古代日本国成立の物語 さん プロフィール

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古代日本国成立の物語さん: 古代日本国成立の物語
ハンドル名古代日本国成立の物語 さん
ブログタイトル古代日本国成立の物語
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/himiko239ru
サイト紹介文小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取
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更新頻度(1年)情報提供154回 / 203日(平均5.3回/週) - 参加 2016/09/01 17:10

古代日本国成立の物語 さんのブログ記事

  • 竹野神社
  •  神明山古墳を堪能したあと、もと来た道を引き返して竹野神社の参道にもどり、せっかくなので参拝することにした。「竹野」と書いて「たかの」と読む。第9代開化天皇に嫁いだ丹波国大県主由碁理(ゆごり)の娘「竹野媛」が晩年郷里に帰って「天照皇大神」を祀ったとされる由緒ある神社で、したがって祭神は天照皇大神。創建年代は不明である。 本殿脇には摂社である斎宮神社(いつきのみやじんじゃ)。祭神は開化天皇皇子で丹波 [続きを読む]
  • 神明山古墳
  •  古代丹後の里資料館を見学したあとは近くの神明山古墳へ。資料館の方に行き方を教えてもらうと目の前の竹野神社の参道わきから登る道があるというので車を駐車場においたまま向かった。 この古墳は京丹後市丹後町宮にある前方後円墳。先に見た網野銚子山古墳、与謝郡与謝野町加悦にある蛭子山1号墳と合わせて「日本海三大古墳」と言われる。全長が190mで銚子山古墳に次ぐ規模で、古墳時代前期末〜中期初頭頃(4世紀末〜5 [続きを読む]
  • 古代丹後の里資料館
  •  遠所遺跡のあとは神明山古墳と古代丹後の里資料館へ向かったが、ここで大きな失敗をしてしまった。 実はこのツアーの行程を考えているときに「どこへ行くか」だけでなく「どこを走るか」も重視して頭を悩ませた。ニゴレ古墳の舟型埴輪に見たように、丹後が「古代丹後王国」として繁栄した理由のひとつは、海洋族であった一族にとってこの丹後の地が海運、水運に恵まれていたことがあると考えている。丹後半島西側には浅茂川湖や [続きを読む]
  • 遠所遺跡
  •  ニゴレ古墳のあと、すぐ近く遠所遺跡へ。遺跡は京丹後市弥栄町の西端、ニゴレ古墳の南側の谷奥にある。 遺跡の手前まで行こうと広い道から田んぼ道に入った瞬間、突然にギンギンガリガリと車が叫んだ。何が起こったのかすぐに判らなかったが、運転していたOさんは事態を把握していたらしく落ち着いた口調で「車の腹をこすった」とおっしゃった。そうだとしたらタダでは済んでいないはず。どこかが損傷していてもおかしくないほ [続きを読む]
  • ニゴレ古墳
  •  奈具岡遺跡の次はニゴレ古墳。ここは当初の予定には入っておらず、奈具岡遺跡のあと遠所遺跡に向かったのであるが、遠所遺跡の手前に突如現われたので立ち寄った。墳丘には簡単に登ることができたが、上部は少し急斜面になっており朝方の雨のために足元がぬかるんで少し危険な状況だった。下から見た感じでは円墳かと思ったが、登ってよく見るとどうやら円形ではないし四角でもない。前方後円墳の後円部かとも思ったが前方部が確 [続きを読む]
  • 奈具岡遺跡
  •  大田南古墳群をあとにして次は車で5分ほどの奈具岡遺跡へ向かう。 竹野川の中流域の小高い丘陵上に位置する、弥生時代中期の大規模な玉作りの専業的生産集団の遺跡である。緑色凝灰岩の管玉を製作した工房群22基と、水晶やガラスを素材にして玉を製作していた工房74基が検出された。どちらの工房からも未成品や失敗品が出土しており、材料から製品が作られるまでの工程が明らかになったという。また、鉄器生産を行っていた [続きを読む]
  • 大田南古墳群
  •  赤坂今井墳丘墓をあとにして次に向かったのが京丹後市の峰山町から弥栄町にまたがる丘陵地にある大田南古墳群。大小の円墳・方墳あわせて総数25基、古墳時代前期の古墳群である。ツアーの事前調査の時点で、全ての古墳が竹野川に面する丘陵の尾根に沿って築かれていることと、この山が採石場になっていてどうやらどこかの業者の私有地であることがわかっていたので、最初から古墳への登頂はあきらめていた。採石場の入口に車を [続きを読む]
  • 赤坂今井墳丘墓
  •  網野銚子山古墳をあとにして3人が向かったのが京丹後市峰山町赤坂にある赤坂今井墳丘墓。府道17号線沿いにある弥生時代後期末の墳丘墓であるが、尾根の先端部を方形に切り出して墳丘を形成しており、見た感じは方墳である。墳丘全体を撮影できる場所がなかったのが残念である。このあと訪問した丹後古代の里資料館で購入した「丹後王国の世界」から赤坂今井墳丘墓の発掘当時の全景写真。写真右上(北西部)から墳丘上に登った [続きを読む]
  • 網野銚子山古墳
  •  3月10日、朝6時半の便で羽田空港を出発、大阪空港で乗り継いで小型プロペラ機で兵庫県豊岡市のコウノトリ但馬空港へ。快晴の大阪空港を出発する直前に、但馬地方が悪天候の為に引き返す場合がある、とのアナウンス。いきなり出鼻を挫かれそうになったが、激しい雨の中を突き抜けて何とか無事に着陸。その後、レンタカーの手続きをしているときに思わぬアクシデント。いつも財布に入れているはずの運転免許証がない。いくら探して [続きを読む]
  • 丹後・出雲 実地踏査ツアー
  •  丹後半島から出雲にかけての日本海沿岸各地の遺跡・古墳・神社など訪ねる実地踏査ツアーを企画し、つい先週末の2017年3月10〜12日の3日間にわたって敢行してきました。メンバーは2013年の纏向遺跡ツアー、昨年の熊野ツアーと同じ古代史研究仲間のSさんとOさん。今回も珍道中となりましたので、そのあたりもあわせて順に紹介したいと思います。まず本日は3日間の行程を紹介します。●1日目(丹後半島一周) コウノトリ但馬 [続きを読む]
  • 饒速日命と物部氏
  • しばらく間があいてしまったが「饒速日命」の続きです。まずは前回のおさらいから。 ・饒速日命は北九州の不弥国の王であり、隣の奴国からの攻勢に耐えかねて不弥国を脱出した ・その後、丹後から河内を経由して大和の唐古・鍵に移ってきた ・饒速日命の後裔が冬至の日に太陽が昇る三輪山を神奈備として祖先神である大物主神を祀るようになった ・崇神天皇のときに大物主神を祀った大田田根子は河内を拠点とする物部一族であっ [続きを読む]
  • 饒速日命の考察②
  •  饒速日命が率いる集団が降臨に際してまず向かった先は大和でも河内でもなく丹後国であった。先に見た勘注系図による饒速日命の降臨ルートの第一歩は「高天原→丹後国の伊去奈子嶽」となっている。勘注系図では饒速日命を天火明命と同一として天孫族と位置付けたため、出発地は必然的に高天原となるが実際は北九州の不弥国であった。饒速日命はその不弥国を脱してまず丹後の伊去奈子嶽に降臨した。山の頂に降臨するのはまさに瓊々 [続きを読む]
  • 饒速日命の考察①
  •  当ブログの第一部でも触れておいた饒速日命(古事記では「邇藝速日命」)の降臨伝承について今一度、考えてみたい。まず、第一部の内容を確認する。(詳しくは第一部の「饒速日命」「先代旧事本紀と勘注系図」「饒速日命の降臨」などを参照してください) 日本書紀において物部氏の祖先とされる饒速日命は、天磐船に乗って大空を廻ったときに「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と言って、神武天皇に先立って大和に降り、 [続きを読む]
  • 卑弥呼と台与
  •  崇神天皇(その3)の記事で「倭迹々日百襲姫命が台与である」という考えを書いた。今回はこれについてもう少し考えてみたい。その前提として私の考えとして次の2点を確認しておきたい。1つは、崇神天皇のときに疫病で民の半数以上が死亡し、農民の流浪、反乱などで国内の災いが収まらなかったことが、魏志倭人伝に記される「卑弥呼の死後に男王が立つも国中が服さなかった」との記事に符合するということ、つまりこの男王が崇 [続きを読む]
  • 崇神天皇(その8)
  • 今回が崇神天皇の最終回である。即位62年 7月 河内の狭山に池溝(うなで)を掘った     10月 依網池(よさみのいけ)を造った     11月 苅坂池(かりさかのいけ)・反折池(さかおりのいけ)を造った。即位65年 7月 任那国が蘇那曷叱知(そなかしつ)を派遣して朝貢してきた。<考察> 河内の狭山とは現在の大阪府大阪狭山市であり、この池溝は私の自宅から歩いて30分ほどのところにある現在の狭山池のことを指して [続きを読む]
  • 崇神天皇(その7)
  • 崇神天皇の事跡もいよいよ終盤である。即位60年7月 出雲大社に収められている神宝を見たいと言い、武諸隅を遣わした。       ことの経緯は次の通り。 この神宝は武日照命(たけひなてるのみこと)が天より持って来たものである。この神宝を奉らせるために矢田部造の先祖である武諸隅(たけもろすみ)を遣わした。このときこの神宝を管理していたのは出雲臣の先祖である出雲振根(ふるね)であったが、彼は筑紫の国に行っ [続きを読む]
  • 崇神天皇(その6)
  • 崇神天皇の事跡を続ける。即位10年10月 群臣に対して次のように話した。       「畿内の反抗者は皆服した。残るは畿外の暴君どもだ。        四道将軍よ、すぐに出発せよ」即位11年11月 四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。       この年、異民族がたくさん従うようになった。即位12年 3月 次のように詔をした。        ・疫病や災いに対しては神祇を敬い、反抗する者を討ち破った。  [続きを読む]
  • 崇神天皇(その5)
  •  四道将軍が任命されたのが即位10年9月9日であるが、その直後の9月27日、北陸担当に任命された大彦命の異母弟の武埴安彦と妻の吾田媛による反乱の説話が記紀に記載される。崇神天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)と大彦命、さらに和珥氏の祖先である彦国葺に命じて反乱軍を討たせた。この反乱は何を意味するのだろうか。武埴安彦は第8代孝元天皇の子であり、第9代開化天皇の異母弟である。また、妻の吾田媛の名から連想されるの [続きを読む]
  • 崇神天皇(その4)
  •  崇神天皇の事跡をさらに追ってみるが、その前に前回の記事の最後の部分、大物主神の神託で「大田田根子に祀らせれば世の中が治まり、海外の国も降伏するだろう」という中の「海外の国」を狗奴国ではないかと書いたが、考え直すことにした。ここは素直に海外、すなわち朝鮮半島や大陸の国のことを指しているとしておきたい。では、崇神の事跡を続ける。即位10年7月 遠国の教化のために四道将軍の派遣を決定した。    9月 以 [続きを読む]
  • 崇神天皇(その3)
  • 前回に続いて崇神天皇の事績を順に見ていく。即位7年2月  災いが続くので神浅茅原で八十万の神々を招いて占ったところ、大物主神が倭迹々日百襲姫命に憑いて「自分を祀れ」と言った。          しかし、霊験がなかったので再度祈ると、大物主神が崇神の夢に登場し、大田田根子に「自分を祀らせれば世の中が治まり、海外の国も降伏するだろう」と言った。即位7年8月  大田々根子に大物主を祀らせると疫病が止んだ。  [続きを読む]
  • 崇神天皇(その2)
  • 崇神天皇の事績を即位から順に見ていきたい。即位3年9月 磯城の瑞籬宮へ都を移す即位5年  国民が疫病で半分以上死亡即位6年  農民の流浪や反逆が収まらなかった 即位6年  宮中で祀っていた天照大神と倭大国魂神の神勢を畏れて共に住むには不安だった      ・豐鍬入姫命に天照大神を笠縫邑に祀らせた(同床共殿をやめた)      ・日本大國魂神を渟名城入姫に祀らせたが髪が抜け体が痩せて祀れなかった ●考察 日 [続きを読む]
  • 崇神天皇(その1)
  •  「古代日本国成立の物語」の第一部は2016年末をもって終了としましたが、この第一部は毎日1つの記事を投稿することにこだわって物語を紡いできました。結果、連載モノとして読んでいただくことができたのではないかと思っています。そして新しい年の始まりとともに第二部を開始しようと思うのですが、第二部については、材料が整っていない状態、料理が出来上がっていない生煮えの状態、検証が十分にできていない思いつきレベル [続きを読む]
  • 2016年最後の投稿
  •  今年も残すところ3時間ほどになりました。 今年の年初、古代日本国成立に関する自分の考えを本にしようと目標を決め、自分の仮説を検証するために本を読み、情報を集めて、考えて、整理して、原稿を書いて、ということを毎日少しづつ続けてきました。また、休日や出張の空いた時間を利用して遺跡や古墳群、神社などを訪ね、自分で感じたことを仮説の補強に利用することにも努めました。結果、すでに書いてきた通り自分の考えを [続きを読む]
  • 纏向遺跡訪問記(6)
  •  纏向大溝は自然の川を利用したのか、それとも掘削された運河だったのか、いずれにしても矢板などで護岸工事が施された立派な水路だった。北溝は大和川につながり、南溝は箸墓古墳まで延びていたと考えられている。大和三山に対する藤原宮のように3つの古墳の中心点、運河の合流地点の近くに何らかの建物があったのではないだろうか。三方が山(墳丘)に囲まれて川(運河)が帯のように流れる地、いわゆる「山河襟帯の地」と考え [続きを読む]
  • 纏向遺跡訪問記(5)
  •  箸墓古墳の前方部正面で拝礼したあとは来た道を戻らずに田んぼの畦を通り、自転車を担ぎ上げて45度の傾斜を3メートルほど上って古墳北側の池に出た。この場所は箸墓古墳が紹介されるときによく使われるお決まりの場所だ。例に漏れず、ここで記念撮影をして、次はいよいよ纏向遺跡の中心地へ。まずは県道50号線を北上して纏向石塚古墳。桜井市立纏向小学校の東側にあるこの古墳は纏向遺跡最古の古墳とも言われているが、太平洋戦 [続きを読む]