末永能登守14611514 さん プロフィール

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末永能登守14611514さん: 土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ハンドル名末永能登守14611514 さん
ブログタイトル土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ブログURLhttp://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006
サイト紹介文葛西一族とその家臣末永一族の視点から、郷土史、日本史の闇に埋もれた声なき声を明らかにしていきます。
自由文時は鎌倉時代から戦国時代、現在の宮城県北から岩手県南にかけて蟠踞した武家の一族葛西氏の家臣末永氏。我が母方の先祖とされるこの一族、時に主君に謀叛を起こしながらも家老にまで立身を遂げた叛骨気鋭の武者ぶりを、様々な視点から論じ、滅びし者達の声無き声を明らかにするブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供133回 / 207日(平均4.5回/週) - 参加 2016/09/03 00:53

末永能登守14611514 さんのブログ記事

  • 第九章59虚空の柏・はしかの大流行のさなか、3代当主時清が没する
  • 建長8年(1256)7月末、京都で赤斑瘡(麻疹、はしか)が大流行します。8月6日には鎌倉で大風、洪水、山崩れが発生します。8月11日、5代執権時頼の長庶子が元服します。加冠役は足利利氏。その一字と北条氏の通字を合わせ、時利と名乗ります。しかし、足利利氏は間もなく時頼の偏諱を受けて頼氏と改名します。京都では5代将軍藤原頼経が流行中の赤斑瘡、又は赤痢に罹患し、39年の僅かな生涯を散らします。幕府にいたころは第一線の [続きを読む]
  • 第九章58虚空の柏・奥大道夜討強盗警固令と放生会供奉人選考
  • 建長8年(1256)3月11日、2代連署重時が連署を引退し、出家を願い出ます。それを受けて3月27日、次男極楽寺北条長時(1230〜64)が六波羅探題から鎌倉に異動し、3月30日、重時4弟政村が3代連署に就任、4月13日、重時3男時茂が後任の六波羅探題に就任します。6月2日、奥大道における夜討強盗への警固を改めて命令する御教書が、国道4号線の沿道に住む地頭達に発布されます。背けば所領召し上げるとの追伸付きで。御教書を受け取った [続きを読む]
  • 第九章57虚空の柏・時頼廻国伝説と吾妻鏡編者交替疑惑
  • 能や浄瑠璃、歌舞伎の演目にあるところの「鉢木」によれば、下野国安蘇郡佐野荘(栃木県佐野市)の佐野源左衛門尉常世なる武士の家に僧侶が宿を求め、常世は暖を取る薪も無く、松、梅、桜の盆栽を切ってこれに充てます。佐野常世は、“こうして貧乏しているが、鎧、薙刀、馬の管理は怠らずにいる。いざ鎌倉の大号令が下ったら一目散に馳せ参ずるつもりだ”と語ります。さて、僧侶は鎌倉に帰ると執権時頼に戻り、いざ鎌倉の大号令を [続きを読む]
  • 第九章56虚空の柏・最近の武士はなっとらん、時頼のボヤキと伝説
  • 建長6年(1254)閏5月1日、5代執権時頼は酒肴片手に鎌倉幕府御所へ伺います。ツマミは味噌でしょうか?酔ったついで時頼は、“近頃の武士は北条も他家も引っ括めて、武芸も嗜まず、武士じゃない才能や芸術ばかりを好み、とにかくお家芸を疎かにしている、良い事じゃないなァ。”とグダを巻きます。最近の若い者は、という定番の文句は、辿れば古代エジプト約5000年前のピラミッドにまで刻まれているんだそうです。古い世代は兎角、 [続きを読む]
  • 第九章55虚空の柏・葛西一族の御無沙汰と結城朝光の死
  • 建長5年(1253)1月16日から建長6年(1256)1月1日の3年間は、「吾妻鏡」を舞台とした葛西一族の登場は見られません。国分氏の系図によれば、3代当主胤重は建長5年(1253)1月、6代将軍宗尊親王に近侍したとあります。2月25日、16歳以下の傷害罪について、罰金を銅銭で支払うことが決められます。鎌倉時代の少年法といったところでしょうが、この時代は現代以上に苛酷な時代でしたが、現代同様、年端も行かないガキンチョへの刑罰 [続きを読む]
  • 第九章53虚空の柏・葛西清親の不明瞭な死と家族
  • 葛西氏3代当主時清の名乗りが葛西伯耆新左衛門尉から葛西伯耆三郎左衛門尉へと変化したことから、葛西氏2代当主・伯耆守清親はこの頃没したものと見られます。正確な没年月日、享年齢は不明です。「B類系図」では“2代当主朝清”が宝治元年(1247)1月3日に68歳で、“3代当主清親”が文永7年(1270)2月18日(又は12月18か28日)に56歳(又は54歳)で没したと記します。葛西清親の戒名は清蓮(「A類系図」)、または東光寺殿見山真 [続きを読む]
  • 第九章49虚空の柏・寺での集団感染は妖怪の所為とする、よって件の如し
  • 建長3年(1251)1月20日、5代将軍頼嗣が二所詣に出発し、前陣随兵に葛西七郎時重、豊島平六経泰らが、後方衛護に足利利氏、山内藤内左衛門尉通景らが、後陣随兵に国分二郎胤重、長江七郎景綱(景朝?)らが供奉します。葛西時重が左衛門尉と記されないのは両様兼帯事件の直後だからでしょうか。しかし、3回目、最後の記述においては左衛門尉と記されます。また、豊島経泰は系図には有経の息子と記され、世代が合いません。有経曾孫 [続きを読む]
  • 第九章48虚空の柏・葛西清親の隠居、時清の家督相続
  • 建長2年(1250)8月15日、鶴岡八幡宮放生会が開催され、先陣随兵に三浦盛時、足利家氏、安達泰盛らが、後陣随兵に葛西新左衛門尉清時、千葉泰胤らが供奉します。葛西新左衛門尉清時とは2代当主清親の嫡男時清であると考えられます。清親はどうやら隠居したらしく、新しく当主になったという意味の名乗り“新”を冠しています。8月18日、5代将軍頼嗣は由比ヶ浜へ犬追物見物に出掛け、先陣随兵に足利利氏、安達泰盛らが、篭に乗った [続きを読む]
  • 第九章47虚空の柏・閑院殿造営参加と葛西時重の両様兼帯
  • 宝治3年(1249)、またもや「吾妻鏡」は一年間の欠落に入ります。3月10日、宣旨を受けてより13年の歳月をかけ、香取神宮が遷宮します。担当は千葉時胤でしたが早世したため、嫡男頼胤に引き継がれていました。3月18日、元号は建長と改元されます。長岡千葉胤親の息子で磐井郡門崎布佐館主(一関市川崎町)千葉忠胤に長男信胤が誕生します。またこの年は評定衆の下に、御家人の領地訴訟における迅速かつ公正な裁判を進めるため、引 [続きを読む]
  • 第九章46虚空の柏・葛西小三郎時清の死と暴走老人どもの夢の痕
  • 宝治2年(1248)2月5日、5代執権時頼は永福寺の修理を命じます。前の年に三浦光村が布陣したこの寺院は、源頼朝が平泉藤原泰衡や源義経ら平泉藤原氏征服の犠牲者の怨霊を鎮撫するため、平泉中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立された寺院ですが、翌年に60周忌を迎えるのに合わせたのです。5月28日、5代執権時頼と側室との間に長庶子時輔が誕生します。6月9日、原因は不明ですが、相模川が白い布を入れると染まるぐらいに赤くな [続きを読む]
  • 第九章45虚空の柏・謎の壱岐と伯耆
  • 北条時宗の母と考えられていた女性は、実は毛利氏ではなく、北条重時の娘・葛西殿だったことが判明しています。葛西氏が館を構えたことに因む葛西ヶ谷(神奈川県鎌倉市小町)。そこに居を構えたからそう呼ばれ、葛西氏とは何の血縁もないようです。宝治合戦後、北条時頼と毛利氏は離婚したのだそうです。もしかすると茂木知定も三浦泰村の娘と離縁して葛西光清の娘と再婚したのかもしれません。そんな毛利季光の本拠地相模国愛甲郡 [続きを読む]
  • 第九章44虚空の柏・各系図から炙り出される葛西氏との縁、預り囚人の記憶
  • 列挙した家々に遺された伝承を玉石構わず色々書き出してみました。移住や下向の理由が戦争による領土拡張や現地支配による移動や派遣に求める向きもあるでしょうが、合戦に敗れた武将達が預り囚人となり、やがて郎党となるか自立したかで土着していったと考えることは出来ないでしょうか。実際長尾氏は石橋山の合戦で源頼朝に敵対したものの、やがて勢力を盛り返した頼朝に降伏。法華経の読誦を理由に赦免され、三浦氏の預り囚人か [続きを読む]
  • 第九章42虚空の柏・三浦光村の壮絶死と宝治合戦顛末
  • 宝治元年(1247)6月5日、遂に和田合戦以来の鎌倉市街を舞台とした戦闘が開始されます。その日は5代執権時頼の使者平盛綱との折衝が上手くいき、三浦泰村は極度の緊張と安堵から、妻から勧められた湯漬けを吐き戻してしまう程でした。しかし、その隙を突くように安達軍が甘縄の屋敷からキャバクラ街のある下の下馬橋を経て若宮大路を遡り、三浦邸を襲撃、予め集っていた三浦方の軍勢が応戦します。敵勢が放った火が泰村邸に延焼す [続きを読む]
  • 第九章41虚空の柏・和睦の尽力虚しく好戦派が大勢を動かしてしまう
  • ここからは怪奇現象を一切排除した上で宝治合戦を論じていきます。宝治元年(1247)3月2日、足利泰氏の2番目の妻となっていた5代執権時頼の長姉(系図では長妹)が没します。3月3日、鎌倉幕府将軍御所で闘鶏が催され、三浦泰村が喧嘩騒ぎをやらかします。鶏以下か。4代将軍頼経追放後、将軍派は三浦光村を台風の眼に巻き返しを謀ります。裏では九条道家、頼経親子の使嗾があったと言われます。対する執権得宗家派は、出家して高野 [続きを読む]
  • 第九章39虚空の柏・宮騒動最大の謎
  • 4代執権経時の早世に端を発する騒動、政変劇、何が何だか訳がわからない大人の事情で父親と離れ離れにされたわずか8歳の将軍頼嗣は、一連のクーデターをどのような目で見、いかなる思いに至ったことでしょう。小学二年生の妻とさせられた桧皮姫にはどのような振舞いが求められたかは不明ですが、将軍およびその実母、継母と弟2人らに囲まれ、多感な高校二年生には酷な環境にあったのではないでしょうか。寛元4年(1246)8月15日、 [続きを読む]
  • 第九章37虚空の柏・将軍と執権の病気合戦
  • 寛元3年(1245)は4代将軍頼経が政争のストレスからか、20代にして糖尿病となり、3男や次男頼嗣までもが発熱などの病気に悩まされます。5代将軍頼嗣は更に首の辺りに腫物が出来るなど、年がら年中病気に罹る有様。一方の4代執権経時もまだ20代なのに黄疸に悩まされ、2度病臥します。お互い政争よりも病魔との戦いに懸命な感じ。そのさなかの4月6日、名越朝時が脚気と腹水により没します。享年53歳。長男光時が跡を継ぎます。5月23 [続きを読む]