oisis さん プロフィール

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oisisさん: 辺見庸 研究
ハンドル名oisis さん
ブログタイトル辺見庸 研究
ブログURLhttp://eger.hatenablog.com/
サイト紹介文辺見庸の世界を旅します。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供87回 / 165日(平均3.7回/週) - 参加 2016/11/13 13:28

oisis さんのブログ記事

  • 87.生命は個としてのみ実現する
  •  大量殺りく、核攻撃、動機不明の殺傷、大規模災害、 人びとは、いつ「殺され死」に追い込まれるかもしれない、そう観念するようになってしまっている。「人間一人の生命は地球より重い」はずなのに。 だが、・・・・「生命の尊さ」とはウソであって、どうしても「尊い」といいたければ「個(人)の尊さ」といえばよい、「生命」よりも「個(人)」の方が上なのだ。(「殺すな」というときの、殺されるものは「生命」ではなく [続きを読む]
  • 86.「それでも人生にイエスと言う」
  •  V・E・フランクルが著した『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)は、「心の救い」と「矛盾隠ぺい」の両刃の剣であるが、実際は前者の書として世界中の人びとに読まれてきた。とりわけ悩める若者や挫折者に生気を回復させてきた功績は大きい。しかし「この言葉は生半な生の賛歌では無論ありえない」(辺見庸)。 この言葉が発せられたのはナチによる強制収容所においてである。人間扱いされない極度 [続きを読む]
  • 85.辺見庸 ×目取真 俊 : 対談
  •  戦争へ向けて歩み始めている。戦争前夜の様相さえ感じさせる。 目取真俊 × 辺見庸の対談は、そのような情況下においてなされた。まさに時宜にかなった対談である。 だがこの対談、共同通信社の配信によって4月16日に沖縄タイムスと琉球新報に載ったものの、今のところホンド(本土)の各新聞には掲載されていない。大手新聞および全国の地方紙は、この二人の見解をスルーすることが現政府に良い印象を与えるとでも判断し [続きを読む]
  • 84.「自己教育」 (その2)
  • 小山俊一のことば。(『プソイド通信』『EX―POST通信』から)。〇教育というのは、これを与える側からいえば、ひっきょう上から(外から)の論理、罠を仕掛けることにほかならぬのではないか、というのが教師をやっているあいだつきまとわれた根深い疑問だった(186頁)。〇どんな「外発」力も、そこにある種の「内発」を生じさせるだけの喚起力・挑発力をもつものでなければ、どんな「一種の形式」もそこに生れることはで [続きを読む]
  • 83.自己教育(その1)
  •  文化庁長官もであった三浦朱門(曽野綾子の夫で2017年2月に没)について、辺見庸が次のように述べている。 (三浦朱門は)教育基本法改悪にことのほか熱心で、児童教育について「非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばよい」などと真顔で語ったこともある。「法は法」発言同様に、放つ言葉に人間の温もりがない。聞くところによれば、キリスト者なのだそうだ。それだけではなにほども意味しはしないけれども [続きを読む]
  • 82.溶解する「私」
  •  日本には世間はあっても社会がないという話はよく耳にする。「世間」とは、諸個人がつねに集団の価値観や意見を優先する空間であるとすれば、そんな世間で生きたとて本当に生きたといえるのか。 辺見庸は「個」にこだわる。彼の著作のなかで「個」ないし「個人」という語はかなり高い頻度で出てくる。そして「個人という言葉が日本では1884(明治17)年までなかった」との阿部謹也(西洋社会史の研究家)の言葉を紹介している [続きを読む]
  • 81.夜と霧
  •  強制収容所の入り口が近づいてくる。次々に夜間秘密裡に捕縛され、収容所という名の地獄のなかで多くの人が消されていく。 機関車の鋭い汽笛が薄気味悪く響き、それはさながら大きな災厄に向ってひかれて行く人間の群の化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった。そして列車はいまや、明らかに、かなり大きな停車場にすべりこみ始めた。  貨車の中で不安に待っている人々の群の中から突然一つの [続きを読む]
  • ある詩人の「剽窃」?
  •  逸見庸は10年ほど前にこんなことを書いている。 どだい、政治のなにが重要というのか。あれらの言葉の愚弄。空洞。あれらの言葉の死。ほら、そこの軒下に干してある黄ばんだおしめほどの意味すらありはしない。『言葉と死 辺見庸コレクション2』毎日新聞社、2007年、203ページ  政界用語や本性を美化する日本会議の面々による胡散臭い用語。もし言葉に匂いがあれば「異臭」が立ちもめているといってもよいだろう。し [続きを読む]
  • 79.逸見庸:内宇宙への回路
  •  創造的な破壊は否定的破壊であり、現実(構造)を是認したうえでの破壊ではない。批判は現実およびその基礎の構造に対しなされるものである。そして、思想とは批判と不可分で、その意味で思想は批判そのものである。それらのことからすれば、辺見庸の批判はまさに批判の要件を充足している。 辺見庸の賛同者には、熱心な読者、ウォッチャー、さらには受け入れられない部分があるものの大筋では賛同する人までいて幅広い。 また [続きを読む]
  • 78.「誠実」をめぐる虚実
  •  辺見庸はおもに二つの著作のなかで「誠実」について述べている。玄妙な詩、技巧的で晦渋な表現を組み込んだ鋭い批評や、衒いながらの小説、それらとは逆に、譫言や自らの「痴態」をときに記してきたブログ「私事片々」からは一見程遠い「誠実」ではあるが、彼はそれをどのように語っているのであろうか。 辺見はまず「誠実」の変質を、商品の物神化と商品呪縛(商品フェチ)との関連で指摘し(『しのびよる破局』、52ページ) [続きを読む]
  • 77.シベリアと香月泰男(その2)
  •  辺見庸による香月泰男の絵(「1945」)については前述したが、評論家・ロシア文学者である内村剛介は香月の絵のことを次のように述べている。内村も敗戦とともにソ連に抑留され、11年間をソ連内の監獄・ラーゲリで過ごし、1956年末、最後の帰還船で帰国した 香月の絵の残酷はもうひとつの残酷を打ち消すために惹き起こされてくる残酷なのだ。「この飢えて死んだ兵士たちのむくろは、かつて勝ちいくさのときには無残な加害者でも [続きを読む]
  • 76.シベリアと香月泰男(その1)
  •  香月泰男は1943年に応召、満州に送られ、敗戦後シベリアに俘虜として抑留されたのち帰還した。その間、約4年であった。 辺見庸が、香月について記しているのは全著作の中で次の箇所だけである。 画家の香月泰男(一九二〜七四年)はかつて「1945」と題する不気味な画を描いた。画面いっぱいに、顔をはじめからだじゅうに無数の線条をはしらせた男が横だおしになっている。香月が『私のシベリヤ』(筑摩書房)で(同著 [続きを読む]
  • 75.辺見庸「父を問う」NHKの番組について(その2)
  •  辺見庸の母がポツリと、「あのひとはすっかり変わってかえってきた。化け物のように変わって」・・・そのような口吻で復員してきた夫について呟いたと、辺見は『1★9★3★7』で記している。 この記述から、敗戦で帰還した辺見の父の心の葛藤、荒みの一端が読み取れるのだが、そのことについては番組では触れられなかった。 父と息子との情愛と反発。一般の父子にみられることに類比・収斂したり、戦争での加害性への言及を [続きを読む]
  • 74.辺見庸「父を問う」(NHKの番組)について(その1)
  • 辺見庸の印象 無精ひげ、右半身のマヒ、右目の視力低下、口の乾き、不如意に右唇から唾液が出るのを何度かぬぐう等、大病の後遺症や72歳の高齢を感じさせた。ただし、話の内容は示唆に富むものであった。 愛犬とともに出演。(家族が家を出てから久しく、独居している寂しさを愛犬を飼うことによって癒す暮らしぶりを窺わせた)。 ダーク・アンド・エンプティの時代。だからこそか、むき出しのコンクリートブロックの壁で囲ま [続きを読む]
  • 73.逸見庸:TV出演(3月12日)への視角
  •  逸見庸が、病をおして近々NHK教育テレビに出演する(2017年3月12日:再放送3月18日)。テーマは「父を問うーいまと未来を知るために」。 辺見庸は、亡父をどのように語るのであろうか?NHKはこの時期、どのような番組作り・編集をする(できる)のだろうか? 辺見の父は1943年に出征した。外発的・強制的に戦争に駆り出された。 ほとんどの者が、内心、理不尽さを感じつつもそれを嚙み殺しつつ応召した。人間の存在のあり [続きを読む]
  • 72.洞察の分水嶺(その3)
  •  辺見庸は虚偽や衒いなどについてこんなことを語っている。 人間の問いと応答は、そのなかに千態万様の(問いじたい、応答じたいの)虚偽や街いプレやズレ、多少の演技をふくみもつものであろうし、それはそのまま人間存在の「根」そのものの危うさと妖しさにつながるだろう(『増補版1★9★3★7』201ページ)。 ここでの「問いと応答」は他者とだけではなく自己自身も含まれると考えられる。 ところで、評論家の近藤洋太 [続きを読む]
  • 71.洞察の分水嶺(その2)
  •  辺見庸が記した「永山則夫の処刑」に比べ、 評論家・近藤洋太の記述は、まさに「虚言」であり上滑りしている。 彼は、死刑囚の永山則夫にたいする小山俊一の姿勢に疑問をもち、それを投げかけている。 たんに生きること(考えること)を放棄しようとしているだけの死刑囚になぜ「驚嘆」し「震撼」させられるのか。小山の思想の真髄は、このようなところにはないはずだ。(No.70『前掲書』) 何という物言いであることか。この [続きを読む]
  • 70.洞察の分水嶺(その1)
  •  評論家の近藤洋太は、小山俊一の思索の書である『EX-POST通信』の一節についてこんなふうに書いている。「私は彼の反国家的・反社会的な言説に必ずしも賛成ではない。たとえば、「EX-POST通信」No. 4の次の一説などがそうだ。」(……私たち生き残った戦争世代の者の処世(ママ:原文は処生)上の最低綱領は〈国家のために指一本うごかさぬこと〉の外になく、思想上の最低綱領は〈「民族」「国民」を志向するいかなる動向にも加担 [続きを読む]
  • 69.イメージが論理を駆逐する
  •  辺見庸は、メディア状況のなかで、「私が最も耳をそばだてているのは、ジヤーナリズム論では、レジス・ドゥブレである」と言っている。 そのフランスの思想家レジス・ドゥブレは、「世界を人間の意思の力で変えようとする運動は、活版印刷の終焉とともに幕を閉じた」とも述べているが、そのことに関連して、辺見庸は次のように続ける。 彼はテレビについて述べたなかで、「イメージが論理を駆逐している」ということを指摘して [続きを読む]
  • 68.辺見庸の謬漏
  •  「品行の問題(自己否定による個の深化不徹底)」と「突き抜けられなかった」ことは、辺見庸にとって個のフレイジル(fragile)な面としてあらわれている。前項ではそのことについて述べた。 加えて、これもすでに指摘してきたところであるが、彼の思考の基盤にかかる脆弱性について、どうしても指摘しておかなければならない。〇平成天皇に思わず手を振り、武田泰淳の靖国神社参拝を容認する発言をしている。〇「鹿野武一が常 [続きを読む]
  • 67.感覚の最深部
  •  透徹した思索者の一人として、辺見庸は、現行憲法の改定に断固反対し、天皇ヒロヒトの戦争犯罪を厳しく指弾する。また、このままではファシズムの危険および人類滅亡が必至であると警告している。さらに、いかなる場合でも(たとえ南京虐殺の首謀者であっても)死刑には絶対反対である。確定死刑囚の大道寺将司の詩作(句集)も支援してきた。 そんななか辺見は、人倫、誠実こそ、基本的に、生きるうえで必須のことであるとも述 [続きを読む]
  • 66.辺見庸における「延性破壊」
  •  最近、辺見庸は「延性破壊」を内的世界に起こしつつあるようにみえる(延性破壊とは塑性変形を起こし、材料の著しい伸びや絞りを伴う破壊のことをいう)。 かつて辺見庸は、吉本隆明や埴谷雄高の晩年の変質を嘆き、批判していた。しかし、辺見の最近の(晩年の)変質は、彼らと異なるもののautonomyの揺らぎを感じる。(いまさらdignified や、ましてやnoblesse obligeを、とは言わないが)。 最近何度かインタビューを受け [続きを読む]
  • 65.二人の「ポムチェジャ」
  •  吉田松陰 安政の大獄における悲劇のヒーロー、近代日本の先覚者のように受け取られているが、実は彼は、朝鮮半島やアジアへ侵略思想の創始者なのだ。 日本という国の悲惨さは、いちじるしく知性を欠く政治家とマスメディアに支配されているにとどまるのでなく、みずからの近現代史の実相と、その朝鮮半島、中国とのかかわりの深層を、あまりにも、じつにあまりにも知らず、謙虚に知ろうともしていないことである。この国は、せ [続きを読む]
  • 64.スポーツ競技の危険
  •  スポーツが法律問題として大きく社会問題として取り上げられるようになった。そんな折、知人の弁護士が『?平和学?としてのスポーツ法入門』という本を出した。「スポーツ法」のことや「スポーツの平和創造機能」について述べられている。 スポーツの「功罪」については以前から論じられてきたが、この本では主にスポーツのもつ「功」について「平和の創造」という新しい視点から展開されている。 「スポーツでの勝利は、確 [続きを読む]
  • 63.ファシズムの快と自省
  •  辺見庸は述べる。 何度もくりかえしますが、ファシズムというのは、けっしてでたらめなやつだけがやっていたわけではないのです。ファシズムにはファシズムなりのある種のロマンというものがあった そのことを忘れないようにしたいとぼくはおもうのです。「ファシズムにはいかなる精髄もなく、単独の本質さえない」、それは「ファジーな全体主義だった」とイタリアの作家ウンベルト・エーコーは指摘したことがあります。つけく [続きを読む]