へいたろう さん プロフィール

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へいたろうさん: Blog平家物語を訪ねて〜平家追悼の旅
ハンドル名へいたろう さん
ブログタイトルBlog平家物語を訪ねて〜平家追悼の旅
ブログURLhttp://heikenotabi.jp/
サイト紹介文全国の平家一門、その関係者に関する史跡を訪ね、様々な伝承も集め紹介したいと思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供33回 / 221日(平均1.0回/週) - 参加 2016/07/23 00:07

へいたろう さんのブログ記事

  • 藤原成親の最期〜有木の別所④
  •  後白河法皇が平清盛に叡山に対し武力攻撃を命じたのが安元3年5月28日、そして翌29日清盛は突如として「院第一の近臣」と云われた西光を捕縛、翌6月1日には藤原成親を西八条第に招いた上で拘禁。  西光はその後拷問にかけ密談の内容を白状させた上、6月2日五条坊門朱雀にて斬首。同日拘禁されていた成親は備前国へ配流。この時西光同様処刑されていてもおかしく無かった成親でしたが、重盛必死の嘆願でこの時ばかりは一命を取 [続きを読む]
  • 藤原成親の最期〜有木の別所?
  •   俗に言われる「鹿ケ谷の陰謀」。「陰謀」と云われるだけあってその真相はよくわかっていません。一般的には鹿ケ谷にあった僧・俊寛の山荘において後白河や藤原成親、西光らが打倒平家の計画を話し合ったとされている事件です。  ですがこのことについて触れている客観的な資料はほぼ皆無であるため、この事件についてはほぼ「平家物語」に頼らざるを得ない状況です。僅かに慈円の「愚管抄」に書かれてますが、そこでも「確実 [続きを読む]
  • 藤原成親の最期〜有木の別所②
  • ▲藤原成親邸があったと云われる所。現在京都御苑内、烏丸通沿い閑院宮邸跡の北 の辺りです。今では御苑内の従業員の宿所になっているようです。▼京都御所案内図。京都御所はかつて一般公開は春秋の年2回でしたが昨年7月より通年公開になり、いつでも気軽に見学できるようになりました。その為混雑もなく落ち着いてゆっくり見学できるようになりました。成親邸跡は左下になります。尚その標識等は全くありません。   藤 [続きを読む]
  • 藤原成親の最期〜有木の別所①
  •  岡山駅から吉備線(桃太郎線)に乗り15分程、吉備津駅から徒歩で20分位でしょうか。安元3年(治承元年)ここ備前国有木の別所に配流されていた藤原成親の遺跡があります。少々急な坂を上った静かな山の中に非業な最期を遂げた成親の墓がありました。  藤原成親は保延4年(1138)に藤原魚名を祖とする藤原北家の傍流である末茂流の家成の3男として生れました。父家成は鳥羽院第一の寵臣であり鳥羽院寵妃の美福門院と従兄弟でも [続きを読む]
  • 巻八 瀬尾最期〜その7
  •  ところでこの妹尾兼康の一連の戦いはいつの事だったのでしょうか。ウィキペディアでは水島合戦(1183年閏10月1日)の後に福隆寺畷の戦いがあったとしており、平家物語でも「水島合戦」の後に「瀬尾最期」と続いています。  少々ややこしいのは1183年の10月は閏月で、要は10月が2回あるのです。そのせいもあるのでしょうか、この辺り順番が前後するなど混乱してしまっているようです。  その他の史料 [続きを読む]
  • 巻八 瀬尾最期〜その6
  •  成澄は「無念にも弟は討たれてしまった。もう一度おまえを生け捕りにしてやる!」と兼康に迫ります。  兼康は板倉川(笹が瀬川に繋がる支流で足守川の一部。桃太郎線に沿うように流れている川で吉備津駅付近の川)の中に入り馬を止め成澄を待ち受けます。成澄が追い付き馬を横に並べると互いに掴み合い川の中に落ちました。どちらも名の知れた大力なのでなかなか決着がつかず、互いに上になったり下になったりしているうちに川 [続きを読む]
  • 巻八 瀬尾最期〜その5
  •  兼康が声を掛けた結果2千余人もの兵が集まりました。ですがこの地域の若く戦闘力のある者の多くはもう既に屋島の平家の下へ招集されており、兼康の呼びかけに応じて来たのはもう一線を退いた年老いた者ばかりで、武器や防具などが揃っている者もろくにいない状況でした。  それでもかき集めた兵の力を集めて福隆寺(福輪寺とも)畷(縄手)から笹の迫り(笹が瀬川流域)に堀を作り逆茂木をめぐらし、矢を射かける為の矢倉を作 [続きを読む]
  • 巻八 瀬尾最期〜その4
  •  その後治承4年(1180)の以仁王の反乱後、各地で反乱が相次ぎ平家は戦いの連続でした。そして寿永2年(1183)木曽義仲を討つ為に平維盛を総大将とする北陸道征討軍を送ります。そしてこの中に瀬尾兼康も加わっていました。  この戦いは序盤こそ征討軍が優勢に事を進めたものの、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍の術中にまんまと嵌ってしまい平家方は大敗を喫し大きなダメージを受け撤退を余儀なくされます。この北陸道での一連の戦い [続きを読む]
  • 巻八 瀬尾最期〜その3
  •   安元3年(1177)6月、鹿ケ谷事件が起こります。平家と対立していた院の近臣達が平家を倒す謀議をしていたというものです。   これは摂津源氏・多田行綱の密告で発覚したのですが、平清盛は即座に宗盛・知盛・重衡ら一門と軍兵を平家の邸宅である西八条第に集め、平貞能ら家人に謀議に加わっていた者達の捕縛を命じます。     特に謀議の中心だったと見られる西光法師には厳しく、拷問し計画を白状させた後、一連のや [続きを読む]
  • 巻八 瀬尾最期〜その2
  •  妹尾兼康は保安4年(1123年)生れで出生後平家の下で養育された為か早くから平家家人としての人生を歩み、保元・平治の両乱にも加わり「平家物語」にも度々登場することからも平清盛からも厚く信頼されていたのでしょう。  「平家物語」に兼康が初めて登場するのは「巻一 殿下乗合」です。これは「平家物語」でも”これこそ平家悪行のはじめなれ”とされている事件で、内裏に参上しようとしていた時の摂政・藤原基房(松殿) [続きを読む]
  • 巻八 瀬尾最期〜その1
  •  寿永2年(1183年)閏10月、それまで平家に忠節を尽くしてきた備中国豪族・妹尾太郎兼康とその嫡子・小太郎宗康、郎従宗俊の主従3人は福隆寺・畷の戦いで木曽義仲に敗れ討死し鷺ノ森に梟首されました。その戦いぶりは敵である義仲に「あっぱれ剛の者、これこそ一人当千の兵(つわもの)。惜しいかな、その命助けられなかった」と惜しまれたのでした。  妹尾氏の出自については諸説あり、藤原氏説によればその子孫である卜部康遠 [続きを読む]
  • 屋島の史跡巡り〜最後
  • 那須与一の弓の技術に暫しの間戦いは止んでいましたが、舞を舞った老武者が与一に射られたことから無念と思った平家方から3人の武者が浜辺におり戦いを挑みます。                                       それをみた源氏方からは5人の武者が馬に乗って駆けていきます。その先頭を駆けていた美尾屋(みおのや、三保谷とも)十郎は馬を射られてしまい、立ち上がると太刀を抜き斬りかかりま [続きを読む]
  • 屋島の史跡巡り〜巻11 那須与一その2
  •  見事に的を射落した与一でしたが、その直後物議を醸す出来事が起こります。与一の弓の技量に感動したのか、平家方の一人の老武者が船上で舞を舞い始めたのですが、与一はこの老武者まで矢で射倒してしまったのです。   一瞬にして静まり返る平家方。源氏側はまた箙を叩いてどよめきました。  平家物語では誰の命でこの老武者を射ったのかはっきりとは書いてありませんが、直接与一に命じたのは伊勢義盛です。「ご定ぞ、仕れ [続きを読む]
  • 屋島の史跡巡り〜巻11 那須与一
  • 佐藤嗣信が討死した後も源平両軍の戦いは続いていました。義経の兵は少数だったものの、地元讃岐の武士団で源氏に味方する者が隠れていた所から何十騎と現れ加勢してきていました。  義経の案内役を務めた近藤六親家なども一説では鹿ケ谷の陰謀の際、捕らわれて斬られた西光の息子とも云われ平家には思う所があり源氏に協力したのかもしれません。  当時の讃岐の武士団では阿波(田口)氏は平家との繋がりを深め [続きを読む]
  • 屋島の史跡巡り〜嗣信最期
  •  平家は源義経の奇襲攻撃に驚き船に脱出しますが、敵が少数だとわかると合戦を始めます。まずは平盛嗣と伊勢義盛との詞合戦の後、京で第一の強弓と云われた能登守教経が鎧もつけずに現れ「船いくさとはこうやるものだ」と義経を目がけて矢をつがえます。すると源氏方も「主を守らねば」と佐藤嗣信・忠信兄弟、伊勢義盛、源広綱(頼政息)、弁慶らが義経の前にでて防御します。そこへ教経が何本も矢を放つと10騎ばかり次々と射倒 [続きを読む]
  • 屋島の史跡巡り〜その3
  •      船隠し    平家は源氏の攻撃は海からと予想し多くの船を用意し見つかりにくいこの場所に船を隠していたと云われています。      赤牛崎(あかばざき)  義経は近藤六親家から引き潮の時は馬でも渡れると聞き浅瀬を渡りました。     相引川  この辺りで源平両軍が戦ったと云われています。        安徳天皇社   当初行宮であった六万寺より屋島檀ノ浦(最後の戦いの壇ノ浦と名前が同じなの [続きを読む]
  • 屋島の史跡巡り〜その2
  •       屋島への義経の移動ルート(諸説有) 平家物語によれば、勝浦に上陸した源義経は海岸を守備していた近藤六親家を捕え道案内させ、まず平家の重臣・阿波民部重能の叔父(弟とも)の桜間(さくらば)能遠の城を陥し、更に途中屋島へ向かう男と出会い、男が持っていた源氏が船出したことを知らせる平宗盛宛の京の女房からの手紙を奪います。 その手紙には「義経はすすどき男(勇敢な男)なので嵐であろうと攻め込みます [続きを読む]
  • 屋島の史跡巡り〜その1
  •  1185年(寿永4年・元暦2年)2月讃岐国屋島(現高松市)において屋島の戦いがありました。丁度一年前の一ノ谷の戦いにおいて一門から多くの討死者を出し大きなダメージを受けた平家だったのですが、まだまだ一定の勢力を保っており特に強力な水軍を持っていたため屋島と彦島を拠点に瀬戸内海の制海権を握っていました。 一ノ谷の戦いで勝利した源氏側がその後なかなか攻め切れなかったのは、水軍が無かったことに加え先に [続きを読む]
  • 山鹿の平家物語⑤
  • それでは 山鹿地方に残る当時の史跡・伝承を紹介したいと思います。1 堂山石塔群  最初に紹介した堂山から出土した三百数十基に渡る五輪塔・板碑・石仏。平家または壇ノ浦合戦(を含む一連の治承・寿永の合戦)で犠牲になった山鹿の住民達の供養の為作られたとの説があります。        堂山石塔群への入り口       堂山石塔群またもう一つの洞山ですが、島の頂上にはある平家の武将の墓があるとの話ですがそこ登 [続きを読む]
  • 山鹿の平家物語④
  •  そして平家一行は山鹿城まで辿り着きます。城から少し離れたところに安徳天皇の行在所を設けたりしましたが、ここにも緒方惟能の軍勢が迫るという情報が入ってきました。山鹿城は城といっても小高い山に過ぎず、元々は水軍の基地であったのでしょう。陸からの攻撃にはそうは持ち堪えられないという判断ですぐここも移動することになります。そして豊前柳ヶ浦へ、1か月後にはそこから更に船で屋島まで移動する慌ただしさでし [続きを読む]
  • 山鹿の平家物語?
  •   山鹿秀遠が『平家物語』に登場してくるのは巻8「大宰府落ち」です。寿永2年(1183)5月の倶利伽羅峠の戦い大敗を喫した平家はその後京へ侵攻してくる木曽義仲との戦いを避け同7月、いわゆる「都落ち」します。そして筑前国大宰府まで来ますがそこでもかつて平重盛の家人であったという緒方惟能、その兄である臼杵惟隆らの反旗によって大宰府からも落ちて行かざるをえなくなります。その時の平家一門の悲惨な逃避行の様子を平家 [続きを読む]
  • 山鹿の平家物語②
  •                     山鹿城跡(現城山公園 遠賀郡芦屋町山鹿) 平安末期、この土地の領主は山鹿秀遠という武将でした。秀遠の子孫という江戸時代の軍学者である山鹿素行(忠臣蔵で有名な大石内蔵助も素行の門弟で、討入の際の陣太鼓は山鹿流です)が著した「山鹿家譜」によれば山鹿氏は俵藤太こと藤原秀郷の弟藤次の裔と [続きを読む]
  • 山鹿の平家物語①
  •                 玄海国定公園に指定されている、福岡県芦屋町山鹿洞山。洞山と堂山の2つの島がありますがその総称として洞山と呼ばれています。沖側にある洞山はその昔神功皇后の矢によって開けられたという伝説を持つ岩穴があるなどその歴史は古いものです。 そして明治30年(1897)のこと。この辺りに住むある老女が堂山に延命地蔵堂を建立しよ [続きを読む]
  • 山鹿の平家物語①
  •                 玄海国定公園に指定されている、福岡県芦屋町山鹿洞山。洞山と堂山の2つの島がありますがその総称として洞山と呼ばれています。沖側にある洞山はその昔神功皇后の矢によって開けられたという伝説を持つ岩穴があるなどその歴史は古いものです。 そして明治30年(1897)のこと。この辺りに住むある老女が堂山に延命地蔵堂を建立しよ [続きを読む]
  • 彦島の平家物語⑤
  • にほんブログ村     清盛塚から望む。この先に壇ノ浦が・・・・・。                     平家は屋島とここ彦島の2カ所を拠点に瀬戸内海を支配していました。 勿論鎌倉の頼朝も手を拱いていたわけではなく、1184年弟の範頼を大将に平家追討軍を派遣しますが、この彦島の根緒城はなかなか堅固で攻略できませんでした。山陰・山 [続きを読む]