鎌倉殿 さん プロフィール

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鎌倉殿さん: 武田勝頼公と北条夫人の部屋
ハンドル名鎌倉殿 さん
ブログタイトル武田勝頼公と北条夫人の部屋
ブログURLhttp://rashimban3.blog.fc2.com/
サイト紹介文「日本にかくれなき弓取」と評された武田勝頼公、「芝欄」と称えられた妻・北条夫人。その部屋へご招待。
自由文近年、武田勝頼公の施策を当時の状況に即して見直そうという動向が現れているが、まだ十分に支持を得られているわけでない。柴辻俊六氏のごとく「贔屓の引き倒し」と酷評する者もいる。武田氏滅亡は信玄の残した負の遺産による所が大きい。逆に勝頼公がみせる温かみある人間性は特筆に値する。このブログでは平山優先生・丸島和洋先生・笹本正治先生らの著書を引用しながら武田勝頼公と彼を支えた北条夫人(桂林院殿)を顕彰する。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供67回 / 70日(平均6.7回/週) - 参加 2017/04/19 22:53

鎌倉殿 さんのブログ記事

  • 敗戦、勝頼公の戦場離脱
  • 勝頼公の戦場離脱 武田軍の諸勢は、日の出から攻撃を開始し、鳶ケ巣山砦など長篠城包囲陣が壊滅したことを知った午前11時頃から本格的な戦闘に突入した。もはや織田・徳川軍を撃破する以外に勝機はなく、場合によっては背後の酒井・金森軍および長篠城兵(奥平軍)に挟撃される危険性も出てきたからである。だが、織田・徳川軍の鉄炮・弓の攻撃と、足軽の反撃を受け、武田軍は兵力をすり減らし、戦闘継続能力を失っていった。それ [続きを読む]
  • 長篠・設楽原決戦
  • 両軍の激突 有海原で対峙していた武田軍主力と、織田・徳川軍の戦闘は、夜明けとともに開始された(『信長公記』)。『松平記』には開戦は卯刻(午前6時頃)とある。開戦に先立ち、武田方から三騎の物見がやって来て、徳川軍の陣前を乗り回し様子を窺ったため、徳川方から内藤甚五左衛門・同弥次右衛門が騎馬で追いかけ、弓を射かけて追い払ったという。織田・徳川軍の馬防柵は準備が整っていたが、武田軍はにわかな布陣であった [続きを読む]
  • 鳶ケ巣山砦の奇襲
  • 鳶ケ巣山砦の奇襲 信長・家康の命令を受けた酒井忠次は、徳川軍のうち、腕利きの弓・鉄炮衆を選抜し、松平伊忠・家忠、松平康忠、松平清宗、西郷吉員、牧野康成、本多広孝ら二千余の軍勢を編成した(『三河物語』『松平記』『菅沼家譜』他)、さらに信長は、旗本(御馬廻)鉄炮衆五百挺、御検使として金森長近、佐藤六左衛門尉秀方、青山小助(新七息)、加藤市左衛門尉を任命し二千人ほどを援軍として付けたといい、酒井忠次の軍 [続きを読む]
  • 長篠からの側室宛手紙
  • 長篠合戦をひかえて 鳶ケ巣山奇襲攻撃にふれる前に紹介しておきたい事柄がある。 天正3年(1575)5月、武田勝頼公は長篠合戦を前にして次ぎの書状を送った。宛名は不明であるが、ほぼ全文ひらがな書きなので女性か子ども、内容からして側室(この時期正妻は空席)の女性に宛てたものであろう。読みやすくするため一部漢字にするが、勝頼公の人柄がよく表れていて彼の人間性を感じていただけたら幸いである。 このほどは、御訪れ [続きを読む]
  • 長篠合戦、織田・徳川軍の布陣
  • 織田・徳川軍の布陣 織田・徳川軍の右翼(徳川軍本隊)に向けて主力部隊を配置した武田軍に対し、信長・家康はいかなる布陣で臨んだか。 『甲陽軍鑑』は、真田・土屋・馬場・穴山衆らは、大宮前の佐久間信盛・木下秀吉・明智光秀に攻撃をしかけたといい(同書第二〇)、また別のところでは佐久間と戦ったと記され(同書第五)、この記述に対応するように織田軍左翼が想定されている。ただし『甲陽軍鑑』の記事に登場する明智光秀 [続きを読む]
  • 長篠合戦、武田軍の布陣
  • 武田軍の布陣 天正3年(1575)5月20日、武田勝頼公は、織田・徳川軍が布陣する有海原に軍勢を進め、21日早朝に決戦の態勢に入った。両軍は、竹広から森長にかけて展開したが(設楽原陣城研究会「陣城はあったかー設楽原からの報告」)、この時の布陣については高柳光壽氏の提示する両軍の布陣が今日定説になっている。しかし、平山優先生は、史料を子細に検討してみるといくつかの問題点も出てくると指摘する。 武田軍の布陣につ [続きを読む]
  • 勝頼公の「本意」、長篠合戦の特異性となおも残る謎
  • 長篠合戦の特異性となおも残る謎 長篠合戦については、織田・徳川軍が馬防柵、土塁、空掘、陣城(切岸を含む)を構築したために、武田軍は困難な戦いを強いられたことから、信長が野戦を攻城戦へ転化させた作戦勝ちだったといわれている。しかしながら、何らかの身隠しを構築したことは事実であろうが、名和弓雄氏(『長篠設楽原合戦の真実』)が唱える身隠し銃眼などの陣城の普請については断定出来るほどの確証はないという(高 [続きを読む]
  • 決戦前の両軍
  • 織田・徳川連合軍、長篠に向かう 織田信長は、天正3年(1575)5月13日に岐阜を出陣し、その日は尾張熱田神宮へ戦勝祈願に詣でて、翌14日には三河岡崎城に到着した。岡崎城ではすでに徳川家康が出迎えに来ており、両将はここに合流を果たしたのである。信長はここで一泊しており、長篠城から脱出した鳥居強右衛門尉が岡崎にやって来て信長・家康に拝謁したのが15日というのは事実であろう。『三河物語』によると、信長は、先陣と信 [続きを読む]
  • 陥落寸前の長篠城
  • 陥落寸前の長篠城 長篠城は、天正3年(1575)5月11日以降、昼夜を分かたぬ武田軍の攻撃にさらされていた(以下『当代記』による)。 5月13日子刻(御前零時頃)、武田方は曇天のため月明かりもない夜陰に乗じて、長篠城の瓢丸(ひさごまる、瓢曲輪)を乗っ取ろうと企てた。この瓢丸は、出入口が狭いことから名付けられた曲輪であったが、土塁はなく、沢の岸の上に塀を構えただけの防御であった。そこで武田方は、鹿の角をくくりつけ [続きを読む]
  • 武田軍、長篠城を包囲
  • 武田軍、長篠城を包囲 武田勝頼公は、天正3年(1575)5月1日に奥平信昌・松平景忠らが籠城する長篠城を包囲した(『当代記』他)。すでに武田軍襲来は設楽郡全域を震撼させており、徳貞郷(新城市徳定)は4月晦日に武田氏に申請して禁制の発給を受けている(「渡辺文書」『愛知県史』⑪一〇八五号)。 東三河の村々では、武田方になびく動きが出ていたことを示すものである。 武田軍は、竹束をもって仕寄せ(竹束や楯・土塁で鉄 [続きを読む]
  • 武田軍、三河を席巻す
  • 武田軍三河を席巻す いっぽう信玄の三回忌法要を済ませた武田勝頼公も、天正3年(1575)4月12日の数日後には甲府を出陣したとみられる。ところで勝頼公の三河侵攻ルートであるが、遠江国平山越で三河国二連木に進んだとの記録があり(『静岡県史』⑧一四〇一号)、また『甲陽軍鑑』にも勝頼公は諏方に出陣し、諏方大社で戦勝祈願をした後に、信濃から遠州平山越をして宇利に進んだとある。このことから、勝頼公は甲府→諏方→高遠 [続きを読む]
  • 武田軍、動き出す
  • 武田軍、動き出す 武田勝頼公は父信玄の三回忌法要の準備をしつつ、徳川方を調略し、岡崎衆大賀(大岡)弥四郎らの内応を好機と捉え、三河出陣を企図した。折しも、織田信長は天正3年(1575)2月27日に岐阜城を出陣し、3月3日に入京し(『信長公記』他)、来る4月6日に大坂表に進んで石山本願寺を攻撃するとの廻文を家臣たちに発していた。これは六角承禎も察知しており、若狭武田光昭や武田勝頼公にこれを知らせ、後詰の依頼を行 [続きを読む]
  • 大賀(大岡)弥四郎事件
  • 大賀(大岡)弥四郎事件 武田勝頼公の攻勢により、三河・遠江・東美濃の戦線で、織田・徳川氏は守勢に立たされ、とりわけ徳川方は、本拠地浜松に攻め込まれたばかりか、三河岡崎も脅かされる事態となった。こうした情勢下で発生したのが、大賀(大岡)弥四郎事件である(大須賀弥四郎とある書籍は誤記、『三河物語』は大賀弥四郎、『岡崎東泉記』などは大岡弥四郎と記す)。 この事件が、武田勝頼公の三河侵攻の契機となり、結果 [続きを読む]
  • 徳川家康の長篠仕置と武田信玄の三回忌
  • 徳川家康の長篠仕置 天正元年(1573)9月8日、武田氏の拠点三河長篠城を奪回した徳川家康は、そこに松平景忠を配備し、遠江へ転進した(『松平記』)。 そして天正3年(1575)2月28日、徳川家康は奥平信昌を長篠城へ入城させた。信昌は、天正元年9月以来、三河国宮崎瀧山城(亀穴城、愛知県岡崎市額田町)に在城し、武田軍に備えていたが、家康は長篠城防備を固めるべく、信昌を異動させたのである。長篠城に入った信昌は、破損 [続きを読む]
  • 勝頼公の遠江侵攻
  • 北条氏・佐竹氏との連携 天正2年(1574)年8月1日、武田勝頼公は上野国甘楽郡小幡(甘楽町)を根拠とする国衆小幡信真へ、北条氏政が厩橋(前橋市)まで軍を動かしたので、「苦労痛み入り候と雖も、別して人数を相催され、箕輪まで打ち出され、工藤長門守と相談じられ、利根川染原の向かい、出られるべき儀憑(たの)み入り候。備えの様子委細工藤長門守所へ申し遣わし候の間、聞き届けられ御得心祝着たるべく候」(「中村不能斎採 [続きを読む]
  • 勝頼公の統治⑥
  • 猟師と毛皮 勝頼公は家臣が持つ武具を見た目がよく、実質を伴うものにしようとしていたが、武具材料中で重要なものに皮革があった。しかしながら、それに関わる史料はほとんど無い。そんな中で注目されるのが、天正2年(1574)12月25日に武田氏が木工允(もくのじょう)に鹿・熊の狩猟を認めた、次の印判状である。    定 毛皮進納致すべきの由申し候の条、郷次(ごうなみ)の御普請役御免許成され畢(おわ)んぬ。 然して御分国 [続きを読む]
  • 勝頼公の統治⑤
  • 金山衆 天正2年(1574)9月9日に、武田氏は信州金山衆に、兼ねての約束に従って秋に駿河榛原郡において三百貫の地を与えるが、場所は陣中において渡すと朱印状を出した。金山衆は従軍していたのである。 同年12月23日、武田氏は黒川金山衆の池田東市や保坂次郎右衛門尉へ、敵の城攻めの時に参陣することを条件に分国における諸商いのため馬一疋の分の役等を免許した。この文書は同じ黒川金山衆の田辺四郎左衛門尉などへ信玄が与 [続きを読む]
  • 高天神城攻略と遠江仕置
  • 勝頼公の高天神城攻略と遠江仕置 東美濃攻略を果たした武田勝頼公は、一転して遠江に侵攻し、徳川方の要衝高天神城攻略を目指し、天正2年(1574)5月に出陣した。高天神城は、元亀3年(1572)10月に開始された武田信玄の西上作戦に際し武田方に下ったが、天正元年(1573)4月以後、徳川方に再び帰属していた。『浜松御在城記』によると、勝頼公は5月3日に甲府を出陣し、4日に遠江国小山城に入り、6日に早良を経由して7日に高天神 [続きを読む]
  • 祖父信虎の死、徳川家康を犬居谷で破る
  • 祖父信虎の死 勝頼公が東美濃出兵から帰国してまもなくの、天正2年(1574)3月5日、祖父武田信虎が信濃国高遠で病没した。享年81(一説には77歳)。甲斐を統一した信虎は、嫡男の信玄によって駿河に追放され、今川氏の庇護を受けた。義元没後に上京して将軍(義輝・義昭)とも深い関係を持ったが、天正元年(1573)に将軍足利義昭が信長に追放されると、京都を離れて武田領国まで戻っていた。 勝頼公は、すでに高遠で祖父信虎と [続きを読む]
  • 長篠城陥落に伴う戦後処理
  • 長篠城陥落に伴う戦後処理 作手亀山城を脱出し、徳川方の松平伊忠・本多広孝・康重父子と合流した奥平定能・信政父子は、味方が無勢のため相談の後に宮崎瀧山(愛知県岡崎市額田町)へ撤退し、城普請をして、ここで武田方の攻撃を食い止めることで一決した。定能らはわずか二百騎ほどに過ぎなかったが、各地を焼き払いながら弓・鉄砲を恃みに瀧山に陣取った。 果たして天正元年(1573)9月21日、武田方は五千余騎をもって宮崎瀧 [続きを読む]
  • 勝頼公の攻勢
  • 勝頼公、東美濃を攻略 家督相続後、天正元年(1573)4月以降、徳川家康の反抗に悩まされ続けていた武田勝頼公は、開けて天正2年(1574)正月、積極的な反撃に転じた。勝頼公が軍勢を率いて侵入したのは、織田領国の東美濃である。勝頼公がこの時期に織田領国を攻撃したのは、正月早々に朝倉氏滅亡後の越前で朝倉遺臣や一向一揆の蜂起が起こり、織田方諸将が追放され、越前は加賀と同じく「百姓(一揆)の持ちたる国」という状況に [続きを読む]
  • 長篠城陥落
  • 長篠城陥落 奥平定能・信昌父子の離叛により、長篠城を包囲する徳川軍を撃破しようとしていた武田方の目論見は破綻しただけでなく、事態の意外な展開に混乱を来たしていたという。そこで徳川家康は、天正元年(1573)8月28日、陣払いとみせかけて敵を誘い出し、伏兵をもって武田軍を撃破しようとした。家康は、陣中に松葉を重ねてこれに火を放ち、陣払いを偽装し、路次に人数を伏せたのである。盛んに上がる煙を見た武田方の武者 [続きを読む]
  • 奥平定能・信昌父子の離反
  • 奥平定能・信昌父子の離反 長篠城を救援すべく、武田信豊・馬場信春・小山田信茂らの軍勢が三河国鳳来寺付近にまで進出したのは、天正元年(1573)8月中旬のことであった。馬場らは、5000余を率いて長篠近くの二ツ山(新城市富栄字富貴、正福寺付近)に布陣して内金(『菅沼家譜』による。『当代記』には内ケ野とあるが誤記。新城市長篠、長篠城まで約1.8キロ)付近にまで足軽を派遣して徳川軍を牽制した。 また、武田信豊・土屋 [続きを読む]
  • 勝頼公の統治④
  • 職人の支配―番匠 職人の代表として番匠(大工)があるが、勝頼公の時期になると番匠宛の文書も多く残っている。 元亀4年(天正元年。1573)8月27日、武田氏は青柳(富士川町)の番匠へ、同年9月5日には和田平(甲府市)の番匠へ、それぞれ普請役を免許した。職人と認定された番匠は職人としての役を負う代わりに、百姓が負担する普請役を免除されたのである。 天正元年(1573)12月23日、武田氏は「御大工水上左近佐」に麹座役 [続きを読む]
  • 長篠城の危機
  • 徳川家康の反抗 話を長篠城攻防戦前に戻そう。徳川家康は、天正元年(1573)5月に駿河国岡部を攻め、遠江の武田方諸城を攻略すると、浜松城には帰還せず、5月13日には三河国吉田城に入ったという(『朝野』第八十一)。その目的は、三河国長篠城の奪回に向けた情報収集にあった。家康は吉田城に入ると、長篠近在の百姓らを招き、城の様子などをつぶさに尋ねたとされる(『武徳大成記』等)。  当時長篠城に在城していたのは、長 [続きを読む]