よなたん さん プロフィール

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よなたんさん: いちじくの木の下で
ハンドル名よなたん さん
ブログタイトルいちじくの木の下で
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/under_the_figtree
サイト紹介文聖書を読んで感じたことを書いています。興味を持った方は順に読んでみてください
自由文10年も毎日読み続けるなんてよっぽど聖書が好きなんでしょうね。だいたい1章読むのに2時間は必要です。なお、聖書は新共同訳を使っています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供406回 / 365日(平均7.8回/週) - 参加 2016/05/14 11:16

よなたん さんのブログ記事

  • 29問題の先送り①
  • ダビデの問題は晩年に集約されそうですが、晩年のイメージはとても弱々しい感じです。問題に蓋をしてそこを見ないようにしているように思えます。親は息子同士の争う姿を見たくありません。互いに傷つけ合う息子の姿を見れば、どんな親でも心を痛めて、目を伏せるでしょう。子どもの血など見たくもありません。子どもが死のうものなら、強い悲しみに襲われ、なかなか立ち直れないでしょう。それはダビデ王であっても同じことでした [続きを読む]
  • 28王の責任転嫁③
  • 「主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる」というサムエルの言葉を聞いて、罪を認める覚悟はしたものの、「わたしは兵士に唆されたのです。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました」と、責任転嫁はさらに激しくなりました。そして、サムエルに「わたしは唆されただけなのですから、わたしを赦し、わたしと一緒に帰って、主を一緒に礼拝してください」と願います。しかし、この願いは王位にしがみついていただけなの [続きを読む]
  • 28王の責任転嫁②
  • しかもサウルは、この勝利を自分の功績だと考え、自分のために戦勝碑を建てたのです。主が怒り、サムエルがサウルを咎めようとしたのは当然のことです。ところが、サムエルがサウルのもとを訪れたとき、サウルは「わたしは主の御命令を果たしました」と胸を張って言うではありませんか。サムエルが「この羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか」と問い詰めても、「これはわたしが取って来たものではありません兵士がアマレク人 [続きを読む]
  • 28王の責任転嫁①
  • とうとう28話までやってきました。あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、前回でまとめに近いような話に入ったのですが、最後にもう一度、サウルと、ダビデの罪を考えておきたいと思います。罪をテーマに聖書を読んでいったときにどうもこの二人だけは罪に対する神さまの接し方が違うように思えて仕方ありません。何が違うのかはわからないのですが、イスラエルの王としてうまくいきそうでうまくいかない人間の本質のようなものが [続きを読む]
  • 27罪を認める②
  • 悪いと思ったことを伝え謝るだけで良いはずです。このことによって罪を断ち切ることができるのです。言い訳はだれも聞いていません。言い訳を前に黙って聞いている人がいたとしても、ほとんど内容は気にしていないはずです。普通は言い訳を聞きたいとは思っていません。それよりもこれからのことを考えているのが普通です。相手が約束の時間に遅れて来て、寂しい思いを過ごしたというのであれば、一言の謝罪と、その失った時間を取 [続きを読む]
  • 27罪を認める①
  • 自分の罪を認めることはそんなに難しいことなのでしょうか。悪いと思ったことをそのまま口にするという、たったそれだけのことがなかなかできません。悪いことをしたと思った時に、まず考えるのは言い訳です。悪いことをしてしまったが、それは不可抗力だったという理由を考え、その行為の原因は他者にあるのだと説明します。言い訳をする相手には、あなただって同じような状況に置かれれば同じような失敗をするであろうことを何と [続きを読む]
  • 26心の蓋②
  • ダビデは死を間際にして、心の蓋を取り除く決意をしました。恐る恐る蓋を取り除いたら、そこには今までの罪が詰まっていました。罪を一つ取り除くとそこにはたくさんの後悔の念がくっついてきます。そこにいつ神さまの怒りが現れるのかと思うと怖くて仕方ありません。ダビデの震えは神の怒りに対する恐怖だったのでしょう。一つの罪を取り除いて、神さまの叱責を浴びなかったと安心しても、すぐ次の罪を見つけることになります。そ [続きを読む]
  • 26心の蓋①
  • 自分の心に蓋をしてしまったダビデは大事な力を一つ失うことになってしまいました。それは神さまとのつながりです。細く狭い道であったかもしれませんが、ダビデは神さまとしっかりつながっていました。ダビデはその道に蓋をして閉ざしてしまったのです。ダビデは一番大事な力を失ってしまいました。その後ダビデが神さまに祝福されなかったことは明らかです。バト・シェバの子どもの死から不幸は始まりました。タマルのこと、アム [続きを読む]
  • 25罪を取り除く愛②
  • 神の掟は、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かるのです。そして御父もまたわたしたちを愛してくださっています。わたしたちは神の子となってこの世で過ごすことにより、御子が現れると [続きを読む]
  • 25罪を取り除く愛①
  • 2週間、別のテーマで書いていたので、どこまで書いたっけ???という状態でしたが、ノートを見て、思い出しました。ヨハネの手紙によって、罪について考えてみましょう。 罪を犯す者は皆、法に背いています。そして悪魔に属しています。正しい生活をしない者、愛することのない者は、神に属しておらず、死にとどまったままです。人を憎む者は人殺しで、その人には永遠の命がとどまっていません。世の富を持ちながら、必要な物に事 [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑭
  • <13話の予定で始めたこの取り組みですが、もう一日おつきあいください。>神さまに願い事をするために供え物は必要ありません。赦してもらうために犠牲は必要ないのです。献げ物も「いけにえ」もいりません。立派な供え物をする人の望みが叶えられて、供え物を用意できない貧しい人々の望みが無視されるなんてことはありません。神さまはそんなものを要求していないのです。神さまに何か願い事をしたいと思ったらどうしたらよいの [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑬
  • ここまで書いて、大事なことを忘れていたことに気づきました。「いけにえ」のことを考えた時、もうひとつどうしても忘れてはいけない大事な出来事があったのです。神さまは、ひとり子であるイエスさまを「いけにえ」として人間にささげました。今まで、「過越しのいけにえ」としてイエスさまがささげられたことがうまく理解できなかったのですが、すこしわかったような気がしました。普通ならまったく役に立たない「いけにえ」とい [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑫
  • いろいろと考えてきました。こうして見直してみると、「いけにえ」や「献げ物」は人間の奥深くに潜む自己中心的な概念の現れなのではないかと思った方がよさそうです。この概念は聖書の中だけの話ではありません。わたしたちもまた今なおこの概念を持っているのです。願い事をする時に、真剣に願えば願うほど、何か代償を払った方が願いが叶いそうな気がします。遠くの聖地に巡礼に出かけた方が、ご利益がありそうだとか、断食行を [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑪
  • モーセの行動を見て誰かが勝手に書き記したことによって誤解が生じたのかもしれませんが、神さまはそのことも含めてご存知だったでしょう。「いけにえ」に対して言及も命令もしていなくても、人々が実行することを認めたことは確かです。それを認めた理由として考えられるのは、これらが頑なな民を納得させるために生まれた規定だったということです。過去の風習を止めるのはとても大変なことです。すくなくとも、ここまではよい、 [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑩
  • エレミヤの預言の中にこんな言葉を見つけました。「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物や「いけにえ」について、語ったことも命じたこともない。」(エレミヤ7:22)一瞬目を疑う言葉かもしれませんが、神さまは「いけにえ」を命じておられないのです。だとしたらレビ記の規定は何だったのでしょう。ここまで神さまが「いけにえ」を否定されていたのではないかと考えて話を進めてき [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑨
  • この「いけにえ」をささげるという考え方が間違っていることはもはや明らかです。神さまは畏れ敬う存在であり、賛美と感謝をもって接し、神の僕と働く中で、神さまの恵みを頂くという姿勢が人間の姿だと思うのですが、いつのまにか人間は神さまと等価交換を求めて対等な関係を持とうとしてきたのです。神さまは牛でも羊でも鳩でも雀でも穀物であってもその命に重みづけをしたりはしません。真剣に願えば神さまはその願いに必ず応え [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑧
  • 犠牲と言う概念は、神さまから命じられたからではなく、人間がしたくてやっている行動のように思えてきます。もし、こんなことは無駄だから明日からやめるようにと、どんなに偉い権力者から命令されても、偉大な預言者から忠告されても、きっとだれ一人として止めることはないでしょう。何か大きな力に依り頼むことは人間の本能だと言えそうです。だとしたら、神様がモーセに命じた「いけにえ」はいったい何だったのでしょう。もは [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑦
  • 神殿や神社、寺社仏閣に出かけ、僅かばかりの賽銭を投げ入れる人々はたくさんいますが、その人たちはどれだけご利益を期待して手を合わせているのでしょうか。実際のところ、それほど期待してはいないのではないでしょうか。その後に買い求めるお守りやおみくじよりも少ない額で本当に願い事が叶うとは思っていないのです。さらにちゃんと願い事をしたい時はお酒やお米など奉納物を用意し、多額のお金を包み、正装して出かけ、礼を [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑥
  • さて、献げ物や「いけにえ」はずっと、神さまが差し出すようにと命じてきたことだと思っていたのですが、カインとアベル、ノア、アブラハムのこれらの話はいずれもレビ記よりもずいぶん前の出来事です。ですから、本当のところは神さまの命令ではないのかも知れません。犠牲を差し出すのは人間の根底にある、本質的な概念の一つなのかも知れないと思えてきます。「いけにえ」は神さまの命令ではなく、人間が自分の自己満足を達成す [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま⑤
  • ここまで来て、アブラハムのことがちょっと気にかかりました。アブラハムは神さまに命じられてイサクを「焼き尽くす献げ物」にしようとしました。確かに神さまはイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるよう命じたと書いてあるのですが、アブラハムはその言葉が何を意味しているのかすぐに分かったのですから、これはすでに人類の風習として人々に根付いていたということを意味しているはずです。何の疑問も持たず出発したアブラハ [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま④
  • 聖書を遡ってみると最初に献げ物をしたのはカインとアベルです。ですから人類が世に誕生してからずっと、人間は神さまに物を献げてきたということになります。カインとアベルのときは感謝の気持ちを表現したいとか、敬意を表して、とかいうような考えを具体化した行為だったのかも知れません。しかし、カインの様子を考えると、それだけではなさそうです。見返りを求めて献げ物をしているようにも思えるのです。「もっと収穫を増や [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま③
  • 聖書を調べてみると、旧約聖書と新約聖書を併せて「献げ物」という言葉が962回、「いけにえ」ということばが206回、供え物という言葉が66回みつかりました。それらの言葉が現れる節の数は828です。そしてこれらの言葉が一番出てくる書物はレビ記です。献げ物の規定があるのですから当然です。ビ記と民数記だけで半分が登場することになります。しかし時代を経るに従い、献げ物の言葉は次第に少なくなり、出て来ても肯定的な言葉に [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま②
  • 「献げ物」といえばレビ記です。「焼き尽くす献げ物」から始まって7章まで延々と献げ物の規定が続きます。献げ物とは言っても、これが「いけにえ」であることに間違いありません。何の理由もなく動物たちは殺されて焼かれてしまうのです。神さまはどうして、こんな残酷なことを命じたのでしょう。ところがその一方で、神さまは「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホ [続きを読む]
  • いけにえを求める神さま①
  • 聖書の中で「いけにえ」や「献げ物」は大きな問題として取り上げられています。しかし、どうして神さまはこんなことを命じたのかと疑問に思う人は多いようです。「神さまが『いけにえ』を命じた」という矛盾にも近い疑問は、聖書を読む誰しもが持っている疑問なのかもしれません。このことはわたしも疑問に思っていたことなのですが、はっきり言って、どのようにして考えたらよいか分からないと思うほど難解なテーマですので、考え [続きを読む]
  • 24罪を認めない③
  • 百人隊長のコルネリウスはなぜ、イエスを信じたのでしょうか。以前の彼はユダヤの神を信じていました。彼にとって、イエスの出来事は衝撃的であり、心に残っていたかも知れませんが、イエスは見ないようにし、忘れたふりをして、ユダヤの神だけを見ようとしていたのではなかったでしょうか。そんな彼が、いつも何を祈っていたのでしょうか。イタリア隊は戦いに出かけることも多かったでしょう。百人の命を預かり、いつも死と隣り合 [続きを読む]