あかま さん プロフィール

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あかまさん: 無への道程
ハンドル名あかま さん
ブログタイトル無への道程
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/akama_nkm/
サイト紹介文美術(東洋・西洋・仏像)、書籍(思想・哲学・文学)、映画に対する評論を書いています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供27回 / 365日(平均0.5回/週) - 参加 2015/11/28 21:42

あかま さんのブログ記事

  • 「海は燃えている」
  • 「海は燃えている イタリア最南端の小さな島」(イタリア・フランス、2016年) 難民をとりまく種々の問題は日本人にとって馴染みが薄い。数多の難民が流入することにより生ずる社会的、政治的な軋轢に煩悶する機会は多くの日本人にとって無縁の話である。日本国が難民の受け入れに消極的であることがその直接的の理由であるが、無論この国の地理的な要因も十全に考慮されなくてはならない。それゆえ当然のことながら、難民という [続きを読む]
  • 美術鑑賞の態度について
  •  アルフォンス・ミュシャ畢生の作『スラヴ叙事詩』の全二〇作が来日している。三時間ばかりの逢瀬ではとても語れるような内容ではなかったため、その論評の機会は他日に譲る。私が今般述べようとするものは苦言である、あるいは苦情である。展覧会場を提供した国立新美術館の姿勢に非常な不見識を感じたためにこれを書く。 何があったのか。『スラヴ叙事詩』の掉尾を飾る《スラヴ民族の賛歌》を含む一室が撮影可能となっていたの [続きを読む]
  • A War
  • * The Japanese edition of this article is here.A War (Denmark, 2015) (on IMDb) No life has equal meaning. It was the fact Clau
    s confronted, who had been put on a trial for the suspicion of killing many civilians without proper identification of enemy. Cl
    aus was such a man that held his own righteousness conducting him to right place, or could be said of an idealist, [続きを読む]
  • 「ある戦争」
  • 「ある戦争」(デンマーク、2015年)(公式サイト) 人の命は平等ではない。 PID(*1)なき民間人殺害の嫌疑により裁判にかけられたクラウスが突きつけられた事実とは、畢竟その言葉に集約することができる。 彼は心に正義をいだく男である。理想家肌の男であるといってもよい。デンマーク王国軍の兵として、北欧からは遠く離れたアフガニスタンの地で平和維持軍の隊長を勤める彼は、よき上官であるべく日々みずからを律してい [続きを読む]
  • 柳宗悦と茶道の美意識について(4)
  •  本稿の締め括りに、鎌倉時代に多く焼かれた山茶碗という器を眺めたい。本展随一の美しさを示す、常滑と称された山茶碗のその美の中に、民藝品には現示されることのない茶碗の美の際立った特質を見出すことができる。柳の主張する無事の美とはかかる物品のうちにのみ真の実現を見る。 山茶碗の美、これこそが無事の美の実現である。饗応のためではない、まったき日常の具としてのこの茶碗は、人間による作為の一切を截断してそこ [続きを読む]
  • 柳宗悦と茶道の美意識について(3)
  •  無事の美の見出された品は朝鮮の茶碗ばかりではなかった。丹波の焼物、なかんずく灰被(はいかむり)と称される焼物には非常な美を感じた。その理由は探すに難くない。その美とはひとえにその造型の歪であることより生じ来たったものである。その歪さには不自然がない、まったく自然と歪んでいる。『茶道論集』で柳がいくたびか論難しているように、日本の茶人の指図によって焼かれた茶碗の多くはその造型の歪みに人為の介入を感じ [続きを読む]
  • 柳宗悦と茶道の美意識について(2)
  • 「柳宗悦・蒐集の軌跡 ―日本の工芸を中心に―」(日本民藝館)(会期 2016/09/01 - 2016/11/23) 本展を概観するにあたり、まずは民藝品について述べてゆきたい。これが柳の蒐集した物品のすべてではなかろうが、民藝品の美術的な程度を、そしてまた柳宗悦という人物の眼識の程度を見極めるためには、それでも十分な数量であったといってよい。 結論から述べれば、民藝品とは茶器のごとき美の内在を直観させるようなものではな [続きを読む]
  • 柳宗悦と茶道の美意識について(1)
  • 熊倉功夫編『柳宗悦 茶道論集』(岩波文庫、1987年) 柳宗悦『茶道論集』を読んだ。茶碗を語る彼の論説はおおむね正しい。いにしえの茶人によって見出された茶碗には茶道の美観がおのずから投映されている。茶を喫するという行為において茶碗はその必然より中心的な意義を有する。茶道が瞭然たる意思とともに、すなわち喫茶という茶飯の習俗を一箇の思想として、それも空疎な卓上の戯論としてではなく、禅に通ずる宗教的真実在の [続きを読む]
  • IXCANUL
  • ※「火の山のマリア」の英語版です。とりあえず外国でも公開されている映画については英語版
    も作成する予定。ただし先々の詳細は未定。IXCANUL (Guatemala and France, 2015) Something traditional appears ou
    t of where its vitality gets weak, and it is identified as a tradition when it is opposed against something advanced. People come
    to know it is just a tradition while their traditional va [続きを読む]
  • 「火の山のマリア」
  • 「火の山のマリア」(グアテマラ・フランス、2015年) 伝統とは、その生命が衰弱したときにはじめてその姿を現わすものである。先進的なものとの対置によって伝統はその所在を措定する。伝統的価値観の帰滅とともに伝統はみずからが伝統と呼ばれるものであったことを悟る。そして伝統であるとして悟られたとき、それはすでに死に体となっている。好むと好まざるとにかかわらず、人為的な生命維持によることでしかそれの生き残って [続きを読む]
  • The Salt of the Earth
  • (ちょっとだけ前書き) 将来的に英語版のブログも立ち上げたいと考えているため、勉強も兼
    ねて、前回掲載した「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」を英語翻訳しました。明
    らかな誤訳があればご指摘ください。The Salt of the Earth (France, Brazil and Italy, 2014) Human is beast. It is
    because human beings have the rationality. That is to say, the brutality of human beings orig [続きを読む]
  • 「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」
  • 「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」(フランス・ブラジル・イタリア、2014年) 人間は獣である。人間が獣である理由、それは人間が理性を持ってしまったところより淵源する。すなわち人間の獣であることは自然からの離絶のために果たされたのである。人間の自然状態を闘争に求めた思想家は炯眼であった。人間の自然状態とは粋然と自然のままであることを意味しない。人間はその本性のために自然であることからの懸隔 [続きを読む]
  • 「バベットの晩餐会」
  • 「バベットの晩餐会(デジタルリマスター版)」(デンマーク、1987年) 美しく、ユーモラスであり、完璧。大きな事件が起こるわけでもなく、説明するほどの物語が展開されるわけでもない。あるのは時代とともに静けさを増す哀しみであり、意味を失いゆく現世への虚無感であり、――しかしそのすべては、あなたより差し伸べられた精神の愛によってゆるされる。 花ざかりの季節を彼方にすごし、老境深まる姉妹が心に深く萌していた [続きを読む]
  • 「ルノワール展」
  • 「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」(国立新美術館)(会期 2016/04/27 - 2016/08/22) 一八八〇年代に入り、印象派を代表する画家のひとりであったルノワールは「印象派の限界」を感じるようになる。彼が感じた「限界」とはおそらく、セザンヌが印象派を批判するために「確固としたものがない」ことをその理由に挙げたことと通底するものがある。セザンヌは彼が考える「確固としたもの」を構成するため [続きを読む]
  • 「カラヴァッジョ展」
  • 「カラヴァッジョ展」(国立西洋美術館)(会期 2016/03/01 - 2016/06/12) カラヴァッジョの絵画には理想がない。――このように書けば、古典主義の画家によるカラヴァッジョ批判の焼き増しになってしまうかもしれない。古典主義者が考えた理想というものが何に根拠を持ち、またどの程度までそれを実現できていたのか、ということはこれとは別に問われるべき事柄であろうが、カラヴァッジョの絵画における理想性の欠如とは、宗教 [続きを読む]
  • 「裁かれるは善人のみ」
  • 「裁かれるは善人のみ」(ロシア、2014年) あやまちと欺瞞の中で暮らしながら、誰もがみずからの正しさを疑わない。最後には土地も、家も、妻も息子も、すべてを奪われ、亡くしたコーリャは、旧約聖書中のヨブに擬されるべき人である。無知によって神の計りごとを暗くしていることを指摘されたヨブと同じく、コーリャもまた、無知の海を游泳しながらみずからそれを知ることがない。無知とはすなわち、みずからより以上であるもの [続きを読む]
  • 「風の波紋」
  • 「風の波紋」(日本、2015年) 制作者のインタビューに答えて帰省者のひとりが漏らす本音は、多くの日本人によって共有される感情であろう。曰く、自然とともに生き、農作業を中心にその生活を成り立たせる?田舎?はなくなってほしくない、なくなるとさびしい。――だが自分自身がその生活の中に身を置き、その生活を後代に伝えてゆこうとは決して考えない。便利な都市的生活に慣れ親しんだ人間にとって、それを手放すということ [続きを読む]
  • 『禅の心髄 無門関』(25)おわりに
  •  すでに一昨年の話となるが、鈴木大拙先生が参禅していたという機縁から、一度だけ鎌倉・円覚寺の坐禅会に参加することがあった。また、それとは別の日に、管長による法話を聴く機会もあった。そのころの私は可能性を求めていた。ひとりで思索を重ねてゆくことに限界を感じ、宗教的に生きる人々との接触を求めて円覚寺に向かったのである。 ここでは結論から書くべきであろう。私は禅の思想には賛同する立場にあるが、しかし現代 [続きを読む]
  • 『禅の心髄 無門関』(24)
  •  禅には曰く、漸悟禅と頓悟禅とがある。公案による指導を専らとした安谷氏の立場はどちらかというに漸悟禅であったように見受けられる。漸悟とは少しずつ悟りを重ねる悟り方のことであるが、禅という枠組の中で生きておらぬ私には、漸悟禅というものを否定的なニュアンスでしか語ることができない。さらに書くならば、私は厳密には仏教の人間であるとすることもできない。それは私が独覚を是とし、それを至上と看做す人間であるた [続きを読む]
  • 『禅の心髄 無門関』(23)
  •  禅とは自然である。禅とは自由である。禅とは刹那である。禅とは人間である。幾多の公案や禅匠の言行録が指し示すものとは、ただひとつの体験であり、ただひとつの真実である。禅匠と私とは別箇の人格を有する独立した人間である。しかしその体験を通してただひとつの人間でもある。なるほど、私は私でしかありえない、それもまた事実である。しかし私は悟りという体験を通して、禅匠のみならず、仏祖ともただひとつの存在となる [続きを読む]
  • 『禅の心髄 無門関』(22)
  •  ここで、禅とは何か、ということを改めて問わなくてはならない。――すなわち、禅とは人間である。禅とは生そのものである。それは吾人には理解することのできない難解な教義を説こうとするものではない。禅が難解であるように思われるとすれば、それは禅が何よりも直截に、簡便に、真実の所在を指し示すためなのである。ときとして人間は、難解なものを簡便であると認識し、簡便なものを難解であると認識する。人間の認識とはも [続きを読む]
  • 『禅の心髄 無門関』(21)
  •  人間は言語的に世界を認識している。認識とはすなわち、感官で知覚され、受容されたものを言語化し、それを統覚した結果として生じてくるひとつの統合的な世界体系のことである。人間は言語的に世界を認識している、と書いても、吾人には感覚的にそれを理解することは難しいかもしれない。しかし言語的な体系にもとづいて世界を認識しているところに、他の動物とは決定的に異なる人間の特質が現われているのである。この文を読ん [続きを読む]
  • 『禅の心髄 無門関』(20)
  • 「見性体験とは即ち認識的主体としての自己ではなく存在的主体としての自己への逢着という事実を指すものである」 とはすでに書いた文であるが、禅という思想の目指すところを闡明するためにも、ここで簡便ながらも見性体験というものの存在論的かつ認識論的な説明を試みてゆきたい。これから私が記述しようとするものは、概して人間の前意識的領野に生ずる精神活動のことである。それは無意識的な営為であると書いてもよい。人間 [続きを読む]
  • 『禅の心髄 無門関』(19)
  •  悟りが人間存在にとって普遍的な体験であることは繰り返し述べてきた。しかし悟りとは普遍的なままであってはその宗教的真義を発揮しない。悟りとは特殊的である宗教的人格者との邂逅によってはじめてその真実の価値を示顕する。宗教的人格者とされる人間は過度に反省的な性向を持している。苦しみの生の実感のために彼には反省的な性向が要求されるのである。自己の可能性を失いながらも、そうであるみずからが実存してあるとい [続きを読む]
  • 『禅の心髄 無門関』(18)
  •  見性という体験それ自体はなんら特殊なものではない。それは所述の通りである。そしてその体験において宗教的人格とでも称すべき先天的な精神傾向が重要な触媒として働いていることもすでに述べた。見性、あるいは悟りという体験が万人に経験しうる普遍的な体験でありながら、しかし実際にはごく少数の人間にしか開かれない特殊的な体験とされている理由は、宗教的であるとすることのできる人格者がきわめて少数の人間に限られる [続きを読む]