鎌倉殿 さん プロフィール

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鎌倉殿さん: 武田勝頼公と北条夫人の部屋
ハンドル名鎌倉殿 さん
ブログタイトル武田勝頼公と北条夫人の部屋
ブログURLhttp://rashimban3.blog.fc2.com/
サイト紹介文「日本にかくれなき弓取」と評された武田勝頼公、「芝欄」と称えられた妻・北条夫人。その部屋へご招待。
自由文近年、武田勝頼公の施策を当時の状況に即して見直そうという動向が現れているが、まだ十分に支持を得られているわけでない。柴辻俊六氏のごとく「贔屓の引き倒し」と酷評する者もいる。武田氏滅亡は信玄の残した負の遺産による所が大きい。逆に勝頼公がみせる温かみある人間性は特筆に値する。このブログでは平山優先生・丸島和洋先生・笹本正治先生らの著書を引用しながら武田勝頼公と彼を支えた北条夫人(桂林院殿)を顕彰する。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供86回 / 115日(平均5.2回/週) - 参加 2017/04/19 22:53

鎌倉殿 さんのブログ記事

  • 父信玄の葬儀?
  • 葬儀に向けた準備 三河・遠江反攻計画を挟んだ時期にあたる天正4年(1576)4月、勝頼公は亡父信玄の葬儀を挙行し、その喪を正式に発することとした。葬儀の準備は正月から開始され、当初は2月に行われる予定であったらしい。だが諸事情から、命日前後にずれ込むこととなったようだ。 ところで信玄の葬儀に関しては、「天正玄公仏事法語」(県内記録七号)、「快川和尚法語」、「鉄山集」(県外記録一四三・一四四・一五〇・一五 [続きを読む]
  • 伝馬制度
  • 伝馬制度 公用の人や荷物を運送するために人馬を宿駅に常置させ、宿駅間を継ぎ送る「伝馬」は、律令国家が地方支配のために全国的に整備した交通機関であるが、戦国時代になると主に東国の戦国大名が軍事や領国支配の必要性から各々に伝馬制度を整備し、人・商品・情報の流通の円滑化を図った。領国独自の制度でありながらも隣国とのつながりも考慮されており、それは江戸時代の伝馬制度の萌芽ともいえる。 さて、天正3年(1575 [続きを読む]
  • 勝頼公、三河・遠江での反攻を企図す
  • 勝頼公、三河・遠江での反攻を企図す 波乱の天正3年が暮れ、明けて天正4年(1576)、勝頼公は前年以来宣言していた三河への侵攻を実施しようと考えた。そのため、海津城代春日虎綱を信濃・三河国境に配備して、織田・徳川方の動向を監視させ、あわせて侵攻のタイミングをうかがっていた。春日虎綱が海津城を空けることが可能であったのは、上杉謙信が織田・徳川両氏に呼応して北信濃に侵攻する懸念が解消されていたからであろう( [続きを読む]
  • 国境諸口の防備
  • 国境諸口の防備 前回に続き保科正俊宛勝頼公書状より、国境諸口の防備指示についてみてみよう。勝頼公は、伊那郡内の主要城郭に備えや人質などに関する指示を出すと、次に国境各口の防衛のための指令を列挙している。まず重視されたのが信濃・美濃国境の妻籠城の防衛である。織田軍が岩村方面から侵攻した場合に、妻籠城が最初に攻撃を受ける懸念が高かったからである。その在番については、松尾小笠原衆が配備され、とりわけ重要 [続きを読む]
  • 勝頼公、信濃防衛策を指示す
  • 勝頼公、信濃防衛策を指示す 勝頼公は、天正3年(1575)8月10日に保科筑前守正俊に28カ条にも及ぶ長文の指令を出し、信濃防衛のための軍勢配備を命じた(『戦武』二五一四号)。この文書は、長らく元亀3年(1572)の武田信玄が西上作戦を展開するにあたって出した命令と考えられてきたが、最新の研究により天正3年8月、武田勝頼公が長篠敗戦と岩村城攻防戦の発生や、伊那坂西一族の謀叛などへの対応と、遠江への出陣を前に信濃防 [続きを読む]
  • 武田勝頼公の信濃防衛計画
  • 勝頼公の織田・徳川領国反攻計画 武田勝頼公が三河長篠で大敗したとの情報は、すぐに諸国に広まった。だが、武田軍が撃破されたことを疑う者もいたようだ。奈良の多門院英俊は天正3年(1575)5月24日に、長篠で武田軍が大敗したとの情報に接し「実否沙汰」と記した(『多門院日記』)。英俊は情報が事実か訝(いぶか)しがみ、周囲の人々も精度について噂しあったようだ。だが27日になって詳細が判明し、援軍として織田軍に派遣され [続きを読む]
  • 足利義昭の甲相越三国和睦構想
  • 戦国のオルガナイザー足利義昭 戦国時代の帰趨を決定した元亀・天正争乱において、織田信長に対抗する諸戦国大名を結びつけるオルガナイザーの役割を果たし、結集核となったのが、室町幕府最後の将軍足利義昭である。義昭は、石山本願寺、近江国浅井長政、越前国朝倉義景らと結び、さらに元亀4年(1573)4月には武田信玄とも連携を図った。この結果、形成されることになったのが信長包囲網である。 しかし、元亀4年4月に、武田軍 [続きを読む]
  • 岩村城落城
  • 岩村城落城 信濃から派遣された夜襲隊は、武田勝頼公が派遣した後詰とみて間違いないが、それでは勝頼公本隊はどうしていたであろうか。武田勝頼公が、本隊を率いて後詰に出陣したのは事実である。遠江小山城、高天神城の救援と徳川軍の撃退に成功した勝頼公は、10月には甲斐に帰還しており、引き続き今度は岩村城に出陣しようとしたらしい。この時期、岩村城を織田信忠軍、二俣城を徳川家康軍に包囲されていた。武田氏は、甲斐・ [続きを読む]
  • 追い詰められる岩村城
  • 追い詰められる岩村城 織田信忠軍は、頑強に抵抗する岩村城を容易に陥落させることができなかった。しかし、要害を恃んで持ちこたえているとはいえ、岩村城籠城衆も後詰がなければ落城しか道がない。そのため、甲斐の武田勝頼公にしばしば援軍の催促に及んでいた。勝頼公は、急ぎ新たな将卒の募集を行い、軍勢を整えることに腐心していたが、その兵力の量的かつ質的低下は深刻であった。 また6月から三河・遠江では徳川軍の反攻 [続きを読む]
  • 坂西一族の謀叛、上杉謙信との和睦
  • 信長の武田方国衆調略 織田信忠・佐久間信盛の美濃、奥三河侵攻は、境界を接する信濃国木曾・伊那両郡の武田方国衆に動揺をもたらした。勝頼公は、木曾氏の離叛を食い止めるため、7月13日に木曾郡国衆木曾義昌(勝頼公の義弟、信玄の娘婿)の重臣山村七郎右衛門尉良利(よしとし)に判物を送り、永年にわたる武田氏への協力を賞し、信濃国手塚(長野県上田市)で知行を与え、木曾谷の諸士を取りまとめ義昌に無二の奉公をするよう求 [続きを読む]
  • 武節城落城、東美濃の武田領崩壊危機
  • 織田信忠と佐久間信盛の美濃・奥三河侵攻 話をやや戻して、天正3年(1575)長篠合戦直後における東美濃の情勢に転じよう。長篠敗戦を契機に、織田・徳川軍の反抗は厳しくなった。特に本拠地三河の北部を勝頼公に席巻されていた徳川家康は、執拗な追撃戦を実施した。信長も家康も、信濃まで武田軍の追撃を主張する諸将の意見を退け、信濃・三河国境までの掃討戦は許可したらしい。 長篠合戦の直後、家康はなおも長篠に留まり、田 [続きを読む]
  • 二俣城開城す
  • 二俣城開城す 勝頼公は、遠江への大規模な反攻を宣言していたにもかかわらず、小山城の後詰と高天神城への補給を行ったのみで、徳川軍に付城を構築され、重囲に陥っていた二俣城の救援などはまったく実施できないまま終わった。にわか仕立ての新生武田軍は質的低下が著しく二俣城救援までとても行ける装備・編制ではなかった。それでも二俣城将依田信蕃は、父信守病没後も頑強に抵抗を続けていたが、兵粮が乏しくなり苦境に陥った [続きを読む]
  • 勝頼公、新生武田軍を率い遠江に出陣す
  • 勝頼公、遠江に出陣す 徳川家康は、諏方原城攻略(攻略後は牧野原城と改名)の勢いに乗り、小山城への攻撃を開始した。徳川軍の小山城攻撃は、天正3年(1575)8月28日から始まったらしい(『当代記』等)。ここを守備していた城将は岡部丹波守元信であり、のちに高天神城を3年にわたって守り抜き戦死した武将である。徳川軍の諸将のなかには、織田信長に援軍を要請したうえで攻めるべきだと諫言した者もいたが、家康はこれを聞き [続きを読む]
  • 遠江諏方原城の陥落
  • 遠江諏方原城の陥落 かくて家康は、浜松城に対する武田方の拠点の動きを封じ込めると、今度は軍勢を東に向け、徳川方懸川城と正対する武田方の要衝諏方原城の攻撃に着手した。家康は、諏方原城と小山城をともに奪取する作戦を企図していたといわれ、その真の目的は高天神城の奪還にあった。諏方原・小山両城を陥落させれば、高天神城は補給と増援の手段を失って徳川領内に孤立することとなり、容易く「蒸シ落シ」にすることが可能 [続きを読む]
  • 徳川家康の反抗
  • 家康の駿河侵攻 長篠合戦終了からわずか6日後の天正3年(1575)5月27日、徳川家康は兵馬を休めることなく、ただちに遠江・駿河の武田領へ侵攻した。これは、長篠での痛手から武田軍が立ち直れず、組織的な反撃ができないことや、武田勝頼公が信濃国に在城し、戦後処理にあたっていて、とても駿河・遠江に手が回らないことを見越した作戦であった。 家康は、軍勢を懸川から駿河に侵攻させ、駿府に乱入したのち、清見寺の関所付近 [続きを読む]
  • 戦死者の後継者問題
  • 戦死者の後継者問題 それにしても長篠合戦の痛手は大きく、戦死した重臣層の跡目相続と彼らが担っていた職掌の穴を埋めることは困難であった。駿河国江尻城代であった山県昌景の跡目は、息子源四郎昌満(まさみつ)が相続したが、城代の地位は既述のように穴山信君が引き継いだ。また、西上野の拠点箕輪城代内藤昌秀の跡目は養子昌月(まさあき)が継いだが、箕輪城代はしばらくの間不在であったらしい。さらに馬場信春の跡目は息子馬 [続きを読む]
  • 勝頼公の戦後処理始まる
  • 春日虎綱の献策 『甲陽軍鑑』によれば、勝頼公を出迎えた春日虎綱は、その後、敗戦処理に関する諸策を献言したという。その趣旨は次の五箇条であった。 ?武田氏は、北条氏政に駿河・遠江を割譲して、甲斐・信濃・上野三カ国領有を確保し、北条氏政と共同で、織田・徳川軍に対処する戦略を採ること。 ?この領土協定とともに、北条氏政の妹(桂林院殿)を勝頼公の正室に迎え入れて、血縁関係を取り結び、両者の絆を強化すること [続きを読む]
  • 織田・徳川軍の掃討戦
  • 織田・徳川軍の掃討戦 長篠・設楽原決戦に勝利した織田・徳川軍は、武田軍を追撃して信濃国境付近まで進出したという(『当代記』他)。天正3年(1575)5月21日夜、信長嫡子織田信忠と徳川家康は長篠城に入り、城を死守した奥平信昌を賞したといい(『譜牒余録』他)、信長もまた西尾小左衛門を使者として城に派遣し、信昌を讃えた(『武徳大成記』他)。 合戦に勝利した織田・徳川方では、このまま武田軍を追撃して信濃や甲斐まで [続きを読む]
  • 長篠合戦、武田軍の被害
  • 武田軍の被害 敗走する武田軍の兵卒は、織田・徳川軍の激しい追撃を受け、山に逃げ込んで餓死したり、橋を渡ろうとして川に落とされ溺死したりする者が多かったという(『信長公記』)。武田軍は、寒狭川(滝沢川、豊川)をなかなか渡河できなかったらしく、川の手前で多数が討ち取られた(『大須賀記』他)。こうした記述は事実であったようで、信長は長岡藤孝に宛てた書状で、「武田勢を多数斬り捨てたが、川の中に漂っている死 [続きを読む]
  • 敗戦、勝頼公の戦場離脱
  • 勝頼公の戦場離脱 武田軍の諸勢は、日の出から攻撃を開始し、鳶ケ巣山砦など長篠城包囲陣が壊滅したことを知った午前11時頃から本格的な戦闘に突入した。もはや織田・徳川軍を撃破する以外に勝機はなく、場合によっては背後の酒井・金森軍および長篠城兵(奥平軍)に挟撃される危険性も出てきたからである。だが、織田・徳川軍の鉄炮・弓の攻撃と、足軽の反撃を受け、武田軍は兵力をすり減らし、戦闘継続能力を失っていった。それ [続きを読む]
  • 長篠・設楽原決戦
  • 両軍の激突 有海原で対峙していた武田軍主力と、織田・徳川軍の戦闘は、夜明けとともに開始された(『信長公記』)。『松平記』には開戦は卯刻(午前6時頃)とある。開戦に先立ち、武田方から三騎の物見がやって来て、徳川軍の陣前を乗り回し様子を窺ったため、徳川方から内藤甚五左衛門・同弥次右衛門が騎馬で追いかけ、弓を射かけて追い払ったという。織田・徳川軍の馬防柵は準備が整っていたが、武田軍はにわかな布陣であった [続きを読む]
  • 鳶ケ巣山砦の奇襲
  • 鳶ケ巣山砦の奇襲 信長・家康の命令を受けた酒井忠次は、徳川軍のうち、腕利きの弓・鉄炮衆を選抜し、松平伊忠・家忠、松平康忠、松平清宗、西郷吉員、牧野康成、本多広孝ら二千余の軍勢を編成した(『三河物語』『松平記』『菅沼家譜』他)、さらに信長は、旗本(御馬廻)鉄炮衆五百挺、御検使として金森長近、佐藤六左衛門尉秀方、青山小助(新七息)、加藤市左衛門尉を任命し二千人ほどを援軍として付けたといい、酒井忠次の軍 [続きを読む]
  • 長篠からの側室宛手紙
  • 長篠合戦をひかえて 鳶ケ巣山奇襲攻撃にふれる前に紹介しておきたい事柄がある。 天正3年(1575)5月、武田勝頼公は長篠合戦を前にして次ぎの書状を送った。宛名は不明であるが、ほぼ全文ひらがな書きなので女性か子ども、内容からして側室(この時期正妻は空席)の女性に宛てたものであろう。読みやすくするため一部漢字にするが、勝頼公の人柄がよく表れていて彼の人間性を感じていただけたら幸いである。 このほどは、御訪れ [続きを読む]
  • 長篠合戦、織田・徳川軍の布陣
  • 織田・徳川軍の布陣 織田・徳川軍の右翼(徳川軍本隊)に向けて主力部隊を配置した武田軍に対し、信長・家康はいかなる布陣で臨んだか。 『甲陽軍鑑』は、真田・土屋・馬場・穴山衆らは、大宮前の佐久間信盛・木下秀吉・明智光秀に攻撃をしかけたといい(同書第二〇)、また別のところでは佐久間と戦ったと記され(同書第五)、この記述に対応するように織田軍左翼が想定されている。ただし『甲陽軍鑑』の記事に登場する明智光秀 [続きを読む]
  • 長篠合戦、武田軍の布陣
  • 武田軍の布陣 天正3年(1575)5月20日、武田勝頼公は、織田・徳川軍が布陣する有海原に軍勢を進め、21日早朝に決戦の態勢に入った。両軍は、竹広から森長にかけて展開したが(設楽原陣城研究会「陣城はあったかー設楽原からの報告」)、この時の布陣については高柳光壽氏の提示する両軍の布陣が今日定説になっている。しかし、平山優先生は、史料を子細に検討してみるといくつかの問題点も出てくると指摘する。 武田軍の布陣につ [続きを読む]