ninben さん プロフィール

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ninbenさん: 歴史のアロハ
ハンドル名ninben さん
ブログタイトル歴史のアロハ
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/byouninben
サイト紹介文歴史ネタを気軽に楽しむブログです。人物伝・ミステリー・うんちくなど、一緒に楽しみましょう!
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供45回 / 186日(平均1.7回/週) - 参加 2017/02/07 14:55

ninben さんのブログ記事

  • 乱世をまとめた二代将軍 足利義詮 後編
  • 1358年、尊氏の死去に伴い義詮は征夷大将軍に任命される。九州では懐良親王が勢力を固め、中国地方では有力大名の大内氏・山名氏が北朝と南朝を天秤にかけているような情勢だったが、義詮は下手に兵を分けずに畿内の制圧から着手する。河内(大阪府東部)や紀伊(和歌山県)に出兵して赤坂城などを落とすが、懸念の内部分裂が足を引っ張る。1361年に細川清氏・畠山国清らと対立した仁木義長が南朝へ寝返り、その清氏も佐々 [続きを読む]
  • 乱世をまとめた二代将軍 足利義詮 前編
  • 足利義詮(1330−1367)幕府を創設した初代の父・尊氏。金閣寺を作った怪物政治家の三代・義満。この二人に挟まれた義詮は影が薄く、過小評価されがちだ。だが、父のやり残しをまとめ上げて幕府の基礎を固めた事と、それを義満へ受け継がせたことは彼の功績だし、手腕自体に問題があるような人物でもない。二代目は無能というステレオタイプで彼を計ると、歴史の面白さに気づけないままである。尊氏の嫡男として生まれた義 [続きを読む]
  • 権威に挑む反骨の将 高師直 後編
  • 尊氏邸を囲んだ師直は直義の身柄を要求する。さしもの事態に尊氏が仲介して両者は和議を結んだが、師直は収まらず直義を出家・隠居と追い込んで、讒言をした上杉重能・畠山直宗は流罪とし、その道中暗殺された。そして尊氏の嫡男・義詮を直義の後釜に据えて後見し、幕府の権勢を再び手にした。この一連の顛末をかつては「主君を主君とも思わぬ蛮行」としていたが、現在なら「正当防衛」という解釈だってあるだろう。また、師直の悪 [続きを読む]
  • 権威に挑む反骨の将 高師直 前編
  • 高師直(?−1351)南北朝を代表する武将で、足利尊氏の右腕として抜群の武功を立てる人物なのだが、今日に伝わる評判は、残酷で我儘な暴虐な男というものばかりが目立ってしまい、英雄としての師直は埋れてしまっている。その辺は「太平記」の記述によるところが大きいのだが、太平記はオーバーに脚色が入っているので(事実無根とは言わないまでも)悪評を無駄に大きくしてる点は同情できる。今回は少し彼の汚名を晴らしてお [続きを読む]
  • 鎌倉の悲しい初恋 大姫と木曾義高
  • 源頼朝の長女・大姫は引っ込み思案で大人しい少女だった。その上頼朝の長女とあっては周囲はかしこまった態度ばかりで、貴重品を扱うような余所余所しい友しかできない暮らしぶりだったのに想像は難くない。そんな大姫に6歳の頃、運命の出会いが訪れる。頼朝と敵対していた木曾義仲の嫡男・義高が和睦の証として婚姻同盟を結ぶためやってきて、その相手が大姫であった。義高は当時11歳で、同盟といえば聞こえはいいが、実質は人 [続きを読む]
  • 身分を越えた名家老 山田方谷 後編
  • 松山藩の藩札は当時乱発してしまっていたので極度のインフレ状態で、信用を失って紙くず同然の扱いであった。これを三年かけて正価で買い戻して、河原にそっくり積み上げて民衆が見守る中で燃やし尽くしてしまった。その上で、新札の発行を発表し、しかもその紙幣はいつでも金銀との交換を行うことを藩に義務付けると公言した。これを「火中一件」といい、民衆は一気に時代の変わり目を目撃することになった。藩札の信用は劇的に上 [続きを読む]
  • 身分を越えた名家老 山田方谷 前編
  • 山田方谷(やまだ ほうこく 1805−1877)幕末の頃になると財政難の藩が各地に出るようになり、改革の必要性に迫られた。その成功者として名が挙がるのが、薩摩・調所広郷、長州・村田正風、米沢・上杉鷹山・・・だが、経済手腕において彼らをしのぐほどの存在が埋れてしまっているので、光を当ててみたいと思う。名を山田方谷といい、農民から家老に出世し、藩の収入を10倍に拡大した人物だ。山田家は元は源氏の流れを [続きを読む]
  • 信長と楽市楽座 敗者の手法も踏襲した信長
  • 織田信長の先進性を示す政策として有名な「楽市楽座」(商人の組合である“座”による商売の独占を禁じ、誰でも自由に商売する権利を与えた)であるが、この政策は信長の発明品というわけではなく、実はこれより前に先駆けて行う大名がいたのだ。しかもその先人はいずれも信長に倒された大名であるのだ。その一人目は近江(滋賀県)の六角定頼で、1549年に発生したとされる。現存する記録ではこれが初の楽市楽座となる。六角家 [続きを読む]
  • 鎌倉幕府の知恵袋 大江広元
  • 大江広元(1148−1225)貴族の出ながら鎌倉幕府において重要な役割を果たした名参謀なのだが、頼朝の武将だと源義経や北条時政といった面々の印象が強いため、いまいちスポットの当たらない存在であるが、その功績は二人に勝るとも劣らない。大江家は代々学者の家であり、政務の研究はできるが官位は低いという家柄だ。広元はここから中原家という、やはり学者ながら官位は低い家に養子として入った。この辺の詳細は不明 [続きを読む]
  • 最初の戦国大名 朝倉孝景
  • 朝倉孝景(1428−1481)室町中期の武将で、応仁の乱に乗じて下剋上を成し、日本初の戦国大名として越前(福井県)に君臨する。文武に優れ、当時としては稀な合理的なセンスの持ち主であったらしく、慣習に縛られない優れた手腕を発揮している。朝倉氏は越前の守護大名である斯波氏の重臣という家柄で、孝景は早くに父を亡くしたので祖父の手で育てられる。下剋上の第一歩は1458年の長禄合戦で、これは守護大名・斯波義 [続きを読む]
  • 才気と野心の剛腕上皇 後鳥羽上皇
  • 後鳥羽上皇(1180−1239)鎌倉時代初期、幕府を倒そうとした承久の乱の首謀者。彼の敗北によって朝廷は完全に幕府に主導権を譲ることになるのだが、もしも後鳥羽の生きた時代が他の乱世なら、ひとかどの英雄であったかもしれないと思わされる人物なのだ。才気活発で、歌人としては「新古今和歌集」を完成させ、自身も和歌の名手であった。さらに後鳥羽の特筆すべき才は“武芸”である。弓・乗馬も一流で、長らく政治・祭祀 [続きを読む]
  • 仁者必ず勇あり 里見義堯 後編
  • 1564年、義堯は北条に攻め入る絶好の機会を得ることになる。北条方の太田康資が内通してきたのだ。これを受けて一万二千の軍を率いて北条と婚姻同盟を結んでいた千葉氏の領土に侵攻する。対する北条氏康は二万の軍を一族の綱成に与えて救援に向かわせた。これが第二次国府台合戦である。北条の先鋒を務める遠山綱景・富永直勝は康資の内通を察知できなかった責任を感じるあまり、功に焦って突出してしまう。義堯はこれを討ち取 [続きを読む]
  • 仁者必ず勇あり 里見義堯 前編
  • 里見義堯(1507−1574)激戦の関東地方において、安房(千葉県南部)の小領主の身ながら大勢力の北条との戦いで互角以上の立ち回りを見せた反骨の闘将。彼の代に里見家は最大の領土を獲得している。義堯は家督相続から波乱の幕を開ける。1533年、父・実堯が里見本家の当主である従兄の義豊に殺害されてしまう。諸説あるが、父が北条家と組んでクーデターを企んでいたものに機先を制したというのが有力だ。これを受けて [続きを読む]
  • 武田信玄と村上義清 川中島へのプロローグ
  • 武田信玄といえば、戦国時代で最強の軍との呼び声が高いが、その信玄が戦で二度も大敗を喫した相手が村上義清という武将だ。義清は1520年に家督を継ぎ信濃(長野県)の葛尾城主となる。信濃というところは小領主ばかりであったため、小競り合いが多く、盟を結ぶも破棄するも非常に煩雑で、大勢力として君臨する家が出にくい。その分、情報戦は重要であり、兵士の練度も高いという土地柄だ。そういう厳しい環境の中に義清は頭角 [続きを読む]
  • ハンデを乗り越えた将軍 徳川家重
  • 徳川家重(1712−1761)江戸幕府の九代将軍。八代将軍・吉宗の嫡男として生まれるが、彼は生来の脳性麻痺からくる言語障害を抱えながら将軍を勤め上げた異彩を放つ人物だが、その治世は江戸時代で最も安定していたという評価もあるほど優れていたようだ。如何にして彼はハンデを乗り越えたのだろうか、その実像に迫ってみよう。若い頃は自暴自棄になり、女色・酒に溺れていたようだ。その為幕閣からは不人気で、文武に長じ [続きを読む]
  • 汚れ役の名家老 調所広郷
  • 調所広郷(ずしょ ひろさと 1776−1849)明治維新の立役者である薩摩藩が、一世代前までは破産に等しい借金漬けだったことをご存じだろうか。もし、そのまま幕末を迎えていたら薩摩は何一つできずにいて、ひいては日本も全く別の形になっていたであろう。これをわずか二十年で立て直した人物が調所広郷である。彼の人生は覚悟をもって汚れ役に徹し、藩に命を捧げたものであった。八代藩主・島津重豪に才を見出され、下級 [続きを読む]
  • 無血開城の立役者 山岡鉄舟
  • 山岡鉄舟(1836−1888)江戸城の無血開城は日本が西欧に並べた大きな要因なので、トップ会談を行った勝海舟と西郷隆盛はそれだけでも偉人の資格有りとしてもいいくらいだ。この離れ業を成した影に、下交渉の段階で西郷の信を得た幕臣の存在が貢献していたことをご存じだろうか。それが山岡鉄舟その人である。鉄舟は旗本の小野高福の四男として生まれ、武術は剣の北辰一刀流・槍の忍心流槍術を極め、書道は弘法大師流入木道 [続きを読む]
  • 島津軍略の最高傑作 島津家久
  • 島津家久(1547−1587)戦国島津四兄弟の末弟。祖父に「軍法戦術に妙を得たり」と評され、その後も島津の武の代名詞として、兄・義弘と双璧をなした軍略のスペシャリスト。家久の戦ぶりで特筆すべきは、寡兵をもって敵将を逃さず討ち取ることが非常に多かったことだ。これは相手の退路なども視野に入れた戦術眼の鋭さが群を抜いていたためではないかと思われる。若いときに、兄・歳久に出自の低さを馬鹿にされた逸話がある [続きを読む]
  • 島津の守り神 島津歳久
  • 島津歳久(1537−1592)戦国島津四兄弟の三男。祖父から「始終の利害を察するの智計並びなく」と評された。祖父は他の三人の評もしており、見事に個性を言い当てているが、歳久に関してだけはちょっと違和感があって、むしろ損な役回りが多い生涯に見えるのだ。初陣は1554年、歳久17のときであった。兄の義久・義弘も共に初陣で、岩剣城の攻略を成功させている。また、大口堂崎の戦いでは、義久・義弘が敗走して命の [続きを読む]
  • 文武両道の鬼島津 島津義弘 後編
  • 朝鮮入りした義弘は大遅陣の雪辱を果たさんと、鬼神の働きを見せる。その中でも、飛び抜けているのが1598年の泗川の戦いで、五万を超す明・朝鮮の連合軍(二十万とする説もある)を相手に、七千で撃破するという驚異的な戦果を残した。緒戦は連合軍が島津家臣の川上忠実が守る泗川古城を落としたものの、忠実は隙をついて連合軍の食糧庫の焼き討ちを成功させ、連合軍に短期決戦を強いる状況を作った。その上で義弘は立花宗茂ら [続きを読む]
  • 文武両道の鬼島津 島津義弘 前編
  • 島津義弘(1535−1619)戦国時代に九州を席巻した島津四兄弟の二男。祖父から「雄武英略を以て傑出する」と評され、猛将として苛烈な戦いぶりを見せた。後に“鬼島津”と異名をとる。初陣は1554年、兄弟と共に岩剣城を攻略したのを皮切りに、数々の戦場で活躍する。若い頃の戦場は主に寡兵をもって大軍をしのぐような苦しい立ち回りが多かった。そんな義弘の武名を一挙に轟かせた大勝利が1572年の木崎原の戦いであ [続きを読む]
  • 義経の影にされた名将 源範頼
  • 源範頼(1150−1193?)いつの世でも主人公を輝かせるために物語の演出でより地味に描かれてしまう人物というものはつきものだが、それが高じて無能であったかのように世間に思われる人物というものがいる。範頼はその最たる人物ではないだろうか。源義朝の六男として、遠江(静岡県)で生まれ育つ。頼朝の弟、義経の兄という立場になる。資料が乏しいため、頼朝と立ち上がった時期の詳細は不明だが、はじめから参戦したの [続きを読む]
  • 九州の覇者 島津義久 後編
  • 九州統一まであと一歩のところで秀吉の停戦命令を受けた義久は苦悩する。そして黙殺を選択した。秀吉が九州へ兵を出す前に統一を達成してから、豊臣家への臣従の姿勢を示して九州探題の地位を保証してもらう・・・ここに望みをかけるが、大友軍最後の猛将・高橋紹運の死をかけた抵抗で時間切れとなり秀吉軍と衝突することになった。緒戦の戸次川の戦いでは勝利するも、二十万余りの秀吉の大軍の前には為す術なく、抗戦を主張する家 [続きを読む]
  • 九州の覇者 島津義久 前編
  • 島津義久(1533−1611)島津家十六代当主にして、島津の最盛期を築いた人物だ。島津家はちょっと不思議な家で、彼以外にもやたら優秀な人物を多く輩出していたり、その上結束は強く、戦場でも寡兵で大金星を挙げる逸話が非常に多い。なにか教育に優れた物があるのだろうか、義久も例にもれず英主として名高い。彼の才を祖父の忠良は「総大将たるの材徳」と評した。義久の大将の資質は若い頃のこんな逸話からも感じられる。 [続きを読む]
  • 清盛が築いた幻の都・福原 後編
  • 清盛の計画では当初、福原は仮の住処であり、本命の造営の地は和田というところであった。これが挫折したために福原で妥協したというのが結論なのだ。では、その和田京のイメージと、造営過程で起きた事柄を追っていくことで清盛の狙いを紐解いてみることとする。近年の研究で、和田京の造営は貿易港である大輪田泊を含む説が有力となっている(図1参照)。従来の説は大輪田泊を遠くにおいていたために、前編で触れた動機3が軽視 [続きを読む]