kasaiさんの江戸甲府物語 さん プロフィール

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kasaiさんの江戸甲府物語さん: kasaiさんの江戸甲府物語
ハンドル名kasaiさんの江戸甲府物語 さん
ブログタイトルkasaiさんの江戸甲府物語
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/koufumogatari
サイト紹介文江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供20回 / 365日(平均0.4回/週) - 参加 2015/09/24 11:02

kasaiさんの江戸甲府物語 さんのブログ記事

  • 第141回大和周り02
  • 大和周り02 寛保2年4月25日(1742年5月28日)京都から大和周りに出発しています。奈良県から和歌山県,大阪を回り,5月8日(6月10日)に京都に戻っています。京都の宿である日野屋久兵衛,肴屋仁兵衛,大仏前長兵衛が同道しています。奈良県は北から南に横断し,吉野川(紀ノ川)を船で下って和歌山に出ています。第140回では奈良県を縦断して土田までの進んだ様子を書きました。今回はその続きです。◎5月昨日は吉野川(紀ノ川)に沿って [続きを読む]
  • 第140回大和周り01
  • 大和周り1 寛保2年4月25日(1742年5月28日)京都から大和周りに出発しています。奈良県から和歌山県,大阪を回り,5月8日(6月10日)に京都に戻っています。京都の宿である日野屋久兵衛,肴屋仁兵衛,大仏前長兵衛が同道しています。奈良県は北から南に横断し,吉野川(紀ノ川)を船で下って和歌山に出ています。 図は大和周りの経路を示しています。赤く塗られた丸が立ち寄った主な寺社,赤丸が宿泊地です。 25日は五条の橋から,伏 [続きを読む]
  • 第139回 伊勢参宮-京都2
  • 伊勢参宮−京都2 八日町の商人の大津屋五郎右衛門は寛保2年旧暦3月(1742年)に甲府から伊勢参りに出発しています。一行12人の旅で、甲府から京都までの旅の様子は第66回と第119回に書きました。伊勢参りが済むと現地解散のようで,五郎右衛門は京都に向かいました。五郎右衛門は伊勢参りの一行と別れて、京都、奈良、和歌山、大阪を回る旅行をしました。今回は京都滞在の具体的な様子です。 寛保2年4月13日(1742年5月17日)草津を [続きを読む]
  • 第138回 伊勢参宮−京都1
  • 伊勢参宮−京都見物1 八日町の商人の大津屋五郎右衛門は寛保2年旧暦3月(1742年)に甲府から伊勢参りに出発しています。一行12人の旅で、甲府から京都までの旅の様子は第66回と第119回に書きました。伊勢参りが済むと現地解散のようで,五郎右衛門は京都に向かいました。五郎右衛門は伊勢参りの一行と別れて、京都、奈良、和歌山、大阪を回る旅行をしました。今回は京都滞在の様子です。 寛保2年4月13日(1742年5月17日)草津を立っ [続きを読む]
  • 第137回 慶応4年(4) 甲府町民への対策
  • 慶応4年(4) 甲府町民への対策 慶応4年(1868年)は明治維新の年で、明治元年と改元されます。第71回に慶応4年の官軍進駐について書きました。今回は官軍による甲府町人への政策について書きます。前回と同様に日付はすべて旧暦です 3月17日と18日の両日,甲府町住民13754人に賑米423石7斗5升が支給されています。この米は甲府城の外御蔵場に保存されている米です。17日には5279人,18日には8475人に支給されており,出役として甲 [続きを読む]
  • 第136回 慶応4年(3)町方の負担
  • 慶応4年(3) 町方の負担 慶応4年(1868年)は明治維新の年で、明治元年と改元されます。第71回と第135回に慶応4年の官軍進駐について書きました。今回は官軍進駐と甲府町方の関係について書きます。前回と同様に日付はすべて旧暦です 3月4日に東山道総督府に属する土佐藩300人の一部である150人ほどと賄方として松島藩と高遠藩が到着しました。土佐藩の幹部は柳町の本陣に止宿し,藩兵は一蓮寺に止宿しました。町年寄は土佐藩の幹 [続きを読む]
  • 第135回 慶応4年の甲府
  • 慶応4年の甲府 慶応4年(1868年)は明治維新の年で、明治元年と改元されます。第71回に慶応4年の官軍進駐について書きました。 慶応4年(1868年)年に関する資料には山梨県史,甲府町年の坂田日記、深沢氏見聞誌〈甲府市史資料編第2巻〉,甲斐鎮撫日誌〈甲府市史資料編第2巻〉があります。山梨県史には2種類あります。1つは昭和33年に山梨県立図書館から発行されてもので,もう1つは平成になってから発行されたものです。昭和33年に [続きを読む]
  • 第134回 柳沢領分の時代
  •  柳沢家領の時代 甲府は宝永2年(1705)12月から享保9年(1724)までの20年間柳沢家(吉保・吉里親子)の領分でした。享保9年以降、甲斐一国は幕府領になり、幕末まで続きました。 柳沢家の領分なので、甲府藩あるいは柳沢藩の時代と言いたいところですが、藩という呼称は幕末以降使用されたものなので、当時は甲府藩や柳沢藩といい方はありませんでした。柳沢家中、柳沢領になります。 柳沢領の時代は私領(大名領)なのである程度柳 [続きを読む]
  • 第133回 豆腐の値段2
  • 豆腐の値段について 第101回に甲府城下の豆腐の値段について書きました。今回はデータを追加しました。 町年寄の日記には不思議なことに豆腐の値段が多数記載されています。豆腐の値段の改定届けに関する記事ですが、豆腐は庶民にとって大事な食品であったことが分ります。豆腐の値段を改定する場合、役所の許可が必要でした。ほとんどの場合、原料の大豆の値段の上昇を豆腐の値段の値上げの理由としています。大豆の値段が下が [続きを読む]
  • 第132回 御国法
  • 御国法 甲府城下の職人や商人から役所に提出された訴状には「御国法」という用語が見られます。「御国法」あるいは先規先例に違反している商売が行われているので,これを禁止してほしいという内容です。当時の役所も「御国法」という用語に関心を持ったようで、甲府町年寄りにその内容を尋ねています(延享3年御公用諸事の留;1746)。 町年寄は、「代々の支配者から認められた規則が伝わったもので、特に御国法という特別な文書は [続きを読む]
  • 第131回 甲府の人口2
  • 甲府城下の人口2   第7回に甲府城下の人口について書きました。今回はさらにデータを追加したものを載せます。 江戸の人口は100万人程度といわれています。では18世紀から19世紀の甲府の人口はどのくらいでしょうか。人口に関する記録が残っていますので紹介します。江戸時代は人別帳がありましたので、人口がわかります。ただし、武士は含まれていません。◎寛文10年(1670年)の人口は、上下府中合わせて12772人(男6161人、女6 [続きを読む]
  • 第130回 下府中形成以前の様子
  • 下府中形成以前の様子 江戸時代の甲府城下は上府中と下府中に区分されることを以前書きました。上府中は武田時代の甲府城下の名残です。下府中は武田家滅亡後の甲府城築城に伴って形成された町です。 図に武田時代の甲府周辺の様子を示します。武田城下は愛宕山と湯村山に囲まれた地域に存在しました。西側には貢川があります。ここは貢川が形成した扇状地に相当しています(図中記号1)。現在の甲府城は愛宕山から続く低い尾根の [続きを読む]
  • 第129回 上府中の人口
  • strong>上府中の人口 江戸時代の甲府城下は上府中と下府中に区分されることは以前書きました。商業の中心地は下府中です。上府中は人口が少なく、小規模な町が多数存在しました。図は宝暦10年(1760)の町ごとの家持の人数です(甲府宝暦年中古記録/若尾資料)。家持の数が最も多い町は愛宕町の68人で、その次に多いのは新青沼町の54人です。逆に少ないのが、大工町の3人、元連尺町、元緑町、御崎町のそれぞれ6人です。 各町名は町名 [続きを読む]
  • 第128回 上府中の町区分
  • 第128回 上府中の町区分ついて 江戸時代の甲府城下は上府中と下府中に区分されていました。甲府城の北側及び西側の町々を上府中,甲府城の東側と南側の町々を下府中といいました。上府中は古府中とも言いましたが,17世紀初頭ごろから上府中の名称が定着しています。下府中は最初のころは新府中といった様です。上府中は「かさふちゅう」と発音していたという記録もあります。上を「かさ」と呼んだようです。 上府中は武田時 [続きを読む]
  • 第127回 町民の名前02
  • 町民の名前 第60回で町民の名前について書きました。今回はこの続きです。江戸時代の名前は現在と違い、遠山左衛門尉景元のように、苗字、官職名、諱(実名)の3つからなっていました。通常は遠山左衛門尉のように苗字と官職名だけを名乗りました。現在は、山本太郎のように苗字と名前だけですが、名前は諱(実名)に相当しています。町民の名前も鈴木長兵衛宗久、鈴木伝左衛門宗俊というように、武士と同じ形式になっています。ただ [続きを読む]
  • 第126回 長屋の住民の職業
  • 長屋の住民の職業 甲府城下の住民は家持層と長屋の住民に区分されることは何回も書きました.家持層は商人,職人からなりました.家持層の住民は周辺の村に田畑を所持している者も多く,多くは小作に出していました. 甲府城下の住民の多くを占める長屋の住民の職業は何であったのでしょうか.江戸に関する本には,行商,棒手振り,職人などが記載されています.甲府城下の場合はどのような仕事についていたのでしょうか. 借家 [続きを読む]
  • 第125回 長屋居住年数
  • 長屋居住年数 甲府城下の町民は家持層と店(たな)借層に分かれていました。店(たな)借層は長屋の住民です。借家については二人の請け人(保証人)が必要です。これについては第45回で書きました。 店(たな)借層の住民は現代と同じように事情に応じて貸家を変えていました。どの程度の頻度で貸家を変えていたのでしょうか。貸し家を変える場合、移動元と移動先の町名主から町年寄りに届けが出されていました。この記録から、長屋の住 [続きを読む]
  • 第124回 長屋の住民の移動02
  • 長屋の住民の移動02 今回も長屋の続きです。 貸家出替書付という資料が甲州文庫に多数残されています。この資料から長屋住民の移動状況がわかります。 長屋の住民が転出する場合、あるいは転入する場合、町名主から町年寄りへ報告されます。甲府内で移動する場合、両方の町名主からの報告があります。転出する場合、誰の長屋からどこへ転出したかが報告されます。転入する場合、どこから転入したか、保証人2名の氏名、職業が報 [続きを読む]
  • 第123回 長屋住民の移動
  • 長屋の住民の移動 第45回で長屋について書きました。今回はその続きです。 甲府の住民(町民)は家持層、地借層、家守層、小借層(店借層)に区分されます。 家持層は土地と家屋を所有する者、地借層は土地は借りているが家屋を所有する者、 家守層は借家の管理人で本人も家を借りている者、小借層(店借層)は家を借りている者です。"店借"は"たながり"と読みます。  三日町の店借に関する記録(甲府三日町貸家出替留:頼生文庫)が残 [続きを読む]
  • 第122回 町の年齢構成02
  • 町の年齢構成02 第118回に横近習町の住民の年齢構成を書きました。今回は宝永2年(1705)の三日町、宝永3年(1706)の山田町の年齢構成です。両町とも下府中にあり、当時の中心街です。町の位置は第118回に示してありますのでご覧ください。人別宗旨改帳から作成した資料で、町の住民(家持とその家族、奉公人、長屋の住人)のデータです。人別宗旨改帳には歳以上のみが記載されていることに注意してください。三日町は614人(男289人、 [続きを読む]
  • 第121回 ええじゃないか騒動
  • 今回は幕末のええじゃないか騒動について 幕末の慶応3年(1867)から4年(1868)に日本各地にお札が振り、庶民が踊り狂ったという、いわゆる「ええじゃないか騒動」がありました。教科書では、日本全国で起こったような書き方をしています。 甲府でも幕末の慶応3年から4年にお札が振りました。町年寄の坂田日記にはこのお札について記載されています。甲府では慶応3年10月28日から慶応4年1月13日までお札が降っています。 坂田家日 [続きを読む]
  • 第120回浮気の結果の傷害と殺人
  • 浮気の結果の傷害と殺人江戸時代の甲府とその周辺で浮気の結果の傷害事件と殺人事件が発生しています。 天保7年(1836)年9月工町の喜七が城屋町の忠七の妻”はる”を連れ出しました(天保7年御用日記)。浮気による家出のようです。”はる”の夫忠七は捜し歩いて、連雀町で見つけました。城屋町は甲府城下の東の入り口にある町で、連雀町は甲府城の東側にある町です。両町はそれほど遠くなく、歩いても1時間ほどです。 このとき喜七 [続きを読む]
  • 第119回 伊勢参宮2
  • 伊勢参りから京都へ回る 八日町の商人の大津屋五郎右衛門の日記(壺中軒調唯日記、甲州文庫)に1742年(寛保2年)の伊勢参宮の具体的な記録が残っています。伊勢参宮は一生に一回の経験です。一行12人の旅で、伊勢から、五郎右衛門は帰りに一行と別れて、京都、奈良、和歌山、大阪を回る旅行をしました。一行12人の旅で、伊勢から、五郎右衛門は帰りに一行と別れて、京都、奈良、和歌山、大阪を回る旅行をしました。前回(第66回)は [続きを読む]
  • 第118回 住民の年齢構成
  • 甲府城下の住民の年齢構成 江戸時代の平均年齢は現在よりかなり低かったといわれています。これは幼児の死亡絵率が高かったのが原因といわれています。また、病気などで死亡する人も多かったと思われます。江戸時代の甲府城下の住民の年齢構成はどのようになっていたのでしょうか。当時人別宗旨改帳が作成されており、この改め帳に住民の名前、年齢などが記載されていました。この宗旨改め帳から作成当時の町民の年齢構成を調べる [続きを読む]
  • 第117回 五人組
  • 「知らなかった江戸の暮らし 庶民の巻」という本を読みました。この本で言う「江戸」とは"江戸時代の江戸"という意味でした。地方都市の暮らしのことは何もわかりませんでした。地方都市のことを書いても本が売れないのか、研究者が少ないのかどちらかでしょうか。 今回は甲府の五人組について 江戸時代の甲府の住民は五人組に所属していました。 近隣に住む住民が数人が1つの五人組を構成し、連帯責任と相互扶助の義務をおっ [続きを読む]