須勢理姫 さん プロフィール

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須勢理姫さん: さくら舞い散る道の上で
ハンドル名須勢理姫 さん
ブログタイトルさくら舞い散る道の上で
ブログURLhttp://suseri0529.blogspot.jp/
サイト紹介文素敵な日本の歴史と知識教養などをお届けします
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供30回 / 83日(平均2.5回/週) - 参加 2016/12/18 14:19

須勢理姫 さんのブログ記事

  • シコロの木
  •  明治45年(1912)3月19日、北海道の古平町で後々まで語り伝えられる衝撃的な海難事故が起きました。 前日からの激しい風と大波で、古平湾に避難していた第二出羽丸(500トン)の錨綱が切れ、強風にあおられて厳島神社下の浅瀬に乗り上げてしまったのです。 船には、山形県の港から利尻方面の漁場に向かう漁師や乗組員ら合わせて180人が乗っていて、漁具や漁業関係の資材もたくさん積んでいました。 前浜で起き [続きを読む]
  • 断じて女ではござらぬ
  •  今川氏真は、桶狭間の合戦で戦死した今川義元の息子です。 覇気もなく勇気もなかったから今川家は衰退の一途でしたが、そんな中にあって剛の者が二人だけ居ました。 城戸助之允と牧孫左衛門です。 まず、城戸助之允。 彼の合戦での働きぶりは目覚ましく、助之允が被っている桔梗紋の兜は「今川の桔梗笠」として敵味方に知れ渡っていました。 桔梗笠が往くだけで、その武威に圧倒されて自然に周囲に輪が広がるほどでした。  [続きを読む]
  • あの人の言の葉 吹野匡
  •  海軍少佐 吹野匡 神風特別攻撃隊 旭日隊 昭和20年1月6日 フィリピン沖にて戦死 鳥取県米子市淀江町出身 26歳 母上様 十九年十二月二十一日 匡 私は長い間本当にご厄介ばかりおかけして参りました。 色々の不孝の上に今また母上様の面倒を見る事もなしに先立つ不孝をお許し下さい。 昨秋、私が海軍航空の道を選んだ事は、確かに母上様の胸を痛めた事と思います。 常識的に考えて、危険性の少ない道は他に幾ら [続きを読む]
  • 急用ゆえにゆっくりと
  •  中国地方の覇者・毛利元就の三人の息子のうちでも、特に小早川隆景の叡智を称える逸話は数多くあります。 絶妙のバランス感覚と先見性で、同盟した豊臣秀吉を補佐し、それによって毛利本家を安泰に導いた隆景が実際に傑出した人物であったことは間違いありません。 さて、あるとき急ぎの用が出来て、隆景は大声で書記を呼ぶと早速筆を執らせました。 いつもは冷静沈着な隆景でしたが、このときはいささか興奮していたようで、 [続きを読む]
  • 思い出のアルバム
  •  町中を歩いていると、紅白の梅の花が目にとまるようになりましたね。 それと、素敵な香りが漂ってきても、探すのが難しい沈丁花も。 これから新学期に近くなるほど、桃や桜が咲いて来るので心躍ってしまいます。 梅の名所の老舗と言えば、茨城県水戸市の偕楽園。 夜間の園内ライトアップが20日まで行われています。 孟宗竹のライトアップとコラボしていて、より一層絵になるようになっています。 それと規模で関東一なの [続きを読む]
  • 清冽なる名君
  •  信濃国の高遠藩3万石を治めていた小大名・保科正之が、2代将軍・徳川秀忠が側室に生ませた子だという事が知れ渡ると、今のうちに正之に取り入っておこうと、近付いてくる大名があらわれました。  「御上(3代将軍・家光)と此方さまとが血を分けた間柄におわすことは、まことに祝着。某から御老中方に働きかけ、早う天下にこれを明らかにするよう進言してもようござるが」  「お志は、まことに有り難く存じます [続きを読む]
  • わらじ村長
  •  品井沼排水事業に生涯を捧げた鎌田玄光とその遺志を継いだ三治の子として、鎌田三之助は文久3年(1863)、木間塚村竹谷(現在の大崎市鹿島台)に生まれました。 少年期の三之助は賢くて力も強く、誰も立ち向かう者がいませんでした。 明治11年(1878)、三之助は政治家になろうと思って上京し、明治法律学校(現・明治大学)の法学部に入学します。 15歳の春のことでした。 三之助は東京で6年間を過ごしますが [続きを読む]
  • あの人の言の葉 松本伝三郎
  •  海軍一等飛行兵曹 松本伝三郎 昭和20年4月17日 沖縄沖にて戦死  福島県出身 18歳  父上、母上様。 いよいよ出撃致します。 今までの不孝、何卒お許し下さい。 この手紙が届く頃は、立派に戦っております。 これが最後の手紙となることでしょう。 いま大急ぎで書いております。 先便にて私の胸中は……。 何卒皆々様、お元気で暮らして下さい。 神掛けてお祈り致します。 立派に戦い、死ぬ決心です。 小 [続きを読む]
  • 悲しき旅立ち
  •  武田勝頼は、武田信玄の息子です。 信玄が築き、そして得たもの全てを失った武将として余り評判は良くありませんが、その悪評は必ずしも当たっているとは言えません。 そういうのも勝頼が信玄の跡を継いだとき、勝頼は信玄から遺言という形でどうにもならない条件をつけられていたからです。 その遺言は、「三年間、我が死を隠せ」というものでした。 しかし、信玄の死は1万2千の兵を率いての行軍中の時だったから、隠すも [続きを読む]
  • 黄色い蝶
  •  小野小弥太は、越後村上藩の祖となった堀直寄の小姓として仕えていました。 しかし、毎日が面白くありませんでした。 (小姓など若いうちならともかく、成年になってもまだ務めなくてはならぬとは……) そんな思いがあったから、直寄に願い出て、元服の上、役職を変えてもらいたいと希望しました。 しかし、聞き入られませんでした。 (私のことをまだ子供だと思っておられる……) そんなある日、どこからともなく一匹の [続きを読む]
  • 青年日本の歌
  •  河津桜が見頃になっていますね。 伊豆急行の河津駅をベースに近くの河津川に沿って内陸へ楽しんで歩く訳ですが、景観は素晴らしいけれど人混みがあってゆっくり楽しめない環境です。 でも、同方面でまだまだ穴場的な名所があるんです。 人混みもそこそこ、川の両側に桜並木、しかも立ち寄り湯もできてしまう。 伊豆急下田駅から東海バスで行ける「下賀茂温泉」です。 「もしツア」でもやっていて、嬉しい一方で、河津目当て [続きを読む]
  • 人は利で動かず
  •  思い切ったことを言ったものです。 大谷吉継が石田三成に真実を語ることが出来たのは、二人が良きライバルである以上に、この上ない親友だったからです。 その石田三成が親友の大谷吉継にこんな話をしたのは、文禄の役(1592年から始まった秀吉の海外出兵)の後です。 「吉継、良き家臣を得たぞ。名を島左近勝猛という」 「そうか、何よりのことだ。良き家臣は堅固な城、高き石垣、深い堀よりもよく主君を守るという。ま [続きを読む]
  • 寧ろ吉事である
  •  堀田正盛は、江戸初期の幕府の老中です。 三代将軍の家光に近侍し、よく家光を助けて幕府の基礎を固めました。 ある時、家光が代々徳川家に伝わる秘蔵の長刀を折る、という事件が起きました。 その長刀は小鍛冶宗近の作で、五百年ほど前の源義経の側室である静御前が所持していたという由緒あるものでした。 それを家光が狩りに出掛ける時に持ち出して、飛び出してきた小さな猪を面白半分で突いたところ、長刀は根元からポキ [続きを読む]
  • あの人の言の葉 松村雪子
  •  陸軍軍属 松村雪子 第百四師団司令部副官部所属 昭和19年1月23日 中国広東省番禺県秀木橋にて戦死 名古屋市中区西瓦町出身 23歳 昭和十九年の決戦態勢に入りまして、こちらも何だかきびしい空気がただよっています。 国民がいよいよ一丸となる秋が参りましたね。 先日の臨休の時、野戦病院と陸軍病院を慰問しました。 内地とちがって野戦病院は看護婦さんも無く、殺風景な男の人ばかりの灰色の感じが致します。 [続きを読む]
  • 安国への道
  •  三重県中部、鈴鹿山脈のふもとに能褒野(のぼの)というところがあります。 長閑な田園の風景が広がる土地ですが、古事記によると、ここが日本武尊の終焉の場所であると言います。 日本武尊は関東と東北の遠征を終えて、今まさに故郷に辿り着こうとするところでした。 帰り道に近江の伊吹山に立ち寄った際に、山の神が降らせた毒気を含んだ雹を浴びてしまい、体調を崩してしまいました。 弱った体のまま、大和国を目指して鈴 [続きを読む]
  • 化石先生
  •  岡藤五郎は、大正13年(1924)山口県美祢市伊佐町の呉服店の長男として生まれました。 元気一杯の五郎は川で小魚を追ったり、野山で遊んだりするのが大好きで、小さいころから伸び伸びと自然に親しんで育ちました。 終戦後、専門学校を卒業した五郎は、旧制山口県立豊浦中学校の理科の先生になります。 そして、自分が培ってきた経験から「理科の学習は教室だけではだめだ」と思い、野外研究として生徒たちを連れて化石 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 細田春中
  •  海軍大尉 細田春中 海軍第10通信隊 ペナン島第4分遣隊長 昭和20年8月23日 ペナン島にて責任自決 山梨県北杜市大泉町出身 28歳 正義の戦と確信し最終の勝利を確信した私の信念も、終に破れました。 思えば昭和十八年六月十二日、再度南方勤務の命をうけ昭南に飛来して着任した当時は、此の信念にいささかも変わりなかったのですが、第十方面艦隊通信部隊長という学徒出身将校としては異例の抜擢を受け、ペナン [続きを読む]
  • 盗人は地蔵
  •  板倉勝重は名奉行として著名でしたが、その勝重が、朝廷や寺社を統制する京都所司代を務めていたときのことです。 ある時、木綿売りが、商売物の木綿を全て盗まれたと訴え出てきました。 木綿売りは、目病み地蔵の前で一服し、うとうとしている時に、何者かによって木綿を盗まれたのだ、と言います。 この訴えを聞いた勝重は、目病み地蔵近くの町役人を呼び集め、下役に調査させました。 しかし町役人は、置いてあった荷物な [続きを読む]
  • 眠り猫
  •  前田利常といえば、加賀百万石を築いた前田利家の息子です。 この利常の部下には一騎当千の荒武者が揃い、戦場では常に華々しい戦果をあげていました。 だからこそ、加賀百万石が安泰だったわけですが、そんな中にただ一人、戦功も無く愚鈍で、荒武者たちから「眠り猫」と揶揄される老臣の山崎閑斎がいました。 猫だってネズミを獲ります。 それなのに山崎閑斎ときたらネズミすらも獲ることが出来ない腰抜けめ、といった意味 [続きを読む]
  • フィリピン独立に人生を捧げた将軍
  •  1898年4月25日、アメリカはスペインに宣戦布告して、極東艦隊がスペイン艦隊を撃破してマニラ湾に入りました。 「フィリピン革命軍を援助する」と宣言したアメリカ軍を、民衆は歓呼して迎えました。  アメリカの参戦で勇気を得た革命軍は、いたるところでスペイン軍を撃破しました。 しかし8月13日にマニラが陥落した時、アメリカ軍司令官アンダーソンはマニラ市内の約4千の革命軍に撤退を命令して、翌日米 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 加藤出雲
  •  陸軍中尉 加藤出雲 昭和15年10月17日 安徽省獅子嶺にて戦死 京都府京都市伏見区新町出身 29歳  一方は畑で他方は傾斜していて泥が深い。 道は悪い。 その畑を通っているのだが、きれいな花が一輪泥の上に美しい顔を見せていた。 尖兵の将校がその花をよけて横の泥深い所を迂回して歩いていた。 花の上を踏んで歩く方が泥も少なく近道でもあるのだが、花をふみくだくに忍びなかったのだ。 次を歩いている男も [続きを読む]
  • 物見の振りをして
  •  豊臣秀吉が、朝鮮征伐を行ったときのことです。 水軍の将である藤堂高虎は、夜陰に乗じて敵軍に近付き、朝鮮軍の船を数隻奪って帰って来ました。 そして翌日も同じように敵の船を奪って帰って来ました。 この高虎の行動は、秀吉の命令もなく勝手に攻撃したわけですから、厳密に言えば軍令違反でした。 そう言っても、敵船を奪ってきたのですから結果としては手柄になります。 このことを知って悔しがったのは、藤堂高虎とラ [続きを読む]
  • 汽車ぽっぽ
  •  寒い日が続きますね。 今年は早い段階で雪がちらついているので、2月には本格的にドカ雪があるかも。 そういえば、アクアラインを使うと直ぐに行ける千葉県の保田地区では江戸時代から有名な水仙が満開を迎えている情報があります。 一帯は江月水仙ロードと言われていて、良く整備されたコース上にはアマチュアカメラマンや地元の人から、満開の水仙と内房に沈む夕陽を撮影できるスポットがあるとか。 さて、今回ご紹介する [続きを読む]
  • 人は城
  •  武田信玄は、部下を非常に大切にしました。 そのことを表す有名な言葉が残っています。 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」 立派な城塞など要らない。 それよりも人の和の方が大切、という訳です。 この言葉通り、信玄は甲府に居館として躑躅ヶ崎館を持つだけで、甲州に城らしい城は作りませんでした。 天文12年(1543)の1月3日のことです。 一人でも多くの人材を欲しいと思っていた信玄は、 [続きを読む]
  • 樺太探検
  •  「成功せぬうちは、帰ってくることはいたしませぬ。もしも、失敗に終わった場合には、樺太に残り、その地の土になるか、それともアイヌとして生涯を終えます。再びお眼にかかれるとは思いませぬ。お達者でお暮らし下さい」  間宮林蔵が見送りに来た警備役の津軽藩兵指揮格・山崎半蔵にこう言うと、山崎は言葉もなく頷きました。 その眼には、再び生きては帰れぬかもしれない者を見送る悲痛な光が浮かんでいました [続きを読む]