くれ さん プロフィール

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くれさん: 永遠に秘匿的なるもの
ハンドル名くれ さん
ブログタイトル永遠に秘匿的なるもの
ブログURLhttp://ameblo.jp/karolszymanowski/
サイト紹介文かつて大学院でドゥルーズ研究。外部主義、無の哲学、パラレリズム、生成する閉鎖システム。
自由文私の中の、絶対他者、永遠にデコードされることなき秘匿的メッセージを、追いかける。徹底的に超越について考える。
存在の中の他者。それは無でしかありえない。存在に、ただ一つの無が内在している、ということは、即、存在の外部に無限個数の無が外在している、ということだ。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供9回 / 365日(平均0.2回/週) - 参加 2015/12/30 15:27

くれ さんのブログ記事

  • La messe chaotique〜ミサ・ソレムニス(Harsh Noise Remix)
  • 今晩は。今回はベートーヴェンのミサ・ソレムニスを音源として使い、一つの音楽作品に仕上げてみました。後半にいくにつれどぎついハーシュノイズで埋め尽くされます。音量には注意してください。なお音源は トスカニーニ&NBC交響楽団のものを使いました。原型ありませんが・・・ノイズに耐性のある方、聴いていただけると嬉しいです。 【ニコニコ動画】【クラシックリミックス】La messe chaotique〜ミサ・ソレムニス(Harsh [続きを読む]
  • 【即興】4本の腕の即興ピアノと2台のPCのための四重奏曲
  • こんばんは。前回(sm29964128)は伴奏をただのVSTiを使ってパラメータも弄らなかったためチープ感が半端なかったですが、今回はソフトウェアシンセ、というかSynth1を使いました。PC2つ分で計8つの声部があるのですが、それぞれMAXのタイムラインでパラメータを連続的に変えてます。MAXでsynth1をホストして直接パラメータを連続的に動かすとエラーが半端なかったです(苦笑)なおピアノは完全にフィーリングで弾いています。(フリ [続きを読む]
  • 欲望と抽象的リアリティ()について 1
  • カフカを用いて新しい音楽を試みる、という企画と並行して、新しい実在論についての素描も引き続き書いていきたいと思います。 今回は、「欲望」について書きます。欲望とはラカンをはじめとした精神分析学のキータームであり、周知のようにドゥルーズがアンチオイディプスにおいてラカンのそれを批判継承したところの概念です。 ところで、欲望というと、もうそれだけで、ヴァイタリズムの香りがしていけません。私はヴ [続きを読む]
  • 「カフカの「審判」をカフカを読まないで読むということ 4 〜実践編続き〜」
  • 前回の続きです。まず被分析項としてのカフカの引用を再度載せておきます。 「むかい側に棲んでいる老婆が、この女にはおよそ見なれない好奇の目で、自分を観察しているのを眺めていた。」(カフカ「審判」p.5) 次にこの文がそれから成っている3つの項を再掲します: ・A=「向かい側に住んでいる老婆」、B=「この女にはおよそ見られない好奇の目」、C=「自分を観察しているのを眺めていた」とする。 そして、前回はA [続きを読む]
  • 「カフカの「審判」をカフカを読まないで読むということ 3 〜実践編続き〜」
  • 前回の続きで、今回は能書きなくいきなり分析に入ります。 「むかい側に棲んでいる老婆が、この女にはおよそ見なれない好奇の目で、自分を観察しているのを眺めていた。」(カフカ「審判」p.5) 「老婆が......眺めていた」が全体の輪郭を形成している。これは単に文法上そうだから、というのもあるが、この「老婆が......眺めていた」において、文全体が閉じて一つの文脈から自由な構造をなしている、ということが重要 [続きを読む]
  • カフカの「審判」をカフカを読まないで読むということ 2 〜実践編〜
  • 前回からかなり時間が空いてしまいましたが、再開します。まず、ここでただ一つの目的は、「パラメータ」の在り方を刷新することで新しい音楽を作ること、です。そこで、カフカの非カフカ的読み方の公準を再度掲載しておきます。1.非カフカ的な読み方。カフカを読んでいる、という意識の廃止。まあ意識というか、「カフカ性」が個々の表現に分有されているものとしてそれら個々の表現を読むこと、これを停止する。2.非文脈的読み方 [続きを読む]
  • マーラー:「千人の交響曲」(DRONE/Harsh Noise Remix)
  • 物凄く久しぶりの更新となってしまいました。今はひたすらラリュエルやバディウのテキスト読解とアリストテレスなどの古典の見直しをしてます。また、Unityの勉強を始めました。今回の更新では、新しく作った音楽作品を公開します。マーラー「千人の交響曲」(DRONE/Harsh Noise Remix) 単純なサイン波のようなオシレーターを使って、自分でデジタルシンセ的な音作りをする、というのも大事なことなのでしょうが、私は元ある音源 [続きを読む]
  • フランソワ・ラリュエルの「非哲学」6 「根源的内在性」
  • 本当は「最終審廷における決定」の前に語るべきことだったかもしれませんが、ラリュエルにおいて非常に重要な概念である「根源的内在性」について少し詳しく見ていきます。根源的内在性は、公理論的に「既に」定立されているものですが、これだけ聞くと、なんら根源的内在性なるものの条件づけの思考をしないで、なんだか恣意的に設定した、みたいな印象を受けます。しかしまさに、この条件づけの思考から解放されることが重要なの [続きを読む]
  • ラリュエルの「非哲学」― décisionと déterminationの差異 2 お詫び
  • どうもラリュエルについての論文を読んでいたら、「最終審廷におけるなんたら」というのはそもそもアルチュセールが使った言葉みたいですね、本当に無知を晒して恥ずかしいです。今の学生なんて、アルチュセールやレヴィ=ストロースなんてすっとばしてドゥルーズ以後なんだろうなあ、というか自分がまさにそうだったんですが。言い訳じゃないです。。でアルチュセールの場合、「重層的決定」(surdétermination)という精神分析学の [続きを読む]
  • カフカの「審判」をカフカを読まないで読むということ
  • 新しい音楽作品のためにカフカの「審判」を読み直しています。カフカを扱った作曲家といえば、クルタークの「カフカ断章」が有名でしょうか。ところで、今回なぜカフカなのかというと、あるいは別にカフカでなくともよいが、ともかくなぜ作曲のために小説を読んでいるかというと、それには当然理由があります。私が「審判」において、新しく下線を引いて強調しておいた部分を下に示すと、・「むかい側に棲んでいる老婆が、この女に [続きを読む]
  • フランソワ・ラリュエルの「非哲学」5 「最終審廷における規定」
  • ラリュエルの根源的内在性については以前の回で触れました。では、同じく頻出するタームである「最終審廷」また「最終審廷における規定」とはなんでしょうか?まず、「対象」という哲学的概念の見直し(再定義)からブラシエは始めます。無であることとしての実在は、単なるある対象などではなく、対象=Xについての非実体的なあるいは対象化不可能な本質を明らかにするものとしての対象である。それゆえ「対象性」は、「現存在」 [続きを読む]
  • ラリュエルの「非哲学」― décision(決定)と détermination(決意)の差異
  • 前回までは、哲学的「決定」(décision)によって内在性と超越性が分割され、さらに前者の内在性が経験的データと超越論的内在性にさらに分割されるんだよ、これを「哲学化」というよ、というお話をしてきました。ところで、哲学的決定という場合の「決定」とはdécisionです。それに対して、ラリュエルが常に既にあるものとしての哲学的決定以前の非思弁的な審級として、公理論的に定立されるところのものが、「根源的内在性」な [続きを読む]
  • フランソワ・ラリュエルの「非哲学」4 「最終審廷」
  • 〔哲学的〕決定が実在を共―構成するという前提を宙づりにすることによって、思考は、経験的に前提されたものでも、決定的なものとして超越論的に定立されたものでもなく、思考によって既に―決定され、また思考とって決定的な、ある実在的審級との関係を持つことが出来るようになる。〔その実在的審級とは〕それに従って思考が超越論的総合の循環に、「常に既に」その循環の外部から近づくことが出来るような、ある「最終審廷とし [続きを読む]
  • 機会原因論と「想像力の疑わしさ」。純粋同一性
  • 機会原因論、という哲学の世界でもマイナーな一派があります。でもマルブランシュは有名なのかな。私は一切彼らの著作を読んだことがありませんが。ですので、思想辞典を参照するのも味気ないので、九鬼周造の著した「西洋近世哲学史稿」から一部引用します。ところでこの本には相当お世話になりました。現代にあっても色あせない名著だと思います。普通には物体が原因で感覚を生じ、精神が原因で手足の運動を生ずるとする。しかし [続きを読む]
  • フランソワ・ラリュエルの「非哲学」3 実在の公理論的定義
  • ハイデガーの現存在やアンリの「生命」とともに、主観―客観の二元論は乗り越えられたという、今では馴染みの主張にもかかわらず、ラリュエルの「一なるもの」という対象化不可能な内在性は、対象の側ではなく主体の側に直接に位置づけられているようである......ある決定的総合の作用を通じて定立されている、あるいは前提されている、というよりむしろ、根源的内在性は、超越論哲学の用語を用いて、構成を要求しないようなある実 [続きを読む]
  • フランソワ・ラリュエルの「非哲学」2. 内在性の分割と「哲学化」
  • ラリュエルは「根本的内在性」と言われるものが、あらゆる哲学に先行するものでると主張します。そしてこの「根本的内在性」が、二つに分割されることを、「哲学化」というのです。〔哲学的〕決定は、アプリオリな事実を通じて与えられたものとして仮定された一つの経験的データと、予め前提された事実と定立されたデータとの統一を保証するために既に与えられたものとして呼び起されねばならない一つの超越論的内在性とに、内在性 [続きを読む]
  • フランソワ・ラリュエルの「非哲学」
  • フランソワ・ラリュエル(François Laruelle, 1937年8月22日 - )はフランスの哲学者で、日本語のWikiも一応あって、そこに簡単なことが書いてありますが、その内実は難しい><!!!!!「非―哲学」(Non-philosophy。英語で済みませんw仏語の原著は未読。)を提唱した哲学者()で、形而上学を批判したハイデガーやデリダ、果てはドゥルーズまで一纏めにして、それらラリュエル以前の哲学が前提する構造を暴露した、と本人は [続きを読む]
  • 【告知】東京創造芸術祭に出演します!!
  • 詳細はこちらhttp://tokyopaf.wix.com/00002016年6月17日(金)、6月18日(土)の二日間に出演します。6/17は音楽作品の出展です。その名も「有限性の彼方へⅡ」チェロとピアノという生楽器を電子的に加工して、起伏が激しくも全体的に美しく静謐な作品になったと思います。6/18は、シンポジウム「ドゥルーズと音楽」というタイトルのもとで、ゲストとして出演します。「強度とパラメータの差異」というテーマで発表しようと考えて [続きを読む]
  • 集合の発生のための試論と外部主義的循環1
  • 超越作用、というお話を以前しました。その作用によって生産されるのは、超越であって、離散ではないです。なぜなら、超越とは、基本的に互いに超越している両者にその間の関係も、関係の可能性も予め否定されているからです。それに対し、離散は、存在に囲い込まれ、集合となるように思われます。ところで、私はあらゆる経験や世界の根本に、超越や離散を見る外部主義者なのですが、その立場から、プリミティブな超越的領域とは、 [続きを読む]
  • 強度とパラメータの違い。ドゥルーズでもなくSRでもなく―
  • ドゥルーズ哲学でキータームの一つとなっている「強度」。対してパラメータとは音楽でもよく使われる語であるが、パラメータの束が経験的な形態を決定する、という意味では、ドゥルーズの強度と良く対応するかに見える。ここでは、強度とパラメータの差異を論じてみたい。互いに超越するパラメータが存在論的・形而上学的・カテゴリー的であるのに対し、強度は、即自であり、従って超越的実体である限りで、パラメータとは別の意味 [続きを読む]
  • 作用としての超越が語られねばらない。。
  • こんにちは。東京創造芸術祭がちょうど一か月後に迫ったなか、既に出展作品を完成させたくれです。今回は自分が弾ける数少ない生楽器であるチェロとピアノの生音を素材として使ったこと、また以前のシステムではピッチだけを扱ってたのが、今回は音量と波形までをアルゴリズム的に変化させるシステムに発展させたこと、このふたつもあって、かなりいい感じになったんじゃないかとも思います。さて。。。ますます超越や実存が軽んじ [続きを読む]
  • ドゥルーズを読み直している。超越と超越論、内在主義と外部主義。
  • とあるイベントで、ドゥルーズについてレクチャーというか公演というか、とにかく公の場で発表する機会を得ました。詳細ははっきり次第お知らせしたいと思います。ところでドゥルーズを読み直しているのですが、今まで誤読していた部分や、新しい発見があって、なかなか面白い。今回は原著をいちいち読み直している暇はなくて(フランス語苦手なんです(^^;))、大事な箇所だけを原典で参照するという感じです。それはそうと、 [続きを読む]