気ままに何処でも万葉集! さん プロフィール

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気ままに何処でも万葉集!さん: 気ままに何処でも万葉集!
ハンドル名気ままに何処でも万葉集! さん
ブログタイトル気ままに何処でも万葉集!
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo
サイト紹介文千年以上も前の出来事を直に見聞きするような…なんと万葉集は謎だらけ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供67回 / 131日(平均3.6回/週) - 参加 2017/02/09 23:12

気ままに何処でも万葉集! さんのブログ記事

  • 衣通姫・軽太郎皇女は内部告発する
  • 衣通姫は内部告発する・君が行きけ長くなりぬ木梨軽皇子は仁徳天皇と磐姫皇后の孫で、允恭宇天皇(伊邪本和気命)の長子です。母は応神天皇(品陀和気命)の御子で大郎子(意富本杼王)の妹・大中津比賣です。仁徳天皇の後は、子の履中天皇(伊邪本和気命)、弟の反正天皇(水歯別命)、弟の允恭天皇と兄弟で皇位を継承したとされています。履中(64歳)反正(60歳)允恭(78歳)と長生きでしたので、木梨軽皇子が姦通の嫌疑をかけ [続きを読む]
  • 難波天皇の御代を寿ぐ難波津の歌
  • 難波天皇の御代を寿いだ歌難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花この歌は、現代では「競技かるた」の開始時に詠まれることが通例となっているそうです。難波津に咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花また、「いろはにほへと」のように書道の手習いのはじめにも使われた歌で、徳島県の観音寺遺跡から万葉仮名で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈」と記された7世紀のものと思われる習書木簡が出土しました。他に [続きを読む]
  • 仁徳天皇と鹿・政敵の暗殺を意味するのか
  • 雄鹿が鳴かなかったのは、すでに殺されていたから万葉集の巻九「紀伊国行幸十三首」の編集を思い出しますと、「鹿が鳴かなかったのは既に殺されていたからだ」という暗示になっていました。「鹿の死は政変」であったとも読めました。十二首目の「木の国の昔さつおのなり矢持ち 鹿とり靡べし坂の上にぞ或る」は、まさに鹿を弓で殺したことが辺りを平定したことになるという歌でした。万葉集巻九の冒頭歌「ゆふされば小掠の山に臥す [続きを読む]
  • 難波宮の物語
  • 難波宮の隣には倉庫群がありました難波宮は物流の中心に作られたのです。その難波宮を造営した大王は、経済を握ることが大事だとわかった人だったのですね。難波宮の大きな宮殿は全国から集まる地方の首長の目を奪ったことでしょうし、あまたの役人たちは「大化改新」の詔の理想を実現させるために仕事に励んでいたことでしょう。大化改新(645)は、蘇我氏本家を滅ぼすことで、人民を公民とし、国に財政の基本を国家に取り込む [続きを読む]
  • 仁徳天皇が難波天皇ですか?
  • 難波高津宮御宇天皇の代の歌万葉集事典では「難波天皇」は、「仁徳天皇。孝徳天皇とも」と書かれています。万葉集の巻二は、「相聞」の部立に始まり、『難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 諡を仁徳天皇』と、巻一と同じように「○○天皇の代」という歌が詠まれた時期を示す表題が掲げられています。そして、巻二の冒頭歌ですが、「磐姫皇后天皇を思いて作らす歌四首」という題があります。難波高津御宇天皇の皇后は磐姫ですから、 [続きを読む]
  • 難波宮に住んだ難波天皇と皇后
  • 難波宮に暮らした難波天皇と皇后難波宮は謎だらけですね。大阪城の南に広がる難波宮は、難波長柄豊崎宮とされています。孝徳天皇の宮であり、天武天皇が副都とした宮であり、文武天皇が行幸し、聖武天皇が後期難波宮を造営しました。孝徳天皇の前期難波宮は掘立柱の建物で瓦は葺かれていませんが、聖武天皇の後期難波宮は瓦葺きです。双方の宮殿は、ほぼ同じ位置と規模で立て直されましたので、発掘された遺構が重なっています。双 [続きを読む]
  • 玉津島神社のご祭神
  • 玉津島神社のご祭神玉津島神社の創建は上古ということで、古いのです。覆殿が建てられたので、この本殿のお姿を見ることはできません。ご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)、明光浦靈(あかのうらのみたま)の四柱です。千木を見ますと、確かに女性の神様のものですね。稚日女尊…伊弉諾・伊弉冉尊の御子で、天照大神の妹、別名を丹生都比女神 [続きを読む]
  • 紀伊国・玉津島神社の花影に
  • 紀伊国の玉津島神社の春紀伊国に旅してきました。紀伊国は目に入る風景の何処も山桜が咲き、今まで旅した土地に比べても決して引けはとりません。沖縄以外、ほとんどの県を旅したわたしが思ったのです。もちろん春の東北の芽吹きや北上川の岸辺も、日本海の春雷も素晴らしかったけれど、ヤマザクラが何気なく咲いた紀伊路の春には心惹かれました。やっと、以前から訪ねたいと思っていた玉津島神社に行きました。玉津島神社は桜の花 [続きを読む]
  • 59藤原不比等とは何者か
  • 藤原不比等とは何者か? その2前回、藤原不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰とされているのか、を少々書きました。「興福寺縁起」は、鏡王女(かがみのおほきみ)を不比等の母だとしました。その可能性がないわけではありませんが…。しかし、万葉集事典では「母は車持国子君女(くるまもちのくにこのきみのむすめ)」としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょうか。が、 [続きを読む]
  • 58鎌足の二子。藤原不比等の出自
  • 藤原鎌足の二子、藤原不比等とは何者か?不比等(ふひと)は、天武天皇(40代天皇)の嬪(ひん)であった異母妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(まろ)(695生)をもうけています。天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね? 万葉集には天武帝と藤原夫人のやり取りした歌が載せられていました。天武天皇(四十代天皇)から藤原(ふ [続きを読む]
  • 57天智天皇を信じた藤原鎌足
  • 天智天皇を信じた中臣鎌足前回紹介した阿武山古墳が藤原鎌足の墓だとしたら、おかしな事実がたくさん出てきます。鎌足の墓は談山神社に移されたというのは、嘘になるのでしょうか。阿武山古墳の被葬者は玉枕の上に頭を乗せ、顔を織冠で覆っていたのですから只者ではありません。60歳前くらいの男性で、骨折の後が残っていたそうですから、没年の蒲生野の薬狩の宴の時落馬してそれが死亡の原因だったのではないかと、「藤原鎌足と [続きを読む]
  • 56天智天皇が信じた藤原鎌足
  • 天智天皇を信じた藤原鎌足(「藤原鎌足と阿武山古墳」吉川廣文館の挿入写真です。中央が阿武山古墳、鎌足の墓かも?)この古墳が大きく新聞等に取り上げられたのは、金糸で刺繍されたらしい織冠を頭に置き、玉枕を枕に六十歳前くらいの男性が乾漆棺に眠っていたからでした。新聞では鎌足の墓が見つかったという報道でした。日本書紀によると織冠を授けられた人物は二人しかいません。一人は百済の王子で白村江戦の前に百済に戻りま [続きを読む]
  • 55草壁皇子のために額田王が建てた寺
  • 額田王は草壁皇子のために寺を建立した壬申の乱後、近江京で天智天皇に仕えていた額田王は、夫(大友皇子)を亡くした娘と明日香に帰って来ました。飛鳥で額田王はどんな生活をしていたのでしょうか? (額田王が弓削皇子に応えた歌・古を恋しく思う鳥は、それは霍公鳥でしょう。その鳥はきっとわたしが昔を懐かしく思うように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。)天武七年(678)十市皇女の突然死で額田王は苦しんだと思います [続きを読む]
  • 54持統天皇の孫、文武天皇の仕事・八角墳への改葬
  • 持統天皇の孫・文武天皇の仕事持統天皇元年(686)は、天武天皇崩御年であり、大津皇子と山辺皇女の没年です。持統帝が即位したのは草壁皇子が没した年の翌年(690)でした。つまり三年間は空位で、持統称制となっています。皇太子が決まっていたのに空位とはおかしなことですから、様々に憶測が飛ぶのです。文武天皇の即位は高市皇子薨去の翌年(697)で、二月に立太子、八月即位となっています。高市皇子の薨去から一年 [続きを読む]
  • 53持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす
  • 持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前からブログに書いていました。(持統帝の霊魂に再会した人麻呂は、持統帝に聞きたいことがあった。)紀伊国への旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。その目的は、形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れることでした。女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は女帝の霊魂に確かめに行った [続きを読む]
  • 52持統天皇の秘密のすべてがここにある
  • 持統天皇の最後の願い・火葬と合葬大宝2年十二月二十二日、持統天皇崩御「続日本紀」文武天皇、大宝二年十二月条に、太上天皇、崩(かむあが)りましぬ。遺詔(いせう)したたまはく「素服(そふく)、挙哀(こあい)することなかれ。内外の文武の官(つかさ)の釐務(りむ)は常のごとくせよ。喪葬のことは、努めて倹約に従へ」とのたまふ。と、書かれています。持統天皇の火葬・天武陵への合葬持統天皇の最後の願いは火葬であり、野口 [続きを読む]
  • 51天武帝が心から愛したのは持統皇后なのか
  • 天武帝は、心から持統皇后を愛したのか「持統帝と天武帝のつながりの深さ」と「天武天皇の霊魂は伊勢へ」で、二人の絆の深さを考える材料としました。二人の結びつきは希薄だったという、わたしは勘違いしているのでしょうか。二人は強い絆で結ばれていたのでしょうか。持統帝の歌を詠めば、どちらかというと持統帝は天武帝に対してさっぱりしていた、あまり執着がなかった…と思うのです。では、持統帝は噂通りの冷たい女性なの [続きを読む]
  • 50天武天皇崩御の八年後に「持統帝の御歌」
  • 天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)の御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので(御製歌ではないので)皇后であった時の持統天皇の歌となっています。御斎会は宮内にて行われましたが、まだ藤原宮には遷都していません。飛鳥浄御原宮は天武天皇の宮で、伝板蓋宮(いたぶきのみや)跡から掘立柱の大型建築 [続きを読む]
  • 49持統皇后と天武天皇の絆は強かったのか?
  • 持統皇后と天武天皇の絆・強かった?それとも…持統皇后は藤原鎌足の子・不比等と手を組んで孫の軽皇子(文武天皇)の即位への道を造り上げた人だとされ、大津皇子だけではなく天武帝の皇子を死に追い込んだように言われています。また、天武・持統の合葬墓に見られるように、二人は相愛で仲睦まじかったとされています。二人の絆の深さは、万葉集で読めるのでしょうか。不比等の父の藤原鎌足は、天智帝の腹心の部下でありました。 [続きを読む]
  • 48高松塚古墳の謎は解ける
  • 高市皇子の薨去と謀反事件ヨミガエリを拒否された大王・高市皇子高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。石室は狭いのですが、壁画があり、それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいましたが、当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。頭蓋骨がなかった…首の [続きを読む]
  • 47人麻呂は知っていた・高市皇子の薨去の意味
  • 人麻呂は高市皇子の不審な死を知っていた!高松塚古墳の被葬者と耳成山持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。最高権力者としての葬儀だったのです。高市皇子は天武天皇の第一子で、妻は天智帝の皇女・御名部皇女でした。草壁皇子は死後に日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡され、高市皇 [続きを読む]
  • 46高市皇子を裏切った但馬皇女
  • 高市皇子を裏切った但馬皇女記紀には道ならぬ恋の話が出てきますが、その恋は許されていません。しかし、天武朝では許されたのでしょうか。高市皇子の宮に居た但馬皇女は、穂積皇子を好きになります。二人は恋仲になったようですが、穂積皇子と但馬皇女のふたりは咎めは受けなかったのでしょうか。但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時、穂積皇子を思(しの)ひて作らす御歌一首114 秋の田の穂向きのよれるかたよりに君により [続きを読む]
  • 45天武天皇の歓喜!芳野よく見よ
  • 天武天皇の歓喜! 吉野盟約天武天皇は大喜びした! それが「吉野盟約」でした。天智帝の前で出家すると宣言し吉野に落ち延びた時の天武天皇御製歌は、冬の吉野の山越が大変苦しかったと、そこを耐えて何とか落ち延びたのだという内容になっています。しかし、次の吉野の歌は何でしょうね。手放しで喜んでいるのですね。正直、昔この歌を読んだ時、何も物語性を感じることができず、面白くないしつまらないと思ったのです。こんな [続きを読む]
  • 44柿本人麻呂が詠んだ吉備津采女の罷り道
  • 吉備津采女の罷り道は何処か万葉集巻二の217〜219「吉備津采女が死にし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 併せて短歌二首」は、どんな状況で詠まれたのでしょうか。(217)秋の山のようにかがやく娘、なよ竹のようにたおやかなあの子は、何をどう思ったのか栲縄のようななかなか切れそうにない長いはずの命だったのに、露ならば朝置いても夕べには消えるといい、霧ならば夕べに立って朝は消えるというが、あの子は露でも [続きを読む]
  • 43十市皇女の悲劇・天武朝後宮の女性達(1)
  • 十市皇女・天武朝後宮の悲劇(その1)壬申の乱で勝利した天武天皇は、滅ぼした天智天皇の皇女達を後宮に入れました。特に有力氏族の皇女は、外に出しませんでした。理由は、女性たちが天智帝の血統をつなぐ存在であり、皇位継承者を生む可能性があるので、高貴な血統を他に渡すことを避けたのです。壬申の乱後には、敵だった王家に仕えなければならないのですから、女性達には辛く重い束縛になったのではないでしょうか。十市皇女 [続きを読む]