danu さん プロフィール

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danuさん: Jリーグクラブをつくろう〜SC鹿児島物語〜
ハンドル名danu さん
ブログタイトルJリーグクラブをつくろう〜SC鹿児島物語〜
ブログURLhttp://danusyousetu.blog.fc2.com/
サイト紹介文某小説サイトで連載していた小説を改稿してアップしていきます。 リアルなサカ○く小説です!
自由文人生をやり直した男がサッカー選手として活躍し、その後故郷でJクラブを設立します。
一人の男の行動が、日本サッカーの歴史を大きく変えていく。
まえ○のがあのまま活躍していれば…
おのし○じにケガがなければ…
そんな妄想を具現化した小説です。
ご感想等ございましたらコメントいただけますと幸いです。
なお、ここにある小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供11回 / 34日(平均2.3回/週) - 参加 2017/02/01 22:39

danu さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 4月中旬〜末までお休みします。
  • いつもお世話になっております。さて、私事ですが、このたび転勤が決まり、その手続き等で4月中旬あたりまで非常に多忙となります。そのため、しばらく更新はお休みとさせて頂きます。お楽しみ頂いている読者様にはご迷惑おかけしますが、引き続きよろしくお願い致します。 [続きを読む]
  • 199410【Jリーグクラブをつくろう〜SC鹿児島物語〜】
  •  1994年10月。宮原の加入したSCKは快進撃を見せていた。 W杯アジア最終予選で負った大怪我以来の実戦復帰となった宮原であったが、リハビリ中に鍛え上げたフィジカルという新たな武器をひっさげ、九州リーグという地域リーグで国内最高レベルのパフォーマンスを見せていた。 惜しくも九州リーグにおいては加入以前についていた勝ち点差をひっくり返すことができずに準優勝となったが、加入後無傷の4連勝。九州社会人 [続きを読む]
  • 199407⑥【Jリーグクラブをつくろう〜SC鹿児島物語〜】
  •  SCKは九州リーグ所属のチームであり、本来は自前の練習場など持っているはずのないカテゴリーであるが、恵まれた練習施設を保有していた。これは宮原の社会還元活動の一環によるものである。 90年代前半、スポーツを取り巻く環境はまだまだ未整備の時代であった。この環境を少しでも改善し、老若男女、様々なスポーツを楽しむ人達によりよい環境を提供したいという思いから作られたのが財団法人SCK(Sports Clab Kagoshima) [続きを読む]
  • 199407⑤【Jリーグクラブをつくろう〜SC鹿児島物語〜】
  •  河原と固く握手をした翌日、宮原は鹿児島白山ホテルで記者会見を開いた。 冒頭「私、宮原優太はシャルケを退団しました」という発言から始まった記者会見は重大発表の目白押しのような様相を見せることとなった。 まずシャルケ退団の理由を「自分が海外で経験したものを鹿児島、日本に還元したい」と説明した宮原は、そのために「鹿児島にJクラブを作り、鹿児島の人々の間に誇りと気概と連帯感を持ってもらい、鹿児島全体に活 [続きを読む]
  • 199407④【Jリーグクラブをつくろう〜SC鹿児島物語〜】
  •  この日、久々に帰省した河原は鹿児島の実家に居た。Jリーグでも有数の右ウイングの表情にはどこか疲れが垣間見えた。前日から続く『驚愕の連鎖』にいささか食傷気味であったためである。 第一報は昨夜。婚約者からの電話であった。スクープを取ったという彼女を祝福した側から、その内容に親友が絡んでいることを聞いた。内容は教えてもらえず、「見てからのお楽しみ」と濁され、更についでのように婚約者は転職を決めたと言っ [続きを読む]
  • 199407③【Jリーグクラブをつくろう〜SC鹿児島物語〜】
  •  河原勇は宮原優太の親友であり、中学、高校と共に戦ったチームメイトである。右ウイングを務め、俊足と左足のキック力を生かしたカットインからのシュートは何度もチームを勝利に導いた。宮原と共に清水中では全中優勝、鹿実では清水東との死闘の数々を潜り抜けた最も信頼する相棒であった。 高校卒業後はサンフレ広島の前身であるマスダサッカークラブに入団。現在はJリーガーとして活躍しており、パクスター監督率いる広島で [続きを読む]
  • 199407②
  •  7月中旬、鹿児島随一の繁華街ーー天文館にある喫茶店で宮原は一人の女性と会っていた。細身のスーツを纏い、長い黒髪が一つにまとめられている。瞳に浮かぶ知的な光が強い印象を与える鼻筋通った南国風美人の名は鈴木恵美。宮原の中学時代からの同級生であり、清水中サッカー部でマネージャーを務めていた女性である。 マネージャーとして選手を支えただけではなく、豊富なサッカー知識を生かした対戦相手の分析や練習内容の改 [続きを読む]
  • 199407①
  •  1994年7月初旬。鹿児島に降り注ぐ陽光は射すような痛みを伴っていた。ドイツより帰国した宮原はその痛みに懐かしさを感じつつ、目を細めた。半年前に負った大けがが嘘のように、その身には活力があふれていた。「変わらないな、この日射しは」 毎年シーズンが終わると宮原は故郷である鹿児島へと帰国する。帰省の際には家族や友人、自身が経営するサッカースクールの生徒達、母校の後輩達との触れ合いで英気を養うのが通例 [続きを読む]
  • 199310
  •  『ドーハの悲劇』という言葉をご存じであろうか? この言葉は日本サッカー史において2つの事象を指すことで知られている。 一般的には、日本が初のW杯出場を掴みかけていたアジア地区最終予選最終節、試合終了間際のロスタイムに被弾した一発によって全てを失った試合のことを指す。 1993年10月、最終予選に参加したチームはサウジアラビア、韓国、イラン、イラク、北朝鮮、日本の6チーム。前年ダイナスティカップを [続きを読む]
  • 1965〜1993
  •  二度目の人生が始まった日から数日後。宮原はこれからいかに過ごすかを考えていた。「まずは方針を決めるとして……やっぱプロに挑戦することだな。経済的にも成功したいけど、バブルにのっかれば儲ける方法なんていくらでもあるし、勉強もまぁなんとかなる……となると、あとはサッカーをどんだけ上手くなれるかだな」 父が35年ローンで建てた城の小さな庭で、宮原はサッカーボールを椅子代わり思いに耽っていた。 若かりし両 [続きを読む]
  • プロローグ
  •  それは宮原優太が終了間際の逆転ゴールに歓喜した瞬間だった。 このゴールで、悲願のJリーグ昇格は決まっただろうか? 競合クラブの結果も気になるが、まずはこの喜びを仲間達と喜び合おう。そう思い、両腕を高く突きだした瞬間。胸を重たい衝撃が突き上げた。視界が固まり、少しずつ景色が薄れてゆく。 脳に送られてくる情報はまず色を失い、端からぼろぼろと崩れていく。「見る」ことができなくなった宮原の前には、いつし [続きを読む]
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