須勢理姫 さん プロフィール

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須勢理姫さん: さくら舞い散る道の上で
ハンドル名須勢理姫 さん
ブログタイトルさくら舞い散る道の上で
ブログURLhttp://suseri0529.blogspot.jp/
サイト紹介文素敵な日本の歴史と知識教養などをお届けします
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供61回 / 173日(平均2.5回/週) - 参加 2016/12/18 14:19

須勢理姫 さんのブログ記事

  • 医術よりも算術の医者を懲らしめる
  •  渡辺大隅守が江戸町奉行だった時のことです。 医者が、患者を引き連れて訴え出てきました。 医者の言い分は、次のようなものでした。 「この患者は疱瘡(天然痘)に罹っていました。金五両の約束で全快させたのですが、まだ治療代を支払ってくれません」 これに対して患者は次のように言いました。 「五両は支払うと言いました。しかし、それは全快の上で、との約束でした。しかし、今はまだ全快していないので支払うわけに [続きを読む]
  • 老女優は去り行く
  •  梅雨の本番に突入しましたね。 いつ何時、雨に出ても余裕な顔が出来るように携帯傘は持っておきましょう。 通学路では紫陽花がちらほらと咲き始め、花菖蒲も見ることができるようになりました。 雨の時期の花とあって、雨の日に違った顔を見せてくれるのが素敵ですよね。 花菖蒲も紫陽花も大きなスケールで楽しみたいと言えば、2箇所(千葉・神奈川)あります。 千葉県松戸市平賀にある「本土寺」は紫陽花メインで5万株と [続きを読む]
  • 美女追放
  •  紀州徳川家から出て思い掛けなく八代将軍となった徳川吉宗は、江戸城に入ったとき正妻が居ませんでした。 藩主時代に二度迎えた妻は、何れも病没していたのです。 江戸城には当時千人くらいの女性を抱える「大奥」があり、容貌に自信のある美女たちはあわよくば将軍の正妻の座に就けるかも知れないと密かな期待を抱いていました。 程なく、将軍から大奥に向けて次のような通知がありました。 「大奥のうちで、特に美しいと評 [続きを読む]
  • 孫文の志を貫こうとした悲劇の将校
  •  昭和12年(1937)8月、第2次上海事変が起こりました。 上海の難民区で30万人の支那人を保護していたフランスのジャキノー神父は、東京日々新聞に次のように語りました。 「日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものはありませんでした。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分しかなく、心配 [続きを読む]
  • 稲こぎ機
  •  佐藤忠次郎は、明治20年(1887)、松江市東出雲町で生まれました。 12歳のとき、父が目の病気にかかり働けなくなったため、忠次郎は一家の生活を見なければならなくなりました。 そのため、せっかく進学した高等小学校を辞めて、わずかでしたが、親戚の家の農業の手伝いをして収入を得るようになりました。 14歳のころからは、近くの銅山へ行って、大人に交ざって働き、その収入で家族の生活を支えていました。 そ [続きを読む]
  • あの人の言の葉 須賀芳宗
  •  海軍大尉 須賀芳宗 神風特別攻撃隊 第一正気隊 昭和20年4月28日 沖縄沖にて戦死 東京都台東区出身 26歳 昨日、今日と隊の桜も満開です。 この桜ほど美しい桜を私は未だ見た事がありません。 きっとこれも見る者の心のせいでしょう。 皆さんの去った隊内にこの綺麗な桜に囲まれていささか感傷に溺れました。 それは決して淋しい物悲しいホームシックではないことは断言できます。 恵まれた両親にかこまれて温 [続きを読む]
  • 家臣の名誉を守る
  •  池田輝政は、剛毅、剛勇の武将として徳川家康の信任を得て、その娘婿となりました。 そして姫路城主としてよく家臣を愛し、西国将軍と称されていました。 それほどの名宰相ですから、その名を慕って全国から武功の者が集まってきました。 それを選抜、家臣として組み入れたため、輝政の名は更に上がったのですが、そんなある日、土肥周防という武功の者が馬上で闇討ちに遭うという事件が起きました。 土肥は左の股を斬られま [続きを読む]
  • 後世に残すため
  •  室町時代に連歌を広めた飯尾宗祇は、京都から遠く新潟や関東、また九州などに旅行し、各地の武家社会に都の文化を伝えたことでも大きな功績を残した人物です。 その宗祇があるとき東国の下野(栃木)に行きました。 領主の東下野守は、武士ながらにして古今伝授を受けたという歌道の達人でした。 下野守は遠路遙々やって来た宗祇の熱意に打たれ、所蔵していた小倉山色紙(藤原定家自筆と伝えられる百人一首の原型)百枚を二つ [続きを読む]
  • あの人の言の葉 宮崎勝
  •  海軍少尉 宮崎勝 神風特別攻撃隊 第5神剣隊 昭和20年5月4日 沖縄沖にて戦死 三重県松阪市日野町出身 19歳 やすこちゃん、とっこうたいのにいさんは しらないだろう。 にいさんも やすこちゃんは しらないよ。 まいにち、くうしゅうで こわいだろう。 にいさんが かたきを うってやるから、でかいぼかんにたいあたりするよ。 そのときは ふみこちゃんと、ごうちんごうちんをうたって、にいさんをよろこ [続きを読む]
  • 命懸けの嘘
  •  大久保彦左衛門は、徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた幕臣で、家康にも意見する剛直の士として知られていました。 その彦左衛門が大坂夏の陣で、家康とともに豊臣秀頼方の真田幸村隊と戦った時のことです。 真田幸村は戦上手で知られていて、攻めると見せては引き、引くと見せては攻めるといった変幻自在の戦いで家康を翻弄しました。 そして引くと見せかけてどっと攻めてきたとき、家康軍は堪らず退却したのですが、この時 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 東八百蔵
  •  陸軍騎兵大佐 東八百蔵 捜索第33連隊長 昭和14年5月29日 ノモンハンにて戦死 徳島県海部郡海南町出身 48歳  昭和十四年五月二十四日 勢亥子へ 予は其許の御蔭にて最も幸福に人生を送りたり。 礼を申す。 森本、東、土壁の三家へ宜しく申し伝えよ。 博子、直子、洋子、文子へ 皆々賢く丈夫に女らしく育ちつつある故、父は気にかかることなし。 立派な人になれよ。 手紙出す術もなき奥蒙古なり。 之を絶 [続きを読む]
  • トップの器
  •  源頼朝が石橋山の合戦に敗れた直後のことです。 治承4年(1180)8月ですから、頼朝はまだ34歳でした。 ちょうど十歳若い北条政子と、3年前に結婚したばかり。 まだ、地位も無く流人です。 それにこの敗戦です。 合戦と言っても、伊豆や西相模の地方武士を三百騎ほど集めて、目前の大庭景親以下の三千騎に向かい、山のように大きな平氏の勢力に抵抗しようというのです。 果たして負け戦となり、主従数人になってし [続きを読む]
  • ヨイトマケの唄
  •  吹き抜ける風が心地良く、新緑の香りも感じられる季節ですね。 学校から自宅まで歩いていると、バラとポピーが見頃、紫陽花が準備段階、ツツジは終了間際という感じです。 その一方で、今週初めに北海道釧路市で最も遅い桜の開花の情報が15日にありました。 昨日の昼休み、学友が「5月病に罹ってしまった」と宣ったので、「いっぺん、死んでみる?」と地獄少女の真似で返してみました。 すると、「それ、あのアニメでしょ [続きを読む]
  • 死の灰
  •  或る日本人の青年がシルクロードを一人旅していた時のこと、こんな体験をしました。 「ローカルバスに乗って南新彊を目指していたところ、突然昼間なのにピカッと光るものを感じました。その後、バスの中を見渡すと同乗者たちが皆、鼻血を流していました。その光景は滑稽にさえ思えました。ところが、鼻に手を当てると自分も同じように血が出ていたのです。バスの中は騒然となりました。あの時、私は被爆したのかも知れません」 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 高瀬丁
  •  海軍少尉 高瀬丁 神風特別攻撃隊 神雷部隊 第九建武隊 昭和20年4月29日 沖縄本島東方海上にて戦死 北海道釧路市城山出身 20歳 御恵み深き父母上様、聖戦に参加せんとして愛機に搭乗する前に書します。 この世に生を享けて拾幾星霜、夏の日も冬の日も慈しみ励まし日本男児にお育て下さいました。 父母上様、何一つとして御恩に報いませんでしたが、大日本帝国軍人として大君に命を捧げて皇国のため散って逝く、 [続きを読む]
  • 稲むらの火
  •  安政元年(1854)のことです。 大地震が発生して、広村(現在の和歌山県広川町)を大津波が襲いました。 この時、被災した村人の救助の中心となって活躍したのが、濱口梧陵(儀兵衛)です。 このエピソードを題材に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「生ける神」として発表し、人々の心に感動を呼び起こしました。 それをもとに、中井常蔵が国定教科書用に題名も「稲むらの火」として書き上げた物語をまとめ、主人公 [続きを読む]
  • この男のためなら
  •  豊臣秀吉は、茶会が好きでした。 そこで諸将を集めてよく茶会を催していました。 大坂城城内の山里郭で、いつもの茶会が催された時のことです。 例によって茶会には諸将が参加したのですが、その中に越前の敦賀を統治していた大谷吉継が居ました。 吉継は、余り人前に出るほうではありませんでした。 何故ならば、中年になって伝染性の強い皮膚病を患い、身体も不自由になっていたからでした。 しかし、秀吉の誘いとなれば [続きを読む]
  • 心の目を開かせた黒痣
  •  紀伊藩(和歌山県)の徳川頼宣は、家康の第十子で、家臣を慈しんだ名君として知られています。 しかし、若い時は必ずしもそうではありませんでした。 気に入らないことがあると、直ぐさま近臣を怒鳴りつけたり殴ったりして、憂さ晴らしをしていました。 だから、家臣たちはいつも戦々恐々、頼宣の顔色ばかりを窺うようになっていました。 そんなある日のこと。 例によって何かのことで不機嫌になった頼宣は、近臣の者を鞘で [続きを読む]
  • 奇才、大英帝国に挑む
  •  大英博物館の考古学・民族学部長、そして後に博物館長となる英国学士会の長老オーラストン・フランクス卿のもとに、その奇妙な日本人青年が現れたのは、明治26年(1893)9月の事でした。  靴底の厚みがレンガほどもあるくたびれた皮の長靴を履き、傍に寄れば臭いそうな垢じみたフロックコートを着ています。 大きな目は一種の異様な光を湛えています。 持参したある日本人からの紹介状も、また異様なものでした [続きを読む]
  • 木曽節
  •  「木曽のなぁ〜 なかのりさん 木曽の御嶽なんちゃらほい 夏でも寒いよいよいよい 袷な〜なかのりさん…」という民謡を知っている人は多いかも。 そう、木曽節です。 当時あまり知られていなかった「なかのりさん節」を伊東淳が木曽節として世に出して、全国に知られる民謡にまで高めたのです。 このことから、淳は後に「なかのりさん町長」として有名になりました。 淳は、明治9年(1876)、木曽の福島村中畑に生ま [続きを読む]
  • あの人の言の葉 渋谷健一
  •  陸軍少佐 渋谷健一 特別攻撃隊 振武隊隊長 昭和20年6月21日 沖縄沖にて戦死 山形県酒田市片町出身 31歳 父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十歳に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。 死せずとも戦に勝つ術あらんと考うるは常人の浅はかなる思慮にして、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総当たりを行い、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給う。 真に国難と言うべきなり。 父は死にて [続きを読む]
  • 廃屋の小さな火種
  •  明和6年(1769)10月、倒産寸前の藩財政再建のために上杉鷹山が18歳でお国入りした時のお話です。 米沢藩領の板谷宿にさしかかりました。 現在の福島県と山形県の境にある山間の宿場でした。 今の暦だと12月、雪は家を呑み込む深さでした。 これまでの旅の疲れと、雪の下に押しひしがれた様な人っ子一人いない廃宿を前に、彼は絶望の淵へ追いやられそうになりました。 江戸で練り上げたプランも意気込みも、空し [続きを読む]
  • 三杯の茶
  •  豊臣秀吉が、長浜(滋賀県長浜市)城主となって暫く経った頃。 ある日、秀吉が鷹狩りに出掛けました。 秀吉は、余り鷹狩りをしたことがありませんでした。 慣れないこともあって、そのうちに喉が渇いてきました。 そこで近くにあった観音寺という寺に立ち寄り、茶を所望しました。 当時、秀吉はまだ天下平定をしていないが、何しろ織田信長軍団の出世頭です。 浅井攻めに輝かしい戦功をあげ、信長から長浜城を与えられたば [続きを読む]
  • さくら
  •  実家のお庭にある桜も満開を過ぎ、桜吹雪と成り始めました。 近くに首都高が走っていて、昼は少々うるさいですが、夜になると人も偶に見かけるくらいの閑静な住宅地になります。 早速、家族で夜桜を楽しんでいます。  社会人の一番上の姉が近所にあった恵比寿サッポロビール工場(現・恵比寿ガーデンプレイス)の催しでもらって来た桜、今年も元気で何よりです。 皆さんは、桜を楽しみに行きましたか。 これからは北関東が [続きを読む]
  • 1900年の多国籍軍
  •  約1世紀前の明治35年(1902)年1月30日、日英同盟が成立しました。 同盟締結を推進したのは、駐日公使マクドナルドでした。 マクドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診しました。 マクドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示しました。 それからわずか半年後に [続きを読む]