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オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記 https://blog.goo.ne.jp/nazox2016

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツや

オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記
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2016/03/17

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  • 新・幻の「アタミセンター」を求めて(4):初日の記録その3

    【前回のあらすじ】●初日の午後、図書館を出て、熱海のレゲエスポット「和田たばこ店」と、熱海に唯一残る射的場「ゆしま遊技場」を巡ったが、収穫と呼べるものはなかった。●「加奈」の近くにある開業75年の老舗喫茶店「ボンネット」で、・アタミセンターはキャバレーだった時期がある。・アタミセンターは射的屋だった時期がある。・加奈は開店当初から1Fだった。とのお話を聞くことができた。*****************************「ボンネット」を出たのが午後2時半ころ。そろそろチェックインが始まる頃合いなので、ホテルに向かいました。今回宿泊する「ニューフジヤホテル」は、図書館や加奈のすぐ近くという格好の立地だっただけでなく、朝食付きで8000円ちょっと(但し部屋の眺望は無し)と、コロナ禍前のラスベガスの中堅ホ...新・幻の「アタミセンター」を求めて(4):初日の記録その3

  • 新・幻の「アタミセンター」を求めて(3):初日の記録その2

    【前回のあらすじ】「アタミセンター」の謎解明のため熱海市立図書館で地図を調べたところ、蔵書としては最古の1961年版に「アタミセンター」の名があった。しかし、「アタミセンター」は70年代の地図にもその名前が残されており、どうやら「アタミセンター」が「スーパーホームランゲーム」の「直営宣傳場」だったのはその歴史の一時期に限定されるらしいことがわかった。*****************************図書館での調査はひとまず終え、今夜資料を整理して不足があればまた明日来ることにして図書館を出たのは昼の12時頃でした。ところで熱海には、知る人ぞ知るレゲエスポット「和田たばこ店」があると常々聞いていました。図書館から和田たばこ店までは約1kmとのことなので、ひょっとすると「アタミセンター」や「三協音機」...新・幻の「アタミセンター」を求めて(3):初日の記録その2

  • 新・幻の「アタミセンター」を求めて(2):初日の記録その1

    3月15日金曜日、横浜駅9時24分発の踊り子3号に乗車。特急料金(1020円)は貯まっているJREポイントで支払うが、期間限定キャンペーン中とのことで、通常720ポイントのところ500ポイントで済んだ。熱海到着は10時20分。成田空港に行くより早い。熱海は、バブル崩壊以降観光客が年々減少しているとか、2000年代半ばには財政危機宣言が出されたなど景気の悪い話ばかりが耳にしていたので、寂れた斜陽の観光地をイメージしていたけれど、到着してみれば平日の午前だというのに駅前のアーケード商店街はかなりの賑わいが見られました。興味深い店が次々と目に入りつい立ち止まって覗きたくなりますが、明日の帰り道でまたここを通ると自分に言い聞かせ、後ろ髪を引かれる思いでほぼ素通りして熱海市立図書館に向かいます。スマホの地図を頼りに...新・幻の「アタミセンター」を求めて(2):初日の記録その1

  • 新・幻の「アタミセンター」を求めて(1):これまでの経緯

    ワタシは長年、国産初のフリッパー・ピンボール機はこまや社が1965年にリリースした「クレイジー15」であると信じ切っていました(関連記事:初期の国産フリッパー・ピンボール:「クレイジー15ゲーム」)。こまやのクレイジー15(1965)。フリッパーで弾き返したボールが入った穴の番号でビンゴゲームを行う。ワタシは長い間これが国産初のフリッパー・ピンボールゲームだと信じていた。ところが昨年の11月、拙ブログではお馴染のカナダのCiatlynから、「日本のネットオークションにこんなモノが出ている」と、「スーパーホームランゲーム」のフライヤーの存在を知らされました。Caitlynの調査によれば、この機械は1948年製の米国製品のコピーであるようで、もしこれが「クレイジー15」よりも古いとすれば、シーラカンスの発見に...新・幻の「アタミセンター」を求めて(1):これまでの経緯

  • レトロゲームサミット (略称レゲット)に行ってきた

    昨日の3月23日(土)、京急蒲田駅近くの展示場、「大田区産業プラザ」で開催された、「レトロゲームサミット(略称レゲット)」に行って来ました。「レトロゲーム」をテーマに、同人誌や製作物の物販ブースが並ぶ、ごく小規模なコミックマーケット(コミケ)のようなものです。入場料は1000円で、前日までにオンラインでチケットを購入するという形になっていました。レトロゲームサミット(レゲット)の、今回のポスター。ワタシはかつて、埼玉県で行われた類似の催しに行ったものの、メインと期待していたブースはなぜか不在で他に興味を惹く出展もなく、ほぼ無駄足となった経験があります。その時の来場者はまばらで、今回もそれと大差あるまいと多寡を括っていたのですが、開場20分前に現地に到着してみると長蛇の列ができていました。しかも、並んでいる...レトロゲームサミット(略称レゲット)に行ってきた

  • 「三協音機」って知ってる?(番外):「天龍工業」って知ってる?

    前々回記事で「まるで見当がつかない」と言っていた機種の一つが、「天龍工業」の「クレミー」というクレーンゲーム機であることが、「しいたけと猫が好き」のオーサー、accs2014さんのご指摘で判明しました。どうもありがとうございます。前々回記事で「まるで見当が付かない」と言っていた3機種のうち、①が天龍工業の「クレミ―」であることが判明。「クレミ―」のさらに鮮明な画像は、「しいたけと猫が好き」のこちらの記事でも見ることができます。accs2014さんの「しいたけと猫が好き」より拝借した、水上温泉「ホテル松泉閣」のパンフレットの一部。右端に「クレミ―」が写っている。「クレミー」の名は、かつてある方から頂いたフライヤー画像の中で見ていた覚えはありましたが、今確認するとその商品名は「ロボットクレミーCR-7」と言っ...「三協音機」って知ってる?(番外):「天龍工業」って知ってる?

  • 「三協音機」って知ってる?(2)

    前回は「三協音機」という会社が頒布したフライヤーの表紙に写る機械とそのリリース年を特定しました。いくつかは特定できなかったものもありましたが、判明したものの中で最も新しい機種は1966年製のジュークボックスでした。今回はフライヤーの2ページ目以降について、同様に掲載機種の製造年を特定してフライヤーの頒布時期を推測して行こうと思います。2ページ目には7台のジュークボックスが並んでいます。そのうち左の5台はシーバーグ社製、右の2台はAMI社製です。三協音機のフライヤーの2ページ目。ジュークボックスにも熱心なコレクターが多く、そのような人々にとってはこれらもお宝になるのでしょうが、ワタシ個人には残念ながらそれほど興味を惹く分野ではなく、知識はあまりありません。それでも機種名が判明しているので調査は楽で、上段の三...「三協音機」って知ってる?(2)

  • 「三協音機」って知ってる?(1)

    以前、拙ブログをご高覧下さっていた方からいただいたたくさんのフライヤー画像の中に、「三協音機株式会社」というこれまで聞いたこともない会社のものが1枚、紛れ込んでいました。頒布時期は不明でかなり古そうだという事しかわからず、かねてより気になっていました。三協音機が頒布した二つ折り4ページのフライヤー。上が表紙と裏表紙、下が中身。ここに掲載されている機械はどれもかなり古そうに見える。「三協音機」を遊戯機械年鑑【注】で調べると、その名が初めて現れるのは「'74-'75遊戯機械名鑑」(1974)で、以降「'80遊戯機械総合年鑑」(1980)まで記載されています。それによると、熱海市梅園(ばいえん)町の企業で、設立は昭和41年(1966年)の4月とのことです。遊戯機械年鑑は1969年に初めて刊行され、以降72年、7...「三協音機」って知ってる?(1)

  • 幻の「アタミセンター」を求めて(5):最終回

    (前回のあらすじ)「加奈」とその周辺の歴史を調べるうちに、この界隈はかつて「赤線地帯」で、「アタミセンター」も元は赤線の主たる業態である「カフェー」だったらしいことがわかった。これにより「アタミセンター」の開業は古ければ赤線が廃止された1958年前後まで遡る可能性が出てきたが、「浜町」の消滅時期は依然として不明なので、ついに最後の手段として行政機関に問い合わせることにした。****************************行政に問い合わせるとしたら熱海市のどこに聞くのが妥当か見当を付けようと熱海市の公式ウェブページを彷徨っていると、「問い合わせ専用フォーム」なるものを発見したので、そこから、「熱海市にかつて存在した浜町が消滅した時期をご教示願いたい」旨の質問を書き込み送信しました。待つことおよそ1週...幻の「アタミセンター」を求めて(5):最終回

  • 幻の「アタミセンター」を求めて(3):「加奈」以前の浜町

    (前回のあらすじ)「浜町」が現在の銀座町の一部であることを突き止め、Googleマップのストリートビューでその一帯を見て回っていたところ、疑問点はあるものの「アタミセンター」とよく似た看板建築を発見した。調べるとそこは1973年に開業した「加奈」と言う喫茶店だったが、それ以前は別業種の営業が行なわれていたらしい。「加奈」は2016年に店主が急逝して以降営業されていない。****************************「加奈」以前を調べているうちに、旧浜町を含む銀座町やその周辺一帯は、かつて「赤線地帯」であったことを知りました。「赤線」とは、営業許可を得ていない私娼による売春が黙認されていた区域のことで、敗戦後の1946年から1958年まで日本各地に存在しました。改めて熱海の旧赤線地帯をGoogle...幻の「アタミセンター」を求めて(3):「加奈」以前の浜町

  • 【ロケーション】幻の「アタミセンター」を求めて(2):旧浜町で発見した看板建築

    (前回のあらすじ)「アタミセンター」の所在地とされている「熱海市浜町」は現存しない。その消滅時期次第では「スーパーホームランゲーム」は「クレイジー15」よりも早かったことの証明になると考えてネット上を検索するが、見つかるのは「浜町通り」、「浜町観光通り商店街」、さらに渚町及び銀座町のそれぞれの一部で構成される「浜町町内会」など、「浜町」の「名残り」だけだった。****************************次にワタシは、古い地図をネット上で調べて「浜町」の記載が途切れる年を割り出そうと考えました。これならさほど苦労することもあるまいと高をくくっていましたが、しかし町名まで記載されている古い地図は思いのほかみつかりません。あちこち探してようやく一つ、国会図書館の蔵書「日本都市地図全集第3集(人文社、...【ロケーション】幻の「アタミセンター」を求めて(2):旧浜町で発見した看板建築

  • 幻の「アタミセンター」を求めて(1):失われた町、浜町(熱海市)

    「アタミセンター」とは、かつて静岡県熱海市にあった娯楽施設の名称です。昨年11月、拙ブログでおなじみのCaitlynがネットオークションで発見した「東洋プレーイングマシン」社の「スーパーホームランゲーム」というフリッパー・ピンボール機のフライヤーにその外観が見られます。電飾が煌々と光り輝く「アタミセンター」の外観。向かって右側面の外壁には「ホームランゲーム」の看板が見える。二つ折り4ページで構成される「スーパーホームランゲーム」のフライヤーの、裏表紙に当たるページの部分。Caitlynは、「スーパーホームランゲーム」は1948年に米国Exhibit社がリリースしたフリッパー・ピンボール機「Banjo」もしくは「Samba」のコピーに見えることから、「これは1965年に発売されたこまやのクレイジー15よりも...幻の「アタミセンター」を求めて(1):失われた町、浜町(熱海市)

  • 【補足情報】SEGA RETROさん、それ違うってば!のフォロー

    前回記事「SEGARETROさん、それ、違うってば!」をアップした翌日の1月29日(月)朝、お馴染のCaitlynからメッセージが届き、「SEGARETROの記事を書いた人もあなたの最新の記事を読み、元ネタを事実であるかのように理解していたと恥じ入り、SEGARETROの方は修正すると言っている」と教えてくれました。まずは知らせてくれてありがとう、Caitlyn。「SEGARETRO」の記事を書かれた方、ご理解下さりありがとうございます。もしあなたがワタシのあの記事で多少なりとも傷ついたのであれば大変申し訳なく思います。あの記事の意図は、ワタシのブログに起因する誤解に基づいた歴史が海外のウェブサイトで紹介されていることへの危惧と、その誤解を解く能力がワタシに欠けている焦りを表明するにとどまるもので、誤解を...【補足情報】SEGARETROさん、それ違うってば!のフォロー

  • SEGA RETROさん、それ違うってば!のフォロー

    前回記事「SEGARETROさん、それ、違うってば!」をアップした翌日の1月29日(月)朝、お馴染のCaitlynからメッセージが届き、「SEGARETROの記事を書いた人もあなたの最新の記事を読み、元ネタを事実であるかのように理解していたと恥じ入り、SEGARETROの方は修正すると言っている」と教えてくれました。まずは知らせてくれてありがとう、Caitlyn。「SEGARETRO」の記事を書かれた方、ご理解下さりありがとうございます。もしあなたがワタシのあの記事で多少なりとも傷ついたのであれば大変申し訳なく思います。あの記事の意図は、ワタシのブログに起因する誤解に基づいた歴史が海外のウェブサイトで紹介されていることへの危惧と、その誤解を解く能力がワタシに欠けている焦りを表明するにとどまるもので、誤解を...SEGARETROさん、それ違うってば!のフォロー

  • SEGA RETROさん、それ、違うってば!

    先日、ブログの管理者画面を見ていたところ、拙ブログに海外のウェブサイト「SEGARETRO」からアクセスがあったことに気づきました。「SEGARETRO」は、「1940年代から今日までのセガについて可能な限りすべてをカバーすることを目指し」、「現在38,701件の記事がある」(トップページより)とのことで、レトロゲームファンには興味深い記事が多く、ワタシもこれまでしばしば参照させていただいています。SEGARETROのトップページ。拙ブログへのリンクが「SEGARETRO」のどこに張られているのかとクリックしてみると、回胴式遊技機の嚆矢であるオリンピアを販売運営していた会社を説明する記事「Olympia(company)」からでした。しかし、この「Olympia(company)」は事実に基づかないいわゆ...SEGARETROさん、それ、違うってば!

  • 【小ネタ】ラスベガスで大当たりを当てた時の税金の話

    拙ブログは2021年6月、「プログレッシブ・ジャックポットの進化の話」の中で、歌手の田端義夫さんがラスベガスで29万ドルの大当たりを引き当てたエピソードをご紹介して、「(当時のNHKの報道では)アメリカと日本の両方でかなりの額が税金に消えそう」と報じらている、としましたが、具体的にどのくらいのお金が田端さんの手元に残るのかは明言されておらず、下々としては気になるところでした。先日、国会図書館でアサヒグラフのバックナンバーを眺めていたところ、偶然にもこの大当たりの記事を発見しました。アサヒグラフ1979年9月14日号の、田畑義夫さんのジャックポットを報じる記事。モノクロだが見開き2ページで紹介されている。この記事によると、田畑さんの奥方はメリーさん、ご息女はジャニスさんとおっしゃるとのことで、田畑さんは当時...【小ネタ】ラスベガスで大当たりを当てた時の税金の話

  • 【補足】前回提示したいくつかの謎について続報

    前回の記事「【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり」の中で「よくわからない」と言っていた部分について、ご高覧くださった方々からSNSやコメントなどでいくつかの情報をいただきました。どうもありがとうございます。そこで今回は、前回の補足としていただいた情報を整理、記録しておこうと思います。*************************まずはセガが作ったBallyのコピー品について。ワタシが知る限り、セガはBallyのコピーと思しきスロットマシンを3機種作っています。一つは前回の記事でご紹介した「ボーナスライン」、残りのふたつは「ボーナスツイン(BonusTwin)」と「ラッキーダブル(LuckyDouble)」です。しかし、これらがいつごろ作られたものなのかは今までずっと謎でした。「ボ...【補足】前回提示したいくつかの謎について続報

  • 【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり

    今年2024年は、初の国産メダルゲーム機「シルバーフォールズ」(関連記事:初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ)が発売されてから51年目となります。セガは、シルバーフォールズが発売された翌1974年に、おそらく日本初のメダルゲーム機の総合カタログを頒布しました。セガが1974年に頒布したメダルゲームカタログ。二つ折り全4ページで構成されている。「総合カタログ」とは言っても、なにしろまだメダルゲームは国産化が始まったばかりなので、それほど多くの製品はありません。嵩を増やすため(もしくは在庫処理のため)に、スロットマシンとして製造したウィンザーシリーズをメダルゲームに転用することは理解できますが、「アスコット」、「ボーナスライン」、それに「ファイブスター96」の3製品については詳しいことがわかりません。...【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり

  • 「パチンコ百年史」(アド・サークル, 2002)を勝手に検証する

    「パチンコ百年史」と言うムックがあります。パチンコの業界誌を発行するアド・サークル社が2002年に刊行した、全180ページに及ぶパチンコの歴史本で、表紙には山田清一氏と今泉秀夫氏の両氏を「責任編集」としてあります。パチンコ百年史の表紙今回は、この「パチンコ百年史」に見られる2カ所の疑わしい部分について検証しようと思います。******************一つ目は、カナダのCaitlynから届いたメッセージで気づいたものです。彼女は、「この本(パチンコ百年史)に、昭和30年代の日本にコインプッシャーが持ち込まれ、その後禁止されたとあるが、この件について何か聞いたことがあるか」と聞いてきました。ワタシは、この時期の日本でプッシャーがギャンブルに使われたとの話をこれまで一度も見聞したことがなかったので、新鮮...「パチンコ百年史」(アド・サークル,2002)を勝手に検証する

  • 名前通り天国のようなHeavenly(埼玉県羽生市)に感謝を

    「Heavenly」は、埼玉県の北東部、群馬県に接し栃木県にもほど近い羽生市にある、極めて特殊なロケーションです。ワタシは昨日(12月16日)、こちらを訪問してまいりました。赤い点が羽生市の位置。ワタシの家(青い点)からは電車を乗り継いで2時間ほどかかる。Heavenlyには全部で百数十台のピンボール機があり、全て無料で遊ぶことができます。Heavenlyは風俗営業の許可を得ていないので、お金を取ってしまうと違法な無許可営業となってしまうからです。実はHeavenlyは、個人のピンボールコレクターが「個人的には無料でもピンボールをやってもらえたら楽しいなぁみたいなフワっとした動機」で始めた(Heavenlyの公式ブログより)という、まさに神様のような篤志家が、これに賛同する天使のようなボランティアスタッフ...名前通り天国のようなHeavenly(埼玉県羽生市)に感謝を

  • 【衝撃!】国産初のフリッパーゲーム機に従来の説を覆す大発見?

    前回までラスベガス巡礼の記録を7回に渡って掲載している間に、拙ブログではおなじみのカナダのCaitlynから、「このオークションに友人と入札しようと話し合っているのだが」と、日本のネットオークションに関する相談を受けました。そのオークションはワタシにとっても非常に興味深いものだったので、「ワタシもオークションに協力したい」と返答し、まずはその時点でビッドできる最低額で入札しました。オークションはそのまま終了直前まで平穏に進んでいたのですが、終了15分前くらいから動きが活発になり、最終的には我々が想定するよりもはるかに高い額に跳ね上がってしまって、残念ながら勝つことはできませんでした。オークションサイトのスクリーンショット。終了寸前まで1100円だったものが最後に51000円まで高騰して終了した。このオーク...【衝撃!】国産初のフリッパーゲーム機に従来の説を覆す大発見?

  • 新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(7) DAY 5・事実上の最終日

    本日の予定:①日中はダウンタウンと、これまで行ってなかったストリップエリア西側でゲームをする。③夜9時から、9月にオープンしたばかりの球形アリーナ「スフィア(Sphere)」でショウ鑑賞。③日が変わって翌日未明2時にはホテルを出て帰国の途に就く。**************・朝からダウンタウンの最新カジノホテル「サーカ(Circa)」を覗く。かつての老舗「ラスベガスクラブ(LasVegasClub)」は、今やストリップエリアに引けを取らない、ゴージャスなハイエンドカジノホテルに生まれ変わってしまった。ラスベガスクラブ時代(上)と現在(下)の比較。これも時代の変化というべきなのだろうが、ワタシ個人としては嬉しくない。・同行者を引き連れてCircaの中を通過し、Boyd系列のカリフォルニアとメインストリートス...新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(7)DAY5・事実上の最終日

  • 新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(6) DAY 4・ローカルカジノ巡り

    本日の予定:①午前中はG2E最終日の今日だけ一般公開するというAristocratを覗く。②以降は南のGreenValleyRanchを始点に、ボウルダーハイウェイを北上しながらいくつかのローカルカジノを巡る。③ハンバーガー店「FiveGuys」で夕ごはん。本日の順路マップ。①VenetianExpo(G2E会場)②GreenValleyRanch③JokersWild④Sam'sTown⑤BoulderStation⑥FiveGuys(夕食)①G2EのAristocratブースに入場。詳細は前々回の記事「新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(4)DAY3・G2E(前半)」で言及。②G2E後はローカルカジノを巡る。まず昼前にGreenValleyRanchに到着。ここはStationCasinos社...新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(6)DAY4・ローカルカジノ巡り

  • 新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(5) DAY 3・G2Eショウ(後半)

    ****************先週に引き続き3日目G2Eの記録その2◆ARUZE・今年の2月に破産申請をしたARUZEだったが、スロットマシン部門は同業の「PlaySynergy」社に買収され、そのPlaySynergy社は今回のショウに「ARUZE」の名で出展してきた。これはショウの後で知ったことだが、今後PlaySynergyはARUZEの名で商売をしていくとのこと。・余談だが、破産前のARUZEが力を入れていたETG(ElectoricTableGame)部門は同業大手の「Interblock」に買収されたとのことだが、今年のInterblockのブースは完全クローズド展示で入ることができず、状況の確認はできなかった。①今回のARUZEのブース全体。かつてと比較するとずいぶんと小規模になってしまっ...新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(5)DAY3・G2Eショウ(後半)

  • 新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(4) DAY 3・G2Eショウ(前半)

    3日目の今日は今回の巡礼のメインイベント、G2E見物の日。・朝10時に集合してG2E会場のヴィニーシャン・エキスポ・センター(旧サンズ・エキスポ)に向かう。この期間のヴィニーシャン、及びパラッソの駐車場は満車になったり入れたとしても出る時に大いに苦労する経験を過去にしているので、向かいのtiに車を停めて徒歩でヴィニーシャンに向かう。・会場で、事前にメールで受け取っていたバーコードを提示してバッジ(入場証)と交換するが、その行列がものすごいことになっていた。やはり前日に事前登録しておけば良かったと後悔しかけたが、列はかなりスムーズに進み、10分程度で手続きを終えることができた。◆ARISTOCRAT・今年のARISTOCRATのブースはクローズド展示で、中に入るには事前の登録が必要だった。とは言え、外から柵...新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(4)DAY3・G2Eショウ(前半)

  • 新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(3) DAY 2・その2:本日のゲーム三昧

    ・車を交換後、5分の距離にある「タウンスクエア」内の「ベロシティ・eスポーツ(VelocityeSports)」に向かう。オープンは2022年10月と新しい施設だが、ここは2021年末まではその経営にセガもかかわっていた「ゲームワークス(GameWorks)」だった。eスポーツを謳うほか、未成年は立ち入ることができないバーを併設するなど、昨日行った「デイブ・アンド・バスターズ」や「ラウンドワン」よりは高い年齢層の集客を意識しているように見える。①~③店内の様子。ゲームエリアは類似する他店とあまり変わらない。④景品交換エリアは入り口受付の背後にあり、なんとなく冷やかしで入りにくい。eスポーツエリアの入り口(①)と中(②)。時間制の課金でPCでの通信ゲームができる。飲食スペースも確保されている。①ボウリング施...新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(3)DAY2・その2:本日のゲーム三昧

  • 新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(2) DAY 2・その1:今日もゲーム三昧、のはずが

    ****************第2日目その1・今日の我々一行は、まず南の方にある、ゲーム施設を併設するピザレストラン「チャッキーチーズ(ChuckE.Cheese)」を皮切りに、ストリップエリアを北上しながらラスベガスのゲーム施設を巡る予定。しかし、チャッキーチーズの開店時刻は11時と少し遅いので、先にダウンタウンとストリップエリアの中間にあるゲーム用品店「ギャンブラーズ・ジェネラル・ストア(Gambler'sGeneralStore)」と「スピネッティス・ゲーミング・サプリー(SpinettisGamingSupplies)」を見ていくことにする。最初に訪れた「ギャンブラーズ・ジェネラル・ストア」は、2019年にメイン通りを挟んだはす向かいに引っ越しているが、その時は立ち寄らなかったので、新店舗に来る...新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(2)DAY2・その1:今日もゲーム三昧、のはずが

  • 新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(1) DAY 1:入国~ゲーセン巡り

    10/8(日)から10/13(金・帰国は10/14(土))まで、ラスベガスに行ってまいりました。今回からしばらくの間、この旅行の記録を残しておきたいと思います。◆旅程10/8(日)昼羽田発、同日午後ラスベガス着。10/13(金)未明ラスベガス発、14(土)午後羽田着(5泊7日なれど実質4泊7日)。◆目的・ギャンブル業界の世界的な見本市G2E(GrobalGamingExpo)の見物。・ラスベガスのゲーセン巡り。・同行者3人のアテンド。3人のうち2人は結構なリピーターだが、1人は初ラスベガス。・コロナ禍による4年間の空白で生じた変化の観察。(ゲームの傾向とかピンボール・ホール・オブ・フェイムとかスフィアとかミニマムベットとか物価とか流行り廃りとか)。****************第1日目・朝9時、同行者3...新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(1)DAY1:入国~ゲーセン巡り

  • 1966年のアリストクラート (Aristocrat)

    アリストクラート(Aristocrat)社は、1953年に豪州で設立されたスロットマシンメーカーです。カジノ業界の見本市では、少なくとも90年代には既に他の大手メーカーに引けを取らない大きなブースで出展していましたが、ワタシがラスベガス(ネバダ州)でその機械を見るようになったのは2000年前後、ビデオスロットが急激に発達してからのことだったと記憶しています。アリストクラートがネバダに進出して間もない2002年、50のペイラインを持つ「50LIONS(フィフティーライオン)」と言うビデオスロットが画期的なボーナスゲームシステムを搭載してヒットしました。更にその続編となる、100のペイラインを持つ「100LIONS(ワンハンドレッドライオン)」も大ヒットしました。アリストクラートの製品は、豪州の法律によってス...1966年のアリストクラート(Aristocrat)

  • 「リズムボーイズ」第三の資料発見!

    ワタシは過去記事「リズムボーイズ―スロットマシンの必勝法の話」で、かつて存在したスロットマシンの必勝法「リズムシステム」について述べました。しかし、その時点では他にその必勝法に言及している資料が見つからず、都市伝説の一種である可能性も疑っていました。その後ワタシは、スロットマシンメーカーのジェニングス社が「AntiRhythm(リズム防止)」の宣伝文句を使用している1960年代のスロットマシンのフライヤーを発見し、「リズムシステム」が確かに実在したであろうことを確認することができしました(関連記事:セガの歴史を調べていたら意外な話につながった話(2)リズムシステム実在の証拠発見)。しかし、それだけではまだ十分に資料が揃ったとは言えず、さらなる資料を探し続けていました。先日、かつてアメリカで発行されていた、...「リズムボーイズ」第三の資料発見!

  • 全てが謎に包まれたゲーム機「V-マックス」(サニー東京、1969以前)

    日本のAM業界は、かつて娯楽機メーカーが発表・発売した遊戯機のリストを毎年発行していました。発行者はその当時のAM業界団体(正確には業界団体に関連する団体または出版社)ですが、業界団体はこれまで何度も再編を繰り返しており(関連記事:AM産業と業界誌の謎(3))、一貫していません。また、誌名も「遊戯機械年鑑」、「コインマシン名鑑」、「遊戯機械総合年鑑」と、たびたび変更されています。ここでは、これらをまとめて単に「年鑑」と呼ぶことにします。現在ワタシが確認している最古の年鑑は「’69遊戯機械名鑑」です。奥付を見ると、発行は当時の業界団体である「全日本遊園施設事業協同組合」の「全日本遊園編集局」で、定価は1600円と書かれていますが、発行年が記載されていません。「’69遊戯機械名鑑」の表紙。広告も含んで200ペ...全てが謎に包まれたゲーム機「V-マックス」(サニー東京、1969以前)

  • 【予告】4年ぶりのG2E見物とブログお休みのお知らせ

    来たる10月8日より、G2Eショウ(ギャンブル業界の見本市。参考記事:新ラスベガス半生中継2019年G2Eショウ(3)DAY2:G2Eショウその1他)を目当てにラスベガスに行ってまいります。最後に行ったのは2019年の秋(その顛末は上述参考記事参照)なので、実に4年ぶりとなります。これだけブランクができたのは偏にコロナ禍による渡航制限のためですが、G2Eショウ自体は一昨年より再開しています。ワタシにとって失われたこの4年の間に、カジノ業界にどんな変化が起きているのかそれとも起きていないのか、興味が尽きません。例えば、これは2019年のG2Eショウより、NEXTGAMING社のブース。「スキルベースド・ゲーミング」をモノにしようと、ATARIやタイトーのビデオゲームにペイアウトを付けたゲームを出展していたが...【予告】4年ぶりのG2E見物とブログお休みのお知らせ

  • 86年JAMMAショウ・CAPCOM編

    ワタシがJAMMAショウを見物するようになったのは1986年からのことです。この頃は各メーカーのブースを回ってフライヤーを集め回っていたものでした。一昨年の2021年07月25日には、この時に集めたフライヤーのうちTAITOのものをご紹介しました(関連記事:86年JAMMAショウ・TAITO編)が、今回は拙ブログではめったに取り上げない「CAPCOM」のフライヤーをご紹介します。86年当時のCAPCOMはまだそれほど大きな企業ではなかったようで、出展した機種は僅か4機種、フライヤーは2機種分しかありません。一つ目は、このときのCAPCOMの目玉(のはずだった)、「アレスの翼」です。「アレスの翼」(1986)のフライヤーの表裏。この当時はまだ「萌え」という概念がほとんど無かったことが察せられるビジュアル。縦...86年JAMMAショウ・CAPCOM編

  • 札幌レゲエ紀行:G-BAOA・G(ジー・バオア・グー)

    今年の6月に入ったある日、女房が「今年の夏休みは北海道に行きたい」と言い出しました。女房はかねてより「(自分にとって)未踏の地である北海道にいつか行きたい」と言い続けており、いずれは叶えてやらねばなあと思いながらも、ワタシに積極的な動機が見つからず踏み切れないまま現在に至っていたのですが、今回は違いました。と言うのも、ワタシは今年の3月、札幌に「G-BAOA・G(ジー・バオア・グー)」というゲーセンを偶然見つけていたのでした。同店の公式サイトは「本場アメリカ直輸入!現役バリバリのピンボールがたくさん!」と謳って少なくない数のEMのピンボール機も見え、また「主に80年代~90年代、ビデオゲーム全盛を彩った懐かしくも安定のラインナップ!」と謳うページもあり、レゲエファンとしては大いに食指が動くロケです。女房の...札幌レゲエ紀行:G-BAOA・G(ジー・バオア・グー)

  • セガが破格の扱いを行ったビデオゲーム(2)「サムライ」(1980)

    ケチなセガがなぜか豪華なフライヤーを作成したビデオゲームの二つ目は「サムライ」(1980)です。「サムライ」の、フルカラー二つ折り4ページの豪華フライヤーの表紙側(上)と内側(下)。侍とガンマンの組み合わせは1971年の映画「レッド・サン」からインスパイアされたのだろうか。ちょっと疑問符が付くコンセプトだと思う。実は「サムライ」には片面印刷の通常のフライヤーもあります。「サムライ」の、片面印刷版のフライヤー。こちらには人間のモデルは使用されていない。「サムライ」になぜ二種類ものフライヤーが作成されたのかは謎ですが、片面印刷版にはアップライト筐体が、豪華版にはテーブル筐体が記載されています。当時はテーブル筐体が急速に普及した時期だったので、まず先に片面印刷版が作成し、その後慌てて「もちろんテーブル筐体もあり...セガが破格の扱いを行ったビデオゲーム(2)「サムライ」(1980)

  • セガが破格の扱いを行ったビデオゲーム(1)「ペンゴ」(1982)

    セガは、こと宣伝には極力費用をかけたがらない、吝嗇(ケチ)な傾向が強いように思います。筐体モノなど強力に売り出したい高額の機械でもあれば豪華なフライヤーを作ることも時々はありましたが、通常のアップライトまたはテーブル筐体に収まる通常のビデオゲームのフライヤーは、例え裏面が白黒でも両面印刷であればまだ恵まれていた方で、片面印刷で済ませることも珍しくありませんでした。また、両面印刷であっても、表面と裏面で異なるゲーム機を掲載した例もあります。しかし、そのセガにも、他と大きく異なる外見的特徴があるわけでもないビデオゲームであるにもかかわらずオールカラー二つ折り4ページの豪華なフライヤーを作成した例が、極めて少数ですが存在します。今回と次回の2回に分けて、そんな「破格の扱い」を受けたビデオゲーム2機種のフライヤー...セガが破格の扱いを行ったビデオゲーム(1)「ペンゴ」(1982)

  • 「パチンコ誕生博物館」館長杉山氏の新著「コリントゲーム史」のご紹介

    「パチンコ誕生博物館」(関連記事:【特報】パチンコ誕生博物館オープン(1))の館長である杉山一夫さんは、長年の研究によってパチンコの始祖は中世欧州のゲーム「バガテール」であることを突き止めました。そのバガテールは世界各地で個別の進化を遂げ様々な経緯を経て、あるものは「パチンコ」に、あるものは「玉ころがし」に、そしてまたあるものは「コリントゲーム」へと変化していったと述べています。杉山さんはこれら3つの「バガテール」の子孫のうち、「パチンコ」と「玉ころがし」については既にそれぞれ独立した著書でその研究成果を発表されています(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史186パチンコ」のご紹介/:法政大学出版局「ものと人間の文化史188玉ころがし」のご紹介)。「コリントゲーム」も、それがパチンコの起源であると...「パチンコ誕生博物館」館長杉山氏の新著「コリントゲーム史」のご紹介

  • アイレム(IREM)のメダルゲーム

    アイレム(IREM)は、元々は、後にカプコンの創業者となる辻本憲三氏が「アイピーエム」として立ち上げた会社が1979年に社名変更されたものですが、その社名の由来は、「InternationalRentalElectronicsMachine」の頭文字なのだそうで、これはちょっとなんだかセンスがナナメな感じ(悪い意味)がします。アイレムは1980年にCRTモニターなど電子機器を製造していた「ナナオ(現EIZO)」に買収された後、「ムーンパトロール」(1982)、「ジッピーレース」(1983)、「10ヤードファイト」(1983)、「スパルタンX」(1984)、「R・TYPE」(1987)、「イメージファイト」(1988)など、人気タイトルをコンスタントに輩出するゲームメーカーとなりました。このように、ビデオゲ...アイレム(IREM)のメダルゲーム

  • 1991年のセガ(後編)

    前回も申しあげたとおり、この総合カタログが頒布された1991年9月は、日本の「バブル景気」が終焉を迎えた直後になります。従ってこの総合カタログ掲載されている製品はそのバブルの最中に開発されたものと言うことになります。3ページ目と4ページ目では9機種のマスメダル機と、同じく9機種のシングルメダルが掲載されています。1991年に頒布された総合カタログの3ページと4ページ。総合カタログだけあって、現在販売中の機種には新旧が入り混じっています。まずはここにある9機種のマスメダル機と、同じく9機種のシングルメダルのリリース年を記録しておこうと思います。■1988年ワールドダービー■1989年ビンゴサーカスゴールデンウェーブM3001M3002M4001■1990年エキサイティングブラックジャックM3003M4002...1991年のセガ(後編)

  • 1991年のセガ(前編)

    【本題に関係ない前置き】ワタシはブログを更新するとツイッターでお知らせをしていますが、前回記事「アルゼゲーミング、消滅の危機」の更新のお知らせが万バズ(と言ってもインプレッション数での話です。でも通常は250から多くても1000には届かない程度なので桁違いです)してしまいました。ユニバーサル(アルゼ)ってそんなに皆さんの関心の高い企業だったのでしょうか。弱小泡沫ブログの、人を選ぶ極めてニッチなテーマにこれだけのインプレッションがあるとは驚きです。***********これより本題************「失われた30年」となる以前の、バブル景気時代を知る世代にとって現在の日本は本当にめちゃくちゃな国になってしまったなあと思います。少子化も含めひとえに政治の貧困が原因ですが、二人に一人が選挙に行かない国民が...1991年のセガ(前編)

  • アルゼゲーミング、消滅の危機

    米国のゲーミング機メーカーであるアルゼゲーミング(以下アルゼ)が破産(チャプター11)を申請したというニュースを聞いたのは今年の2月1日のことでした。ワタシの記憶では、アルゼが「自社とは直接関係しない訴訟への対応策の一環であり問題はない」という内容のプレスリリースを出していたように思うのですが、今そのソースを探しても見つけられません。アルゼはラスベガスで毎年秋にラスベガスで開催されるGlobalGamingExpo(G2E)ではIGT、Aristocrat、ScientificGaming(旧Bally+Williams)らに引けを取らない規模のブースを出展し続け、またラスベガスのカジノではそこそこのシェアを得ており、大手の一角に食い込んでいると言っても過言ではない企業のはずだったので、このニュースは意外...アルゼゲーミング、消滅の危機

  • セガのエレメカ機「MOTOPORO」 (1968)

    「ポロ(polo)」とは、ホッケーとよく似たスポーツですが、ホッケーと違うところは、選手は馬に乗って競技を行う点にあります。起源は古く、紀元前のペルシャで軍事訓練として行なわれ、19世紀になって英国で現在のルールが制定されたのだそうです。ポロの馬をオートバイにした「モーターサイクル・ポロ」は20世紀に入ってからやはり英国で考案され、現在は「モトボール(Motoball)」と呼ばれてフランスを中心とする欧州で人気があるらしいです。セガは1968年、このモーターサイクル・ポロをテーマとする「モトポロ(MOTOPOLO)」を発売しました。「MOTOPOLO」のフライヤーの表裏。「セガの誇る技術陣が遂に開発!!」と謳っている通り、そのメカは当時としては相当の工夫があったと思われる。実際のモーターサイクル・ポロでは...セガのエレメカ機「MOTOPORO」(1968)

  • 【小ネタ】1976年のタイトロニクス

    今回は多忙につき、タイトーが1976年に頒布したビデオゲーム(当時はTVゲームと称していた)の総合カタログをご紹介してお茶を濁します。1976年に頒布された「タイトロニクスシリーズ」総合カタログの表紙。ビデオゲームが世に出て間もない時期らしいゲーム画面。タイトーは、セガと並んで日本で最も早い段階からビデオゲームの開発に着手し、大手メーカーとしての地位を盤石のものとしました。タイトーは自社のビデオゲームを「タイトロニクスシリーズ」と名付け、この呼称は少なくとも1980年代前半までは使い続けていました。フライヤーは全6ページで、2ページ目から5ページ目までは製品の筐体画像が並んでいます。2ページ目:●CRUSHINGRACE(1976)●INTERCEPTOR(1976)●ELEPON(1973)●PROHO...【小ネタ】1976年のタイトロニクス

  • 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(3) NEW FARO後のFAROその2

    前回のあらすじ:セガは、「ファロ」、「ファロII」、「ニューファロ」に続き、1983年に「ファロIII」を、1985年に「ファロキング」を発売した。しかし「ファロキング」は、「ファロIII」と同年に発売された「ルーレットキング」の筐体に「ファロIII」を入れただけのもので、筐体の目新しさ以外に新しいものは何もなかった。*************「ファロ」のように円盤を回して何かを決める抽選方法は、紀元前からすでに存在したとの言説があります。生まれては消えていったゲームがいくらもある中でその手堅さは歴史によって証明されているわけですから、セガが「ファロ」を何度もリニューアルしながら続けるのも理解できます。1988年にはファロシリーズ6作目となる6人用の「ファロジャック(FAROJACK)」を発売しました。「...「ファロ(FARO)」シリーズの記録(3)NEWFARO後のFAROその2

  • 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(2) NEW FARO後のFAROその1

    はじめにお詫び。前回の記事で「今回と次回の2回に分けて」と申し上げましたが、思いのほか長くなってしまい2回では収まらなくなってしまいました。見通しが甘くて申し訳ありません。前回のあらすじ:ある方より「NEWFARO」の部品の写真をいただいたが、見たことも聞いたこともなかったので調べたところ、「NEWFARO」は、「FARO(1974)」、「FAROII(1977)」に次ぐファロシリーズ第三弾で、1980年に発売されたものであることが判明した。そのころは折からのビデオゲームブームに押され、ゲーセンではメダルゲームの営業面積が著しく縮小した時期であり、「NEWFARO」はほとんど普及せず人に消えていったものと思われる。*************「ニューファロ」が発売されてから3年後となる1983年、セガは「フ...「ファロ(FARO)」シリーズの記録(2)NEWFARO後のFAROその1

  • 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(1) NEW FAROとFARO II

    前回、前々回で、「拙ブログでは従来より初の国産メダルゲーム機は「ファロ」と述べてきたが、それは誤りで、『シルバーフォールズ』が正しい」と訂正いたしました。この結論に至るきっかけとなった情報を下さった方は、同じ時期にまた別の写真も送って下さっていて、それは私が国産初と思い込んでいた「ファロ」とはまた別の「ファロ」でした。「ファロ」は1974年に初代が発売されて以降、80年代までにいくつもの後継機が作られているのですが、ワタシの記憶ではどんな機種がいつ発売されたかが極めてあやふやになってしまっています。ちょうどいい機会なので、今回と次回の2回に分けて、「ファロ」シリーズについて記録しておこうと思います。まず、先述の送っていただいた写真を見てみます。「シルバーフォールズ」が国産初のメダルゲーム機である証拠を見せ...「ファロ(FARO)」シリーズの記録(1)NEWFAROとFAROII

  • 初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ

    前回の記事でご紹介した通り、セガが自認する(大型)メダルゲームの国産第一号(注)は「ファロ」ではなく「シルバーフォールズ」であることが明らかになりました。シルバーフォールズ。セガが1974年に頒布したメダルゲーム機の総合カタログより切り取った画像。ワタシは過去記事「初の国産メダルゲーム機の記憶」で、「(初の国産メダルゲーム機は)1974年の春頃にセガから発売された『ファロ』と『シルバーフォールズ』になろうかと思います」と述べていますが、その本文では「ファロ」の説明しかしておらず、「シルバーフォールズ」はまるっきり無視しています。そしてその後もワタシは事あるごとに「ファロ」を初の国産メダルゲーム機と述べてまいりました。しかしそれが誤りであることが判明した今回は、改めて国産初のメダルゲーム機として「シルバーフ...初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ

  • 【衝撃の小ネタ!】国産初のメダルゲーム機、実はファロじゃない!?

    先日、オールドゲーム関連のコミュニティでは有名なある方より、セガの古い社内報をデジタルカメラで撮影した画像のほんの1ページを見せていただく機会があったのですが、そこにはこれまでのワタシの認識を覆す新事実が書かれていました。見せていただいたセガの社内報の一部。ここには、「新製品紹介セガ・シルバー・フォールズ大型メダルゲーム機の国産第一号」との見出しで、新製品「シルバーフォールズ」が紹介されています。これがいつ発行された社内報なのかは不明とのことですが、「メダルゲームが(中略)本格的に人気が盛り上がったのは、昨年から」と記述されているところから、おそらくは1974年、早ければ1973年(関連記事:「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)に発行されたものと思われます。他にも「セガも昨年...【衝撃の小ネタ!】国産初のメダルゲーム機、実はファロじゃない!?

  • 大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その5(最終回)

    エレメカ研究所探訪記録の最終回のテーマは「リプロダクト」です。「リプロダクト」とは、通常は「複製品」の意味で使われることが多いですが、「再生」の意味でも使えるようです。エレメカ研究所には、オリジナルのままでは到底稼働が叶わないオールドゲーム機に手を加えて動作できるようにしてある機械が結構たくさんあります。例えば前々回の記事で採り上げた「コインパンチ」も、プレイフィールド部分はオリジナルのままですが、キャビネットは独自に作成されたものです。他にもおそらく、外見からはわからないけれども筐体内部でリプロダクト行われている機械もあるものと思われます。**********エレメカ研究所の最も奥には、水族館の水槽を思わせる大きな赤い箱があります。ウィンドウの上部には、「Helicopter」との銘板が取り付けてありま...大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その5(最終回)

  • 大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その4

    エレメカ研究所にはたくさんの見どころがありますが、白眉と言えば2台の「一銭パチンコ」だと思います。エレメカ研究所の2台の「一銭パチンコ」。上は大学野球をテーマとしており、下は当時の女性の映画スターがハッタリ(入賞口の飾り)にフィーチャーされている。台枠は同じものを使っているように見える。「一銭パチンコ」は昭和の初期に流行した遊技機で、1銭硬貨を投入して出てきた玉を弾き、ゲームの結果によっていくらかの1銭硬貨が払い出されるゲームでした。「パチンコ誕生博物館」の杉山一夫館長の著書「ものと人間の文化史186パチンコ」(法政大学出版局刊)(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史186パチンコ」のご紹介)の87ページでは、「パチンコは一銭パチンコから始まっている」と、現代パチンコの直接の先祖としています。とは...大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その4

  • 大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その3

    エレメカ研究所探訪記録の3回目は、ワタシが特に気になった2機種を採り上げておこうと思います。コインパンチの筐体。数年前に、ある方より大量のフライヤーの画像データを頂いた中に「サニック」(またはサニー東京)の名が入ったものがいくつかありました。そこには、ワタシが小中学生の頃に行楽地の食堂や旅館のゲームコーナーなどで見た覚えのあるゲーム機がいくつかあり、そのうちの一つがこの「コインパンチ」でした。ワタシはそれまで「サニック」の名を聞いたことが無く、以来ワタシにとって究明したい謎のメーカーとなりました。しかし、「サニック」はおそらくは1973年頃に消滅したと思しき節があり、ワタシが持つ資料は殆どが1974年以降のもので、それらの中に「サニック」の名前は見当たりません。ネットを検索してもまるで関係のないノイズしか...大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その3

  • 大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その2

    前回の記事で、「メーカー不明、1980年頃」としていた「ロボット」(駄菓子屋ゲームその1の③)のメーカーと発売年は、「KアンドU商会1979年」であることが判明したので、修正しておきました。この「KアンドU商会」の名は、かつては業界紙誌の広告でよく見かけていたし、AMショウへの出展実績もあるのに、業界団体名簿には名前が見当たらず(ワタシの目が節穴なだけかも)、良くわからない企業です。**************************これより本文エレメカ研究所探訪記録の2回目は、大型の機械を記録しておこうと思います。大型と言っても「駄菓子屋ゲーム機と比較すれば」程度の意味であって、今の感覚では必ずしも大型には見えないかもしれません。【ジャンボ(セガ、1969以前)】セガの「ジャンボ」。空気で吹き上げられて...大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その2

  • 大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その1

    大阪は阿倍野区文の里に、60年代(もしくはもっと古い)のコインマシンが遊べる「エレメカ研究所」があることを知ったのは、今から3年ほど前のことでした。これはいずれ訪れなければと思いつつも、何しろ東京からではそう気軽に行けるものでもなく、もたもたしている間にコロナ禍による「ステイホーム」が始まって、ますます行くチャンスが遠のいてしまいました。文の里での「エレメカ研究所」は入場料制で運営して「博物館」を謳い、風俗営業(風俗第5号営業=ゲーセン)の許可を取らずに営業していたのですが、警察はこれを認めず、そして当時の所在地は風俗店の営業許可が下りない地域であったため、閉鎖のやむなきに至ったのが昨年の初めころでした。警察がどんな経緯でエレメカ研究所を把握し、どのように接触してきて、どんなやり取りがなされたかには興味が...大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その1

  • 「三共」についての備忘録(7) 三共に関するエピソードあれこれ(後半)

    前回は三共と直接・間接に関係があった他社の名前がいくつも出てきて複雑になってしまいました。今回はこれら他社について、前回では言及しきれなかった補足を含んで情報を整理しておこうと思います。・日本遊園設備:'69遊戯機械年鑑巻末の「各社の沿革と営業品目」によれば、創業は昭和30年(1955)4月。その後「アメリカ精機」を経て昭和39年(1964)3月に「日本遊園設備」となり、昭和40年(1965)11月に東京都昭島市に本社と工場を建設したとのことです。事情通から伺ったお話でも日本遊園設備は昭島市にあったとしており、その点は符合します。しかし、ワタシの手元にあるフライヤー資料に記載されている所在地は「武蔵野市」とするものが7点、「中央区銀座東」とするものが2点あるのみで、「昭島市」とするものは1点もありません。...「三共」についての備忘録(7)三共に関するエピソードあれこれ(後半)

  • 「三共」についての備忘録(6) 三共に関するエピソードあれこれ(前半)

    戦後日本のAM業界を支えたのに忘却の危機にある三共の名を少しでもネット上に残しておこうと始めた今回のシリーズをご高覧くださったある事情通の方から、「当時の関係者から聞いた」とする興味深いお話をSNSを通じて伺いました。あくまでも話者の記憶に基づくお話なので正確性は担保されませんが、その妥当性は聞いた側が状況証拠を積み上げて判断すべきところかと思います。オーラルヒストリーとはそういうものでありましょう。今回は、そのような三共とその周辺のちょっとしたこぼれ話で締めくくろうと思います。**************************前回の記事で、ガンゲーム「チューハンター」は、三共遊園設備が自社の広告に記載していたが、関東電気工業と児童遊園設備も自社の製品であるがごとく宣伝している旨を述べました。児童遊園設...「三共」についての備忘録(6)三共に関するエピソードあれこれ(前半)

  • 「三共」についての備忘録(5) 三共精機と三共のAM機

    つい数日前に、三共ベンダーからここに至るまでの沿革についてより詳しいことがわかりました。出典は「遊戯機械総合年鑑」の79年版及び80年版です。19594月三共ベンダー設立19666月三共遊園設備に改称1971?月三共精機が分離独立197611月三共遊園設備と三共精機を合併して三共に社名変更出展には、三共精機が分離独立した時期については1971年としか書かれていません。合併が76年11月ということなので、1976年にリリースされたものは三共精機または三共遊園施設から受け継いだものと判断してもよさそうではあります。【1】アメリカンフットボール(1976)アメリカンフットボールのフライヤー。三協精機名義。この「アメリカンフットボール」は、ポップバンパーを備えた国産のフリッパーマシンです。フライヤーでは「ユニーク...「三共」についての備忘録(5)三共精機と三共のAM機

  • 「三共」についての備忘録(4) 三共精機のAM機

    「三共遊園設備」から「三共精機」が分離独立したのが1971年、そして両社が再び合併して「三共」となったのが1976年です。この流れがわかれば、資料に記載されている社名からその機械の製造時期をある程度見当をつけることができそうに思えますが、調べを進めるうちにそう簡単にはいかないことがわかってきました。例えば、当時の業界団体の子会社であった日本出版企画制作が1971年9月に発行した「'72コインマシン名鑑」には、三共精機と三共遊園設備の連名で広告が打たれており、そこには前回記事で三共遊園設備製として採り上げた「アポロムーン」の名も掲載されています。「'72コインマシン名鑑」に掲載されている三共精機と三共遊園設備の連名の広告。「製造品目」の上から三番目に「アポロムーン」が記載されている。しかし、「'74/'75...「三共」についての備忘録(4)三共精機のAM機

  • 「三共」についての備忘録(3) 三共遊園設備のAM機(後半)

    今回は、前回に引き続き三共遊園設備の名で発表されているゲーム機の後半です。繰り返しになりますが、これで三共遊園設備の製品を網羅しているわけではない点にはご留意ください何かご存じのことがございましたら、コメント欄にてお知らせいただけますようお願いいたします。【6】ベースボール(1969年以前)ベースボールのフライヤー。70年代初頭くらいまでの日本では、フリッパーが付かない、比較的簡易なピンボール機がたくさん作られており、これもその一つです。手持ちの資料から見当をつけてしらみつぶしに調べたところ、「’69遊戯機械名鑑」にこの機械が掲載されていました。’69遊戯機械名鑑に記載されている三共遊園設備のベースボール。フライヤーとはアートワークが異なる。ただ、同書には「児童遊園設備」社による同名の製品も掲載されていま...「三共」についての備忘録(3)三共遊園設備のAM機(後半)

  • 「三共」についての備忘録(2) 三共遊園設備のAM機その1

    今回も前置きから始まります。前回の記事で、「(三共遊園設備と三共精機は)事業をどう切り分けていたのか」と述べました。その後いろいろと可能性を考えてみたところ、①1958年設立の三共ベンダーは1970年以前にその社名を三共遊園設備に変更して、遊園地の運営と機械の開発の両方をこなしていた。②三共遊園設備は1971年に分社し、新会社「三共精機」に開発と販売事業を委譲、三共遊園設備はオペレーション事業に集中するようになった。と考えれば、三共精機以降に三共遊園設備の名前がAM機ビジネスから消えたことの説明になりそうだと気づきました。分離前後の資料が不足しているので想像の域を出ませんが、とりあえずたぶんこうだったんじゃないかと考えておくことにします。前置きは以上です。**********************三共遊...「三共」についての備忘録(2)三共遊園設備のAM機その1

  • 「三共」についての備忘録(1) 三共以前の三共

    AM機メーカー/オペレーターの「三共」の始まりは、1959年に設立された「三共ベンダー」であるとのことで、時期的には関西精機や中村製作所(後のナムコ)らと共に、戦後日本におけるAM産業を支えた功労者の一つに数えられてしかるべき企業と言えるのではないでしょうか。で、あるにもかかわらず、現在、この「三共」の名をAM産業の文脈で目にすることはめったにありません。これは全く不当なことだと思うので、ここはひとつ三共をリスペクトしておきたいのですが、そう言うワタシも実はこの会社について多くのことを知りません。ついては、今回はこの「三共」について調べたことを記録しておこうと思います。なお、「三共」は非常にありふれた商号で、ネット上を検索すると、同名だが無関係なパチンコ機メーカーを筆頭に同名他社などノイズ情報が星の数ほど...「三共」についての備忘録(1)三共以前の三共

  • 1976年の業界紙から、謎のメダルゲーム機4つ

    ワタシは、戦後以降の日本のゲーム場に設置されていたゲーム機であれば、たいていは実際に遊んだか、もしくは見た記憶があるか、最低でも何かの資料で知見を得ていると思っていたのですが、ときどき古い資料に全く知らないゲーム機が出てくることがあります。未知のゲーム機があること自体はさほど驚くものではありませんが、その素性が何もわからないのが癪で、少なくともそれがいつ、誰が作ったのかだけでも知りたくなります。今回は、アミューズメント産業76年4月号に掲載されていた写真から、そのような謎のメダルゲーム機を4機種をとり上げます。もし、ご高覧くださっている方々の中でこれらについて何かご存じのことがございましたら、コメント欄にてご教示いただけますと大変ありがたく存じます。その1:ヤッジィ(YATZY)日比谷のセガロケ「ゲームス...1976年の業界紙から、謎のメダルゲーム機4つ

  • 前回記事「謎のピンボール『Fathom (Bally, 1981)』」の後日談

    前回の記事「謎のピンボール『Fathom(Bally,1981)』」で、「Fathomなんて記憶にない」、「ひょっとすると日本には輸入されていないのかも」などと述べたところ、二名の方より「日本にもあった」と教えていただきました。どうもありがとうございました。そしてお二人のお話では、設置されていたのは片や大阪のナムコランド、片や東京のプレイシティキャロットと、どちらもナムコのロケだった点で一致していました。海外製品のディストリビューターを兼ねる大手メーカーがオペレートするロケでは、設置する機械の大部分を自社で取り扱う製品で固めるのが通例です。ワタシに見た覚えがなかったのは、Fathomはナムコがディストリビュートしており、セガやタイトーは自社ロケに導入しなかったからなのかなあと思うことで納得しておこうと思い...前回記事「謎のピンボール『Fathom(Bally,1981)』」の後日談

  • 謎のピンボール「Fathom (Bally, 1981)」

    本日29日の未明、拙ブログではおなじみのカナダのCaitlynから、「今、ピンボールトーナメントに参加している。その風景を見せたくて」とのメッセージとともに2枚の画像が届きました。どうやら個人のピンボールコレクターが自宅の屋根裏部屋にマシンルームを作って、仲間を招いてプライベートのピンボール大会を行っているようです。画像には全部で10台のピンボール機が写っており、このような環境が持てることに大変羨望を感じるのですが、これらのコレクションのうち、1台だけ見たことも聞いたこともないマシンがありました。Caitlynから送られてきた画像の中にあった、ワタシが見たことも聞いたこともない1台。まだCaitlynから画像の掲載許可を得ていないため、部分のみ切り出している。スペインとかフランスとかベルギーなど欧州産の機...謎のピンボール「Fathom(Bally,1981)」

  • 高田馬場レゲエ紀行:ナツゲーミュージアムin白鳥会館

    「ナツゲーミュージアムin白鳥会館(高田馬場)」はオープンから2年以上が経過しており、既に多くのレゲエファンにはとうに周知されていると思われるので、もはやワタシが改めてご紹介するまでもないロケかもしれません。しかし、まだご存じない少数の不幸なレゲエファンがいるかもしれず、また一人でも多くの方に行っていただきたいとの思いから、周回遅れを承知で採り上げ、宣伝しておきたいと思います。「ナツゲーミュージアムin白鳥会館」は、JR高田馬場駅の改札を出てすぐに左に進むと、30秒以内程度で到着する角のビルの2階と地下1階に分かれます。2階はビデオゲーム、地階はピンボールのフロアとなっています。2階への階段を上った突き当りには駄菓子の物販があり、そこから左を向くと、ビデオゲームフロアの入り口になります。入り口の右側には無...高田馬場レゲエ紀行:ナツゲーミュージアムin白鳥会館

  • パチンコ台の釘打ち工程の謎が解けた話

    パチンコ台には何百本もの釘が打たれていますが、その釘打ち作業はロボットによって自動化されています。まず1985年に刊行された「パチンコ台図鑑(リブロポート刊)」の96ページには、機械が釘を打っている画像が掲載されており、キャプションで「コンピューターによる自動釘打ち機。300本以上の釘を4分で打つことができる。」と説明されています。「パチンコ台図鑑」P.96に掲載されている画像。釘を機械で打っている。1台分の釘を打つのに4分と言うことは、1000台の釘を打つには約67時間、24時間操業したとしても3日弱かかることになります。売れる台となれば数万台は生産されるので、その延べ工数は、ロボットを使ったとしても数か月にも及ぶことになります。現在のロボットはさらに進歩しており、1分間に130本以上の釘を打ち込めます...パチンコ台の釘打ち工程の謎が解けた話

  • 【小ネタ】Nip-It(Bally, 1973)のメモ

    昨年12月18日、初めて「ナツゲーミュージアムin白鳥会館(高田馬場)」に行ってまいりました。事情があって1時間程度しかいられなかったためピンボールフロアしか見ておりませんので、ロケのご紹介は近日中に再訪した上で改めて行うこととして、今回はピンボールフロアの中でも特に気になった「Nip-It(Bally,1973)」をメモしておこうと思います。Nip-It(Bally,1973)。ワタシは「Nip-It」を、新製品として世に出たばかりの頃から見ていたはずです。バックグラスに描かれている人物のタッチはその後も何機種か描かれていたことも覚えています。しかし、右フリッパーボタンの隣に付いているもう一つボタンの用途がわからず、実は遊んだ記憶が全くないことに気づいてしまいました。Nip-Itの筐体右側面についている...【小ネタ】Nip-It(Bally,1973)のメモ

  • 明けましておめでとうございます

    明けましておめでとうございます

  • SEGA MAD MONEYがやって来た!(6):MAD MONEYの解剖その5 ペイアウト率の検証

    「SEGAMADMONEYがやって来た!」シリーズも今回が最終回です。これまではその知識などろくにないワタシが当てずっぽうや知ったかぶりを交えて大汗をかきながらメカ(ハードウェア)を見てまいりましたが、最後はペイアウト率(ソフトウェア)について検証していこうと思います。MADMONEYには3本のリールがあり、それぞれが20個のストップ(stop=停止位置)を持っているので、この機械で発生しうる事象は20の3乗=8000通りになります。リールには、リールの各ストップに対応した20個のシンボルが描かれている帯(リールストリップ=reelstrip)が巻き付けられています。シンボルはレモン、チェリー、オレンジ、プラム、ベル、スイカ、BAR、MAD(アルフレッド.E.ニューマン)の8種類があり、その個数や配置はリ...SEGAMADMONEYがやって来た!(6):MADMONEYの解剖その5ペイアウト率の検証

  • SEGA MAD MONEYがやって来た!(5):MAD MONEYの解剖その4

    これまでリールユニットの背面及び両側面と見てまいりましたが、今回はいよいよ正面から見てみます。リールユニットを正面から見たところ。上図で青矢印で示しているのは、リールストップレバー(前回参照)と、これを保持する「リールストップレバーシャフト(ReelStopLeverShaft)」です。しかし、クロックファンがこれらにどのように作用しているのかはいまだに謎です。赤矢印で示している黄銅色の筒は「コイン・チューブ(CoinTube)」で、この中に今後払い出されるコインが積み重なっています。投入されたコインはこのコイン・チューブに入りますが、コインチューブが一杯で収納しきれず溢れたコインは、コイン・チューブの前を袈裟に横切っている「コイン・オーバーフロー・チューブ(CoinOverflowTube)」を通じて「...SEGAMADMONEYがやって来た!(5):MADMONEYの解剖その4

  • SEGA MAD MONEYがやって来た!(4):MAD MONEYの解剖その3

    今回はリールユニットの側面を見ていきます。便宜上、正面から見た左側を左側面、右側(ハンドルが付いている方)を右側面と呼ぶことにします。まずは左側面から。リールユニットの左側面。左側面はメカっぽいものが少ないですが、第1リールの「リールストップレバー(ReelStopLever・赤く着色されている部品)」と「リールストップスター(ReelstopStar・緑に着色されている部品)」が見えます。リールストップレバーはクロックファンの回転でゆっくりと起き上がり、最終的に先端に付いている「リールストップレバーブロック(ReelStopLeverBlock)」がリールストップスターの歯に嵌まってリールの回転が停止します。リールストップレバーの先端にあるリールストップレバーブロックがリールストップスターに嵌まっている...SEGAMADMONEYがやって来た!(4):MADMONEYの解剖その3

  • SEGA MAD MONEYがやって来た!(2):MAD MONEYの解剖その2 リールユニット背面

    今回から、リールユニットの構造を見ていこうと思います。とは言うものの、ワタシはこのメカニズムをそれほど理解できているわけではありません。むしろ、ほとんど何もわかっていないと言う方が実情に近いです。謎に引っかかるたびにいちいち調べながら書いているため、話の進行がひどくのろくなることが今後も予想されますが、なにとぞご了承ください。では、あくまでも目についた部分に関して調べた結果をメモしておくに留まると言う前提で、まずはバックドアを開けてすぐに見える背面側から始めます。リールユニットを背面側から見たところ。スロットマシンの部品には大事でないものなど一つもありません(と思います)が、上図の赤破線で囲った「クロック(clock)」は、スロットマシンの心臓部とも言える最重要な部品です。コインを入れてレバーを引くと、赤...SEGAMADMONEYがやって来た!(2):MADMONEYの解剖その2リールユニット背面

  • SEGA MAD MONEYがやって来た!(2):MAD MONEYの解剖その1

    今回譲り受けた「SEGAMADMONEY」は、セガが1960年前後頃に開発したと推察される「スターシリーズ筐体」に収められていますが、その内部に残されている検査証には、インクが薄い上に染みが多く判読しづらいものの、「FEB.41969」と読めるように思える印字がされています。筐体内に残されていた検査証の日付部分。「FEB.41969」であろうか。1969年だとして、しかしスターシリーズの次世代機である「コンチネンタルシリーズ」の開発は遅くとも1966年には行われており、更にその次のシリーズで旧セガ時代の最後のメカスロとなる「ウィンザーシリーズ」は、1967年の時点で英国で新製品として発売されており(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(4)セガのスロットマシンその2)、旧型機であるスター...SEGAMADMONEYがやって来た!(2):MADMONEYの解剖その1

  • SEGA MAD MONEYがやって来た!(1):ここに至るまでの経緯

    さる9月、拙ブログをご高覧くださったある方から、「我が家にあるセガのMADMONEYを譲りたい」とのオファーをいただきました。MADMONEY(関連記事:【小ネタ】セガ・マッドマネーとアルフレッド・E・ニューマン(AlfredE.Neuman))。「ダルマ筐体」とも呼ばれるこの筐体を、拙ブログでは「スターシリーズ筐体」と呼んでいる。この時のワタシの心の動揺は、楽器店のショウウィンドウに陳列されているトランペットを飽かず眺める黒人の少年が、見知らぬ紳士から突然「これを君にあげよう」と言われた時の心境を想像していただければよろしいかと思います。スターシリーズ筐体の左右両側面。お声がけくださったのは愛媛県の方で、仮にKさんとしておきます。Kさんはこれを、セガの前身であるサービスゲームズ・ジャパン(関連記事:セガ...SEGAMADMONEYがやって来た!(1):ここに至るまでの経緯

  • 【小ネタ】次回予告:オールドゲーム機がやって来る!

    先月末の記事「お知らせと過去記事の補足をいくつか」でお知らせしていた通り、今週末は18日(金)より東京を離れ、本日20日(日)に戻ってまいりました。そのため、今週の拙ブログの更新にはほとんど着手できずにおります。かと言って、毎週日曜日更新を目指している拙ブログとしては何もしないでいるのも不本意です。実は今回の旅行では、拙ブログ始まって以来の一大イベントともいうべき出来事があり、本来であればその件についての記事をアップしたいはずのところなのですが、いかんせんまだ記事の素材が揃っておりません。そこで今回は、次回の予告編として思わせぶりな画像をいくつか挙げてお茶を濁しておこうと思います。******************************************************この週末、ワタシは...【小ネタ】次回予告:オールドゲーム機がやって来る!

  • Ballyの蹉跌:WINNERS CIRCLE

    拙ブログではお馴染みの、カナダのCaitlynから、Ballyの「WINNERSCIRCLE」というとても興味深いゲーム機の画像をいくつかいただきました。画像1:「WINNERSCIRCLE」を正面から見たところ。元の画像を正面アングルとなるように補正しているので、縮尺が若干狂っているかもしれない。画像2:盤面の部分のアップ。下段中央に近い2カ所の緑のポケットの上に、釘を抜いたと思しき跡が見える。画像3:盤面右上と、コインカップ前面に見える「Bally」のロゴ。画像4:赤、黄、緑に色分けされた電光競馬ゲームのような表示板。画像5:ハンドル部分。日本の手動式パチンコのハンドルを真似たと思われるが、形状がずいぶん異なる。画像6:ゲームのインストラクションプレート。超訳すると、1.トークンを投入する。2.「WI...Ballyの蹉跌:WINNERSCIRCLE

  • 初期の国産フリッパー・ピンボール機:ターキーボール(関東電気工業、1972)

    本場米国では1940年代に既に登場していたポップバンパーが国産のフリッパー・ピンボール機に初めて導入されたのは1971年のことで、実現したのは国内最大手メーカーであったセガでした(初期の国産フリッパー・ピンボール機:カーニバル(セガ、1971))。やはり部品数が格段に増え電気回路も多少なりとも複雑になるであろうポップバンパーの導入は、技術的には可能だとしても、まだ発展途上にあった当時の日本のAM機メーカーにとっては冒険だったのかもしれません。そんな状況の中、「関東電気工業」は、ポップバンパーを備えたフリッパー・ピンボール機「ターキー(ターキーボール)」を、セガに次ぐ1972年に発売しました。アミューズメント産業1972年5月号に掲載された関東電気工業の「ターキー」の広告。レジャー産業の老舗業界誌「レジャー...初期の国産フリッパー・ピンボール機:ターキーボール(関東電気工業、1972)

  • お知らせと過去記事の補足をいくつか

    ■お知らせ(1)前回記事の修正前回記事「杉山さんと「パチンコ産業史」(名古屋大学出版会)」を、「パチンコの歴史を学ぶ:「パチンコ産業史」(名古屋大学出版会)」に改題し、一部を削除・修正しました。「パチンコ(法政大学出版局)」の著者である杉山さんの次に出版予定であった企画が没となった原因について、不正確な情報に基づいていた記述を削除し、それに併せて前後の文章を若干修正しています。(2)更新をお休みするかもしれない予告毎週日曜日更新を目指している拙ブログですが、来月の中旬に遠方に旅行する予定が入ったため、11月20日(日)の更新はお休みする可能性があります。なにとぞご了承ください。■過去記事の補足(1)サンダーバード(タイトー,1968)の新画像発見昨年11月にアップした記事「1960年代のTAITO(4):...お知らせと過去記事の補足をいくつか

  • 杉山さんと「パチンコ産業史」(名古屋大学出版会)

    拙ブログの守備範囲にはパチンコとその周辺も含みますが、ワタシは現行機種のスペックや攻略法などの「実用的」な情報にはまるで興味がなく、テーマはもっぱら1980年代以前の遊技機の変遷や発達、あるいは業界の歴史に限定されています。この傾向は今後も変わることはないと思います。そんな偏屈なワタシは、過去に拙ブログで「パチンコ誕生博物館」と、その館長である杉山さんの著書、「パチンコ」及び「玉ころがし」(両著共に法政大学出版局)をご紹介してまいりました。【関連記事】パチンコ誕生博物館オープン(1)パチンコ誕生博物館オープン(2)展示内容パチンコ誕生博物館オープン(3)最終回:歴史の証拠を残すにはどうすればいいのか法政大学出版局「ものと人間の文化史186パチンコ」のご紹介法政大学出版局「ものと人間の文化史188玉ころがし...杉山さんと「パチンコ産業史」(名古屋大学出版会)

  • ピンボール界の「ネッシー」、「Sea Avenger」 (Meadows Games, 1976)

    ここに2台のピンボール機が写っている画像があります。2台のピンボール機が写る画像。画像の左はATARIが初めて作ったピンボール機「ATARIAN」、右はMeadowsgamesの「SeaAvenger」です。しかしこの画像は不鮮明なだけでなく、2台のアングルやサイズ感が不自然です。よくよく見ると、人物とともに切り抜いたATARIANの写真を、別のSeaAvengerの写真に重ねて貼付けているようにも見えます。この画像は、先週、米国人のJayから届いたメールに添付されていたものです。Jayは、IPDB(InternetPinballDataBase)の中の人です。そのメールには他にも、日本の業界紙「ゲームマシン」1977年2月15日号の一部とその英訳文、それにかつて米国にあった「MeasdowsGames」...ピンボール界の「ネッシー」、「SeaAvenger」(MeadowsGames,1976)

  • Ballyが作った「回胴式遊技機」の話

    現在のナウなヤングの中にはその名前すら知らない人も多いかもしれませんが、拙ブログでしばしば言及している米国のゲーム機メーカー、バーリー(Bally)社は、かつては世界の娯楽機市場を席巻したビッグでジャイアントな企業でした。どの程度ビッグでジャイアントだったかと言うと、例えば米国の経済誌フォーチュンが1981年に発表した「米国法人ビッグ500」において、バーリーを「売上高398位、純利益では273位」に位置付け、ゲームマシン紙1983年10月1日号では「拡大続けるバリー社レジャー産業全般へ、すでに21社を傘下に」として、「AM機とギャンブル機の製造部門を中心にしながら、遊園地、アーケードゲーム場、カジノの経営と手を広げ(中略)国内における直接の子会社は16社、外国では日本、オーストラリア、ヨーロッパなどで6...Ballyが作った「回胴式遊技機」の話

  • 日本製のエレメカ機をリスト化する壮大な試みのご紹介とお願い

    拙ブログにしばしば英語でコメントをくださるケイトリン・パスカル(以下、Caitlyn)さんは、カナダ在住のオールドゲームファンです。彼女のオールドゲームコレクションについては、過去記事「カナダからの手紙withオールドゲームコレクション」でご紹介させていただきました。彼女はこれまでも自身のブログ「soIboughtapinballmachine」で東西の様々なオールドゲームについての記事を公開しており、その一環としてしばしば日本の映画やTVドラマに登場するゲーム機とそこに見られる機種の紹介などもされていました。また、手打ち式だった時代のパチンコやスマートボール、アレンジボールなど風営機にも強い興味を示されており、「パチンコ誕生博物館」(関連記事:パチンコ誕生博物館オープン(1))の館長である杉山一夫さんが...日本製のエレメカ機をリスト化する壮大な試みのご紹介とお願い

  • 【小ネタ】初の透明液晶を搭載したスロットマシン

    今週の拙ブログは、当初一つのネタを考えていたのですがなかなか筆が進まず、しかも本日は完成度5%の状態で飲み会に行ってしまい10時過ぎに帰宅したため、長く目指していた毎週日曜日更新に赤信号が激しく点滅する状態になってしまっています。そこで今回は、当初のネタは諦めて、拙ブログで採り上げるには新し過ぎるのですが、「BURGLARINPARIS(ARIZE,2003)」のご紹介でお茶を濁しておこうと思います。「BURGLARINPARIS」のフライヤー。「BURGLARINPARIS」が発売された時期のスロットマシン界では、表現力に優れるビデオスロットが従来のメカリールを一挙に過去のものにしてしまいそうな勢いで爆発的に広まりつつあった頃だったのですが、「BURGLARINPARIS」はリールを覆うガラスの部分を透...【小ネタ】初の透明液晶を搭載したスロットマシン

  • 初期の国産メダルゲーム機リスト(4)1977-1978

    初期の国産メダルゲーム機リストの最終回です。今回は、1977年と1978年の2年分を一挙掲載です。と言うのも、1978年は、売り出された国産メダルゲームのタイトル数は、ピカデリーサーカス類を除いて非常に少なく、独立した記事にできるほどのボリュームがないのです。警察庁の調査によれば、メダルゲーム場の件数は、1976年には1274軒、翌1977年は1544軒と、270軒増加しています(関連記事:TV報道番組に見る1978年のAM業界(4)1978年のゲーセンルポと(なぜか)メダルゲームの市場規模推移)。しかしその翌年の1978年、「インベーダーブーム」という社会現象が発生し(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(4)SpaceInvadersinvadedJapanin1988-1989)、それまで持...初期の国産メダルゲーム機リスト(4)1977-1978

  • 初期の国産メダルゲーム機リスト(3)1976

    今回は1976年の国産メダルゲーム機のリストです。今回も、本題に入る前にふたつ、お知らせがあります。まず、前回1975年の記事におけるリストに抜けが発見されたため、追加、修正を行いました。この機会にリストの並び順やリンクを見直しを行い、当初とは若干異なりましたので、もしダウンロードやコピペなどされている奇特な方がいらっしゃるのであれば、更新されることを強くお勧めします。ふたつ目として、その抜けの中に、後にメダルゲームの一ジャンルと言うべき存在に発展する「ピカデリーサーカス」が含まれています。このゲーム性自体は、前年に発売されたセガの5人用メダルゲーム機「ファロ」を一人用に翻案したに過ぎないものでした(関連記事:【小ネタ】一人用メダルゲーム「ピカデリーサーカス」とセガのファロ)が、現金(10円硬貨)の併用と...初期の国産メダルゲーム機リスト(3)1976

  • 初期の国産メダルゲーム機リスト(2)1975年

    今回は1975年の国産メダルゲーム機のリストです。と、本題に入る前に一つお知らせです。前回の1974年の記事で、「リストがスマホだと見づらい」との苦情が拙ブログの貴重な読者の一人である女房より入りました。実は、一行が短いスマホで見る場合には、行の途中で改行され、行とカラムの関係が壊れてしまうことは予見しておりました。そこで、当初リストは画像化して貼り付けることを考えていたのですが、機械の名前を文字で検索することができなくなってしまうので、そうなると資料としての使い勝手が悪く、また検索エンジンにも捕捉されにくくなると考えて、敢えてリストをテキストにしておりました。そんなわけで、今回も前回同様、リストはテキストで作成いたしますが、このシリーズの最後の回で画像化したリストを掲載いたしますので、スマホでご覧の皆様...初期の国産メダルゲーム機リスト(2)1975年

  • 初期の国産メダルゲーム機リスト(1)1974

    最近のTwitterで、「メダルゲームリストの同人誌でも作ったら需要あるのではないか」と言う趣旨のつぶやきを見かけました。そんなものがあればワタシもぜひ欲しいと思いますが、この分野の愛好家はピンボールやビデオゲームほど多くはないと思われ、望みは薄そうです。ならばワタシが作ってしまうかとも思いかけもしましたが、自称マニアにすぎないワタシでは網羅性や正確性を期待される資料を作成する自信はありません。しかし、2000年ころまでのセガのメダルゲーム機に限定すれば、完璧とは言わずとも95%~最大98%程度の網羅性、正確性を伴うリストを作れるかもしれません。それでも良ければと同人誌の作り方を調べてみたところ、やはりそれなりに費用はかかり、そしておそらく製作費を回収できるほど売れるとも思えず、近日中に歯科治療で結構な出...初期の国産メダルゲーム機リスト(1)1974

  • Sea Rescue (Midway, 1971)のフライヤーで思ったこと

    まだビデオゲームなんてものが無いか、またはそれほど普及していなかった1970年代前半のアーケード機は、当然ながら今でいうエレメカ機が基本でした。今回はそんな時代の1971年、Ballyに買収されて間もない米国Midway社が発売した「シー・レスキュー(SeaRescue)」のフライヤーのご紹介です(BallyがMidwayを買収したのは1969年)。シー・レスキューのフライヤーの表。ヘリコプターが、船乗りと思われる白人男性と、BQBな南洋の美人がいる南の島と思しきところにゲーム機を下ろしていますが、筐体の外観は小さく、よく見えないので拡大してみます。フライヤー表面の筐体部分。側面にはヘリコプターが救命ボートに縄梯子を下ろしているようなアートワークが見えるが、操作系がどうなっているのかはよくわからない。一体...SeaRescue(Midway,1971)のフライヤーで思ったこと

  • パンチボードで痛恨の記憶

    かつて、「パンチボード(PunchBoard)」というインスタント宝くじの一種がありました。後に世界最大の娯楽機メーカーとなる米国Bally社がまだ「ライオン・マニュファクチュリング(Lionmanufacturing)」を名乗っていた時の主力商品ですから、昔の話です。パンチボードの一例。これはラスベガスの「SpinettisGamingSupplies」で購入したもの。売値の35ドル(右上の値段表示)は案外高いと思うがこんなものなのか。パンチボードの起源はよくわかりませんが、英語版のウィキペディアによると、ギャンブリングを目的に18世紀に始まり、19世紀に最終形ができているようです。そして、過去記事「リズムボーイズ――スロットマシンの必勝法の話」にも登場したギャンブルゲーム研究家のジョン・スカーニーによ...パンチボードで痛恨の記憶

  • 「ケンタッキーダービー」と「玉ころがし」に関する続報

    前々回の記事「法政大学出版局「ものと人間の文化史188玉ころがし」のご紹介」の最後で、「昔のゲーム業界紙誌で『ケンタッキーダービー』と言うカーニバルゲームの記事を見た覚えがあるのだがみつからない」と泣き言を述べたところ、そのコメント欄で、拙ブログではもうおなじみの、カナダのCaitlyn(関連記事:カナダからの手紙withオールドゲームコレクション)が、「ゲームマシン紙の75年1月20日発行の「第13・14合併号」に掲載されている」と教えてくださいました。Thankyousomuch,Caitlyn.「ケンタッキーダービー」が新宿歌舞伎町の「カジノラスベガス」に導入されたとの記事。ゲームマシン1975年1月20日号の4面より。上述ゲームマシンの記事より、写真の部分を拡大。この記事にある「カジノラスベガス」...「ケンタッキーダービー」と「玉ころがし」に関する続報

  • スイカで暑中見舞い

    5年くらい前のことですが、日本のIT企業で働くインド人のシンさんが「ニッポン、暑いですね。インドより暑いです」と言うのを聞いて、これが本当のインド人もびっくりだと思ったものです。そして今年の夏も、東京は暑い日が続いています。夏と言えばスイカで、スイカと言えばスロットマシンのフルーツシンボルの中では最高位のジャックポットシンボルです。拙ブログでは、過去にこのスイカシンボルについて調査して、その起源を突き止めました。スイカシンボルの関連記事・夏だスイカだ!スロットマシンのスイカシンボルの話(2019.08.11)・スロットマシンのスイカ・初登場時期が判明!(2020.04.28)・スイカシンボルに関するファイナルアンサー(2020.05.10)スイカ以外のフルーツシンボルとしては、レモン、オレンジ、プラムが一...スイカで暑中見舞い

  • 法政大学出版局「ものと人間の文化史 188 玉ころがし」のご紹介

    今を去ること11年前の2011年、拙ブログではおなじみの米国Bally社が、「SKEEBALL(スキーボール)」というタイトルのスロットマシンを発表しました。Ballyが2011年に発表したスロットマシン「スキーボール」のボーナスゲーム画面。慌てて撮影したので若干ボケているのが悔やまれる。上の画面から、正面ボード部を拡大した図。ボケている画を画質調整しているので画面が汚い。「スキーボール」は、その終端が若干持ち上がってジャンプ台となっている長さ数メートルのレーンに、直径9㎝程の木製のボールをボウリングのように転がし入れてジャンプさせ、正面ボードに設置されている穴に入れて得点を競うゲームです。穴はいくつかあって、その大きさや位置によって異なる得点が異なります。スキーボールが開発されたのは20世紀初頭(190...法政大学出版局「ものと人間の文化史188玉ころがし」のご紹介

  • 初期の国産ピンボール機:Ari Baba(SEGA、1973)

    久々に初期の国産ピンボール機シリーズとして、セガの「アリババ(AliBaba、1973)」のフライヤーをweb上に残しておこうと思います。アリババのフライヤーの1面。ページの右半分は折り返されている。この頃のセガのピンボールのフライヤーは、1面の右半分を折り返しているものが多いです。これも「何か一つヘンなことをしないと気が済まない」セガの習性の現れなのでしょうか。アリババの場合は、折り返しを開くと、筐体の画像とゲームの説明が出てきます。折り返しを開いたところ。筐体の全容と、ゲームのルールが現れる。フライヤーからバックグラスの部分を切り取ってアングルを補正。同じくフライヤーからプレイフィールド部分を切り取ったもの。ゲーム料金が30円1プレイ、50円2プレイとなっているところが時代を感じさせる。フライヤーの裏...初期の国産ピンボール機:AriBaba(SEGA、1973)

  • 第九回アミューズメントマシンショウ(4)出展機種画像その3

    1970年10月に開催された第9回アミューズメントショウの出展機種画像その3です。機種名は全日本遊園誌1970年11月号の記載に従っており、誤りもそのままにしてあります。・五十音順出展社別で掲載しています。・無印=ワタシの手持ち資料。★印=拙ブログをご高覧いただいているさる凄い方から過去にいただいていた物。▲印=全日本遊園70年5月号、7月号、11月号、または71年1月号、4月号に掲載されていた記事・広告■印=遊戯機械名鑑'74/'75・ショウ出展時と販売時期は必ずしも一致するとは限りませんが、少なくともその機種が70年10月時点には存在していたことの証明にはなります。****************日本自動販売機:▲「ホークナイン」。全日本遊園70年11月号の記事中より筐体の拡大図と、71年4月号に掲載...第九回アミューズメントマシンショウ(4)出展機種画像その3

  • 第九回アミューズメントマシンショウ(3)出展機種画像2

    1970年10月に開催された第9回アミューズメントショウの出展機種画像その2です。機種名は全日本遊園誌1970年11月号の記載に従っており、誤りもそのままにしてあります。・五十音順出展社別で掲載しています。・無印=ワタシの手持ち資料。★印=拙ブログをご高覧いただいているさる凄い方から過去にいただいていた物。▲印=全日本遊園70年5月号、7月号、11月号、または71年1月号、4月号に掲載されていた記事・広告■印=遊戯機械名鑑'74/'75・ショウ出展時と販売時期は必ずしも一致するとは限りませんが、少なくともその機種が70年10月時点には存在していたことの証明にはなります。****************セガ:■「ジェット・ロケット」。ジェット機を操作して地上の目標を攻撃するゲームとのこと。youtubeに動...第九回アミューズメントマシンショウ(3)出展機種画像2

  • 第九回アミューズメントマシンショウ(2)出展機種画像1

    前回は、第9回アミューズメントショウ(1970年10月)に出展されていたゲーム機のリストをテキストで掲載しました。今回からは何回かに分けて、発見できたゲーム機の画像を掲載してまいります。・五十音順出展社別で掲載しています。・掲載画像の出典無印=ワタシの手持ち資料。★印=拙ブログをご高覧いただいているさる凄い方から過去にいただいていた物。▲印=全日本遊園70年11月号または71年1月号に掲載されていた記事・広告■印=遊戯機械名鑑'74/'75ショウ出展時と販売時期は必ずしも一致するとは限りませんが、これにより少なくともその機種が70年10月時点には存在していたことの証明にはなります。*****************オリエンタル興業:★「モンテカルロ」、「ワイルドサイクル」、「インベーション」、「スーパーマ...第九回アミューズメントマシンショウ(2)出展機種画像1

  • 1970年の第九回アミューズメントマシンショウ(1)

    現在も刊行が続く業界誌「アミューズメント産業」が創刊されたのは1972年ですが、アミューズメント産業以前にも機関誌紙を発行する業界団体は存在しました。しかしそれらは現在殆ど残っておらず、従って71年以前の業界事情を知ることができる資料は極めて少ないです。そんな中、オールドゲーム繋がりの友人で拙ブログにもしばしばコメントをくださるCaitlynがシェアしてくれた業界誌「全日本遊園」は極めて貴重です(関連記事:AM産業と業界誌の謎(1)(2)(3))。今回は、1970年秋に東京晴海で開かれた「第九回アミューズメントマシンショウ」の記事を取り上げておこうと思います。********************全日本遊園70年11月号では、「第九回アミューズメントマシンショウ」を評して、「一昨年あたりから、技術的なレ...1970年の第九回アミューズメントマシンショウ(1)

  • 1981年の新日本企画

    資料をひっくり返していたら、初期の新日本企画(後のSNK)のフライヤーが出てきました。頒布時期は明確ではないのですが、記載されている機種から1981年と推察されます。フライヤーは4ページ構成で、当時新日本企画が売り出していたビデオゲームが6機種と、ミニアップライト筐体が紹介されています。新日本企画が1981年に頒布したものと思しきフライヤーの表紙。「ORIGINALGAMES」と称して、「VANGUARD」のアップライト筐体がフィーチャーされている。1ページ目は、当時の最新機種と思われる、「ヴァンガード(VANGUARD)」(1981)と「サタンオブサターン(SATANOFSATURN)」(1981)が紹介されています。1ページ目。では「ヴァンガード(VANGUARD)」と「サタンオブサターン(SATAN...1981年の新日本企画

  • 1976年のバーリーの新製品騒動の話

    頂き物の、デジタルデータ化された古い業界誌を眺めていたら、「コインジャーナル」の1976年6月号23ページに、奇妙な記事を見つけました。その冒頭では、米国バーリー社の子会社だった「バリージャパン」の社長が、「バーリーサービス」、「エスコ貿易」、「マックスブロス」などバーリー社製品の大手ディストリビューターと、バーリー社の新製品について会談を行った、とあります。さらに記事を読み進むと、バリージャパンが「ブル・マーケット」という6カードビンゴ機の定価を公表し直販に乗り出すかと見られる動きに出たため、ディストリビューターたちが「輸入の総元締めが定価を公表するのは業界事情を無視している」と反発し、バリージャパンの真意を問い正すという内容でした。この記事を見て、業界紙「ゲームマシン」が、1976年7月1日号(第51...1976年のバーリーの新製品騒動の話

  • 【小ネタ】EXBAR TOKYO+(バーケイド)に行ってみた。

    朝からときおり激しく雨が降る先週金曜日、受診のために中央線某駅近くの某大学病院に行ったついでに、かねてより気になっていた、新宿南口の「EXBARTOKYO+(エクスバー・トーキョープラス)」に行ってまいりました。EXBARTOKYO+は、「タイトーステーション新宿南口ゲームワールド」の地下1Fにあるバーケイド(BARCADE:飲み屋のBARとゲーセンのARCADEとの合成語で、飲食とゲームを合体させた業態)です。年々事業所数が減り衰退の一途にありながら、法の制約によってなかなか画期的な打開策が打ち出せないゲーセン業界にとって、バーケイドという業態は、ゲーセンオペレーターが採り得る数少ない工夫だと思うのですが、日本ではあまり見かけられず、個人営業の小規模な店がいくつかあるくらいです。おそらくは、飲み屋となれば深夜...【小ネタ】EXBARTOKYO+(バーケイド)に行ってみた。

  • 【追加・訂正】AM産業と業界誌の謎(延長戦):ゲームマシン紙誕生の秘密判明

    本シリーズは前回で終了したつもりでおりました。しかし、前回の最後で「アミューズメント通信社の『ゲームマシン』紙ができたいきさつが見当たらない」と述べたところ、yagiza#hatiiさんがコメント欄にて、一本の動画をご紹介くださいました。この動画は、2016年4月16日~17日に沼津で行われたレトロゲームに関するシンポジウム「RetroGameÀLaCarte」で行われた、アミューズメント通信社の赤城真澄氏による「『それはポンから始まった』赤木真澄氏から見たアミューズメント史」の講演の記録動画です。ゲーム文化の保存と継承に、多大かつ継続的に貢献をなさっており斯界では有名なおにたまさんが主宰する「オニオンソフト」の「基板大好き」シリーズの一つとして公開されており、講演の進行もおにたまさんがなさっていました。聞き取...【追加・訂正】AM産業と業界誌の謎(延長戦):ゲームマシン紙誕生の秘密判明

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