ひょうすんぼ さん プロフィール

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ひょうすんぼさん: ひょうすんぼ
ハンドル名ひょうすんぼ さん
ブログタイトルひょうすんぼ
ブログURLhttp://hyousunbo.hatenablog.jp/
サイト紹介文宮崎県の田舎町都農町について 民俗、歴史、観光の話し
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供91回 / 347日(平均1.8回/週) - 参加 2016/09/04 00:48

ひょうすんぼ さんのブログ記事

  • 何故郷土研究か
  •  前回の記事のように郷土研究とは異なる内容を書くこともある。一応このブログの内容は郷土研究が中心となっている。 では何故郷土研究なのか。 私が把握している限りでは大学の周りに郷土研究をしている人はいない。趣味として取り組もうという人はあまり多くないであろうし、仮にいたとしても若い人にはほぼいないであろう。 郷土研究を初めた理由についてきちんと考えてみると、歴史や民俗が好きで、さらに都農が好きだから [続きを読む]
  • 民俗学の学際性
  • 1、学際性の必要性 島村恭則氏は「フォークロア研究とは何か」[i]の結びにおいてフォークロア研究の学際性を強調している。 もう一つあらためて注意しておきたいのは、フォークロア研究は、人文社会系諸学の学際的状況の中で成立するものだということである。[ii] 同氏によればフォークロア研究とは民俗学を批判的・継承的に発展させたものであるため、民俗学と異なる部分もあるが、民俗学及び他の学問の発展のためにも民俗 [続きを読む]
  • 都農町の誕生
  • 1、明治維新後 1869年の版籍奉還に伴う藩政改革で現在の都農町に属する地域は川北郷と都農町とされた。都農町は商店街がある地域一帯で、川北郷はそれ以外の地域だと思われる。 その後同年10月には北庠という名で両地域は統一される。翌年にはまた北郷という名前に、さらにまた翌年には川北村という名に変わる。 さらにそのまた翌年には地方行政区の設置に伴い都農村と川北村に分置された。 所属する県の移り変わりなど [続きを読む]
  • 都農の歴史⑦ 戦後
  • 1、戦後 戦後都農への復員者は約1300名、引揚者は約700名と合計2000名が都農に帰ってきた。しかし当時の日本は国土の荒廃と食糧難、激しいインフレに悩まされており、都農もその例外ではなかった。そのため長野、牧内、都農牧場へ入植が進められ、約200戸が入植したものの、その多くが離農した。 GHQ主導の下行われた農地改革により、都農町内でも自作農が増加し、94%が自作農となり、戦前の二倍となった。  [続きを読む]
  • 都農の歴史⑥ 近代 大正・昭和前期
  • 1、大正時代 大正9年に都農は村から町へと移行する。都農は児湯郡内でもっとも有権者数が多く、人口も川南と僅差の二番目であった。(町史では人口が郡内で一番とされているが誤記だと思われる。) さらに大正10年には日豊本線が都農まで延び、商業、農業、教育など様々な面で都農に大きな影響をもたらした。また大分県から三日月原を中心とした町内への移住が進んだという。 大正時代は15年と短いものの、その間に都 [続きを読む]
  • 都農の歴史⑤ 近代 明治
  • 1、明治維新の影響 1868年の明治維新から2年後には版籍奉還が行われたものの、実体は以前と変わらなかった。しかし版籍奉還から2年後の廃藩置県により名実ともに藩政が廃止される。その後都農は美々津県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県という経過をたどる。行政機構も目まぐるしく変化したが、1898年の郡制施工以降はほぼ今の形に落ち着いた。 税制も変化し、収穫に応じての物納から土地賦課方式の金納となった。しかし農 [続きを読む]
  • 都農の歴史④ 近世
  • 1、江戸時代 都農は江戸時代一貫して、高鍋藩秋月氏の支配下に置かれる。 日向国高鍋領郷村高辻帳(1711年)には現在都農町に属する村々が挙げらている。寺迫村・征矢原村・長野村・瓜生村・岩山村・篠野別府村が記載され、石高は合計すると1983石8斗2升である。 税制は定免法(過去数年の収穫から計算)がとられ、ある年の年貢率は34.1%である。この他にも穀物や銀・銭などの上納や労働力を夫役として提供しな [続きを読む]
  • 都農の歴史③ 中世
  • 1、鎌倉時代 日向國図田帳(1197年)によると、都農は殿下御領と呼ばれる藤原氏の荘園であり、「新納院百二十丁、右児湯郡内地頭掃部頭」に含まれる。新納院とは都農を含む荘園の名で、木城・高鍋・都農・川南を中心とした地域を指す。掃部頭とは源頼朝側近の中原親能のことである。 2、室町時代 九州は南朝の勢力が強く、今川了俊が14世紀末に九州を平定するまで争いが激しかかった。その様子が都農の領主の変遷にも見 [続きを読む]
  • 都農の歴史② 古代
  • 1、中央政府との関わり 律令制が整備されていく中で、国郡里制が施工された。和名類聚抄(931〜938年)には児湯郡都野という記載がある。 都農には駅(伝馬の設置場所)が設置されていたと思われる。都農の草書とよく似た「去飛駅」が都農駅に比定される。 都農の港のほうに都農駅で使われていたという伝承が残る井戸があるが、地理を考えると都農神社付近に都農駅が置かれたと思われるので、後世の創作であろう。 また [続きを読む]
  • 都農の歴史① 原始時代
  •  都農の歴史について簡潔にまとめていく。参考資料は主に都農町史1998年になります。1、縄文時代まで 縄文時代は温暖な気候で、宮崎の海岸付近では現在よりも5〜10mほど海水面が高かったことが予想される。したがって現在の都農の中心部は海で、国道10号線よりも西側の台地で暮らしていたと思われる。 町内における遺跡の数は少ないがいくつかみつかっている。2、弥生時代 立地を考えると縄文後期には稲作が伝わっ [続きを読む]
  • 戦時下の都農
  •  まずは都農の戦時下について町史に書かれていることを簡単に書く。 都農は隣の川南に空挺部隊の演習場があった影響で、野営地の一つとなっていた。都農からも多くの兵士が徴集され、都城連隊に編入されて中国、フィリピンなどを転戦した。また沖縄県の糸満市から疎開を受け入れていたという。その縁で姉妹都市となっている。 戦争末期になると予測される米軍の上陸作戦(オリンピック作戦)に対処するため、都農に師団が配備さ [続きを読む]
  • 都農のゲストハウス
  •  都農駅がリニューアルしたそうだ。8月になれば夏休み入るので、ジオラマも見に行ってみたい。都農駅がリニューアルしました - 日々の都農 都農にはあまり宿泊施設が多くない、最近出来た国道沿いにあるホテルAZと駅前の亀屋、町中の大黒屋のみである。 私は一人で旅行するときにはゲストハウスに泊まることが多い。大抵一泊2000円程度と安く、また同年代の宿泊客と交流出来るからである。 調べてみたところ都農にもゲ [続きを読む]
  • 南原繁と折口信夫 その四
  •  一応柳田の祖霊信仰(固有信仰)が神道の普遍宗教化につながる可能性について考えてみる。祖霊信仰はその名が表すとおり、祖先信仰が根底にあり、丸山の南原に対する批判がそのまま当てはまる。柳田の祖霊信仰においては氏族的な性格は弱められているという反論があるかもしれないが、日本的な習俗が背景にあるわけで普遍宗教とは言い難い。またそもそも柳田は祖霊信仰の普遍宗教化を企図していないだろう。 ここまでみてきたこ [続きを読む]
  • 南原繁と折口信夫 その三
  •  折口信夫の神道普遍宗教化については柄谷行人氏が「遊動論 柳田国男と山人」において批判している。ただしタイトルにもあるようにあくまで柳田国男論が中心で、柳田国男の固有信仰と対比する形で折口を批判している。(第四章の5 p157~166)Amazon CAPTCHA 該当部分の要約 折口信夫は神道から祖先信仰的なものを取り去れば普遍宗教化出来ると考えているが、祖先信仰は普遍宗教化の妨げとなるものではない。普遍宗教には神 [続きを読む]
  • 南原繁と折口信夫 その二
  •  前回の記事の続きになります。今回は前回取り上げた南原繁と折口信夫の論考についての批判になります。 南原繁に対する批判は丸山真男によってなされました。1964年に行われた南原繁と丸山真男の座談会において南原は以下のように述べます。  民族の個性があって、ほんとうの祖国日本という意味においての民族の共同体はいつまでも残さなければならない。世界の共同体ができても、これを踏まえてのものですね。それはい [続きを読む]
  • 日向(市)観光
  • ①馬ヶ背・クルスの海 以下の写真の切り立った崖の部分が有名。(この写真の部分が馬ヶ背ではなく、岬の突端部分が馬ヶ背と呼ばれている。) 岬の突端まで歩いていくことが出来る。三方を海に囲まれているため、晴れた日は見晴らしも良く、気持ちが良い。 馬ヶ背から車で2、3分のところにクルスの海と呼ばれる場所がある。 写真だと少しわかりづらいのだが、岩によって区切られた海が「叶」という文字に見えることから、願 [続きを読む]
  • 古代日向の国
  • 「古代日向の国」 西都原古墳研究所所長 日高正晴、1993年、NHK BOOKSAmazon CAPTCHA 古代日向の国がタイトルではあるが、内容の中心は児湯地域となっている。西都原古墳研究所所長が著者ということもあって西都贔屓な記述なのではないかと感じなくもないが、児湯地域を中心として取り扱った本は少ないので参考になった。 以下に気になった部分をメモする。第Ⅰ章の三で日向が本来は豊の国であり、西都がその中心であ [続きを読む]
  • 南原繁と折口信夫 その一
  •  ネタが尽きつつあるので、論考を。 南原繁は戦後最初の東大総長を務めた政治学者である。一方で折口信夫は民俗学者である。両者はかなり異なる背景を持ち、対談などといった形で積極的な交流を持たなかったと。しかし両者とも同じ時期に同じようなことを考え、発表した。それは神道の普遍宗教化である。 南原は1946年2月の紀元節(現在は建国記念の日)に東大で「新日本文化の創造」と題する演説を行った。 簡潔に要約 [続きを読む]
  • 日向観光
  • ①馬ヶ背・クルスの海 以下の写真の切り立った崖の部分が有名。(この写真の部分が馬ヶ背ではなく、岬の突端部分が馬ヶ背と呼ばれている。) 岬の突端まで歩いていくことが出来る。三方を海に囲まれているため、晴れた日は見晴らしも良く、気持ちが良い。 馬ヶ背から車で2、3分のところにクルスの海と呼ばれる場所がある。 写真だと少しわかりづらいのだが、岩によって区切られた海が「叶」という文字に見えることから、願 [続きを読む]
  • 都農の方に聞きたいこと その2
  •  以前も同様の記事を作成したのだが、半年以上経って聞きたいことも変化したので、改めて作ることにした。 各質問に関連した記事を質問の下にリンクしたので、興味のあるかたは覗いてみてください。 これらの質問以外の関することでも何かありましたら、コメントしていただけると幸いです。①尾鈴山を「ささが丘」や「ほこの峰」と呼んだこと、あるいは呼んでいるのを聞いたことはあるか。 1955年の都農町史にそう呼ぶと [続きを読む]
  • 郡衙
  •  三輪貞夫さんが編集した「神社探訪 都農」に興味深い話しが載っていた。以下は太字は引用※ある識者の説 滝神社の近くには、弥生時代の竪穴式住居跡の一部が確認された境ヶ谷遺跡、古代土器の出土を見た京塚、黒石などの遺跡が存在しており、ある識者は、不明としながらも「日向の国一之宮都農神社があり、その西に西の郡という集落があることから都農神社付近に駅家を兼ねた郡衙の存在を指摘し、当駅の比定はこれに続く児湯 [続きを読む]
  • 延岡の諸神社
  • 1.三輪神社 三輪氏の痕跡が見られる地ということで行ってみた。五ヶ瀬川沿いに延岡市街地から登っていき、ちょうど高速の下のあたりにある。祭神は三輪系ということで大己貴命である。 神社そのものは地域にある普通の神社という感じがしたが、この地は下三輪という地名であり、地名からして三輪氏の痕跡が感じられる。 神社の前にあった碑によれば養老2年(718年)にすぐ裏手の山のほうにある青谷城から移転して来たという [続きを読む]
  • 日向国都農町史
  •  「日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年 1998年に発行された都農町史の一個前のものにあたる。現在の都農町史に比べると薄く、200ページにも満たない。記述には推論や確証のない話が多く、現在の都農町史に載っていない内容が多い。その意味では大変参考になる。※以下太字は引用 饒速日命の伝説としては、尾鈴山に残されています。尾鈴山は命が御降臨なつた所で、同山中の都農崎―吐濃崎―に現在ある、長 [続きを読む]
  • 西都について その2
  • 1.石貫神社 西都の市街地から米良方面に少しはずれた地にある。この周辺には神話の伝承地が密集している。地区名が三宅となっているのだが、ヤマト政権の直轄地であった屯倉がその由来だと思われる。このことがその密集と関係しているのだろうか。 石貫の石は神社の入り口近くにあり、さほど大きくなかったため見逃してしまった。 コノハナサクヤヒメの父の山の神オオヤマツミノカミを祀っています。鬼と「一晩で岩屋を完成さ [続きを読む]
  • 耳川の戦いと都農
  •  耳川の戦いは、最近は小丸川(高城)を耳川と誤記したのではないかということで高城川の戦いとも言う。都農でも激戦があったようだ。 まず大友軍の南下を島津軍が都農で迎撃したのだが、すぐに破れ大友軍は高城まで進軍した。恐らくその際都農神社が焼き払われたのだろう。 その後高城で大友軍が大敗し、敗走する。合戦の詳細については以下のリンクを参照。佐土原城 遠侍間 -高城の合戦(天正六年)-大友記に曰く耳川の合戦  [続きを読む]