匿名猿 さん プロフィール

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匿名猿さん: 草莽崛起 | 吉田松陰から始める幕末探訪
ハンドル名匿名猿 さん
ブログタイトル草莽崛起 | 吉田松陰から始める幕末探訪
ブログURLhttps://www.somokukki.com/
サイト紹介文吉田松陰の生涯30年を、1日を1年、1か月を30年として、毎月繰り返して振り返りながら掘り下げます。
自由文杉家の人々や、江戸遊学や松下村塾、野山獄などで交流のあった人々に関する情報も、随時追加しながら、吉田松陰の生きた時代についての情報を共有したいと思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供31回 / 20日(平均10.8回/週) - 参加 2017/05/03 20:26

匿名猿 さんのブログ記事

  • 【書評】松方冬子『オランダ風説書』2010年
  • 吉田松陰が生きた時代における最大のイベントである黒船来航に絡む事柄を知るために、まずはこの本を読んでみようと手に取りました。以前から気になっておりましたが、全くの初見です。さて、どんなものでしょうか。松方冬子『オランダ風説書』以下、本書の各章・各節を読みながら、それぞれの要約と感想を付しています。まだ途中までです、ご了承ください。「通常の」風説書長崎と「四つの口」【要約】オランダ商船の日本への入港 [続きを読む]
  • 吉田松陰、長州藩の海防に関わる役職に任じられる
  • 嘉永2年(1849年)吉田松陰は、長州藩の海防御手当御内用係に任じられました。吉田松陰 20歳藩に対して、海防に関する意見をまとめた『水陸戦略』を藩に提出した松蔭は、海防にかかる役職(海防御手当御内用係)となりました。長州藩は、日本海、瀬戸内海、そして関門海峡という三方が海に面する地理的な特徴があるため、藩の上層部にも海防への強い関心がありました。海防御手当御内用係に任ぜられた松蔭は、藩内の専門家らと [続きを読む]
  • 【吉田松陰の名言】亦一生の内の日なり
  • 吉田松陰は、常に思想を発展させながら自ら行動し続けて、僅か30年の生涯を全力で駆け抜けた人物です。ひとつの成功もない「失敗の一代」と評価されながらも、多くの偉人たちを生み出した吉田松陰の名言を紹介します。さて、本日の吉田松陰の名言は・・・亦一生の内の日なりこの言葉は、松蔭の兄である梅太郎に対して言った言葉として伝えられています。吉田松陰は、弱冠6歳で、長州藩の山鹿流兵学師範の吉田家の当主となり、学 [続きを読む]
  • 吉田松陰、山鹿流兵学の「大星目録」を受ける
  • 弘化4年(1849年)吉田松陰は、林真人から山鹿流兵学の「大星目録」を受けました。吉田松陰 18歳幼少の頃から山鹿流兵学師範として教授できる素養をつけるために、多くの師から学問を学んで来ましたが、18歳にしてやっと山鹿流兵学のひとつの節目に達しました。山本勘介による兵法奥義、大星目録山鹿流兵学では、山鹿素行が書いた『武教全書』を学ぶことが基礎となっています。『武教全書』は、武士としての日頃の態度か [続きを読む]
  • 【まとめ】萩で教えを受けた吉田松陰の師たち
  • 弘化2年(1845年)吉田松陰は萩にて、多くの師から学問を学ぶ。すでに吉田松陰の生涯の半分が過ぎ、16歳を迎えた松蔭ですが、依然として萩から外に出たことがなく、多くの師に就いて学問に明け暮れる生活を続けています。ここでは、萩において吉田松陰が学問を学んだ師たちについて、まとめてみたいと思います。尊王精神を刻み込んだ父・百合之助松蔭にとっての最初の師は、父の百合之助です。兄と共に連れ立って畑に行き、畑仕 [続きを読む]
  • 山田亦介(やまだ またすけ)
  • 山田亦介は、長州藩における天保の藩政改革を主導した村田清風の甥で、長沼流兵学者です。吉田松陰は、山鹿流兵学の吉田家の当主ですが、山鹿流兵学の祖である山鹿素行は、広く学問を学ぶことを推奨しており、他流派の兵学を学ぶことも山鹿流兵学者としての正しい態度であるといえます。松蔭に対して、山田亦介を紹介したのは、後見人である山田宇右衛門です。西洋陣法にも詳しい長沼流兵学者、山田亦介松蔭は山鹿流兵学の吉田家を [続きを読む]
  • 【書評】玖村敏雄『吉田松陰』1936年
  • 吉田松陰全集の編集委員を務めた玖村敏雄による『吉田松陰』と名付けられた本ですから、評価が高くても低くても必ず読むべき書籍だと思い、購入しました。いや、実際のところ、研究者の間では評価が低くて有名な本ではあるのですが、さて、どんなものでしょうか。玖村敏雄『吉田松陰』以下、各章の節ごとに要約と感想を書いています。まだ読了していませんので本記事も完結していません。事前にご了承ください。序【要約】吉田松陰 [続きを読む]
  • 【鎖国史】徳川家康、朱印状による商船貿易の統制を始める
  • 幕末の最大のテーマのひとつである”鎖国”について正確に理解するために、徳川幕府による諸外国との外交と貿易に関する政策について「鎖国史」としてまとめるシリーズを始めます。今回は、徳川家康が幕府成立前後で行った貿易と外交政策についてです。アジア諸国に朱印船貿易開始を通知徳川家康が征夷大将軍に任官される二年前の慶長6年(1601年)、アジア諸国との貿易を行う商船に対して、朱印状を発給する制度を開始しました。 [続きを読む]
  • 百合之助、藩の役職「百人中間頭兼盗賊改方」に就く
  • 天保14年(1843年)父・百合之助、長州藩の百人中間頭兼盗賊改方になりました。長州藩の藩士(無給通)である吉田松陰の父・杉百合之助は長年、ほぼ農作業に専従する生活を送っていましたが、この年、萩の警察署長にあたる”百人中間頭兼盗賊改方”の役職に就きました。禄高26石に加え、役職の役料(給料)が支給される百合之助の性格上、藩のために仕事が出来ることを喜んだことと思いますが、杉家にとっては役職に就いたために [続きを読む]
  • 【書評】一坂太郎『吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち』2014年
  • 家族の側から吉田松蔭を描くというのは、一種の流行りのようなモノなので、あまり期待せずに購入。さて、どんなもんでしょうか。一坂太郎『吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち』各項ごとに要約と感想を書いていきます。「山宅」の思い出松蔭は「下級武士」か【要約】吉田松陰を扱う書籍では、ことさらに貧乏な家に育ったことを強調する文章が多いが、藩の武士階級の構成などを見てみると、決して「下級」でも「貧乏」でもないよ [続きを読む]
  • 山田宇右衛門(やまだ うえもん)
  • 山田宇右衛門は、山鹿流兵学者で、明倫館の教授となった吉田松陰を支える後見人のひとりです。吉田松陰の養父・吉田大助の門下生、山田宇右衛門山田宇右衛門は、吉田松陰の先代であり、養父であり、叔父である吉田大助から、山鹿流兵学を学びました。松蔭が独立師範となる前には、明倫館にて代理教授を務めています。ただし、学問よりも、実践を重んじたため、山鹿流兵学においては玉木文之進や林真人には及ばなかったそうです。( [続きを読む]
  • 林真人(はやし まひと)
  • 林真人は、山鹿流兵学者で、明倫館の教授となった吉田松陰を支える後見人のひとりです。山鹿流兵学の三重秘伝の取得者、林真人山鹿素行を祖とする山鹿流兵学は、素行から3人の門人に対して伝えられ、それ以降、それぞれの門人から最大3人を後継者としてきました。これを「三重秘伝」と言います。林真人は、三重秘伝を受けた山鹿流兵学の継承者のひとりで、同時代では玉木文之進と並んで山鹿流兵学を牽引する立場にあります。松蔭 [続きを読む]
  • 【書評】徳富蘇峰『吉田松陰』1893年
  • 吉田松陰を知る上での必読書。明治時代に書かれた書籍であるため、文章が難解であることから、できれば避けて通りたいけど、どうしても避けては通れない書籍です。現代においても吉田松陰研究において、その基礎となるのが、徳富蘇峰『吉田松陰』です。徳富蘇峰『吉田松陰』(Amazon)少しずつ読み進めながら、各章を読んで思ったことを書き加えていきます。まだ、すべてが完了しておりません。誰ぞ 吉田松陰とは【要約】関ヶ原の [続きを読む]
  • 吉田松陰、御前講義(親試)で藩主・毛利敬親に『武教全書』を講義
  • 天保11年(1840年)吉田松陰は、藩主・毛利敬親に対して山鹿流兵学の授業を行いました。吉田松陰 11歳3年前の天保8年に長州藩の藩主となった毛利敬親は、村田清風を老中として藩政改革を進めました。第一の課題は、藩の存続さえ危ぶまれる慢性的な赤字の解消という財政問題でしたが、藩の次代を担う人材の育成にも力を入れ、藩内の学者たちの意欲を向上させるための方策も同時に行われました。松蔭が11歳にして藩主に対して山 [続きを読む]
  • 吉田松陰は弱冠10歳にして藩校明倫館で授業をしていた
  • 天保10年(1839年)11月吉田松陰、明倫館の教授として兵学を教える松蔭は前年、叔父の玉木文之進を後見人として藩校明倫館の教授見習いとして出仕していましたが、10歳となった天保10年11月、家学である山鹿流兵学の師範として、長州藩のエリート藩士らに対して授業を行っています。幕末を代表する志士たちを育てた松蔭の教育者としての第一歩です。山鹿流兵学師範・吉田家の当主による授業の再開松蔭が吉田家の家督を継いだのは6 [続きを読む]
  • 藩士育成のために儒学から水泳・馬術まで教えた萩の藩校・明倫館
  • 吉田大次郎(のちの松蔭)は天保9年(1838年)、9歳で萩藩の藩校である明倫館の教授見習いとなりました。松蔭は、自宅にて叔父の玉木文之進から教育を受けていますので、明倫館に生徒として通ったことがありませんでした。兄の梅太郎は明倫館に通ったそうですが、松蔭の場合、山鹿流兵法師範の吉田家の家督を継いだことから、同世代よりも早く教育者として一人立ちすることが求められました。では、萩藩の藩校である明倫館につい [続きを読む]
  • オットセイ将軍と呼ばれた徳川家斉と『文政十年の詔』
  • 天保8年(1837年)4月第11代将軍・徳川家斉が将軍職を譲って大御所になりました。吉田松陰 8歳この同じ年には、長州藩を治める毛利家においても、毛利敬親が第13代藩主となっていますが、まずは当時の日本全体の状況を把握するために、徳川家斉について考察したいと思います。松蔭の父・百合之助が嘆き悲しんだ『文政十年の詔』についても、最後に書いています。家斉の将軍就任時から書きますので、かなり長文になりますがご了承 [続きを読む]
  • 吉田松陰が父から学んだ『文政十年の詔』を読む。
  • 本日は7日ですから、松蔭7歳のときのことを書きたいのですが、この天保7年(1836年)という年には、具体的なエピソードが残されていません。ただ、この年の松蔭は、既に吉田家の家督を継いでおり、幼年ながらも猛勉強を強いられていた時期であることは間違いありませんので、松蔭の教育のために父の百合之助が使用した教材のひとつである『文政十年の詔』を読んでみたいと思います。百合之助は、この『文政十年の詔』を読んで、皇 [続きを読む]
  • 吉田松陰の性格は、養父・大助から受け継がれた?
  • 天保6年(1835年)6月21日、吉田大次郎(のちの松蔭)は、養父である吉田大助を失くし、山鹿流兵学師範の吉田家の家督を継ぎました。吉田大二郎 6歳前年に養子となったばかりですから、養子として過ごした期間は一年未満の短い時間でしたが、吉田家の家督だけでなく、大助の性格までも、松蔭は継承したのではないかという考察があります。『吉田松陰とペスタロツチ−』(昭和5年)のなかで、大久保龍がそのように指摘しています。 [続きを読む]
  • 吉田松陰(吉田大次郎)、親元を離れて吉田家で暮らす
  • 天保5年(1834年)吉田松陰は、杉家を出て、吉田家で暮らすことになりました。黒川村の庄屋の娘・久満子と結婚した吉田大助(松蔭の叔父)には、結婚後2年間、子供が産まれませんでした。このため、大助は、吉田家の後継者を作るために、松蔭を養子として吉田家に迎え入れました。松蔭、吉田大助の住む松本村の家へ多くの資料では、松蔭が21歳で江戸へ遊学に出掛けるまでは、ずっと杉家で生活していたと記述されています。私もこ [続きを読む]
  • 吉田松陰(杉寅次郎)、兄の梅太郎と共に素読に励む
  • 天保4年(1833年)吉田松陰は、兄・梅太郎と共に、父・百合之助から学びました。松蔭(この当時は寅次郎)に対する本格的な教育は、山鹿流兵法師範の吉田家の家督を継いでから叔父・玉木文之進によって行われましたが、それ以前から、父・百合之助の畑仕事に同行し、畑のあぜ道に兄・梅太郎と並んで『論語』や『孟子』などの素読をしていたようです。素読から始まった松蔭の学習方法について、まとめてみたいと思います。吉田松陰 [続きを読む]
  • 吉田大助、黒川村の庄屋の娘・久満子と結婚する
  • 天保3年(1832年)寅次郎(のちの吉田松蔭)の叔父である吉田大助が、結婚しました。萩郊外の団子岩にある杉家のボロ家で一緒に暮らしていた吉田大助が、この年、結婚して山の下に新居を構えました。新居は、萩の城下町から松本川を超えた場所なので、住所は変わらず松本村です。三兄弟で一番の秀才・吉田大助松蔭の父親の百合之助には、大助と文之進という二人の弟がいました。百合之助は、杉家の生活のために懸命に働く一方で、 [続きを読む]
  • 下田踏海事件を共にした金子重之輔、生まれる
  • 天保2年(1831年)2月13日松蔭と運命を共にした金子重之輔が、生まれました。前年の天保元年(1830年)に産まれたばかりの松蔭(数えで2歳)には、目立ったエピソードは残されていませんが、この年、松蔭らの家族が住む団子岩からさらに山を越えた先の阿武郡紫福村の商人の家に、貞吉という名の男の子が生まれました。のちの金子重之輔(かねこ・じゅうのすけ)です。松蔭が黒船に乗って渡米するという大胆な計画を打ち立てた際に [続きを読む]
  • 吉田松陰が生まれた頃の長州藩・毛利家の状況
  • 5月になりました。吉田松陰の生涯30年を、1日1年として振り返り、1か月で生涯を見るという記録を、今月から本格的に始めたいと思います。すでに、吉田松陰が生まれた杉家や、杉家の家族構成、石高、実収入などについては書いていますので、本日は、吉田松陰が生まれた当時の長州藩について書きたいと思います。長州藩が成立した経緯、吉川広家の忠義心戦国時代のクライマックスである関ヶ原の合戦において、西軍総大将を務めたのが [続きを読む]