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古代日本国成立の物語 https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格保有。

古代日本国成立の物語
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2016/09/01

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  • 古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅③

    2024年8月10日、2日目の午後は私がこの旅でもっとも楽しみにしていた場所のひとつ、王塚古墳から。王塚古墳は6世紀前半の築造で、遠賀川流域では最大となる全長86mの前方後円墳。ここの見どころは何と言っても石室内の装飾壁画です。靫・盾・騎馬・珠文・双脚輪状文・わらび手文・三角文などが赤・黄・緑・黒・白の5つの色でびっしりと描かれています。壁画の実物は見れませんが、隣接する装飾古墳館の中に見事に復元されています。この中に入ると時間が経つのを忘れていつまでも立っていられます。というか、横になって被葬者の目線で石室内を眺めたくなりました。いつか装飾古墳を勉強してみよう。この古墳は遠賀川水系の大分川と穂波川が合流する地点、穂波川右岸に立地します。遠賀川も穂波川もこんなに内陸まで遡っても流れが穏やかでそこそこの水量...古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅③

  • 古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅②

    2024年3月9日、旅の2日目。空気が冷たくてかなり冷え込んだ朝、朝食を済ませて7時半に出発です。この日の行程は「那珂八幡古墳→光正寺古墳→飯塚市歴史資料館→立岩遺跡→王塚古墳→大分八幡宮→安徳台遺跡→安永田遺跡→高良大社→祇園山古墳」と盛りだくさんなので時間を無駄にせずに効率的に周る必要があります。那珂八幡古墳は何度も福岡に来ていて行こうと思えばすぐに行けるのに、これまで行ったことがなかったので、少し感慨深いものがありました。寺澤薫氏が纒向型前方後円墳としていましたが、最近になって少し長さが変わったために纒向型ではないと発表されていました。全長85mの前方後円墳で築造時期は説明板には4世紀初めとか4世紀前半と書かれていますが、出現期の前方後円墳という考えが定着している感があるので、さすがに4世紀はないだ...古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅②

  • 古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅①

    久しぶりの投稿です。今回は5人の古代史仲間とともに北部九州を巡ったときのレポートとなります。昨年2023年11月頃に仲間で集まった際に誰ともなく発案され、その後に私が行き先の希望を聞くなどして3日間の行程を企画した旅で、日程は2024年3月8日〜10日の3日間で、博多、飯塚、久留米、日田、宇佐、京都などを巡りました。いつもなら行程マップを掲載するのですが、今回はいきなりの大きなハプニングがあって、いろいろと変更を余儀なくされたので、行ったところを順番に紹介することとします。2024年3月8日(金)、朝9時半に博多駅近くのレンタカー屋さんに集合すべく、私は自宅の最寄り駅から始発の電車に乗り、新大阪を6時25分に出発する「さくら541号」に乗り込みました。予定では9時4分に博多駅に到着です。ところが、、、福山...古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅①

  • 物部氏を妄想する⑱(物部氏と鎮魂祭)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑱(物部氏と鎮魂祭)

  • 物部氏を妄想する⑰(石上神宮の祭祀)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑰(石上神宮の祭祀)

  • 物部氏を妄想する⑯(石上神宮と物部氏)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑯(石上神宮と物部氏)

  • 物部氏を妄想する⑮(物部本宗家の敗北)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑮(物部本宗家の敗北)

  • 物部氏を妄想する⑭(中臣氏の台頭)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑭(中臣氏の台頭)

  • 物部氏を妄想する⑬(物部氏の職掌の変遷)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑬(物部氏の職掌の変遷)

  • 物部氏を妄想する⑫(物部氏の台頭)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑫(物部氏の台頭)

  • 物部氏を妄想する⑪(古墳祭祀と物部氏)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑪(古墳祭祀と物部氏)

  • 物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)

  • 物部氏を妄想する⑨(古墳出現前後の祭祀)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑨(古墳出現前後の祭祀)

  • 物部氏を妄想する⑧(壺形古墳の登場)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑧(壺形古墳の登場)

  • 物部氏を妄想する⑦(弥生時代における神仙思想の痕跡)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑦(弥生時代における神仙思想の痕跡)

  • 物部氏を妄想する⑥(徐福の渡来)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑥(徐福の渡来)

  • 物部氏を妄想する⑤(物部氏と神仙思想)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する⑤(物部氏と神仙思想)

  • 物部氏を妄想する④(物部氏の東遷)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する④(物部氏の東遷)

  • 物部氏を妄想する③(物部の分布)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する③(物部の分布)

  • 物部氏を妄想する②(「物部」の由来 )

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する②(「物部」の由来)

  • 物部氏を妄想する①(「物部」の読み方)

    昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。まとめた...物部氏を妄想する①(「物部」の読み方)

  • 室生寺・室生龍穴神社奥宮・大神神社

    2023年11月12日、奥さんの友人がふたり、関東からやって来たので紅葉を見ようとお連れしたのが室生寺。まだ時期が早かったのか、それとも遅かったのか、思ったほどの紅葉が見られなかった。それに、今年は灼熱の真夏がなかなか終わらなかったからか、葉っぱにツヤがないですね。それにしても、この五重塔の姿はいつ見ても心に染み入る。紅葉がダメでもこの姿を見るだけで満足です。ここから少しだけ足を延ばして室生龍穴神社の奥宮に行きました。なめらかな岩盤の上を細長く白い水がすべるように流れる様子はまるで龍のよう。水の流れを聴きながら佇んでいると、この龍が向こう岸の穴の中にいると思えてきます。お昼を過ぎていたのでどこかでランチを、と思いながら車を走らせます。次は大神神社に行くことになったので、三輪そうめんを食べることにしました。...室生寺・室生龍穴神社奥宮・大神神社

  • 象鼻山古墳群から長浜・息長古墳群へ

    2023年10月27日、休みを取って「古代史日和」で知り合った仲間5人と一緒に古墳巡りをしてきました。行き先は岐阜県の象鼻山古墳群、滋賀県の長浜古墳群、そして息長古墳群です。朝9時に新幹線の岐阜羽島駅で集合です。私以外は皆さん関東の方ばかりで、前泊で岐阜入りしたり、早朝に新幹線でやってきたり、運転手役をかって出た私は自宅から車で向かいました。さわやかな秋晴れの中、岐阜羽島駅をスタート。最初に目指した象鼻山古墳群には30分足らずで到着、標高142mの象鼻山の山頂を目指します。車が1台通れるほどの山道を20分ほど歩くと山頂です。山頂付近に70基の古墳が築造されていますが、最大のお目当ては1号墳。全長40mの3世紀中頃か後半に造られた前方後方墳で、畿内と東海の両方の特徴を併せ持つ古墳です。一般的には畿内の影響を...象鼻山古墳群から長浜・息長古墳群へ

  • 飛鳥を巡ってきました(後編)

    飛鳥駅前のレンタサイクル屋さんで自転車を借りてキトラ古墳を目指します。高松塚古墳とともに石室内の壁画で有名な古墳です。ダラダラと続く長い上り坂、帰りは下りなので楽チンだぞと自分に言い聞かせて頑張ってペダルを踏みます。キトラ古墳では先に壁画体験館「四神の館」へ入ります。先に情報収集した上で現地に立つ。実地踏査の鉄則ですね。ちなみにキトラ古墳は7世紀末~8世紀初頭に築造された小さな円墳です。石室、正確には横口式石槨のレプリカ。正面(北面)に玄武、右(東面)に青龍、左(西面)に白虎、そして手前(南面)に朱雀が描かれ、それぞれの絵の下に十二支像が描かれます。そして天井には天文図。壁面の劣化が激しくて壁画を十分に確認することができません。これが発見された当時の姿なのか、それとも保存が適切に行われなかった結果の姿なの...飛鳥を巡ってきました(後編)

  • 飛鳥を巡ってきました(前編)

    2023年10月、そろそろ秋の様相を呈してきた飛鳥を友人と二人で巡ってきました。朝9時に近鉄岡寺駅で待ち合わせをして、丸山古墳→牟佐坐神社→益田岩船→牽牛子塚古墳→岩屋山古墳→近鉄飛鳥駅→キトラ古墳→第42代文武天皇陵→高松塚古墳→中尾山古墳→第29代欽明天皇陵→吉備姫王墓(猿石)という行程で巡って、最後は近鉄飛鳥駅にて予定終了となりました。丸山古墳(私は中学生のとき以来、つい先日まで見瀬丸山古墳と呼んでいました)は奈良県最大の前方後円墳で、後円部の墳頂部が陵墓参考地になっています。墳丘には自由に登れるものの、墳頂部だけは柵が巡っていて入ることができませんでした。感覚的には纒向にある箸墓古墳や崇神天皇陵などの方が大きい感じがしました。江戸時代以降、天武・持統天皇の合葬陵に治定されていましたが、明治時代に入...飛鳥を巡ってきました(前編)

  • 早生ミカンの買い出しに

    2023年9月最後の週末、和歌山県の有田までミカンの買い出しに行ってきました。自宅から片道2時間、和泉山脈を越え、紀ノ川沿いを走り、毎年の桃の調達で訪れるあらかわを通過、その後の県道18号線は山越えの難所、ようやくたどり着いた「道の駅明恵ふるさと館」。ここからの国道480号線沿いに無人の販売所が立ち並ぶと聞いて行ってみたものの、販売所はわずか3カ所。まだ時期が早いのだろうな。それでも次々とお客さんがやって来るということは、皆さんこの場所をよくご存じなのでしょう。ひと袋100円の格安ミカンはどれも緑色した由良早生で大きいのから小さいのまでとりどり。食べてみると甘酸っぱくて美味い。2か所で買い込んで次のJAありだを目指します。途中、大きなのぼりの立つお店があったので寄ってみると、ここはひと袋350円、500円...早生ミカンの買い出しに

  • 物部氏を妄想する

    現在の学習テーマは「物部氏」です。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したり、、、、開始から1年近くが経った今でも悪戦苦闘が続いていますが、少しづつ整理ができてきて、現時点では以下のような目次でレポートとしてまとめているところです...物部氏を妄想する

  • なら燈花会

    2023年8月12日、夕涼みがてら、奈良公園一帯で開催されている「なら燈花会」に行ってきました。14時過ぎに自宅を出て、途中、遅いランチをとって16時半頃に到着。奈良県庁の裏にある登大路駐車場に車を停めました。事前に駐車場をいろいろ調べてみたものの、奈良公園のどこへ行くにも近いこと、時間制限のない1日1,000円という料金、収容台数200台以上なのでおそらく満車にならないだろう、という読みもあって決め打ちで行きました。まだ日が高い位置にあったので、興福寺周辺を散策しながら日暮れを待つことに。五重塔は修復中のために柵で覆われて近寄れなかったですが、三重塔があることを初めて知って見に行きました。燈花会の見学は猿沢池からスタートです。日が暮れるとともにろうそくの灯がゆらゆらと輝き始めます。水面に写る五重塔が幻想...なら燈花会

  • 前方後円墳について思うこと

    ただいま物部氏についての妄想レポートを執筆中で、なかなか当ブログに投稿する余裕がないのですが、場つなぎで少しだけ書いてみます。以前に、前方後円墳は神仙界を表した壺形古墳である、との説に賛同して自分なりに検証した結果を「前方後円墳の考察」として全16回のレポートを投稿しました。その後も現代の土葬墓を実際に見て感じたこととして通説に対する疑問を「周溝墓が古墳に発展したのか」と題して書きました。そんなことを古代史仲間に話したときに言われたのです。「現代のように空からみることができない古代には誰も壺形だとわからない」と。たしかにその通りで、その時にはすぐに反論ができなかったのですが、その後に閃いたのです。そもそも壺形古墳は誰かに見せるために壺形にしたのではなく、死者を神仙界に届けるために壺の形の墓を造ったのです。...前方後円墳について思うこと

  • 亀の瀬から龍田大社へ

    2023年7月2日、亀の瀬地すべり資料館とトンネル内プロジェクションマッピングを観てきました。大和川に並行する国道25号線をこれまでに何十回と走ってきたのに、ここに立ち寄るのは初めてです。奈良盆地を流れる150以上の川は最後はすべて大和川に集まって、JR関西本線の三郷駅あたりから大阪側の近鉄線安堂駅あたりまで、標高差20m近くをわずか8キロほどで下ることになるので、途中は白波が立つほどの瀬になります。これが亀の瀬。どうして亀の瀬と呼ぶのかというと、川の中に亀のよう見える石があるから。古代、大和川は河内から大和への交通路として利用されましたが、この亀の瀬を遡ることができなかったので、手前で船を降りて川沿いを徒歩で行き、平坦なところで今度は小さな船に乗り換えて纒向あたりまでゆらゆらと進んだそうです。そして、亀...亀の瀬から龍田大社へ

  • 周溝墓が古墳に発展したのか(後編)

    前編で書いたような私の実体験や想像をもとに考えると、方形周溝墓であれ円形周溝墓であれ墓を溝で囲む一番の目的は、墓の領域を示すためであったと思うのです。また、周囲から水が流れ込んできた際にそれを受け止める目的もあったかも知れない。もともと方形周溝墓には盛土がされていないので、古墳のように墓に盛る土を掘った跡の溝ということではない。時代が下ると方形周溝墓にも土が盛られるケースが見られるので、その場合は溝を掘った土を盛ったのだと思いますが、当初はそういうことではなかった。もうひとつ、調査報告書などで方形周溝墓が重なりあっている状況、あるいは周溝部から棺が見つかるという状況を見ることがあります。なぜ古い墓に重ねて新しい墓を造るようなことをするのか、という疑問がありましたが、前述の土葬墓と同様に考えれば合点がいきま...周溝墓が古墳に発展したのか(後編)

  • 周溝墓が古墳に発展したのか(前編)

    この4月に讃岐と阿波を巡って以来、前方後円墳の成り立ちについて改めて思考を巡らせているのですが、そんな中、ゴールデンウイーク明けに母方の田舎に墓参りに行った際に、以前より考えていたことが確信めいたものになったので、そのことを書いてみたいと思います。またこの背景には、数年前に奈良県の瀬田遺跡で円形周溝墓が見つかったときに、円形周溝墓が前方後円墳の原型であるとの説が紹介されていましたが、円形周溝墓であれ方形周溝墓であれ、それらが前方後円墳あるいは前方後方墳の原型であるとの説(通説と言ってもいいのかな)に疑問を抱き続けている、というのがあります。弥生時代、近畿地方を中心に各地で方形周溝墓という埋葬施設を溝で囲んだ墓が造られました。これらの調査時の写真や図を見るたびに思い出すのが、母方の田舎で見てきた土葬墓でした...周溝墓が古墳に発展したのか(前編)

  • 古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑦

    2023年4月23日、3日目のレポートです。いよいよ最終日。前夜、佐々木さんと私は栗林公園横のホテルに宿泊、岡田さんは自宅に戻って英気を養っていただきました。朝8時にホテル横のコンビニに集合して出発です。3日連続の快晴に恵まれて、いい締めくくりができそうな予感。最初の目的地は快天山古墳。4世紀中頃築造の前方後円墳で全長98.8mは四国第3位。ただし、前期古墳に限れば四国最大規模になります。後円部に2基の竪穴式石室と1基の粘土槨の存在が確認され、いずれも刳抜式の割竹形石棺が見つかっています。この石棺を用いた古墳としては日本最古だそうです。なんと長い前方部、こんな古墳があるのか、と思ったのも束の間、この部分は前方部ではありませんでした。実際はこの長い長い前方部っぽい途中にこんな立札が立っていて、ここから先が前...古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑦

  • 古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑥

    2023年4月22日、2日目夕方の部のレポートです。阿波での踏査を終えたあと、新しくできた新猪ノ鼻トンネルを通って阿讃山脈を縦断する快適なドライブで再び讃岐へ入り、讃岐平野の西にある有岡古墳群を目指します。まずは情報収集のため善通寺市役所のとなりにあるZENキューブ(善通寺市総合会館)内にある善通寺市立郷土館に行きました。郷土館は2階の一画にある小さな施設ですが、迫力ある展示と丁寧な解説で郷土の歴史を学ぶことができる素晴らしい資料館です。勉強中の縄文時代や展示資料の豊富な弥生時代も興味があったのですが、古墳時代の充実した展示は特筆ものでした。3人が入室すると職員のおばさんが迎えてくれました。お願いしていないにもかかわらず一所懸命に展示の説明をしてくれます。でも、それがなかなか要領を得ない。私と佐々木さんが...古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑥

  • 古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑤

    2023年4月22日、ツアー2日目のつづき。2日目は朝から、渋野丸山古墳、大代古墳、宝幢寺古墳、天河別神社古墳群と見てきて、次はこの旅で一番楽しみにしていた萩原墳墓群です。前方後円墳をはじめとする様々な思考において何度も登場する遺跡なので一度は見ておきたいと、と思っていたところです。天河別神社古墳群のとなりの尾根、距離にして200mほどのところです。(さぬき市古墳勉強会のサイトよりお借りしました)1号墓はこの場所でしたが、残念ながら手前の道路を建設する際に破壊されました。また、そのときに尾根の先端も削られたものと思われます。2号墓はこの丘の上です。前日、レキシルとくしま(徳島県立埋蔵文化財総合センター)で1号墓の出土品や写真を見たのと、宝幢寺の境内に移築された石室を見ておいたので、想像の世界で復元しました...古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑤

  • 古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)④

    2023年4月22日、讃岐・阿波への古代史旅の2日目です。ホテルでの朝食を済ませて7時半にスタート。この日の最初はホテルから車で20分ほど走った渋野丸山古墳です。徳島平野の南部、勝浦川左岸の尾根を利用した全長105mは徳島県下最大、四国でも前日の富田茶臼山古墳に次ぐ第2位の規模となる前方後円墳。築造時期は5世紀前半頃となっています。徳島県では古墳時代前期は、このあと行くことになっている吉野川北岸の鳴門・板野地域や、前日に行った宮谷古墳のある吉野川南岸の気延山地域で古墳が築造されていましたが、前期後半からは徳島平野南部の勝浦川下流域にも古墳が築造されるようになりました。また、中期前半(5世紀前半)になって大規模古墳であるこの渋野丸山古墳が築造され、これを最後に前方後円墳の築造が停止するという状況は、東讃岐の...古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)④

  • 古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)③

    2023年4月21日、ツアー初日の夕方の部です。津田古墳群の次は津田湾にそそぐ津田川を遡った内陸部、高松平野につながる長尾平野の東端にある富田茶臼山古墳。5世紀前半に築造された四国最大の前方後円墳で全長が139m。後円部に近づくと三段築成だというのがよくわかります。ふもとからの急な階段を登って墳頂に立つと、きれいに整備された墳丘が見渡せます。5世紀前半にこの富田茶臼山古墳が出現すると先に見た津田古墳群では古墳の築造が停止したといいます。たしかに、1世紀にわたって築造が続いた津田古墳群は4世紀末の岩崎山1号墳が最後の古墳です。このことをどう考えればいいのか。津田川河口にある津田港は中・近世の商業港として知られているように、津田古墳群の築造を続けた勢力は津田湾を拠点として播磨灘海域の水運を握るとともに海上交易...古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)③

  • 讃岐・阿波の古代を考える旅②

    2023年4月21日、ツアー初日の午後からの部です。ランチをとったあとに向かったのが、さぬき市の津田湾臨海部にある津田古墳群。3世紀後半から4世紀末まで継続的に築造された9基からなる古墳群。4世紀前半頃までは墳丘が積石で築かれたり、埋葬施設が東西軸に設けられるなど、讃岐・阿波の他の地域の古墳と同様の特徴が認められますが、4世紀中頃になると円筒埴輪が立てられたり、埋葬施設が南北軸に変化するなど、畿内の影響を受けることになります。今回、9基ある古墳のうち古い順に言うと、うのべ山古墳、岩崎山4号墳、けぼ山古墳の3基を訪ねました。まず最初に岩崎山4号墳。4世紀中頃の前方後円墳で全長が62mは古墳群最大。津田川左岸、河口付近に伸びた丘陵の尾根上に地山を整形して造られています。民家の横の急な坂道を上がっていくと前方部...讃岐・阿波の古代を考える旅②

  • 讃岐・阿波の古代を考える旅①

    2023年4月21日から23日まで、いつもの古代史仲間の岡田さん、佐々木さんと一緒に讃岐から阿波をぐるっと巡ってきたのでレポートします。今回は岡田さんの地元、高松を起点にしたので私と佐々木さんは大阪から高速バスで高松に入り、そこからは岡田さんの運転のお世話になりました。4月21日朝6:45に南海難波の高速バス乗り場からバスに乗り込み、一路高松を目指します。乗車時間は3時間50分、えらい時間がかかるなあと思っていたら、それもそのはず、大阪市内の各所や三宮と途中、あちこちで停車する路線でした。ちなみに料金は片道3800円です。何はともあれ無事に高松の栗林公園前に到着し、岡田さんの車に乗り込みました。まず最初に目指したのが森広遺跡群で、石田神社遺跡、森広天神遺跡、森広遺跡、加藤遺跡などから成る弥生時代後期を中心...讃岐・阿波の古代を考える旅①

  • 福岡の旅③

    福岡の旅の3日目です。この日は梅が見ごろの太宰府天満宮に行くことだけを決めていて、あとは帰りまでの時間との相談と思っていたので、朝の出発はゆっくりでした。ホテルから歩いてすぐの西鉄天神駅から電車に乗り、途中、二日市で乗り換えて40分くらいで到着です。電車も梅仕様のラッピング。さすが梅の名所、電車から降りる人、太宰府駅周辺にたむろする人、駅からの参道、どこもかしこも人でいっぱい。太宰府天満宮は社会人になってすぐのころ、九州支店に出張で来た際に支店の人に連れてきてもらって以来なので、かれこれ40年ぶり。当時の様子はまったく記憶にないものの、こんなに若者であふれる場所だとは思ってもみなかった。参道にはいろんなお店があって、これから行く人も、参拝を済ませて買ってくる人も、誰もが食べ歩き状態。帰りはもっと人が増える...福岡の旅③

  • 福岡の旅②

    福岡の旅の2日目です。法華クラブでは期待通りの美味しい朝食でした。チェックアウトを済ませたあと、ホテルのすぐ裏にある住吉神社を参拝しました。住吉三神を祀る筑前国一之宮でです。朝の境内は澄んだ空気で満たされて清々しい気持ちになります。通勤途中に手を合わせる人がたくさんいて、地元で大切にされている神社だと思いました。この日はレンタカーで糸島半島をめぐる予定にしていたのですが、レンタカーの営業所まで少し歩く必要がありました。月曜日の朝、通勤途中の方々を尻目に小一時間ほど散策がてら写真を撮りながらゆったりと歩きました。さて、手続きを済ませて車に乗り込んで糸島へ向かいます。まずは40分ほど走って、最近よくテレビなどで見かけるヤシの木ブランコに到着です。駐車場は1時間300円。平日で朝の時間が早いこともあって車も人も...福岡の旅②

  • 福岡の旅①

    2023年2月26日〜28日、今年初めての旅行は福岡へ。ただし、今回は車中泊ではありません。なぜかと言うと、ふるさと納税をした大阪府泉佐野市のキャンペーンに当選してpeachポイントをいただいたのでpeachに乗っていくことにしました。とはいえ、二人だと往復分が取れなくて、帰りはJALのマイルで。それでは2泊3日の様子を紹介します。まずは最寄り駅の始発電車に乗って関西空港へ向かいます。実はpeachに乗るのは今回が初めてで、関空第2ターミナルの利用も初体験です。出発ターミナルはでっかい倉庫のようで、あまりの簡素さにビックリしました。朝一番とはいえ保安検査場は大行列で、もちろん搭乗する便は満席。結局、20分ほど遅れての出発となりました。福岡空港を出てすぐ近くのニッポンレンタカーの営業所に向かいます。旅の直前...福岡の旅①

  • 中国地方周遊の車中泊旅(13)

    2022年11月20日、いよいよ最終日です。「道の駅みやま公園」ではぐっすり熟睡したようで、朝の目覚めが少し遅くなりました。ワンコの散歩に出ると駐車場に車がどんどん入ってきています。野菜、お肉、鮮魚などの生鮮品の売り場がたくさんの人で賑わっています。両手に袋を下げた人がお店から次々出てきます。なるほど、そういうことか。この道の駅は地元の人が生鮮品を買い出しにくるところなんだ。私たちも野菜や果物、焼き立てパンなどを買い込み、車中で買ったばかりのパンやシャインマスカットを朝ご飯にしました。それもあって出発が10時と、この旅で一番遅い出発になってしまった。最初に向かったのが岡山城です。リニューアルされてオープンしたばかりだというのをネットで知ったので行ってみることにしました。出発前に駐車場を調べた結果、目の前に...中国地方周遊の車中泊旅(13)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(12)

    2022年11月19日、「道の駅遊YOUさろん東城」で迎えた12日目の朝は霧のせいもあって、どんよりした空模様でかなり冷え込んでいます。帝釈峡の駐車場での車中泊をあきらめた代わりに、駐車場係員よりも先に行こうと思って7時40分に出発。到着すると駐車場には車も人もいません。車を降りて遊歩道に向かいました。あまりに冷え込んでいるからか、神龍湖の湖面から水蒸気が立ち上っています。このあたりは紅葉がほぼ終わりで、小径が落ち葉で埋もれています。それをサクサクと踏みしめて歩くのが心地いい。駐車場に戻ると係員が出勤していましたが、何も言われることなく脱出できました。お巡りさんの言う通り。さあ、次はどこに行こうか。もともとは東に走って津山あたりで1泊、その後は姫路に出て大阪に戻ろうと考えていたのですが、津山に行っても今ひ...中国地方周遊の車中泊旅(12)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(11)

    2022年11月18日、11日目、「道の駅来夢とごうち」での朝はかなり冷え込みました。夜中に着いたときは小さな道の駅で寂しいところと思ったものの、ワンコと散歩していると道路を挟んだ向かい側に大きな駐車場がありました。朝ご飯は前日にお風呂で買った弁当です。冷たくなっていたけど美味しかった。朝ご飯を済ませて8時40分に出発。来た道を少し戻って「筒賀の大銀杏」を見に行きます。標高の高い山の中なので、見頃は終わっているだろうと思いながらも、とりあえず行ってみることに。案の定、ほとんどの葉っぱが落ちてしまって、ほぼ丸裸のイチョウになっていたのですが、逆にそのおかげで一面に黄色のじゅうたんを敷いたような素晴らしい光景が見れました。次は安芸高田市まで走って「清神社(すがじんじゃ)」へ向かいます。清神社がある場所は、『日...中国地方周遊の車中泊旅(11)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(10)

    2022年11月17日、いよいよ10日目に突入。この日のスタートは「道の駅サザンセトとうわ」のすぐ近くの真宮島から。この島は干潮のときだけ島に通じる道が姿を現わします。この日の干潮は午前9時。一番乗りかと思いきや誰かの足跡が、、、さっきまで海の底だったとは思えない道を歩いてワンコとともに島へ渡ります。あたりに転がっている石に小さな岩牡蠣がたくさんついているのを見て奥さんが「食べてみる」と。うそやろー、と思いながら見ているとホントに食べた。しょっぱかったらしい。帰りは東和町の指定文化財になっている服部屋敷を外から見学しながら車に戻りました。次はほぼ島の先端にある陸奥記念館を目指します。戦艦陸奥の存在は知っていたものの、その記念館がこの周防大島にあることに興味をもって行ってみたいと思った次第。戦艦陸奥はこの周...中国地方周遊の車中泊旅(10)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(9)

    2022年11月16日、9日目、「道の駅きららあじす」の夜はいたって静かで何事もなく、気持ちの良い朝を迎えました。意外にも早くに目が覚めて朝陽の中をワンコと一緒に散歩しました。出発の準備を済ませた後、この日どこに行くかの作戦会議をした結果、まずは近くの「阿知須いぐらの館旧中川家住宅」に行きました。阿知須(あじす)は廻船業で栄えた町で、中川家はその中心となった家だそうです。いぐら(居蔵)とは、瓦葺の屋根、漆喰で塗り固めた大壁、泥戸等、防火機能に優れた建物のことで、白壁の旧家がならぶ町並みをイメージして来ました。ところが、肝心の中川家は休館日で町並みもおもったほど白壁がならんでいなくて、少し残念な印象。次の行き先を防府天満宮に決めて出発です。この日は雲一つない快晴で、運転が気持ちいい。防府天満宮には30分ほど...中国地方周遊の車中泊旅(9)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(8)

    2022年11月15日、8日目の朝は今ひとつスッキリしない空模様。前夜の就寝が遅かったので朝の目覚めも遅くなり、公園でワンコと散歩したあとに出発したのが9時20分。この日は下関の唐戸市場でご飯を食べて周辺を散策、関門海峡や関門橋の眺望を楽しもうと計画していました。老の山公園を下って唐戸市場までは15分ほどですが、できるだけ近く、できるだけ安い駐車場と思って周辺を走りながら悩んだ結果、下関グランドホテル横にあるファミリーマートの駐車場になっているタイムズにしました。唐戸市場へ行ってみると時間が遅かったからか、ほとんどのお店が片付けに入ってました。残念。周辺を少し散策した後、ランチを取ろうと戻りました。ご飯を食べるお店はカモンワーフというショッピングモール内にいくつもあったのですが、どれも決め手に欠け、悩んだ...中国地方周遊の車中泊旅(8)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(7)

    2022年11月14日、昨日とは打って変わって快晴の一日。この日は必ず行くと決めた行き先が2カ所あって、まずは1カ所目の元乃隅神社を目指します。雑誌やテレビ、ネットでよく見る海岸の断崖の上に赤い鳥居が並ぶ神社です。9時過ぎに到着したのに神社の目の前の駐車場は結構埋まっています。しかもこの日は平日。それだけ人気スポットということかな。いったん駐車場から下まで降りて立ち並ぶ鳥居の入口から登っていくのが本来の参拝ルートと書いてあったのですが、駐車場からそのまま境内に入って参拝しました。そこでは初めての光景を目にすることに。境内入口の大鳥居の上に賽銭箱が置かれていて、何とそこにお賽銭を投げ入れるのです。風が強くてなかなか入りません。私は5回目でようやく入り、奥さんはついにあきらめました。この神社はいわゆるお稲荷さ...中国地方周遊の車中泊旅(7)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(6)

    2022年11月13日、「道の駅阿武町」での目覚め。ここまで快晴の朝を迎えていたのに、この日はどんよりした空模様です。ワンコの散歩を済ませて8時40分頃に出発、目的地の萩までは20分ほどですが、途中で雨が降り始めました。この日は萩の町を散策する予定にしていたのに予定変更かな、と思いながらとりあえず萩城まで行き、駐車場に停めると少し小降りになったのでワンコを連れて萩城へ向かいました。入口まで来たところで再び雨足が強くなってきたので、いったん車に戻ってワンコを留守番させることしました。ところが、城内を歩いているうちに雨があがり、陽が差して来て、雨があがるのを車で少し待てばよかった、とちょっとだけ後悔。城内を歩いていて、もう少しきれいに整備したらいいのにと少し残念な気持ちになりましたが、驚いたのがこのお城は海岸...中国地方周遊の車中泊旅(6)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(5)

    2022年11月12日、「道の駅ゆうひパーク浜田」での朝ご飯からのスタートです。この道の駅も「ゆうひパーク」というだけあって、日本海に沈む夕陽が素晴らしいようです。腹ごしらえを済ませて9:20に出発、途中はあまり見る所もないので津和野まで一気に走りました。津和野では駅前の市営駐車場に車を停め、小さな町ながら見どころ満載の山陰の小京都をワンコとともに歩いて巡りました。まずは駅前に展示されているデゴイチです。機関車を見るといつも思い出すのが中学校の国語で習った俳句「夏草に機関車の車輪来て止まる」。誰の句だったか、帰ってからあらためて調べてみると山口誓子でした。駅前をスタートして本町通りを歩いていくと、何とも言えない風情のあるお店、歴史を感じるお店が次から次へと出てきます。この鯉の米屋さんはお店の奥の中庭で飼っ...中国地方周遊の車中泊旅(5)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(4)

    2022年11月11日、雲一つない快晴の朝は充実の一日を予感させてくれます。朝からワンコの散歩で歩いてみてビックリ。この「道の駅キララ多伎」は日本海に面した丘の上にあって、裏の階段を降りると海水浴場がすぐそこで、夏場は一日遊べそうな場所です。日本海に沈む夕陽が素晴らしいのが容易に想像できます。ひとしきり散歩した後、パン屋さんが開いていたのでパンを買ってテラス席で朝食をとったので出発が10時になってしまいました。この日は当初は石見銀山に行こうかと考えていたのですが、ワンコを連れて行くにはなんだか中途半端なところで、下手をするとバスに乗ることになりそうなのでやめました。それで、前日から島根出身の後輩がFacebookを見てアドバイスをくれていた三瓶山に行くことに決定し、行く途中には以前から行ってみたかった物部...中国地方周遊の車中泊旅(4)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(3)

    2022年11月10日、この日の最大の目的は足立美術館。一昨年の夏に来た時、広大な駐車場には日陰がまったくなく、この炎天下にワンコを車で待たせるわけにはいかないとあきらめた美術館。今回は11月なので大丈夫だろうと思っていたのですが、夏場ほどではないにせよ、快晴続きの陽気は少し心配。とにかく行ってみて考えようと8時半頃に「道の駅あらエッサ」を出発して美術館に到着。まだ太陽が低い位置にあったので、隣の安木節園芸館にある木立ちのおかげで駐車場の端っこに少しだけ陰ができていました。そこに車を停め、風通しのために窓を少し開けて、銀マットをフロントに置き、暑さ対策をした上でワンコに留守番をしてもらって見学に向かいました。足立美術館は展示もさることながら、庭園の素晴らしさで有名ですが、実際に見てみると確かに素晴らしい。...中国地方周遊の車中泊旅(3)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(2)

    2022年11月8日、仕事を早い目に切り上げ、車を車中泊仕様にセットして荷物を積み込んだあと、入浴をすませて出発準備完了。19時半に自宅を出発し、京都府与謝野郡の「道の駅シルクのまちかや」を目指します。ひたすら走って22時半頃に京丹波町の「道の駅瑞穂の里さらびき」に到着。無理すれば走れたのだけど「最初から無理する必要ないか」と思って予定を変更、ここで寝ることにしました。この日は皆既月食があったのですが、ずっと運転していたので全く見ることができませんでした。翌朝、目が覚めると辺り一面が霧に覆われていて幻想的。大きな銀杏の木が色づき始めています。この旅ではあちこちで少し早い紅葉を楽しむことができましたが、そのプロローグです。準備をすませて8時半頃に出発。与謝野町立古墳公園を目指します。天気は快晴、気持ちのいい...中国地方周遊の車中泊旅(2)

  • 中国地方周遊の車中泊旅(1)

    2022年のロングラン車中泊旅は11月8日から20日までの13日間をかけて中国地方を周遊することにしました。昨年が東北地方、一昨年が北海道と、年に一度は10日以上の旅をしようと心がけています。今回は大阪の自宅を出て北上し、京都府を経由して日本海側に抜け、兵庫県、鳥取県、島根県、山口県と山陰海岸を走り、下関で折り返して瀬戸内海沿いに出て、広島県でいったん北上して中国山地に入り、ふたたび南下して岡山県、兵庫県と瀬戸内海側を走って大阪までかえってきました。主な行き先を地図にプロットしてみました。右端の★印が自宅の場所です。今回も高速道路(無料区間は除く)を使わずに、ずっと下道を走りました。全行程の走行距離は2,019キロで、給油は3回で済みました。毎日の入浴場所と車中泊場所は以下の通りです。11月8日(火)19...中国地方周遊の車中泊旅(1)

  • まきむく 1Day Walking Tour

    2022年10月29日、古代史仲間の先輩の大学の同級生の皆さんとともに纒向を歩いてきました。当日は絶好の行楽日和、爽やかな秋晴れのもとで心地よい1日を過ごしました。8月頃に先輩から相談があって、プラン作りをお手伝いし、さらにはガイドブックを作成して皆さんに差し上げました。今回の参加メンバーは私と先輩、あとは先輩の同級生5名(女性4名、男性1名)の計7名となりました。朝9時過ぎにJR三輪駅に集合し、まずは纒向遺跡の情報をインプットするために桜井市立埋蔵文化財センターに向かいました。学芸員さんに説明をお願いしたところ、快く引き受けていただき、20分ほどの解説を皆で聴きました。1時間ほど滞在したあと、大神神社に向かいます。大鳥居をくぐって参道を歩いて10分ほどで到着。二の鳥居の先に延びる砂利道の参道はひんやりと...まきむく1DayWalkingTour

  • 西吉野の柿

    2022年10月吉日、美味しい柿を手に入れようと奈良県五條市西吉野まで車で走りました。五條市は日本有数の柿の産地で、柿シーズン真っ只中になると、幹線道沿いに出る柿販売所などで美味しい柿を安く買うことができます。この日はFacebookで見つけた山の中にあるカフェ「こもれび」にも行ってみようと思って、国道168号線からフルーツロードに入り、さらに横道に外れて山道を登って、ほぼ終点にあるお店に辿り着きました。ところが残念なことにカフェはお休み。しかたなく周辺をワンコと一緒に散策して絶景を堪能して車に戻ったところ、駐車場横の柿農家さんが柿の販売を始めていました。大きくてオレンジ色のつやつやした柿が並びます。この時期は刀根早生という品種です。形や大きさの整った柿が並べられた大小の箱があり、どれも市価よりも安いと思...西吉野の柿

  • 大阪から愛知・岐阜経由で氷見への旅(後編)

    10月9日、「道の駅恐竜渓谷かつやま」は危惧した大型車が来なくて静かに過ごすことができ、十分な睡眠がとれました。この日は金沢の友人宅を訪問することもあって、とくに行き先を決めていませんでした。朝から二人で相談して、マエダセイカの羽二重餅の古里、高向神社、横井チョコレートのアメ横・夢菓子市、五月ヶ瀬の工場直売店、最後に海岸へ出て東尋坊へは行ったことがあるので、すぐ近くの雄島へ行って、そこから金沢まで走ろうと決めました。ということで、まずはマエダセイカの羽二重餅の古里へ。以前に永平寺にいったときに来たような気がするのだけど、もしかしたらデジャブかな。いろんな種類の羽二重餅が試食できて楽しかった。自宅のお土産に生羽二重餅を1つ購入。次は高向神社です。今回の車中泊で古代史に関連する唯一の場所です。ここは第26代継...大阪から愛知・岐阜経由で氷見への旅(後編)

  • 大阪から愛知・岐阜経由で氷見への旅(前編)

    2022年10月7日、仕事を早い目に終えて3泊4日の車中泊旅に出かけました。今回のルートは、大阪を出て北名古屋のとある施設を訪ね、その後、北上して岐阜、そこから西に向かって福井、北上して石川、そして富山の氷見を折り返し点として大阪に戻ってきました。通過地点も含めると4日間で、大阪、奈良、三重、愛知、岐阜、福井、石川、富山、滋賀、京都の2府8県を走破したことになります。自動車専用道を除いて基本的にずっと下道を走り、走行距離は920キロとなりました。以下、レポートです。10月7日、17時半に大阪の自宅を出発、天理インターから亀山インターまで名阪国道、あとは下道を使って北名古屋市まで休憩を挟みながら約5時間で目的地の施設に到着。さっさと用件を済ませて車中泊予定の「道の駅美濃にわか茶屋」には零時過ぎに到着しました...大阪から愛知・岐阜経由で氷見への旅(前編)

  • 信濃・越後への古代史旅③

    信濃・越後への古代史旅の最終日は、前日夕方からの土砂降りの雨が上がってウソのような快晴の1日となりました。ホテルを7時前に出発してこの日最初の目的地、柳沢遺跡を目指しました。柳沢遺跡は銅鐸と銅戈が同じところから出土した弥生時代の遺跡で、銅鐸と銅戈の同時出土は全国初です。銅鐸は外縁付鈕式が4点、外縁付鈕式あるいは扁平鈕式古段階が1点の計5点。大きさはいずれも21~22㎝前後で、銅鐸5個は全国6番目の出土数。銅戈は九州型は1点、近畿型が7点で、九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から発見されるのは全国初。銅鐸・銅戈を合わせた青銅器の出土数としては東日本最大。このように柳沢遺跡はたいへん珍しい弥生遺跡なのです。場所は長野盆地の北端をさらに北上した新潟県との県境にちかいところ、千曲川と支流である夜間瀬川が合流するとこ...信濃・越後への古代史旅③

  • 信濃・越後への古代史旅②

    2022年7月15日~17日、2泊3日の実地踏査の旅の2日目です。朝早く起きて展望露天風呂に浸かったあと、諏訪湖畔まで散歩に出かけました。地元の人が散歩やランニング、ラジオ体操などを楽しむ中、ゆったりとした時間を過ごして宿に戻りました。この日の最初の目的地は国宝土偶「縄文のビーナス」が出土した棚畑遺跡です。霧ヶ峰の南斜面の山裾に広がる台地に位置する縄文時代中期(約5000年前)の集落遺跡で、現在は日本電産サンキョー(株)の茅野事業所が建っています。黒曜石流通の交易・交流の拠点として繁栄した集落で、南北2カ所に環状集落がある双環状の集落構造になっていました。「縄文のビーナス」はこのあと行った尖石縄文考古館に実物が展示されていました。次の行き先が中ッ原遺跡です。ここは縄文時代中期(約5,000年前)から後期前...信濃・越後への古代史旅②

  • 信濃・越後への古代史旅①

    2022年7月15日~17日に行った信濃・越後への古代史旅のレポートです。二人の先輩とともに古代史ゆかりの地を訪ねる実地踏査ツアーはこれが記念すべき10回目となります。今回の2泊3日の行程は以下の通りですが、行きたいところがたくさんあって結構悩んで組みました。<初日>JR松本駅→穂高神社→諏訪大社下社→立石公園→諏訪大社上社→木落とし坂→下諏訪温泉<2日目>棚畑遺跡→中ツ原遺跡→尖石遺跡→星糞峠黒曜石原産地遺跡→森将軍塚古墳→JR長野駅前<3日目>柳沢遺跡→居多神社→ヒスイ海岸→天津・奴奈川神社→長者ヶ原考古館→フォッサマグナミュージアム→フォッサマグナパーク→JR糸魚川駅東京・大阪・高松から3人が集まったところは長野県のJR松本駅。ここでレンタカーを借りて出発です。最初の行き先は長野県安曇野市にある穂高...信濃・越後への古代史旅①

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・15章)

    ■天照大神と伊勢神宮持統天皇は「天照大神」という名をどこから取ってきたのでしょうか。敏達天皇の時に大和に日祀部が置かれましたが、その場所が纒向遺跡の4棟の大型建物跡が見つかった場所のすぐ西側の他田(おさだ)であったとされ、現在は他田坐天照御魂神社が鎮座しています。またこの地は敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)があった場所とも言われています。神社から見ると立春や立冬の日の出の位置は三輪山山頂付近、春分・秋分の日の出は巻向山頂上付近となり、日読みの地であったとの指摘もされています。主祭神は天照御魂命です。どうやら「日祀」、「日読み」、「天照」は何らかの関係がありそうです。津田左右吉氏は『神代史の研究』において「日が天にあって此の国土を照らすといふ自然界の現象と、皇室が此の国を統治せられるといふ政...天照大神と伊勢神宮(第2部・15章)

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・14章)

    ■天照大神の誕生「天照大神」は持統天皇をモデルに創作されたという説があり、私は基本的に賛成する立場です。徹底したフィールドワークに基づいて伊勢神宮や天照大神の誕生を説いた筑紫申真氏でさえ「持統女帝がモデルにされている部分はたしかにある」と指摘します。氏は著書の中で、太陽そのもの→太陽神を祀る女→天皇家の祖先神、と神格が変化してアマテラスが誕生したという論との整合を試みますが、どう考えても無理があり、持統女帝をモデルにしたとする著書の最終章は明らかに蛇足でした。考え方を逆にしてはどうでしょうか。筑紫氏は天照大神が誕生した後に持統女帝を重ね合わせようとしたところに無理が生じたのであって、逆に持統女帝をモデルにして日神を創作し、さらにその日神を天照大神に変化させたと考えればいいのです。神代巻において日神と天照大...天照大神と伊勢神宮(第2部・14章)

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・13章)

    ■高皇産霊尊と日神ここまでの検討において、皇祖神が祀られる伊勢神宮が成立した時期が629年から645年の間であり、伊勢神宮が成立した当初に祀られていた皇祖神は高皇産霊尊である、との見解を示しました。そして前稿では、稚日女尊、大日孁尊、大日孁貴にある「日女」や「日孁」は、「日の妻」や「日の巫女」ではなく「日の女神」を表していると考えました。つまり、天照大神は誕生する前の段階ですでに女性神であったということです。ではここで、この伊勢神宮で祀られる皇祖神がいつの時期に高皇産霊尊から天照大神に代わったのか、言い換えれば皇祖神たる天照大神はいつ誕生したのか、を考えてみたいと思います。天照大神は『日本書紀』神代巻の原案が作成された段階ではまだ存在しませんでした。もし存在していたとすれば、つまり、本当に「天照大神」とい...天照大神と伊勢神宮(第2部・13章)

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・12章)

    ■ヒルメは「日の妻」か今回からいよいよ天照大神に迫っていきます。「アマテラス」は、『古事記』においては一貫して天照大御神と記される一方、『日本書紀』においては49カ所に登場する天照大神のほか、大日孁尊3カ所、大日孁貴2カ所、天照大日孁尊1カ所、日神33カ所という具合に様々な呼称が登場します。筑紫申真氏は、「日神→大日孁貴→天照大神」と変化すると解して神格三転説を説きました。つまり、日神とは太陽の霊魂そのものである自然神としての太陽神、大日孁貴とはその太陽神を祀る女、棚機つ女であり、オオヒルメの「ヒルメ」は「日の妻(め)」の意味であるとします。そもそも筑紫氏が説くように、神格が変化していくことに対応して名称が変化していったとする考え方は適切なのでしょうか。『日本書紀』神代巻第5段の本文において、伊弉諾尊・伊...天照大神と伊勢神宮(第2部・12章)

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・11章)

    ■皇祖神たる高皇産霊尊ここまで私なりに設定した論点で伊勢神宮成立の経緯を見てきましたが、整理すると次のようになります。●5世紀頃の南伊勢・度会氏は漁労・航海を生業とする海人族で、伊勢・志摩の磯部を統括する有力豪族だった。・ヤマト王権のもとで度会県造として南伊勢を統治し、御食つ国として海産物を献上していた。・南伊勢は神島のゲーター祭りなど、古来、太陽信仰が盛んな土地であった。・度会氏も太陽神(天日別命)を祖先神として現在の内宮荒祭宮付近で祀っていた。・この祭祀場は五十鈴川が伊勢平野に流れ出る扇頂部に位置し、二見浦とつながっていた。●5世紀~6世紀のヤマト王権・天皇家は大和盆地東端の三輪山麓で太陽神を祀っていた。・海のない大和の天皇家にとって伊勢は太陽信仰の聖地と考えられた。・東国への版図拡大に際して伊勢(的...天照大神と伊勢神宮(第2部・11章)

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・10章)

    ■神郡の設置ヤマト王権は7世紀前半に皇祖神高皇産霊尊を祀る祭祀場を現在の内宮付近に設けました。そして、その後すぐに起こった乙巳の変を経て、王権の実権は蘇我氏から中大兄皇子と藤原鎌足に移ることになりました。彼らは蘇我氏の政策を受け継ぐ形で伊勢における皇祖神祭祀を続けることにしたようです。少なくとも皇祖神の祭祀場を伊勢から動かすことはしませんでした。その伊勢の内宮で祀られていた皇祖神が当初は高皇産霊尊であったことは溝口睦子氏や岡田精司氏など多くの専門家が説いているところです。さて、『日本書紀』には持統天皇6年(692年)3月に伊勢行幸が行われたときの記事に「賜所過神郡及伊賀・伊勢・志摩国造等冠位」と記され、さらに同年閏5月に「免伊勢国今年調役。然応輸其二神郡、赤引絲參拾伍斤、於來年、當折其代」と伊勢大神が調役...天照大神と伊勢神宮(第2部・10章)

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・9章)

    ■度会神域の移転5世紀以降、伊勢の磯部の首長である度会氏が現在の内宮の荒祭宮あたりで祖先神であり太陽神である天日別命を祀っていたこと、伊勢の地はヤマト王権にとって東国進出の足がかりの地であり、太陽信仰の聖地と認識されていたこと、その結果、太陽神を祀る度会氏を配下におき、御食つ国として伊勢を重要な支配地域としたこと、その伊勢の太陽神を伊勢大神と称して大和で祀り、6世紀後半には日祀部を置いて祭祀を強化したこと、などを順に確認してきました。そろそろこのあたりで伊勢神宮(ヤマト王権によって皇祖神が祀られる場所としての伊勢神宮)の成立がいつ頃だったかということに迫っていこうと思います。先に見たように、日祀部設置の翌年に斎王となった菟道皇女は伊勢に派遣されず大和で伊勢大神を祀っていたことから、このとき伊勢には内宮がで...天照大神と伊勢神宮(第2部・9章)

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・8章)

    ■ヤマト王権の伊勢進出景行天皇のとき、第二皇子である日本武尊は九州の熊襲平定に続いて東国討伐に派遣されます。途中、伊勢神宮に立ち寄って倭姫命から草薙剣を受け取り、焼津、相模、上総、陸奥、蝦夷と順に平定し、さらに常陸、甲斐、武蔵、信濃、美濃というルートを辿って戻り、尾張で宮簀媛を娶ったあと伊吹山に向かい、ついには伊勢の能褒野で薨去します。『日本書紀』に記される日本武尊による東国平定記事です。垂仁天皇のときに倭姫命が御杖代となって天照大神を伊勢に遷座させたという『日本書紀』の歴史設定に基づいて伊勢神宮が登場しますが、この時代に伊勢神宮があったのか、あるいは日本武尊は実在したのかなどはさておき、ここで重要なことは伊勢が東国遠征の足がかりの場所であると認識されていることです。時代は概ね4~5世紀頃というところでし...天照大神と伊勢神宮(第2部・8章)

  • 天照大神と伊勢神宮(第2部・7章)

    ■天皇家の太陽信仰5世紀以降の伊勢で度会氏が祖先神を祀る太陽信仰を行っていたことは前稿で見た通りですが、その5世紀以降、中央においては雄略朝の稚足姫皇女、継体朝の荳角皇女、欽明朝の磐隈皇女、そして敏達朝の菟道皇女が、それぞれ伊勢大神祠あるいは伊勢祠に仕えて伊勢大神を祀っていました。敏達天皇6年(577年)に日祀部(日奉部)が設置されたことが『日本書紀』に記されています。日祀部とは太陽崇拝に関係した部民(王権に直属して様々な物資あるいは労働力の形で奉仕を行った集団)であり、この記事からヤマト王権が6世紀後半の敏達朝の時に太陽信仰のための人員や経済面での基盤を整えたことがわかります。そしてその日祀部が置かれた翌年、斎王派遣記事で見た通り『日本書紀』に「以菟道皇女侍伊勢祠」と記されることになります。伊勢の祠に仕...天照大神と伊勢神宮(第2部・7章)

  • 天照大神と伊勢神宮(27)

    ■度会氏の太陽信仰度会氏は現在の内宮の荒祭宮の地に天日別命を祀る祭場を定めました。この場所は志摩半島の山間部を北に向かって流れる五十鈴川が伊勢平野に流れ出す扇状地の扇頂部分にあたり、支流の島路川が合流する地点になります。車で内宮へ行ったことがある人はよくわかると思うのですが、内宮に向かう国道23号線の終点、どん詰まりが内宮の駐車場になっています。正確にはその先も五十鈴川に沿って志摩半島を縦断する細い県道が延びているのですが、平野部を快適に走ってきて目の前に山が迫ってきたところで伊勢神宮に到着という感覚です。そして駐車場に車を停めて宇治橋を渡って参拝となります。度会氏は太陽神を祀る場所としてなぜこの場所を選んだのでしょうか。皇祖神たる天照大神がなぜ伊勢の地に祀られることになったのかについては、これまでに見て...天照大神と伊勢神宮(27)

  • 天照大神と伊勢神宮(26)

    ■伊勢大神の正体伊勢大神とは前稿、前々稿で示した通り、伊勢の地で度会氏によって祀られていた氏の祖先神である天日別命であると考えます。ここで筑紫申真氏や岡田精司氏の論考などを参考にこの度会氏について確認しておきたいと思います。度会氏は外宮の神官(禰宜)を務める氏族で、『神宮雑例集』にある『大同本紀』からの引用記事、いわゆる『大同本紀(逸文)』によれば、その祖先である大幡主命は皇大神の伊勢遷座に協力したことから、伊勢国で神国造ならびに大神主に任ぜられたとあります。大幡主命は別名を大若子命といい、天日別命の子孫で度会氏の祖先とされています。『大同本紀(逸文)』に「評(本文では「坪」)」の文字が見えることから、大化の改新前後のことと思われ、その領域は飯野・多気・度会の三郡におよびます。以下にその部分を示します。『...天照大神と伊勢神宮(26)

  • 天照大神と伊勢神宮(25)

    ■斎王と伊勢大神前稿では伊勢大神を考えましたが、今回は斎王派遣記事から伊勢神宮を考えてみます。あらためて『日本書紀』における天武朝までの斎王派遣記事を以下に列挙します。(崇神朝の豊鍬入姫命、垂仁朝の倭姫命は除きます。)①景行紀「遣五百野皇女、令祭天照大神」②雄略紀「稚足姫皇女、更名𣑥幡娘姫皇女、是皇女侍伊勢大神祠」③継体紀「荳角皇女、荳角此云娑佐礙、是侍伊勢大神祠」④欽明紀「磐隈皇女更名夢皇女、初侍祀於伊勢大神」⑤敏達紀「以菟道皇女侍伊勢祠」⑥用明紀「以酢香手姫皇女、拜伊勢神宮奉日神祀」⑦天武紀「欲遣侍大來皇女于天照太神宮・自泊瀬齋宮向伊勢神宮」また、これらの斎王派遣に先立つ記事として、天照大神の伊勢鎮座に関する記事が以下の内容で垂仁紀(垂仁25年の条)に記されます。三月丁亥朔丙申、離天照大神於豊耜入姫命...天照大神と伊勢神宮(25)

  • 天照大神と伊勢神宮(24)

    ■伊勢大神とアマテラス伊勢神宮や天照大神に関する様々な論考にあたっていると、記紀に登場する「伊勢大神」が天照大神であることを前提とする論を見受けますが、果たしてそうなのでしょうか。もし同一神であるなら、伊勢大神と天照大神というふたつの名称を用いる必要があるでしょうか。直木孝次郎氏は地方神昇格説に基づいて、伊勢大神は皇祖神たる天照大神が国家神、至高神としての地位を確立する以前の、まだ地方神としての性格が残っていた頃の名称だとします。筑紫申真氏も神格三転説にもとづいて、天照大神へと神格が変化して皇大神宮(内宮)が成立する前の状態として地方神という表現を用いています。いずれも伊勢大神が天照大神になった、つまり両者は同一神であるという立場です。『日本書紀』には次の通り、伊勢大神に関する記述が6カ所に見られます。①...天照大神と伊勢神宮(24)

  • 天照大神と伊勢神宮(23)

    ■日本書紀の天照大神『日本書紀』では天照大神が様々な呼称で記されます。『古事記』では一貫して「天照大御神」と記される一方、『日本書紀』においては49カ所に登場する「天照大神」のほか、「大日孁尊」3カ所、「大日孁貴」2カ所、「天照大日孁尊」1カ所、「日神」33カ所という具合です。(これとは別に垂仁紀において天照大神の意味で「大神」が2カ所に出てきます。)天照大神は神代巻第5段で初めて登場します。第5段本文には、伊弉諾尊・伊弉冉尊による国生み、神生みのあと「既而伊弉諾尊・伊弉冉尊、共議曰、吾已生大八洲国及山川草木、何不生天下之主者歟。於是、共生日神、号大日孁貴。(訓注略)一書云天照大神、一書云天照大日孁尊」とあり、「伊弉諾尊・伊弉冉尊は話し合った。『私たちは大八洲国や山川草木を生んだ。どうして天下を治める者を...天照大神と伊勢神宮(23)

  • 天照大神と伊勢神宮(22)

    ●日本書紀の一書これまで「天照大神と伊勢神宮」と題して、皇祖神である天照大神を祀る伊勢神宮の成立過程とその時期について歴史学者、考古学者などの論考を要約する形で確認してきました。今回以降はこれらの学びをベースに「天照大神と伊勢神宮」について自分の考えを書いていこうと思います。まず、天照大神を考えようと思ってあらためて『日本書紀』を読んでいると疑問に思うことがいくつも出てきました。巻一および巻二を合わせた神代巻においては本文の別伝が一書曰(あるふみにいわく)として記されますが、本文と一書で天照大神に対して違う呼称が使われるケースがあります。素戔嗚尊が根の国に行く前に姉の天照大神に会おうとして高天原に行った際にふたりが誓約をする場面(第6段)がありますが、本文および一書(第2)では天照大神、一書(第1)と一書...天照大神と伊勢神宮(22)

  • 天照大神と伊勢神宮(21)

    ●山中章氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る変容する聖地伊勢ジョンブリーン思文閣出版次に、穂積裕昌氏と同様に考古学の立場から伊勢神宮の成立に迫った論考として山中章氏の『考古学から見た古代王権の伊勢神宮奉斎試論』を見てみます。この論文は穂積氏の論考をかなり意識して書かれており、文献研究の成果と考古資料を照応させて、どの時期の説に矛盾無く読み替えられるかを検証する穂積氏の論証方法に対して、いったん文献史料から離れ、遺物や遺構から時期を特定して大和王権の影が色濃く反映する資料に焦点を当てて伊勢神宮に迫ろうとするもので、多くの部分で穂積氏に反論が展開されます。封建的支配関係にあった古墳時代において、大和王権が地方に進出するには大きな障害があり、これを克服するための措置がミヤケ制、部民制、国造制でした。著者は、これら...天照大神と伊勢神宮(21)

  • 天照大神と伊勢神宮(20)

    ●穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る③伊勢神宮の考古学穂積裕昌雄山閣ゲーター祭りの舞台である鳥羽市の神島に鎮座する八代神社には、画文帯神獣鏡1面、四神二獣鏡1面、頭椎大刀2組、金銅製ミニチュア紡績具など、「神島神宝」とも称される多数の遺物が所蔵されています。画文帯神獣鏡は三重県明和町の神前山一号墳に3面、亀山市の井田川茶臼山古墳に2面、岡崎市の亀山二号墳に1面、計6面を含む24面の同型鏡があり、伊勢湾岸に多く分布することに何らかの政治的意図が読み取られてきました。これらの古墳の築造時期は5世紀後半から6世紀前葉です。頭椎大刀については伊勢から渥美半島を経て駿河に至る地域に集中的に分布していることから、東国へのルート上の諸豪族へ配布されたものとする岩原説が紹介されます。また、斎宮に程近い坂本一号墳か...天照大神と伊勢神宮(20)

  • 天照大神と伊勢神宮(19)

    ●穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る②伊勢神宮の考古学穂積裕昌雄山閣今回は南伊勢の古墳時代を概観します。まず、4世紀代に松阪市北部に相次いで築造された西山古墳、筒野古墳、向山古墳、錆山古墳という4基の前方後方墳(最大の向山古墳が全長72m)の存在から、この時代の南伊勢の主要勢力は一志郡域に出現したと考えられます。概ね4世紀前半から後半の頃にあたります。筒野古墳からは三角縁神獣鏡2面や水晶製切子玉などが、向山古墳からは内行花文鏡や多数の石製品、鉄刀一振などが出土しており、ヤマト王権勢力との関係性が示唆されます。相前後して一志郡の南にあたる飯高郡域にも30m級の円墳である坊山一号墳や高田二号墳が築かれ、こちらも円筒埴輪列や円筒埴輪棺の存在からヤマト王権勢力とのつながりが考えられます。その飯高郡域では一...天照大神と伊勢神宮(19)

  • 天照大神と伊勢神宮(18)

    ●穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る①伊勢神宮の考古学穂積裕昌雄山閣これまで主に歴史学、文献史学の専門家として武光誠氏、筑紫申真氏、直木孝次郎氏、溝口睦子氏、岡田精司氏、林一馬氏の論考を見てきましたが、それぞれの説に納得できる点と疑問に思う点があり、どの説も決め手に欠けるということがわかり、古代史を扱う歴史学の限界を見たような気がします。ただ、だからこそ私のような素人が妄想を抱く余地があるとも言えそうです。次は、そんな歴史学の論考に対して物的証拠を以って挑む考古学の穂積裕昌氏の『伊勢神宮の考古学』から、私の興味ある部分をピックアップして紹介します。ここでも引用を多用することになりますこと、ご容赦ください。まず、伊勢神宮をめぐる研究史を振り返る中で「伊勢大神」に言及します。伊勢大神を在地で祀られてい...天照大神と伊勢神宮(18)

  • 天照大神と伊勢神宮(17)

    ●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史③伊勢神宮・大嘗宮建築史論林一馬中央公論美術出版天武即位後の大来皇女の伊勢下向をもって伊勢神宮創立の端緒であるとし、天照大神を祀る場所として伊勢が選ばれた理由として、天照大神を自らの守護神として命名しつつ選定した故地(伊勢国朝明郡)に因むこと、南伊勢の地が天武の宮居した飛鳥のほぼ真東に当たるという宇宙論的地理観が想定されること、をあげます。さらに内宮の現在地が特定されたのは、究極的には天武側が占地したとしながらも、大化前後から度会・多気に屯倉が設置されて天皇家にとって親しい土地柄であったこと、天武自身の養育者だった大海氏やそれとの縁で関係のあったと思われる伊勢部や磯部氏、あるいは在地豪族の宇治土公氏、サルタヒコ神話から想定される猿女氏などによる勧奨や土地提供などがあったことが...天照大神と伊勢神宮(17)

  • 天照大神と伊勢神宮(16)

    ●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史②伊勢神宮・大嘗宮建築史論林一馬中央公論美術出版林一馬氏による先学研究の考証の最後の論点である、伊勢神宮が天武朝よりずっと以前から存在したとの主張の論拠として言及されてきた「神宮側の史料の解釈」について見てみます。まず、『神宮雑例集』や『皇宇沙汰文』などが引く『大同本紀』逸文に「物ノ部八十友諸人等率」などの記載があることを以って「伊勢神宮においても物部氏が中臣氏の地位にあったことをひそかに語る」として、神道学者の西田長男氏が神宮創立を6世紀中葉以前と説くことに対し、『万葉集』などに頻出する物部之八十伴男などと同義で、すべての群臣を称したものであると西田説を否定します。また、岡田精司説でみたとおり、荒木田・度会両氏の系譜において度会氏の系譜が合理的であるとする説に対しても反論し...天照大神と伊勢神宮(16)

  • 天照大神と伊勢神宮(15)

    ●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史①伊勢神宮・大嘗宮建築史論林一馬中央公論美術出版ここまで伊勢神宮や天照大神を研究する著名な日本史学者5名の著書を見てきました。次は少し毛色の違う建築史学の林一馬氏の論文『伊勢神宮成立史考』を見てみます。林氏は、伊勢神宮の日本建築史上に占める位置の重大さからすればその成立史は建築史学的に看過できない、その成立年代の如何によっては日本の古代建築の歴史的な組立てに甚大な影響を及ぼす、として自らの試見を提示されました。この論文はこれまでに取り上げた各氏を含む先学研究を包括的に整理して論点を抽出し、論理的な批判を展開しながら自身の考えを主張するものです。すでに何度か登場してもらっているので重複する部分があるかもわかりませんが、あらためて紹介したいと思います。論文から適宜引用しながら確認...天照大神と伊勢神宮(15)

  • 天照大神と伊勢神宮(14)

    ●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神③古代王権の祭祀と神話(オンデマンド版)岡田精司塙書房続いて著者は、ここまでの論証で存在が明らかになった天照大神以前の太陽神が、神話の中に痕跡をとどめていないかを探り、心御柱=ヒモロギを依り代とする神の連想から、高皇産霊尊の別名として『古事記』に見える高木大神(高木神)がそれであるとします。『日本書紀』本文では一貫して最高司令神、一書においても天照大神とかかわりつつ、『古事記』では天照大神と並んで司令神とされています。また『日本書紀』の天孫降臨の一書ではその発する言葉に「勅」の文字が使われ、瓊瓊杵尊の誕生では「皇祖」と表現されます。さらに『出雲国造神賀詞』では「神王」とされており、これらはすべて高皇産霊尊が古くは大王家の祖神であったことを示していると説きます。また、宮中...天照大神と伊勢神宮(14)

  • 天照大神と伊勢神宮(13)

    ●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神②古代王権の祭祀と神話(オンデマンド版)岡田精司塙書房著者は、戦後の諸研究において天皇家と太陽信仰の結びつきを6世紀後半以降とする、つまり新しく考えようとする傾向があることに対して批判的立場を取り、大王家の祖霊・守護神の信仰が簡単に変化することはないとした上で、大王が太陽神の子孫である、つまり太陽霊が古くから大王家の守護霊であったことの証拠を『古事記』の歌謡にある「比能美古(=日の御子)」に見い出し、少なくとも5世紀代、応神天皇以降の河内王朝における大王が太陽神の子として認知されていたと説きます。そしてその太陽霊を祀る恒常的な祭場として、古くからあった難波の浜のほかに河内国高安郡にある「天照大神高座神社二座」をあげます。社名から天照大神が祭神であることが明らかなこと、高...天照大神と伊勢神宮(13)

  • 天照大神と伊勢神宮(12)

    ●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神①古代王権の祭祀と神話(オンデマンド版)岡田精司塙書房次に日本史学者の岡田精司氏が著した『古代王権の祭祀と神話』に収録された「伊勢神宮の起源」と「古代王権と太陽神」をもとに氏の説を考えたいと思います。様々な資料や事実に基づく極めて実証的かつ論理的な論考となっています。適宜引用しながら見ていきます。伊勢神宮には荒木田氏を神官とする内宮と度会氏を神官とする外宮があり、『日本書紀』や延暦年間に編纂された『皇大神宮儀式帳』には垂仁天皇25年の内宮鎮座の記事が見られ、一方の外宮は同じく延暦年間の『止由気宮儀式帳』に、雄略天皇のときに天照大神の御饌都神(みけつかみ)として丹波国から豊受大神を迎えたとする記事があります。これが事実だとすると、伊勢神宮には祭典や奉幣は必ず外宮を先にする...天照大神と伊勢神宮(12)

  • 天照大神と伊勢神宮(11)

    ●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」③記紀神話二元構造論に基づき、直木孝次郎氏の伊勢神宮論や記紀の神功皇后伝説などをもとにヤマト王権時代、すなわち5~7世紀のアマテラス、要するに皇祖神になる前のアマテラスについて解説がなされ、続いて「ウケヒ神話」ではアマテラスを皇祖神の地位に就けるために、スサノヲが生んだオシホミミを含む五男神をアマテラスの子とする変更が行われたとします。さらに、当時の豪族は「連」「臣」「君」などのカバネ(姓)を持っていましたが、「連」は王権内の職掌に由来する名を持ち、天皇家の存在を存立基盤とする豪族で、「臣」「君」は本拠とする土地の名を持つ場合が多く、天皇家との関係でいえば半独立的な土着の豪族であるとして、神話の二元構造がこのふたつのグループによって分担されていたことを説きます。そして話は...天照大神と伊勢神宮(11)

  • 天照大神と伊勢神宮(10)

    ●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」②アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る(岩波新書)溝口睦子岩波書店前回は、5世紀になって「王の出自は天に由来する」という新しい王権思想を高句麗から取り入れた結果、太陽神であるタカミムスヒが生まれ、天孫降臨神話ができあがったことを見ました。ここからはいよいよ天照大神に迫っていきます。記紀神話は二元構造になっていて、それが『日本書紀』の「神代上」と「神代下」に見て取れるとします。「神代上」はイザナキ・イザナミの国生みからオオクニヌシまで、「神代下」がタカミムスヒを主神とする天孫降臨神話を中心とする話で、ふたつの神話体系が下巻はじめの「国譲り神話」で結び付けられているというのです。そして、上巻は古くから伝承された日本土着の神話・伝説を集成して構成された神話体系で、下巻は5世紀...天照大神と伊勢神宮(10)

  • 天照大神と伊勢神宮(9)

    ●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」①アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る(岩波新書)溝口睦子岩波書店次に日本史学者の溝口睦子氏による「アマテラスの誕生」を見てみます。タイトルは筑紫申真氏の著書と同じですが「古代王権の源流を探る」というサブタイトルを冠して筑紫氏とは全く違うアプローチで天照大神に迫ります。弥生時代から4世紀までの政治体制やその拠り所となる政治思想、宗教観が5世紀初頭に大きく変化し、8世紀の律令体制の確立に伴ってさらに変化を遂げたとして、そのプロセスの中でどのようにして天照大神が誕生したかを描き出します。なお、溝口氏の論を紹介するにあたっては神の名をカタカナで表記する著書に従った方がわかりやすい良いと思うのでそのようにします。こちらも著書から適宜引用しながら紹介します。三国史記や好太王碑文に...天照大神と伊勢神宮(9)

  • 天照大神と伊勢神宮(8)

    ●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立③直木孝次郎古代を語る〈4〉伊勢神宮と古代の神々(直木孝次郎古代を語る4)直木孝次郎吉川弘文館直木氏は、伊勢神宮が天皇家の氏神の社の地位を独占し、天皇家の最高の神社となるのは天武朝以後で、その画期は壬申の乱であったとします。大海人皇子が北伊勢の朝明郡で天照大神を望拝した行為は、伊勢神宮に敬意を表すとともに援助を要請したと考え、伊勢神宮もこれに応えて加勢したと推測します。去く鳥の争ふはしに度会の斎の宮ゆ神風にい吹き惑はし天雲を日の目も見せず常闇に覆ひたまひて定めてし瑞穂の国を696年の高市皇子の死に際して柿本人麻呂が詠んだ挽歌の一節ですが、壬申の乱に際して度会から吹いてきた神風によって大海人皇子が勝利して天下を平定した、というこの歌から、伊勢神宮の援助が大きな力になったこと...天照大神と伊勢神宮(8)

  • 天照大神と伊勢神宮(7)

    ●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立②直木孝次郎古代を語る〈4〉伊勢神宮と古代の神々(直木孝次郎古代を語る4)直木孝次郎吉川弘文館直木氏は、伊勢は東国への交通の要地であるという第1の手がかりをさらに深掘りします。雄略朝のころ、大和から東海を経て東国へ通じるルートは、伊賀から北伊勢を通って尾張、そして東国へ、という陸路が主要ルートで、南伊勢から渥美半島へ船で渡る海路は脇道だとします。難波の住吉、尾張の熱田、敦賀の気比、筑前の宗像など古代の大社は交通上の要地にあるものが多いが、この時代に脇道であった、つまり交通上の要地でなかった南伊勢は神宮が設けられる条件を満たしていなかったとします。私はこの南伊勢ルートが脇道であったとの考えには賛成しかねます。愛知県清須市にある歴史博物館を訪ねたときに学芸員の方から「清須市周...天照大神と伊勢神宮(7)

  • 天照大神と伊勢神宮(6)

    ●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立①伊勢神宮(新日本新書)俊雄,藤谷新日本出版社私の手元にある本は1991年に出版された藤谷俊雄氏との共著による『伊勢神宮』の新版です。この本の旧版が出版された1960年から30年以上の歳月を経たのちの新版ですが、内容については「誤植を正し、一、二の加筆をするのにとどめてほぼもとの形のまま刊行する」とあとがきに記されています。この直木説は伊勢神宮成立に関する代表的な論考のひとつと言えるでしょう。さっそく著書から引用しながら見ていきます。直木氏は伊勢神宮の起源を考えるにあたって2つの手がかりをあげます。第1の手がかりは「伊勢神宮の所在地が、伊勢湾をへだてて尾張・三河に対する交通上の要点で、大和政権の東方発展と関係があると思われること」、そして第2には「斎宮に関する記紀の記録」...天照大神と伊勢神宮(6)

  • 天照大神と伊勢神宮(5)

    ●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」③アマテラスの誕生(講談社学術文庫)筑紫申真講談社筑紫申真氏は、天照大神は天武・持統両帝がつくったカミであり、皇大神宮は天武・持統両帝が築き上げた神社だと断言し、神格三転説にもとづいてそのプロセスや成立年代を説きます。加えて、その場所がなぜ南伊勢であったのか、についても論述しているので要約してみます。南伊勢の宮川下流域は度会県と呼ばれ、この地の磯部(伊勢部、石部)と呼ばれる漁民たちを支配下におく度会氏が治めていました。天皇家の支配下に入ってからは御食つ国として魚介類を献上するほどに漁業の盛んな地域です。その度会氏は伊勢国造や外宮の神官を務めることになる有力豪族で、天日別命あるいは天日鷲命と呼ばれる日の神を祖先神として祀っていました。大化の改新以降、度会・多気の二郡は神郡に...天照大神と伊勢神宮(5)

  • 天照大神と伊勢神宮(4)

    ●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」②アマテラスの誕生(講談社学術文庫)筑紫申真講談社『日本書紀』によると、敏達天皇6年(577年)に「日祀部」が設けられました。このとき天皇家は日神を祀っていましたが、まだ天照大神は登場していません。さらに著者は歴史学者の直木孝次郎氏の説を引用して、大化の改新より前に天照大神が祀られた形跡がないことを示します。また、その後も天智天皇に至るまで天照大神や伊勢神宮を祀った記事が『日本書紀』にないことを指摘し、天照大神が天皇家の祖先神として人格を与えられて創り上げられるのは、天武天皇即位(天武元年)から、多気大神宮が度会に遷される前年の文武元年の間だと主張します。その天武天皇元年(672年)には壬申の乱が起こります。挙兵のために吉野を出て伊勢国に入った大海人皇子(即位前の天武天皇...天照大神と伊勢神宮(4)

  • 天照大神と伊勢神宮(3)

    ●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」①アマテラスの誕生(講談社学術文庫)筑紫申真講談社著者の筑紫申真氏はWikipediaによると「在野の神話学者、歴史学者、民俗学者」となっていますが『アマテラスの誕生』を読むと、歴史学者というよりも民俗学者の印象を強く受けます。民俗学によくあるパターンで、いくつかの事実や事象を取り上げて結論を導き出すものの、その因果関係が必ずしも明確ではないので今ひとつ腹に落ちない部分が結構ありました。では、少し長くなりますが著書から適宜引用させていただきながら順に追っていこうと思います。8世紀よりも古い時代、神は一年に一回、海や川からやって来ると考えられ、その神を迎えるために神の妻となるべき女性、つまり巫女が神の着物とする神衣(かんみそ)を機にかけて織りました。神の一夜妻となるこの巫女...天照大神と伊勢神宮(3)

  • 天照大神と伊勢神宮(2)

    ●武光誠氏の考える天照大神誰が天照大神を女神に変えたのか(PHP新書)武光誠PHP研究所前回の冒頭に紹介した武光誠氏の『誰が天照大神を女神にかえたのか』には「中臣氏が6世紀なかばに高天原神話を整えたときに、大日孁尊(おおひるめのみこと)の別名を持つ男性の天照大神を、女性の天照大神に変えた」と書かれています。大日孁尊は『日本書紀』に天照大神の別名として登場する神ですが、「尊」がついているので男性神とみることができます。しかし一方で「日孁」は「日の女」あるいは「日の妻」として「太陽神に仕える巫女あるいは巫女神」と解するのが有力な考えで、そうすると両者は矛盾する話となります。著者はこの矛盾を解く理屈として次のような解釈を展開します。農耕神である太陽神(男性神)を祀る集団はその巫女神である「ひるめの神」も一緒に祀...天照大神と伊勢神宮(2)

  • アマテラスは何者?

    ■天照大神と伊勢神宮(1)●アマテラスは何者?アマテラス(『古事記』では天照大御神、『日本書紀』では天照大神。以降、特別な意図がない限りにおいて天照大神と記します。)はいったい何者なのか、なぜ女神なのか。今回はこの疑問に対する自分なりの答えを出してみようと思って学習を開始しました。私の人生において天照大神を知ってからここに至るまでの経緯は次のような次第です。幼少の頃、「かみさまのおはなし」という絵本を幼稚園で買ってもらった記憶があります。天の岩戸や因幡の白兎の話が載っていたと思います。その絵本に登場する天照大神は女神でした。それ以来、天照大神が女神であることに何の違和感も持たずに生きてきました。生まれてこの方、ずっと大阪に住んでいる私の小学校のときの修学旅行はお決まりの伊勢志摩方面。中学生の時に式年遷宮があって...アマテラスは何者?

  • 古代史日和ツアー(2日目)

    2022年5月3日・4日の二日間、古代史コミュニティ「古代史日和」が企画・運営する古代史ツアーに参加しました。2日日の5月4日は「地元ガイドとまわる2古社と唐古・鍵遺跡」と題して、次のようなルートを巡りました。近鉄笠縫駅集合→多坐弥志理都比古神社(多神社)→鏡作坐天照御魂神社(鏡作神社)→笹鉾山1号墳→黒田大塚古墳→唐古・鍵遺跡→唐古・鍵考古学ミュージアム→近鉄田原本駅解散笠縫駅から多神社へ徒歩で向かい、参拝後にランチをとって再び笠縫駅にもどり、ひと駅先の田原本駅まで電車に乗り、田原本駅からあとの行程はレンタサイクルで楽チンツアーとなりました。スタートの笠縫駅からゴールの田原本駅までずっとついてくれた2名のボランティアガイドの方は田原本で文化財に関わるお仕事をされていたそうで、その関係からか、多神社と鏡作神社で...古代史日和ツアー(2日目)

  • 古代史日和ツアー(1日目)

    2022年5月3日・4日の二日間、古代史コミュニティ「古代史日和」が企画・運営する古代史ツアーに参加してきました。初日の5月3日は「巨勢氏の痕跡を追う&話題の牽牛子塚古墳」と題して、次のようなルートを巡りました。近鉄飛鳥駅集合→牽牛子塚古墳→許世都比古命神社→岩屋山古墳→市尾墓山古墳→市尾宮塚古墳→南水泥古墳→北水泥古墳→近鉄吉野口駅解散まずは話題の牽牛子塚古墳。7世紀後葉の築造と推定され、第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵と考えられています。想像通りのガッカリでした。発掘調査の結果をもとに復元されたのでしょうが、天皇陵として特徴的な八角墳であることを除き、飛鳥地方にある同時代の古墳とはあまりにかけ離れた姿を見て、本当にこんな姿をしていたのだろうか、という疑問を払しょくできませんでした。何よりもコンクリー...古代史日和ツアー(1日目)

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