須勢理姫 さん プロフィール

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須勢理姫さん: さくら舞い散る道の上で
ハンドル名須勢理姫 さん
ブログタイトルさくら舞い散る道の上で
ブログURLhttp://suseri0529.blogspot.jp/
サイト紹介文素敵な日本の歴史と知識教養などをお届けします
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供81回 / 227日(平均2.5回/週) - 参加 2016/12/18 14:19

須勢理姫 さんのブログ記事

  • 終戦後の侵略
  •  昭和20年(1945)8月16日、終戦を宣言した翌日、スターリンは米大統領トルーマンに対して、釧路市と留萌市を結ぶ線以北の北海道の北半分に対して、ソ連側の占領を認めるよう要求を送りました。  同年2月11日に、米英ソの指導者が結んだヤルタ協定では、樺太の南半分と千島列島がソ連に引き渡されるよう決められていましたが、これをさらに北海道北半分にまで拡げよというのがスターリンの新たな要求でした。 [続きを読む]
  • この子らを世の光に
  •  糸賀一雄は大正3年(1914)に鳥取市で生まれました。 松江高等学校(旧制)時代にキリスト教に入信した糸賀は、その影響もあって京都帝国大学(現・京都大学)では宗教哲学を専攻しました。 大学卒業後、小学校の臨時の教員を勤めているときに戦争に召集されたものの、病気を患い療養生活をおくります。 その後、滋賀県庁で働いているとき、糸賀は滋賀郡下阪本村(現・大津市)に三津浜学園をつくりました。 三津浜学園 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 黒沢次男
  •  中支派遣参謀部嘱託 黒沢次男 昭和22年8月12日 上海にて法務死 栃木県大田原市出身 34歳 夕暮れが来ると私は今日だけはやっと死なずに居たと思う。 そして宵闇が迫る頃は明日の心構えをせねばならない。 朝が来ると着ているものを全部取り替えて素裸になって冷水で体を拭き清潔なものを身につける。 洗面と同時に洗濯、さあ今日は来るかと、机に向かってうわ言集を書く。歌を作る。 そして昼まであと二、三時間 [続きを読む]
  • 川で溺れかかった敵兵を救う
  •  楠木正行は、南北朝時代の武将です。 父の正成とともに、智将として南朝の後醍醐天皇をよく補佐しましたが、その正行が、北朝の足利尊氏と安倍川沿いで戦ったときのことです。 足利軍一万は、安倍川沿いに楠木軍を求めて連日、行軍を続けていました。 その日は、朝からみぞれが降り、そのうえ強い風も吹き始め、足利軍の足並みは乱れがちとなっていました。 楠木軍はどこから飛び出してくるか分かりません。 先を行く兵士た [続きを読む]
  • 夏休み
  •  雲が多い天気が続いていますね。 台風5号は強い勢力でのんびりと九州・中国地方を行くようで、福岡・大分の復興を妨害する気配を見せています。 こればかりは早め早めの避難対策をするしかありませんね。 夏休み、お盆に新幹線に乗って田舎に帰ってのんびりするため、課題を消化しています。 山里で人の往来も少ないところなので、近くの道路で寝転がって天体観測しても大丈夫。 近所の川で水遊びしながら、どこからともな [続きを読む]
  • 諌言は耳に痛し
  •  江戸時代、徳川家には尾張・紀伊・水戸の御三家がありました。 次のお話は、そのうちの尾張藩主・徳川義直に関わるものです。 「尾張に、悪事を働く者が十名居る。その名は、次の通りである」 ある朝、こういう落書が城内の壁に掲げられていました。 人々はこれを読んで、自分の名前はないか、なければ誰の名前があるか、と騒ぎながらよくよく眺めました。 しかし、九人まで名前が見えますが、十人目の名前は書いていません [続きを読む]
  • あの人の言の葉 仁科関男
  •  海軍少佐 仁科関夫 回天特別攻撃隊 菊水隊 昭和19年11月20日 西カロリン島方面にて戦死 長野県佐久市前山出身 22歳 母の手記から「最後の帰省」 あの子はよく祭日に帰って来る。 今日は明治節、何だか関夫が帰ってくるような気がしてならない。 朝から気もそぞろで落ち着かぬ。 お昼になった、あの子の好きなものを作ってもみた。 座敷を整頓したり、寝具を干してみたりして、宛てのない人を待っていたが、 [続きを読む]
  • ニミッツ提督と東郷元帥
  •  チェスター・W・ニミッツは、大日本帝国による真珠湾攻撃後に更迭されたキンメルの後任として、アメリカ太平洋艦隊司令長官に任命されました。  開戦直後から終戦に至る全期間、アメリカ海軍の太平洋方面の最高指揮官を努め、延べ5千隻の艦船、1万5千機の飛行機、2百万の将兵を統率して、アメリカに勝利をもたらしました。  そのニミッツ提督が尊敬してやまなかった海軍軍人が、皮肉にも敵国である大日本帝国 [続きを読む]
  • 大奥を災害から救え
  •  江戸は、よく火事に見舞われました。 中でも最大規模なのは、俗に「振袖火事」と言われる明暦の大火です。 江戸市中の大半が焼けました。 この明暦の大火が起きたときのことです。 江戸城内も大変な騒ぎとなりました。 防火設備も殆どない当時、飛び火があればたちまち炎上してしまう恐れがあったからです。 炎上は焼死を意味しています。 城内では、右往左往して逃げ惑う様があちらこちらで見られましたが、取り分け大変 [続きを読む]
  • 快男児
  •  幕末に、高田屋嘉兵衛なる商人が居ました。 その高田屋嘉兵衛が蝦夷貿易(本州と北海道の国内貿易)で活躍している時のことです。 北方を探索していたロシア軍人が日本に捕らわれる「ゴロウニン幽囚事件」が起こりました。 当時、日本とロシアの間には、その境界を巡って不穏な空気が漂っていました。 そんな時にゴロウニンを艦長とするロシアの調査船が南下してきていました。 このゴロウニンを北方警備にあたっていた松前 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 相花信夫
  •  陸軍少尉 相花信夫 陸軍特攻第七十七振武隊 昭和20年5月4日 沖縄にて戦死 宮城県出身 20歳 攻撃隊振武隊に加えられ、国恩に報じることが出来ました。  父母上、信夫は勇躍征途につきました。 父母上、兄上の写真を飛行服に入れて。 父母上、信夫は子としてあるまじき無礼な言葉遣いを遂に最後迄矯正せず、唯々慚愧に堪えません。 母上、六歳の時より育て下されし、生母以上の母上に対し「お母さん」と呼ばなか [続きを読む]
  • 蛍帰る
  •  ラジオが夜の9時を告げて、ニュースが始まりました。 その時、わずかに開いた表戸の隙間から、一匹の大きな源氏蛍が光る尾を引きながら、すっと店に入って来ました。 娘たちは直ぐに気が付きました。  「お母さん、宮川さんよ! 宮川さんが帰って来たわよ!」  娘たちの叫びに、奥から出てきた鳥浜トメは娘たちの指さすほうを見ました。 暗い店の中央の天井。 その梁にとまって明るく光を放っている [続きを読む]
  • 二水戦の航跡
  •  これから本格的な暑さのはずが、もう前倒しでやってきた感じですね。 小まめな水分補給、エアコンの適切な利用を心掛けたいところです。 ご近所の立葵ですが、もう天辺まで花が咲いて、梅雨明け宣言をしています。 気象庁さん、植物は正直ですよ?  お庭には百合の花が咲き始めて、隣家からは木槿が顔を出すようになりました。 そして、何となく朝顔を育てている私…… しかも、青、赤紫、薄黄とゴージャスかも。 先週 [続きを読む]
  • 貧村を救う道に賭けた生涯
  •  明治34年(1901)12月のことです。 理紀之助は、尊敬している前田正名から届いた手紙を再び取り出して読み返していました。 「私は数年前から霧島山のふもとの台地に用水路をつくり、開田事業を行ってきている。ようやく予定通り完成し、いよいよ五百町歩の開田をし、新しい農村をつくろうとしている。この際、貴方および貴方の同志数人に来てもらい、貴方たちの考える理想の村づくりをしてもらいたいと思っている。ど [続きを読む]
  • あの人の言の葉 山野清子
  •  陸軍看護婦 山野清子 昭和20年7月10日 ルソン島にて戦病死 三重県出身 19歳  十字星を窓から見て泣いた時、世に高いマニラの夕焼けにはるかな故国をしのび、帰りたくなった時だってあります。 幼い子を見る時、洋司を思い、また喜代子、英子と思いが走ります。 年若くして国を離れる、これは、これからの長い清子の人生に大きな役をしてくれるでしょう。 清子は身体の続く限り白衣の人として生きるつもりです。 [続きを読む]
  • 料理番に罪は無し
  •  老中の酒井忠世は、徳川幕府創業の功臣です。 その忠世が、江戸城から下城しようとした時のことです。 下城する場合、御台所口の前を通るのですが、そこでバッタリと料理番の下役たちと顔を合わせました。 下役たちは、相手が老中だから慌てて平伏しましたが、その拍子に袖口から何かが飛び出して、それが廊下に落ちました。 見れば魚の切り身です。 下役は顔を真っ赤にして、慌ててそれを後ろに引っ込めましたが、忠世は素 [続きを読む]
  • ある職人の誇り
  •  明和の頃(1764〜72)、徳川十代将軍・家治の治世のことです。 金ずくで とるもの江戸には ありやせぬ こう川柳が詠まれるくらい「江戸っ子」という粋がった文句が使われ始めた時分です。 飯塚桃葉という「蒔絵師」が居ました。 手間暇かけて作り上げる手仕事の中でも、優れた芸術感覚と高度な技術が要求される蒔絵職人です。 当時でも世界的に有名な漆工芸です。 ある時、阿波徳島の藩主・蜂須賀重喜の家臣が、使 [続きを読む]
  • 鉄の国・アメリカを見て近代化を進めた男
  •  群馬県高崎市倉渕町を流れる烏川の上流に水沼川原があります。 「偉人 小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれた顕彰慰霊碑が建っています。 これは、昭和7年(1932)に幕臣・小栗上野介の非業の最期を悼んで、倉渕村(当時は倉田村と烏渕村に分離)の有志が建てたものです。 日米通商条約を結んだ幕府は、条約の批准書を交換するためにアメリカへ使節を送ることになりました。 一行は正使、副使、目付(監察役 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 古市敏雄
  •  海軍大尉 古市敏雄 宇佐海軍航空隊 昭和20年4月6日 南西諸島沖にて戦死 香川県高松市出身 23歳 昭和十九年六月二十五日 当直室から突然電話がかかって来ました。 母が来ているとのことでした。 午後上陸が許されるとすぐ倶楽部に急ぎました。 が途次、母が路傍で待っていてくれました。 以心伝心と言いましょうか。 それともそれとなく感じたのかも知れません。 軍人になっても、母が恋しいのであります。  [続きを読む]
  • 医術よりも算術の医者を懲らしめる
  •  渡辺大隅守が江戸町奉行だった時のことです。 医者が、患者を引き連れて訴え出てきました。 医者の言い分は、次のようなものでした。 「この患者は疱瘡(天然痘)に罹っていました。金五両の約束で全快させたのですが、まだ治療代を支払ってくれません」 これに対して患者は次のように言いました。 「五両は支払うと言いました。しかし、それは全快の上で、との約束でした。しかし、今はまだ全快していないので支払うわけに [続きを読む]
  • 老女優は去り行く
  •  梅雨の本番に突入しましたね。 いつ何時、雨に出ても余裕な顔が出来るように携帯傘は持っておきましょう。 通学路では紫陽花がちらほらと咲き始め、花菖蒲も見ることができるようになりました。 雨の時期の花とあって、雨の日に違った顔を見せてくれるのが素敵ですよね。 花菖蒲も紫陽花も大きなスケールで楽しみたいと言えば、2箇所(千葉・神奈川)あります。 千葉県松戸市平賀にある「本土寺」は紫陽花メインで5万株と [続きを読む]
  • 美女追放
  •  紀州徳川家から出て思い掛けなく八代将軍となった徳川吉宗は、江戸城に入ったとき正妻が居ませんでした。 藩主時代に二度迎えた妻は、何れも病没していたのです。 江戸城には当時千人くらいの女性を抱える「大奥」があり、容貌に自信のある美女たちはあわよくば将軍の正妻の座に就けるかも知れないと密かな期待を抱いていました。 程なく、将軍から大奥に向けて次のような通知がありました。 「大奥のうちで、特に美しいと評 [続きを読む]
  • 孫文の志を貫こうとした悲劇の将校
  •  昭和12年(1937)8月、第2次上海事変が起こりました。 上海の難民区で30万人の支那人を保護していたフランスのジャキノー神父は、東京日々新聞に次のように語りました。 「日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものはありませんでした。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分しかなく、心配 [続きを読む]
  • 稲こぎ機
  •  佐藤忠次郎は、明治20年(1887)、松江市東出雲町で生まれました。 12歳のとき、父が目の病気にかかり働けなくなったため、忠次郎は一家の生活を見なければならなくなりました。 そのため、せっかく進学した高等小学校を辞めて、わずかでしたが、親戚の家の農業の手伝いをして収入を得るようになりました。 14歳のころからは、近くの銅山へ行って、大人に交ざって働き、その収入で家族の生活を支えていました。 そ [続きを読む]