匿名猿 さん プロフィール

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匿名猿さん: 草莽崛起 | 吉田松陰から始める幕末探訪
ハンドル名匿名猿 さん
ブログタイトル草莽崛起 | 吉田松陰から始める幕末探訪
ブログURLhttps://www.somokukki.com/
サイト紹介文吉田松陰の生涯30年を、1日を1年、1か月を30年として、毎月繰り返して振り返りながら掘り下げます。
自由文杉家の人々や、江戸遊学や松下村塾、野山獄などで交流のあった人々に関する情報も、随時追加しながら、吉田松陰の生きた時代についての情報を共有したいと思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供41回 / 47日(平均6.1回/週) - 参加 2017/05/03 20:26

匿名猿 さんのブログ記事

  • 吉田松陰が幼少時に学んだ”儒教”は、朱子学か水戸学派か。
  • 吉田松陰は生涯に渡って様々な思想に触れることになったが、山鹿流兵学者としての素養を身に着けるために学問一辺倒だった幼少から二十歳までの期間に、どのような思想を学んでいたのかについて考察してみたいと思います。松蔭が生きた時代における「素養」と言えば、四書五経であり、父・百合之助も、叔父・玉木文之進も、四書五経を教材として松蔭を指導したという文言が数多く見られます。つまり、儒教を基礎的な素養としたこと [続きを読む]
  • 吉田松陰は、故郷の萩に「郷土愛」を抱いていたのか?
  • 今月は「吉田松陰とナショナリズム」という背伸びしたテーマについての考察をしていきます。このブログでは、吉田松陰の生涯30年を、毎月一巡のペースで見ていくことを基本にしていますので、本日6日は、6歳の頃の松蔭ということで、幼少期を中心に据え、松蔭が生まれ育った萩に対する「郷土愛」について考えたいと思います。学校に通っておらず、友達ゼロの幼少期ちょうど6歳のとき、松蔭は養父である吉田大助を亡くしたため [続きを読む]
  • 有吉熊次郎(ありよし くまじろう)
  • 有吉熊次郎(ありよし・くまじろう)は、長州藩士。有吉熊次郎 年譜天保13年(1842年) 1歳長州藩士・有吉忠助の次男として生まれる。安政4年(1857年) 16歳土屋蕭海の紹介を受け、松下村塾に入塾する。友人の天野清三郎を、松下村塾に誘う。安政5年(1858年) 17歳吉田松陰の「中間部詮勝要撃策」に血盟する。血盟したことが判明し、自宅幽閉される。松蔭の投獄に抗議するため、周布政之助らの邸宅に押 [続きを読む]
  • 天野清三郎(あまの せいざぶろう)
  • 天野清三郎(あまの・せいざぶろう)は、長州藩の藩士。天野清三郎 年譜天保14年(1843年)4月3日、長門国の藩士、渡辺家に生まれる。詳細不明ながら、幼少期に天野家の養子となる。安政4年(1857年)友人だった有吉熊次郎に誘われて、松下村塾に入る。万延元年(1860年)洋式軍艦「丙辰丸」の江戸に向かう遠洋航海に参加する。文久3年(1863年)奇兵隊に入隊する。慶応3年(1867年)12月 藩の命令 [続きを読む]
  • 赤川淡水(あかがわ あわみ)
  • 赤川淡水(あかがわ・あわみ)は、長州藩士。赤川淡水 年譜天保3年(1833年)長州藩に生まれる。元治元年(1864年)禁門の変に従軍する。戦の中盤から指揮を執るも敗れる。11月、藩の幕府恭順派によって、野山獄にて刑死。佐久間佐兵衛としても知られる、赤川淡水赤川淡水も、生涯で多くの氏名を持った人物です。生まれは中村家で、幼名は中村直次郎でしたが、まだ物心がつかないうちに父親を亡くしており、叔父の赤川 [続きを読む]
  • 【書評】古川薫『松下村塾』2014年
  • 吉田松陰に関する書籍は、とにかく片っ端から読んでいて、時として残念な気持ちになったり、怒りを覚えることさえあるのですが、古川薫さんの著書には無駄な偏りがないので、安心して読めます。古川薫『松下村塾』2014年何を、誰に、どのように教えたか吉田松陰が塾主として関わった松下村塾は、僅か1年半程度の短期間でしたが、幕末から明治維新という日本の歴史において重要な役割を担った人物を数多く輩出しました。この書籍に [続きを読む]
  • 【書評】サピエンス全史(上)2016年
  • 今月は、吉田松陰とナショナリズムという視点からブログを書いていきたいと考えておりまして、人類の思想史の根本について考えてみたとき、もう一度、この本を読んでみたいと思いました。全編を通して読むのは三回目です。サピエンス全史(上)ユヴァル・ノア・ハラリホモ・サピエンスによって絶滅した種この本の序盤の見どころは、太古の昔にはホモ属にはサピエンス以外にも多くの兄弟種であるヒトが地球上に存在していたが、何ら [続きを読む]
  • 吉田松陰、テロ計画「間部詮勝要撃策」により投獄される
  • 安政5年(1858年)11月6日間部詮勝の要撃を計画し、長州藩に協力を求める。吉田松陰 29歳最近になって流行気味の「吉田松陰はテロリストである」との見解の根拠になっているのが、この「間部詮勝要撃策」に始まる一連の行動です。前年に、松下村塾の三代目塾主となった松蔭は、30年の生涯で最も平穏な日々を過ごしていましたが、違勅による条約締結という幕府の暴挙に憤慨し、直接行動を計画するようになります。以下 [続きを読む]
  • 吉田松陰は、松下村塾の3代目の塾主である。
  • 安政4年(1857年)11月5日吉田松陰が第3代目の塾主となり、松下村塾の運営を開始。先月は、「吉田松陰の松下村塾が本格始動する」というタイトルで書いていますが、改めて、松下村塾のこれまでの歴史についてまとめたいと思います。初代塾主は、叔父・玉木文之進松蔭の叔父である玉木文之進については、このブログでも度々登場しています。「家督を継いだ吉田松陰に対する玉木文之進のスパルタ教育」に詳述しましたが、松蔭が家学 [続きを読む]
  • 吉田松陰が黒船に乗りアメリカ渡航を計画した理由
  • 安政元年(1854年)3月27日吉田松陰、黒船に乗船してアメリカ渡航を願い出るも拒否される。吉田松陰 25歳弟子のような存在である金子重之輔と共に、下田沖に停泊している黒船に乗り込み、アメリカに行きたいと懇願したものの、あえなく乗船を拒否されて、陸へと追い払われました。いわゆる「下田踏海事件」です。幕府に仕えた漂流民、万次郎吉田松陰に対して、外国船に乗って西洋を学ぶべきだと薦めたのは、江戸の師であ [続きを読む]
  • 【書評】松方冬子『オランダ風説書』2010年
  • 吉田松陰が生きた時代における最大のイベントである黒船来航に絡む事柄を知るために、まずはこの本を読んでみようと手に取りました。以前から気になっておりましたが、全くの初見です。さて、どんなものでしょうか。松方冬子『オランダ風説書』以下、本書の各章・各節を読みながら、それぞれの要約と感想を付しています。まだ途中までです、ご了承ください。「通常の」風説書長崎と「四つの口」【要約】オランダ商船の日本への入港 [続きを読む]
  • 吉田松陰、長州藩の海防に関わる役職に任じられる
  • 嘉永2年(1849年)吉田松陰は、長州藩の海防御手当御内用係に任じられました。吉田松陰 20歳藩に対して、海防に関する意見をまとめた『水陸戦略』を藩に提出した松蔭は、海防にかかる役職(海防御手当御内用係)となりました。長州藩は、日本海、瀬戸内海、そして関門海峡という三方が海に面する地理的な特徴があるため、藩の上層部にも海防への強い関心がありました。海防御手当御内用係に任ぜられた松蔭は、藩内の専門家らと [続きを読む]
  • 【吉田松陰の名言】亦一生の内の日なり
  • 吉田松陰は、常に思想を発展させながら自ら行動し続けて、僅か30年の生涯を全力で駆け抜けた人物です。ひとつの成功もない「失敗の一代」と評価されながらも、多くの偉人たちを生み出した吉田松陰の名言を紹介します。さて、本日の吉田松陰の名言は・・・亦一生の内の日なりこの言葉は、松蔭の兄である梅太郎に対して言った言葉として伝えられています。吉田松陰は、弱冠6歳で、長州藩の山鹿流兵学師範の吉田家の当主となり、学 [続きを読む]
  • 吉田松陰、山鹿流兵学の「大星目録」を受ける
  • 弘化4年(1849年)吉田松陰は、林真人から山鹿流兵学の「大星目録」を受けました。吉田松陰 18歳幼少の頃から山鹿流兵学師範として教授できる素養をつけるために、多くの師から学問を学んで来ましたが、18歳にしてやっと山鹿流兵学のひとつの節目に達しました。山本勘介による兵法奥義、大星目録山鹿流兵学では、山鹿素行が書いた『武教全書』を学ぶことが基礎となっています。『武教全書』は、武士としての日頃の態度か [続きを読む]
  • 【まとめ】萩で教えを受けた吉田松陰の師たち
  • 弘化2年(1845年)吉田松陰は萩にて、多くの師から学問を学ぶ。すでに吉田松陰の生涯の半分が過ぎ、16歳を迎えた松蔭ですが、依然として萩から外に出たことがなく、多くの師に就いて学問に明け暮れる生活を続けています。ここでは、萩において吉田松陰が学問を学んだ師たちについて、まとめてみたいと思います。尊王精神を刻み込んだ父・百合之助松蔭にとっての最初の師は、父の百合之助です。兄と共に連れ立って畑に行き、畑仕 [続きを読む]
  • 山田亦介(やまだ またすけ)
  • 山田亦介は、長州藩における天保の藩政改革を主導した村田清風の甥で、長沼流兵学者です。吉田松陰は、山鹿流兵学の吉田家の当主ですが、山鹿流兵学の祖である山鹿素行は、広く学問を学ぶことを推奨しており、他流派の兵学を学ぶことも山鹿流兵学者としての正しい態度であるといえます。松蔭に対して、山田亦介を紹介したのは、後見人である山田宇右衛門です。西洋陣法にも詳しい長沼流兵学者、山田亦介松蔭は山鹿流兵学の吉田家を [続きを読む]
  • 【書評】玖村敏雄『吉田松陰』1936年
  • 吉田松陰全集の編集委員を務めた玖村敏雄による『吉田松陰』と名付けられた本ですから、評価が高くても低くても必ず読むべき書籍だと思い、購入しました。いや、実際のところ、研究者の間では評価が低くて有名な本ではあるのですが、さて、どんなものでしょうか。玖村敏雄『吉田松陰』以下、各章の節ごとに要約と感想を書いています。まだ読了していませんので本記事も完結していません。事前にご了承ください。序【要約】吉田松陰 [続きを読む]
  • 【鎖国史】徳川家康、朱印状による商船貿易の統制を始める
  • 幕末の最大のテーマのひとつである”鎖国”について正確に理解するために、徳川幕府による諸外国との外交と貿易に関する政策について「鎖国史」としてまとめるシリーズを始めます。今回は、徳川家康が幕府成立前後で行った貿易と外交政策についてです。アジア諸国に朱印船貿易開始を通知徳川家康が征夷大将軍に任官される二年前の慶長6年(1601年)、アジア諸国との貿易を行う商船に対して、朱印状を発給する制度を開始しました。 [続きを読む]
  • 百合之助、藩の役職「百人中間頭兼盗賊改方」に就く
  • 天保14年(1843年)父・百合之助、長州藩の百人中間頭兼盗賊改方になりました。長州藩の藩士(無給通)である吉田松陰の父・杉百合之助は長年、ほぼ農作業に専従する生活を送っていましたが、この年、萩の警察署長にあたる”百人中間頭兼盗賊改方”の役職に就きました。禄高26石に加え、役職の役料(給料)が支給される百合之助の性格上、藩のために仕事が出来ることを喜んだことと思いますが、杉家にとっては役職に就いたために [続きを読む]
  • 【書評】一坂太郎『吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち』2014年
  • 家族の側から吉田松蔭を描くというのは、一種の流行りのようなモノなので、あまり期待せずに購入。さて、どんなもんでしょうか。一坂太郎『吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち』各項ごとに要約と感想を書いていきます。「山宅」の思い出松蔭は「下級武士」か【要約】吉田松陰を扱う書籍では、ことさらに貧乏な家に育ったことを強調する文章が多いが、藩の武士階級の構成などを見てみると、決して「下級」でも「貧乏」でもないよ [続きを読む]
  • 山田宇右衛門(やまだ うえもん)
  • 山田宇右衛門は、山鹿流兵学者で、明倫館の教授となった吉田松陰を支える後見人のひとりです。吉田松陰の養父・吉田大助の門下生、山田宇右衛門山田宇右衛門は、吉田松陰の先代であり、養父であり、叔父である吉田大助から、山鹿流兵学を学びました。松蔭が独立師範となる前には、明倫館にて代理教授を務めています。ただし、学問よりも、実践を重んじたため、山鹿流兵学においては玉木文之進や林真人には及ばなかったそうです。( [続きを読む]
  • 林真人(はやし まひと)
  • 林真人は、山鹿流兵学者で、明倫館の教授となった吉田松陰を支える後見人のひとりです。山鹿流兵学の三重秘伝の取得者、林真人山鹿素行を祖とする山鹿流兵学は、素行から3人の門人に対して伝えられ、それ以降、それぞれの門人から最大3人を後継者としてきました。これを「三重秘伝」と言います。林真人は、三重秘伝を受けた山鹿流兵学の継承者のひとりで、同時代では玉木文之進と並んで山鹿流兵学を牽引する立場にあります。松蔭 [続きを読む]
  • 【書評】徳富蘇峰『吉田松陰』1893年
  • 吉田松陰を知る上での必読書。明治時代に書かれた書籍であるため、文章が難解であることから、できれば避けて通りたいけど、どうしても避けては通れない書籍です。現代においても吉田松陰研究において、その基礎となるのが、徳富蘇峰『吉田松陰』です。徳富蘇峰『吉田松陰』(Amazon)少しずつ読み進めながら、各章を読んで思ったことを書き加えていきます。まだ、すべてが完了しておりません。誰ぞ 吉田松陰とは【要約】関ヶ原の [続きを読む]
  • 吉田松陰、御前講義(親試)で藩主・毛利敬親に『武教全書』を講義
  • 天保11年(1840年)吉田松陰は、藩主・毛利敬親に対して山鹿流兵学の授業を行いました。吉田松陰 11歳3年前の天保8年に長州藩の藩主となった毛利敬親は、村田清風を老中として藩政改革を進めました。第一の課題は、藩の存続さえ危ぶまれる慢性的な赤字の解消という財政問題でしたが、藩の次代を担う人材の育成にも力を入れ、藩内の学者たちの意欲を向上させるための方策も同時に行われました。松蔭が11歳にして藩主に対して山 [続きを読む]
  • 吉田松陰は弱冠10歳にして藩校明倫館で授業をしていた
  • 天保10年(1839年)11月吉田松陰、明倫館の教授として兵学を教える松蔭は前年、叔父の玉木文之進を後見人として藩校明倫館の教授見習いとして出仕していましたが、10歳となった天保10年11月、家学である山鹿流兵学の師範として、長州藩のエリート藩士らに対して授業を行っています。幕末を代表する志士たちを育てた松蔭の教育者としての第一歩です。山鹿流兵学師範・吉田家の当主による授業の再開松蔭が吉田家の家督を継いだのは6 [続きを読む]