hyourokudon さん プロフィール

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hyourokudonさん: おじゃったもんせ鹿児島へ/薩摩の歴史とグルメ話
ハンドル名hyourokudon さん
ブログタイトルおじゃったもんせ鹿児島へ/薩摩の歴史とグルメ話
ブログURLhttp://fanblogs.jp/satumabusi/
サイト紹介文後世に伝えていきたい薩摩の歴史などを中心に、地元鹿児島から発信して参りたいと思います。
自由文ガイドブックに掲載されてないような薩摩の史跡、
寺社仏閣のご案内を中心に、地元の人しか知らない
観光情報を発信しております。
歴史好きの方々のご訪問をお待ちしてます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供90回 / 53日(平均11.9回/週) - 参加 2017/01/29 20:55

hyourokudon さんのブログ記事

  • たまには船旅も。
  • にほんブログ村関西と九州を結ぶ「フェリー・サンフラワー」。写真は志布志港に停泊中のものですが、大阪(南港)〜志布志の他にも、大阪〜別府、神戸〜大分と3つの航路が有るんですね。最近知りました。はるか昔は、錦江湾に入って、鹿児島市の谷山港までの航路でしたが、採算を考えると、志布志発着の方が良いのでしょう。関西からの観光客は、飛行機・新幹線を利用される方がほとんどですが、片道は、のんびりと船の旅を楽しま [続きを読む]
  • 薩摩に有る、坂本龍馬の足跡
  • にほんブログ村鹿児島市天保山に作られている「坂本龍馬新婚旅行記念像」です。「薩長同盟」の仲介をなんとか成し遂げた「龍馬」は、京での宿舎にしていた「寺田屋」を襲われ、命拾いしましたが大きな刀傷を受けてしまいました。幕府方から身を隠す意味としても、「西郷隆盛」達に進められ、連れ合いの「おりょうさん」を伴い、薩摩へ湯治に行く事になりました。大阪から船に乗り、当時は港が在ったここ天保山に上陸した後、陸路で [続きを読む]
  • 鹿児島が産んだ大横綱
  • にほんブログ村薩摩川内市川内は、薩摩藩政時代には、「川内川」を挟み、最終防衛ライン的な要所で、川に掛けられた橋も、いざ事が起これば簡単に壊せる木橋でした。当然、配置された武士団もそれなりに屈強な者たちで、自ら「せんでガラッパ」と名乗り、代々その存在を藩内に知らしめてきました。時代が変わり、現在では京セラの大工場を抱える「京セラ城下町」となっています。鹿児島県内でも、霧島市国分と並んで若者が多く、活 [続きを読む]
  • 「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエム(終)
  • にほんブログ村キリがないので(笑)、「南州神社」関連の記事は、ひとまず今回で最期にします。最期の鳥居をくぐって、右手の方に一段低くなった場所が有り、色々な顕彰碑などが建てられています。中でも目を引くのが、昭和14年に東京市から贈られた灯籠型の「常夜灯」。江戸城無血開城のおかげで、東京が火の海にならなかった事に感謝の気持ちを込めて贈られました。圧倒されるくらい大きいです。5mくらいあるのではないでしょ [続きを読む]
  • 「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエム③<br />
  • にほんブログ村「大山綱良」。若いときから西郷・大久保達と一緒に、京都での倒幕活動に身を捧げ、戊辰戦争でも一緒に戦って、明治維新の成し遂げた功労者の一人ですが、「ぼっけもん」という言葉が一番似合う人物です。明治4年の「廃藩置県」で、初代鹿児島県令に任命されました。「県令は、他の藩出身者をもってこれにあてる」とする原則に反するのですが、特例として認められました。国父「島津久光」のゴリ押しだったような気 [続きを読む]
  • 「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエム②ー下
  • にほんブログ村城下に駆けつけた「桂 久武」ですが、当初は西郷達を見送るつもりで、自らは従軍するつもりはありませんでした。しかし、出陣の支度をしている旧薩摩藩士たちを見ているうちに、気が変わり自分も一緒に参加する決心を固めました。藩の重臣として、かつての部下達だけを戦争に送り出す事が忍びなかったのではないでしょうか。彼はかねてから、藩内では有数の弓の名手として知られていました。部下が鉄砲を渡そうとす [続きを読む]
  • 「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエム②ー上
  • にほんブログ村「桂 久武」。島津の分家の一つ、「日置島津家」の五男に生まれ、小松家、肝付家など自家の所領を持つ「桂家」の養子に入りました。どちらの家も薩摩藩の重臣の家柄で、本来なら身分が違い過ぎるために、「西郷隆盛」達、軽輩者と知り合う事はないのですが、実兄が西郷達の盟友で、「お由羅騒動」に巻き込まれて切腹させられた「赤間靱負」です。また、西郷が奄美大島に流されていた時に、「大島守衛方」として現地 [続きを読む]
  • 「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエム①
  • にほんブログ村西南戦争で亡くなられた「薩軍」方の兵は、およそ7.000名程。その内の2.000名程が南州墓地に埋葬されています。薩摩人の特質の一つは「恨みは水に流せ、恩は岩に刻め」的な気質が強かった為、県外の人達には広まっていない事実が沢山埋もれています。特に、戊辰戦争での東北各藩との戦い、西南戦争の発端から終結迄の歴史認識に、誤って伝えられている事が沢山見受けられますが、薩摩人があえて否定しなかったのも原 [続きを読む]
  • 西南戦争に従軍した二人の庄内藩士。
  • にほんブログ村もう何十回も行ってるのに、近くを通るとつい寄ってしまいます。ひと気の無い墓地の中を静かに散策してると、妙に心が洗われたように感じるのは何故でしょうか。西南戦争で「賊軍」方に従軍したのは、薩摩藩士ばかりではありません。新政府に不満を持つ、色んな藩の旧士族達が参加しました。明治10年、庄内から「私学校」に留学していた二人の若者も周りの人達から、故郷に帰るよう散々説得されましたが、それを聞か [続きを読む]
  • 「桐野利秋」開墾地跡
  • にほんブログ村明治6(1873)年10月23日、政府に見切りをつけ、鹿児島へ帰ってきた「西郷隆盛」は元武士階級の若者達の暴発を抑える為に「私学校」を造り、そして自らは、彼らに手本を示すかのように、吉野村寺山の開墾に励み続けました。西郷とずっと一緒に活動してきた「桐野利秋」は、隣接する吉田村宇都谷に掘っ立て小屋を建て、一人寝泊まりしながら西郷と同じように畑仕事に励みました。その跡地には石碑が建てられていて、彼 [続きを読む]
  • 「南洲翁遺訓」とは?
  • にほんブログ村「南洲翁遺訓」という本をご存知でしょうか?西郷隆盛の言葉を集めて、一冊の本に仕立てたものですが、驚く事に、出版されたのは薩摩からではなく、旧庄内藩からだと言うことです。明治8年、庄内から数名の若者達を連れて西郷を訪ねてきた筆頭家老「菅 実秀」は、西郷の人格に改めて感服し、帰る際に2名の青年に「西郷様の語られた言葉を、一字一句書きもらすでないぞ」といい含め、留学生として薩摩に残しました。 [続きを読む]
  • 徳の交わり②
  • にほんブログ村東北地方には徳川譜代の藩が多かったため、戊辰戦争では官軍相手に連合を組んで(奥羽越列藩同盟)武士らしく最期まで戦おうとする雰囲気に満ちていました。「庄内藩」もその中の一つで、「酒井家15万石」老中まで輩出した名門です。官軍が攻めてくると大いに戦い、米沢藩・会津藩と次々と降伏するなか、最期まで戦い続けましたが、藩主「酒井忠篤」は重臣らと協議して、苦渋の降伏を決断しました。これには伏線があ [続きを読む]
  • 徳の交わり①
  • にほんブログ村鹿児島市の武町に、「西郷屋敷跡」という所が在ります。中央政界から帰ってきた西郷隆盛が粗末な家を建て、小間使いの老人を一人だけ雇って慎ましく住んでいた住居の跡です。現在は、小さな児童公園になっていますが、男性が二人膝を交えて対面している銅像が目をひきます。以下に、銅像の土台に刻まれた碑文を引用させていただきます。西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話している対話しているこの座像は、ここ [続きを読む]
  • 南さつま市田布施の「金蔵院 跡」
  • にほんブログ村前回ご紹介した二連鳥居、「南方神社」のすぐ近くに「金蔵院(こんぞういん)」という寺がかつて在りました。百済の僧「日羅」が、西暦500年代に浦之名に創建したのが始めともいわれているそうですが、確認出来るのは、この辺りに勢力を持っていた「阿多氏の一族」の忠景が1138年に、寺に土地を寄進した事が記録に残っているので、それ以前から存在していた事は間違い無いでしょう。その後1400年代に、島津家9代当主 [続きを読む]
  • 鳥居が2つ?珍しい神社。
  • にほんブログ村これも、南7さつま市で見つけた珍しい神社です。石造りの鳥居が、2つ並んで立っていて、境内には同じ大きさの拝殿も2つ在ります。県内のあちこちに在る「南方神社」の一つで、諏訪大社の分社です。御祭神は、建御名方命・事代主命の2柱なので2つあるのでしょうか。元々は、池辺という集落に在りましたが、管理する者も居なくなり、荒れ果てていたものを、1535年に「島津忠良」が現在の場所に移したそうです。忠良と [続きを読む]
  • 鹿児島の変わった地名?
  • にほんブログ村「火の河原」と書くと地獄の中の地名のようですが、鹿児島県には在ります。読み方は「ひのこら」だそうです。住所的には、ギリギリ鹿児島市平川町に入るそうですが、まず、普通の人は足を踏み入れない所です。ここに行くには、幹線道路から外れて、道幅の狭い林道のような道路を、結構な時間通らなければならないし、抜け道にもならないからです。明治維新から150年の祝賀が近づくにつれて、この集落にもスポットが [続きを読む]
  • 西南戦争について考える(最終回)
  • にほんブログ村延岡で解軍し、1.000名程になった薩摩人達には、ここから大変な苦難が待ち受けていました。この頃になると、続々と送り込まれてくる官軍兵で、九州内は一杯という状況で、主な道筋は通れません。薩摩の兵達は、険しく道すら無い「可愛岳」を越え、九州山地を縦断するように南下して小林に至り、そこから吉松・蒲生を経て、9月1日、ようやく故郷鹿児島に到着しました。官軍兵で埋め尽くされた鹿児島市内で散発的な戦 [続きを読む]
  • 西南戦争について考える③
  • にほんブログ村西郷と大久保は仲が良くなかった?これも鹿児島の歴史好きのなかでは定説になっています。彼らの言葉を借りると、同じ加治屋町郷中で生まれ育った「幼馴染」と思われていますが、実際には、大久保が生まれ育ったのは少し離れた荒田町です。当時の薩摩藩は、方限(ほうぎり)といって、武士の住む集落をいくつかの集落に分け、郷中教育もその単位ごとに行われていました。青年になってから加治屋町に引っ越してきた大 [続きを読む]
  • 西南戦争について考える②
  • にほんブログ村二十人以上、川路の配下の薩摩人がいっぺんに一時帰国?したら、誰でも怪しいむと思いますが、私学校党の若者達が問い詰めたところ、やはり川路が放った密偵で、しかも機会があれば西郷暗殺の任を帯びていた事が、明らかになりました。血気に燃える私学校党の若者達の一部が先走り、鹿児島市草牟田に在った陸軍の火薬庫(武器貯蔵所)を襲い、武器・弾薬を奪ったという報告をうけ、西郷は愕然とします。こうなったら [続きを読む]
  • 西南戦争について考える①
  • にほんブログ村明治6年、すべての官職を辞して鹿児島に帰った「西郷隆盛」は、城下の武町に粗末なあばら家を建ててそこに住み、吉野村寺山の開墾に励んでいました。「桐野利秋」もそれに習い、隣接した吉田村にほったて小屋を建て、百姓として生活していました。「武士が武士でなくなったらどう生きるか」という事を、自身自ら、手本を示していたのでしょう。しかし、武士階級だった若者達の不平不満は収まりません。そんな血気盛 [続きを読む]
  • 今日の鹿児島は、バイク日和です。
  • にほんブログ村今日の鹿児島市は、結構暖かく良い天気になったので、近所をチョット、バイクで走ってきました。ゴルフ場の入り口に、派手な看板が造られていたので、バイクを停めてよく見ると、地元テレビ局主催のアマチュアレディース大会の看板でした。こんなのを見ると、春も近いなと感じますね。ちなみにこのゴルフ場は、鹿児島県で1番か2番めに出来た、由緒あるゴルフ場です。 [続きを読む]
  • 鬼石蔓子?(終)
  • にほんブログ村「阿古蛇形兜緋糸威中札二枚胴具足」。「島津義弘」が関ヶ原の合戦のとき、身につけていたとされる大鎧につけられた名前です。当時としても時代遅れ、他の大名達は鎖帷子に陣羽織、頭には烏帽子という軽装が主流でしたが、義弘だけは鎌倉武将以来のスタイルを崩しませんでした。よく観ると、兜の前立てに狐の装飾品が付いているのがわかると思います。慶長の役、泗川の戦いのとき、押し寄せる明の大軍の方に向かい赤 [続きを読む]
  • 鬼石蔓子?②
  • にほんブログ村前回からの続きです。慶長の役で出兵していた大名達の中でも「島津」の名を知らしめた合戦が「泗川の戦い」です。朝鮮半島の泗川という所で、島津義弘率いる島津軍約7千が、明の武将董一元の率いる5万ともいわれる明・朝鮮連合軍と戦い、これを撃退した戦いです。泗川古城を取り囲む、数万の敵軍に対しうって出て義弘自ら先頭に立ち、鬼神のように刀を振るい続け、その勢いに押された董一元は多くの戦死者を出しなが [続きを読む]
  • 鬼石蔓子?①
  • にほんブログ村天下人となった秀吉の(妄想?)によって始められた「慶長の役」。朝鮮出兵ともいわれますが、実際には「明」国の征服が目的でした。釜山から上陸した日本勢は、明を目指しますが、続々と押し寄せる明軍に阻まれ、朝鮮半島が主戦場となりました。出兵させられた日本軍の武将達の主な顔ぶれを見ると「宇喜多秀家・小西行長・加藤清正・黒田長政・毛利勝信・福島正則・小早川隆景」など数十家、およそ十五万の大軍勢で [続きを読む]
  • 西郷隆盛の子孫達③
  • にほんブログ村数年前に、「西郷隆夫」さんが、鹿児島の会社の社長さんから口説かれ、その会社の副社長として、鹿児島に帰ってこられました。神戸生まれの神戸育ち、若くして大丸デパートの仕入れ部長をされていたバリバリのビジネスマンだった方です。その頃から、FBで薩摩の歴史についての記事ばかり書いていた私の記事が目にとまったようで、彼からの誘いで一緒に飲んだのもその頃です。以来、親しくお付き合いさせていただいて [続きを読む]