池山 さん プロフィール

  •  
池山さん: 意拳の研究(意拳練功一得会)
ハンドル名池山 さん
ブログタイトル意拳の研究(意拳練功一得会)
ブログURLhttp://ichitokukai.seesaa.net/
サイト紹介文健身、自衛、理論のそろった意拳という素晴らしい武術について縷々考察していこうと思っています。
自由文武術・武道は素晴らしい文化です。それらの多くには内的な力を養成する方法論があると思いますが、意拳は、直接それを練功する素晴らし体系を持っていると考えています。心ある方々にご理解いただけば幸甚です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供91回 / 136日(平均4.7回/週) - 参加 2017/04/05 17:36

池山 さんのブログ記事

  • 後天の問題を知り、先天を強調しすぎない
  • 後天のものを、やみくもに付け加え鍛え増やしていく場合には、どこか全体の平衡のとれないものになる場合が多いように思う。が、一方で、現代社会の日常生活中に先天のものを生かすだけの様態が整っているかというと、これまた疑問なしとしない。運動量が足りなかったり、座るばかりだったり、食生活がいびつであったりすることもあるから、その前提で先天とだけいうのも自然体ではないかと。身体を使うことととそれを整えることの [続きを読む]
  • 練功のネタ
  • 手を動かすときに反対の手や身体全体は逆の動きをする。試力では、必ず阻力を感じるようにするというのはそれを身体の部分個々の言葉ではなくて全体としてあるということを端的に表している。ただし、手と身体の動きが逆になるというだけでは・・・やってみればすぐにわかるが・・・効かない。まずは、練るときにしっかり練った上で、それを思い切り使ってみる。自分の今できるものを存分に発揮してみる。そうすると、求められてい [続きを読む]
  • ひとつひとつの経験が
  • 本来、非常にシンプルであるところの意拳の理論体系が難解だと思われている方も少なくないようだ。用語が含意するところのものとかが我々の生活の中で習ってきたものと違うとか、同じひとつの点についていろいろな視点から説明しているところがあるところとか、更に、分かることとできることがほぼ一致していて、微細な感覚であっても必ず心身で実感する必要があるというのがその理由のようだ。繰り返しにはなるが、身体感覚を伴っ [続きを読む]
  • 行き過ぎたるは
  • ケリー・マグガニゴルさんの本を読んでいて、現在の状況の行き過ぎについて引き戻しをかけているところが非常に興味深かった。曰く。健康心理学や意思の研究をする中で、社会に対し、ストレスの害について言い過ぎたのかもしれない。ストレスと一言で言っても、動物の本能として物事に対し先んじて心身が対応しようとする準備状態が悪いというようなイメージを与えてしまっていたのかもしれない。もちろん大きすぎたり長すぎたりす [続きを読む]
  • 手を動かさないこと
  • 意拳におけるあらゆる動きは、全身の法と整理されている。稽古当初から行っている、手は動かさずに身体を動かすというものは、その入口となる。手や腕は簡単に動かすことができるがゆえに、たやすく自由気ままに動かせてしまう。それは全身の法とは異なるものになってしまう。それを矯正するよなつもりでじっくりやるのがよいかもしれない。が、金科玉条のごとく表面的に手を動かさないということでは使えるものではない。動かさな [続きを読む]
  • 調子が悪いときに得られるもの
  • 前回の続きである。例えば、自律訓練法の考え方の中で、同じことを繰り返しているから現在の自分の状況が分かるというということが大切ということがある。調子が上がらなければ上がらないなりに同じことをやってみる、調子がよければ調子がよいなりにやってみる。今日は調子がよいからやらないということがつづけば、やらないときは調子が悪いということを心身に学習させてしまうことになる。それを続けていると、本番になってそも [続きを読む]
  • 螺旋的に学ぶから個人の成長が分かる
  • 練功は、そう多くない基本的な形をモチーフにし同じような稽古を繰り返していくのが一般的である。その中で、個人のレベルに合わせて適時に必要な内容を学んでいく。螺旋的に学ぶというのは、発達過程において学ぶ主眼が上がっていくことと理解しておけばよいのであるが、そのような方法をとるから個人の成長がよくわかる。新たな型を学ぶということではない分、一周してきた自分自身の変化に気づくことができる。 [続きを読む]
  • 全体を見る
  • 松と緊は互換するし共存する。眼精も同様である。睨みつけたり、ましてや目つきでびびらせようなどというのは意味がない。よく見るけれど一点にとらわれず変に集中させない。全体を捉える。 [続きを読む]
  • 過ぎたるは及ばざるという道理の体感
  • 過ぎたるは及ばざるが如しというのは深い言葉だなと思う。運動学の研究において、ストレッチを過度に行ってからの運動は、逆にケガの可能性が高いなどということがあって、やらないのも急激な運動で負荷がかかりすぎるし、やりすぎると固定する力が弱まりすぎるようだ。循環器系の運動をすることで身体の隅々まで酸素供給でき組織が活性化するけれども、やりすぎると活性酸素の発生を促しすぎることにもなったりスポーツ心臓になっ [続きを読む]
  • 肘の位置取り
  • 左右横の力を表現するためには肘は開く形になるのが基本である。が、半ば撑、半ば垂。そして、肋を離れずという言い方もある。 物理的にくっついているというより意識で繋がっているというような感じとしておくとよいのではないかと思う。 [続きを読む]
  • 手首と全部
  • 伝統的武術においては、手首や手の形に留意させることが多い。そこに何らかの名前を付けることすらしながら流派の大切なものとして伝承している。もちろん、全体のうちの部分であるので、そこだけが大事とすることではなかろうが、そこから見えてくるものを体系化しているように見えるものが多いと感じる。意拳もしかりで、自在に動くその部分に、いくつか重要な点がある。まあ、手首を自在に生かすには、膝や腰の協調が不可欠であ [続きを読む]
  • 興味を持たれる方には
  • 当会で行っている意拳に興味をお持ちいただいている方も少なからずおられるようだ。いまのところ何らのスケジュールも決まっていはないのだけれど、講習会などを行うことも今後は考えていきたいとは思っているところだ。ただ、見学は随時お受けしているので、連絡をいただくほうが早いと思うが。。 [続きを読む]
  • 方法論として見る
  • 用意不用力から、意至乃力至となり、意即力という発達するとされる。争力の感得から、六面に広がり、渾圓力となり、全体が整体としてまとまっていくとされる。先達の残された言葉を、どのように解釈して、自分なりの適時説法としていくかが面白いところでもあり難しいところでもあり。とりあえず、それらの言葉を、達成された力と見るよりも、そのようにして練功を行うという方法論と見る方が今は得るところが多いと思っている。 [続きを読む]
  • よくできている基本
  • 試力の基本的な形というのは本当によくできていると思う。呑みこんで吐くこと、陰陽転換の巧みさ、上下前後左右のバランス等々、ひとつの流れとして大きく学んでいくに発見がいくらでもある。そしてある程度いくと、発見もあるけれど、むしろ自然で楽な動きになってくる。そこまでいって、なぜこういう形になったのか少し理解できるような気がしてくる。 [続きを読む]
  • 道理があきらかにすめば
  • 練功を続けるなかで、不思議なことでもあるし当たり前ということでもあるのだけれど、できるなあと思うことはできる。それまでできなかったことや身にしっくりことないことでも、練功を続ける中で、あれ?できるなあと感じられたときにはできていることが多い。逆に、なんだかんだ頭で屁理屈を考えている間はできない。兵法家伝書に記されている、「万のことは知らざる故に不審あり。疑わしき故に、その事が胸をのかざるなり。道理 [続きを読む]
  • 力みなく支える
  • 身体に無理な力を入れないというのはなかなか難しい。そもそも一生懸命に稽古するということは、たやすく緊張を引き連れてきがちになるし、特に実作を思えば思うほど力みが出がちになる。言葉で表しても、相手を中に入れないようにする強い腕とか、崩れない姿勢とか、しっかりどっしり立つなどと表現した段階で、大概、どっかどっかに緊張が生じている。精神の緊張に対して、身体をリラックスさせることによって減殺するやり方を心 [続きを読む]
  • 歩法のポイントのいくつか
  • 歩法を学ぶ際に上体と下体が調和することに留意する。そのために、腰腹の安定感が重要となる。速く動くために斜に動く。強く動くために両足を動かす。腰は回すのではなく切るという感じで。距離感をつくるのも、強さをつくるのも、速さをつくるのも、足に多くを求める。手が動けば身体も下体も同時に動く。安定して立つのも歩法であるし、速く強く動くのも歩法である。 [続きを読む]
  • 後世へ残すもの
  • 内村鑑三の「後世への最大遺物」には、我々が後世に残す遺物・・・贈物ともいっている・・・が語られてており、時折に読むに元気をもらえる。「それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。(中略)この世は、悲嘆の世ではなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰 [続きを読む]
  • 四容といっても
  • 意拳正軌には、頭部は真っ直ぐに立て、正面に目を向け、全身放松し、気を静めた状態を四容と記される。この表現は非常に簡素であり、実現するのもそう難しいものではないように思える。ただ、実際はまったく次元のちがう状態であると理解しているのがむしろ正しい理解であると思うし、どこまでいってもまだ自分の感覚と異なっているとしておくのが正しいのだろうと思う。では、そうなっていく道筋はどこにあるかということになれば [続きを読む]
  • あるとき気づく
  • 以前書いたことであり非常に基本的なことであるが、站?は、身体局所に意識を向け、各部分で試すことから始める。それを繰り返すことで、これかなあれかなと感じ、いやいやなんか違うと戻りつつ、あるときに分かっていることに気づく。例えば手の痺れ感、引き合い押し合う感じ、膨らむ感じ、固い感じ、張る感じ、水の中にいるような感じ、粘り気があるような感じ等々、いろいろあると思うが、こだわらずに続けていく。いろいろな知 [続きを読む]
  • 姿勢をとる
  • あたりまえのことだけれど、姿勢がとれていると力が出る。これは武道、武術に限ったことではない。試しに前腕を合わせて推しあってみればよい。自分の身体をしっかり使うということが大切であり、それは基本で言われているところにある。 [続きを読む]
  • 驚ということ
  • 「拳意述真」に驚ということが記載してあり、これが警の記述違いではないかとの議論もあるようだ。高度のことはわからないけれど、意拳では驚をひとつのありようとして示しているのであまり違和感はなかったところである。体感的にもそういうものなのだろうと感じていたのだが、どちらが正しいのかということもあるし、どちらも正しいのかもしれないと括弧に入れて置いておくもののひとつか。 [続きを読む]
  • 弊習は難しいと思う
  • ご連絡をいただいた方から、意拳と他の武術との弊習ができるかという問いがあった。まあ、どこを目指すのかにもよるから一概に答えにくいところもある。養生として・・・健康重視で行うならば、どんなものとも非常に相性がよいと思ってはいる。身体を使うものだけでなく、哲学的なものでもいろいろな知見をくれるものと感じている。問題は、それによって山の奥まで進んでいこうと考えた場合である。非常に器用な人の場合、もしかし [続きを読む]
  • ただ身体を振るのではなくて
  • 守中と斜面の関係というのも、考えてみるとよくできているものだと思うところしきり。ほっておくと人間の意識は真っ直ぐ、真横、真上真下というところにこだわりがちになる。六面も、わかりやすいからそう表現しているのかもしれない。そうなると自ずと固さが見え隠れする。そもそも人の身体は斜めに、あるいは螺旋に動くのが自然な気がする。ただ身体を振るのではないというのは当然のことだ。 [続きを読む]
  • 反応とバランスのゲーム
  • 足の踏み合い、膝相撲、頭の触りあい等々。反応とバランスの稽古もときに楽しい。ゲーム感覚があるし、楽しみながら進めていける。ただ、それも技術の末に堕することを理解しておきたいところだ。目的が何かはしっかりもちつつ、だと思う。 [続きを読む]