気ままに何処でも万葉集! さん プロフィール

  •  
気ままに何処でも万葉集!さん: 気ままに何処でも万葉集!
ハンドル名気ままに何処でも万葉集! さん
ブログタイトル気ままに何処でも万葉集!
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo
サイト紹介文千年以上も前の出来事を直に見聞きするような…なんと万葉集は謎だらけ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供79回 / 208日(平均2.7回/週) - 参加 2017/02/09 23:12

気ままに何処でも万葉集! さんのブログ記事

  • 中皇命の運命を万葉集は物語る
  • 中皇命の愛と決意万葉集巻一の冒頭を見ると、雄略天皇・舒明天皇の歌に続いて「中皇命が間人連老をして舒明天皇(629〜641年在位)に献上させた歌」となっています。この時代、中皇命と呼ばれるべき女性は、間人皇女以外にはいないそうです。中皇命とは、皇位継承の玉璽を預かっている重要な立場の女性のことです。天皇に近い女性が選ばれます。間人皇女は孝徳天皇の皇后に立ちました。ですから、孝徳帝崩御の後に「中皇命」 [続きを読む]
  • 間人皇后が間人に逃れた理由(1)
  • 間人(たいざ)という町を知っていますか?日本海側の漁師町です。そこで行われるお祭りは、「間人皇后をカクマッタことを誇りに思い、そのことを忘れないために」続けているそうです。間人(はしひと)皇后とは穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后なのだそうです。蘇我物部戦争(仏教を取り入れるか否かを争ったという戦争)の難を逃れた穴穂部間人皇后を間人(たいざ)の人々がお世話した、という伝承。このことを誇りに思って [続きを読む]
  • 万葉集冒頭歌・雄略天皇とは何者か?
  • 万葉集は何故か雄略天皇の歌で始まる雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)允恭天皇の第五皇子允恭天皇の長男は木梨軽皇子兄の安康天皇も雄略天皇も、長男の皇太子・木梨軽皇子が生きていれば皇位には着けませんでしたね。(埼玉県行田市の稲荷山古墳)泊瀬朝倉宮御宇天皇・大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)といえば、埼玉古墳群の稲荷山鉄剣で有名な天皇ですね。「辛亥年」と象嵌された稲荷山古墳の鉄剣によると [続きを読む]
  • 倭は国のまほろば・古事記・倭建命の国偲び歌
  • 平群を詠んだ古代の英雄・倭建命平群で少し寄り道しましょう。奈良県平群町には長屋王墓だけでなく、様々な伝承があります。聖徳太子ゆかりの信貴山や、松永久秀の信貴山城もありますね。倭建の国偲び歌・ヤマトは国のまほろば父の都は纏向の日代の宮です。命尽きる時、偲んだのはヤマトです。そして、平群の熊白樫の葉をよみました。なぜ平群の熊白樫なのでしょう。この人は、如何なる星の下に生れたのでしょう。まず、小碓命は少 [続きを読む]
  • 長屋王に殉じたのか、丈部龍麻呂!大伴三中、挽歌を詠む
  • 長屋王事件の年・神亀六年=天平元年の己巳丈部龍麻呂は長屋王の賜死に殉じたのでしょうか万葉集巻三「挽歌」には、気になる歌が並んでいます「神亀六年己巳(つちのとみ)左大臣長屋王賜死の後倉橋女王の作る歌一首」と、「膳部王を悲傷する歌一首」に並んで、「天平元年己巳、摂津国班田の史生丈部(はせつかべ)龍麻呂自ら経(わな)きて死にし時に、判官(じょう)大伴宿祢三中(みなか)が作る歌一首併せて短歌」があります。 [続きを読む]
  • 武市皇子の男子・長屋王の悲劇・その2
  • 高市皇子の御子・長屋王事件を悲しむ歌神亀六年二月、長屋王の理不尽な賜死を嘆いたのは、残された家族でした。長屋王と共に死を強要されたのは吉備内親王とその子供たちで、他の女性との子ども達は残されました。とはいえ、ゆくゆくは有力男子の命を断たれていくのですが…では、長屋王の死を傷む歌を詠みましょう。巻三「神亀六年己巳、左大臣長屋王が死を賜りし後に倉橋部女王の作れる歌一首441 大皇(おおきみ)の命かしこ [続きを読む]
  • 高市皇子の男子・長屋王の悲劇
  • 長屋王事件の悲哀と、そのあとさき万葉集には長屋王は無実だったと暗示されている巻三の「長屋王の故郷の歌一首」268 吾背子が古家の里の明日香にはちどり鳴くなり嬬待ちかねて「我が父の故郷である明日香には沢山の鳥が鳴いている。その声は妻を待ちかねているようだ。まるで古の都の人々の霊魂が新京へ去った人々の帰りを待ちかねているように聞こえる」この歌の前に、「志貴皇子の御歌一首」が置かれています。267 むさ [続きを読む]
  • 古代天皇家と饒速日と天香久山
  • 天香具山と饒速日命と天皇家前回紹介した三人の天皇御製歌に、天香具山が詠まれていました。さて、天香具山とは如何なる山なのでしょう。香具山は藤原宮の東に位置する山で、万葉集巻一「藤原宮御井の歌」にも『日本の青香久山は日経(ひのたて)の大御門に 春山としみさび立てり』と詠まれています。畝傍山は日の横の大御門、耳成山は背友(そとも北)の大御門、影友(かげとも南)の大御門には吉野山、このように神山が都を守る [続きを読む]
  • 天の香久山を詠んだ三人の天皇
  • 天の香久山を詠んだ三人の天皇香具山は小さな山です。神代より信仰されていたようで、ヤマト攻略の時に香具山の土が使われました。香具山は藤原宮の東に在ります。藤原宮の北には耳成山。耳成山は藤原宮のシンボルでした。なにしろ「耳に成す山」なのですから、〇〇ミミのように「耳」のつく大王が織られましたね。耳成山の麓に住む王こそ「大王」だったと云うことです。さて、藤原宮の西には畝傍山でしたね。畝傍・耳成・香久山が [続きを読む]
  • 大巳貴こそ天地創造の神
  • 欅が素晴らしい府中の大國魂神社の参道です。創立は景行天皇四十一年とされ、当時は武蔵国造が代々奉仕しましたが、大化改新によって武蔵国府がこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになったと略誌に書かれています。大國魂神社のご祭神は大国魂大神ですが、この大神は出雲の大国主神と御同神です。大昔、武蔵国を開き、人民に衣食住の道を教え、また医療法やまじないの術も授けられたと伝わります。大國魂神 [続きを読む]
  • 悲しみの王妃・祟り神となる(2)
  • 十市皇女は祟り神となった十市皇女は天武天皇と額田王の間に生まれた皇女です。そして、天智天皇の一子・大伴皇子の妃になり葛野王をもうけました。しかし、壬申の乱で夫は破れて自経しました。乱後は、敵将の高市皇子の下に嫁ぎ、ついに宮中で突然死(自死)に至りました。天武七年(678)当時の人は悲運の王妃の彷徨える霊魂を畏れたと思います。それが比賣塚の伝承と重なったと思うのです。何時の時代か、比賣は十市皇女とな [続きを読む]
  • 悲しみの王妃、祟り神となる?
  • 悲しみの王妃、祟り神となる?この小さな神社のご祭神は十市皇女、天武天皇と額田王の間に生まれた長女になります。比賣神社に十市皇女が鎮座されたのは、昭和五十六年五月九日となっています。脇座には、市杵嶋比賣が寄り添っています。市杵嶋比賣は、女神として十市皇女の周りを祓い清めているのでしょう。この小さな神社は、奈良の新薬師寺の門前に在ります。新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が建立した寺院です [続きを読む]
  • 衣通姫・軽太郎皇女は内部告発する
  • 衣通姫は内部告発する・君が行きけ長くなりぬ木梨軽皇子は仁徳天皇と磐姫皇后の孫で、允恭宇天皇(伊邪本和気命)の長子です。母は応神天皇(品陀和気命)の御子で大郎子(意富本杼王)の妹・大中津比賣です。仁徳天皇の後は、子の履中天皇(伊邪本和気命)、弟の反正天皇(水歯別命)、弟の允恭天皇と兄弟で皇位を継承したとされています。履中(64歳)反正(60歳)允恭(78歳)と長生きでしたので、木梨軽皇子が姦通の嫌疑をかけ [続きを読む]
  • 難波天皇の御代を寿ぐ難波津の歌
  • 難波天皇の御代を寿いだ歌難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花この歌は、現代では「競技かるた」の開始時に詠まれることが通例となっているそうです。難波津に咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花また、「いろはにほへと」のように書道の手習いのはじめにも使われた歌で、徳島県の観音寺遺跡から万葉仮名で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈」と記された7世紀のものと思われる習書木簡が出土しました。他に [続きを読む]
  • 仁徳天皇と鹿・政敵の暗殺を意味するのか
  • 雄鹿が鳴かなかったのは、すでに殺されていたから万葉集の巻九「紀伊国行幸十三首」の編集を思い出しますと、「鹿が鳴かなかったのは既に殺されていたからだ」という暗示になっていました。「鹿の死は政変」であったとも読めました。十二首目の「木の国の昔さつおのなり矢持ち 鹿とり靡べし坂の上にぞ或る」は、まさに鹿を弓で殺したことが辺りを平定したことになるという歌でした。万葉集巻九の冒頭歌「ゆふされば小掠の山に臥す [続きを読む]
  • 難波宮の物語
  • 難波宮の隣には倉庫群がありました難波宮は物流の中心に作られたのです。その難波宮を造営した大王は、経済を握ることが大事だとわかった人だったのですね。難波宮の大きな宮殿は全国から集まる地方の首長の目を奪ったことでしょうし、あまたの役人たちは「大化改新」の詔の理想を実現させるために仕事に励んでいたことでしょう。大化改新(645)は、蘇我氏本家を滅ぼすことで、人民を公民とし、国に財政の基本を国家に取り込む [続きを読む]
  • 仁徳天皇が難波天皇ですか?
  • 難波高津宮御宇天皇の代の歌万葉集事典では「難波天皇」は、「仁徳天皇。孝徳天皇とも」と書かれています。万葉集の巻二は、「相聞」の部立に始まり、『難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 諡を仁徳天皇』と、巻一と同じように「○○天皇の代」という歌が詠まれた時期を示す表題が掲げられています。そして、巻二の冒頭歌ですが、「磐姫皇后天皇を思いて作らす歌四首」という題があります。難波高津御宇天皇の皇后は磐姫ですから、 [続きを読む]
  • 難波宮に住んだ難波天皇と皇后
  • 難波宮に暮らした難波天皇と皇后難波宮は謎だらけですね。大阪城の南に広がる難波宮は、難波長柄豊崎宮とされています。孝徳天皇の宮であり、天武天皇が副都とした宮であり、文武天皇が行幸し、聖武天皇が後期難波宮を造営しました。孝徳天皇の前期難波宮は掘立柱の建物で瓦は葺かれていませんが、聖武天皇の後期難波宮は瓦葺きです。双方の宮殿は、ほぼ同じ位置と規模で立て直されましたので、発掘された遺構が重なっています。双 [続きを読む]
  • 玉津島神社のご祭神
  • 玉津島神社のご祭神玉津島神社の創建は上古ということで、古いのです。覆殿が建てられたので、この本殿のお姿を見ることはできません。ご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)、明光浦靈(あかのうらのみたま)の四柱です。千木を見ますと、確かに女性の神様のものですね。稚日女尊…伊弉諾・伊弉冉尊の御子で、天照大神の妹、別名を丹生都比女神 [続きを読む]
  • 紀伊国・玉津島神社の花影に
  • 紀伊国の玉津島神社の春紀伊国に旅してきました。紀伊国は目に入る風景の何処も山桜が咲き、今まで旅した土地に比べても決して引けはとりません。沖縄以外、ほとんどの県を旅したわたしが思ったのです。もちろん春の東北の芽吹きや北上川の岸辺も、日本海の春雷も素晴らしかったけれど、ヤマザクラが何気なく咲いた紀伊路の春には心惹かれました。やっと、以前から訪ねたいと思っていた玉津島神社に行きました。玉津島神社は桜の花 [続きを読む]
  • 59藤原不比等とは何者か
  • 藤原不比等とは何者か? その2前回、藤原不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰とされているのか、を少々書きました。「興福寺縁起」は、鏡王女(かがみのおほきみ)を不比等の母だとしました。その可能性がないわけではありませんが…。しかし、万葉集事典では「母は車持国子君女(くるまもちのくにこのきみのむすめ)」としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょうか。が、 [続きを読む]
  • 58鎌足の二子。藤原不比等の出自
  • 藤原鎌足の二子、藤原不比等とは何者か?不比等(ふひと)は、天武天皇(40代天皇)の嬪(ひん)であった異母妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(まろ)(695生)をもうけています。天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね? 万葉集には天武帝と藤原夫人のやり取りした歌が載せられていました。天武天皇(四十代天皇)から藤原(ふ [続きを読む]
  • 57天智天皇を信じた藤原鎌足
  • 天智天皇を信じた中臣鎌足前回紹介した阿武山古墳が藤原鎌足の墓だとしたら、おかしな事実がたくさん出てきます。鎌足の墓は談山神社に移されたというのは、嘘になるのでしょうか。阿武山古墳の被葬者は玉枕の上に頭を乗せ、顔を織冠で覆っていたのですから只者ではありません。60歳前くらいの男性で、骨折の後が残っていたそうですから、没年の蒲生野の薬狩の宴の時落馬してそれが死亡の原因だったのではないかと、「藤原鎌足と [続きを読む]
  • 56天智天皇が信じた藤原鎌足
  • 天智天皇を信じた藤原鎌足(「藤原鎌足と阿武山古墳」吉川廣文館の挿入写真です。中央が阿武山古墳、鎌足の墓かも?)この古墳が大きく新聞等に取り上げられたのは、金糸で刺繍されたらしい織冠を頭に置き、玉枕を枕に六十歳前くらいの男性が乾漆棺に眠っていたからでした。新聞では鎌足の墓が見つかったという報道でした。日本書紀によると織冠を授けられた人物は二人しかいません。一人は百済の王子で白村江戦の前に百済に戻りま [続きを読む]
  • 55草壁皇子のために額田王が建てた寺
  • 額田王は草壁皇子のために寺を建立した壬申の乱後、近江京で天智天皇に仕えていた額田王は、夫(大友皇子)を亡くした娘と明日香に帰って来ました。飛鳥で額田王はどんな生活をしていたのでしょうか? (額田王が弓削皇子に応えた歌・古を恋しく思う鳥は、それは霍公鳥でしょう。その鳥はきっとわたしが昔を懐かしく思うように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。)天武七年(678)十市皇女の突然死で額田王は苦しんだと思います [続きを読む]