むう さん プロフィール

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むうさん: 正岡子規 病牀六尺の青春
ハンドル名むう さん
ブログタイトル正岡子規 病牀六尺の青春
ブログURLhttp://www.boroborokun.com
サイト紹介文今年は正岡子規の生誕150年。子規についてあれこれ書いていきます。
自由文正岡子規にはまっています。よろしくお願いします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供24回 / 24日(平均7.0回/週) - 参加 2017/05/05 06:56

むう さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 子規の生涯⑦幼年時代豆知識(2)
  • 子規が上京するまで過ごした旧居跡正岡子規幼少期の豆知識(1)の続きです。好物はカボチャ大食いで知られる子規ですが、母八重の談話によると、小さい頃の好物はカボチャでした。柳原極堂の「友人子規」には父の実家佐伯の伯母の次のような談話が紹介されています。升さんが幼少の頃遊びに来られて御飯時に膳を出すと「オバタン」「カボタ」があるかな、などと片言いつて一同を笑はせたものださうです八重の談話をまとめた「子規 [続きを読む]
  • 子規の俳句⑤薫風や大文字を吹く神の杜
  • 薫風や大文字を吹く神の杜明治30(1897)年の句。先日紹介した柳原極堂の句碑が建てられた松山の井手神社に前からある子規の句碑に刻まれています。「大文字を吹く」。これ読んで分かる人はどれぐらいいるでしょう?私は分からなかったです。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-2068410158249069" data-ad-slot="6575353438" data-ad-for.. [続きを読む]
  • 子規の俳句④寝ころんで書読む頃や五六月
  • 寝ころんで書読む頃や五六月明治29(1896)年の句。「寒山落木 巻五」に入っています。読書の秋などと言いますが、さわやかな初夏にのんびり読書にふけるのもいいもんです。私も枕元に積み上げた子規関係の本を適当に取ってはページをめくって楽しんでいます。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-2068410158249069" data-ad-slot="6575353438" da.. [続きを読む]
  • 子規と漱石③論争!アイデアとレトリック
  • 「七草集」と「木屑録」。互いの作品批評を通じて認め合った子規と漱石。この時期に2人の間
    で交わされた有名な論争があります。始終何かを書いている子規に対して漱石が苦言を呈したの
    がきっかけでした。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-20684101582
    49069" data-ad-slot="6575353438" data-ad-format="auto">漱石「大兄の.. [続きを読む]
  • 慶応三年生まれ
  • 今年生誕150年となる子規、漱石と同じ慶応三年生まれには、司馬遼太郎「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之のほか幸田露伴や尾崎紅葉ら多士済々。実は子規没後100年の年に坪内祐三「慶応三年生まれ七人の旋毛曲がり」を知り、気づかされたという次第ですが…。その坪内氏がチョイスした七人は子規、漱石、露伴、紅葉、宮武外骨、南方熊楠、佐藤緑雨です。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca- [続きを読む]
  • 慶応三年生まれ
  • 今年生誕150年となる子規、漱石と同じ慶応三年生まれには、司馬遼太郎「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之のほか幸田露伴や尾崎紅葉ら多士済々。実は子規没後100年の年に坪内祐三「慶応三年生まれ七人の旋毛曲がり」を知り、気づかされたという次第ですが…。その坪内氏がチョイスした七人は子規、漱石、露伴、紅葉、宮武外骨、南方熊楠、佐藤緑雨です。子規の小説家志望に引導を渡した露伴明治25(1892)年、子規は渾身の [続きを読む]
  • 子規山脈③虚子?碧梧桐
  • 高浜虚子(1874-1959)松山出身の俳人。本名清。河東碧梧桐とともに子規門下の双璧をなした人。柳原極堂が創刊した「ほとゝぎす(のち「ホトトギス)」を東京で引き継ぎました。子規の生前、「後継者に」と望まれた際には断って思いっきり落胆させていますが…。自立した一人の文学者たらんとの思いがあったのでしょう。でも、真意を内に秘めて安心させてやるとかできなかったのかなあ。正直すぎです。スポンサーリンク style= [続きを読む]
  • 柳原極堂の句碑
  • 子規の俳句革新支える松山市の井手神社というところに柳原極堂の句碑ができました。極堂は子規と同年生まれの友人。子規存命中は「ほとゝぎす」を創刊するなど、その活動を支え、子規没後は顕彰活動に尽力した人です。「友人子規」を書いたことでも知られていますね。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-2068410158249069" data-ad-slot="6575353438" da.. [続きを読む]
  • 子規山脈②大原観山・加藤拓川
  • 大原観山(1818-1875)子規の母八重の父、外祖父。本名は有恒。儒学者。幕府直轄の昌平黌(しょうへいこう)の舎長、松山藩の藩校明教館の教授を務めました。明治維新後は私塾を開き、子規も漢文の素読を観山に学びました。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-2068410158249069" data-ad-slot="6575353438" data-ad-format="au.. [続きを読む]
  • 子規と漱石②七草集と木屑録
  • 寄席通の二人ともに慶応3(1867)年生まれの子規と漱石。明治41年、「ホトトギス」の子規七回忌号に寄せた漱石の談話によると、二人が親しくなったのは寄席好き同士だったからでした。「わすれてゐたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は二人で寄せの話をした時先生(子規)も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであらう。それから大に近寄て来た」(「子規全集別巻二 [続きを読む]
  • 子規と漱石①最後の手紙
  • 僕ハモーダメニナツテシマツタ僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ明治34(1901)年11月6日、正岡子規が英国留学中の夏目漱石に宛てた手紙はこのような告白から始まっています。同い年の二人の出会いは学生時代、22歳の時。互いを認め合い励まし合いながら時を重ね、病いに倒れた子規は立身出世を諦め文学者の道を、漱石は子規の影響で始めた俳句で名を上げつつも英文学者・教育者とし [続きを読む]
  • 子規山脈①母八重と妹律
  • こちらのカテゴリーでは正岡子規を支えた人々や門下の面々を簡単に紹介していきます。「子規山脈」というくくりで母と妹は違和感あると思いますが…正岡八重(1845-1927)子規の母。明治5年、夫常尚が死去してからは実家大原家の庇護を受けながら裁縫を教えるなどして子規と彼の妹律を育てました。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-2068410158249069" data-ad-slot=.. [続きを読む]
  • 子規の俳句③落したか落ち足るか路の椿かな
  • 落したか落ちたか路の椿かな自選句集「寒山落木」巻一に収録。明治23(1890)年です。前回に続いてこれまた初期作品です。椿が見ごろを迎えた春の道。歩いているとふと落花の気配が。あれ?俺が落としちゃったの?いや落ちたんだよね?もしかして美しい椿を落としてしまったんだろうかと申し訳なさを感じているような。そういう読みでいいのかな…スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-20 [続きを読む]
  • 子規の俳句②ラムネの栓天をついて時鳥
  • ラムネの栓天をついて時鳥子規にはホトトギスの句が多い。試みに子規記念博物館のデータベースで検索すると300句ほどありました。ホトトギスは喀血の代名詞。俳号に子規(ほととぎす)を用いるようになった経緯は以前の記事に書きましたが、喀血後の暮らしの中でもやはりホトトギスを意識することが多かったということでしょうか。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-2068410158249069" [続きを読む]
  • 子規の俳句①鶏頭の十四五本もありぬべし
  • 鶏頭の十四五本もありぬべし子規について書くなら俳句や短歌のこともやっぱり書かないといけないのかな?と、ブログを始めてから気になりつつ踏み込めずにいました。でもせっかくなので自分自身の勉強と思って何か書いていこうと思います。といっても俳句も短歌も素人。実作ができるわけもなく、鑑賞力も何もあったものではありません。そういう奴が書いていることを念頭に置いてお読みください。スポンサーリンク style="disp [続きを読む]
  • 生誕150年 子規記念博物館特別展
  • 子規・漱石・極堂生誕150年松山の子規記念博物館に行ってきました。現在、正岡子規、夏目漱石、柳原極堂の生誕150年を記念した特別展をやっています。3人とも慶応3(1867)年生まれ。子規と漱石の友情は、よく知られていると思いますが、極堂は子規に興味のない人にはなじみが薄いかもしれません。彼は松山中学時代からの子規の友人で、子規と同じ時期に上京しました。学業半ばで帰郷し、地元の海南新聞の記者になりました。 [続きを読む]
  • 子規の生涯⑥幼年時代豆知識(1)
  • 写真は子規の父の墓があった正岡家累代の墓跡(現在は移転)前回、途中で脱線気味になってしまったのですが、子供のころの逸話もたくさんありまして…。今回もそんな感じでいろいろと拾っていきたいと思います実家の火事の原因は?前回も書きましたが、正岡家は明治2年(1869年)、子規3歳(数え年、以下同じ)の時に失火で全焼します。原因は味噌をつくる麹をこたつで発酵させていたため、あるいは曾祖母久と父常尚が酒を飲 [続きを読む]
  • 子規の生涯⑤頑固で真っ正直
  • 6歳で家督継承前回は、弱虫だと言われながらも、お灸を据えても泣かない我慢強さをもっていた子規の話をしました。そのころの話を続けます。子規は6歳(数え年)で正岡家の家督を継ぎました。その直後に父常尚が40歳の若さで亡くなりました。正岡家は母八重、子規、妹律、曾祖母小島久の4人、ほぼ女世帯で八重の実家大原家の庇護を受けることになります。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca- [続きを読む]
  • 子規の生涯④泣き虫
  • 写真は子規の生家跡こんにちは。お立ち寄りくださった皆さん、ありがとうございます。いきなり喀血の話から始めてしまって、早くもこの先どうしようかと悩んでしまいました。後先考えずにやるとダメですね。素直に人生を順にたどればよかったかも。そういうわけで今回からは、幼少時の子規を見ていきたいと思います。スポンサーリンク style="display:block" data-ad-client="ca-pub-2068410158249069" data-ad-s.. [続きを読む]
  • 子規の生涯③芭蕉批判
  • 偶像破壊血を吐いて、寝たきりになって…。病弱。弱々しい。正岡子規についてそんなイメージを持っている人が多いかもしれません。でも実際の子規は強い人でした。特に精神的な強さは特筆すべき点だと思います。例えば子規は俳句革新を進める手始めに芭蕉を批判し、偶像破壊にチャレンジします。「俳句分類」と俳句革新喀血から2年後の明治24年(1891)年ごろから子規は「俳句分類」に着手していました。古今の俳句に目を通 [続きを読む]
  • 子規の生涯②「啼血始末」
  • 被告子規初回に続いて喀血の話を続けます。子規は書くことでこの出来事に立ち向かおうとしました。喀血から4カ月後、明治22(1889)年9月に書かれた「啼血始末」という戯作文があります。「啼血始末」は結核になった子規が地獄の法廷に連れ出されて喀血について裁かれるという設定。閻魔大王が判事、赤鬼と青鬼が検事です。喀血したことに対する心境だけでなく学生子規の暮らしぶりも述べられていて興味深いです。一部を紹 [続きを読む]
  • 子規の生涯①生誕150年!
  • はじめましてみなさんは正岡子規をご存じですよね?明治時代を代表する文学者の一人。坊主頭の横顔写真のあの人です。「病床六尺、それが我が世界である」。子規は結核と脊椎カリエスを患い、晩年は寝たきり生活を送ることになりました。布団1枚の広さで最後まで書き続け、35歳の若さで亡くなりました。その短い人生の中で俳句や短歌の革新など、後世に残る仕事をたくさんやった人です。私は子規が大好きなのですが、ご存じのと [続きを読む]
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