鎌倉殿 さん プロフィール

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鎌倉殿さん: 武田勝頼公と北条夫人の部屋
ハンドル名鎌倉殿 さん
ブログタイトル武田勝頼公と北条夫人の部屋
ブログURLhttp://rashimban3.blog.fc2.com/
サイト紹介文「日本にかくれなき弓取」と評された武田勝頼公、「芝欄」と称えられた妻・北条夫人。その部屋へご招待。
自由文近年、武田勝頼公の施策を当時の状況に即して見直そうという動向が現れているが、まだ十分に支持を得られているわけでない。柴辻俊六氏のごとく「贔屓の引き倒し」と酷評する者もいる。武田氏滅亡は信玄の残した負の遺産による所が大きい。逆に勝頼公がみせる温かみある人間性は特筆に値する。このブログでは平山優先生・丸島和洋先生・笹本正治先生らの著書を引用しながら武田勝頼公と彼を支えた北条夫人(桂林院殿)を顕彰する。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供14回 / 11日(平均8.9回/週) - 参加 2017/04/19 22:53

鎌倉殿 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 武田勝頼公の官途
  • 「愚息四郎に官途と御一字を賜りたい」 信玄が勝頼公を正式に高遠城主から自らの後継者として甲府に呼び寄せた明確な時期は定かではないが、元亀2年(1571)のことと推定されている。北条氏は、元亀元年(1570)8月12日の段階で、勝頼公を「伊奈四郎」(「尊経閣文庫所蔵文書」『戦北』一四三五号)と認識しているので、武田氏に入ったのはその後ということになる。諏方勝頼公から武田勝頼公となったのである。 信玄は、勝頼公を [続きを読む]
  • 新府城と武田勝頼公③
  • 新府城の実態 勝頼公が古府を廃し、移り住んだ新府城は、実は完成してはいなかった。『甲陽軍鑑』に「半造作」とあるように、本丸や三の丸は削平が完全になされていない部分や、土塁と虎口にも普請が途中であった状況が指摘されている(『日本城郭体系』『図説中世城郭事典』)。とりわけ、『甲陽軍鑑』の記述に「半造作にて更に人数百と籠へき様無之」とあり、とても籠城できる状況ではなかったというのである。 現在の進行中の [続きを読む]
  • 新府城と武田勝頼公②
  • 領国中の位置 新府が甲斐の府中であったのは正味2カ月、勝頼公が新府城にいたのは足かけわずか43日に過ぎなかった。それほど短期間しか住まなかった新府城を、なぜ勝頼公は多くの人足と資金を費やして韮崎に築いたのか、無理をして築いたことによって人心と財力を失ったのが武田氏滅亡の原因だという山梨県民の声は、いまだに根強い。本当にそうなのであろうか。新府城の位置(韮崎市教育委員会提供を笹本正治先生修正) まず考 [続きを読む]
  • 新府城と武田勝頼公①
  • 新府城と武田勝頼公 平成11年(1999)11月7日、韮崎市教育委員会・史跡新府城跡保存整備委員会の主催で「戦国の浪漫 新府城―ふるさとの城を語ろう」と題したシンポジウムが開催された。私も拝聴者の一人である。 柴辻俊六氏はこの講演においても「この時期における新府城の築城は評価すべき点が少なく、むしろ従来から言われているように、無謀な新規事業であって武田家滅亡を早める要因の一つとなったとの評価はかわなない」 [続きを読む]
  • 北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君⑦―
  • 北条夫人(桂林院殿)の最期 勝頼公一行を迎える準備と称して先に岩殿城にはいった小山田信茂が謀叛を起こし、岩殿へ続く笹子峠を封鎖してしまうのである。勝頼公は田野(甲州市)に入り、少数の側近とともに追撃してきた織田勢を前に奮戦することになる。しかしもはや助かる術はなく、自害を決した。 勝頼公は重臣安西有味・秋山紀伊守を北条夫人(桂林院殿。以下北条夫人と記す)のところに遣わし、「武田一門の運命は今日限り [続きを読む]
  • 北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君⑥―
  • 新府城を出ての逃避行 勝頼公は天正10年(1582)2月28日に新府城に帰還し、戦線の再構築をはかる。勝頼公の期待は、実弟仁科盛信(この時期は信盛と改名している)が守る信濃伊那郡高遠城(伊那市)が、しばらく敵を防いでくれるだろうというものであった。ところが、3月2日、高遠城は壮烈な戦闘の末にわずか1日で落城し、勝頼公をはじめ武田氏重臣は動揺を隠せなくなった。 当初の目論見は、未完成であった新府城を完成させて守 [続きを読む]
  • 北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君⑤―
  • 北条夫人願文 天正9年(1581)12月24日、北条夫人は勝頼公に従って甲府を離れ、武田氏の新しい本拠地である新府城(韮崎市)に入った。しかし、ここで運命は急転する。武田氏が滅亡の時を迎えるのである。 武田氏滅亡を間近に控えた天正10年(1582)2月19日、北条夫人は「ミなもとのかつ(勝)頼うち(内)」という署判で、願文を新府城の近くにある武田八幡宮に奉納したとされる。柴辻俊六氏は後世の創作だと述べているが、仮託 [続きを読む]
  • 北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君④―
  • 実家北条氏との対立 勝頼公と北条夫人(桂林院殿、以下北条夫人と記す)の幸せな生活も、天正6年(1578)に越後で上杉謙信が急逝したことで事態が一変した。家督は、上杉謙信の養子で甥の上杉景勝が嗣いだが、反対派の勢力がもうひとりの養子上杉景虎を担いで御家騒動(御館の乱)を起こしたのである。景虎は、北条氏政の弟で、北条氏と上杉氏が同盟した際に謙信の養子となった人物である。つまり、北条夫人にとっても兄にあたる [続きを読む]
  • 北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君③―
  • 快川紹喜の北条夫人評 北条夫人(桂林院殿、以下北条夫人と記す)の人柄を讃えた言葉に、「芝蘭」「淑女是君」「甲州城上淑女君」が伝わる。これは身延町下山南松院旧蔵文書の『蘭渓字説』の一節にあり、天正8年(1580)7月に、躑躅ケ崎館を訪れた恵林寺(甲州市)の快川紹喜国師は、北条夫人から法諱と雅号を授けるように懇願され、快くこれに応じたという。その時の印象を快川は次のように描写している。 家語に曰く、善人と居 [続きを読む]
  • 北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君②―
  • 諏訪下社秋宮千手堂落慶供養 天正5年(1577)3月3日、諏訪下社の本地仏を安置した秋宮千手堂の堂舎及び三重塔の落慶供養の法会が行われた。長い戦乱で仏堂が荒廃していたのを勝頼公が再興を命じ、この上巳の節句(雛祭り)に、盛大な落慶供養が行われた。財源の一切を受け持った願主は、諏方の春芳軒という御用商人である。春芳軒は、信玄が諏訪社下社神長官に宛てた元亀元年(1570)9月23日付の書状にも「春芳代官」とあり、町人 [続きを読む]
  • 「武田勝頼・同夫人・信勝画像」(高野山持明院蔵)
  • 勝頼公への敬愛 私が小学校3年生の頃、武田勝頼公の存在を知り興味を持つようになったのは、滅亡という結果のみでその治世や為政者としての資質を酷評されるところが、専制だの朝敵だのマイナスイメージを負わされている先祖の鎌倉北条氏に通じるところがあるからである。小6の夏に古書店で上野晴朗氏の『定本武田勝頼』を250円で発見したときはその内容の難しさよりも1冊まるごと勝頼公について書かれている専門書を手にした [続きを読む]
  • 勝頼公の裁判例
  • 勝頼公の裁判例 江戸時代の寛永3年(1626)、信州筑摩郡小池村(長野県松本市)に住む草間三右衛門が、武田統治時代を思い出して記録した文書の中に、勝頼公の公平な裁判についての記述があり、笹本正治先生が発表しているので概要を紹介する。(笹本正治『武田勝頼』) 山争論の発端は天正8年(1580)4月、小池村の郷民が内田(松本市・塩尻市)領主桃井将監によって内田山に入ることを禁止されたため、7月に甲府に訴え出た。 [続きを読む]
  • BLOG引っ越しにあたり
  • 武田勝頼公の再評価の機運 武田勝頼公の評価は山梨県において決して良くない。信玄の遺言を破って無謀な合戦を繰り返して国力を衰退させ武田氏を滅亡させた暗愚の将。思慮深さに欠ける強すぎた大将という甲陽軍鑑史観が浸透している。江戸時代を境に近世的な封建的家制度が確立すると、勝頼公は家を滅ぼした暗愚の将という評価が定着した。背景に『甲陽軍鑑』の成立があることは言を待たない。近年ではゲームや雑誌によって武将の [続きを読む]
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