リラ さん プロフィール

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リラさん: 谺して山ほととぎすほしいまゝ(久女ブログ)
ハンドル名リラ さん
ブログタイトル谺して山ほととぎすほしいまゝ(久女ブログ)
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/lilas0526
サイト紹介文近代女性俳句の草分けと評される杉田久女の生涯を辿り、思うこと感じる事を書いています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供83回 / 78日(平均7.4回/週) - 参加 2017/01/03 19:01

リラ さんのブログ記事

  • 俳人杉田久女(考) 〜高浜虚子が書いた『杉田久女句集』序文〜 (83)
  • 久女の長女昌子さんは、生前の母から託された句集出版を何としても果たしたく、苦労の末かろうじて、高浜虚子から序文を貰い、昭和27年10月、角川書店からの『杉田久女句集』出版にこぎつけました。虚子が書いたその序文を『杉田久女句集』から、全文引用してみます。 「 序 」杉田久女さんは大正昭和にかけて女流俳人として輝かしい存在であった。ホトトギス雑詠の投句家のうちでも群を抜いていた。生前一時その句集を刊行した [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜『杉田久女句集』出版までのいきさつ〜 (82)
  • 前回(81)の記事では、『杉田久女句集』出版までのいきさつについて、詳しく触れていませんので、この遺句集は比較的スムーズに出版された様に感じられるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。久女の生前はいくら懇願されても久女の句集に序文を与えなかった高浜虚子でしたが、彼女の死後もそんなにすんなりとは運びませんでした。今まで述べた様に、高浜虚子は久女の死後、『ホトトギス』やその他の雑誌に、死者に鞭 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜悲願の『杉田久女句集』出版〜 (81)
  • 久女の死後、昭和27(1952)年に角川書店から高浜虚子の序文とともに『杉田久女句集』が出版されました。この句集こそ、久女生前の悲願が結実したものでした。<『杉田久女句集』>文庫本サイズの小さな句集で、収録句は1401句、最後に長女石昌子さんの「母久女の思い出」と年譜が載せられています。全部で175ページ、1ページに10句掲載され、装幀は池上浩山人でした(上の写真は久女展の図録を写しました)。私はこの句集をH.23年 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜創作「国子の手紙」〜 (80)
  • 高浜虚子の書いた創作「国子の手紙」は、<こゝに国子という女があった。その女は沢山の手紙を残して死んだ。 (中略)国子はその頃の女子としては、教育を受けていた方であって、よこす手紙などは、所謂水茎の跡が麗しくて達筆であった。それに女流俳人のうちで優れた作家であるばかりでなく、男女を通じても立派な作家の一人であった。が、不幸にして遂にここに掲げる手紙の様な精神状態になって、その手紙も後には全く意味をな [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜「国子の手紙」について〜 (79)
  • 久女の師、高浜虚子は久女の死から2年8ヶ月後に『文体』という雑誌に、久女が昭和9年に虚子に出したとする手紙のうち19通を選んで、創作「国子の手紙」を発表しています。この作品は現在、『高浜虚子全集第7巻小説3』に納められているので、誰でも読むことが出来ます。虚子は創作と言っていますが、久女と彼女の長女昌子さんからの手紙に、虚子が短い解説を幾つか付けたもので構成された小説で、とても創作とは言えない不思議 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜本当の久女の箱根丸見送り風景〜 (78)
  • 久女の箱根丸見送り風景については、北九州市在住の増田連さんが、著書「杉田久女ノート」の中で詳しく検証されています。この本は杉田久女研究書として、久女の長女、石昌子さんの書かれたものとともによくまとまった労作で、足を使って調査研究した本であるとの評価を今日受けています。<増田連著『杉田久女ノート』>著者の増田氏は虚子の『渡仏日記』、日原方舟が俳誌『無花果』4月号に載せた「舟・人・梅」という文章、矢上 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜死してなお〜 (75)
  • 死によって、久女の悲しみ、痛苦、憤怒、その他の抑えがたい感情は消え、魂は天上に還りました。普通なら「棺覆て人定まる」で、その死によってすべてが終わるのですが、久女を襲った悲劇は、死してなおも続きました。久女の師高浜虚子は、弟子久女の死後、彼女に関する文章をいくつか書いています。それらを書かれた順に並べると、下の様になります。  ① 「墓に詣り度いと思ってをる」 (『ホトトギス』昭和21年11月号)   [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜終焉〜 (74)
  • 戦局がいよいよ激しさを増し、敗色しのび寄る昭和19年から20年にかけて、物資が次々に消えていき、都市生活者は空襲に怯えて生きるのに精一杯の頃、傷ついて塞ぎ込みながら過ごしていた久女に手を差し伸べる余裕など、周りの誰にもありませんでした。田辺聖子さんの著書『花衣まつわる...』の中には〈久女は終戦になった8月の少し前あたりから家事を投げやりにして、じっと籠るようになった。宇内が咎めると、支離滅裂な返答を [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜最晩年〜 (73)
  • 久女年譜によると、大東亜戦争がますます激しさを増していく昭和19(1944)年7月に久女は実母、赤堀さよを亡くしました。90歳だったそうですから天寿をまっとうしたといえるでしょう。その葬儀の為に上阪。葬儀後に上京し鎌倉に住む、夫が出征中の長女昌子さん宅を訪ねています。久女は諦め切った境地にあったようで、いつになく焦りも消えて落ち着いていたのは昌子さんにとって意外に感じられる位でした。穏やかで子供と優しく遊ん [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜晩年〜 (72)
  • 久女が句稿の整理をした翌年の昭和15(1940)年に、彼女は自身を俳句に導いてくれた実兄の赤堀廉行を亡くしました。そしてその翌年の昭和16年10月には久女の次女光子が結婚し、結婚式に上京、この時鎌倉在住の長女昌子さん方に泊まったようです。『杉田久女句集』の最後には昭和17年光子結婚式に上京 三句 の前書きがあり、次の3句が置かれています。      「 歌舞伎座は 雨に灯流し 春ゆく夜 」      「 蒸し寿 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜句稿の整理〜 (71)
  • 年譜によると『俳句研究』の昭和14(1939)年7月号に、久女は「プラタナスと苺」として42句をのせています。これらの句はその前月に上阪して宝塚に住む実母を訪ね、1ヶ月程滞在した時に得た句です。下の句はその42句の中にあるものです。      「 つゆの葉を かきわけかきわけ 苺摘み 」      「 朝日濃し 苺は籠に つみみてる 」 この42句が久女が発表した最後の句である、としている研究書が多い様ですが、 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜かっての句妹達の句集出版〜 (70)
  • 昭和12(1937)年に始まった日中戦争は、次々と戦局を拡大しつつありました。それでもまだ昭和15年頃までは句集を出せる社会的な余裕はあったようです。昭和14(1939)年には長谷川かな女の句集『雨月』が、虚子の序文とともに上梓されました。私はこの序文を見ていませんが、研究書によると慈愛に満ちた序文らしく、久女があれほど懇願しても与えなかった序文を、既に『ホトトギス』を離れている長谷川かな女には快く与えているん [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜除名後の句作〜 (69)
  • 久女は昭和11年の『ホトトギス』同人除名後も、『俳句研究』に句を発表し、『ホトトギス』にも投稿していました。たまに乞われれば地方紙に文章も書いています。除名後は句作を断ったというのは間違いの様です。昭和12年5月19日〜20日にかけては、九大英彦山研究所で過ごしたらしく、そこで多くの蝶を写生し、それに文章を添えたものが、平成23年の「花衣 俳人杉田久女」展で、展示されていました。それが図録にも載っていますが [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜夫、杉田宇内について〜 (68)
  • 『ホトトギス』同人として、俳句に執念を燃やし精進する中での、突然の同人除名は久女にむごい打撃を与えましたが、その頃の久女の夫、杉田宇内についてみていきましょう。<大正初期の頃、夫宇内、長女昌子、久女>杉田宇内について書かれたものを読むと、彼は職務に忠実、教育には熱心で、貧しい生徒達のために身銭を切ることも度々で、満足な給料袋を家庭に持ち帰ったことがない様な人だった様です。東京芸大西洋画科、研究科を [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜失意の日々〜 (67)
  • 久女の長女、石昌子さんの著書『杉田久女』によると、「傍観者の私でさえ、母が同人を削除されたと聞いては、母に何か落ち度があったと考えるよりほかなくなりました」と書いておられます。<石昌子著『杉田久女』>しかし久女は除名後最初の頃は、師の虚子は自分が『ホトトギス』を追われたら、すぐ他派へ身を寄せるのではないか、つまり先生はそう思っておられ、これは自分を試すための除名であると思っていたようです。なので、 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜ユダともならず〜 (66)
  • 昭和11(1936)年『ホトトギス』10月号に自分の除名社告を見た久女は、おそらく我が目を疑い言葉を失ったでしょう。この時、久女46歳でした。結果としてみると、この除名は久女の俳人としての生命だけではなく、久女の実人生までを崩壊させ、その生涯を完全に閉ざすことにつながりました。が、虚子は久女は除名後は他派へ移ると予想し、彼女にそれ程の打撃を与えるとは考えなかったのかもしれません。除名から少し経ち落ち着きを取 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜『立子句集』の上梓〜 (65)
  • 久女が『ホトトギス』から除名された翌年の昭和12(1937)年に、高浜虚子の愛娘であり俳誌『玉藻』の主宰者、星野立子の句集『立子句集』が出版されました。<星野立子 1903-1984>虚子はその序文で<自然の姿をやはらかい心持で受け取ったままに諷詠するということは、立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。写生という道を辿って来た私は、さらに写生の道を立子の句から教わったと感ずることもあったのである。それは [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜同人削除〜 (64)
  • 高浜虚子がヨーロッパから帰国して数か月経った、昭和11(1936)年の『ホトトギス』10月号に、1ページを割いて「同人変更」の社告が載りました。その同人変更の社告とは  < 従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女の三君を削除し、    浅井啼魚、滝本水鳴 両君を加う。      ホトトギス発行所 >というものでした。これが久女の俳句人生において最大の謎とされる事件の発端でした。社告の中の“削除”と [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜久女の箱根丸見送りの真相〜 (63)
  • 『杉田久女ノート』の著者、増田連氏は高浜虚子の『渡仏日記』、日原方舟が俳誌『無花果』4月号に載せた「舟・人・梅」という文章、矢上蛍雪の書いた「門司の虚子先生」、久女の弟子で、久女が指導していた俳句サークル小倉白菊会々員の縫野いく代さんを直接取材した話から、箱根丸見送り時の久女の行動を追っておられます。<増田連著『杉田久女ノート』>それによると、久女は2月21日に美しい花籠を持参して、門司港に入港した箱 [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜高浜虚子の渡欧〜 (62)
  • いよいよ久女の俳句人生にとって最大の事件、「同人除名事件」が起きた昭和11(1936)年の久女について書くことになりました。昭和11年の2月に久女の師、高浜虚子は欧州航路の箱根丸に乗り渡欧し、ベルギー、フランス、ドイツ、イギリスを旅しました。この虚子の渡欧は、今の時代とは違い大きなニュースになり新聞にも載ったようです。2月16日に多くの弟子たちが見送る中横浜港を出発、翌日名古屋港寄港、18日大阪港寄港。なんとも [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜鶴の句〜 (61)
  • 前回の(60)で書いた様に、鶴の肉を得たことで久女は鶴へのあこがれを持ったのでしょう。久女年譜によると、この年(昭和9)年12月23日に山口県八代(やしろ)村に鶴を見に行っています。八代盆地は鹿児島県の出水と並ぶ鶴の飛来地として知られている所です。『杉田久女句集』には「鶴の句」として、この時詠んだ61句が載っています。それにしても一つの場所で61句とはすごいですね。その場の色んな情景を細かく観察し、時間をかけ [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜エッセー「鶴料理る」〜 (60)
  • 久女は昭和9(1934)年に俳誌『かりたご』に「鶴料理る」という短いエッセーを書いています。これが『杉田久女随筆集』に載っていますが(昭和9年3月17日記の記述あり)、さち女という俳句のお弟子さんが、先生にと言って持って来てくれた鶴の肉を切り分けて、数種類の野菜とともに彩りよく盛り、周りの人々におすそ分けする話です。<杉田久女随筆集>この文中の久女はとても楽し気で生き生きとし、風雅を愛する俳人らしい姿です [続きを読む]
  • 俳人杉田久女(考) 〜昭和9年、10年の久女〜 (59)
  • 今まで見て来た様に、昭和9(1934)年の久女は、俳句作家として才能が全開した時期で、句集出版の志を持ち、師の高浜虚子に序文を懇願すれども得られず、心の中に悶々としたものを持ちながらも俳誌『かりたご』などに多くのエッセーを書き、また3度目の『ホトトギス』巻頭を得た時期です。そしてこの年に『ホトトギス』同人となっています。昭和21(1946)年1月の久女の死から約2年半後に、高浜虚子は昭和9年に久女から来たという [続きを読む]