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赤ひげのこころ https://blog.goo.ne.jp/akahigestart01

お客様の遺伝子(潜在意識)と対話しながら施術法を決めていく、いわばオーダーメイドの無痛療法です。

赤ひげのこころ
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2016/05/05

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  • 三春藩士時代の 菅家関連資料 ⑤ 田村乃小史(家中本席)

    *(田村乃小史59~63頁)安政五年四月三春藩家中本席御城代御大老四百石細川孫太郎~百五十石諸奉行。御譜代席七百石秋田調~百五十石湊潤蔵まで4人一代席十五人扶持荒木規~二百五十石大浦恵蔵まで18名に続いて御留守居元〆郡代上席町奉行大目付作業奉行郡奉行とあり一代上席二百五十石赤松主馬~十三人扶持上田挑安までの氏名が記されている。一代上席の37番目に第7代当主菅甚五の名が記されている。最後に以上百四十四人と記されているが、どこからの人数なのかは不明。給人席天保年間以降新規給人に仕ふ。十人扶持園部権蔵~十人扶持根本一郎まで十三人の名が記されている。*(田村乃小史64~65頁)新給人十三人享保十年より安政五年迄百三十年間士族の変動多く、殊に嘉永・安政の頃に至りては人材の登用の必要に迫られ、旧来の如きお家格式を以て治国す...三春藩士時代の菅家関連資料⑤田村乃小史(家中本席)

  • 三春藩士時代の 菅家関連資料 ④ 田村乃小史(分限帳)

    *(田村乃小史53~57頁)享保十巳年秋田頼季家臣分限帳(写)八百石荒木金右衛門~百石桑島彦六までの名が記され、計百三十三人とある。藩中御礼席弘化二年正月御城代大老御年寄御用人御番頭細川家客分家老秋田家の名家竹鼻秋田山館秋田中津川秋田東秋田北畠秋田檜山秋田大浦秋田大谷秋田等々皆一族*秋田頼季家臣計百三十三人の中に、菅家初代菅市三郎(助右衛門/正長、正嗣とも)の名が記されている。家禄百石となっているが、三春藩主第二代秋田阿波守盛季(もりすえ)公に召され、仕官していた当時の延宝4年(1676)知行帳には大目付武具宗門役料として別途百石、五人扶持。計二百石五人扶持知行となっている。*編者注・享保十年:1725年。幕府では8代吉宗の時代。享吉宗は大岡越忠相を登用し江戸町火消や目安箱、小石川療養所の設置等「享保の改革を実...三春藩士時代の菅家関連資料④田村乃小史(分限帳)

  • 三春藩士時代の 菅家関連資料 ③ 田村乃小史

    田村乃小史影山筆*表紙は田村清顕公の直筆の掟書きの一部の写真を用いた装丁となっている。*田村清顕公の掟書原本(福聚寺宝物)とその解読書写し(ゝ部、文字不明)一、向後入寺之者依子細被指置候共門外不出以ゝ勘忍可被指置候若請御造作候者共身可ゝゝ及事一、寺中不行儀者被指置間敷事一、於御門前悪名之者候者老父如一筆可及取刷事天正十年壬午二月吉日清顕花押福聚寺進献*田村乃小史奥付*編者注・田村乃小史:もともと田村郡史跡保存会の会員向けに少数発行された小冊子。著作及び編集は三春町尼谷の新聞記者、影山常次氏。旧中妻村の神山文書を基にして書かれたものとされる。著者の序文に始まり、田村郡の沿革、政治、経済、芸術宗教、学術、凶作、道徳その他の資料によって構成されている。特に三春地方関連資料が豊富な、175ページに及ぶ貴重な小史。*手元...三春藩士時代の菅家関連資料③田村乃小史

  • 三春藩士時代の 菅家関連史料 ② 舞鶴城下絵図 他

    三春町全図鹿山筆寛政五年八月吉日*編者注・寛政五年:(1793)絵師鹿山による三春町全図の一部である。菅家第六代市三郎・正福(まさよし)の屋敷割が載っている。・舞鶴城:地図中、城の名前が舞鶴城となっているが、これは城の雅称の一つで、三春城のほかにも太田、甲府、村上等、各地の城の別称として用いられていた。******秋田家御家中に関する古文書春士秘鑑A(右上)・同B(右中)春陽士鑑(右下)世臣譜(左上)・続世臣譜(左下)*****九二菅家紋向こう梅(正しくは丸に向こう梅)槍印黒漆出自先主松平伊予の守(備前池田殿内関左門家中)新庄殿口入れ士官陽雲院代慶安年中歴代①助右衛門正嗣(まさつぐ)②傳左衛門正辰(まさとき)③市三郎津膳・正勝(まさかつ)④篤之進正浮(まさうね)⑤積(つもり)・助右衛門正喜(まさよし)*歴代の詳...三春藩士時代の菅家関連史料②舞鶴城下絵図他

  • 三春藩士時代の 菅家関連史料 ① 相続申付書

    *第七代菅甚吾が隠居し、第八代津膳が跡目を相続するにあたっての藩庁からの申付書。菅甚吾同津膳甚吾首尾能(よく)隠居倅(せがれ)津膳相続申付定禄十六石下賜候事辛未正月藩庁三春藩印*編者注・辛未(かのとひつじ)正月:甚吾・津膳の年代と合わせると、明治3年(1871年)の事と思われる(甚五は明治6年5月52歳で逝去)明治政府による廃藩置県が断行されるのは、明治4年7月14日(1872.8.29)になってからの事である。*家禄等の説明書き百石の家禄とは代々世々家について賜ったものにして、その家に永代付いて居り、家督相続し、役に付けぬ人は百石のみである。御近習とか大目付役とか、それぞれ役が付くと何十石とか何人扶持または何両何人扶持(と)加増されるものです。菅の家で一番職を兼任多くした人で、奥家老兼大目付。家禄と併せ二百拾...三春藩士時代の菅家関連史料①相続申付書

  • 菅 家系記録 ⑭

    皇太子殿下御下賜金八拾疋酒饌料右大正七年六月十二日當部行啓ノ砌御下賜ノ處各關係員ヘ配分スルモノ也大正五年七月十五日軍馬補充部白河支部長早川治甫牧手菅喜代亀殿両皇子殿下御下賜金六十疋酒饌料右大正五年八月二十二日當部ヘ行啓ノ砌御下賜ノ處各關係員ヘ配分スルモノ也大正五年九月十日軍馬補充部白河支部長早川治甫牧手菅喜代亀殿*編者注菅喜代亀は編者の祖父。・金八十疋:きんはちじゅっぴき。今の価値にしておおむね8万円位?疋は、古くは布地(特に絹布)2反分の事。中世(鎌倉・室町時代)に銭の単位として使われた。100疋=一貫文=1000文。100疋でおおむね10万円~15万円位か。・酒饌:酒や食べ物のこと。・行啓の砌:ぎょうけいのみぎり。行啓とは皇后、皇太后、皇后、皇太子等がお出ましになる事。砌は丁度そのことが行われるとき。・處:...菅家系記録⑭

  • 「わが青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 23(最終回)

    *22からの続き。(食糧不足と重労)働に加えて精神的心労。パパ曰く、「百姓の嬶ちゃん、隣の親爺とよろしくやってるやろ」(心のゆとり。其の物ズバリ。農業を営んでる者ならたとえ死んでも、家族は何とかやって行けるだろうが)彼達絶対に帰らなければならん者が・・・ああ無情。其の者達が斃れて行く。舞鶴の港に、幼子背負い何に人か尋ね歩く婦人が一人。斯く斯くの兵、ご存知有りませんかと。某県出身と云ってたから若しや?その若しやが。だが俺には云えなかった。好いか、悪いかではない。岸壁の妻か。会者定離。諸行無情。楽しいはずのない軍隊生活。ましてや捕虜生活だったが、今となっては思い出話に変わる。苦しいことも珍談にさえなる。軍人勅諭に縛られ、戦陣訓(恥を知れ。恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪...「わが青春の譜」菅房雄のシベリア抑留記23(最終回)

  • 「わが青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 22

    *21からの続き。(終戦の齎した(もたらした)もの。そ)れは肉体的、精神的にもあまりのにも過酷で有った。特に在満開拓民。政府に見捨てられ、軍部亦然り。棄民。そう、棄てられた民。あまりにも残酷。あまりにも悲惨。軍部の家族が逃げ、満鉄の家族が逃げ。只残されたのは王道楽土の建設と?(建設とか?)国策とか、美名の下に送り出され、棄てられた開拓民よ。棄民哀れ。根こそぎ動員、残された老幼婦女子、あるいは自決。あるいはソ連兵に。暴徒と化した原住民のなすが儘。其の帰着する先は、死か。父も死んだ、母も。ビルマに転戦した兄もマンダレーの地に散華。飢餓の線を彷徨い、死と隣り合わせ乍らも、何とか持ちこたえて、現在兄夫婦、甥、姪の住む那須山麓に降り立ったこの身。墓場に眠る者よ静かに眠れ。(幾百萬の魂、墓場に眠る事もなく、異国の空を彷徨い...「わが青春の譜」菅房雄のシベリア抑留記22

  • 「わが青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 21

    *⑳からの続き。(オオ日本の女性)だ。が、脚線の伸びた彼の国の女性を見慣れた目には、一寸いただけない感じ?若かった。昭和二十四年十月三十日午後四時頃?舞鶴港の復員列車。燈の灯るころ京都駅着。窓越しに見えるのはフォームに貼られたロープ(運動会の綱引き位の一寸細め)。そして二米間隔位に立つポリ公の背中。一寸止まっただけで直ぐ出発。真夜中名古屋駅。御同様ロープとポリ公の背、背、背。フォームを隔てた客車ではヤンキーの馬鹿騒ぎ。夜が明け、暫くして静岡駅着。婦人会のタスキを掛けた御婦人方に(若い娘も居た)ご苦労様でしたと、お茶の接待を受ける。涙に目が霞んで母の顔、姉の顔が交錯する?何のためのロープ。ポリ公の厳戒。何故だ何故?何のため。胸中去来するものは、空しさと阿呆らしさ。四年間の空白。それを埋めるものは?昨年(昭和二十三...「わが青春の譜」菅房雄のシベリア抑留記21

  • 「わが 青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 ⑳

    ⑲からの続き.(ましてや独特の作業従事していた奴等。帰りたい)一心での檄」(であろうと)。更には、ソ連讃歌云々と。頭にきて、この野郎と思えど、今まで我慢に我慢を重ねてきたものをと。分隊の中で一番の若輩が俺。四十過ぎた召集兵の胸中偲べば、同じ日本人が、日本人に?十人十色と云うが此処まで来て今更と。幾日位汽車に乗ったか、昨日見た煙、位置こそ違え、今日も亦見える。アムール(河)の船の煙か。懐かしいハバロスクも過ぎ、沿線樹木の種類も変わって来る。愈々ナホトカ?日暮れ時、ナホトカ着、幕舎に入る。間もなくオルグ来たり。檄を飛ばし労働歌斉唱。床に就く。目が冴えて眠れず。翌朝起床、海辺の収容所、トイレ水洗。海中に突出して居る。波荒いときはうっかりしては居られない。用足せば波がザンブリ。此れが本当のWC?昨日車窓から見えた興案丸...「わが青春の譜」菅房雄のシベリア抑留記⑳

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