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- 2008/09/10 01:37竹崎季長の戦い〜竹崎季長、鎌倉へ赴く(3)
- 輦竹崎季長主従は、続いて駆け入った白石通泰の手勢百余騎のおかげで、ようやく重囲を脱したのであり、蒙古兵の首をとることはできませんでした。負傷だけでは、恩賞に浴する望みはありません... [続きを読む]
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- 2008/09/09 01:12竹崎季長の戦い〜竹崎季長、鎌倉へ赴く(2)
- この時代、先行第一等とされるのは、討死であり、その死が戦局にどのような貢献をなしたかは、必ずしも深く詮索されないものだったそうです。60年後、千早城の戦いでは、討死するために、城壁下に進む者もいたそう [続きを読む]
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- 2008/09/08 00:27竹崎季長の戦い〜竹崎季長、鎌倉へ赴く(1)
- 文永12年は、4月25日を境として、建次元年となります。このころまでに小弐、大友両氏(幕府内部の序列は、後者が上)は、管国御家人の戦功をまとめて関東へ申し送るとともに、御家人一人ごとに、報告書の内容を... [続きを読む]
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- 2008/09/06 03:07防戦の備え進展せず!〜異国警固の日々はじまる(1)
- 蒙古・高麗連合軍が、一夜のうちに博多湾を去った理由は、不明とされてきました。漂没船は、志賀島に乗り上げた大船一艘だけであり(乗員120人は、武器を捨て降りましたが、すべて斬られました)、暴風雨が、たと... [続きを読む]
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- 2008/09/05 01:31竹崎季長の戦い〜苦闘する季長主従(3)
- 合戦が日本側にあたえた衝撃は、極めて大きいです。誇りを持って伝えてきた戦場の作法が、真っ向から否定され、作法をまもるがゆえに犠牲者は刻々増えていきました。形勢が傾くにつれて、異民族に対する恐怖心が、多... [続きを読む]
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- 2008/09/04 00:51竹崎季長の戦い〜苦闘する季長主従(2)
- 季長の手勢は、姉婿三井三郎資長、旗指の三郎二郎資安、郎従藤源太資光、中間(ちゅうげん)一人でした。蒙古兵の中に突入した、この5騎のうちまっさきに旗指が馬を射られて跳ね落とされ、季長以下の3騎も手傷を負... [続きを読む]
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- 2008/09/03 01:37竹崎季長の戦い〜苦闘する季長主従(1)
- 息浜(おきのはま)から敵陣をめざす季長主従(というか、季長とその庇護者主従)は、住吉宮の鳥居の前を過ぎ、那珂川を渡った辺りで、百余騎の一団が引上げて来るのに出会いました。大将は葦毛の馬に乗り、紫色の地... [続きを読む]
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- 2008/09/02 00:55竹崎季長の戦い〜竹崎季長の立場(4)
- 蓮季長と凉二階堂の根本被官との関係は、どのようにして生じたのでしょう。13世紀の半ばの肥後国大田文の断簡によれば、同国鹿子木庄の周縁部に三十五丁六反の「鎌倉... [続きを読む]
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- 2008/09/01 01:01竹崎季長の戦い〜竹崎季長の立場(3)
- ここで、蓮季長の出自について考えてみます。兵衛尉の官途をすでにもっているのは、本領を失う以前の彼が、肥後国でも、しかるべき御家人と目されていたことを示しています。姉婿三井三郎資長... [続きを読む]
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- 2008/08/31 02:05竹崎季長の戦い〜竹崎季長の立場(2)
- 御家人は、守護の従者ではありません。まして小弐氏が肥後国の守護となったのは、文永9年2月以降のことであって、小弐氏は、関東御公事勤仕の統率者ではあり得ても、戦場では管国御家人を意のままに動かす立場では... [続きを読む]
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- 2008/08/30 02:28竹崎季長の戦い〜竹崎季長の立場(1)
- 「蒙古来襲絵詞」の主人公、竹崎季長は、ちょうどそのころ、博多の前面、息浜(おきのはま)に、肥後国の人々とともにいました。小弐氏が守護職を兼帯する四カ国中... [続きを読む]
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- 2008/08/29 01:06■番外編■〜百草八幡神社と真慈悲寺
- 9/14の日曜日に京王百草園内の松連庵にて10時から11時まで「百草八幡神社と真慈悲寺」というテーマで講演会が開かれるそうです。詳細は・・・講演:「百草八幡神社と真慈悲寺」都立大名誉教授 峰岸純夫氏場... [続きを読む]
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- 2008/08/28 03:33竹崎季長の戦い〜元、高麗の軍船、姿を現わす(4)
- 松浦党の戦死者とくに多く、佐志村の地頭父子4人は、ともにこの日の戦いで死にました。蒙古兵の放つ矢には、毒が塗ってあり、しかも矢の力は強く(弓の構造の違いでしょう)、日本の鎧では十分に防げなかったことも... [続きを読む]
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- 2008/08/27 00:55竹崎季長の戦い〜元、高麗の軍船、姿を現わす(3)
- 文永の役は、ただ一日の戦いです。が、その凄惨さにおいてはほとんど類例を見ません。元・高麗連合軍と迎え討つ鎮西御家人は、戦いの場での行動様式を著しく異にしていて、しばしば後者の振る舞いは、前者のためには... [続きを読む]
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- 2008/08/26 06:19竹崎季長の戦い〜元、高麗の軍船、姿を現わす(2)
- 蒙古軍(三年前、国号を「大元」と定めた)は二万、高麗軍は一万余と伝えられています。高麗南部の島々の木を根こそぎにして造られた九百艘の軍船に乗って、かれらは博多湾をめざしました。大船は百人をこえる兵士と... [続きを読む]
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- 2008/08/25 06:20竹崎季長の戦い〜元、高麗の軍船、姿を現わす(1)
- 「むっくりこっくり」という方言があります。「むくり」は蒙古、そして「こくり」は高麗の意味でしょう。佐賀県の人々は、この言葉を「無理矢理に」という意味を込めて使うらしいです。文永11年10月5日、モンゴ... [続きを読む]
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- 2008/08/24 03:18防戦の備え進展せず!〜唐糸伝説の意味するもの(6)
- 名越時章、教時兄弟が、故なくして討たれた四日後、早馬が六波羅に駆け込み、北方探題はただちに南方探題の宿所を囲んで、昨日までの同僚であり、現執権の庶兄でもある、式部大夫時輔を討ち取りました。時輔の探題在... [続きを読む]
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- 2008/08/23 02:52防戦の備え進展せず!〜唐糸伝説の意味するもの(7)
- 陸奥国の北部は、13世紀の初め、北条義時が国司に任ぜられて以来、北条嫡流家代々の当主のほとんど一元的な支配下にあって、伝統的な豪族御家人をふくむ「鎌倉中」の人々が、この広大な地のところどころを、嫡流家... [続きを読む]
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- 2008/08/20 01:29防戦の備え進展せず!〜唐糸伝説の意味するもの(5)
- 討手に立った五人の武士(大蔵次郎左衛門尉、渋谷新左衛門尉、四方田滝口左衛門尉、石河神次郎左衛門尉、薩摩左衛門三郎)は、直ちに斬首さるますが、北条嫡流家に仕える人々(御内人)が、決定的な役割を果たした、... [続きを読む]
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- 2008/08/19 00:27防戦の備え進展せず!〜唐糸伝説の意味するもの(4)
- 1272(文永9)年2月11日、名越時章、教時兄弟は誅殺されました。討手は、「鎌倉中」の有力御家人ではなく、北条嫡流家の家人と目される者ばかりです。事件直後、連署北条政村の名のもと「今後、御勘当を蒙っ... [続きを読む]
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