しべ桜の興味津々 さん プロフィール

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しべ桜の興味津々さん: しべ桜の興味津々
ハンドル名しべ桜の興味津々 さん
ブログタイトルしべ桜の興味津々
ブログURLhttp://harurindou.muragon.com/
サイト紹介文花が好きなのに育て下手な肥後っ子です
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供31回 / 26日(平均8.3回/週) - 参加 2017/04/30 20:38

しべ桜の興味津々 さんのブログ記事

  • 尊氏、九州へ、落ち延びたのではない?
  • 箱根の戦いに勝って勢いづいた尊氏勢は、 敗走する義貞勢を追って京都に猛追してきます。 義貞は宇治と山崎の間、大渡に陣を構えます。 勿論、武重も陣内におります。 両軍の主力が死力を尽くしての戦いですから、お互い一歩も譲らず 攻防は三日間も続きました。 時期は冬、正月です。 尊氏は京都に来るまでの間に、道々の武士たちを従え大軍に なっていました。 歴女も素直に感嘆します! やはり大物は違うなあ 武重は [続きを読む]
  • 尊氏と、義貞の、合戦また合戦
  • 足利尊氏と新田義貞は源氏の系統です。血統から見れば 義貞の方が、本家筋となります。 どちらも、北条政権の時に苦杯を舐めています。 源氏の世に戻したい、との思いは同じだったでしょうね。 でも、二人の進む道は次第に分かれて、気が付けば真っ向から 対峙する仲となっていました。 写真は栴檀(せんだん)の木です。今、どこも花盛り、 周りを見渡せばきっと見つかりますよ。 花言葉は意見の相違です・! 尊氏は鎌倉 [続きを読む]
  • 動乱のきっかけは、尊氏の鎌倉入り?
  • 写真は秋の七草の一つ、葛(くず)です。今は成長期で 縦横無尽につるを伸ばしているのです。 どこどこまでも、つるを伸ばして、木や草にからみ付き 巻き倒してしまいます。 見ながら、つい、思ってしまいました。尊氏みたいだなあ、と 後醍醐天皇の新政の時、足利尊氏が受けた恩賞は 武士の中では、楠氏、新田氏を超えて、最高の物でした。 なのに、何故、天皇に背いたのでしょうか? 後醍醐天皇にどんなに厚遇されても中 [続きを読む]
  • 歴女も感服、側近の諫言、泣けます
  • 今日はちょっと菊池氏を離れたお話です。 側近とは、後醍醐天皇の側近、万里小路藤房(までのこうじふじふさ) のことです。 功労者でもあった護良親王(大塔宮)を天皇は追放しました。 親王は後に、拘置された土牢で足利直義によって殺されるのですが、 その時、「尊氏よりも主上がうらめしい」と怨みの言葉を残されています。 今や天皇の失政は誰の目にも明らかになってきたころ、側近として 辛苦を共にして来た藤房は、 [続きを読む]
  • 建武の新政、武時の無念は晴らされたのか?
  • 菊池神社本殿です。武時公は主祭神のひとりとして祀られています。 北条氏が滅びると、後醍醐天皇の新政が始まりました。 まずは、手柄を立てた武将たちへの恩賞でしょうね。 天皇が設けた中央の役所に、記録所、武者所、雑訴決断所、恩賞方と あります。公家にしても、武家にしても、恩賞が一番の関心事だった のは言うまでもありません。 しかし、天皇はここで大きな間違いを犯してしまわれます。 それは、不平等な印象を [続きを読む]
  • 鎮西探題急襲の何故?と結末
  • 武時は表向きは、幕府体制側の御家人として、地方の領地紛争などで 幕府が下した判断を、命令、実行する立場にありました。 でも、前にも書いたように、実情は領地を減らされ、蒙古襲来の 恩賞もほとんど無く、一家を支えていくのに苦労していたのです。 そこに、ひそかに届いたのが後醍醐天皇の皇子の護良親王(大塔宮) 令旨(りょうじ)です。 朝廷の方でも皇統が次第に二つに分かれて来ていた時代 後醍醐天皇は、鎌倉幕 [続きを読む]
  • 武時挙兵が北条氏滅亡のきっかけ?
  • 武時とは、先日書いた、あの十四歳で家督を継いだ十二代当主 菊池武時公のことです。 その武時が、蒙古襲来以後に、博多に置かれた、 幕府の出先機関である鎮西探題に討ち入り 壮絶な戦死をとげたのです。 しかし、これがきっかとなり、足利尊氏らが兵をあげ、鎌倉幕府 は滅びました。 そして世は南北朝動乱の時代となります。 今日は、武時が高僧大智禅師を迎えて開いた鳳儀山聖護寺を 訪ねました。 武時は若いころから [続きを読む]
  • ちょっと一服、歴女の好きな隈府町2
  • さあ、隈府町の散歩を続けましょう。 昔、住んでたころにあった物、無かった物、はたまた、あったのに 気付いてなかった物など、ふむふむ、むふむふ、苦笑いの連続です。 咲いてましたよ!チャンチンもどきの花。初めて見ました。 もとい、高校生の時には見たかもしれないですよね。(笑) 昔は無かった道路です。あの小さな横路が大きくなって、懐かしい 風景はもう瞼の裏にうかべるのみです。 ここもそうです。 ここも! [続きを読む]
  • ちょっと一服、歴女の好きな隈府町
  • さあ、これから、菊池氏が華々しく歴史の表舞台に登場してきますよ。 でも、今日は、ひと休み、ひと休み。 お天気もいい事だし、隈府町をぶらり散歩してみましょう。 ここは御所通りです。 歴史を感じますね。 隈府一番館では菊池氏の墓所展をやってました。 この通りを真っ直ぐに行けば、菊池神社の前に着きます。 昔の町の面影を残してくれてますよね。 隈府町は碁盤の目のようになってると前に書きましたよね。 縦の大 [続きを読む]
  • 歴女の、そこが知りたいパート5、あはれ時隆17歳
  • 各地の御家人たちは新たな所領の増えない中、庶子のため分割相続を しなければなりません。 本領地は狭くなるばかりです。 一族間の内紛は起こるべくして起こりました。 写真がぼやけててすみません。 菊池氏は武房に八人の男子があり、皮肉なことに、 嫡男隆盛が家督を継ぐ前に亡くなります。 そこで隆盛の嫡男である時隆が、 つまり武房の孫が十一代の当主になったのです。 以前の広い領地なら、すんなりと相続できて、 [続きを読む]
  • 歴女の、そこが知りたいパート4 役の後
  • 二度の蒙古襲来は、大変な死闘の末に終着しました。 とくに二回目の敵軍は 船の数四千四百、兵士は十四万という大軍団でした。 写真は竹崎季長の城跡碑です。社会科で習いましたよね。 「蒙古襲来絵詞」勇ましい姿でした。 菊池市史には彼と武房のやり取りとか、さきがけの功の働きぶりなどが 書かれていて、興味深いです。 しかし、その文永,弘安の役後、菊地氏を含め九州御家人に対しての 恩賞は満足のいく物ではなかっ [続きを読む]
  • 歴女の、そこが知りたいパート3菊池武房
  • 今日は菊地氏十代当主武房(たけふさ)の話でしたね。 最初の蒙古襲来は文永の役(1274年)と呼ばれています。 さて、博多湾西方、百道原(ももじばる)の浜辺に上陸した 蒙古軍に対し、日本側から合戦の例によって 戦さ始めの鏑矢を射放ちますが、 かたや蒙古軍は太鼓をたたき、どらを打ち大声をあげます。 日本側の馬たちがその異様さに驚きます。 敵方の矢は雨のごとくに飛んで来ます。 戦法が全く違うのです。 や [続きを読む]
  • 歴女の、そこが知りたいパート2、蒙古襲来!
  • 承久の乱で武家社会を確立した北条氏は、幕府の基本法として 貞永式目(御成敗式目)を制定します。 乱から十年経っていました。 政局は安定し、全国的に開墾もすすみ 質実剛健な鎌倉文化が栄えたのです。 しかし、のちに元となる蒙古が、再三にわたり日本に対して 入貢を迫る国書と使者を送ってきます。 実に七回も、 幕府はこれを黙殺しました。 使者達は日本への遠征は無意味で大きな浪費であると、 王フビライに報告 [続きを読む]
  • 歴女の、そこが知りたいの!
  • 前日書きましたね、 鎌倉幕府のやり方を朝廷は黙って見ていたのかと。 この花は都忘れという名前です。 承久の乱で佐渡へ流された順徳上皇はこの花を見れば 都への思いを忘れられると話されたとか。 花言葉はしばしの慰め、別れ、です。 さて承久の乱とはどんな事件だったのでしょう。 この頃、朝廷では後鳥羽上皇による院政が敷かれていました。 知人の庭と脇道の野ばらです。新緑が目に優しく映ります。 では、話に戻り [続きを読む]
  • 歴女のばら祭り
  • 熊本カントリーパークでばらの香に包まれて、英気を養って 来ました。慣れないブログ作りに、少々疲れぎみでしたから。 さ、充分癒された所で、いざ、出陣です。 今日のテーマは領地の安堵です。 頼朝の九州施政は、きめの細かいものでした。 平氏の地盤であったためです。菊池氏の場合も平氏方として (壇ノ浦の戦さでは隆直の二人の子供が討ち死に) 戦後処理の対象となり所領が没収されましたが、本領の菊池 だけは安堵 [続きを読む]
  • 歴女になるなら・・パート3
  • 新しくなった、八女市岩戸山歴史文化交流舘を見学しました。 岩戸山古墳の石人,石馬は有名ですよね。 後日改めてご紹介致します。 なんと!受付のパンフレットの中に「南北朝動乱のドラマ」の 冊子がありました。菊地武光とともに南朝の皇子達を守り 戦った八女の武将達、でもまだ詳しくは書けません。 これからお話しするのは鎌倉時代の菊池氏一族です。 平安時代の末期に台頭してして来た、源氏と平氏は 相争う顛末のあ [続きを読む]
  • 歴女になるなら・・パート2
  • 菊池川流域を治めることになった初代則隆は、本拠地を 川に近い小高い場所にきめます。 ん?丘なんですか?山じゃなくて? 何故でしょうねぇ、 世は平安時代ではありましたが、地方豪族達は着々と 財力と武力とを蓄えていたのです。武力は理解できますが 財力はどうやって増やしたのでしょう。 歴女は考えましょう! 昔は水量多く、船も行き来していたんです。人や物をたくさん 積んで。遠隔地との物資のやり取り、つまり [続きを読む]
  • 歴女になるなら・・
  • ♪〜悪女にな〜るなら♪〜月夜はおよしよ♪〜素直になりすぎ〜る♪〜 では、歴女になるにはどうすればいいのかしら? まず故郷の歴史に目を向けてみるのもひとつの手だとおもいます。 今、菊池氏一族の話を載せていますが、調べれば、調べるほどに 興味が湧いてくるのです。菊地の隈府を拠点に繰り広げられる 一代戦国絵巻・・平安、鎌倉、南北朝、室町、と時代の長に 果敢に立ち向かい、例え負けても、また、立ち上がり、挑 [続きを読む]
  • ブラタモリ風に歩いて見たら・・
  • 築地井出を見に行きました。 この上流に菊池川からの取水口があります。 お薬師さんの足元を流れ、 本当の所は解りませんが、清正公が作ったと子供の頃に聞きました。 昔はまだ水量が多く澄んでいて冷たく、水底には 川藻がゆらゆらと揺れ動くさまは、子供心にも畏怖の念さえ抱く ほど美しい井出でした。 田園が井出より下になっているのがわかりますよね。 この土手を築き上げるのは、当時としては大変な土木工事でした。 [続きを読む]
  • 菊池氏初代則隆公
  • 則隆公は藤原則隆として、太宰府天満宮領赤星荘園の荘官 として赴任したと言われています。 姓を地名から取って菊池則隆と称したそうです。(菊地市史) 則隆は領民のため、ひいては荘園繁栄のため,各村に鎮守社、寺を 建立しています。 裏側は急な凝灰岩の崖で、横穴に石仏が祀られています。 ひとつだけ人が入れるくらいの穴があり、横穴式古墳かな?と 思いました。 静かな山村の奥に四宮神社はあります。 貴船神社で [続きを読む]
  • チャンチンもどき・・?
  • この高校に通っていた時もここに立ってたんですね。こんな大きな木に 気付かなかったなんて・・、言い訳がましいんですが、 当時とは校舎も違うし、他にも大きな楠が何本もあって、 校門入口からは両側にヒマラヤ杉がずらっと並んでたんですもの。 ごめんなさい。 元体育館跡地から貴重な遺跡が見つかってたんですね。 校門入ってすぐ左側になります。 丁寧な説明板は大変有難かったんですが、如何せん読みにくい。 いえ、 [続きを読む]
  • 西郷隆盛の祖先は菊池氏
  • あの西郷隆盛ですよ! 木々が邪魔して正面から撮れませんでした。 西郷隆盛は子供たちに菊の一字を付けているそうです。 羽根木八幡神社。 いやあ、びっくり、びっくりですね。さすが菊池氏! そして、もうひとつお見せしたい所があります。 これは年賀塚古墳です。まわりは削られて小さいです。 昭和天皇もご覧になった景色です。 平野の景色は変わっても、遠くの山々は縄文時代、弥生時代、 古墳時代も変わらず、その姿 [続きを読む]
  • 隈府町に行って来ました
  • 今日は五月五日、数十年ぶりの、祝日のお出かけです。 去年の地震が、人生を変えたようですね。みんなが遊ぶ時に働いて ましたから。新緑の中、行きましたよ隈府へ! 築地井出(ついじいで)があります。この道を歩いて小学校へ 通いました。 今日は菊池神社へご案内いたします。前にも載せましたが、もう一度 お付き合いくださいね。 第一の大鳥居からの参道が物凄く長いんです。 二番目の鳥居です。ここから石段がこれま [続きを読む]
  • もう一度吉野山
  • 隈府町の事を書くには菊池氏は欠かせませんし 菊池氏の歴史を書くにはやっぱり南北朝時代が欠かせないのです。 どの時代も、領地を懸命に守った菊池氏の当主達、時には拡大、 時には、縮小されつつ、数百年に渡り、菊地を治めたのです。 朝廷を二派に分かつほどの後醍醐天皇のお気持ちとは? 山桜に酔いしれつつ坂道をのぼり、吉水神社を訪ねました。 正直言って、ここに南朝の皇居があるなんて知りませんでした。 天皇はこ [続きを読む]
  • ちょっと脇道へパート2
  • 念願だった明日香村へ行きました。 蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳です。熊本県も巨石で作った古墳が あるので、ここは一度は訪れたかったのです。 中にあった石棺を復元した物です。 蘇我馬子が発願し創建された飛鳥寺です。 寺のパンフレットには日本最古の飛鳥大仏とありました。 次の日は東大寺も見学しました。 奈良国立博物館では快慶の特別展があってて慈悲深い目をされた いろんな仏像を鑑賞できて最高でした [続きを読む]