末永能登守14611514 さん プロフィール

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末永能登守14611514さん: 土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ハンドル名末永能登守14611514 さん
ブログタイトル土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006
サイト紹介文葛西一族とその家臣末永一族の視点から、郷土史、日本史の闇に埋もれた声なき声を明らかにしていきます。
自由文時は鎌倉時代から戦国時代、現在の宮城県北から岩手県南にかけて蟠踞した武家の一族葛西氏の家臣末永氏。我が母方の先祖とされるこの一族、時に主君に謀叛を起こしながらも家老にまで立身を遂げた叛骨気鋭の武者ぶりを、様々な視点から論じ、滅びし者達の声無き声を明らかにするブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供201回 / 292日(平均4.8回/週) - 参加 2016/09/03 00:53

末永能登守14611514 さんのブログ記事

  • 第九章91虚空の柏・薄衣系図の混乱、女達の遺領争い、高時出家に絡む騒動
  • 薄衣氏の系図によれば正中2年(1325)6月23日、磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町)上総介清堅(丹波守清胤)が没します。享年56または51歳。長男内匠頭清村(常隆)が薄衣氏家督を継ぎ、次男豊後守胤村は磐井郡門崎館主(一関市川崎町)門崎氏、3男出雲守清胤は磐井郡金沢朝日館主(一関市花泉町)金沢氏、4男平七郎正村(隼人正常朝)は磐井郡松川館主(一関市東山町)松川氏としてそれぞれ分家します。厄介なことに薄衣氏の系 [続きを読む]
  • 第九章89虚空の柏・葛西宗清一世最期の光芒
  • 元亨3年(1323)10月27日、9代執権北条貞時の13回忌が臨済宗円覚寺派大本山瑞鹿山円覚興聖禅寺、通称円覚寺で盛大に執り行われます。「円覚寺文書・北条貞時13年忌供養記」によれば、各寺院から掻き集められた僧侶が1783人、参列した御家人182人、献上された品々は砂金2560両、銭4450貫など膨大。葛西伊豆入道(宗清一世)は砂金30両を献上しています。ちなみに長崎円喜は銭300貫、足利貞氏は銭230貫。「B類系図」の5代当主文保元 [続きを読む]
  • 第九章87虚空の柏・後醍醐天皇即位、蝦夷大乱、足利高氏元服
  • 文保2年(1318)3月29日、期間限定10年の任期を満了し、95代花園天皇(持明院統)が譲位します。大覚寺統から皇太子(次期天皇予定者)となっていたあの男が即位します。尊治親王、96代後醍醐天皇の誕生です。この時31歳。物心つくかつかないかという時に即位し、子供が産まれたら早々に譲位し、上皇となり、出家すれば法皇となるのが一般的な流れだったこの時代、30代での即位は可成り珍しいケースだったようです。皇室典範要らず [続きを読む]
  • 第九章86虚空の柏・南北朝時代のスターが家督を継ぎ、或いは誕生する
  • 正和6年(1316)2月3日、元号が文保と改元されます。2月7日、伊達氏5代当主宗綱が没します。享年54歳。長男基宗が後を継ぎます。宗綱と基宗の年齢差が10歳しかないため、宗綱の享年は64ではないかとする解釈もあるようです。その場合、父政依とは23歳差になるので整合はします。何にしろ、この頃の伊達氏の系図は同時史料の裏付けが取れないこともあり、あやふやな部分が多いです。「B類系図」によると4月2日、“5代当主清信”が享 [続きを読む]
  • 第九章85虚空の柏・北条高時の人物評
  • 桁渕山について掘り下げていくと、非常に興味深い事実に邂逅します。まとめて後述したいと思います。正和2年(1313)、大覚寺統の皇太子尊治親王の6歳になる次男を、天台宗梶井門跡(魚山三千院、京都市左京区大原)にて出家せしめ、近所の左京区岡崎に建っていた法勝寺八角九重塔に因み、大塔宮尊雲法親王と名乗らせます。名前については、昔はだいとうと訓まれ、最近になっておおとうと訓むようになっています。国分氏の系図によ [続きを読む]
  • 第九章84虚空の柏・葛西高清誕生、板碑に刻まれた記銘の謎
  • 「B類系図」によれば、葛西氏6代当主となる清貞が長崎宗資入道円喜の娘と結婚し、正和元年、長男高清が誕生しています。後述しますが、平左衛門尉頼綱の甥・長崎円喜の7代の子孫に当たるのが末永能登守であり、足利氏置文ならずとも、そのことは少なからずこの男の生き様に影響を与えたでしょうか。末永能登守が館を構えた登米郡善王寺近辺では、弘安年間からたびたび板碑の造立が散見されます。板碑とは平ったく説明すれば、石製 [続きを読む]
  • 第九章83虚空の柏・北条貞時の死と長崎円喜の主導権掌握
  • 延慶2年(1309)9月14日又は18日、末永清泰、清春、清重、晴重、晴清とも記された人物が没したことが系図に記されます。「B類系図」の清度ではないかという可能性は前述しました。享年は58歳で戒名は且道。延慶4年(1311)4月28日、元号が応長と改元されます。9月22日、9代執権貞時の従弟で義弟でもあり、同時に貞時の片腕でもあった10代執権師時が、評定の席で急逝を遂げます。享年37歳。10月3日、10代連署大仏流北条宗宣が11代執 [続きを読む]
  • 第九章82虚空の柏・謎の人物葛西清秀、高時の元服と長崎一族の一字拝領
  • 本来足利氏嫡男でありながら長庶子とされた家氏は尾張足利氏、通称斯波氏と名乗り、足利氏分家筆頭として、宗家、宗氏(家貞)と続き、延慶元年(1308)、宗氏に次男時家(家兼)が誕生しています。この年、骨嵬ことアイヌ人の首長イウシャンヌとウァインがニヴヒ族を仲介とし、毛皮の朝貢を条件に蒙古に降伏し、所謂北の蒙古襲来は解決を見ます。延慶2年(1309)1月5日、葛西和泉守清秀なる人物が、元良郡大谷(気仙沼市本吉町) [続きを読む]
  • 第九章77虚空の柏・スヱナガコード第四の暗号、米良文書の最終成立
  • 「末永系図」特に「門崎布佐」群を見ると、清泰または清春、乃至、晴重や清重とか晴清と記される人物が、延慶2年(1309)9月14日又は18日、享年58歳没という、清度の命日に酷似した没年月日を有しており、その次世代にあたる晴義また晴茂が“肥後守”を名乗り、更にその次世代である晴実が“亦七郎”を名乗り、その後継者晴房が“七郎”を名乗っていて、清度の残照を刻んでいます。ちなみに晴重、清重とは完全に初代清重のオーバー [続きを読む]
  • 第九章76虚空の柏・黄金の国の家督相続、相馬氏、長崎氏、そして末永氏
  • 鎌倉幕府は刈田狼藉の相馬胤氏に出頭を命じますが、バックレて出て来ません。恐らくこれで心証を悪くしたことでしょう、永仁5年(1297)6月7日、胤氏の訴えは全面棄却され、ここに相馬一族の所領配分が一応確定されます。相馬5代当主胤氏はその後間もなく没したと見られます。享年不詳。また、胤門も没します。惣領はどうやら重胤一世に相続されたようです。ローティーン、無位無官で相馬氏6代当主となった重胤には相反する2つの視 [続きを読む]
  • 第九章73虚空の柏・平左衛門尉頼綱の一族と祖先
  • 正応6年(1293)4月12日、鎌倉をマグニチュード8といわれる大地震が襲います。臨済宗建長寺派大本山巨福山建長興国禅寺などの巨刹が軒並み倒壊し、津浪や余震で死者数千から2万3千人といわれる途轍も無い被害を出します。悪政暴政に怒るかのような大地の震撃。9代執権貞時はこれに乗じて内管領平左衛門尉頼綱の始末を企みます。その頃、平頼綱のかわいい次男資宗への露骨な依怙贔屓に、ムカつく長男宗綱は家督を奪われる危機感に苛 [続きを読む]
  • 第九章71虚空の柏・鎌倉を垣間見たヒマを出された宮廷女官の向かう先
  • 正応2年(1289)3月、往古の在原業平、乃至西行を気取る“ヒマを出された宮廷女官”後深草院二条が仏道修行と称し、鎌倉を訪れます。この頃の二条は各地の寺院名刹に仏典を訪ねながら精力的に写経をこなす日々を過ごしていました。7月に不意の病に罹り、鎌倉滞在が長引きますが、そんな中でも時のセレブにしっかり絡み込んでいる様は中々なもので、平頼綱の妻から裁縫の手ほどきを依頼されています。二条が頼綱屋敷を訪れてみると [続きを読む]
  • 第九章70虚空の柏・葛西一族と平泉中尊寺毛越寺との相論顛末
  • 正応元年(1288)3月19日、葛西宗清一世に対する僧侶の訴えについて、宗清一世の代官太郎左衛門光長なる名字不明の人物は、“元からトラブルなんて無いし、僧侶達も承諾してますし”と解答。3月20日には、葛西時員への訴えに対し、時員の代官重常が、“時員に関しては、違法や不正はしてないんだけど僧侶らが言わないからさぁ”と反論。こうした意見を受けて沼倉行蓮と和賀行盛は更に葛西時員代官青戸二郎重茂を取調べようとします [続きを読む]
  • 第九章69虚空の柏・葛西清経の死と宗清一世の5代目家督相続
  • 弘安9年(1286)12月8日、磐井郡東山荘神崎布佐館主(岩手県一関市川崎町門崎字布佐)長岡千葉忠胤が没します。享年74歳。長男信胤(1249〜1323)が後を継ぎます。弘安10年(1287)6月18日、7代連署業時が辞任し、8月19日、大仏北条宣時が8代連署に就任します。前後して7月5日、元良郡赤岩城主・熊谷石見守直鎮が没します。享年61歳。また8月、葛西氏の幾度とない違法な搾取に悩む平泉中尊寺は、荒廃した伽藍群の修理を鎌倉幕府に [続きを読む]
  • 第九章67虚空の柏・流鏑馬と譲り状、中尊寺との相論
  • 弘安7年(1284)12月9日開催の新日吉社小五月会(しんひえしゃ・こさつきえ)において、流鏑馬が7番に渡って行われ、その3番に葛西三郎平宗清の馬で、その家人と見られる富沢三郎平秀行が射手で参加し、7番には後藤筑後前司基頼入道寂基の馬で、弟壱岐十郎基長が射手を勤めています。「B類系図」によれば、葛西清経と見られる“葛西4代当主”が弘安10年(1287)11月7日に没したと記されます。同時記録における葛西4代当主清経の事 [続きを読む]