鎌倉殿 さん プロフィール

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鎌倉殿さん: 教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱
ハンドル名鎌倉殿 さん
ブログタイトル教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱
ブログURLhttp://rashimban2.blog.fc2.com/
サイト紹介文鎌倉北条氏(宗政流)の末裔の一人が、世間の印象があまりよくない北条氏(特に得宗家)の誤解を払拭する。
自由文鎌倉北条氏の末裔の一人として私が学校や塾の日本史授業で鎌倉時代を教えるとき言いようのない無念さを覚える。教科書があまりに最新の研究成果を考慮せず誤った通説を載せているからだ。教科書執筆者の学説は古い。鎌倉北条氏の治世が本当に教科書に書かれているようなものであったのか、細川重男先生・秋山哲雄先生をはじめ最新の研究者の著書を引用しながら紹介し、北条氏につけられたマイナスイメージの払拭に努めたい。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供72回 / 97日(平均5.2回/週) - 参加 2017/04/20 18:49

鎌倉殿 さんのブログ記事

  • 15代執権 金沢(北条)貞顕
  • 金沢北条氏家督となるまで 金沢貞顕は弘安元年(1278)に金沢顕時の子として生まれた。母は遠藤為俊娘とされる。金沢北条氏は北条義時公の六男実泰を祖とする庶流であるが、実泰の子実時が北条泰時公に登用されて活躍し、北条時頼公・時宗公の政権下で評定衆や一番引付頭人などの要職に就いた。実時は武蔵国六浦荘金沢郷に別邸を設け、金沢文庫を創設したことでもよく知られている。その子顕時も北条時宗公・貞時公政権で評定衆や [続きを読む]
  • 14代執権 北条高時公
  • 『太平記』によってつくられたイメージ 「頗(すこぶ)る亡気の体(てい)にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」(まったく愚かで、将軍の執権などとても務められない)、「正体無き」(正気ではない)。『保暦間記』の北条高時公評価である。西源院本『太平記』巻五「相模入道好田楽事(でんがくをこのむのこと)?(ならびに)犬事(いぬのこと)」は高時公が田楽と闘犬に熱中し追従した幕府有力者たちが田楽法師や犬に居万の富を投じた様 [続きを読む]
  • 9代将軍 守邦親王
  • 知られざる血脈 鎌倉将軍も、第9代将軍守邦親王をもって終焉を迎える。守邦親王は、8代将軍久明親王の王子、母は7代将軍惟康親王の娘である。延慶元年(1308)8月、父が将軍を更迭された後を受けて8歳で将軍に任官した。その直後、親王宣下され、三品に叙されている。 源頼朝から始まる源氏将軍の系統が3代で絶えたことは、よく知られている。しかし偶然の所産とはいえ、最後の将軍守邦親王は源家の血筋をかすかにではあるが伝え [続きを読む]
  • 13代執権 普恩寺(北条)基時
  • 極楽寺流普恩寺氏 北条泰時公の弟重時に始まる鎌倉北条氏の門流を「極楽寺流」といい、重時の子、長時(赤橋氏)、時茂(常葉氏)、義政(塩田氏)、業時(普恩寺氏)の諸家があった(筆頭家格は赤橋氏)。基時はこの業時の孫にあたる。「普恩寺氏」と称するのは、孫の基時が創建した普恩寺という寺院名に由来する(『鎌倉廃寺辞典』)。 基時の祖父業時は連署を務めたが、父時兼は31歳で死去したこともあり、執権や連署への就任 [続きを読む]
  • 12代執権 政村流北条熈時
  • 熈時の出自と幕府内での活動 北条熈時(ひろとき)は、弘安2年(1279)北条為時の子(政村流、嘉元の乱で殺害された連署時村の孫)として生まれた。生年は複数の史料でまちまちであるが、今日では弘安2年説が有力である。熈時の属する政村流北条家は、北条氏庶家などのなかでも格家が高い。北条義時公の子である家祖政村は連署・7代執権を務め、政村の子で熈時の祖父にあたる時村は連署にまで至っている。父為時は幕府要職への就任 [続きを読む]
  • 11代執権 大仏(北条)宗宣
  • 誕生と烏帽子親 大仏宗宣(むねのぶ)は、正元元年(1259)に生まれた。父は大仏宣時(のぶとき)、母は北条時広(北条時房の孫で宣時の従兄)の娘である。後に鎌倉幕府の連署となる父宣時は22歳で、当時未だ幕府の役職には就任していなかった。 宗宣の元服の時期は不明であるが、弘安5年(1282)2月、24歳での雅楽允(うたのじょう)任官以前である。元服に際し、宗宣は烏帽子親の得宗北条時宗公より「宗」の字を賜ったとされている。 [続きを読む]
  • 10代執権 北条師時
  • 「相模四郎」師時 北条師時は、建治元年(1275)に生まれた。父は得宗北条時宗公の同母弟宗政、母は北条政村の娘である。叔父時宗公は師時を猶子(相続権のない養子)とし、もう一人の弟宗頼の子、兼時と宗方も猶子とした。『六波羅守護次第』兼時の項には時宗公の嫡子北条貞時公の猶子とあるが、年齢などから時宗公の猶子と考えられている。 早世した弟たち(宗政・宗頼)の遺児の面倒を見るためもあるだろうが、兄弟の存在が確 [続きを読む]
  • 8代将軍 久明親王
  • 久明親王の将軍任官と持明院統 久明親王は、持明院統初代後深草天皇の皇子として生まれた。『将軍執権次第』は誕生を建治2年(1276)9月11日としている。しかし『保暦間記』『鎌倉年代記』などの史書の多くは将軍任官時における久明の年齢を16歳としており、逆算すると文永11年(1274)の誕生となる。文永11年は第一次蒙古襲来すなわち文永の役の年である。『勘仲記』等の同時代史料に久明の誕生記事が見当たらないことから、いず [続きを読む]
  • 9代執権 北条貞時公
  • 執権就任と霜月騒動 北条貞時公は文永8年(1571)12月12日、北条時宗公の子として生まれた。母は時宗公の正室で安達義景の娘(兄泰盛の養女となる)堀内殿である。幼名は幸寿。得宗家の内管領(得宗家公文所執事)平頼綱が乳父として養育にあたった。時宗公に他に男子はおらず、まさに得宗家の御曹子であった。建治3年(1277)12月、父の例に倣い7歳で元服する。将軍御所において、父の執権時宗公をはじめとする北条氏一門や、外 [続きを読む]
  • 7代将軍 惟康親王
  • 異例ずくめの経歴 惟康親王は、文永元年(1264)鎌倉で生まれた。父は6代将軍宗尊親王(後嵯峨天皇皇子)、母は関白近衛兼経の娘宰子である。父が将軍職を罷免され京都へ送還(追放)されたため、3歳にして従四位下・征夷大将軍となった。征夷大将軍の最年少記録である。当時の名乗りは、惟康王であった。文永7年(1270)、7歳で元服し、従三位に昇叙された。同時に源氏賜姓されて、源惟康を名乗る。源実朝の暗殺以来、51年ぶりの [続きを読む]
  • 8代執権 北条時宗公
  • 生まれながらの北条氏家督 北条時宗公は5代執権時頼公の二男。母が時頼公の大叔父・連署であった北条重時の娘で、正妻であったため、3歳上の異母兄時輔(母は出雲国御家人三処氏の娘)がありながら、出生の時点から嫡子とされた。時輔の仮名(通称)が「三郎」であるのに対し、時宗公は「太郎」で、次郎が置かれなかった点に、兄弟間での時宗公の卓越した地位が示されている。時宗公は父時頼公、外祖父重時、重時の異母弟政村、同 [続きを読む]
  • 7代執権 北条政村
  • 四郎政村のネットワーク 北条政村は北条義時公の五男。母は所朝光(ところともみつ)の娘で、義時公の三人目の正妻である。同母弟に3歳下の実泰(金沢流祖)らがいる。朝光の子孫は彼が任官した伊賀守にちなみ、伊賀を苗字とした。当BLOGではこの一族を伊賀氏、政村の母を伊賀方と表記する。 政村の元服は9歳。烏帽子親は義時公に次ぐ有力御家人三浦義村で、政村の「村」は義村の偏諱(名の一字)を与えられたものである。実泰の元 [続きを読む]
  • 6代将軍 宗尊親王
  • 待望の皇族将軍 3代将軍源実朝暗殺後、幕府は後任に後鳥羽上皇の皇子を求めたが許されず、源頼朝の遠縁で摂関家出身の九条頼経が4代将軍に就任した。しかし4代頼経、5代頼嗣(頼経の子)と続いた摂家将軍(藤原将軍)は反北条氏の拠点となり、相次いで京都に送還(要は追放)された。建長4年(1252)2月、将軍頼嗣を廃することに決した幕府は、後継に後嵯峨上皇の皇子の鎌倉入府を要請し、第一皇子宗尊親王が6代将軍に選ばれた( [続きを読む]
  • 6代執権 赤橋(北条)長時
  • 極楽寺流と赤橋氏 長時は寛喜2年(1230)2月27日、北条重時の二男として生まれた。父重時に始まる北条氏の門流を「極楽寺流」というが、これは重時が構えた別業がのちに極楽寺となったことに由来する。このうち長時に始まる家系を「赤橋氏」とも称するが、これは鎌倉鶴岡八幡宮入口の源平池に架けられていた赤橋の付近に邸宅を構えていたことによる。 門流をつけて区別するのは、鎌倉時代中期にもなると北条氏の一門だけで1000名 [続きを読む]
  • 高麗出兵の実装
  • 異国を目指した武家 ここで、高麗出兵に参加した武士たちの様子をみておきたい。現在史料で確認できる、第一次出兵計画で軍勢催促を受けた人々を、守護・守護代発給の動員命令の日時順に列挙してみると九州5カ国24事例ある。内訳は、肥後(16事例)・豊後(3事例)・薩摩(2事例)・肥前(2事例)・筑前(1事例)となる。 この九州5カ国24事例は、後述のように、全体の三分の二が「筥崎八幡宮御神宝記」の紙背文書として偶然 [続きを読む]
  • 第一次異国征伐計画、前代未聞の動員
  • 異国征伐、前代未聞の動員 建治元年(1275)12月、鎌倉幕府は(1)翌年3月ごとに異国征伐を実施すること、(2)そのため九州諸国に梶取(かんどり)・水手(かこ)の用意をすること、(3)もし九州で不足する場合は、山陰・山陽・南海道諸国の守護人に不足分の梶取・水手を用意させること、の3点を大宰府守護少弐経資に命じた。同時に、山陽などの守護に対して、海辺を知行する地頭・御家人・京都被官の輩(本所一円地之住人や寺社 [続きを読む]
  • 第一次高麗出兵計画・幕府の主戦派
  • 第一次高麗出兵計画 建治元年(1275)9月7日、鎌倉幕府は長門国室津に来ていた元の使者一行を鎌倉に呼び、龍ノ口の刑場で処刑した。前年末には文永の役(文永の蒙古襲来)があり、いまだ軍事緊張の続いていた時期であった。このようなときに、元使を殺害したのであるから、幕府は戦争の継続を選択したことを意味する。9月・10月中の蒙古再襲来を必至とみた大宰府守護少弐経資が、九州武士たちに異国警固の強化を厳命し、各役所に [続きを読む]
  • 神国日本と民衆運動
  • 鎌倉の御神楽―永仁の蒙古襲来騒動 永仁元年(1293)10月21日夜、鎌倉の鶴岡八幡宮の社頭には700人もの群衆が殺到し、社家に依頼して御神楽の自主興行を行おうとしていた。1人が銭指1連(約百文)ずつ出し合ったので、総計70貫文が社家に奉納された勘定になる。この日の早朝、江ノ島が3度に渡って振動し、午前11時には雷鳴が轟いたという。いったい何の凶兆なのか、不安にかられた人々が次々と社頭に現れ、魔除けの祈禱をするよ [続きを読む]
  • 異国降伏祈禱
  • 異国降伏祈禱―神々の軍事動員 武士や民衆は、恩賞を求めて幕府の指揮下、戦闘に参加した。国土と朝廷を護るという意識は後から説明されたもので、その時点では希薄であったであろう。実は、神の戦争を行った神々の場合もまた、事情は全く同様であった。 菅原道真の北野天神が、祈禱をしてくれなければ闘わないと言ったように、神々を戦場に動員する手続きは、諸寺社の神官・僧侶集団による加持祈禱であった。蒙古襲来の期間中、 [続きを読む]
  • 神々の戦争―半死半生にもなる神々
  • 神々の戦争 薩摩の甑島に異国船団が来襲したと伝えられた時、朝廷では「徳政を行い、神に祈るしか道はない」と意見が一致した。徳政については前回見た通りだが、祈禱にはどのような意味があったのであろう。 ハレー彗星の時も、甑島襲来の時も、迅速に祈禱を指令したのは鎌倉幕府であった。軍事権門として国防を司る幕府の方が、朝廷よりも熱心に祈禱などという神頼みをしたのはなぜだろう。この時代の祈禱とは、決して単なる心 [続きを読む]
  • 元寇史観と天人相関説による彗星観
  • 縮図としての正安の蒙古襲来 前々回・前回と14世紀初めの年に起こった事件を追いかけてきた。蒙古襲来(元寇)への危機意識、ハレー彗星を契機とする政変、祈禱と徳政による蒙古政策、神領興行法令など。これらの事件の中には14世紀(1301年〜1400年)を考える際の多くの手がかりがあると思う。 正安の蒙古襲来、鎌倉幕府滅亡、建武政権、南北朝の動乱と続く激動の時代=14世紀とは、日本の歴史上どのような時代であったのか。政 [続きを読む]
  • 正安の蒙古襲来
  • 甑島襲来と「神風」 正安3年(1301)12月10日、九州から鎌倉に向かう幕府の早馬が京都に到着し、薩摩国甑島(こしきじま)に蒙古襲来があった旨を朝廷に報告した。使者の口上によれば、11月21日、島に軍船一艘が着岸し、その海上にはさらに二百艘ほどが控えているという。国家の重大事と慌てふためいた朝廷では、翌11日、亀山上皇(法皇)が列席する御前評定が行われ、対策が協議された。さまざまに議論はされたが、結局「徳政を行 [続きを読む]
  • ハレー彗星と貞時公の出家
  • 平和の巨鐘 正安3年(1301)8月17日の午前中、鎌倉山内の円覚寺では、新造の釣鐘を鐘楼に掛けて撞(つ)き初めをする儀式、鐘供養が厳かに挙行されていた。鎌倉では例のない総高2メートル60センチメートルのこの巨鐘は、8月7日の吉日を鋳込(いご)みの日と定めて、関東の鋳物・大工職人を総動員して年頭より準備された。 願主は鎌倉の主・9代執権北条貞時公であり、その呼びかけに応じて鋳造事業に助成した人々は1500人に達した。鎌 [続きを読む]
  • 5代執権 北条時頼公
  • 執権職に就くまで 北条時頼公は安貞元年(1227)5月14日に京都で生まれた。父は北条時氏公。当時六波羅探題北方として在京していた。母は安達景盛の息女(松下禅尼)。松下禅尼は破れた障子紙を自ら切り貼りし、時頼公に倹約の大切さを教えたことで知られている(『徒然草』第百八十四段)。兄弟には3歳上の兄経時公がおり、弟に時定(為時)がいた。幼名は戒寿。無住の『雑談(ぞうたん)集』によると、時頼公は幼少のころ、弓矢を [続きを読む]
  • 5代将軍 九条頼嗣
  • 父の跡を継ぐ 鎌倉幕府第5代将軍九条頼嗣は延応元年(1239)11月21日、4代将軍九条頼経と中納言藤原親能の娘大宮局(二棟御方)との間に誕生した(『吾妻鏡』同日条、基本史料『吾妻鏡』は以下日付のみを記す)。寛元2年(1244)4月21日、6歳で執権北条経時公を烏帽子親として元服した。元服は父頼経の先例に倣ったものであった。28日、将軍宣下を受け、父の譲りを受け5代将軍に就任した。将軍在職期間はわずかに8年。1年で将軍の [続きを読む]