鎌倉殿 さん プロフィール

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鎌倉殿さん: 教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱
ハンドル名鎌倉殿 さん
ブログタイトル教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱
ブログURLhttp://rashimban2.blog.fc2.com/
サイト紹介文鎌倉北条氏(宗政流)の末裔の一人が、世間の印象があまりよくない北条氏(特に得宗家)の誤解を払拭する。
自由文鎌倉北条氏の末裔の一人として私が学校や塾の日本史授業で鎌倉時代を教えるとき言いようのない無念さを覚える。教科書があまりに最新の研究成果を考慮せず誤った通説を載せているからだ。教科書執筆者の学説は古い。鎌倉北条氏の治世が本当に教科書に書かれているようなものであったのか、細川重男先生・秋山哲雄先生をはじめ最新の研究者の著書を引用しながら紹介し、北条氏につけられたマイナスイメージの払拭に努めたい。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供5回 / 3日(平均11.7回/週) - 参加 2017/04/20 18:49

鎌倉殿 さんのブログ記事

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  • 朝廷の北条氏の扱い
  • 朝廷の北条氏の扱い 摂家将軍や皇族将軍を推戴し、その「将軍権力代行者」の地位を得たのが北条氏家督「得宗」であり、得宗を中心とする北条氏一門。都市鎌倉の権力闘争の勝利者として鎌倉幕府支配層の中核に位置した。室町幕府や江戸幕府の頃と比べ、武士の地位がずっと低かった鎌倉時代において、北条氏は朝廷からどのような待遇を受けていたのであろうか。 北条氏の権力基盤が強化されるのは、蒙古襲来の「国難」を逆手に個人 [続きを読む]
  • 実朝怒りのエピソード②
  • 実朝怒りのエピソード②(東重胤) 和田合戦の前にも似たような話がある。建永元年(1206)であるから、畠山重忠の乱(二俣川合戦)・牧氏の変・宇都宮頼綱事件が連続した翌年のことである。実朝は15歳、義時公は44歳である。下総千葉氏の一族東重胤(とうのしげたね)は「無双の近仕」と言われる実朝の寵臣であったが、急に地元に帰ってしまい、そのまま数カ月も鎌倉に戻ってこなかった。実朝は、和歌を詠んで送り、重胤に早く帰 [続きを読む]
  • 実朝怒りのエピソード①
  • 源実朝と北条義時公のイメージ  鎌倉幕府3代将軍の源実朝にどのようなイメージを持っているだろうか。実朝は藤原定家の添削を受けながら和歌を学び、『金塊和歌集』を残した歌人としても知られている。下野の御家人長沼宗政は、「当代は歌鞠をもって業となし、武芸廃るるに似たり、女性をもって宗となし、勇士はこれ無きがごとし」(『吾妻鏡』建保元年九月二十六日条)と述べ、京都世界へ傾倒する実朝を憂慮している。 また、 [続きを読む]
  • 繁栄する都市鎌倉
  • 繁栄する都市鎌倉 高時期の幕府権力は圧倒的で、朝廷は統治能力を衰退させ、持明院統・大覚寺統に分裂した天皇家、貴族・大寺社などは、幕府に依存していた。繰り返されてきた幕府の内戦・政争も、高時期には嘉暦元年(1326)の嘉暦の騒動と元弘元年(1331)の元弘の騒動の2件以外にない。嘉暦の騒動は、高時公の後継として金沢流北条貞顕が15代執権に昇進したのを、北条泰家(高時公の同母弟)と大方殿(高時公・泰家の母)が怒 [続きを読む]
  • 得宗の存立基盤
  • 庭に座す時宗公 北条時宗公の権力は執権の職権を越えていた。細川重男先生は時宗公の地位を「将軍権力代行者」と表現する。時宗公が手にした将軍権力代行者の地位が嫡子貞時公・嫡孫高時公と北条氏家督「得宗」に一子相伝された政治体制、それが「得宗専制政治」と呼ばれるものの正体であったと述べている(細川重男『北条氏と鎌倉幕府』)。 ところで7代将軍惟康親王(後嵯峨天皇の孫)は初め惟康王を称していたが、文永7年(12 [続きを読む]
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