秋葉 奈津子 さん プロフィール

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秋葉 奈津子さん: 奈津子の徒然雑記帳
ハンドル名秋葉 奈津子 さん
ブログタイトル奈津子の徒然雑記帳
ブログURLhttp://415100.blog50.fc2.com/
サイト紹介文世界史の話題を中心に正史、時には外史を交えてエピソードを紹介しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供57回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2016/01/05 20:26

秋葉 奈津子 さんのブログ記事

  • 歴史を歩く162
  • 37帝国主義の成立と列強の国情②2イギリス初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, 1804年12月21日 - 1881年4月19日)肖像画は1857年当時 帝国主義と云う言葉は、1870年代後半に、保守党首相ディズレーリ(在任1868年、1874年〜80年)が、その頃高まりつつあった小英国主義(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃し、植民 [続きを読む]
  • 歴史を歩く161
  • 37帝国主義の成立と列強の国情1帝国主義ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади?мир Ильи?ч Ле?нин、1870年4月22日 ? 1924年1月21日)本名、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади?мир Ильи?ч Улья?нов) 19世紀末から20世紀初頭にかけて世界は帝国主義の時代に入って行きました。ロシア革命の指導者レーニンはその著『帝国主義論(資本主義の最高段階としての帝国主義)』 [続きを読む]
  • 歴史を歩く160
  • 36東アジアの激動⑥7日清戦争崔済愚(1824年〜64年) 朝鮮には、18世紀後半に中国からキリスト教が伝わり、天主教と呼ばれました。李朝は天主教を禁止して弾圧を加えますが、社会不安を背景に天主教信者は次第に増加して行きます。19世紀後半にキリスト教(天主教)に対抗する新しい宗教である東学が創始され、没落両班出身の崔済愚(1824年〜64年)は、在来の民間信仰を基に東洋的な儒教・仏教・道教を融合して東学を創始しまし [続きを読む]
  • 歴史を歩く159
  • 36東アジアの激動⑥5日本の変革マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 ? 1858年3月4日) 1853年7月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー(1794年〜1858年)が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。黒船来航 江戸幕府は、開国か攘夷かをめぐる激しい対立の中で、翌1854年に日米和親条約を結び、下田・箱館2港の開港や最恵国待遇の供与等を認め、 更に1858年の日米修好通商 [続きを読む]
  • 歴史を歩く158
  • 36東アジアの激動⑤4洋務運動の進展 アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱等によって西洋の軍事技術が優れている事を認めた清朝は、1860年頃から西洋の軍事技術等の導入による富国強兵運動を進め、これを洋務運動と呼びます。天津フランス領事館 北京条約(1860年)によって外国公使が北京に駐在することになり、清朝は1861年に総理各国事務衙門(総理衙門、そうりがもん)を設けて外交事務の処理機関とすると共に、ヨーロッパ [続きを読む]
  • 歴史を歩く157
  • 36東アジアの激動④3太平天国の興亡太平天国の乱100週年切手・中華人民共和国郵政 清がアヘン戦争(1840年〜42年)・アロー戦争(1856年〜60年)の対外的な問題に直面している時期、国内では太平天国の乱(1851年〜64年)が発生します。 アヘン戦争による多額の戦費と賠償金の支払いは、銀価の高騰をまねき、又重税となって農民の生活を圧迫し、その上水害・干害・蝗害等の天災が相次ぎ、多くの窮乏化した農民は流民となり、全国 [続きを読む]
  • 歴史を歩く156
  • 36東アジアの激動③2アロー戦争とロシア南京条約によって開港した5港 イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待しましたが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがりませんでした。 イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて首都北京の近くに存在せず、又広州では領事の駐在や居留地設置が延期されるなど、中国側に [続きを読む]
  • 歴史を歩く155
  • 36東アジアの激動②1アヘン戦争②阿片倉庫清朝はアヘンの吸飲が全国に広まる中で、早くからアヘンの吸飲や密輸に対する禁令を出しおり、主な禁令を挙げれば、アヘン輸入の禁止(1796年)・アヘンの販売厳禁(1813年)・ケシの栽培とアヘンの製造の禁止(1823年)・アヘン輸入の厳禁(1831年)・英船のアヘン密売禁止(1834年)等が有りますが、このように度々禁令が出ている事実は、これらの諸禁令が守られていないことを意味し、 [続きを読む]
  • 歴史を歩く154
  • 36東アジアの激動1アヘン戦争 康煕・雍正・乾隆の3代130余年(1661年〜1795年)に最盛期を迎えた清朝も乾隆帝(在位1735年〜95年)の晩年には政治の綱紀も乱れ、白蓮教徒の乱などがおこり、衰退のきざしが見えてきました。白蓮教徒の乱 白蓮教徒の乱(1796年〜1804年)は、弥勒下生(みろくげしょう)信仰(弥勒仏が救世主として現れるという信仰)の秘密結社を中心とする農民反乱で、湖北・河南・陝西・四川・甘粛の各省に広が [続きを読む]
  • 歴史を歩く153
  • 35南アジア・東南アジアの植民地化④4東南アジア大陸部の変動阮3兄弟 ヴェトナムでは、黎朝(1428年〜1527年、1532年〜1789年)の衰退に乗じて西山党の阮3兄弟が反乱を起こし(1773年)、黎朝の権臣である阮氏と鄭氏を滅ぼして西山朝(1778年〜1802年)を開きます。後期黎朝(1532年〜1789年)のもとで事実上南ヴェトナムを支配していた阮氏一族は1777年に西山朝に滅ぼされ、この時、阮氏一族の中でただ一人阮福映(1762年〜1820 [続きを読む]
  • 歴史を歩く152
  • 35南アジア・東南アジアの植民地化③3東南アジア諸島部の植民地化18世紀のバタヴィア オランダは、17世紀以来、ジャワ島のバタヴィアを拠点として香料貿易を独占し、18世紀中頃にはマタラム王国(16世紀末〜1755年)を滅ぼしてジャワ島の大部分を領有しました。オランダ東インド会社(正式名、連合東インド会社): Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC しかし、18世紀末にオランダ本国がナポレオンに征服されるとオラン [続きを読む]
  • 歴史を歩く151
  • 35南アジア・東南アジアの植民地化②2インド大反乱とインド帝国の成立シパーヒー(セポイ)の反乱 イギリスによるインド支配が進むにつれて、インドの伝統的な生活が破壊されるなかで、イギリス支配に対するインド人の不満と反感が広い階層に広まりました。こうした状況を背景として1857年にインド初の民族的大反乱であるシパーヒー(セポイ)の反乱が勃発します。 シパーヒー(セポイ)とはイギリス東インド会社に雇われたイン [続きを読む]
  • 歴史を歩く150
  • 35南アジア・東南アジアの植民地化1イギリスのインド支配プラッシーの戦い・イギリスと内通したジャアファル 1757年にプラッシーの戦いで、フランス・ベンガル太守連合軍を撃破したイギリス東インド会社軍は、同じ頃南インドでも3回にわたるカーナティック(カルナータカ)戦争(1744年〜63年)でもフランスを破って支配領域を広げて行きました。初代クライブ男爵ロバート・クライヴ (Major-General Robert Clive, 1st Baron Cl [続きを読む]
  • 歴史を歩149
  • 34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒④4イランとアフガニスタンの動向 イランでは、18世紀前半にサファヴィー朝(1501年〜1736年)が滅亡し、以後アフシャール朝(1736年〜96年)ザンド朝(1750年〜95年)の短命な王朝が続きましたが、18世紀末にはカージャール朝(1796年〜1925年)が成立します。カージャール朝と周辺諸国の位置関係 カージャール朝はトルコ系王朝でテヘランを都とし、19世紀前半に2度ロシアと戦って敗れ( [続きを読む]
  • 歴史を歩く148
  • 34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒③3オスマン帝国の改革 第2次ウィーン包囲失敗(1683年)、カルロヴィッツ条約締結(1699年)以来、オスマン・トルコは否応なしにヨーロッパの軍事力の優越を認めざるを得なくなっていました。マフムト2世(Mahmud II, 1785年7月20日 - 1839年7月1日) 18世紀末に即位したセリム3世(第28代皇帝、在位1789年〜1807年)は軍事的改革を中心とする近代化改革を進めますが保守勢力の抵抗によ [続きを読む]
  • 歴史を歩く147
  • 34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒②2アラブ民族の覚醒 18世紀に入りオスマン・トルコ帝国が衰退していく中で、西アジアから北アフリカに至るオスマン・トルコの支配下のアラブ地域に於いて民族的な自立を求める動きが始まります。ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ ( ???? ?? ??? ??????,Muhammad ibn ?Abd al-Wahhab; 1703年? 1792年6月22日) 18世紀中庸、アラビア半島でムハンマド・ブン・ [続きを読む]
  • 歴史を歩く146
  • 34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒1オスマン帝国支配の動揺 オスマン・トルコ帝国は、16世紀の最盛期にはアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる大帝国を形成しましたが、その頃にはヨーロッパでは「大航海時代」が始まっていました。これによってヨーロッパ人はアフリカの南端を回ってアジアへ到達する事が可能となり、ヨーロッパとアジアの要の位置を占めていたオスマン・トルコの世界交通上の重要な地位は失われる事に [続きを読む]
  • 歴絵を歩く145
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化⑤5地理上の探検 19世紀は探検家の時代でもありました。探検家達は未知の土地を求めてアフリカ、北極、南極、中央アジアへと足を伸ばします。ジェームズ・クック(James Cook、 1728年10月27日 - 1779年2月14日)赤は第1回航海、緑は第2回航海、青は第3回航海をあらわす。青の点線は、クック死後の航海ルート 18世紀後半、イギリスのクック(1728年〜79年)は3回にわたって太平洋を調査航海し、第1次 [続きを読む]
  • 歴史を歩く144
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化④4自然科学と技術 19世紀は「科学の世紀」とも呼ばれています。18世紀迄にほぼ基礎が確立されていた近代自然科学は、産業革命による工業の飛躍的な発展に伴い、19世紀中頃からめざましく進歩しました。エネルギー保存の法則(概念) 物理学に於ける「エネルギー保存の法則」の発見、生物学での進化論及び生物体の細胞説の確立は、19世紀に於ける自然科学の三大業績と呼ばれています。ユリウス・ロベ [続きを読む]
  • 歴史を歩く143
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化③3哲学と人文・社会科学イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年4月22日 - 1804年2月12日) 哲学では、18世紀末にドイツのカント(1724年〜1804年)がイギリス経験論と大陸の合理論を総合、批判してドイツ観念論哲学を創始しました。 ドイツ観念論哲学は、ナポレオンの占領下で「ドイツ国民に告ぐ」と題する連続講演を行ったフィヒテ(1762年〜1814年)やシェリング(1775年〜1854年)に引き継が [続きを読む]
  • 歴史を歩く142
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化②2美術と音楽サン・ベルナールを越えるナポレオン 絵画では、18世紀末から19世紀初頭にかけて格調高い、均整のとれた古典主義絵画が発達しました。ナポレオンの首席宮廷画家を務めたダヴィド(1748年〜1825年)が代表的な画家で、「ナポレオンの戴冠式」、「サン・ベルナールを越えるナポレオン」等の作品がよく知られており、代表作「泉」で知られるダヴィドの弟子アングル(1780年〜1867年)によっ [続きを読む]
  • 歴史を歩く141
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化1文学 17世紀のフランスに始まった古典主義は、18世紀中葉から19世紀初頭では、ドイツで盛んとなりました。ドイツでは、1770年代から、世俗的な道徳や因襲を否定し、個性や感情と自然を尊重する「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク:Sturm und Drang)」と呼ばれる革新的な文学運動が起こり、若き日のゲーテやシラーが中心となったこの運動は10年程で衰退しましたが、ゲーテの『若きヴェルテルの [続きを読む]
  • 歴史を歩く140
  • 3アメリカ合衆国の発展⑥4大西部の開拓と工業の発達西部開拓・先住民族との接触 南北戦争中に制定されたホーム・ステッド法(1862年)によって、公有地に5年間定住し開拓した者には160エーカーの土地が無償で与えられることになったので、西部に多くの農民が進出し、西部開拓が急速に進みました。牛のロング・ドライブ 又コロラドでゴールド・ラッシュが起こり(1859年)、同じ頃ネヴァダでも金・銀鉱が発見されたので、金・銀の [続きを読む]
  • 歴史を歩く139
  • 3アメリカ合衆国の発展⑤3南部の再建濃い緑はアメリカ連合国(CSA)に加わった諸州、薄い緑は州内の一部勢力が南部につき、CSAがその一部と主張したが実効支配はできなかった州 南北戦争の終結から、1877年に南部諸州が合衆国に復帰する迄の時期は「再建」の時期と云われています。アンドリュー・ジョンソン( Andrew Johnson, 1808年12月29日 - 1875年7月31日) リンカーンは、南部が奴隷解放さえすれば寛大な条件で、出来るだ [続きを読む]
  • 歴史を歩く138
  • 3アメリカ合衆国の発展④2奴隷制度と南北戦争(その2)サムター要塞 1861年3月に大統領に就任したリンカーンは連邦の維持を至上目的とし、連邦を脱退した南部諸州に連邦への復帰を呼びかけますが南部は此れに応じず、南部にあった合衆国の要塞や武器庫の接収を試みます。この動きを見たリンカーンはサウスカロライナ州のサムター要塞への弾薬・物資の補給を命じました。サムター要塞砲撃 1861年4月12日、南軍はサムター要塞に砲 [続きを読む]