井藤マサカツ さん プロフィール

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井藤マサカツさん: キテレツ諸子百家〜論語と孔子と、ときどき墨子〜
ハンドル名井藤マサカツ さん
ブログタイトルキテレツ諸子百家〜論語と孔子と、ときどき墨子〜
ブログURLhttp://ameblo.jp/tetsujin110/
サイト紹介文大手予備校の元漢文講師である私が「諸子百家」について、徒然なるままに語る部屋です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供158回 / 365日(平均3.0回/週) - 参加 2016/03/30 10:47

井藤マサカツ さんのブログ記事

  • 論語漫歩193 発見 歓びの旅
  •  子路の最期17  思えば我々の旅は、発見の連続の旅であった。我々はこれまで数多くの発見を共にしてきた。一、二例を挙げてみよう。論語漫歩184「子 南子に見ゆ」では、「かまど」が南子であることを発見した。これまでのすべての注釈家は、「かまど」を王孫賈と解釈してきた。古注『論語集解』に引くところの前漢の孔安国も、南宋の朱子の新注『論語集註』も、それらに拠る注釈家たちもみな。  我々が今、追究中の「十五志学 [続きを読む]
  • 論語漫歩192 申申如たり 夭夭如たり
  •  子路の最期16  前回、我々は、孔子が恩師・蘧伯玉の使者を絶賛するのを見た。なぜ孔子は使者を使者の本分を尽した、と言ってほめたたえたのか。それは、使者が主人の真髄を伝えることができたからである。彼は主人の日常について孔子に問われた時、次のように答えた。   夫子は過ちを少なくしようとして  まだできずにいます  使者のこの答を孔子はなぜ二度までも   使なるかな  使なるかな とほめたのであろうか。そ [続きを読む]
  • 論語漫歩191 孔夫子
  •  子路の最期15  我々は論語漫歩187「子と孔子1」以下で、憲問篇第25章の内容分析を後回しにして、その形式、すなわち孔子を前半では「孔子」、章末では「子」と記す意味を追求してきた。その結果、師や君主に対しては「孔子」、その他の場合には「子」と使い分けられていることを知った。  論語漫歩61「負函の日没」で、我々は野間文芸賞を受賞した、井上靖氏の名作『孔子』(新潮社)を取り上げた。この本は、天命と仁の探究 [続きを読む]
  • 論語漫歩190 丘や幸なり 過ちあれば人必ずこれを知る
  •  子路の最期14  前回、我々は述而篇第31章を読解した。今回はその解釈である。2通りの解釈がある。伊藤仁斎の説と彼以外のすべての注釈家の説との2通りである。先ずは後者から。  史記仲尼弟子列伝巫馬期の項は、この章の全文をそっくりそのまま引用し、最後に1行つけ加えている。   臣下たる者は、君主や親の悪について言うべきではなく、それを隠すのが礼である。 これによれば、孔子は昭公の非礼を先刻承知の上で、君主の [続きを読む]
  • 論語漫歩189 呉孟子
  •  子路の最期13  前回、我々は「子」と「孔子」の使い分けの第2の例として、述而篇第31章をのぞいて見た。今回はその読解である。これは、孔子一行が陳国に滞在した、B.C492年〜B.C489年、孔子61歳から64歳の時のこととされる。   陳国の司法大臣が、魯国の君主昭公について問う。  昭公は礼に明るいですか  孔子が答える  ハイ、その通りです  孔子が退場した後で  司法大臣が孔子の弟子の巫馬期にお辞儀をして言う [続きを読む]
  • 論語漫歩188 子と孔子2
  •  子路の最期12  前回、我々は論語では普通は孔子を「子」と表記するが、対話の相手が君主や師のように尊い場合は「孔子」と表記することを知った。  憲問篇第25章では、孔子が師と仰ぐ蘧伯玉の使者には、敬意を表して「孔子」と表記し、使者が去った後の、内輪の場面では「子」と使い分けているのを見た。  述而篇第31章も同様である。先ず全文を引用しておこう。   陳の司敗(司法大臣)問ふ  昭公は礼を知るか  孔子 [続きを読む]
  • 論語漫歩187 子と孔子1
  •  子路の最期11  孔子一行は衛国滞在中、蘧伯玉の家に寄寓した。彼は孔子が師と仰いだ6人の中の1人であった。14年に及ぶ放浪の末、魯国に帰国した孔子のもとへ、彼が見舞いの使者を送ってきた。その時の様子が憲問篇第25章に記されている。全文を引用しよう。   蘧伯玉 人を孔子に使はす  孔子これに坐を与へて、これに問ふ  曰く  夫子何をか為す  こたへて曰く  夫子その過ちを寡くせんと欲して  い [続きを読む]
  • 論語漫歩186 孔子の師・蘧伯玉
  •  子路の最期10  衛国を支えた、第5番目の賢者・蘧伯玉の登場である。彼は前回の表題となった。すなわち衛霊公篇第7章の孔子の言葉である。    君子なるかな蘧伯玉  史記仲尼弟子列伝の冒頭に、孔子が師と仰いだ6人の人物の名が挙げられている。    周の老子   衛の蘧伯玉   斉の晏子(あんし)   鄭の子産   楚の老莱(らい)子   魯の孟公綽(しゃく)  晏子と子産は、春秋時代を [続きを読む]
  • 論語漫歩185 君子なるかな蘧伯玉
  • 子路の最期9  前回、我々は有名な「孔子 南子に会う」に触れた。この絶世の美女・南子と天下の賢者・孔子の面会の様子を史記孔子世家は次のように描写している。   孔子が頭を床につけてお辞儀をした  薄い帷(とばり)のむこうで  南子が再拝した  その時  南子の腰に帯びた玉が  サラサラと  美しく鳴り響いた  さて、無道の霊公を支えた6人の賢臣のうちの3人の記述が終った。次は蘧伯玉と史魚 [続きを読む]
  • 論語漫歩184 子 南子に見ゆ
  •  子路の最期8  八佾篇第13章は難解である。諸説紛紛いまだに結着を見ない。ただ、「かまど」を王孫賈とする点では、ほぼすべての解釈家が一致している。本当にそうであろうか。  『左伝』が救国の名臣とたたえ、孔子が国を支える賢臣とたたえる王孫賈が、天下の賢者・孔子に対して、霊公に媚びるより私に媚びなさいなどと言うであろうか。およそ考えられないことである。 それでは一体正しい解は何か。  その [続きを読む]
  • 論語漫歩183 その奥に媚びんよりは
  •  子路の最期7 前回我々は、B.C.502年に超大国・晋の「力」による外交を、「礼」によってはね返し、また、無道の霊公を補佐して衛国を滅亡から救った賢臣・王孫賈の活躍を見た。  ところが、この名臣の、奇妙で難解な言葉が八佾篇第13章に記されている。先ず全文を引用しておこう。    王孫賈が問うた  その奥(おう)に媚びるよりは  むしろかまどに媚びよ  という諺がありますが  どういう意味でしょ [続きを読む]
  • 論語漫歩182 王孫賈
  •  子路の最期6  前回、我々は衛の霊公を補佐した3人の賢者のうち、仲叔圉と祝鮀の2人に言及した。今回は王孫賈についてである。  『左伝』定公8年B.C.502年、晋の軍と衛侯が血をすすって盟(ちか)いをすることになった。その時、超大国・晋はその強大な「力」に驕りたかぶり、衛国を国とは認めず、晋国の1邑程度に過ぎぬ、とみくびり、あまつさえ、盟いの血をすする時、衛侯の手を、血を盛った盤に強く押しつけて腕 [続きを読む]
  • 論語漫歩181 かくのごとくんばなんぞそれほろびん
  •  子路の最期5  前回、我々は論語第15篇の篇名に取り上げられた「衛霊公」が無道であったにもかかわらず滅亡しなかった理由として、6人の賢者の存在を知った。全文を引用しよう。憲問篇第20章である。   子 衛霊公の無道を言ふ  康子曰く  それかくのごとくんば、なんぞほろびざる  孔子曰く  仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ) 賓客を治め  祝鮀(しゅくだ)  宗廟を治め王孫(おうそん)賈(か) 軍旅を治む   [続きを読む]
  • 論語漫歩180 衛霊公
  • 子路の最期4  前回登場した南子の夫、衛霊公は論語第15篇の篇名となった人物である。彼が衛国の王位に即いて38年目、すなわちB.C.497年に孔子が来朝した。霊公は孔子を魯国で受けていたのと同じ俸禄で優遇した。  さて、衛公は最愛の美少年・弥子瑕に政治の全権をゆだね、また彼の妻の南子は祖国から愛人の宋朝を呼び寄せ、醜聞を天下に撒き散らしていた。 69歳で魯国に帰国した孔子が、ある日、朝廷の座談の席であ [続きを読む]
  • 論語漫歩179 南子登場
  •  子路の最期3  前回、絶世の美男子・宋朝が登場した。論語にも「宋朝の美」と称せられ、美男子の代名詞のように使われている。彼こそは、子路の非業の死の遠因となった人物である。  さて、宋国に美貌の王女がいた。南子である。彼女と宋朝は相思相愛の仲であった。 彼女は衛国に嫁ぎ、王妃となった時、夫の霊公に頼んで、宋国から宋朝を呼び寄せて大夫とし、関係を続けていた。  これは天下の醜聞となった。 [続きを読む]
  • 論語漫歩178 宋朝の美
  • 子路の最期2  宋の国に絶世の美男子がいた。名を宋朝という。子路非業の死の遠因となった人物である。 雍也篇第16章に    宋朝の美 として登場する。全文を引用してみよう。   子曰く  祝鮀(だ)の佞あらずして  宋朝の美あるは  難(がた)いかな 今の世に免れんこと 「佞」はこれまで我々のブログでは、「巧言令色」として排斥されてきた。   君子は言に訥にして  行に敏な [続きを読む]
  • 論語漫歩177 由がごときは、その死を得ざらん
  • 子路の最期1  我々は、先進篇第17章の    由や諺(がん) の証明中である。論語漫歩133「由や諺」で述べたように、「諺」は、「がさつ、不作法」という意味であった。  子路のこの性質を証明する章は論語に溢れていて、とてもではないがそのすべてにふれる余裕はない。そこで2章だけ取り上げることにした。そのうちの一つが、前回分析の終わった、先進篇最終章であった。孔子の発言が終わるか終わらない [続きを読む]
  • 論語漫歩176 生きたポンペイ
  •  先進篇最終章読解最終回  我々はついに論語最長の章、先進篇最終章の読解の最終回に到達した。この章の読解に、思いがけず43回も費やしてしまった。さて最終場面である。子路がへり下ることなく、「国」を治めたい、と大言したことを孔子が笑ったと受け取った曾点が質問を続ける。 しかし、求(冉有)の発言も、同じく「国」を治めることではないでしょうか。(しかるに、先生はなぜお笑いにならなかったのでしょう [続きを読む]
  • 論語漫歩175 何ぞ傷(いた)まん
  •  先進篇最終章読解第42回  我々は、子路の発言に対して「孔子が哂った」真意を探求してきた。 3子の発言が終ってもなお発言をしぶる曾点に向かって孔子が言う。   何ぞ傷(いた)まん  またおのおのその志を言ふなり、と。 孔子は言う、あれこれ思い悩むことなどない。ざっくばらんに思ったこと、やりたいこと、自分の夢を気楽に語ればよいのだ、と。  朱子が考えたような、弟子の発言の「矛盾」を笑 [続きを読む]
  • 論語漫歩174 朝(あした)に道を聞かば
  •  先進篇最終章読解第41回  前回、我々は74歳の没年を目前にしていささかも衰えをみせぬ孔子の姿を見た。孔子は70歳を過ぎてなお「道」の実現をあきらめてはいなかったのである。    九夷に居らんと欲す(子罕13)  14年間の長きにわたって中国の国々を遍歴した孔子は、70歳になってもまだ「道」の実現に燃えていたのである。孔子の衰えを知らぬ、この熱き心を鮮やかに我々に見せてくれたのが、子貢の巧みな [続きを読む]
  • 論語漫歩173 売らんかな 売らんかな
  •  先進篇最終章読解第40回  前回、海外、九夷への亡命が、70歳代の孔子の心に生じたと判断する、第1の根拠を述べた。今回は第2の根拠についてである。  その根拠は、今考察中の「九夷に居らんと欲す」のすぐ前の章、子罕篇第12章中にある。 これも論語の隣接する章にしばしば見られる、緊密な関連の1例である。先ず全文を引用しよう。   子貢曰く、  ここに美玉あり  大切にしまっておきましょうか  そ [続きを読む]
  • 論語漫歩172 遅々として吾行く
  •  先進篇最終章読解第39回  さて、海外、九夷への亡命は、いつ頃孔子の心に生じたのであろうか。  それは恐らく70歳を過ぎた、晩年のことであろうと思われる。なぜそう思うのか。その根拠が2つある。今回はその第1の根拠を取り上げよう。  『孟子』万章下首章に、孔子が祖国魯を去って他国に行く時の言葉が記されている。    遅々として吾行く 「ぐずぐずためらいためらいしながら私は出て行く」 [続きを読む]
  • 論語漫歩171 予言者?孔子
  • 先進篇最終章読解第38回  前回、我々は道無き中国に絶望し、未開野蛮の地に新天地を開こうと思い立つ孔子の姿を見た。子罕篇第13章である。今一度全文を引用しよう。   子 九夷に居らんと欲す  ある人曰く  陋(いや)し。これをいかんせん  子曰く  君子これに居る  何の陋しきことかこれあらん 孔子が九夷への移住を希望した。ある人が言う、 九夷は野蛮未開の地でいやしい。とてもでないが [続きを読む]
  • 論語漫歩170 九夷に居らんと欲す
  • 先進篇最終章読解第37回 我々は今「孔子哂ふ」の真意の探究中である。前回、我々は公冶長篇第6章「道行はれず、桴に乗りて海に浮かばん」が「孔子哂ふ」の章と一脈相通ずるのを見た。  そもそも「志」が発生するのはなぜか。時代が閉塞しているからではないか。幾重にも閉塞された時代の空気を破るべく、「志」は生まれるのではなかろうか。  鬱屈した孔子の気持に大きな風穴をあけたのが、子路のあの雄大な「志 [続きを読む]
  • 論語漫歩169 桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん
  • 先進篇最終章読解第36回 我々は今「孔子哂ふ」について考えている。この「孔子哂ふ」と一脈通じるのが公冶長篇第6章である。 子曰く、 道行はれず。桴に乗りて海に浮かばん。我に従ふ者は由か。  子路これを聞きて喜ぶ。  子曰く、  由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なし。 非常に有名な章である。桑原武夫氏は言う。(『論語』昭49 筑摩書房P118 P119) 孔子にもやりきれない瞬間があった [続きを読む]