秋葉 奈津子 さん プロフィール

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秋葉 奈津子さん: 奈津子の徒然雑記帳
ハンドル名秋葉 奈津子 さん
ブログタイトル奈津子の徒然雑記帳
ブログURLhttp://415100.blog50.fc2.com/
サイト紹介文世界史の話題を中心に正史、時には外史を交えてエピソードを紹介しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供63回 / 365日(平均1.2回/週) - 参加 2016/01/05 20:26

秋葉 奈津子 さんのブログ記事

  • 歴史を歩く151
  • 35南アジア・東南アジアの植民地化②2インド大反乱とインド帝国の成立シパーヒー(セポイ)の反乱 イギリスによるインド支配が進むにつれて、インドの伝統的な生活が破壊されるなかで、イギリス支配に対するインド人の不満と反感が広い階層に広まりました。こうした状況を背景として1857年にインド初の民族的大反乱であるシパーヒー(セポイ)の反乱が勃発します。 シパーヒー(セポイ)とはイギリス東インド会社に雇われたイン [続きを読む]
  • 歴史を歩く150
  • 35南アジア・東南アジアの植民地化1イギリスのインド支配プラッシーの戦い・イギリスと内通したジャアファル 1757年にプラッシーの戦いで、フランス・ベンガル太守連合軍を撃破したイギリス東インド会社軍は、同じ頃南インドでも3回にわたるカーナティック(カルナータカ)戦争(1744年〜63年)でもフランスを破って支配領域を広げて行きました。初代クライブ男爵ロバート・クライヴ (Major-General Robert Clive, 1st Baron Cl [続きを読む]
  • 歴史を歩149
  • 34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒④4イランとアフガニスタンの動向 イランでは、18世紀前半にサファヴィー朝(1501年〜1736年)が滅亡し、以後アフシャール朝(1736年〜96年)ザンド朝(1750年〜95年)の短命な王朝が続きましたが、18世紀末にはカージャール朝(1796年〜1925年)が成立します。カージャール朝と周辺諸国の位置関係 カージャール朝はトルコ系王朝でテヘランを都とし、19世紀前半に2度ロシアと戦って敗れ( [続きを読む]
  • 歴史を歩く148
  • 34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒③3オスマン帝国の改革 第2次ウィーン包囲失敗(1683年)、カルロヴィッツ条約締結(1699年)以来、オスマン・トルコは否応なしにヨーロッパの軍事力の優越を認めざるを得なくなっていました。マフムト2世(Mahmud II, 1785年7月20日 - 1839年7月1日) 18世紀末に即位したセリム3世(第28代皇帝、在位1789年〜1807年)は軍事的改革を中心とする近代化改革を進めますが保守勢力の抵抗によ [続きを読む]
  • 歴史を歩く147
  • 34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒②2アラブ民族の覚醒 18世紀に入りオスマン・トルコ帝国が衰退していく中で、西アジアから北アフリカに至るオスマン・トルコの支配下のアラブ地域に於いて民族的な自立を求める動きが始まります。ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ ( ???? ?? ??? ??????,Muhammad ibn ?Abd al-Wahhab; 1703年? 1792年6月22日) 18世紀中庸、アラビア半島でムハンマド・ブン・ [続きを読む]
  • 歴史を歩く146
  • 34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒1オスマン帝国支配の動揺 オスマン・トルコ帝国は、16世紀の最盛期にはアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる大帝国を形成しましたが、その頃にはヨーロッパでは「大航海時代」が始まっていました。これによってヨーロッパ人はアフリカの南端を回ってアジアへ到達する事が可能となり、ヨーロッパとアジアの要の位置を占めていたオスマン・トルコの世界交通上の重要な地位は失われる事に [続きを読む]
  • 歴絵を歩く145
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化⑤5地理上の探検 19世紀は探検家の時代でもありました。探検家達は未知の土地を求めてアフリカ、北極、南極、中央アジアへと足を伸ばします。ジェームズ・クック(James Cook、 1728年10月27日 - 1779年2月14日)赤は第1回航海、緑は第2回航海、青は第3回航海をあらわす。青の点線は、クック死後の航海ルート 18世紀後半、イギリスのクック(1728年〜79年)は3回にわたって太平洋を調査航海し、第1次 [続きを読む]
  • 歴史を歩く144
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化④4自然科学と技術 19世紀は「科学の世紀」とも呼ばれています。18世紀迄にほぼ基礎が確立されていた近代自然科学は、産業革命による工業の飛躍的な発展に伴い、19世紀中頃からめざましく進歩しました。エネルギー保存の法則(概念) 物理学に於ける「エネルギー保存の法則」の発見、生物学での進化論及び生物体の細胞説の確立は、19世紀に於ける自然科学の三大業績と呼ばれています。ユリウス・ロベ [続きを読む]
  • 歴史を歩く143
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化③3哲学と人文・社会科学イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年4月22日 - 1804年2月12日) 哲学では、18世紀末にドイツのカント(1724年〜1804年)がイギリス経験論と大陸の合理論を総合、批判してドイツ観念論哲学を創始しました。 ドイツ観念論哲学は、ナポレオンの占領下で「ドイツ国民に告ぐ」と題する連続講演を行ったフィヒテ(1762年〜1814年)やシェリング(1775年〜1854年)に引き継が [続きを読む]
  • 歴史を歩く142
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化②2美術と音楽サン・ベルナールを越えるナポレオン 絵画では、18世紀末から19世紀初頭にかけて格調高い、均整のとれた古典主義絵画が発達しました。ナポレオンの首席宮廷画家を務めたダヴィド(1748年〜1825年)が代表的な画家で、「ナポレオンの戴冠式」、「サン・ベルナールを越えるナポレオン」等の作品がよく知られており、代表作「泉」で知られるダヴィドの弟子アングル(1780年〜1867年)によっ [続きを読む]
  • 歴史を歩く141
  • 33 19世紀のヨーロッパ文化1文学 17世紀のフランスに始まった古典主義は、18世紀中葉から19世紀初頭では、ドイツで盛んとなりました。ドイツでは、1770年代から、世俗的な道徳や因襲を否定し、個性や感情と自然を尊重する「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク:Sturm und Drang)」と呼ばれる革新的な文学運動が起こり、若き日のゲーテやシラーが中心となったこの運動は10年程で衰退しましたが、ゲーテの『若きヴェルテルの [続きを読む]
  • 歴史を歩く140
  • 3アメリカ合衆国の発展⑥4大西部の開拓と工業の発達西部開拓・先住民族との接触 南北戦争中に制定されたホーム・ステッド法(1862年)によって、公有地に5年間定住し開拓した者には160エーカーの土地が無償で与えられることになったので、西部に多くの農民が進出し、西部開拓が急速に進みました。牛のロング・ドライブ 又コロラドでゴールド・ラッシュが起こり(1859年)、同じ頃ネヴァダでも金・銀鉱が発見されたので、金・銀の [続きを読む]
  • 歴史を歩く139
  • 3アメリカ合衆国の発展⑤3南部の再建濃い緑はアメリカ連合国(CSA)に加わった諸州、薄い緑は州内の一部勢力が南部につき、CSAがその一部と主張したが実効支配はできなかった州 南北戦争の終結から、1877年に南部諸州が合衆国に復帰する迄の時期は「再建」の時期と云われています。アンドリュー・ジョンソン( Andrew Johnson, 1808年12月29日 - 1875年7月31日) リンカーンは、南部が奴隷解放さえすれば寛大な条件で、出来るだ [続きを読む]
  • 歴史を歩く138
  • 3アメリカ合衆国の発展④2奴隷制度と南北戦争(その2)サムター要塞 1861年3月に大統領に就任したリンカーンは連邦の維持を至上目的とし、連邦を脱退した南部諸州に連邦への復帰を呼びかけますが南部は此れに応じず、南部にあった合衆国の要塞や武器庫の接収を試みます。この動きを見たリンカーンはサウスカロライナ州のサムター要塞への弾薬・物資の補給を命じました。サムター要塞砲撃 1861年4月12日、南軍はサムター要塞に砲 [続きを読む]
  • 歴史を歩く137
  • 3アメリカ合衆国の発展③2奴隷制度と南北戦争(その1) 合衆国領土の拡大・西部の発展と共に、北部・西部・南部のセクション(地域)が成立し、セクション間での対立が激しく成りました。アメリカ南部プランティーション 南部では、植民地時代からタバコ栽培を中心とする黒人奴隷を使用するプランテーションが発展していましたが、イギリスの産業革命によって綿花の需要が増大し、特にホイットニーの綿繰り機の発明(1793年)に [続きを読む]
  • 歴史を歩く136
  • 3アメリカ合衆国の発展②1 民主主義の発達と領土拡張(その2)アメリカ合衆国の版図拡大 合衆国領土は、独立当時はミシシッピ川以東でしたが、以後次第に西方へ拡大し、1848年にはその領土は終に太平洋岸に到達します。1803年にはフランスからルイジアナを購入して領土を倍増させた後、1819年にはスペインからフロリダを買収し、1840年代には、合衆国の領土拡張と西方への進出を正当化する考え方として「マニフェスト・ディステ [続きを読む]
  • 歴史を歩く135
  • 3アメリカ合衆国の発展①1民主主義の発達と領土の拡大(その1)ジョージ・ワシントン(George Washington:1732年2月22日 - 1799年12月14日) アメリカ合衆国では、1789年に連邦政府が発足し、ワシントン(在任1789年〜97年)が初代の大統領に就任しますが、ワシントンは大統領を2期務め、3選を固辞して「告別の辞」で中立の必要を説いて引退しました。ジョン・アダムズ(John Adams:1735年10月19日 - 1826年7月4日) 独立宣言 [続きを読む]
  • 歴史を歩く134
  • 31自由主義と国民主義⑩8北ヨーロッパ諸国汎スカンディナヴィア主義「北欧諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)、特に「ノルマン人」の連帯と統一を目指す思想運動で、北欧諸国が、欧州列強の脅威に囲まれる中で、北欧の団結と統合を体現化したナショナリズムの昂揚」。 スウェーデンは、ナポレオン戦争でフィンランドをロシアに割譲されますが、ウィーン会議ではデンマークからノルウェーを同君連合として割譲させ、19 [続きを読む]
  • 歴史を歩く133
  • 31自由主義と国民主義⑨7ロシア南下政策と東方問題(その2)聖地イェルサレム・現在 聖地イェルサレムの管理権は、16世紀以降カトリックの保護者としてのフランスが保有していましたが、フランス革命時にギリシア正教会がロシアの支持を得て管理権を掌握します。ナポレオン3世は国内のカトリック教徒の支持を繋ぐためにオスマン・トルコに聖地管理権を要求し、それを象徴する神殿の鍵を与えられました。ニコライ1世(Никол [続きを読む]
  • 歴史を歩く132
  • 31自由主義と国民主義⑧7ロシアの南下政策と東方問題(その1)ポーランド分割 ロシアは、17世紀に東方のシベリア方面へ領土を拡大し、18世紀には北方戦争(1700年〜21年)やポーランド分割(1772年〜95年)によって西方のバルト海方面へ領土を拡大しました。更に南方に向かっては、18世紀以後黒海へ進出し、19世紀に入ると不凍港の獲得とウクライナの穀物輸出の通路を求めて黒海から地中海への進出をはかる南下政策を積極的に推 [続きを読む]
  • 歴史を歩く131
  • 31自由主義と国民主義⑦6ロシアの改革デカブリストの乱 ロシアではアレクサンドル1世の死後、弟のニコライ1世(1796年〜1855年、在位1825年〜55年)が即位に際し、時を同じく起こったデカブリストの乱を鎮圧して、反動的な内政・外交を展開します。ニコライ1世(Николай I:ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ: Николай Павлович Романов、1796年7月6日 - 1855年3月2日) ニコライ1世はヨーロッパ [続きを読む]
  • 歴史を歩く130
  • 31自由主義と国民主義⑥5フランス第二帝政と第三共和政「馬上のサン・シモン」ナポレオン3世 1852年11月に行われた国民投票で圧倒的支持を得たルイ・ナポレオンは、翌12月に皇帝ナポレオン3世(在位1852年〜70年)となり、第二帝政(1852年〜70年)が始まりました。第二帝政では、普通選挙によって選ばれる議会は存在しましたが、殆んど権限がなく、皇帝が行政・軍事・外交の全権を掌握していた結果、実質的には皇帝独裁体制でし [続きを読む]
  • 歴史を歩く129
  • 31自由主義と国民主義⑤4ビスマルク時代の国際関係 ビスマルクの本領は外交において発揮されました。ビスマルクは統一後まもないドイツが、戦争に巻き込まれることを避けるために、フランスの孤立化とヨーロッパの平和維持を軸とする、いわゆるビスマルク外交を展開しました。 ビスマルクは、普仏戦争によってアルザス・ロレーヌを奪われ巨額な賠償金を課せられたフランスで対独復讐心が強まると、フランスの復讐を未然に防ぐた [続きを読む]
  • 歴史を歩く128
  • 31自由主義と国民主義④3ドイツの統一(その2)新生プロイセンと周辺諸国(青枠神聖ローマ帝国) フランスのナポレオン3世は、プロイセンによるドイツの統一によってフランスの隣に強大な国家が誕生する事を恐れ、ドイツの統一を妨げようとしてしきりにプロイセンに干渉しました。そのためビスマルクはドイツの統一のためにはフランスとの戦いは避けられないと考え、準備を進める一方で開戦の機会を伺っていたのです。メキシコ出 [続きを読む]
  • 歴史を歩く127
  • 31自由主義と国民主義③3ドイツの統一(その1)1815年のヨーロッパ ウィーン会議によって、ドイツにはオーストリア・プロイセン以下35の君主国と4自由市から成るドイツ連邦が成立しました。ドイツ連邦の領域は、旧神聖ローマ帝国の領土を踏襲していた結果、オーストリアは連邦内の領土よりその外にある領土の方が大きく、プロイセンも領土の約4分の1は連邦外に存在していました。 プロイセンは、ウィーン議定書でワルシャワ大公 [続きを読む]