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むぎの城さんぽ https://blog.goo.ne.jp/mugiide

日本百名城や史跡・城郭めぐりの旅の記録と日本城郭検定の問題でお城の勉強をしよう!という日記です。

日本城郭検定準1級〈武者返級〉合格。1級合格目指しブログを通して予習復習しながら勉強中。

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2016/02/20

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  • 矢上城(神奈川県)

    【矢上城】やがみじょう【別名】中田加賀守館【構造】丘城【築城者】田中氏【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】神奈川県横浜市港北区日吉4丁目1地図矢上城は、中田加賀守館とも呼ばれ戦国期に北条氏の家臣で小机衆に属していたと伝わります。現在は、慶應義塾大学の日吉キャンパスの一部になっているため立入禁止になっていて現地見学の訪問は出来ません。城址はこの新幹線の線路のトンネル上にあります。東海道新幹線が東京駅を発車して、最初のトンネルが矢上城なのだそうです。トンネルの上が城址というのも、わりとよくある話です。入口らしき場所をみちけたのですが、ここから先は立入禁止になっていて入ることは出来ません。下から眺めると、階段を登り切ったところに腰郭が見えます。供養塔1954年(昭和29年)に中田氏の子孫が建てたという「保福寺...矢上城(神奈川県)

  • 吉見城(千葉県)

    【吉見城】よしみじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】千葉県佐倉市吉見地図吉見城は、1479年(文明9年)に太田道灌、1566年(永禄9年)に上杉謙信によって攻められた臼井城の支城として築かれた城ではないかと推定されます。吉見城のすぐ北側には臼井屋敷跡遺跡があり、同時に発掘調査が進められてきました。城跡は、築城以前より人の生活の様子が見られ、廃城後も現在に至るまで人々の生活に利用されて来ました。土塁が残るものの、城としての詳細はまだまだ分かっていません。土塁と平場だけは確認できたものの、縄張もわかりずらく宅地になっているので改修もされていると思われ、よくわからない。柵列や溝状の遺構などで区画がされている様子が発掘調査で確認されているようですが、建物跡は検出されて...吉見城(千葉県)

  • 穂積城(大阪府)

    【穂積城】ほづみじょう【別名】穂積砦【構造】平山城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】大阪府茨木市中穂積2丁目16−34地図穂積城は、山田十三城のひとつで現在は春日神社の境内となっています。詳しいことはわかっていませんが、城域は山の麓におよび「城の堀」という地名となってその名残があり、かつてこの地に城があったことを伺わせます。春日神社奈良時代から平安時代には、この周辺を穂積郷と呼ばれ一部の地域は大和国西大寺領であったと伝わります。この階段を登ると春日神社です。境内穂積は、穂摘みの義といわれ、耕作に従事した穂積氏が存在したと伝わり、穂積郷の穂積氏がこの地を支配していたと推定することも出来ます。春日神社茨木市だけでもちょっと検索しただけでも春日神社は沢山あります。案内看板現在、中穂積の春日神社...穂積城(大阪府)

  • 越前大野城(福井県)

    【越前大野城】えちぜんおおのじょう【別名】亀山城【構造】平山城【築城者】金森長近【築城年代】1575年(天正3年)【指定史跡】県指定史跡【場所】大野市城町3-109地図【スタンプ設置場所】越前大野城一階【御城印】受付窓口売店【城郭検定】出題あり越前大野城は、亀山に築かれた平山城で秋から春にかけての早朝に条件によって雲海が現れ、年に10回程しか見られないため「幻の天空の城」と呼ばれ幻想的な景色を見られることがあります。織田信長に仕えた金森長近は、越前の一向一揆を平定した功績により大野3万石を与えられ朝倉氏の居城であった戌山城に入りました。しかし、戌山城は標高の高い山城だったため新たに亀山に大野城を築き居城としました。駐車場三の丸側にある駐車場にやってきました。駐車場は比較的に多くいくつかあります。今回は南登...越前大野城(福井県)

  • 守口城(大阪府)

    【守口城】もりぐちじょう【別名】森口城【構造】平城【築城者】不明【築城年代】室町時代【指定史跡】ー【場所】大阪府守口市竜田通1丁目5地図室町時代に築かれたと考えられている守口城は、誰が築城したのか詳しいことは分かっていません。応永の乱の際、大内義弘の家臣杉九郎が守備していたと伝わります。石山合戦の際は、石山本願寺の出城として合戦の場となっていますが織田信長に降伏しています。現在、難宗寺が本丸と推定され、太鼓櫓が城址を思い浮かべるかのように建っています。道標東海道五十三次にある五十七番目にある宿場が守口宿です。東海道の京都から大阪の間にある宿場は、54伏見・55淀・56枚方そして57守口となります。難宗寺浄土真宗の僧蓮如上人が1477年に創立した守口御坊がはじまりと伝わります。1611年(慶長16年)に本願...守口城(大阪府)

  • 増尾城(千葉県)

    【増尾城】ますおじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】相馬師胤【築城年代】鎌倉時代【指定史跡】ー【場所】千葉県柏市増尾字稲荷下650地図増尾城は、小金城の城主高城氏の家臣、平川若狭守の居城であったと推定されています。現在は増尾城址公園として整備されており、大津川とその支流によって形成された舌状台地上に占地し、舌状台地全体が土塁と空堀を用いて二郭に区画されている郭や土塁、空堀など遺構を見ることが出来ます。増尾城址公園公園になっているので駐車場もあって見学もしやすいです。ちなみに、こちら側の入り口には駐車場がないので、車で来た場合は西側にある駐車場を利用して副郭の方からの登城になります。遊歩道を登っていくとすぐに主郭にたどり着きます。主郭主郭は、周囲を土塁で囲まれています。副郭案内看板のある広い郭で、主郭よ...増尾城(千葉県)

  • 【お城の授業シリーズ 03限目】

    今回は、お堀についての授業ですお堀に種類があるので、それについての説明しています。城巡りの際に、これは○○堀だ!なんてわかると楽しいですよね。【お城の授業シリーズ03限目】

  • 鉢形城(埼玉県)

    【鉢形城】はちがたじょう【別名】-【構造】平山城【築城者】長尾景春、北条氏邦【築城年代】1476年(文明8年)、1558年~1570年【指定史跡】国指定史跡【場所】大里郡寄居町鉢形地図【スタンプ設置場所】鉢形城歴史館鉢形城は、山内上杉氏の家臣である長尾景春が築城したと伝わります。北条氏によって整備され上野国支配の拠点となり、重要な役割を果たしていました。豊臣秀吉による小田原平定の際、前田利家や上杉景勝らの大軍に包囲され鉢形城に3000の兵とともに籠城、天神山城・八幡山城などの守りを固めたが、上野国松井田城が初陣だったといわれる真田幸村(信繁)をはじめとする35000の北陸支隊に包囲され、北条氏邦は降伏開城し自刃しました。河岸段丘を利用した城で、断崖絶壁の自然の水堀のごとく岸壁を利用。笹曲輪の石垣一部の石垣...鉢形城(埼玉県)

  • 長浜城(静岡県)

    【長浜城】【別名】【構造】【築城者】【築城年代】【指定史跡】【場所】地図令和6年1月28日登城長浜城(静岡県)

  • 日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.06 【岡崎城】

    日本の城郭面白・残念ネタシリーズPart.06【岡崎城】先週お届け予定だった岡崎城ですが、うしのPさんがラリージャパンのマーシャルで忙しく、締め切りに間に合わなかったので1週遅れでの配信となりました。とはいえ、そもそも私の仕事が遅いのが原因で、その余波がうしPさんに行ってしまったので・・・💦というわけで今回もご覧いただけたらうれしいです!令和5年11月24日日本の城郭面白・残念ネタシリーズPart.06【岡崎城】

  • 【お城の授業シリーズ 02限目】縄張りについて

    【お城の授業シリーズ02限目】縄張りについて今回は縄張について学んでみようと思います。城づくりにおいて縄張は重要なもの。どのような場所にどのような城を築くのか考えながらご覧ください。戦国の山城―山城の歴史と縄張を徹底ガイド(歴史群像シリーズ)全国山城サミット連絡協議会学研プラス縄張図・断面図・鳥瞰図で見る甲斐の山城と館宮坂武男戎光祥出版【お城の授業シリーズ02限目】縄張りについて

  • 大和田城(大阪府)

    【大和田城】おおわだじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】本願寺顕如【築城年代】16世紀頃【指定史跡】ー【場所】大阪府大阪市西淀川区大和田4丁目6−4地図大和田城は、戦国時代にあった1万石の平城で天正4年織田信長は荒木村重に命じて大和田城を改修させ、家臣の安倍仁右衛門を城主にしました。信長公記によると大和田城には天守があった可能性があるという。大阪市立大和田小学校の校門に説明が掲げられています。ここから城址碑が見えるのですが写真もとれそうにないので張り紙に従って職員室に行ってみることにしました。城址碑この城址碑は、元々「城ンタ」と呼ばれる場所にあったものを市営住宅建設のため、この地に移設されたものです。学校関係者に事情を話し、短時間ではありますが城址碑の撮影をさせてもらうことが出来ました。※必ず許可を得て...大和田城(大阪府)

  • 沢良宜城(大阪府)

    【沢良宜城】さわらぎじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】大阪府茨木市美沢町14−32地図室町幕府三代将軍足利義満は、子の義持に将軍職を譲って6年目にあたる1399年(応永6年)、堺港へ進出してきた大内義弘を攻めました。沢良宜城主藤井三位は義持将軍から「御馬廻り免状」をもらい、出陣しています。当時の沢良宜勢は約三千坪の城を中心に相当な力を持っていたようです。しかし、沢良宜城は応仁の乱の頃には廃城になったと伝わります。美沢公園美沢公園に沢良宜城の城址碑と案内看板が設置されています。山田13城のひとつとされている城ですが、詳細は解っていません。馬場沢良宜城跡の東側に隣接する、細長く伸びた沢良宜神社の境内は、かつて城の乗馬訓練に使用されたという馬場があったとされています...沢良宜城(大阪府)

  • 日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.05 【4つあった天守】

    日本の城郭面白・残念ネタシリーズPart.05【4つあった天守】今回は天守が4つあったという伏見城について紹介致します。来週は甲斐の国でドローン撮影した【城郭空撮シリーズ05】をお届けします。お楽しみに!日本の城郭面白・残念ネタシリーズPart.05【4つあった天守】

  • 【お城の授業シリーズ 01限目】お城の歴史について

    【お城の授業シリーズ01限目】お城の歴史について今回から新しいシリーズが加わりました!お城についてみんなと一緒に学んでいけるといいなと思って制作しています。宜しくお願い致します。【お城の授業シリーズ01限目】お城の歴史について

  • 田口城(長野県)

    【田口城】たぐちじょう【別名】田ノ口城【構造】山城【築城者】田口氏【築城年代】室町時代末期【指定史跡】ー【場所】長野県佐久市田口地図田口城は、龍岡城の北東にある山頂に築かれた山城で北に平賀城、南西に稲荷山城が視野に入る立地で、眼下には龍岡城の全容が見える場所に位置します。また、城域に龍岡城を見下ろす展望台が設置されており、星形の五稜郭の見学スポットとなっています。登城口県道120号線(三分中込線)から行ける、田口城までの林道があるので車で行く方はこちらからどうぞ。但し、道は途中から舗装がなくなりますので、車高の低い車や大型車はあまりお勧めできません。集落を離れ、山へ向かう道を進んでいると「五稜郭展望台」の看板があるので看板に従ってすすみます。これより先は道が荒れます。駐車場林道をどんどん登って行くと左手に...田口城(長野県)

  • 水尾城(大阪府)

    【水尾城】みずおじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】平尾孫左衛門【築城年代】1480年(文明12年)【指定史跡】ー【場所】大阪府茨木市水尾3丁目3−9地図水尾城は、応仁の乱で全焼した紫雲山西方浄土寺の焼跡に造営された中世城郭です。平尾孫左衛門は三好三人衆に属し、美濃の斎藤妙椿が没したあと主家斎藤家の内紛のため平尾孫左衛門は、斎藤家と離れて西方浄土寺の焼跡の高瀬川に沿った一画に、新しく環濠の砦を築きました。現在は水尾小学校の西、水尾図書館の北にある伯光神社の境内に石碑があるのみで遺構は残っていません。伯光神社この祠は伯光神社といい、伯光大明神が祀られています。天保6年(1835年)の同社由来書によれば、当地の奥田家の長屋門新築の地鎮の儀に際し、稲荷さげの巫女に楠の大樹に811年に及び伯光大明神が宿っている...水尾城(大阪府)

  • 日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

    毎週金曜日が動画公開日です!日本の城郭面白・残念ネタシリーズとドローンによる城郭空撮シリーズを交互に配信しています。面白い!と思った方はぜひ、チャンネル登録もお忘れなくpart.03【おんな城主おつやの方】part.02【昭和期以降に燃えた天守】part.01【徳島城】ドライブレコーダー作動中ステッカー【東北ずん子】ずんだもんサイズ:約14.5x5センチサインショップO2(オーツー)PLUMPMOAミニフィギュアずんだもん全高約70mmNonスケールPVC製塗装済み完成品フィギュア東北地方応援キャラクター「東北ずん子」ミニフィギュアシリーズに、ついに『ずんだもん』が登場!ピーエムオフィスエー(PLUM)日本の城郭面白・残念ネタシリーズ

  • 原田城(大阪府)

    【原田城】はらだじょう【別名】摂津原田城【構造】平山城【築城者】原田氏【築城年代】鎌倉時代~【指定史跡】市指定史跡【場所】大阪府豊中市曽根西町4丁目4−14地図原田城は、原田村を中心に活躍していた土豪原田氏の居城で「北城」と「南城」の2つの城から成り立っていました。原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていました。1579年(天正6年)荒木村重の謀反が勃発し、織田信長の軍が有岡城攻めの際に陣として一時的に利用したと伝わります。この時城は大改修されたことが発掘調査で判明しています。旧羽室家住宅(原田しろあと館)こちらが北城と呼ばれる場所に当ります。現在は旧羽室家住宅として土曜・日曜を中心におよそ月8日間、正午から午後4時に一般公開されています。敷地の中には土塁が残り、見学も可能です。...原田城(大阪府)

  • 榎並城(大阪府)

    【榎並城】えなみじょう【別名】江波城・十七箇所城【構造】平城【築城者】三好政長【築城年代】1532年~1555年(天文年間)【指定史跡】ー【場所】大阪府大阪市城東区野江4丁目1−39地図榎並城は、榎並壮にある淀川・旧大和川・池などに三方を囲まれた天然の外堀を持つであった。水路の要衝に位置するだけに水害に悩まされる土地でもありました。南北朝後期1368年(正平23年)には、楠木正成の子、正儀も在陣したことが伝えられています。戦国時代には、細川氏の内紛で摂津各所で内乱が頻発し、細川氏に対立する三好長慶が1549年(天文18年)の柴島城による細川晴賢・三好政長を攻めで榎並城へ敗走させています。正勝が城内を守っていましたが、江口の里に出陣した政長は、十河一存らに攻められ、政長は討死、正勝は榎並城を捨てて摂津瓦林城...榎並城(大阪府)

  • 城郭空撮シリーズ

    YouTubeチャンネルむぎとうしの歴史さんぽ飛山城長浜城仁井屋城(白倉城)麻場城(白倉城)栃尾城三河亀山城本佐倉城岩櫃城黒井城七尾城杉山城名胡桃城城郭空撮シリーズ

  • 小浜城(千葉県)

    【小浜城】こばまじょう【別名】ー【構造】海城【築城者】土岐頼定【築城年代】1493年(明応2年)【指定史跡】ー【場所】千葉県いすみ市大原10439地図小浜城は、万木城主土岐頼定が伊南領を守るために万木城の支城として築きました。天正16年、当時の城主鑓田勝定は、館山城主里見義頼の命により相模国三浦の北条氏直と合戦、小浜城の留守をついて勝浦城主正木左近大夫が150騎で押し寄せ落城しました。翌年、鑓田勝定は忍者を使って城内に潜入し、火を掛けて城を奪還しましたが本多忠勝に攻められ、敗走したた城は壊滅、廃城となりました。鳥居八幡神社の入口にある鳥居です。現代では八幡神社への参道として使われています。周囲に駐車場がありませんので駐車には十分注意してください。登り始めてすぐに、トイレや四阿があります。虎口コンクリートで...小浜城(千葉県)

  • 月輪館(埼玉県)

    【月輪館】つきのわやかた【別名】月輪城・大堀【構造】館【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】埼玉県比企郡滑川町月輪地図月輪館は、室町時代に存在した月輪兼実の居館であったと伝わります。百間堀があったとされ、別名大堀とも呼ばれています。堀の遺構は戦前まで現存していましたが、太平洋戦争により航空基地として飛行場が造られたために消失してしまいました。げんざい私有地となっているため中に入って散策ということは難しいので、周辺の道から見える範囲での遺構探しとなります。奥の方に残る土塁が見えます。若い頃によく訪れた場所ですが、その頃とはすっかり様子が変わり当時は城跡(館跡)があろうとは思っても見てなかったので探すことなく時は過ぎていました。現在は百間堀の一部が名残として見ることができます。令和4年2月27日...月輪館(埼玉県)

  • 茨木城(大阪府)

    【茨木城】いばらきじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】楠木正成【築城年代】1334年~1336年(建武年間)【指定史跡】ー【場所】大阪府茨木市片桐町10−10地図茨木城は、茨木氏の城館で織豊期には中川清秀や豊臣氏の城として機能していました。関ヶ原の戦いの翌年、1601年(慶長6年)に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となり、江戸期になると「一国一城令」を発布により、摂津では高槻城のみが残り茨木城は、茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで取り壊しとなりました。茨木小学校の校門片桐氏が奈良県大和郡山市の慈光院に移築したという山門を模して小学校の校門にしています。案内板この案内板によると、茨木小学校の北部に本丸があったとされています。慈光院に移築した門の原寸大で復元されています。茨木神社の西側の緑地は遊...茨木城(大阪府)

  • 日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.03【おんな城主 おつやの方】

    日本の城郭面白・残念ネタシリーズPart.03【おんな城主おつやの方】次回は9月29日に配信します。毎週金曜日に空撮と交互に配信を予定していますのでぜひチャンネル登録をしてみてくれると嬉しいのだ。日本酒女城主辛口純米酒720ml内容量:720ml岩村醸造日本の城郭面白・残念ネタシリーズPart.03【おんな城主おつやの方】

  • 堀城(大阪府)

    【堀城】ほりじょう【別名】中嶋城【構造】平城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】大阪府大阪市淀川区十三本町2丁目17−85地図堀城は別名中嶋城と呼ばれ、室町時代に築城された城です。織田信長が三好勢を攻めた際には足利義昭を迎え入れています。大物崩れの合戦時には既に存在が文献によって確認されていますが城の詳細についてはいつ誰によって築城されたのか明かになっていません。現在は武田薬品工業を含む付近一帯が城址であると推定されています。武田薬品工業前堀城は明治43年に廃川となった中津川のほとりに築城されていたと思われ、近代の淀川改修事業で付け変わり、城の名残も完全に消滅したため推定地が明確ではありません。そのため、推定地として武田薬品工業の門塀に案内看板が設置されています。案内板遺構も城址碑も無く、...堀城(大阪府)

  • 三津屋城(大阪府)

    【三津屋城】みつやじょう【別名】中島城【構造】平城【築城者】楠木正行【築城年代】1336年~1338年(延元年間)【指定史跡】ー【場所】大阪府大阪市淀川区三津屋中1丁目6地図三津屋城は、南北朝時代の城で楠木正行によって1336年~1338年(延元年間)に築城されたと伝わります。現在の光専寺一帯に城が存在したことを地名から読み取ることが出来ます。路地を入ったところに山門が見えます。子孫である末弘治郎左衛門が1453年(文明5年)に本願寺8代法主蓮如上人に帰依し、開基したと伝わります。山門ここは光専寺であり、境内には保育園があります。それだけにこれ以上中の写真は遠慮しておきました。案内板塀には三津屋城があったという伝承の案内板があります。入り組んだ路地を入って行くこともあり、駐車場もなくカメラを持って歩くにも...三津屋城(大阪府)

  • 飛山城(栃木県)

    【飛山城】とびやまじょう【別名】-【構造】平山城【築城者】芳賀高俊【築城年代】1293年~1298年【指定史跡】国指定史跡【場所】栃木県宇都宮市竹下町地図現在の飛山城跡は約300年続いた時代の移り変わりの中で城域が最も広がった戦国時代の輪郭を残し、史跡地内に古代から豊臣秀吉の命で破却されるまでの中世を中心とした建物や堀・土塁など復元した史跡公園となっています。飛山城史跡公園のパンフレットは木橋の前のボックスととびやま歴史体験館に置いてあります。とびやま歴史体験館は無料で見学できるので、まずそこで情報を得てから散策されると良いですよ。木橋堀と土塁が立派です。とびやま歴史体験館で見た模型を思い出し、この土塁の上から狙われるところを想像できます。桝形木橋を渡って来た敵に対しての防御の場とされていた。門土塁の上か...飛山城(栃木県)

  • 大物城(兵庫県)

    【大物城】だいもつじょう【別名】尼崎古城【構造】平城【築城者】細川高国【築城年代】1519年(永正16年)【指定史跡】ー【場所】兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6地図大物城は、尼崎古城とも呼ばれ尼崎城の前身となった城です。大物主神社を含む地域にあったと思われ、赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を壊滅させたという「大物崩れの戦い」で知られていて、最終的に高国が大物で捕らえられ処刑されてります。大物主神社大物主神社を含む領域に城があったと推定されていますが遺構などは残っておらず、城についての詳しいことは解っていません。それだけに尼崎城北側の大物町にさしかかる場所にあったという説もあり場所の特定は出来ていないのが現状です。義経弁慶隠家跡の碑大物浜から源義経が兄の頼朝の追討を逃れるため...大物城(兵庫県)

  • 芥川城(大阪府)

    【芥川城】あくたがわじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】芥川氏【築城年代】鎌倉時代【指定史跡】ー【場所】大阪府高槻市殿町8地図芥川城は、芥川宿を本拠として領主化した芥川氏の居城と伝わります。芥川城の北側にある三好山に芥川山城が新たに構築され、北摂津の支配の中心が山城に移っていき、この頃芥川城は破却、廃城となったと考えられます。城址碑民家の垣根の中に城址碑が埋もれています。気が付かずに一度通り過ぎてしまいました。民家にあるとても古そうで立派な門があるのですが何分誰かのお宅のものなので表札もあり、正面からの撮影は遠慮しておきます。殿町という地名からも推測できるように、JT生命誌研究館の西側に館が構えられていたと考えられます。芥川城より北の方角には西国街道が通り、芥川宿があります。芥川城を避けるように街道が折...芥川城(大阪府)

  • 日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.02

    日本の城郭面白・残念ネタシリーズPart.02【昭和期以降に燃えた天守】今回は前回にくらべ、ちょっと長くなってますがクスっと笑えるところもあり。次回は9月15日に配信します。毎週金曜日に空撮と交互に配信を予定していますのでよかったらぜひチャンネル登録をしてご覧になっていただけると嬉しいのだ。ドライブレコーダー作動中ステッカー【東北ずん子】ずんだもんサイズ:約14.5x5センチサインショップO2(オーツー)日本の城郭面白・残念ネタシリーズPart.02

  • 目垣城(大阪府)

    【目垣城】めがきじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】溝咋氏【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】大阪府茨木市目垣1丁目5−5地図目垣城は、山田十三城のひとつとして知られていますが、詳しいことは分かっていません。戦国期には、この辺り一帯を溝咋村と称し溝杭氏のおさめる溝杭荘がありました。元禄年間まで溝杭村から分村して目垣村が成立し幕府領となりました。江戸時代に入ると、下総古河藩土井氏が納めていました。奥田光記念館仏照寺の正面にある奥田光記念館があり、この辺りには弥生時代から奈良時代にかけての目垣遺跡がありました。城址碑偶然見つけた奥田光記念館の敷地内にある城址碑(石柱)は、緑豊かなその中に埋もれるように立っていました。自分でもよく発見できたなあと思ってしまいました。溝杭氏は、後白河法皇の妃高階栄子との関係で...目垣城(大阪府)

  • 三宅城(大阪府)

    【三宅城】みやけじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】三宅氏【築城年代】14世紀前半【指定史跡】ー【場所】大阪府茨木市蔵垣内3丁目15−3地図三宅城は、三宅氏の歴史を辿ると14世紀前半から更に遡り、その頃には三宅城または城塞のようなものが存在していたものと思われます。現在は区画整理事業の為、全く形が変わってしまい、遺構を見ることは出来ません。城址碑蔵垣内公園の片隅には城址碑と案内看板があります。城址碑はここの他に、もうひとつは阪急京都本線沿いにあります。案内看板城址碑と共に看板も設置されています。三宅氏は細川氏に属していましたが離反と帰参を繰り返し、三好氏に属し、こちらも離反と帰参を繰り返し、永禄5年に三好氏と対立した際三宅城を捨てて堺へ逃れ、廃城となっています。現在では、その面影も見ることは出来ません。...三宅城(大阪府)

  • 伊豆国・長浜城(空撮)

    今週は伊豆国長浜城の空撮をお届けします。今後も毎週金曜日に空撮と動画を交互に配信しますので、ぜひチャンネル登録していただけると嬉しいです。伊豆国・長浜城(空撮)

  • 尼崎城(兵庫県)

    【尼崎城】あまがさきじょう【別名】琴浦城・尼丘城【構造】平城【築城者】戸田氏鉄【築城年代】1617年(元和3年)【廃城年代】1873年(明治6年)【指定史跡】ー【場所】兵庫県尼崎市北城内27番地地図尼崎城は、戸田氏鉄が滋賀県の膳所城から尼崎へと転封となり1617年(元和3年)幕府の命により尼崎城が築かれました。その後、戸田氏は10万石で美濃大垣城へ移封となり、青山幸成が掛川から尼崎へ5万石の大名として入城しました。以後明治時代まで青山氏4代、桜井松平氏7代と続きました。現在ある天守は140年ぶりの再建だそうですが、当時の位置とは北西約300m離れた公園にあります。駐車場模擬天守に一番近い場所にあるコインパーキング。20台駐車出来ます。この日も暑くて歩く気力がなかったので一番近いこちらの駐車場を利用しました...尼崎城(兵庫県)

  • むぎとうしの城さんぽ

    日本の城郭の面白いところと残念なところにスポットを当ててお城の紹介をしていきたいと思います。手始めに今回は徳島城にスポットを当ててみました。何分不慣れなのでショートにまとめていますが、今後ドローンによる空撮と交互に公開する予定です。皆さんからのご意見ご要望、ありましたらコメント欄に入れてもらえると助かります。次も見てみたいぞ!と思われた方は、ぜひぜひ、チャンネル登録宜しくお願い致しますm(__)m令和5年8月25日むぎとうしの城さんぽ

  • 太田城(大阪府)

    【太田城】おおたじょう【別名】摂津太田城・平城・館城【構造】平城【築城者】太田頼基【築城年代】平安時代末期【廃城年代】1528年(大永7年)【指定史跡】ー【場所】〒567-0018大阪府茨木市太田1丁目4−12地図太田城は、1527年の細川高国と晴元との間で勃発した合戦で晴元側の柳本弾正によって開城したと伝わります。築城主の太田頼基は、多田源氏の一族で摂津国でも優秀な武士として名を連ねています。「平家物語」では源義経の勢が西国街道を中国地方へ落ち延びて行く様子に太田頼基が「我が門の前を通しながら矢一つ射かけであるべきか」と残しています。城址は現在住宅地と化し、城下町であったことを思わす地名が残るだけとなっています。案内看案板ショッピングモールイオンタウン茨木太田の北側に、案内看板と石柱があります。かつては...太田城(大阪府)

  • 郡山城(大阪府)

    【郡山城】こおりやまじょう【別名】郡山砦・摂津郡山城【構造】平山城【築城者】羽柴秀吉【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】大阪府茨木市郡山1丁目9−1地図郡山城は、織田信長の荒木村重らを攻めるために造られた陣城です。郡山城を納めていた高利平太夫は高槻城の和田氏に仕えていましたが、1571年(元亀2年)荒木村重、中川清秀ら池田勢と白井河原で戦います。しかし、池田軍2500に対して和田軍500でその差は歴然。高利平太夫は、時間稼ぎのため一人で池田軍の陣に行きましたが計略が見破られ戦闘開始。帰陣し、退却を申し入れるも聞き入れられず奮闘虚しく討死しました。浪速少年院浪速少年院の前に城址碑と案内板が設置されています。吹田山田城には13の支城があったとされ、郡山城はそのうちのひとつに数えられています。城址碑(標柱)・...郡山城(大阪府)

  • 仁井屋城(群馬県)

    【仁井屋城】にいやじょう【別名】白倉城・白蔵城【構造】丘城【築城者】白倉氏【築城年代】不明【指定史跡】―【場所】甘楽郡甘楽町白倉地図【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun仁井屋城と麻場城の二城から成る一郭で二城一郭ともいう双子城であり、同じ段丘の分岐した蛇の頭に似ている地形が特徴です。そして、この二城がセットで白倉城とも呼ばれています。三叉路城域の境目を示すとみられる石塔があります。実際は何の石塔かは不明です。東側東側へ道が延びています。この道は畑へのアクセスとして使用されていますが、かつてこちら側に登城道が延びていたようです。南郭南郭側から主郭の方角を見ています。東南側東側は現代の間知ブロックで整備されていますが、崖状になっています。間知ブロックの上から崖下を覗き込むと、腰郭状になって...仁井屋城(群馬県)

  • 麻場城(群馬県)

    【麻場城】あさばじょう【別名】白倉城・浅場城・白蔵城【構造】平山城【築城者】白倉氏【築城年代】室町時代中期【指定史跡】町指定史跡【場所】甘楽郡甘楽町白倉地図【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun豪族白倉氏の居城であり、戦国時代に築城され豊臣秀吉の小田原征伐の時前田利家に攻め落とされるまでの期間活躍していた城とされています。入口公園を利用するために後から造られた登り口。ここから坂を登って本丸目指します。駐車場駐車場完備です。数台停めることが出来ます。登城口ここは公園整備の際造られた登城口で、古くからある道ではないそうです。他にも城内への入口はありますが、民家の庭先だったり、農家の畑の道からだったりするのでここから入城するのが一般的になります。堀切に架かる橋坂道を登ると堀切と帯曲輪が見えて来...麻場城(群馬県)

  • 黒丸城(大阪府)

    【黒丸城】くろまるじょう【別名】鳥飼砦・鳥養砦【構造】平城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】大阪府摂津市鳥飼中2丁目1地図黒丸城の築城の時期や詳細は不明ですが、細川両家記によるとこの辺りに城(砦)があったことが窺われます。永禄二年、元亀元年には三好方がこの城を大阪方面の攻撃の際の最前線の砦として機能していたと考えられています。城址碑県道15号線(八尾茨木線)淀川河川公園北西の歩道脇にある城址碑です。別名鵜飼砦というだけに川の近くであることが塑像出来ます。現在は遺構は残っておらず、城の縄張りも想像し難い。城址碑の隣に説明もあるのですが、城(砦)は淀川の川べりに平城があり、大阪方面への攻撃のために築かれた前線基地であったのではないかと考えられているようです。周囲を見渡しても、地形的に見ても城...黒丸城(大阪府)

  • 柴島城(大阪府)

    【柴島城】くにじまじょう【別名】柴嶋城【構造】平城【築城者】十河一存【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】大阪府大阪市東淀川区柴島2丁目19−5地図柴島城は、淀川と旧中津川の間の中州に築かれていました。明治時代に着手された淀川改修工事のため、その原型は失われ、現在の淀川の川岸に本丸部分は残っていますが、中学校の敷地となっています。天文18年に三好政長派の細川晴賢がいる柴島城を三好長慶軍が大軍をもって攻め落城した江口の戦いと大阪夏の陣で稲葉氏が拠ったことが伝えられています。城址碑住宅街の一角にある城址を示す石柱があります。本丸からは北に150m程に離れた場所に立てられています。つまり、主郭になる場所はここより南の大阪市立柴島中学校に位置します。石碑本門八品南無妙法蓮華経白龍上行所伝と刻まれた石碑は、城址碑と...柴島城(大阪府)

  • 刀根山城(大阪府)

    【刀根山城】とねやまじょう【別名】刀根山古砦・刀根山城砦【構造】丘城【築城者】織田信長【築城年代】1578(天正6年)【指定史跡】ー【場所】大阪府豊中市刀根山元町5−36地図刀根山城は、織田信長が伊丹城の荒木村重を討つため、美濃三人衆と呼ばれる稲葉彦六(伊予守)・氏家左京亮(常陸介)・安藤平左衛門(伊賀)・芥川(茨木の国人)を刀根山に配置し城砦を造らせました。信長は本願寺攻撃の最前線にある村重が、本願寺に内通しているという噂を聞き、天正7年4月に、稲葉・芥川は河原取出(池田)、氏家は四角屋敷・安藤は加茂岸に前進し、村重を包囲し、一進一退の一年に及ぶ持久戦となりました。その後村重は近衆を連れて尼崎城へ逃れています。信長は、この戦いでの最前線の重要な拠点のひとつとして刀根山城を築いたと推定できます。常楽寺この...刀根山城(大阪府)

  • 野田城(大阪府)

    【野田城】のだじょう【別名】摂津野田城【構造】平城【築城者】浦上村宗【築城年代】1531年(享禄4年)【指定史跡】ー【場所】大阪府大阪市福島区玉川4丁目11地図野田城は、三好方の浦上村宗が細川晴元と三好元長が対立した際に築いた砦です。織田信長による石山本願寺攻めの際は織田の重要陣地となりました。石山合戦では三好三人衆は、野田城・福島城を増築、籠城し、八千人もの将兵が籠城しうるだけの総構えが構築されていたものと推定されます。城址碑大阪メトロ玉川駅前のマンション入口と極楽寺前に城址碑があります。かつて野田村が存在したころは奥ノ町、東ノ町、城ノ内町、弓場町、堤町、北ノ町の6町から成り立ち周辺が他の地域と比べて若干高い場所にあり、地の利を活かした築造りがされていたのではないかと考えることが出来たというが、現在はそ...野田城(大阪府)

  • 三河寺部城(愛知県)

    【三河寺部城】みかわてらべじょう【別名】寺部陣屋【構造】平城【築城者】鈴木重時【築城年代】文明年間(1469-1487年)【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市寺部町1丁目地図寺部城は文明年間、文明年中鈴木重時によって築城された城です。のちに尾州徳川家の家老職渡辺守綱の居城となりました。また、松平元康(徳川家康)の初陣となる「寺部城の戦い」の舞台となった場所です。寺部城の戦いでは、今川氏が初めて鉄砲を用いた戦いであるとも伝わります。城址の森公園寺部城の跡地は現在城址の森公園になっています。案内看板公園入口脇にある案内看板です。城址碑櫓台でもあったかのような土盛に城址碑があります。寺部城に陣屋が置かれていることもあり、陣屋を囲むように土塁が築かれていたと思われます。中に入ると、平らな中に、いくつかの区切りがあり...三河寺部城(愛知県)

  • 小田井城(長野県)

    【小田井城】おたいじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】小田井吉六郎副親【築城年代】大永年間(1521~1528年)【指定史跡】町指定史跡【場所】長野県北佐久郡御代田町御代田地図小田井城址は、宿の東側の谷を挟んだ場所に位置する。1543年(天文12年)正月の休戦に入ったところを武田軍に急襲され落城となった。城主は討ち死におんなと子どもはくぐり岩という抜け穴を通って氏神の十二の杜に逃げたという。築城からわずか23年でした。城主の子市村(小田井)弾正は戦国の動乱期北条につき、小田井城は北条方の拠点となる。徳川方の依田信蕃によって攻め滅ぼされ、小田井城は廃城になります。高原野菜の畑となった城跡には、今も空堀、土塁が残ります。県道132号線から「アサヒ紙工株式会社」入口に向かって南下します。虎口道なりに農耕地へ...小田井城(長野県)

  • 王城(千葉県)

    【王城】おうじょう【別名】平将門王城【構造】居館【築城者】平将門【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】千葉県柏崎市大井地図将門記の王城の地とは此の地なり将門記に云く王城を下総の国の亭南に建つべしとこの地より眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき北に筑波山を拝し西に富士山を奉拝し関八州を手中にできる。この地こそ王城建設にふさわしい所でありますかつて奈良時代には相馬郡に六郷が置かれました手賀沼南岸には大井郷と古溝郷が配され、手賀沼北岸には布佐郷、倉麻郷、意部郷、余部郷が置かれましたまた同時代には東海道が京の大津から下総国府を通り大井より布施に渡り戸頭に出、常陸の国石岡まで整備されました。このように都市機能が整備なされた所に将門は相馬の都を建てることに決定しました。平将門の事件を描いた「将門記」に、平将門が「下総...王城(千葉県)

  • 金澤城(秋田県)

    【金澤城】かねざわじょう【別名】金沢柵【構造】城柵・山城【築城者】清原氏【築城年代】平安時代後期【指定史跡】国指定史跡【場所】秋田県横手市金沢安本館地図金澤城は、清原氏の居城で、後三年の役では清原家衡、清原武衡が籠城し兵糧攻めにより落城した古代城柵です。1458年(長禄2年)に、南部守行の子である金澤右京亮が入城し、1470年(文明2年)までの間、居城していました。江戸時代には、久保田藩主佐竹氏が秋田へ入部した際に居城の候補の一つとして金澤に城を再整備する案が梶原政景から出されましたが、結局久保田城が居城となり、金沢城は一国一城令によって廃城となりました。史蹟案内図金澤八幡宮を目指すように公園への道を登って行くと道路脇に案内図があります。城址はまだ先にあるのですが、何があるのか気になるので様子を見に行って...金澤城(秋田県)

  • 栃尾城(新潟県)

    【栃尾城】とちおじょう【別名】舞鶴城・大野城【構造】山城【築城者】芳賀禅可【築城年代】室町時代初期【指定史跡】県指定史跡【場所】長岡市栃尾大野町地図【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun上杉謙信の旗揚げの城と云われる栃尾城は、越後守護となった宇都宮氏綱の家臣芳賀禅可が築きました。上杉謙信が青年期を過ごした城であることでも知られていますが、謙信の死後家督争いとなった「御館の乱」では、越後の主導権争いになり栃尾城は景虎側に味方していたため、景勝軍に攻められ中城まで火を放たれ間もなく落城しました。その後慶長3年に入城した堀秀治は、慶長15年に堀家取りつぶしとなり栃尾城は廃城となりました。駐車場麓の諏訪神社から登るルートがあるのですが辛いより楽な方が良いのと、この日はもう夕暮れで城の中で日が暮れ...栃尾城(新潟県)

  • 岩崎城(愛知県)

    【岩崎城】いわさきじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】織田信秀【築城年代】1528年ー1531年(享禄年間)【指定史跡】ー【場所】愛知県日進市米野木町市場地図岩崎城は、信長の父である織田信秀によって享禄年間(1528から1531)頃に築城されました。1538年(天文7年)頃に丹羽氏清が本郷城からこの地に移り、その後、丹羽氏が4代(約60年間)に渡り居城しました。1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは、丹羽氏は徳川方に属し、羽柴方の行軍を阻止しようとして落城した「岩崎城の戦い」が知られています。この戦いで、一族を犠牲にしながらも戦功をたてたことで徳川氏に認められ、1600年(慶長5年)三河伊保に一万石の大名として転封したことで岩崎城は廃城となりました。岩崎城跡入口県道217号線(岩藤名古屋線)...岩崎城(愛知県)

  • 孫根城(愛知県)

    【孫根城】まごねじょう【別名】ー【構造】山城【築城者】梶信勝【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市梶町横大地図孫根城は、梶金平信勝により築城され七代にわたり梶氏が居城。1536年(天文5年)梶与吉信家が足利氏に攻められ、落城すると本多忠知が入城しました。その後、梶一族はは本多氏の家老となっていたことが梶一族の墓(古石塔群)から推測されています。1571年(元亀2年)に武田氏に攻め入られ、落城しています。案内看板大沼足助線から大横に向けて曲がったところに案内看板があります。春日神社まで舗装路が伸びているので、神社までは車で行くことが出来ます。春日神社春日神社の周辺でも堀切らしきものを見ることが出来ます。舗装路脇にある孫根城への入口には看板があるのでそれに従って林の中へと進みます。尾根を進むルート...孫根城(愛知県)

  • 増山城(富山県)

    【増山城】ますやまじょう【別名】和田城【構造】山城【築城者】二宮円阿【築城年代】1363年(貞治2年)以前【指定史跡】国指定史跡【場所】砺波市増山地図【スタンプ設置場所】砺波市埋蔵文化センター(9:00~17:00)【御城印】砺波市埋蔵文化財センター窓口【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun公式日本城郭検定過去問題集改訂新版公益財団法人日本城郭協会ワン・パブリッシング続日本100名城公式ガイドブック(歴史群像シリーズ特別編集)公益財団法人日本城郭協会学研プラス増山城(富山県)

  • 横手城(秋田県)

    【横手城】よこてじょう【別名】朝倉城・阿櫻城・韮城・龍ヶ崎城・衝城【構造】山城【築城者】小野寺氏【築城年代】1532~1537(弘治年間)【指定史跡】ー【場所】秋田県横手市城山町29-1地図横手城は、城主の小野寺義道が反徳川方にあったため岩見国(島根県)へ配流され1602年(慶長7年)に佐竹氏が城主になると、久保田城の支城として伊達氏、須田氏、戸村氏と城代が置かれていました。戊辰戦争では庄内藩・仙台藩・山形藩からの攻撃に遭い、城は炎上し廃城となりました。三の丸横手城の登城口としての古道「七曲」を登って来るのが本来ですが、歩かずに三の丸まで車が乗り入れ出来るので、車で来てしまいました。武者溜り三の丸にある武者溜りです。駐車場途中にも駐車場がありますが、三の丸まで車で来ることが出来ます。この先二の丸には、天守...横手城(秋田県)

  • 三河亀山城(愛知県)

    【亀山城】かめやまじょう【別名】作手城【構造】平山城【築城者】奥平貞俊【築城年代】1424年(応永31年)【指定史跡】―【場所】新城市作手清岳地図【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun亀山城は、奥平貞俊によって1424年(応永31年)に築城されました。貞俊は、天授年間(1375~1380)に現在の群馬県からこの地に移り住んで川尻城を築いた後、亀山城を築城してここに居城したとされています。1575年(天正3年)に徳川方となって長篠城の城主となった奥平貞(信)昌の長篠の戦いで功績をあげ、奥平氏は歴史に名を残すこととなった。入口周囲にいくつかの駐車場が完備されていますがここからの登城がいちばん歩きやすく便利です。案内図入口で縄張り図を確認!本丸までは近いのですがその間にもいくつかの曲輪を見るこ...三河亀山城(愛知県)

  • 丸子城(神奈川県)

    【丸子城】まるこじょう【別名】丸子陣場【構造】平城【築城者】豊島氏【築城年代】1478年(文明10年)【指定史跡】ー【場所】神奈川県川崎市中原区上丸子地図丸子城は、現在の日枝神社から上丸子小学校に付近にかけてあったと伝えられていますが詳細はわかっておらず、1476年(文明8年)の「長尾景春の乱」の際に、豊島氏が石神井城や平塚城に籠り、上杉方の太田道灌に攻められると小机城で籠城。この時豊島氏の残党がこの地に陣場を置いたのが丸子城と伝わります。日枝神社社務所に車を停めたので、神社の裏から境内に入ろうとしてしまい改めて朱色の鳥居のある表へ。案内看板川崎市の重要歴史記念物に指定されている古文書についての看板です。北条氏が発給した二通と徳川奉公人連署奉書が日枝神社に残っているようです。次は日枝神社の建造物についての...丸子城(神奈川県)

  • 藤沢城(長野県)

    【藤沢城】ふじさわじょう【別名】蛇山【構造】山城【築城者】藤沢盛景【築城年代】【指定史跡】市指定史跡【場所】長野県伊那市高遠町藤沢4080地図藤沢城は蛇山とも呼ばれ、松倉峠と杖突峠の合流する古来から交通の要衝に築かれていました。城主は、諏訪の社領に属していた藤沢盛景、後に保科正直が居住したと伝えられていますが、詳しいことははっきりしていません。国道152号線を走っていると、峠の茶屋の看板近くに藤沢城跡の矢印看板があります。矢印看板に従って行くと城址に到着します。ちなみに、周辺に駐車場はありません。獣柵石橋を渡ると獣柵があるので、自分で開閉して進んで行きます。この辺りはとにかく鹿が多く、夜になると車を恐れることなく国道に出て来ているのでご注意ください。入山口蛇山の麓では石垣が見られます。はたして、城に使われ...藤沢城(長野県)

  • 馬込城(東京都)

    【馬込城】まごめじょう【別名】梶原城・馬篭城【構造】平山城【築城者】梶原助五郎【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】東京都大田区南馬込5丁目地図馬込城は、「小田原衆所領役帳」によると旧馬込村は後北条氏の家臣である梶原助五郎の所領となっていて、城の範囲は、東は北野神社(南馬込二丁目)、西は湯殿神社(南馬込五丁目)、南は臼田坂下(中央一丁目、中央四丁目)、北は大田区立馬込図書館(中馬込二丁目)までと縄張は広く、居館は台地の西の末端に築かれていたと推定されます。湯殿神社居館跡は湯殿神社と湯殿公園になっています。城主の梶原助五郎は、昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した中村獅童さん演じる梶原景時の末裔ではないかとも云われています。拝殿まずは神社の神様にご挨拶です。両脇から背後が着物の襟のように高くな...馬込城(東京都)

  • 石田会館(滋賀県)

    【石田屋敷跡】いしだやしきあと【別名】石田三成屋敷跡【指定史跡】―【場所】長浜市石田町滋賀県長浜市石田町地図石田三成が生まれ育った屋敷跡地です。その生家跡に建てられたのが石田会館で、こちらには石田三成の生立ちや足跡などの資料が展示されています。石田治部少輔三成屋敷跡石碑県道243号線と県道509号線がぶつかる交差点に石碑と看板があります。石田会館8年ほど前に一度訪れているのですが、写真の入ったデータを失くしてしまったため再び訪れてみたのですが、この日は新型コロナウィルス感染拡大防止のため閉館していました。調べて来なかったため、資料館が見学出来なかったので周辺を散策することにしました。石田三成公史跡案内図近くに石田三成ゆかりの地がいろいろあります。今回、山城に登る時間はないのですが、気になるところにちょっと...石田会館(滋賀県)

  • 大洲城(愛媛県)

    【大洲城】おおずじょう【別名】-【構造】平山城【築城者】宇都宮豊房、脇坂安治【築城年代】14世紀前半、1610年(慶長15年)【指定史跡】県指定史跡国重要文化財【場所】大洲市大洲903地図【スタンプ設置場所】台所櫓入口(大洲城内入口)【城郭検定】出題あり守護宇都宮氏の時代には大洲は以前大津と呼ばれていたが、脇坂安治の時代に近せ城郭として改修、地名も大洲と改められた。暗り門跡かつてここにあった櫓門は天守に至る最後の城門で、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていたことが暗り門の名の由来である。サザンカの落ち花で作られたハート型。もちろん、ここで二人で記念の写真を撮ったのですが恥ずかしいのでお見せできません(^^ゞ「幸せになれますように。。。」井戸井戸丸の井戸は国内でも本丸井戸...大洲城(愛媛県)

  • 今村城(愛知県)

    【今村城】いまむらじょう【別名】松原城【構造】平城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】愛知県瀬戸市共栄通5丁目66地図今村城は、1473年(文明5年)に松原下総守廣長が八王子神社の本殿の改修を行っており城、神社ともそれ以前の造営のものと思われますが、詳しいことは解っていません。廣長が1482年(文明14年)に桑下城主である永井氏との戦乱で敗れ、廃城となりました。八王子神社今村城築城時と創建が一緒と推定されており、文明五年癸巳年九月初五日大檀那松原下総守広長と書かれた棟札がみつかっていたようですが、現在その棟札は行方知れずとなっています。神社境内の配置図左上を見ると、お城の堀跡とされている池があります。県道61号線(瀬戸街道)を北限として、八王子神社の池(堀跡)までが城域であったと推定されて...今村城(愛知県)

  • 本佐倉城(千葉県)

    【本佐倉城】もとさくらじょう【別名】将門山城【構造】平山城【築城者】千葉輔胤【築城年代】1469年〜1486年(文明年間)【指定史跡】国指定史跡【場所】印旛郡酒々井町本佐倉地図【スタンプ設置場所】酒々井町中央公民館(8:30~17:00)京成本線大佐倉駅【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun本佐倉城は千葉氏代々の居城であった千葉城が内紛により戦場となり荒廃したため新たに築いた城で豊臣秀吉によって滅ぼされるまで居城とした城です。城の周囲には酒々井宿、本佐倉宿、鹿島宿、浜宿湊と東西南北に城下町が広がっていました。酒々井町中央公民館まずは酒々井町中央公民館で続100名城のスタンプを押しに来ました。玄関を入るとわかりやすい看板があります。右奥のトイレの前にあります。スタンプ設置場所スタンプ設置場...本佐倉城(千葉県)

  • 高天神城(静岡県)

    【高天神城】たかてんじんじょう【別名】土方城【構造】山城【築城者】不明【築城年代】1416年【指定史跡】国指定史跡【場所】掛川市上土方嶺向3136地図【スタンプ設置場所】大東北公民館(9:00~17:00)【城郭検定】出題あり桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、今川家は衰退しました。その後、徳川と武田が攻防を繰り返し、1574年(天正2年)高天神城は武田勝頼により落城しました。高天神城奪還のために徳川家康は、横須賀に砦として横須賀城を作り、さらに高天神城を孤立させるために周辺を囲んで攻撃しようと6つの砦を築きました。この6つの砦は「高天神六砦」と呼ばれ、「小笠山砦」・「能ヶ坂砦」・「火ヶ峰砦」・「獅子ヶ鼻砦」・「中村砦」・「三井山砦」がありました。この砦により、高天神城への補給路が断たれ、高天神城...高天神城(静岡県)

  • 岩櫃城(群馬県)

    【岩櫃城】いわびつじょう【別名】吾妻城【構造】山城【築城者】斎藤憲行【築城年代】1405年(応永12年)【指定史跡】―【場所】吾妻郡東吾妻町原町地図【スタンプ設置場所】平沢登山口観光案内所(4月~11月)・東吾妻町観光案内所(12月~3月)【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun【御城印】平沢登山口観光案内所・東吾妻町観光協会1521年~1528年(大永年間)には斎藤氏が城主となり吾妻一帯を支配していました。甲斐の武田信玄は真田幸隆に岩櫃城攻撃を命じるも、二度失敗。その後1565年(永禄8年)真田幸隆は得意とする調略と奇襲で落し、以後上田城、沼田城の支城として真田氏の拠点となります。岩櫃山大河ドラマ「真田丸」オープニングでCG編集されて出てくる岩櫃山です。てっぺんにお城や手前に滝などはあり...岩櫃城(群馬県)

  • 黒井城(兵庫県)

    【黒井城】くろいじょう【別名】保月城【構造】山城【築城者】赤松貞範【築城年代】1334年~1338年(建武年間)【指定史跡】国指定史跡【場所】丹波市春日町黒井地図【スタンプ設置場所】春日住民センター【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun【城郭検定】出題あり黒井城は、赤井氏の居城で織田信長の丹波攻略の際に、二度にわたり明智光秀の攻撃を支えた城です。また、光秀の重臣斎藤内蔵助利三は下館を陣屋とし、この陣屋で利三の末娘として生まれています。その末娘の名はお福と言い、後の春日局と伝承されています。続日本100名城公式ガイドブック(歴史群像シリーズ特別編集)公益財団法人日本城郭協会学研プラスぶらり明智光秀の城&史跡めぐり(ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)佐藤強志マコト出版黒井城(兵庫県)

  • 一宮城(千葉県)

    【一宮城】いちのみやじょう【別名】山城【構造】丘城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】町指定史跡【場所】千葉県長生郡一宮町一宮地図一宮城は、詳細は不明ですが1562年(永禄5年)9月に館山城主の里見氏、万木城主土岐氏、大多喜城主正木氏らに攻められ落城しています。(諸説あり)そして1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際にも再び落城しています。その後は本多忠勝の領土となり、脇坂安元、加納久儔により陣屋が造られ明治維新を迎えます。大手門加納藩当時に、ここには大手門が造られていました。現在城山公園入口のシンボルとして大手門が再現されています。案内看板大手門の脇には一宮城址の看板と城山公園の案内図の看板があります。駐車場公園になっているので無料の駐車場が完備されています。こちらに駐車して城さんぽ開始...一宮城(千葉県)

  • 杉山城(埼玉県)

    【杉山城】すぎやまじょう【別名】―【構造】山城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】国指定史跡【場所】比企郡嵐山町杉山地図【スタンプ設置場所】嵐山町役場(午前8時30分~午後5時15分)【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun杉山城は土造りの城の見本とも言われている城で、この城ひとつで多くの基本的防御の策が見ることのできる城です。杉山城・菅谷城・松山城・小倉城をはじめ中世城館の遺跡群が形成され「比企城館跡群」として国史跡に指定されています。嵐山町役場続日本100名城に選定されたことで、スタンプ設置場所になりました。まずはこちらでスタンプとパンフレットを収集します。駐車場久しぶりに来ました。別の趣味で何度も訪れている場所ですが、城郭訪問で来ることになるとは思ってませんでした。少し歩きます...杉山城(埼玉県)

  • 松露饅頭(佐賀県)

    🍡唐津の松露饅頭1850年(嘉永3年)に佐賀県の唐津で創業。豊臣秀吉が、朝鮮出兵で高麗から陶器と一緒に渡ってきた文化のひとつに「焼饅頭」がありました。江戸時代に大原家の阿わび屋惣兵衛が焼饅頭に創意工夫をこらし、唐津藩主小笠原侯に献上したところ、日本三大松原のひとつでもある「虹の松原」の松の根元の砂から年春、秋に自生する、球状の高級キノコ「松露」に似ていることから「松露饅頭」と名付けられました。ふるさと納税の返礼品にもなっている唐津の老舗大原松露饅頭ということで唐津の老舗和菓子を買ってみました。中はこしあんで程よい甘さ。疲れた時に、お茶と一緒にいただくととても癒されます。昨年訪れた唐津城を思い浮かべながら、美味しく頂きました。令和5年1月23日九州諸藩という歴史地元九州からみた江戸二六五年富原勇史株式会社ド...松露饅頭(佐賀県)

  • 勝浦城(千葉県)

    【勝浦城】かつうらじょう【別名】ー【構造】海城【築城者】真里谷信興【築城年代】1521年(大永元年)【指定史跡】ー【場所】千葉県勝浦市浜勝浦地図勝浦城は、真里谷氏の時代の砦に勝浦正木氏が入城しています。しかし天正18年、豊臣秀吉によって里見氏は領地を一部没収され、里見氏と親交が深かった三代目勝浦城主頼忠も城を明け渡し、安房へと逃れました。頼忠の娘は徳川家康の側室で、水戸光圀の祖母にあたるお万の方です。主郭にはお万の方の銅像が、城址を見守っています。トンネルを抜けた先が駐車場です。駐車場日の出前に到着し、一休みしていました。釣り人が居たり、けっこう人気のある場所です。見晴台郭?と思いきや、見晴台なんだそうです。城址碑八幡神社の入口に勝浦城の城址碑があります。案内看板八幡神社の入口にに立てられた勝浦城の案内板...勝浦城(千葉県)

  • 謙信一夜城(千葉県)

    【謙信一夜城】けんしんいちやじょう【別名】一夜城・王子台砦【構造】平城【築城者】上杉謙信【築城年代】1566年(永禄9年)【指定史跡】ー【場所】千葉県佐倉市王子台3丁目12地図この地は、上杉謙信が兵馬を進めた城跡です。関東管領上杉憲政に頼まれ関東進出を決意し、関東の各地に参陣しました。謙信が臼井城を攻撃するも、臼井城主原胤定は佐倉城主千葉胤富の援護を得て両軍満を持して動くことなくひと月余、そこへ上杉軍の陣営に足利将軍の上洛を促す書状が着し、翌四月越後へ引揚げることになりました。一夜城公園現在、こちらは公園になっています。ここから北へ約1.5Kmほどの場所に臼井城があります。臼井駅南土地区画整理組合は工事の一環としてこの城址の発掘調査を行い、中世城郭の遺構も確認されています。城址碑城址碑はとても立派なものが...謙信一夜城(千葉県)

  • 小竹城(千葉県)

    【小竹城】おたけじょう【別名】ー【構造】丘城【築城者】小竹高胤【築城年代】明徳年間(1390年~1394年)【指定史跡】ー【場所】千葉県佐倉市小竹913地図小竹城は、小竹氏の築いた居館で臼井城の支城であったと伝わります。高さ約3mの土塁を周囲に巡らせた居館には、土塁の外側に堀を設け、東南に入口が設けられています。築城時期は1390年頃と推定されているものの、遺構は16世紀初期と推定され、詳しいことはまだ解明されていません。山崎産業株式会社付近の道路沿いに案内看板が見えて来たので確認すると、ここが小竹城の入口でした。案内看板「民有地ですので、許可なく立ち入ることはおやめください」と書いてあります。道路から脇道を入ったところに小竹城はあるようですが、どうやら私有地のようです。小竹五郎之墓案内看板の裏手の小竹に...小竹城(千葉県)

  • 小高城(福島県)

    【小高城】おだかじょう【別名】紅梅山浮舟城・浮舟城【構造】平山城【築城者】相馬重胤【築城年代】1611年(慶長16年)【指定史跡】県指定史跡【場所】福島県南相馬市地図小高城は、相馬重胤が1326年(嘉暦元年)下総国から移り、以後相馬氏の本拠地としていました。1597年(慶長2年)原町の牛越城に移り、小高城を支城としましたが、慶長7年に再び小高城へと戻ることになりました。慶長16年、拠点を中村城に移すと小高城は廃城となりました。小高神社現在、相馬小高神社がある場所がかつての小高城です。境内案内図「相馬野馬追」でも知られている神社で、駐車場もあるのでとても訪れやすい城址です。駐車場の入口、大きな鳥居井脇に境内の案内図が設置されています。城址碑南二の曲輪の登り口にある城址碑です。この階段を登ると南二の曲輪です。...小高城(福島県)

  • 世良田東照宮(群馬県)

    【世良田東照宮】せらだとうしょうぐう【別名】ー【構造】神社【年代】1644年(江戸時代)【指定史跡】国指定史跡【場所】群馬県太田市世良田町3119−1地図三代将軍徳川家光により、日光東照宮の元社殿や宝物などを移築したもので、徳川氏発祥の地の東照宮として知られています。鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる源義家の孫の源義重が上野国新田荘を治めるようになり、新田義重と名乗りました。義重の死後は義重の子である義季が、徳川郷・世良田郷・他4郷を受け継ぎ、徳川義季・世良田義季と称したのが徳川氏の始まりです。その後、足利氏の討伐により世良田郷を追われた、九代目の親氏は諸国を流浪の末、松平信重の娘を娶り、愛知県豊田市の松平郷に土着して松平親氏と名乗りました。後に生まれた松平信康は、祖父清康が新田源氏徳川氏庶流世良田姓を...世良田東照宮(群馬県)

  • 岩崎陣屋(秋田県)

    【岩崎陣屋】いわさきじんや【別名】ー【構造】陣屋【築城者】佐竹義理【築城年代】1869年(明治2年)【指定史跡】ー【場所】秋田県湯沢市地図1868年(慶応4年)佐竹義諶は拠点を椿台城から移して、岩崎城址南麓に岩崎藩陣屋を構えて岩崎藩を置きました。その後、廃藩置県以降は岩崎藩を岩崎県と改め秋田県になったため、岩崎陣屋は1873年(明治6年)に消滅しました。いわさきこども園重機がある、お奥にある建物が「いわさきこども園」です。この辺りが陣屋地であったようですが遺構は消滅しています。羽州街道の東方の山手寄りに藩庁や学館、武館があり、それらを中心に米蔵、弾薬庫、家臣の屋敷が立ち並ぶ城下町が作られていました。明治3年2月、佐竹義諶は岩崎藩の藩主となりました。義諶は近くの椿台陣屋(岩崎城)から移転し、戊辰戦争戦いぬき...岩崎陣屋(秋田県)

  • 森下城(群馬県)

    【森下城】もりしたじょう【別名】鎌田城・天神城【構造】崖端城【築城者】森下氏【築城年代】1558年ー1570年(永禄年間)【指定史跡】ー【場所】群馬県昭和村森下甲354地図鎌田城とも呼ばれ、沼田城団の一つとして造られたといわれています。1582年(天正10年)に真田氏・北条氏によって前衛の砦として利用され、北条氏邦に攻められた加藤丹波守は奮闘するも、北条の大軍勢に押され城を出て、ここより約500mほど離れた石の上で切腹し果てたという場所が今でも残っています。また、反町大膳亮幸定に討たれたという説もあり、その後北条氏の沼田城攻めの際の拠点になったとも伝わります。駐車スペースが無いので、近くで車から降ろしてもらい、徒歩で様子を見に来ました。この先、正面が郭のようですが足元にはロープが張られていて中に入って行く...森下城(群馬県)

  • 川田城(群馬県)

    【川田城】かわだじょう【別名】下川田城【構造】崖端城【築城者】川田四郎景信【築城年代】不明【指定史跡】市指定史跡【場所】群馬県沼田市下川田町792地図川田城は三浦系沼田氏6代景久の4男である川田四郎景信が分家した際に築いたと伝えられます。川田公民館から北は遷流寺、東は薬師堂にまでまたがる広大な地域で、本丸は五角形で堀を巡らせ、帯曲輪が構築された特徴的な構造でした。沼田城の西の守りとして真田軍と北条軍の激戦地であったとされ、多くの地侍が討死しています。後に、一国一城令により川田城は廃城となりました。三浦系沼田氏の祖は1247年(宝治元年)の執権北条氏・安達氏と三浦氏の争い「宝治合戦」で北条氏に追われこの地に逃れてきた三浦泰村の次男景泰と伝わります。遠景北東側から見た川田城の東先端です。半月型の小郭が突き出て...川田城(群馬県)

  • 江尻城(静岡県)

    【江尻城】えじりじょう【別名】小芝城【構造】平城【築城者】武田信玄【築城年代】1570年(永禄13年)【指定史跡】ー【場所】静岡県静岡市清水区江尻町地図江尻城は、駿河に侵攻した武田信玄が1570年(永禄13年)に築いた城です。その後、穴山梅雪は天守を築き、「観国楼」と名付け城や城下町を本格的に大改修しています。天正10年徳川家康に攻め込まれ、穴山梅雪は降伏し、江尻城は徳川の手に渡りました。その後、1600年(慶長5年)廃城となりました。本丸門「本丸門」と書かれた江尻小学校の門です。江尻小学校がある場所が本丸になります。二の丸町看板本丸門から北に向かって進むと、「二の丸町」の看板があります。二の丸はそのまま町の名前になったんですね。とりあえず学校の周りを巡ってみました。この道は堀の名残かな?案内看板小学校の...江尻城(静岡県)

  • 幕岩城(群馬県)

    【幕岩城】まくいわじょう【別名】ー【構造】崖端城【築城者】沼田泰輝【築城年代】1519年(永正16年)【指定史跡】ー【場所】群馬県沼田市柳町地図幕岩城は、1544年(天文13年)に三浦系沼田泰輝の子顕泰が沼田城を築いて移るまでの居城でした。沼田氏発祥の荘田城から小沢城へ移り、その後幕岩城での13年間を経て、沼田城へ。城域はほぼ宅地と畑になっており、あまり撮影出来る場所がみつからず、それでも先にリサーチしておいたので城址碑探しをしておりました。一度ここを通り過ぎてしまったので、戻ってここのはずだよなあと、石を覗き込んでみるとうっすら文字が見えたので「ここだあ!」と車を停めてもらい、慌てて撮影。城址碑文字が見ずらいですが「幕岩城二の丸跡」の石碑があります。遺構は無いですが、延いて言うなら今立っているこの場所に...幕岩城(群馬県)

  • 大堀山城(埼玉県)

    【大堀山城】おおほりやまじょう【別名】大堀山館【構造】平山城【築城者】扇谷上杉氏【築城年代】室町時代【指定史跡】県指定史跡【場所】埼玉県川越市下広谷332地図大堀山城は、東には南関東と北関東を結ぶ鎌倉街道と西には扇谷上杉氏の川越城と鉢形城、山内上杉氏の五十子陣をつなぐ当時のルートが交差する重要な地点に築かれた城館です。入口南側にある入口です。ここをまっすぐ入って行くと主郭です。案内看板案内看板はここの他に、ここから真裏の三の郭側にもうひとつ立てられています。主郭郭の中は竹林になっています。が、しっかり遺構が残っているのでそれなりに見ごたえあるので進んで行こう!中は広い竹林です。土塁と堀が巡っているので当時は良い感じの館があったのだと思います。西側を見ると、奥の方が一段高くなっているのが見えます。天守台でも...大堀山城(埼玉県)

  • 城峰城(群馬県)

    【城峰城】じょうみねじょう【別名】城峰塁・西中条城・西中庄要害・新域【構造】丘城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】町指定史跡【場所】群馬県中之条町西中之条604地図城峰城は、胡桃沢川と枯木沢川に挟まれた丘陵上に築かれ、嵩山城の支城であったと推定されています。しかし、城について詳しいことはわかっておらず、嵩山城が落城するとその役割も終え、存在意義が無くなった城峰城は廃城となりました。「城峰城址」の矢印看板に従ってこの道を山に向かって進んで行きます。「ほほえみ工舎」を目標に「城峰城址」の矢印看板に従ってそのまま素直に進んで行けば迷うことはありません。終点が「ほほえみ工舎」で東側が「城峰城址」です。ちなみにこの道路部分はかつて堀切になっていたと思われます。標柱と看板道路から真っすぐに見えて来るのでここが...城峰城(群馬県)

  • 嵩山城(群馬県)

    【嵩山城】たけやまじょう【別名】ー【構造】山城【築城者】不明【築城年代】室町時代【指定史跡】町指定史跡【場所】群馬県中之条町五反田地図嵩山城の築城者は不明ですが信仰の場、霊場であることが知られています。1563年(永禄6年)に、岩櫃城が真田幸隆に攻められ落城。岩櫃城主吾妻太郎斉藤越前守の子・城虎丸や吾妻衆が、上杉謙信の支援を受けて嵩山城に籠城しました。しかし1565年(永禄8年)、激戦の末に城虎丸をはじめ一族(女子供も)は大天狗の岩から飛び込んで自決し、嵩山城は落城しました。江戸期には山伏の道場として利用され神聖の場として名高い霊山です。案内看板登山道入り口、鳥居の隣に立てられた案内看板です。表登山口ここが大手道で木戸になります。神社の入口から神社までの間に城下の集落があったものと伝わります。親都神社北側...嵩山城(群馬県)

  • 古瀬間城(愛知県)

    【古瀬間城】こせまじょう【別名】巴城【構造】平山城【築城者】松平宗忠【築城年代】1506年(永正3年)【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市志賀町城山地図古瀬間城は、新城街道を見下ろす丘の上に築かれていました。浄願寺に残る位牌から、丸根城とともに松平一族の城であったと考えられています。徳川家の祖とする松平三家の織田・今川・武田と対峙する要の城でした。浄願寺駐車場浄願寺の駐車場です。こちらに駐車させて頂きました。案内看板城址公園やハイキングコースになっているので案内の看板が設置されています。城址公園にハイキングコースの南口の出入口があります。城址碑と案内看板浄願寺入口にある城址碑と看板です。ここに城があったことが一目瞭然になっています。山門お寺と公園の共同の入口となっています。表から見た時は気が付かなかったので...古瀬間城(愛知県)

  • 勝保沢城(群馬県)

    【勝保沢城】かつほさわじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】斎藤氏【築城年代】戦国期【指定史跡】ー【場所】群馬県渋川市赤城町勝保沢地図築城年代は不明ですが、城域内にある宗玄寺を開基した斎藤加賀守真氏が1590年(天正18年)に前田・上杉軍に攻略され、白井城とともに落城した後は城域の一部を寄進して宗玄寺を建立したと伝わります。勝保沢城の城主であったと思われる斎藤氏は、北条氏の勇猛な武士であり、「加沢記」では、1580年(天正8年)に真田氏の攻略を受けており、戦国期の戦乱の中、勝保沢城は居館や砦として利用されていたものと思われます。渋川市赤城歴史資料館勝保沢城の中にある渋川市赤城歴史資料館へやって来ました。駐車場もあり、資料館もあり、しかも平城なのでとにかく見学しやすい城址です。駐車場とりあえず「駐車場」の看...勝保沢城(群馬県)

  • 賤ケ岳城(滋賀県)

    【賤ケ岳城】しずがたけじょう【別名】賤ケ岳砦【構造】山城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】滋賀県長浜市地図本能寺の変により織田信長の死を知らされた羽柴秀吉は中国大返しを敢行、山崎の戦いで首謀者の明智光秀を討つと、織田家では羽柴秀吉と柴田勝家が対立し賤ケ岳の合戦へと発展。賤ケ岳城は、賤ケ岳の戦いよりも以前に築かれていた城であることが「信長公記」にみられます。山頂近くまでリフトで登ることが出来ます。遠景正面に見える山が賤ケ岳です。頂上の樹が伐採されていて、山に一直線にリフトのラインが見えています。駐車場麓のリフト乗り場駐車場に到着。リフトが午前9時から稼働ということで、9時になる前に他の城に寄り道をしてからやって来ました。この日は天気も良かったので、この後すぐに満車になりました。リフト乗り場...賤ケ岳城(滋賀県)

  • 丸根城(愛知県)

    【丸根城】まるねじょう【別名】牛野城【構造】平山城【築城者】不明【築城年代】室町時代末期【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市野見町7丁目地図丸根城は、室町時代末期の城と推定されています。城は三つの郭から成り、堀・土塁・井戸などの遺構が良好に残っています。築城主は不明ですが、周囲を治める松平氏の一族の城とも考えられています。駐車場右の側道に入ってすぐに駐車場があります。ここに車を置いて公園の方へ。城址碑道下に城址碑がありました。空掘城址碑の隣には空堀があります。結構な幅があり、しっかり形が残ってます。虎口現在はアスファルトで舗装がされていますが、両側に空堀があるということはかつては土橋か木橋が架けられていたものと想像します。空堀このように掘り込んであります。ちなみにこの堀底は下の県道から登って来る通路にもなっ...丸根城(愛知県)

  • 諏訪原城(静岡県)

    【諏訪原城】すわはらじょう【別名】諏訪之原城・牧野城・牧野原城・扇城・金谷城【構造】山城【築城者】馬場信春【築城年代】1573年【指定史跡】国指定史跡【場所】島田市金谷地図【スタンプ設置場所】諏訪原城第一駐車場パンフレット置き場(終日利用可)【城郭検定】出題あり諏訪原城跡は、武田信玄が砦を築き、その後1573年(天正元年)、徳川家康に対する備えとして、武田方の家臣である馬場美濃守信房に命じて、築いた城郭です。城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と名付けられました。1575年(天正3年)、徳川家康によって落城すると牧野城(牧野原城)と改名され武田方に渡った高天神城を攻略するための拠点となりました。1581年(天正9年)高天神城が落城、武田氏が滅亡すると諏訪原城も役目を終え、1590年(天正18年)頃...諏訪原城(静岡県)

  • 大草城(愛知県)

    【大草城】おおくさじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】山田重忠【築城年代】鎌倉時代【指定史跡】ー【場所】愛知県長久手市郷前地図大草城は、山田荘の地頭山田重忠氏が築城したと伝わります。その後、天正期に森長可が城の改築を行い、福岡新助を城代としています。小牧長久手の戦いでは、秀吉軍の池田恒興と森長可が家康軍に敗れ、秀吉軍の兵、1000人ほどが大草城まで逃げて籠城したことでも知られています。駐車場城址碑の案内看板に従って行くと、熊野社への入り口を入ったところに2台ほどの駐車スペースがあります。城址碑駐車場に車を停めた正面に城址碑があります。大草城は「尾張志」に「大草村西之島といふ地にあり西北二方は山を垣とし東南は二方ともに深谷を境とす、右城内城内東西廿間、南北廿間あり城主は福岡新助也と土人いへり此界内も城之...大草城(愛知県)

  • 桜城(愛知県)

    【桜城】さくらじょう【別名】挙母城・衣城・佐久良城・七州城【構造】平城【築城者】三宅康長【築城年代】1614年(慶長19年)【指定史跡】市指定史跡【場所】愛知県豊田市元城町1丁目51地図桜城は3回城が築かれ、最初に三宅康長が金谷城を廃して桜城を築城しました。その後廃藩となり破却となった城跡に、1683年(天和3年)本多忠利が陣屋を築きました。1756年(宝暦6年)になると、上野国安中藩3代目藩主内藤政苗が築城を開始しますが矢作川が氾濫し、水害に躊躇われたため七州城へ移転しました。桜城には沢山の桜の木が植えられたことから「桜城」と呼ばれるようになりました。桜城址公園現在桜城址公園となっているこの場所は、内藤氏時代の頃の二の丸にあたる場所です。内藤氏は二万石で入封し、幕府より4千両得て工事を開始しました。度重...桜城(愛知県)

  • 金谷城(愛知県)

    【金谷城】かなやじょう【別名】衣城【構造】平山城【築城者】中条景長【築城年代】1308年(延慶元年)【指定史跡】市指定史跡【場所】愛知県豊田市金谷町1丁目地図金谷城は、室町幕府奉行衆であった中条景長が築いた城と伝わります。井田野合戦で敗北すると、急速に衰退し中条氏は織田信長によって滅ぼされました。その後三宅康貞が入城し、桜城を築くと金谷城は廃城となりました。金谷勝手神社城址碑があるという金谷勝手神社へやって来ました。この神社も城域の一部ではあるのですが、主な城跡はここより東側にある林の中です。城址を横断するように名鉄三河線が通っているのでその部分の遺構は破壊されています。金谷勝手神社は、鎌倉時代中期に中条氏の鎮守として建立されました。総本社は、奈良県吉野町にある勝手神社で全国に28の分社があるうちのひとつ...金谷城(愛知県)

  • 岩作城(愛知県)

    【岩作城】やざこじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】不明【築城年代】14世紀頃【指定史跡】ー【場所】愛知県長久手市岩作城の内地図岩作城は、発掘調査により14世紀から17世紀にかけて存在したものと推定され、長久手の戦いで岩崎城に籠城し、戦死した今井氏の居館であったと考えられています。城址碑ここは、長久手市役所です。長久手市役所のあるこの場所は、城の内という地名が残っています。石碑の裏に説明文がありますが、ざっくりとしていて結局のところ、詳しいことは分からないです。場所が市役所ということで駐車場をお借りしました。周囲を見ると川や池があるので、湿地帯を堀として利用していたのかなあとも想像します。やっぱり城跡って学校や公共の施設が建ってしまうのですね。仕方のないことですが。令和4年10月30日登城愛知の教科書(...岩作城(愛知県)

  • 狩宿城(愛知県)

    【狩宿城】かりじゅくじょう【別名】狩宿古村城【構造】平城【築城者】林弥助【築城年代】1324年~1326年(正中年間)【指定史跡】ー【場所】愛知県尾張旭市狩宿町4丁目17地図狩宿城は尾張旭七城のひとつで、詳しいことはわかっていませんが林弥助の城と伝わります。1661年~1673年(寛文年間)には既に古城とされ、江戸時代には百姓屋敷になっていました。農民の中でも裕福な階層の人が居住していたのではないかと推測されています。狩宿第2ちびっ子広場狩宿第2ちびっ子広場に案内看板があるということでこの公園にやって来ました。公園では親子で遊んでいるところにお邪魔しました。案内看板公園内にある案内看板。狩宿村絵図この絵図から見ると位置的には、城域はこの場所よりもう少し南にあったようです。狩宿観音堂絵図に描かれていた「観世...狩宿城(愛知県)

  • 田代城(愛知県)

    【田代城】たしろじょう【別名】ー【構造】丘城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市下山田代町入北切地図田代城は足助七城のひとつで、ここ田代城は居館とし、戦時の拠点は「京ヶ峰」にありました。大沼城と同様に1574年(天正2年)、または1571年(元亀2年)に甲斐の武田軍に攻め落とされています。そのほか、城の歴史に関しては詳しいことはわかっていません。案内看板また城址の真下の道でGoogleマップにリリースされたのですが、よくあることなので、なんとなく匂いのする方へ来てみたら案内看板がありました。矢印の看板に従って行くと行けるようです。見落とさないようにここで曲がりましょう。登城口さて、矢印はどうやらこのすすきの中へと案内しているようです。道…よ~く見るとあるんですよ。(来たことある...田代城(愛知県)

  • 瀬戸川城(愛知県)

    【瀬戸川城】せとがわじょう【別名】しろんど城【構造】平城【築城者】浅井源四郎【築城年代】13世紀頃【指定史跡】ー【場所】愛知県尾張旭市瀬戸川町1丁目地図江戸時代(天保12年)の瀬戸川村絵図には古城と記されたものが残っています。城主の浅井氏は井田城城主の一族で、浅井玄蕃允の弟である浅井源四郎の居城だと伝わります。発掘調査により、東西約45m、南北約55mの平城跡が確認されています。出土したものから推測すると16世紀中頃まで使用されていたものと思われます。また、尾張旭七城のひとつとされていますが、現在遺構は残っていません。城址碑と案内看板尾張旭市立三郷小学校の南西角にある城址碑と案内看板です。手掛かりとなりそうな愛知用水を探したのですが、近くに見当たらず縄張もわからないほどに地面はアスファルト化していて名残す...瀬戸川城(愛知県)

  • 大沼城(愛知県)

    【大沼城】おおぬまじょう【別名】ー【構造】山城【築城者】木村安信【築城年代】1469年~1487年(文明年間)【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市大沼町八沢地図大沼城は、足助七城のひとつとされる城です。初代城主木村安信は信仰が厚く、麓に入宝山神宮寺を建立しています。二代目新九郎信元は甲斐の武田軍に攻め落とされ、討死しています。その後、大給城城主松平乗元の二男松平親清が城主となり、跡を継いだ近正は徳川家康の旗本で武功をたて、上州三の倉に五千石を賜り上州へと移りました。登城口道が整備されているのを見ると、登りやすそうにみえるのですが、とにかく暗くなってきているので今回は見送ることにします。奥に見える看板には「本丸跡まで130mガンバッテ登ってね」と書いてあるのが微笑ましい。しかし、距離は短いが急な登りを想像して...大沼城(愛知県)

  • 井田城(愛知県)

    【井田城】いだじょう【別名】尾張井田城【構造】平城【築城者】浅井玄蕃充【築城年代】1390年~1394年(明徳年間)【指定史跡】ー【場所】愛知県尾張旭市井田町4丁目地図井田城は、寛文年間にまとめられた「寛文村々覚書」に古城跡とされており、既にこの頃には廃城になっていました。発掘調査では堀と土塁、井戸跡やかまど跡などがみつかっており、瀬戸焼、美濃焼などの室町時代以降の茶碗なども多く出土しています。八反田公園城跡は公園化し、遺構は残っていません。トイレトイレの方を見ると、少し盛り上がっているのが見えます。古くから城山と呼ばれていたように、周囲の田畑より城域は高くなっていたと思われます。その当時の名残なわけではないのでしょうが、そこには城址碑が立てられています。案内看板看板や城址碑が見える位置にやって来ました。...井田城(愛知県)

  • 新庄城(山形県)

    【新庄城】しんじょうじょう【別名】沼田城・鵜沼城【構造】平城【築城者】戸沢政盛【築城年代】1625年(寛永2年)【指定史跡】市指定史跡【場所】山形県新庄市堀端町地図新庄盆地のほぼ中央に位置し、江戸時代初期に最上氏が領地を没収されると新庄に6万石で入った戸沢政盛が羽州街道の西にある湿地帯に新庄城を築城しました。創建当時は三重の天守を持つ近世城郭でしたが、1629年(寛永6年)に火災によって焼失。すぐに再建するも、1636年(寛永13年)に再び火災により天守を含む本丸、二の丸が炎に包まれてしまいました。その後、城は再建されましたが天守が再建されることはありませんでした。二の丸跡駐車場が本丸にあるので、二の丸側から乗り入れることになります。こちらは二ノ丸内屋敷になり、西の丸とも呼ばれていました。虎口本丸と二の丸...新庄城(山形県)

  • 漆窪城(群馬県)

    【漆窪城】うるくぼじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】長尾氏【築城年代】1558年~1570年(永禄年間)【指定史跡】ー【場所】群馬県前橋市富士見町漆窪地図漆窪城は、舌状台地の先端に築かれた城です。永禄年代に長尾大膳が居城したと伝わり、現在も遺構が良好に残っています。大膳は石倉城主である長尾景善の弟で、大膳の養子となって石倉から移住して大膳を襲名したと伝わります。道になっている部分が堀跡になります。櫓台のような高まりのあった場所に城址碑と看板が立っています。堀跡再び城址碑のところまで戻って来ました。城址碑の西側にある道もまた堀跡です。舌状台地の先端の方へと延びる二の郭。城域にあるソーラー。主郭頂上ではなく、中間に位置しています。追手虎口一番長い堀の東先端に着く追手の虎口。三の郭を覗きに行って見ましょう...漆窪城(群馬県)

  • 津久田城(群馬県)

    【津久田城】つくだじょう【別名】ー【構造】崖端城【築城者】狩野氏【築城年代】室町時代後期【指定史跡】ー【場所】群馬県渋川市赤城町津久田地図津久田城は、加沢記によると代々狩野氏の居城であったと考えられます。白井城の支城で、「つなぎの城」として利根川沿いに侵攻する敵に対しての守備の役割を果していました。元亀・天正の戦乱期には上杉・武田・北条の戦乱の渦に巻込まれ、天正18年、豊臣秀吉の配下にある前田利家・上杉景勝による白井城攻略に際し、本城の白井城とともに落城し、廃城となりました。看板を探してみたのですが、どうやら本丸にある住宅の裏手の方にあるらしくGoogleマップでは住宅の裏の方にそれらしきものが見えるのですが、到底入って行けない…。残念ですけどここで暮らす方々の身になってみると、それは致し方ないことです。...津久田城(群馬県)

  • 入沢城(群馬県)

    【入沢城】いりさわじょう【別名】渋川城【構造】丘城【築城者】足利義顕【築城年代】鎌倉時代【指定史跡】ー【場所】群馬県渋川市渋川入沢地図入沢城は、鎌倉時代に渋川氏の祖足利義顕がこの地を領して城を築いたとことでかつては渋川城と呼ばれていました。天文13年豪族入沢氏が信州から移住して本丸跡に館を築き、入沢の地名を起こしたことで入沢城とされます。弘治3年入沢氏は吾妻大戸城主より軍功により渋川の西北を拝領し元亀・天正年間に武田信玄・勝頼二代の家臣となり仕えます。天正末期には武田氏滅亡から北条氏に仕えるも、北条氏も滅亡すると入沢城を廃城とし、慶長の初めに帰農しました。東(渋川市街方面)から西へ登り始め、畑が見える台地にさしかかると左手に城址碑が見えました。元屋敷山崎一氏の縄張図によると元屋敷と記されている場所です。こ...入沢城(群馬県)

  • 井出館(静岡県)

    【井出館】いでやかた【別名】井出代官屋敷【構造】館跡【築城者】井出氏【築城年代】鎌倉期【指定史跡】市指定文化財【場所】静岡県富士宮市借宿91地図井出氏は鎌倉時代この地に居住した小土豪でしたが、富士大宮司家に仕え、今川、武田氏に従属。今川義元から代官を命じられ、大宮宮中奉行職を安堵しています。武田信玄の駿河侵攻時には、今川・武田・北条の戦乱に巻き込まれ、一族はそれぞれに分散ししました。井出館は、1193年(建久4年)に源頼朝が富士の巻狩りに立ち寄ったことが「吾妻鏡」に記されていることが知られています。今年は大河ドラマでも話題になった場所です。ここに駐車場もあります。狩宿の下馬ザクラ桜が有名らしく、以前テレビで見て以来ずっと来よう!と思っていた場所です。ならば、桜の時期に来いよ!となるところですが、私の目的は...井出館(静岡県)

  • 長峰城(新潟県)

    【長峰城】ながみねじょう【別名】雁子城【構造】平山城【築城者】那須氏【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】新潟県上越市吉川区長峰地図1616年(元和2年)高田藩主松平忠輝が改易後に上野国2万石の大胡城主牧野忠成が5万石で入封し、この地に長峰城を築城しました。その2年後には、6万2千石で長岡城へ移封となり長峰城は廃城となりました。駐車場長峰池繁船広場の駐車場へ車を停めて、散策です。右手の林が城址となっています。案内看板駐車場と隣接して、高い土塁と足元には空堀があります。西土塁の高さは約14mもあり、群馬の大胡城を思い出させる造りになっています。空堀現在は浅いですが、かつてはもっと深かったであろう空堀です。深い堀と高い土塁を組み合わせて圧倒させるような造りになっていたことが想像出来ます。道路脇から堀と土塁をセ...長峰城(新潟県)

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