須勢理姫 さん プロフィール

  •  
須勢理姫さん: さくら舞い散る道の上で
ハンドル名須勢理姫 さん
ブログタイトルさくら舞い散る道の上で
ブログURLhttp://suseri0529.blogspot.jp/
サイト紹介文素敵な日本の歴史と知識教養などをお届けします
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供43回 / 118日(平均2.6回/週) - 参加 2016/12/18 14:19

須勢理姫 さんのブログ記事

  • 奇才、大英帝国に挑む
  •  大英博物館の考古学・民族学部長、そして後に博物館長となる英国学士会の長老オーラストン・フランクス卿のもとに、その奇妙な日本人青年が現れたのは、明治26年(1893)9月の事でした。  靴底の厚みがレンガほどもあるくたびれた皮の長靴を履き、傍に寄れば臭いそうな垢じみたフロックコートを着ています。 大きな目は一種の異様な光を湛えています。 持参したある日本人からの紹介状も、また異様なものでした [続きを読む]
  • 木曽節
  •  「木曽のなぁ〜 なかのりさん 木曽の御嶽なんちゃらほい 夏でも寒いよいよいよい 袷な〜なかのりさん…」という民謡を知っている人は多いかも。 そう、木曽節です。 当時あまり知られていなかった「なかのりさん節」を伊東淳が木曽節として世に出して、全国に知られる民謡にまで高めたのです。 このことから、淳は後に「なかのりさん町長」として有名になりました。 淳は、明治9年(1876)、木曽の福島村中畑に生ま [続きを読む]
  • あの人の言の葉 渋谷健一
  •  陸軍少佐 渋谷健一 特別攻撃隊 振武隊隊長 昭和20年6月21日 沖縄沖にて戦死 山形県酒田市片町出身 31歳 父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十歳に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。 死せずとも戦に勝つ術あらんと考うるは常人の浅はかなる思慮にして、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総当たりを行い、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給う。 真に国難と言うべきなり。 父は死にて [続きを読む]
  • 廃屋の小さな火種
  •  明和6年(1769)10月、倒産寸前の藩財政再建のために上杉鷹山が18歳でお国入りした時のお話です。 米沢藩領の板谷宿にさしかかりました。 現在の福島県と山形県の境にある山間の宿場でした。 今の暦だと12月、雪は家を呑み込む深さでした。 これまでの旅の疲れと、雪の下に押しひしがれた様な人っ子一人いない廃宿を前に、彼は絶望の淵へ追いやられそうになりました。 江戸で練り上げたプランも意気込みも、空し [続きを読む]
  • 三杯の茶
  •  豊臣秀吉が、長浜(滋賀県長浜市)城主となって暫く経った頃。 ある日、秀吉が鷹狩りに出掛けました。 秀吉は、余り鷹狩りをしたことがありませんでした。 慣れないこともあって、そのうちに喉が渇いてきました。 そこで近くにあった観音寺という寺に立ち寄り、茶を所望しました。 当時、秀吉はまだ天下平定をしていないが、何しろ織田信長軍団の出世頭です。 浅井攻めに輝かしい戦功をあげ、信長から長浜城を与えられたば [続きを読む]
  • さくら
  •  実家のお庭にある桜も満開を過ぎ、桜吹雪と成り始めました。 近くに首都高が走っていて、昼は少々うるさいですが、夜になると人も偶に見かけるくらいの閑静な住宅地になります。 早速、家族で夜桜を楽しんでいます。  社会人の一番上の姉が近所にあった恵比寿サッポロビール工場(現・恵比寿ガーデンプレイス)の催しでもらって来た桜、今年も元気で何よりです。 皆さんは、桜を楽しみに行きましたか。 これからは北関東が [続きを読む]
  • 1900年の多国籍軍
  •  約1世紀前の明治35年(1902)年1月30日、日英同盟が成立しました。 同盟締結を推進したのは、駐日公使マクドナルドでした。 マクドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診しました。 マクドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示しました。 それからわずか半年後に [続きを読む]
  • 芋大主
  •  嘉手納町出身の野国総管は、「芋大主(うむうふしゅ)」と呼ばれ、現在は神様として祀られています。 かつて、沖縄は琉球王国と言われていて、明(現在の中国)と貿易を行っていました。 野国総管は、その進貢船の総管職(現在の事務総長)を務めていました。 今から約400年前、総管は進貢貿易の乗組員の一員として明の福州(現在の福建省)に渡りました。 総管は、その地で初めて芋(サツマイモ)を見て、 「ああこれだ [続きを読む]
  • あの人の言の葉 安部勝雄
  •  陸軍歩兵曹長 安部勝雄 歩兵第52連隊 昭和14年4月19日 山西省朱家垣付近にて戦死 岩手県奥州市江刺区岩谷堂出身 35歳  拝啓 子供等には変わりありませんか。 日増しに寒さも加わりますので一人で子供等の厄介をされて居りますと、何に彼につけ手落ちがちになり、風邪を引かす様になりましょうが、お気を付けて丈夫にする様になさい。 一月十七日には此処にも雪が降りました。 寒さは依然として同じ位です。 [続きを読む]
  • 決死の覚悟が助命に
  •  慶長5年(1600)9月6日、関ヶ原の合戦が始まろうとしていました。 その関ヶ原に参ずるために、真田信之は、東軍の大将である徳川秀忠に従って江戸から中山道を急いでいました。 目の前に西軍側の上田城が現れました。 その上田城を見て、真田信之は複雑な思いに駆られました。 その城は、父の真田昌幸が守っているからです。 真田家を保つために、父は西軍に与して上田城に拠り、息子である信之は東軍に与してこれを [続きを読む]
  • 運を開く
  •  天正10年(1582)6月2日、戦国の風雲児・織田信長が部下の明智光秀の謀反により、京都の本能寺で倒れました。 その時、黒田官兵衛は、大将の羽柴秀吉とともに備中高松城(岡山市北区高松)の近くに居ました。 秀吉の命を受けた官兵衛は、信長の横死を伏せて急いで毛利方と談判して、講和を成立させて陣を払いました。 6月6日のことでした。  翌日には、秀吉軍は大風雨をついて姫路城に帰り着きました。 中国経路 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 長井泉
  •  海軍飛行兵曹長 長井泉 昭和16年12月8日 真珠湾にて戦死 熊本県下益城郡美里町中央出身 20歳  ハワイ作戦の首途に当たり、一筆書き遺します。 われ国家の為に死す。 男子と生まれ、皇国に生を受け、しかも軍人として屍を戦場に晒すことは軍人の本望である。 願わくば、われなき後は弟、洋を以て立派なる帝国軍人となし、国家の守りに立たせ給わんことを。 この度の戦、一挙にして終わるべきにあらずして、東洋 [続きを読む]
  • ラーゲリに消えた侍
  •  「同志スターリン、朝鮮国境で3日前にスメルシ(赤軍防諜部)が日本首相の息子である近衛中尉を捕らえました」 その報告に、スターリンはゆったりと聞き返しました。 「近衛だと? この夏に裕仁が特使として名指ししたあの人物の息子か?」 「裕仁の特使」とは、日本の降伏も間近の昭和20年(1945)7月に、ソ連に和平工作の仲介を依頼するために元首相・近衛文麿の特使として指名されたことを言っていま [続きを読む]
  • シコロの木
  •  明治45年(1912)3月19日、北海道の古平町で後々まで語り伝えられる衝撃的な海難事故が起きました。 前日からの激しい風と大波で、古平湾に避難していた第二出羽丸(500トン)の錨綱が切れ、強風にあおられて厳島神社下の浅瀬に乗り上げてしまったのです。 船には、山形県の港から利尻方面の漁場に向かう漁師や乗組員ら合わせて180人が乗っていて、漁具や漁業関係の資材もたくさん積んでいました。 前浜で起き [続きを読む]
  • 断じて女ではござらぬ
  •  今川氏真は、桶狭間の合戦で戦死した今川義元の息子です。 覇気もなく勇気もなかったから今川家は衰退の一途でしたが、そんな中にあって剛の者が二人だけ居ました。 城戸助之允と牧孫左衛門です。 まず、城戸助之允。 彼の合戦での働きぶりは目覚ましく、助之允が被っている桔梗紋の兜は「今川の桔梗笠」として敵味方に知れ渡っていました。 桔梗笠が往くだけで、その武威に圧倒されて自然に周囲に輪が広がるほどでした。  [続きを読む]
  • あの人の言の葉 吹野匡
  •  海軍少佐 吹野匡 神風特別攻撃隊 旭日隊 昭和20年1月6日 フィリピン沖にて戦死 鳥取県米子市淀江町出身 26歳 母上様 十九年十二月二十一日 匡 私は長い間本当にご厄介ばかりおかけして参りました。 色々の不孝の上に今また母上様の面倒を見る事もなしに先立つ不孝をお許し下さい。 昨秋、私が海軍航空の道を選んだ事は、確かに母上様の胸を痛めた事と思います。 常識的に考えて、危険性の少ない道は他に幾ら [続きを読む]
  • 急用ゆえにゆっくりと
  •  中国地方の覇者・毛利元就の三人の息子のうちでも、特に小早川隆景の叡智を称える逸話は数多くあります。 絶妙のバランス感覚と先見性で、同盟した豊臣秀吉を補佐し、それによって毛利本家を安泰に導いた隆景が実際に傑出した人物であったことは間違いありません。 さて、あるとき急ぎの用が出来て、隆景は大声で書記を呼ぶと早速筆を執らせました。 いつもは冷静沈着な隆景でしたが、このときはいささか興奮していたようで、 [続きを読む]
  • 思い出のアルバム
  •  町中を歩いていると、紅白の梅の花が目にとまるようになりましたね。 それと、素敵な香りが漂ってきても、探すのが難しい沈丁花も。 これから新学期に近くなるほど、桃や桜が咲いて来るので心躍ってしまいます。 梅の名所の老舗と言えば、茨城県水戸市の偕楽園。 夜間の園内ライトアップが20日まで行われています。 孟宗竹のライトアップとコラボしていて、より一層絵になるようになっています。 それと規模で関東一なの [続きを読む]
  • 清冽なる名君
  •  信濃国の高遠藩3万石を治めていた小大名・保科正之が、2代将軍・徳川秀忠が側室に生ませた子だという事が知れ渡ると、今のうちに正之に取り入っておこうと、近付いてくる大名があらわれました。  「御上(3代将軍・家光)と此方さまとが血を分けた間柄におわすことは、まことに祝着。某から御老中方に働きかけ、早う天下にこれを明らかにするよう進言してもようござるが」  「お志は、まことに有り難く存じます [続きを読む]
  • わらじ村長
  •  品井沼排水事業に生涯を捧げた鎌田玄光とその遺志を継いだ三治の子として、鎌田三之助は文久3年(1863)、木間塚村竹谷(現在の大崎市鹿島台)に生まれました。 少年期の三之助は賢くて力も強く、誰も立ち向かう者がいませんでした。 明治11年(1878)、三之助は政治家になろうと思って上京し、明治法律学校(現・明治大学)の法学部に入学します。 15歳の春のことでした。 三之助は東京で6年間を過ごしますが [続きを読む]
  • あの人の言の葉 松本伝三郎
  •  海軍一等飛行兵曹 松本伝三郎 昭和20年4月17日 沖縄沖にて戦死  福島県出身 18歳  父上、母上様。 いよいよ出撃致します。 今までの不孝、何卒お許し下さい。 この手紙が届く頃は、立派に戦っております。 これが最後の手紙となることでしょう。 いま大急ぎで書いております。 先便にて私の胸中は……。 何卒皆々様、お元気で暮らして下さい。 神掛けてお祈り致します。 立派に戦い、死ぬ決心です。 小 [続きを読む]
  • 悲しき旅立ち
  •  武田勝頼は、武田信玄の息子です。 信玄が築き、そして得たもの全てを失った武将として余り評判は良くありませんが、その悪評は必ずしも当たっているとは言えません。 そういうのも勝頼が信玄の跡を継いだとき、勝頼は信玄から遺言という形でどうにもならない条件をつけられていたからです。 その遺言は、「三年間、我が死を隠せ」というものでした。 しかし、信玄の死は1万2千の兵を率いての行軍中の時だったから、隠すも [続きを読む]
  • 黄色い蝶
  •  小野小弥太は、越後村上藩の祖となった堀直寄の小姓として仕えていました。 しかし、毎日が面白くありませんでした。 (小姓など若いうちならともかく、成年になってもまだ務めなくてはならぬとは……) そんな思いがあったから、直寄に願い出て、元服の上、役職を変えてもらいたいと希望しました。 しかし、聞き入られませんでした。 (私のことをまだ子供だと思っておられる……) そんなある日、どこからともなく一匹の [続きを読む]
  • 青年日本の歌
  •  河津桜が見頃になっていますね。 伊豆急行の河津駅をベースに近くの河津川に沿って内陸へ楽しんで歩く訳ですが、景観は素晴らしいけれど人混みがあってゆっくり楽しめない環境です。 でも、同方面でまだまだ穴場的な名所があるんです。 人混みもそこそこ、川の両側に桜並木、しかも立ち寄り湯もできてしまう。 伊豆急下田駅から東海バスで行ける「下賀茂温泉」です。 「もしツア」でもやっていて、嬉しい一方で、河津目当て [続きを読む]
  • 人は利で動かず
  •  思い切ったことを言ったものです。 大谷吉継が石田三成に真実を語ることが出来たのは、二人が良きライバルである以上に、この上ない親友だったからです。 その石田三成が親友の大谷吉継にこんな話をしたのは、文禄の役(1592年から始まった秀吉の海外出兵)の後です。 「吉継、良き家臣を得たぞ。名を島左近勝猛という」 「そうか、何よりのことだ。良き家臣は堅固な城、高き石垣、深い堀よりもよく主君を守るという。ま [続きを読む]