ninben さん プロフィール

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ninbenさん: 歴史のアロハ
ハンドル名ninben さん
ブログタイトル歴史のアロハ
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/byouninben
サイト紹介文歴史ネタを気軽に楽しむブログです。人物伝・ミステリー・うんちくなど、一緒に楽しみましょう!
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供26回 / 140日(平均1.3回/週) - 参加 2017/02/07 14:55

ninben さんのブログ記事

  • 文武両道の鬼島津 島津義弘 後編
  • 朝鮮入りした義弘は大遅陣の雪辱を果たさんと、鬼神の働きを見せる。その中でも、飛び抜けているのが1598年の泗川の戦いで、五万を超す明・朝鮮の連合軍(二十万とする説もある)を相手に、七千で撃破するという驚異的な戦果を残した。緒戦は連合軍が島津家臣の川上忠実が守る泗川古城を落としたものの、忠実は隙をついて連合軍の食糧庫の焼き討ちを成功させ、連合軍に短期決戦を強いる状況を作った。その上で義弘は立花宗茂ら [続きを読む]
  • 文武両道の鬼島津 島津義弘 前編
  • 島津義弘(1535−1619)戦国時代に九州を席巻した島津四兄弟の二男。祖父から「雄武英略を以て傑出する」と評され、猛将として苛烈な戦いぶりを見せた。後に“鬼島津”と異名をとる。初陣は1554年、兄弟と共に岩剣城を攻略したのを皮切りに、数々の戦場で活躍する。若い頃の戦場は主に寡兵をもって大軍をしのぐような苦しい立ち回りが多かった。そんな義弘の武名を一挙に轟かせた大勝利が1572年の木崎原の戦いであ [続きを読む]
  • 義経の影にされた名将 源範頼
  • 源範頼(1150−1193?)いつの世でも主人公を輝かせるために物語の演出でより地味に描かれてしまう人物というものはつきものだが、それが高じて無能であったかのように世間に思われる人物というものがいる。範頼はその最たる人物ではないだろうか。源義朝の六男として、遠江(静岡県)で生まれ育つ。頼朝の弟、義経の兄という立場になる。資料が乏しいため、頼朝と立ち上がった時期の詳細は不明だが、はじめから参戦したの [続きを読む]
  • 九州の覇者 島津義久 後編
  • 九州統一まであと一歩のところで秀吉の停戦命令を受けた義久は苦悩する。そして黙殺を選択した。秀吉が九州へ兵を出す前に統一を達成してから、豊臣家への臣従の姿勢を示して九州探題の地位を保証してもらう・・・ここに望みをかけるが、大友軍最後の猛将・高橋紹運の死をかけた抵抗で時間切れとなり秀吉軍と衝突することになった。緒戦の戸次川の戦いでは勝利するも、二十万余りの秀吉の大軍の前には為す術なく、抗戦を主張する家 [続きを読む]
  • 九州の覇者 島津義久 前編
  • 島津義久(1533−1611)島津家十六代当主にして、島津の最盛期を築いた人物だ。島津家はちょっと不思議な家で、彼以外にもやたら優秀な人物を多く輩出していたり、その上結束は強く、戦場でも寡兵で大金星を挙げる逸話が非常に多い。なにか教育に優れた物があるのだろうか、義久も例にもれず英主として名高い。彼の才を祖父の忠良は「総大将たるの材徳」と評した。義久の大将の資質は若い頃のこんな逸話からも感じられる。 [続きを読む]
  • 清盛が築いた幻の都・福原 後編
  • 清盛の計画では当初、福原は仮の住処であり、本命の造営の地は和田というところであった。これが挫折したために福原で妥協したというのが結論なのだ。では、その和田京のイメージと、造営過程で起きた事柄を追っていくことで清盛の狙いを紐解いてみることとする。近年の研究で、和田京の造営は貿易港である大輪田泊を含む説が有力となっている(図1参照)。従来の説は大輪田泊を遠くにおいていたために、前編で触れた動機3が軽視 [続きを読む]
  • 清盛が築いた幻の都・福原 前編
  • 平清盛が死の直前に造営した都・福原をご存じだろうか?清盛は政権を取ってから、圧政を敷いたイメージが強いため、この遷都も平家の保身の為であるという見解で評価されることが多いのだが、実はこの福原、もしも都として機能していたら日本は大貿易国家として、もっと海外との交流盛んな先進国として栄えた未来があったかもしれないのだ。まずは、福原遷都の動機とされる説をまとめておく 1・寺院勢力と距離を置くため平家打倒 [続きを読む]
  • 大友を支えた雷神 立花道雪 番外編
  • 前二回では書ききれかったが、立花道雪という人は、現代にも通じる人生訓や逸話が非常に多いことでも有名である。そんな中から、いくつか紹介して、この人物伝の締めくくりをしようと思う 1・大友家が没落した後にも、道雪を慕った家臣その代表とされる人物が、重臣であった薦野増時だ。増時は恩賞として道雪の隣に墓所を置き、死後も道雪の傍にあることを望んで許されていた。関ヶ原の戦いの戦後処理として立花氏の改易に伴 [続きを読む]
  • 大友を支えた雷神 立花道雪 後編
  • 道雪は主に九州北部を主戦場とし、1557年に秋月文種を討伐、さらに陶晴賢の死去によって主を失った旧大内領を接収して筑前(福岡県)の大半を大友家に組み入れ、最大の版図を築くことになる。その後は毛利家との一進一退を繰り返したが、ここにまたしても宗麟の“ワガママ”に起因した事件で道雪らに危機が訪れる。大友家の重臣・高橋鑑種の寝返りが起きたのだ。動機は諸説あるが・・・曰く「宗麟のキリシタン改宗を反対した兄 [続きを読む]
  • 大友を支えた雷神 立花道雪 前編
  • 立花道雪(1513−1585)九州の戦国時代を代表する名将だが、実はこの立花道雪という名は本人は使っておらず、“戸次鑑連”という名で過ごしているが(真田幸村のように通称が広く愛されているので)ここでは道雪で通す。1513年、道雪は豊後(大分)大野郡に城を構えた大友氏の一族・戸次親家の次男として生まれる。母は早くに亡くなり、父も病床にあったので、継母に育てられた。そして、14の頃、元服前にも拘らず志 [続きを読む]
  • 真の勝者は?厳島の戦いの謎
  • 厳島の戦いは、戦国時代を代表する名勝負として、桶狭間の合戦や川中島の戦いなどと並び、現代でも語り草になることの多い合戦だが、この戦には一つ大きな“謎”が残っている。厳島の戦いだけでも、書き出すと結構な量になるので、かいつまんで説明すると毛利元就・四千VS陶晴賢二万の合戦元就は数々の謀略を仕掛けて、陶軍を狭い厳島に誘い込むことに成功毛利軍と村上水軍(晴賢と海上利権で係争中だった)が連合して、陶軍を包 [続きを読む]
  • 戦場のメリークリスマス 1566
  • 宗教の力が凄いなと思わせる逸話として、「クリスマスは休戦しよう」という習慣がある。1914年・第一次世界大戦でのイギリス・ドイツ間での出来事だ。他にも、ベトナム戦争の時にもあったという。こうした例は欧米のものかと思っていたが、意外にも戦国時代の日本にも存在した記録が残っている。1566年、三好三人衆と松永久秀軍がにらみ合いをしていた最中のことらしい。どちらも堺の町に大軍を連れて対陣していたのだが、 [続きを読む]
  • 不屈の若武者 山中鹿之助 後編
  • 月山富田城の落城後、鹿之助は浪人となっておりこの間の足取りははっきりしていないが、おそらく武芸よりも、将としての采配の学びをしていたのではないかと考えられている。そして1569年、僧となっていた尼子勝久を新当主と仰ぎ尼子再興軍を挙兵する。挙兵の噂を聞きつけ、5日のうちに尼子旧臣・三千が集まり新山城を攻略して新たな拠点とした。この勢いをかって、翌月には悲願の月山富田城奪還に向かい、落城寸前に追い込む [続きを読む]
  • 山陰の麒麟児 山中鹿之助
  • 山陰の麒麟児 山中鹿之助 山中鹿之助(1545?−1578)生涯通じて大勢力の毛利家に挑戦し続けた山陰の武将。生年も家系もハッキリしておらず諸説あるのだが、尼子家の家老という家柄に生まれるものの父が早世したため、貧しい家庭だったという。女手一つで育てられた鹿之助ではあったが武芸に秀でており、10歳の頃には弓・乗馬をマスター、13歳にして敵の首級を上げる見事な武者へと成長した。16歳には毛利方の [続きを読む]
  • 1両・1石 今だといくら?
  • 1両も1石も、時代劇を見るとよく出てくる単位。雰囲気で「このくらいの金額?」と想定して劇の続きに意識を向けますが、実際のところピンと来てないままでモヤッとするので一つ調べてみることに。まず、1両=1石はほぼ同価値ということらしい。そして、安土桃山から江戸後期までの約200年程価格がほとんど変動していない(!)鎖国のからみもあるのでしょうが、そこも驚きでしたね。では、いろんな算出の仕方があるので代表 [続きを読む]
  • 最後のサムライ 河合継之助 後編
  • 1867年、中央政局が大きく動く。10月に幕府が大政奉還を行い、12月は王政復古を発して幕府が廃止となる。そして1月には戊辰戦争が開戦。新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見で戦闘を開始した。この合戦で幕府軍が敗北したのを受け、諸藩は決断を迫られることになる。新政府か旧幕府か、一方の手を取り一方を見捨てることがもはや必然とされたこの状況下で、継之助は第三の道「中立」に活路を見出す。最先端の政治を学ぶ継之助は [続きを読む]
  • 最後のサムライ 河合継之助 前編
  • 最後のサムライ 河合継之助 前編 河合継之助(1827−1868)長岡藩(現在の新潟市・長岡市)の中級武士の長男として生まれ、腕白で負けず嫌いな少年であったらしい。12歳頃には剣術・馬術などの師匠たちと流儀や作法の考えが合わず、自己流を貫いたために厄介払いされた逸話が残る。そんな彼が影響を受けた学問は、数々の幕末の偉人にも影響を与え、知行合一(=知識と実践が一体であるべし)を重んじた「陽明学」 [続きを読む]
  • 最後のサムライ 河合継之助 前編
  • 最後のサムライ 河合継之助 前編 河合継之助(1827−1868)長岡藩(現在の新潟市・長岡市)の中級武士の長男として生まれ、腕白で負けず嫌いな少年であったらしい。12歳頃には剣術・馬術などの師匠たちと流儀や作法の考えが合わず、自己流を貫いたために厄介払いされた逸話が残る。そんな彼が影響を受けた学問は、数々の幕末の偉人にも影響を与え、知行合一(=知識と実践が一体であるべし)を重んじた「陽明学」 [続きを読む]
  • 三城七騎籠 七対千五百の攻城戦 後編
  • 後藤軍は兵を分け、三拠点を同時攻撃する。北の城は後藤貴明の七百、西に位置する本城は松浦勢五百、南の城は西郷勢三百。これに対し、純忠はまず偽装工作を始める。いくらなんでも正規兵がわずか七人であることが敵に看破されては話にならない。旗を多く立て、婦女子にも装備を与え、人の気配を演出するため、バタバタと駆け回るよう指示した。そして、合図あれば登ってくる敵に石や灰を浴びせるよう申し合わせて、各所へ配備した [続きを読む]
  • 三城七騎籠 七対千五百の攻城戦 後編
  • 後藤軍は兵を分け、三拠点を同時攻撃する。北の城は後藤貴明の七百、西に位置する本城は松浦勢五百、南の城は西郷勢三百。これに対し、純忠はまず偽装工作を始める。いくらなんでも正規兵がわずか七人であることが敵に看破されては話にならない。旗を多く立て、婦女子にも装備を与え、人の気配を演出するため、バタバタと駆け回るよう指示した。そして、合図あれば登ってくる敵に石や灰を浴びせるよう申し合わせて、各所へ配備した [続きを読む]
  • 三城七騎籠 七対千五百の攻城戦 前編
  • 戦国時代の醍醐味の一つに「逆転劇」というものがあると思う。有名な桶狭間の合戦はその代表例だろう。本稿で紹介するのもその一つだが、その兵力差は圧倒的だ。なにせ、七人(小者や婦女子を含めて八十はいたらしいが)で千五百を撃退したというのだから驚きだ。 1572年7月、三城(長崎県大村市)の領主・大村純忠はかねてより敵対していた後藤貴明の軍の急襲を受ける。逆転劇を演ずるくらいだから、純忠という人は [続きを読む]
  • 三城七騎籠 七対千五百の攻城戦 前編
  • 戦国時代の醍醐味の一つに「逆転劇」というものがあると思う。有名な桶狭間の合戦はその代表例だろう。本稿で紹介するのもその一つだが、その兵力差は圧倒的だ。なにせ、七人(小者や婦女子を含めて八十はいたらしいが)で千五百を撃退したというのだから驚きだ。 1572年7月、三城(長崎県大村市)の領主・大村純忠はかねてより敵対していた後藤貴明の軍の急襲を受ける。逆転劇を演ずるくらいだから、純忠という人は [続きを読む]
  • 瀬戸内のジャンヌダルク 鶴姫
  • 大祝鶴(おおほうり つる 1526?−1543?)愛媛県今治市の離島・大三島は昔から大山祇神社があったため「神の島」と呼ばれ、殺生を忌むために漁も行われず、神聖な島として地域の人々に畏れられていた。この島で大宮司を務める大祝安用の娘として生を受ける。幼い頃から顔立ち整い、体つきも大きく、男勝りの勇気をもっていたために父からも可愛がられ、武芸・兵法を習いつつ成長する。そんな彼女を島の民は明神の化身だ [続きを読む]
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  • 大祝鶴(おおほうり つる 1526?−1543?) 愛媛県今治市の離島・大三島は昔から大山祇神社があったため「神の島」と呼ばれ、殺生を忌むために漁も行われず、神聖な島として地域の人々に畏れられていた。この島で大宮司を務める大祝安用の娘として生を受ける。幼い頃から顔立ち整い、体つきも大きく、男勝りの勇気をもっていたために父からも可愛がられ、武芸・兵法を習いつつ成長する。そんな彼女を島の民は明神 [続きを読む]
  • はじめまして
  • 歴史好きおじさん、念願のブログデビューです!歴史のうんちくや、ミステリー、人物伝など、いろいろなネタを一緒に楽しんでいただければと思います。お付き合いよろしくお願いします!最初にご理解いただきたいのは、個人の見解たっぷり&やや飛躍した解釈もあると思いますが、「歴史を勉強する」というよりは「歴史を楽しむ」を重視していますので、「こういった見方もあるね〜」くらいに思っていただければ幸いです。ブログタイ [続きを読む]