない。神は管理人ではない。虚無の管理者として神を考えるなら、羽黒 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「美しい星」について
  • 羽黒助教授の「人間には三つの宿命的な病気がある。一つは事物への関心である。二つ目は人間への感心であり、三つ目は神への関心である」という言葉は面白いと思った。人類がこの三つの関心を捨てれば滅亡をのがれることができるが、これは不治の病だと言う。羽黒助教授のこの説法はなかなか面白い。水素爆弾は人間の到達した最も逆説的な事物で、人間どもはこの危険な物質のうらに究極の「人間的」な幻影を描いているのです。いつ [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「美しい星」について
  • 重一郎は娘の妊娠を心配して竹宮を金沢に訪ねる。娘の不幸を救うためなら、どんな恥じでも忍ぼうと重一郎は思うのである。重一郎は必死で竹宮を探すのであるが見つからない。評判もよくない。女たらしである。旅館の内儀とも関係があつていろいろ聞くのであるが、竹宮の失踪については何も分からない。この辺の設定が面白い。つまり世間的にはまじめでない人間として描かれているのである。重一郎は帰つてから娘になんと報告しょう [続きを読む]
  • 三島由紀夫の美しい星について
  • 暁子の妊娠に母親の伊余子は驚く。「お母様、驚いたら駄目よ。私は処女懐胎なの」伊余子はショックを受ける。「秘密を守る方法は、秘密を消してしまうことなんだけど、4月でも遅すぎはしない」と娘に掻爬をすすめる。娘は断固として拒否する。自分の神聖さの果てまで歩きつめることを暁子は決意する。ここで僕は金閣寺の有為子を思い出す。暁子と有為子がオーバーラップして困る。有為子が石段を誇り高く昇っていく場面が鮮明に浮 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「美しい星」について
  • 集団の時代はもう終わったのだ。我々のやり方は黙想によって人間悪の核心をおしゆるがし、人間を自滅させる行き方なのだ。悪が孤独な詩のようになり、詩が孤独な悪のようになっているのが現代の本当の状況なのだ。みんなは集団化と画一化の果てに戦争が始まるように思ッているが、実は一人の個人の小さな詩から戦争は始まるのが現代なのだ」と羽黒は言う。われわれの黙想の力は、凡庸なボタン押し係の下士官の心に人間理性の粗い網 [続きを読む]
  • 三島由紀夫の「美しい星「について
  • しかし列車が日本海沿岸に近ずくにつれて、雲間を洩れる日ざしを見、富山湾の灰色の海面を左右に望んだとき、左方にあかかと重い雲間に炉のように燃えている西日が見られた。しかし地平はなお密雲に包まれ、山と空との境界は定かでなく、山腹の雪の白い襞だけが鮮明な幻覚のように浮かんでいた。この風景描写は上手である。三島の画家のような才覚はきらめいている。物語を物語に終わらせずに実在感を与えている。これが三島の強味 [続きを読む]