鎌倉殿 さん プロフィール

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鎌倉殿さん: 教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱
ハンドル名鎌倉殿 さん
ブログタイトル教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱
ブログURLhttp://rashimban2.blog.fc2.com/
サイト紹介文鎌倉北条氏(宗政流)の末裔の一人が、世間の印象があまりよくない北条氏(特に得宗家)の誤解を払拭する。
自由文鎌倉北条氏の末裔の一人として私が学校や塾の日本史授業で鎌倉時代を教えるとき言いようのない無念さを覚える。教科書があまりに最新の研究成果を考慮せず誤った通説を載せているからだ。教科書執筆者の学説は古い。鎌倉北条氏の治世が本当に教科書に書かれているようなものであったのか、細川重男先生・秋山哲雄先生をはじめ最新の研究者の著書を引用しながら紹介し、北条氏につけられたマイナスイメージの払拭に努めたい。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供38回 / 37日(平均7.2回/週) - 参加 2017/04/20 18:49

鎌倉殿 さんのブログ記事

  • 2代執権 北条義時公②
  • 江間小四郎 前日は教科書的な説明に終始したので今日はもう少し掘り下げて義時公に迫ってみよう。相模守に任官する以前は、彼は北条四郎、江間四郎」、北条小四郎、江間(江馬)小四郎などと呼ばれている(『吾妻鏡』)。しかし、北条(当家を含め戸籍上は北條)の苗字で記されたのは23例、江間の苗字で記されたのは59例で、江間の方が圧倒的に多い。しかも、北条の場合は、父時政公・兄宗時との連記で「同四郎」と記された6例を [続きを読む]
  • 2代執権 北条義時公①
  • 源頼朝の側近として 北条義時公は長寛元年(1163)北条時政公の次男として生まれた。母は伊東入道(祐親か)の娘と伝える。同母兄に宗時、同母姉に政子がいる。通称は北条四郎、江間四郎、北条小四郎、江間(江馬)小四郎(『吾妻鏡』)。一次史料に若い頃の義時公を伝えるエピソードは見られないが、伊豆国北条の北西(狩野川を挟んだ隣地)に位置する江間を通称とすることから、時政公の嫡子ではなく、伊東祐親の娘婿となった江 [続きを読む]
  • 3代将軍 源実朝
  • 成長の環境 源実朝は、建久3年(1192)8月9日、父源頼朝、母北条政子の次男として生まれた。兄頼家の10歳下の弟にあたる。幼名は千幡。北条時政公の娘(政子の妹)で、頼朝の弟阿野全成の妻である阿波局が乳付(乳母)となった。11月29日に行われた五十日百日(いかももか)の儀は、祖父時政公の沙汰で行われ、叔父義時公が御贈物を献上しているように、北条氏一族の保護を背景に成長していった。一方、兄頼家の周辺には、父頼朝の [続きを読む]
  • 初代執権 北条時政公
  • 伊豆の在庁官人として(前半生) 北条時政公は、保延4年(1138)に生まれた。上総介平直方朝臣の五代孫とされ(『吾妻鏡』治承四年四月二十七日条)、父は北条四郎大夫時家(時方ともいう)、母は伊豆掾(国司の三等官)伴為房息女とされる(北条氏研究会「北条氏系図考証」)。祖父時方の代より伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)に住し、北条(正式には北條)を称したという。 時政公の前半生については不明な点が多いが、 [続きを読む]
  • 2代将軍 源頼家
  • 源頼家、成長とその環境 源頼家は寿永元年(1182)8月12日、父源頼朝、母北条政子の長男として誕生した。乳付(ちつけ)には比企尼息女(河越重頼妻)が呼ばれ乳母となった。その後、乳母夫には頼朝の信任の篤かった源氏一門の平賀義信が就任している。比企尼は、父頼朝の乳母として在京していたが、平治の乱後、頼朝が伊豆国に配流されると夫比企掃部丞(遠宗)とともに武蔵国比企郡に戻り、そこから頼朝の生活費等を送り続けた女 [続きを読む]
  • 鎌倉幕府と将軍・執権・連署(総論③)
  • 政治体制の三段階論 鎌倉幕府の政治体制は、将軍独裁・執権政治・得宗専制の三段階論が現在の基本的な定説である。将軍独裁と執権政治の境界には諸説あるものの、源頼朝将軍期・北条泰時公執権期がおのおのの典型とされる。執権政治と得宗専制の境界、つまり得宗専制の成立期についても諸説あるが、佐藤進一先生は「文永弘安以降の得宗専制時代」「得宗専制の第一段の確立者である北条時宗」(佐藤論文八十・九十三頁)と記してい [続きを読む]
  • 初代将軍 源頼朝
  • 源頼朝の人生の時期区分 源頼朝の久安3年(1147)4月8日から正治元年(1199)正月13日までの人生は、次のように、きれいに3区分される。 [第一期] 中央軍事貴族 源義朝の嫡子 久安3年4月〜永暦元年(1160)3月11日 ?1〜14歳(13年) [第二期] 伊豆の流人 永暦元年3月11日〜治承4年(1180)8月17日 ?14〜34歳(20年) [第三期] 鎌倉幕府の首長 治承4年8月17日〜正治元年(1199)正月13日 ?34〜53歳(18年)  頼朝 [続きを読む]
  • 鎌倉幕府と将軍・執権・連署(総論②)
  • 御家人 鎌倉幕府は建前上、鎌倉将軍家の家政機関(家の運営機関)である。だからこそ将軍と私的主従関係を結んで家臣となった者は、将軍への敬意を込めて「御」の字を家臣を指す「家人」の上を付け「御家人」と呼ばれるのである。御家人たちの主人の呼称は「鎌倉殿」であり、鎌倉殿の任官する官職が征夷大将軍なのである。 御家人は鎌倉時代を通じて約2000人(家)と推定されている(今野論文六十九頁)が、おのおのが家臣をもっ [続きを読む]
  • 鎌倉幕府と将軍・執権・連署(総論①)
  • 鎌倉幕府と将軍 治承4年(1180)8月17日、20年を越える流人生活の後、源頼朝は34歳で伊豆に挙兵した。5月15日の以仁王による挙兵計画発覚に始まった全国的長期内乱「源平合戦」(治承・寿永の内乱)は、ここに本格化する(戦乱の完全な集結は建久元年〈1190〉3月、大河兼任の乱の鎮圧)。 房総半島から武蔵国を経た頼朝は、10月6日相模国鎌倉に入った。鎌倉幕府の成立時期については、鎌倉幕府をいかに定義するかによって治承4年 [続きを読む]
  • 胎蔵せしもの
  • 胎蔵せしもの 桓武平氏直方流の末裔北条氏(少なくとも我が家ではそう伝わる)、細川重男先生曰く先祖の系譜は明らかでない伊豆の土豪的武士団北条氏は、婿となった流人源頼朝が鎌倉幕府の創始者となったことから、武家政権の権力の座を目指すレースへの参加資格を得た。平清盛とその子孫による六波羅政権が長く続いていたら、頼朝も北条氏もまったく違った人生を歩んでいたことであろう。 北条氏の庶子義時公は気づいた時には戦 [続きを読む]
  • 平頼綱の政治
  • 平頼綱の政治 弘安7年(1284)7月7日、時宗公卒去の4カ月後、安達泰盛らによる弘安徳政の開始の1カ月後、時宗公の嫡子貞時公は14歳で即座に幕府第9代執権に就任した。時宗公が14歳でまず連署(執権補佐)に就任し、18歳で執権に昇ったことと比べると、その形式主義・家格偏重主義がよくわかる。しかし、絶対的な権力者であった時宗公の急逝に直面した幕府は、それによる動揺を抑えるため、とりあえず形だけでも整えようとしたと [続きを読む]
  • 貞時公の幕政改革
  • 貞時公の幕政改革 平頼綱は、永仁元年(1293)4月22日、23歳に成長した主人貞時公の命令によって討たれる。世に言う平禅門の乱である。この乱の詳細は別の機会にする。それが実際には頼綱がなしたことであっても、貞時公は15歳で安達泰盛の討伐を命じた。そして、ここに頼綱をも倒した。かつて父時宗公を補佐し、貞時公にとっても最も身近であった2人を殺害して、貞時公は権力を掌中にした。平禅門の乱決行の時の貞時公は、二月騒 [続きを読む]
  • 弘安徳政―安達泰盛の幕政改革
  • すべての武士を幕府の下へ 時宗公没後、彼の権力を代行することになったのは、時宗公の諮問機関であった寄合であった。特に時宗公の外戚で嫡子貞時公の伯父でもある安達泰盛と時宗公の家令(得宗家公文所執事)であり貞時公には乳母夫でもある平頼綱が二大実力者となった。まず、主導権を握ったのは、安達泰盛である。 時宗公卒去の2カ月半後、弘安7年5月20日(弘安7年には閏4月がある)、現在「弘安新御式目」と呼ばれている38 [続きを読む]
  • 弘安の役後の時宗公
  • 誠実な独裁者 塩田(北条)義政の遁世以後、時宗公は弘安6年(1283)4月16日に義政の弟普恩寺(北条)業時を任命するまで連署を置かず、6年にわたって執権単独の体制を敷く。 異母兄すらも容赦なく誅殺する権力者を恐れ、へつらう者を誰が心から信用しようか。誰よりも時宗公自身がそう思っていたのではないか。権力者・独裁者は孤独である。 そんな時宗公が同母弟宗政の子の師時、同じく弟宗頼の子兼時と宗方の3人を猶子(実子 [続きを読む]
  • 独裁の代償と時宗公の最期
  • すべてを棄てた理由とは 出家と遁世は、現代では混同されることが多いが、中世では意味が異なる。簡単に説明すると、出家は真言宗・天台宗など古代以来の既成仏教(受験日本史用語では旧仏教)の宗派の僧となることであり、遁世は浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗といった当時の新興宗派(受験日本史用語では鎌倉新仏教)の僧となることであった当時、既成仏教は第二の俗世というべき状態にあったから、そこからも [続きを読む]
  • 北条時宗公にとっての「得宗専制」
  •  弘安3年(1280)は、源頼朝挙兵から100年目にあたる。時宗公の時代、鎌倉幕府は草創以来100年を迎えようとしていたのである。それは、幕府が、改めて歴史的な自己規定をする段階に入っていたことを意味しよう。 この時、蒙古(元朝)の国書がもたらされるのである。白村江敗戦(663)以来、本格的な対外危機が皆無であった日本国が、未曾有の対外危機を前にして、幕府に自己認識の再確認をさらに迫ることになったはずである。  [続きを読む]
  • 得宗と将軍
  • 得宗と将軍 武内宿禰の再誕と認識された北条義時公は、有徳の人なるが故に承久の乱に勝利し、天下を併呑した。ここに嫡孫時頼公が義時公の追号として「徳崇」を選んだ根拠の一つが見いだせるであろう。だが、義時公が有徳の人として、不徳の帝王を倒したことにより生じた新たな徳治の思想よりすれば、天皇家を継ぐ血統のみでは天皇(上皇)が統治者たり得ないように、義時公の後継者もまた、統治者たり得ない。統治者は徳を備えて [続きを読む]
  • 武内宿禰再誕伝説、鎌倉将軍の「御後見」
  • 鎌倉将軍の「御後見」 何らかの理由で北条氏の政治に批判的な立場にある者は、北条氏は将軍から権力を奪い、幕府の官職を独り占めして独裁政治を行った極悪人である。それゆえ御家人らの反発を買い滅亡したと言うであろう。というより言われたことがある。しかし、承久の乱から数えて112年、宝治合戦から数えて86年、霜月騒動から数えて48年、あるいは北条時政公が政所別当となった建仁3年(1203)から数えて130年、何の正統性も [続きを読む]
  • 弘安の役における神戦
  • 紀伊国の弘安徳政 現代人からすると奇異にうつるであろうが中世の人々にとって戦争とは、地上で戦う人間同士の戦いと天上世界で行われる神同士の戦いであり、勝敗を最後に決するのは後者の神戦であると考えられていたことは前日記した通りである。異類異形に姿を変えた八百万の神々のどれかが、布施額に応じた超自然的な力をふるって敵を蹴散らすというのである。神々を戦場に赴かせ、参戦させる祈禱は寺社が行うが、それを依頼す [続きを読む]
  • 中世人にとっての神風―神戦
  • 神戦の存在 鎌倉時代においては、というよりむしろ太平洋戦争敗戦まで、神戦(しんせん。かみいくさ)という用語が諸文献に散見する。鎌倉時代当時、戦争には地上で行われる人間同士の戦(いくさ)と、天上世界で行われる神同士に戦があり、勝敗を最後に決するのは後者の神戦であると考えられていた。また、神が人間の戦闘に加勢する場合もあると考えられていた。異類異形に姿を変えて地上の戦場に現れ、超自然的な力をふるって、敵を [続きを読む]
  • 朝廷の掌返し
  • 幕府の頼る朝廷 承久の乱の敗北以後、朝廷は統治能力を急速に減退させていき、京都と畿内近国の治安維持すらも六波羅探題に依存するようになった。これに加え、鎌倉中期以降、在地勢力の成長により、寺社本所の荘園支配は動揺し始める。その結果、朝廷側が幕府の介入を要請する結果をもたらした。「武家政権」「東国政権」という鎌倉幕府の本質(狭義)からすれば、西国の問題は本来関わる必要のないことである。一般に幕府が皇位 [続きを読む]
  • 得宗とは何か②
  • 時頼公の家督相続  さて、時頼公の執権就任、すなわち北条氏家督の継承が正当性を欠くものと周囲(他の北条氏有力者)に認識されていたことは、経時公卒去の直後、北条氏の有力庶家名越氏のあからさまな反抗(宮騒動)が起こったことからも明らかである。得宗家と名越氏の対立は、このときから始まった。 名越光時は「我ハ義時カ孫也、時頼ハ義時カ彦也」(俺は義時殿の孫だが、時頼は義時殿の曾孫じゃないか)と言い放ったと『 [続きを読む]
  • 得宗とは何か①
  • 義時と「得宗」の謎 北条時政公・義時公・泰時公・時氏公・経時公・時頼公・時宗公・貞時公・高時公の鎌倉北条氏家督(惣領)8世代9代、いわゆる北条九代は、現在「得宗」と呼ばれている。山川出版社「日本史B用語集」で「得宗」を引いてみると、「北条氏の嫡流の惣領家のことをいう。徳宗とも書き、名称は義時の法名徳宗(崇)に由来するという。義時・泰時・経時・時頼・時宗・貞時・高時の7代がそれである。」と書かれている。 [続きを読む]
  • 得宗とは何か③
  • 神話と実像の間 北条氏の庶子に生まれた江間小四郎義時公は、18歳の治承4年(1180)8月18日までは、父時政公より伊豆国北条の西隣江間郷を割き与えられただけの存在であり、兄宗時の家子として生きる以外の将来はなかった。源頼朝挙兵後の運命は、義時公自身の予想だにもしなかったことの連続であったであろう。 義時公の人生を鳥瞰してみると、本人の意志と無関係に次々に押し寄せる災難に振り回され続けである。姉政子が流人頼 [続きを読む]
  • 5月29日は横浜大空襲の日
  • 横浜大空襲 平成29年(2017)現在、横浜市は373万人の人口を誇る日本最大の地方公共団体である。その大都市横浜が壊滅的な被害を受けたことが近代以降2度ある。最初が大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災。震源は相模湾沖で、地震の規模を示すマグニチュードは7.9〜8.3。市内広域にわたり大きな被害を受けた。次が昭和20(1945)5月29日の横浜大空襲である。 中学校の教科書も、高校の教科書も、3月10日の東京大空襲につい [続きを読む]